死ぬ十五分前に読む本

目次

死ぬことは霊界へ行くことなり


死とは霊界での誕生なり
しかし、あなたの心、その意識は生きていたときと同じように、そのまま継続する


心と意識には、死も誕生もない


地獄で救われる法
地獄へ行ってしまった時のために。

霊界へ行く前に必ず心掛けておくこと
それは「何事があっても祈りを神仏に捧げる」ということ。

この祈りの習慣のない人は、まず「祈るのだ」ということを覚えておこう。

例えば…
こんな世界だったら…

岩石がドーッと落ちてくる。
「ウワーッ怖い!」

そのときは、落ちてくる岩石に向かって
あれこれ考えずに、まず祈ろう。

生前、「何かと頭で考える癖のあった人は、霊界へ行っても、また考えてしまう」

この岩石は何なんだ?
なぜ、落ちてくるんだ?

そんなことを考えずに岩石に向かって
祝詞やお経を奏上すること。

すると、パッと瞬間に岩石が消え、断崖絶壁から真っ逆さまにウワーッと落ちている。

その時は、落ちながら、目をつぶって
「高天原に神留め座す。神魯伎神神魯美の詔以て…」
と祈ると

ふと見ると、あなたは
地面に静かに降りて
歩き始めているでしょう。

仏法の人は「南無観世音菩薩」か「般若心経」か「南無妙法蓮華経」を必死で唱える。

生前、そうやって神仏に対する信仰心や、
危ないときには祈るという習慣がない人は、
ワーッと落ちながら、「落ちたらどうなるのかな」
「ウワーッ、死ぬな、ばらばらになるな」と考える。

考えながら落ちて行く。

こんな緊急の事態に陥ったとき、
信仰心がある人は「祈る」ことを知っている。

祈りは天津祝詞で始めるとよい。


必死で祈ること
「助けたまえーッ!」と、頭の先から血液が吹き出すくらい
髪の毛が逆立つぐらいの祈りをウワーッとする。

すると、
パッと瞬間に、
場面が変わってくるのだ・・・

仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒などは、
それなりに一番なじみの深い祈りの句がよい。
とにかく必死でわれを忘れて祈りに徹すること。


地獄の真っ暗なところにいるとき
真っ暗だ。

何をするにしろ、どこへ行くにしろ
真っ暗なのだ。


祝詞を奏上する。


「天照皇大御神、守りたまえ、幸はえたまえ」と唱えると
天照皇大御神が、光明神となって現れ出てくる。

光がバーッと入ってきて、
暗やみからパッ、と道が出てきたり、
「ああ、この道を行けばいいんだな」と解ったりする。
天照皇大御神様が、どうしたらよいのか教えてくださる。


殴られ、蹴られて絶叫していたら

そのときは鬼に、
「あなたは、あの国常立大神さんの息子さんたちじゃないんですか。
お疲れ様です。何年ぐらいやってらっしゃるんですか」
と聞いてみる。

「いやぁー、わしゃーなぁ~」
と言いながらも、答えてくれる。

そして、すかさず聞く。
「何年ぐらいここでやると許されるんでしょうか」

鬼は、
「おまえはこれとこれとこれとこれをやって、こういう罪だからどうしようもない。それで体罰を与えているんだ」

そしたら、
「そこを何とかお許しいただきたいんですけれども・・・私はこういういいこともしたし、ああいういいこともしました」

それでも鬼は「そんなことを言ってもだめだっ」と言って、また殴るかもしれない。

でも鬼は、これを喜びでやっているわけではない。

半分嫌々やっているのだ。

これは鬼の「お務め」なのだ。

主神の命により、その行為は実は愛によって満たされているのだ。

そんな鬼に向かって、殴られてもいいから、とにかく祈る。

誠で祈る。謙虚に祈る。

「あなたはほんとは神さまなんだ」

「どうぞお許しくださいませ」

「打たれるなら打たれるで仕方ありませんから、少しは軽くしてください。悪かった所は改めます」と鬼に向かって祈る。

だから、鬼だからといって逃げずに、鬼に立ち向かっていくのです。

祈りと誠意と謙譲で…。

絶えず信仰心があり、

困ったときには絶えず神様に向かいながら祈っていったら、

霊界の場面はパッ、パッ・・・と変わっていきます。

たとえ地獄に落ちても。


こんど、生まれてくるときのこと

地獄からの場合。

何でも聞いたらいい。

「何年ぐらい、ここで修行したら助かるのでしょう」

「おまえはこれとこれの罪があるから、あと三十年だ」

「わかりました。それでは私は、生まれ変わって人間界に戻ったならば、
必ずや、こういうこと(自分がやりたいと思う、よきこと)、
こういうこと、こういうことのお誓いをしますので、
何十年の刑期を短くしてください」と言おう。

これを発願という。

真に発願をして、約束をすると、

「じゃあ、わかった。おまえがそう言うのならば、この三十年のやつを十年に縮めてやるから、そのかわり、生まれ変わったら、神さまのために役に立つような道でつくすんだぞ」ということで、地獄からご赦免されて生まれ変わってくることができるのです。

