五十すぎたら読む本(Vol.3)

三十五歳を境に、人は「神」から「鬼」へ!

梅の木も桜の木も、季節になれば花がきれいに咲く。枝も葉っぱも美しい。

しかし、そのずっと下には根っこがある。花と言うと、みんな花弁を思い出すが、花びらも枝も根も全部花であって、地面の下にグーンと根をおろしている。

そこでは、ミミズが絡んでいたり、ダンゴムシが休んでいたりする。しかし、こげ茶色でみっともない格好のその見苦しい根っこがあるおかげで、お花が咲いている。

その花全てを神とすれば、いわば地面の上に出ている部分は「神」で、きれいな部分にあたる。

そして目に見えない根っこの部分が鬼だ。ただひたすら養分を吸収する。

やがて、花は枯れて、しぼんでいく。そして、枯れて全部消えて、また新しい種となり、鬼の中か神として出てくる。陰極まりて陽、陽極まりて陰で、物事が進んでいく。

同じように人生にもワーッと発展のときがあって、次にはまた衰えていく。いわば人間も、肉体次元がワーッと伸びる三十五までが大体、神のときと言えるだろう。

三十五以降から、もう肉体は下降線をたどるのだが、やがて止まって、しばらく維持される。

そして、またどん、と降りていく。四十二才の厄年というのはそのターニングポイントなのだ。この、三十六歳くらいからが鬼の部分と言える。

それまでは目いっぱい、思い切り、自分の持っているものを伸ばせるだけ伸ばしなさい、ということだ。三十六歳からは、さらに本質を見ていくという目が起きていくのだ。

ユダヤの秘儀も五十歳以降に伝授される

ある年齢に達しないと駄目という教えは、これだけではない。

もう一つ面白いのは、カバラというユダヤの秘儀だ。このカバラというのは、五十歳以降からでないと秘儀が伝授されないことになっている。

カバラにはいろいろな密意が3 あるが、ごく簡単に言えば、数霊の一種であり、神の働きを数で表したものだ。

例えば、一という働きの神様。二という働きの神様。三という働きの神様。四という働きの神様。基本数は、一から四までなのだ。その四数を基本として、十までの数がある。

それぞれの数に神様のお姿があるという。そしてさらに奥伝に入っていったら、一という数の働きの本当の意味と使いこなし方が伝授される。さらに二、三、四と。

つまりカバラとは、どういうふうに十までの働きがあるのかという数霊の本当の意味を教えてもらって、意味だけじゃなく、数霊の本当の働きまで明かすというのが、その秘儀の原則なのだ。

そしてこの秘儀は、五十歳からでないと伝授されないものなのだ。

人生の経験を積んで、まあ、世の中ってこんなもんか。男ってこんなもんか。

女ってこんなもんか、家族ってこんなもんか、家庭ってこんなもんか、と大体世の中の大枠や要素が全部わかったときから、本当の数の働き、自然の成り立ちというのがわかって使いこなせるようになってくる。

だから、五十歳までは伝授しないということになっている。

それ以前に早く伝授すると、秘儀のもつ意味に人が使われてしまって、使いこなせないからだ。若い人では、秘儀の力とか法則に翻弄されてしまって、それを使いこなせる主体性が持てないからというので、五十歳までは伝授されないのである。

こういうことからも、五十歳を過ぎた人が若い人には許されない権利、特質をもっていることがわかると思う。これは人類共通の知恵なのだ。

十干十二支が人の肉体の基準だ

森羅万象のあらゆることを一応学ばせてもらって、一巡したというのが還暦、六十歳だ。六十歳までで、十干と十二支の組み合わせを全部、ひととおり体験する。

一般の方は、十二年に一度めぐる「十二支」しか知らないかもしれないが、気学や四柱推命をやっている人だったら、同じ子年でもいろんな子があることをご存じだろう。

十二支(子、寅…)が同じでも十干(甲、乙丙・・・)が違えば、全く違った働きが出てくる。そこに九星(一白、二黒、三碧・・・)の要素が加わると、もっと複雑になる。

たとえば九星の「四緑木星」の星の人には、十二支の面からいえば、子の四緑、卯の四緑、午の四緑、西の四緑と、まあ四種類ある。その卯の中にも、またいろいろなものがある。

十干十二支を合わせて、真の干支になる。これは天干地支ともいう。天の法則を十の法則で説明し、地の法則が十二の法則で説かれる。

余談ながら物事には「十二」という数を用いたものが多い。星座の十二宮とか、音楽の十二音階とかある。日本の雅楽でも十二の音階がある。

今から二千五百年前の中国人のちょっとした地主みたいな人とか、地方長官のような人のお墓から、銅鐸のようなものが出てきて、これもすでに十二音階になっている。

これは、紀元前五世紀ぐらいのものだから、アテネが全盛期の頃と同じ頃だ。その時代に、中国でもう十二音階が全部できていて、今の西洋音階とほとんど同じなのだから驚異だ。

これまでヨーロッパ――アテネ、ギリシャでできた西洋音階が東洋へ伝わったんじゃないかと言われてきたけれど、それよりも中国のほうが古いか、ほとんど同じなのだ。

だから、中国のほうからヨーロッパへ行ったんじゃないかと、最近では考えられている。

ともあれ、地の法則を記した十二支の働きと、天から来る十干の働きとの組み合わせで、六十通りのパターンがある。一年ごとにその干支が進んでいって、六十年で一サイクルだ。

だから、六十年すぎると干支が一巡して、同じ年が還ってくるという意味で「還暦」という。

還暦を迎えて、世の中の全てのパターンを学んで、六十一からはもう一回、一から始まることになる。大体、これが私たちの肉体が持っている一つの大きな基準だ。

十年準備して次の活動に備えよ―いつも十年先のために

それでは、五十代では何をなすべきなのか。神様は私に、四十歳からの十年間というのは五十代からの準備なんだとずっとおっしゃっている。

だから、真実をより深く、よ広く探求するという四十代のテーマが、実は五十代からの私を形成していく基になるのである。

そのことを、植松先生は私が二十五歳の頃から、私たちに教えてこられた。

私が二十五歳で植松先生の元へ入門し、その時から御神業が始まったのだが、それは私の、三十五歳からの自分のための準備だったのである。

だから、その教えの通りに三十五歳で本を出した。実際に、二十五歳からの十年というのは、三十五歳からの活動の準備となったのだ。

それでは二十五歳からの十年というのはどうか。十五歳が問題になる。ぴったり十五から私は御神業を始めている。どうしたかというと、十五歳の四月八日に私は本格的に信仰を始めたのである。

ちょうどお釈迦様の誕生日だ。で、四十歳の四月八日、やっぱりお釈迦様の誕生日に、お釈迦様の霊がいらしたのだ。

だから、十五から二十五までの十年間に学び習得してきたものが、二十五から開花したのである。同時に、二十五歳からの十年は三十五歳からの準備である。

三十五から四十五までの私は、二十五から三十五まで磨いてきたものの成果だ。こういう十年単位の、あるいは十年後からの世代がわりの準備を、その前の世代の十年でやるんだということだ。

だから、「四十歳から、真実をより深く、より広く」という教えは、五十歳からの自分の生きざまの準備のためだということがわかる。

そうすると、今五十歳の人は、六十歳の、五十一歳の人は、還暦以降の自分の人生をより素晴らしく、よりよく生きていくための準備なんだということがわかるはずだ。

十年先、十年先の自分を見ていって、腰を据えて、人生や神様や永遠なる道を探求し広めていくという努力が要るということである。

少なくとも私は植松先生にそう教わって、素直に、そうなんだと信じて生きてきた。

二十五歳から一生懸命、御神業と神人合一の道に邁進してきた。経済活動とお弟子の教育、すべて神様事一本で、趣味などする時間は全くゼロだった。

元来、ものすごく多趣味の人間が、十年間、何の趣味も持たずに打ち込んだ。そういうふうにする意識もなく、もうとにかく神業と仕事だけだった。

仕事も神業の一環として、どうしたら世の中の活動に神業を活かせるかというテーマでやっていた。スキーだとか作曲だとか噴き出したように、いろんなものを勉強し始めたのは三十五歳からである。

何歳になってもこの原則は変わらない。還暦を過ぎた人は、古稀からの準備だ。古稀の人は、傘寿のお祝いのため。八十歳の人は、九十歳以降の準備、九十歳の人は、百歳からの生活設計をする。

常に十年先を目標として見ていかなければ、いいもの、大きいもの、高いものを吸収する気にはならないものだ。

十年単位ならやれるけれど、一、二先を考えるだけでは一、二年でこんなことをしてもと思うから、修業に腰が据わらない。習い事でも何でも同じだ。

太陽神界は十年単位で動く

この十年単位というのが、実は太陽神界の天照大御神様の尺度なのだ。天照大御神様は、太陽に象徴される繁栄、成功を司る。

人間、何事か始めれば、大体八年目ぐらいか成果が出てきて、さらに二年間はもう一回、熟練して、繰り返しして完成にいたる。ここが仕上げだ。

だから、形に出てくる成果はどんな分野でも大体八年目ぐらいから出てくる。

もう嫌になるところを何とか乗り越えたというのは三年目以降。三年目までは何をやっても嫌になることがある。

何でこんなことをしなきゃいけないんだ、と思ってしまう。ところが三年やってると、嫌だという気持ちがなくなってきて、五年目ぐらいから堂に入ってくる。

そして八年目に成果があらわれて、十年目に完成することになる。この尺度で太陽神界の天照大御神様は動かれて、一生涯を通じたピークとかターニングポイントが現われてくるのだ。

自分自身の内的修業、内的錬磨、向上というのは、あくまでも十年サイクルで、これは何歳になっても変わらない。

もう一つ、一般的に五十代からこうなるよ、と神様に言われていたことをちょっと紹介しよう。

今の日本で、世の中を動かしている人というのは、大体、五十代から六十代の人だ。会社の社長クラスというのは、おおむね、定年が五十五歳か六十歳なので、取締役とか代表取締役というのも五十代の人が多い。