生まれ変わることは、地獄にいた人間にとっては『楽』であり『幸』でもあります。

本当に生まれ変わってくることは、大変な喜びごとなのです。

それに対して、次元の高い天上界に生きる人間にとっては、生まれ変わってくることは、大変に苦しい事です。

しかし、使命感と神様の大御心に添って愛と誠と信を尽くそうという、

神様への義の心があり、また人々や社身の心で、魂を振い立たせ、勇猛の大願を発して、苦しいけれども生まれ変わってくるのです。

このように、生まれるときには、大きな二つの違いがあります。

一般にはこの二つの要素が混ざり合っていると言えます。


霊界法則
冷たいところにいるということは、自分が生前心が冷たかったということであり、多かれ少なかれエゴイストだったということです。

これは空気の法則と同じです。

冷たい空気は下に落ち、温かい空気は上に昇る。

ですから、冷たい心の人は、心の中から温かい愛情を引き出そう。

そうして自分の心から、温かい愛情が出てきたら、
温かい心になった分だけ上へ上がっていく。
冷たい部分が温まって溶けてくる。

自分の心に合ったところにしか行かないのです。


明るいところと暗いところ

明るい心を持っていたら明るい霊界。

暗い心を持っていたら暗い霊界。

明るい心は、感謝する心。

感謝とは、目に見えざる良きものを認める心。

心の中でよきものを認め認識するがゆえに、心は明るい。

すばらしきよきものとは、明るさで表現される。

もし、暗いところに行ったら、目に見えざるよきものを認めること。

すばらしきよきものは、明るい。

その心は感謝の心。神仏への感謝がまず第一番、目上や家族など人々への感謝が二番、自分の環境や自然への感謝が三番、健康や幸福への感謝が四番である。

すると、エネルギッシュとはいえないが明るい霊光、霊明が流れ込んでくる。

目の前に、それは強く顕現する。

そしてそこには温かさもある。


明るい心の実体

それは、
楽天的、
積極的、
発展的、
意欲的、
前向き、
夢と希望に燃えている、
一生懸命、体を動かしている。


暗い心の実体

それは、
消極的、
退廃的、
繰り言、
ぼやき、
欲心、
嫉妬心、
恨み、
執着心、


温かい心の実体

愛。
まごころ。
これらを持てば上へ行きます。

愛情があり、
思いやりがある人は、
やさしい人。
温かい人。
愛情があり、思いやりがあると、上へ行く。

温かい空気は上へ行き、
冷たい空気は下へ行く。

冷たいところに行ったなと思ったら
それは日ごろの、情感が冷たかったのです。

いつでも自分のことばかり考えていなかったか。
何でもお金で割り切っていなかった。

何でも組織のためにと割り切っていなかった。
何でも名誉のためにやると、割り切っていなかった。

…どうでしょう、
それに気づいたら「愛の念、愛の情が足りなかったんだ」と思って、そのあたりにあるものを、片っ端から慈しんでいったらいい

「慈しむ」ということが、どういうことか分からなかったら、こう祈るとよい。

「神様、どうぞこれを助けたたまえ」
「どうぞ救いたまえ」
「どうぞ導きたまえ」
「どうぞ施したまえ」


特に一番暗いのは、
愚痴と不平と悔み。

不平と不満と愚痴というのは、ほんとに暗い。
済んでしまったことを、いつまでも悔やんでいるのもほんとうに暗い。
口から黒い、霧みたいなものを発している。

特に金が欲しいのに得られない、これは暗い。

欲望で、戦々恐々として、
「財産取られたらどうしようか」「金がなくなったらどうしようか」

というのも欲心の裏返し。

これも暗い。

嫉妬心も暗い。
「明るい御心で嫉妬している」ことはあり得ないように。

それから恨み。

『人を恨みながら、随分伸びやかで明るい』ということはない。

恨みの心というのは暗い。

暗いところにいるということは、

そういう精神状態に居るということです。

暗くなる要因になることを考えず、
明るい精神状態になるように努力すると、
ある瞬間に、パッと明るい霊界に行きます。

心が改心できたら、
瞬時のうちに、心の条件に合った霊界に行きます。
一瞬のうちに。


重苦しさ
重いのは、思いがあるから、重いのです。

思いとは、すなわち執着心

執着心とは、
土地、財産、地位、名誉への執着心、
あとに残した妻、子供、親戚縁者、恋人への執着心。

また例えば、
早死にした人、事故死した人の執着心とは・・・。
「もうちょっと自分が注意しておけば、死ななくて済んだのに」
と、不注意で事故で死んだことを悔やむ。

「子供もいたんだ・・・」
「あれもしなきゃならなかったのに…」
「命があったらあれもやりたかったのに…」

例えば、
病気で死んだひとの命に対する執着心。
ガン、結核、脳溢血。
「病気にさえならなかったら、あれもできたのに」
この思いも重い。

それから、
おばあちゃんが息子のことを心配している。
心配の念も思いで、重い。

だから
般若心経は、