それから六十代の中盤ぐらいまでだ。そして、六十五歳から年金がおり始めるから、日本の国は六十五歳から、おじいさん、おばあさんというふうに定義していることになる。

つまり老後というのは、大体六十五歳以降だから、五十歳から大体六十四、五ぐらいまでが、社会で一番決定権を持っている年代だということだ。

世の中の仕組みとして、五十代で人はピーク、トップの位置に立ち得ることになっている。

けれども、だれでもトップになれるわけではない。そうなるためには、その前の十年間の努力、がんばりが必要になるということだ。

脳が一番働くのは五十代だ

五十代の人には、さらに力強いデータがある。最強のデータといっても良い。それは脳の働きだ。

実は脳ミソは、五十代から一番よく働くと言われているのだ。これは大脳生理学で、脳の専門家が言っている言葉だ。

たしかに記憶力のピークというのは十六、七歳ぐらいで、高一から高二ぐらいだ。だからいろんな知識はこの時期に吸収した方がいい。

しかし、脳全体としては、記憶力は少し衰えるかもしれないが、判断力や類推力、咀嚼力や表現力など全体に見て、脳が一番活発に動いているのは五十代からなのだ。

脳というのはエンジンがかかるのに、なんと五十年かかるというわけである。

残念ながら、記憶力だけは衰える。それは、二十歳から脳細胞はどんどん死んでいくからだ。

けれども、人間というのは、全体の九五%ぐらいの脳細胞は、皆、使わないままで終わっていくというから、脳細胞が死ぬ量以上に、未使用部分をますます活性化させていけばいい。

そう思えば、脳細胞が死んでいくことなど全く怖くない。使えば使うほど、脳は蘇るのだ。

だから五十代の人は、脳が一番よく動くお年になるので、その割には…とならないようにしなければいけない。

ともあれ、地位的にも、脳ミソの実力からいっても、世の中を一番動かしてるのが五十代なのだ。

五十代の人というのは、誰も若者とは見ないから、あまり力仕事を頼まれもしない。

しかも、軽んじられることもない。かと言って年寄り扱いもされないし、老人ではない。六十五歳までは政府も老人と認めてないわけだから。

だから、この五十歳からの十五年間というのは、若い人たちの習得の十五年間とは違って、脳が一番よく動き、人脈と社会の信用と、経験、知識が積み重なった上での十五年なので、人によっては百五十年分ぐらい生きる人もいる。もっとも二、三年分ぐらいしか生きない人もいるが・・・。

ともかく一生のうちで、この十五年間が、もっとも社会表現ができる、一生涯残していく活動ができるわけだ。

まさにゴールデン・エイジというべき時期だ。こんな素晴らしい時期が待っているのだから、若い人ならそれまでに訓練、勉強、修業をしない手はない。

画家の卵は五十過ぎの成功を目指せ!

画家の卵は、大体五十歳ぐらいから一人前の絵描きさんと認められるらしい。五十一歳の絵描きさんといったら、あ、まだ若いですねというわけだ。

絵の世界が一番老人に有利と言える。奥村土牛なんて百一歳で亡くなった。日本画家では富岡鉄斎、上村松園、浮世絵なら葛飾北斎、みんな相当に長生きしている。

近代最大の陶芸家で絵も描けた板谷波山もそうだ。西洋だと、ピカソ、ミロ、さかのぼれば、ゴヤとか、ともかく大家は老いを感じさせない名作、傑作を超老後にたくさん残している。

中には不幸なことに、生前に絵が一枚も売れなかったというゴッホのような人もいるが、それは早く死んだからで、そろそろ絵の中に磨きがかかってきたころだと言われるのが、五十代なのだ。

大体五十代からその人の絵が売れ始める。

それまではもう若い若い絵描きさんでしかない。だから、小さいころから絵をやってる人、例えば十歳から絵をやってる人は四十年間も待たなきゃいけない。大変な精進だ。

岡倉天心の弟子に横山大観菱田春草という画家がいた。あの春草のピンク色の空を描いたりするセンスはいいと思うけれど、早く死んでしまった。

絵描きさんの中では本当に早死にの人で、もうひとりの長生きした大観とは対称的だ。

お話の世界でも、若い貧乏絵描きというタイプは良く出てくるくらいで、絵描きで若い=貧乏というのは定着したイメージとなっている。日本でも全国に大勢いるはずだ。

でも、そういう人でも、成功は後からやってくるのだ。

私も絵を描いているが、まだまだこれからだと思っている。

五十代までに、いかに自分を修養し、体力を磨き、どうすれば思い切り自分が社会に貢献するようなものを残していけるのか、ということを考え、目標に頑張ろうということだ。

第2章生きざま、死にざまを考える

第二章 生きざま、死にざまを考える

五十過ぎて起こる自己保存の欲

五十歳になったら気を付けなければいけないことがある。それは、野心が出すぎる可能性だ。

というのは、一生懸命若いうちからやってきて、それなりの積み重ねがあって、五十代、いよいよこれから社会で活躍という時期になる。ところが五十歳になってくると、体力は衰えてくる。

もちろん、四十二の厄年ぐらいから体力がどんと落ちてきて、五十になると、全体的に円熟はするんだが、体や記憶力の衰えは否めない。

体力が衰えてきたら、人間はどうなるか。今まで何十年か一生懸命やってきたことを、何とか世の中に残したくなる。

何とか社会に残したい、社会的に自己表現したい、自己実現をしたいと、五十歳になってきたら多くの人が痛切に思うものだ、と神様はおっしゃる。

私も、多くの人の相談を受けてきて、それは本当だと思う。

円熟はするのだが、いかにこれを世の中に浸透させようかとか、いかに世の中にこういうものを訴えようかとか、いかに世の中にこういうものを打ち出していくのかということに心が向いていくようになる。

動物というのは、体力が衰えてもう死ぬ寸前になってきたら、体が子孫を残そう残そうというふうに思うらしい。

もう寿命が尽きかけて、体力が本当に極限状態になってきて衰えてきたときに、逆に性欲が出てくるそうだ。

それは、子孫を残さなきゃいけないと体が知ってるわけだ。肉体がなくなるその前に子孫を残さなきゃいけないと、体は思うらしい。人間も同じだ。

人間の場合には、死ぬ直前というよりも、もう五十代からその傾向が出てくる。

それを乗り越えるのには、肉体がなくなったってあの世に行くんだから、どうってことないんだと体に言って聞かせれば、ああ、そうかと体は思うだろう。

しかし生物的にはそういう傾向があるのだから、気を付けなければいけない。

体もそう思うぐらいだから、精神の方もそう思う。五十代になると、体が衰えてきて老化してきたな、もう自分の命というのはそんなに生きられるわけじゃないしなと思って、これだけは残したいと思ってしまう。

自己保存欲といってもいいだろう。我執の一種だ。こうなると、そちらばかりに知らず知らずのうちに気持が執着して、芸術家なら創造力、ビジネスマンなら営業力・交渉力、神霊家なら神通力がなくなってくる。

私も、そうならないよう自戒している。いずれにしても、この、五十を過ぎるとどうしても出てくる欲を何とかしなければ大きな物事は全うできない。

古今、親の溺愛が一生の成果を駄目にした

この残したい残したいという気持ちが、考えてみたら、実に怖いのだ。自分が一生懸命蓄えてきた財産を子供に残したい。一番可愛い子供に残したい。豊臣秀吉の晩年がこれだ。

秀吉は晩年、大事な大事なわが子、秀頼に自分の天下を渡したいと熱望した。

直接血のつながりのない秀次に一度は関白を譲ったけれど、それをまた高野山に幽閉してしまい、しまいには自殺に追いやって京都の河原に首をさらした。

それでいまわの際まで、「秀頼をくれぐれも頼む」とばかり言いながら死んでしまった。この執着が、結局は豊臣家を滅ぼしてしまった一つの大きな原因だ。

年をとってきたら、自分の作ってきたこの大事業を、自分の最愛の人間に残したいという思いが、誰にでもあるという好例だ。

大した仕事をしなかった人なら、実の子に継がせるものがないから問題ない。しかし、こういう大事業をなした人は、残したい欲のために事業そのものを駄目にすることがあるということだ。

今世で完全にやり切ることはない

このように年をとって、体が衰えてきたら、自分が今までやってきたものを世の中に残したいと思う。

それは無理もないことだが、反面その「世の中に残したい、表現した「い」というものが強すぎて、我執心、我執着、野心につながることが問題なのだ。

私の場合は神霊家として、特にこれを戒めている。そうでなければ、神様の大御心を世の中に広めていこう、神様の御心に合う人生を送っていこう、神様のお取り次ぎをさせて頂こうという気持ちに、陰りがさす。

そのことを私は五十になった弟子の一人に常々注意していたのだが、実際は、まさにこの通りになってしまったことがある。

五十を越えると、どんな人間も野心家になる傾向がある。しかしもちろん、越えることはできる。

そのためには、野心や執着を越えられるほど深く、自らの内を耕して、真実なるものを追求し、広く真実なるものを求めていくという人生に生きるということだ。

もちろん、五十歳から野心家にならないためには、四十代のうちに、野心家になるということを戒めて、どこまでも真実を深く探求し、どこまでも広く探求していくという自分をしっかりと作っておくことが望ましいのである。

そうかといって、ただ一人悠然として、仙人のような日々を送れというのではない。

少しでも素晴らしきものを世の中に広め、少しでも素晴らしいものを世の中に発表していこうという意気は重要。しかし、野心が先に立ってやったのでは、駄目なのだ。

特に、神仏の道を多少なりとも心に持つ人なら、なおのことだ。経営者の中には、神仏を奉じる人が多いが、それも内面に確固とした輝きがあって、はじめて本当と言える。

つまり、真実なるものを探求していく心(求道心)と、真善美の神様の大御心を広める役をしよう、素朴で謙虚な求道者としての輝きがあった上で、おのずから現れる表現でないと、野心が先に立つ。

そうなると、己を没することができなくなる。俺が俺が我が出てくる。自分を没しなければならないときに、スパッと消すことができなくなる。

自分なんかどうでもいいというときと、自分をドーンと出さなければ駄目なときがあることがわからなくなってしまうのだ。

出しっ放しで収めることができなくなってはいけない。それはやはり、分別あるべき五十代の姿にあるまじき鼻持ちならない存在で、せっかく磨いてきた実力、地位の晩節を汚すことになる。