「見たり聞いたりしたものは何もない。
何もないと思うことも何もないぐらい何もない。

だから、この現実界で見たり聞いたりしたことの執着を一切捨てて
此の岸から彼の岸へと渡るんだ。さあさあ渡れ、さあ渡れ!」と説いている。

般若心経をどんなにあげても、
般若心経の説いているような心にならなければ、
真に救われはしない。

般若心経の意味とはそういうことなのだ。

「この今、見たり聞いたりしているものというのは、
皆、仮の姿であってやがて滅び去っていくもの。
だから、永遠に変わらない実相を見なきゃいけない。

肉体がなくなっても永遠に変わらないもの、
真実なるものを見るのだ」という意味を真に深く悟らねばならない。

そうして、この世の執着心がなくなると、
思いがなくなるから、心が軽やかになって、
バーッと上へ上がってくる。

おばあちゃんのことが心配、
後に残した子供のことが心配・・・。
こんな、心配な思いも全部捨てる。

「まあ、おばあちゃんにも子供にも、
それぞれの守護霊、守護神、御魂の力もあるから、
何とかなるだろう。
自分は自分で、あの世へ行っまた新しい人生を送るんだ」と思う。

そう思ったら、心が軽くてさっぱりする。
心が軽やかでさわやかになるから、スーッと上へ昇ってゆく。

上とは、明るくて暖かい極楽のような所です。


財産、名誉、地位の執着
後に残した人の心配
早死にした、事故死、変死、病死したことの悔やみ
こういう思いを一切残さなければ、心は軽い。
心が軽いと御霊が軽いので、上へすいすいと上がって行く。


天国
温かい、明るい、軽い
この三つを持っていたら、
だれだって天国へ行ける。

冷たくて、暗くて、重たいという思いがあると
だれもが地獄に落ちる。

自分が死んだとき、体が重たかったら、
それは自分が思いを持っているからです。

三次元のこの世というものの、積もり積もった思いが…。

心や霊界には、こういう法則性があるのです。

体が重たくなったら、
祝詞を奏上する。

般若心経を覚えている人なら、般若心経を唱える。

そして、全てを忘れようとするべし。

どん底の地獄へ行ったとき
こんなときは、
南無阿弥陀仏。

血の池地獄、阿鼻叫喚地獄、極寒地獄。

こんな、地獄のどん底に落ちたときには、もう南無阿弥陀仏。
阿弥陀如来様が無条件で助けてくれる。

ただし、祈って祈って祈って、すがり切らなければだめ。


☆白隠禅師の場合
「カーッッ」と大声で喝を叫んで死んだ。

今死ぬのかという、その分別の知恵に「カーツッ」

お坊さんでは、白隠禅師が最高だ。


☆小泉太志命先生の場合
死ぬ前に、
「天地初めてけしとき… 高天原に成れる神の名は… と、『古事記』の天地開闢の節のところを最初からつぶやきながら亡くなっていった。

立派です。
臨終のときに、天地の始まりの原点に帰っていった。


☆五味康祐さんの場合

「死ぬのは嫌だ、死ぬのは嫌だ、死ぬのは嫌だ、死ぬのは嫌だ」と最後まで言い続けて死んだ。(満五十八歳)

五味康祐さんは、自分には早死にの相があるから、と髭を生やしていた。変わった人で、「ちょっと待て」と友達に言って、横断歩道のところにおしっこしたりして・・・。「自然は待てない」と。

そしてまた別の所にサーッとやったりするもんだから、友達が「もうおまえとは一緒に歩くのは嫌だ」ということになった。人間が、むちゃく変わっている。


☆楠木正成、楠木正季の場合
「七度生まれて、国に報いん」


☆岡田茂吉さんの場合
秀吉みたいで、「この世のことは、すべてが夢のまた夢」
何を思ったのだろう。


☆出口王仁三郎の場合
「ああ、疲れた、そろそろ休むわ」と言って、パッと亡くなった。


臨終の言葉をつくろう

「カーツッ」と言って死んだら格好いいが、誰でも「カーツッ」と言えばいいわけではない。

最期の言葉は、大事だ。今から準備しておこう。

最期はいつ来るかわからない。あらかじめ準備をしておいたほうがいい。

平安時代の短歌の習慣を見習おう。

恋人ができたとき、さっといい歌を出すために、あらかじめ、恋人ができる前にいい歌をつくっておくのです。

会ってからじゃ、いい歌を作るなど、とてもできないから。和歌をタイミングよく、すぐ出さなきゃいけないのだから。

恋人ができたら今度はすぐに、その人のことを思いながら、別れの和歌を作り始める。そして別れる瞬間に、さっとタイミングよく出す。

そうすると、「あぁ~」とお互いが感慨い。恋の物語を作り、美しく完結させることができる。

悲しみの中にも、芸術があり、感動がある。あたかも、その日につくったかのごとく、作っておいた別れの歌を、いざ別れるそのタイミングに、瞬間にさっと出す。

平安時代、これが大変おしゃれだった。

オーソドックスには、「皆様、お世話になりました。ありがとうございました」

あたかも、死に臨んだそのときに、パッと思いついて言い残したと思われるかもしれない。

そんな決め言葉を準備して生きよう。