そうなると、自らの努力をバックアップしてくれていた運気や天の助けも衰えてしまう。神霊家でいえば、神通力が冴えなくなって、霊格が鈍ってくる。

私の場合ならば、もし野心が出たら、神人合一の道を追求し、探求し、その神人合一の人間像のひな型を作っていくという天命が果たせなくなってしまう。

真実なる通力と霊格を備えて、正しい神をお取り次ぎし続けた結果、教えや思想が広まっていくなら広まる意味がある。

しかしそこがずれたまま広めてしまったら俗界に生きている今までの宗教家、宗教団体と何ら変わるところがなくなってしまう。そんなものは、しばらくしたら淘汰されて消えていくんだと神様はおっしゃる。

もし偉大なるものを悟り、会得したのに、現実界で十二分に表現ができないまま、死んで霊界に帰ったとしても、私にはちゃんと霊格が備わっていることになる。

その時は、次期世代の人に私が霊界から加勢し、導けばいいんだ、だから焦ることはないんだ、とおっしゃるのだ。

伝教大師(最澄)も、自分の生きている間には大乗戒壇はできなかったけれど、それだけの清く正しき心で神様にお仕えした人だから、お亡くなりになった7日後に大乗戒壇の設立が許されて、最澄が霊界から守護したお弟子たちの手によって、比叡山が繁栄していったのだ。

だから、肉体がある間だけに焦って全部することはないんだ、と。

この世的に見れば、志半ばで逝ってもいい。自分の魂の修養と、しなければならない足跡がある程度できていたら、霊界でも自在に活躍できる高い霊格の人となり、どんどん活動できるのだ。

だから、この世の目というものを主にして生きてはいけないということだ。

もちろん、ある程度は世の中に残していかないと、後で同じ道に志して学ぼうとする人も、足跡がないから困るかもしれない。

だから、何も残すなというわけではない。しかし、ともかく何でも残したいという欲心は、肝腎の残したいものをダメにしてしまう、ということだ。

出口王仁三郎の大本教は、なぜ大弾圧されたか?

出口王仁三郎の大本教は戦前、大弾圧を受けて急激に小さくなってしまった。大本教の教えはまことに深い教えで、私なども大いに学んできた。

ところで、この教団がなぜ大弾圧を受け、極端に規模を小さくさせられる憂き目にあったのか、私はずっとわからないでいたのだが、先年ローマに行った時、やっとわかったのである。

ローマのホテルで祈っていた時、神様が、ローマはなぜ滅んだと思うかと私に問われた。

その答えとして、「滅ばなかったら新しいものが生まれなかったからだ」と、おっしゃったのである。

その瞬間にわかったのだ。

大本教の出口王仁三郎には、ピークのときには八八〇万人、信者がいたという。あの明治・大正・昭和の、今の世よりも人口がグーンと少ない時代だから大変な数だ。

それが大本教の第一次、第二次弾圧で激減を余儀なくされ、今、本当に熱心な信者さんは数万人ぐらいらしい。

その弾圧の最中に、王仁三郎は有名な『霊界物語』を口述した。大弾圧、つまり官憲の一斉手入れの流れの中で、大本教の本部にしかけられた三千本のダイナマイトがバーン・バーンと爆発する。

その爆発音轟々たる中で、「ただいまから『霊界物語』の口述を始める」と、数人のお弟子と共に霊界物語に着手した。

建物はやがて滅んでいくんだ。組織というのは、代がかわれば、やがて滅んでいくんだという、尊い無言の教えだと私には思われる。

しかし、それでも滅びないものということで、大正十年から、『霊界物語」を口述されて残していかれたのである。

ドーンドーンとダイナマイトが爆発した音を聞きながら、『霊界物語」の口述を始め、大弾圧をものともせずに、ついに八十一巻口述された。私は二通り読んだが、一冊が四 30 百ページであるから、膨大な量だ。

そして、弾圧による六年半の牢屋住まいから帰ってきたときに、本部の建物はほとんど崩壊していたけれど、梅だけが一輪咲いていた。

ああ、梅一輪が残ったと、それを神様に感謝して祝詞を上げた。結局は無罪になったのだが、戦前の大本教はこうして事実上崩壊に近い目にあった。

時は戦争の時代であったから、戦争に少しでも反対するものは大弾圧を受ける時代だ。その戦争時代に加担して時流に乗っていくのか、宗教的な真実というものをどこまでも貫き通していくのか。

前門の虎、後門の狼で、どうすることもできない。じっとしていてもやがてどちらかに食われてしまう。

そのときどうするか。王仁三郎は、自分の方から虎に食われていくしかないと動いたのである。

前門の虎、後門の狼、ならば自分の方から前に進んで虎に食われたら、愛と誇りが残るんだと、そう選択したのである。

それはお釈迦様の捨身の活動という教えにも通じている。

自分から捨て身になって、腹をすかせた畜生に自分から食われて修業が成ったと、お釈迦様の前世記で出ているのと同じである。前世記というのは前世の記録だ。

聖徳太子一族の滅亡の意味

このお釈迦様の話を、聖徳太子も学んでいたようだ。聖徳太子の厨子の中に、その図がよく描いてある。

自分から食われてやることによって、真実なる仏様のお働きを全うするという姿勢だ。その証拠に、息子の山背大兄王がとった行動が、やはりこの教えに基づいている。

聖徳太子がお亡くなりになったあと、大変人望が篤かった息子の山背大兄王を亡き者にしようと、蘇我入鹿が戦をしかけてきた。

ところが、その時は山背大兄王の軍の方が多かったし、山背大兄王が「それーっ」と号令をかければ戦にも勝てたのである。

しかし山背大兄王は、今軍を起こせば多分勝つだろうが、そのためにどれだけ多くの人間が死ななければならないか・・・ということを考えた。

その時、どっちが勝つかが問題なのではない、どっちが勝っても、政治がちゃんとうまくいって、庶民が平らけく安らけくなることが御仏の道なんだと判断したのである。

どっちかが勝ったらどっちかが負けなければいけないわけだから、自分がそのために負けようということで、山背大兄王以下、聖徳太子の息子さん、お嬢さん、二十数名は全部自殺したのだ。

戦を起こせば勝てたのだから、今から考えれば少々覇気がなさすぎるようにも思えるが、この捨身の活動によって、戦は一遍に収まったのである。

山背大兄王はそういう死に方を選んだ。そういう行動をとったということは、やっぱり、お父様の聖徳太子がそういう思想であり、そういう教育を施していたと考えざるを得ない。

そういう背景があったから、聖徳太子の命令で隋に渡った高向玄理や僧旻や南淵請安など、遣隋使で行った留学生が、帰ってきてこの悲劇を目のあたりにし、蘇我入鹿、許せん!ということでクーデターを起こしたわけである。

中大兄皇子の存在は大きかったが、それだけではない。聖徳太子の命令で行った留学生が帰ってきて、初めて大化の改新がなったのである。

だから、後世のことを考えれば、それが一番良かったのかもしれない。

聖徳太子は「未然をしろしめす」と日本書紀にも記された方で、ある種の超能力者だったから、そこまで見通していたんだろうと思うが、それにしても思いきった決断だ。ちょっと真似のできるものではない。

ギリシャ文明は滅亡して世界に広まった

そういう先人たちの事例と比べてみて、なるほどとわかったのだ。ローマ帝国崩壊の理由は、崩壊しなければ新しいものが出てこなかったからなのである。

ギリシャが、あれだけの黄金文化を開いたのが紀元前5世紀だ。それが次々にローマやアラブに攻め滅ぼされた理由は、攻め滅ぼされなければ新しい文化が出てこなかったからだ。

これも神から来る、滅ぼしていくという鬼の働きである。滅ぼすという鬼の御働きによって、かえってギリシャ文化は世界に広まり、永遠のものとなったのだ。

ローマはギリシャを政治的には征服したけれど、文化的に見れば逆に、ギリシャによってローマが征服されたと歴史学者は言っている。

結局、攻め滅ぼされたギリシャが持っていたずばぬけて偉大なる文化と文明の中身が広まって、ローマ人の中身は全部ギリシャ文明になったからである。

それまでは私も、滅んでいくということが悪いこと、滅亡していくということが良くないことだと思っていた。

ところがローマに行って、ローマ帝国の遺跡と足跡を見た後に、神様がお出ましになっておっしゃったことで、ようやく目覚めた。なるほど、物事には陰陽がある。

栄枯盛衰というもの、決して「栄」や「盛」だけが素晴らしいのではない。滅ぼされて広まり、世界文化の礎となったギリシャは典型例だ。

物事の栄枯盛衰の奥には、もっと深い御神意があるんだということだ。

一度滅びかけた大本教は別の形で再生

出口王仁三郎も、八八〇万人の信者を擁する大教団を作ったが崩壊し、その直接、間接の影響によって、生長の家、世界救世教真光さんほか、大本教系の六十数名の教祖が出てきた。浜松にある三五教もそうだ。

だから、大本教系をすべて合わせると、今でも数百万人の信者さんがある。どういうわけか浜松の本屋で私の『強運』がずっと一番売れていたことがある。

その理由がわからなかったのだが、その近くに三五教という教団があったからだった。なるほどなと思ったものだ。

大本は大弾圧を受け、多くの信者がちりぢりバラバラに散っていったが、これにより各地に、淵源を同じくする神道系の霊格者を次々輩出していったわけである。

偉大なる中身を持っていたからこそ、教団としては悲劇を経験しても、後世に大きな影響を与えた。開祖出口ナオに最初に降りたお筆先(御神示)には、「三千世界一度に開く梅の花開いて散りて実を結ぶ」とある。

梅の花というのは神界の花、神の教えを意味する。開いて散って実を結ぶ、梅の花。その短い言葉の中に、真実が全く語られている、本当にその通りになったのだ。

帝国を作ること、滅びることを恐れるな

だから人は、やがて滅びるかも知れないという理由で、帝国や大組織を作ることを恐れてはいけないのである。

やがてそれは滅んでいくかもしれないけれど、その滅ぶことによって残していった足跡のエッセンスを持っていく人がいるからだ。

野心家となることは戒めるべきだが、何も残さないようにと気を使うのもまた度量が小さい。

ある程度の組織や、ある程度の人間、ある程度の社会への広まり、打ち出しというものがなければ、後から来る人たちが、何をどう学んでいいかわからない。

たとえ何十人もの弟子や部下にひどい目に遭ったとしても、そのうちに一人素晴らしい人がいたら、またそれが次の時代に発展していく。

もっと腹を大きく持っていいのだ。 C 滅んだものを見て、あんなものは最低だと悟ればいい。

その中にいいものがあったら、素直に踏襲しようとするのもいい。あるいは、ここをもう少しアレンジすれば深見東州さんも良かったのにねと、改良版が出てもいい。反旗を翻す、これもいい。

逆にして成功したら、また良かったわけだ。

自分が作ったものがたとえ滅びても、こういう動きが起きてくれば、立派に社会を感化したことになる。

そういう新しいエネルギーが出てくるキッカケと、ある程度の形を世の中に出していくことは、自分の思った形でないとしても、意味が大きい。

なぜなら、ある程度の形がないと後から来る人が何を学べばいいか分からなくなるからだ。一からやり直すのでは、とても効率が悪い。

たとえ志半ばでも、ある程度の形が成って、あとで組織がばらばらしてもいいのだ。

どこまでも深い真実と広い真実を会得して、習得して、神様のお許しと霊格を受ければ、霊界で活動できるようになる。

そうしたら死後の活動によって、本当の真心を持ち、神なるものを理解していて、天運と天命と素質があり、さらに努力を惜しまない人間に、応援してあげることができるのだから。

そういうわけで、人は野心がなければいいというものでもない。残すことで世に影響を与え、それが後の人の役に立てばそれは素晴らしいことだ。

だから、帝国を作ることを恐れてはいけないし、滅んでいくことを恐れてもいけないのだ。

大教団の瓦解を予知していながら、教えを広めた出口王仁三郎

なるほど、出口王仁三郎もそういうギリギリの境涯に立たされて、八八〇万人もの教団が小さくなってしまった。

大本教の中心は綾部と亀岡、二カ所にあるが、その亀岡にある一番中心の月宮宝座を作るときに、王仁三郎は日本中の隕石を集めた。

しかし、月宮宝座を作るときに、「ああ、これも壊されていくのか」とつぶやきながら建てていたと言う。彼は自分の大教団と壮厳なそういう建物がいずれ滅びることを知っていながら、教えを広めていたのだ。

だから私は、神様、なるべく未来のことは全部見せないで下さいとお願いしている。

いつかは全部壊れていくのが天眼で見えたり、壊れていくのがわかっていたら、支部を作るのもやめようか、とか考えてしまう。

何を作ったって、どのみち壊される日が来るけれどその論理は、今着ている服をきれいに洗濯しても、どのみちまた明日汚れるんだからといって、ボロボロの服を着てるのと同じだ。

散髪したってまた毛が伸びるんだから、と言って、ずっと長髪のままでいくのと同じでもある。

その論理で行くと、散髪とかお掃除とかお洗濯というのは全く無駄だということになってしまう。何をするのも無駄ということになって、隠遁者にならなきゃいけない。

しかしそれでは、神様の御心を世の人々に伝えることも、神の息吹を世に残すこともできなくなってしまう。

だから、王仁三郎は大弾圧をわかっていながら、八八〇万人も信者を増やしたのだ。それを思うと、やっぱり腹が太いと思う。

聖徳太子は目標のために子孫根絶やしを選んだ!

先程も述べたが聖徳太子の場合、山背大兄王が戦を避けるために自殺して、自分の一族全部が死に絶えた。

梅原猛氏は「隠された十字架」などで、呪いがどうこうと言っているが、もっと別の聖徳太子研究の文献が真実を伝えている。

河内に聖徳太子のお墓があり、聖徳太子とお母さんと奥さんが祀られているのだが、聖徳太子はその墓を作るにあたって、子孫が根絶やしになるという墓相のお墓を作ってくれと言ったのである。

わざわざ、子孫が繁栄しないお墓を作ったというのは、どういうわけか。自分の子孫と家系が残ると、結局、門閥政治になってしまうことが太子には分かっていた。

それは聖徳太子の大目標に反するものだったのだ。

当時は豪族の門閥があるがゆえに、わざわざ「和をもって尊しとなす」と言わねばならないほど、和が保たれない状態だった。

それで、太子は冠位十二階制度を作った。それは家の閨閥、門閥に関係なく、有能な能力のある人を政治家にし、役人にして、取り立てようというものであった。

ところが彼には、山背大兄王をはじめ、子供が何人もいた。この人達は人望もあり、聖徳太子の息子さんだからということで、権力を独占することになるだろう。

それでは門閥政治、閨閥政治を否定して十二階制度を作ったのに、自分の息子が残ることによっ同じようにまた派閥ができることになる。

だから聖徳太子は、みずからの政治家としての使命と、真に日本を思う誠を果たさんがために、子孫が根絶やしになる墓相をわざと作ってお亡くなりになったのである。

子供がかわいそうといえばかわいそうではある。しかし、山背大兄王はそのあたりも理解していた可能性が大いにある。ああいう死に方をあえて選んでいるからだ。

私もそういうつもりでいるのだ。だから、ある程度本も書き、ある程度の会員も、狂奔にならない範囲で集めている。

それで救える人々がいる以上、やっぱり広めていく意味はあるわけで、将来の崩壊を恐れていたら何もできない。

世代がかわって、何かもめ事があって、揺さぶりがあって多くの会員がやめていってもかまわない。

組織がばらばらになっても、またそれも楽しい。誰かが反旗を翻しても、それもいい。私の死後にアレンジが加えられてもいい、またそのまま残されても、それが御神意であるなら、それでいいじゃないかと。

かくて、私はあくまで、明るく元気で前向きに今を生きているのである。

かくして私は形を残す道を選んだ

しかし最初は、先々のことを思うと本当に苦痛だったものだ。組織を作って神の道を広めるのはいいが、もし将来、正しいことを言わないようなお弟子が出てきたらどうしようかとか。

会社でも何でも、二代目、三代目には、ろくなものが出ないという方が一般的であるからだ。

古い川柳に「売り家と唐様で書く三代目」というのがある。唐様とは、当時流行していた、明の文明風の書体のことだ。

初代は立派な人だった。しかし二代目は甘やかされて、三代目はもう本当に放蕩三昧、芸事三昧にあけくれる。

書だ、小唄だ、芝居見物だと洒落こんで、それでとうとう身代をつぶしてしまって、お屋敷に「売り家」と自分で書かなくちゃならなくなった。

ところが、芸は身を助く(?)と言うべきか、あまりにも達筆の唐様で「売り家」と書いたものだから、そのギャップが何ともおかしい、というユーモラスな句である。

この川柳は、実に深くて、おかしくて良い。けれど唐様で売り家と書かれてしまう、初代としちゃたまらない、という心境なのだ。

それで、そんなになるぐらいなら組織など作らない方がいい、という気持ちにもなった。しかし、それは違う、私は小さかったと思うようになったのである。

より深く、神の大御心を考えた場合、また後から来る人たちのことを考えた場合に、壊れるかもしれないが残した方がいいんだというふうに、心の中で覚悟を決めたのである。

確かに野心も恐ろしい。しかし、野心がないからといって、自分一人で修業して、世に何の善なる影響が残るか。自分の修業三昧というのは、楽は楽だ。人を使うというのは苦を使うということでもある。

嫁さんや子供を持つよりは、ひとり者でいるのが楽なのと同じだ。人を使うは苦を使う。

お弟子を教育するというのが、どれほどストレスのたまるものなのか。

弟子にしてみれば、師匠につくことがいかにストレスがたまるものかと思うかも知れないが、私にすればお弟子に教えるこの時間を別に使えば、いっぱい本も書けるし、いろんなことができるのにな、と思う。

しかし、神様の御心や植松先生から出されたものが何も次期世代に残っていかないということは、神様に対して申し訳ないことだ。

そういう気持ちで、私は今の活動を行なっている。

会社経営者はこう心得よう

私自身の話が長くなったが、これを通して何を言いたいか、会社を経営していらっしる方ならわかるはずだ。自分なりに三十年、四十年やってきた会社というものは、どうしても五十歳以降になったら、息子に継がせたい。あるいはまた、自分がやってきたものを世の中に残したいとも思う。

野心ではないにしても、今まで積み重ねてきたものを、子供に継がせたい。苦労してきた人であればあるほど、何とかして世の中に残したい。何とかしてこれを存続させたいと、そう思うのが普通だ。

しかし、今言った道心、神心から見たら、壊れていくのを恐れちゃいけないということになる。

作るだけ作って、世に刺激を残して、後は好きにせい、とばかりに明るく元気に死んでいけばいいんだということだ。

何度も言うようだが、自分の死ぬまでの修養と信仰力、道心が立派であるならば、死んで霊界に帰ってから子孫を助けることもできるのだから。肉体があるときの活動だけが全てではないのだ。

また逆に、五十歳になっても、自分の継承者がいないというケースもある。娘が二人いるだけで、娘のだんなは放蕩三昧とか、音楽の道に生きてるとか、公務員でなにか消極的だという場合もあるだろう。

男の子をと思って七人産んだけれども、全部女だったという人もいるかもしれない。

その他でも、いくつになっても親のすねかじりしかしない息子だとか、今の時代は後継者がいなくて悩む人は多いのだが、こんな理由で一生懸命会社をやっていく意欲がないなんて思っている人にも、今のことが当てはまる。帝国を作ることを恐れてはいけないし、また帝国が崩壊することを恐れてはいけないということだ。

命ある限り、とにかく精進、努力して、六十代、七十代にはますます大きくしていけばいい。最後はもう財産分与は適当にして、従業員に還元すればいい。

とにかく、そこまでやったという自分が尊いわけなんで、後のことは心配し過ぎぬことだ。馬鹿息子かと思っていたのが、実際、跡を継がなきゃならなくなった途端、えらく頑張って、なに人格が変わったように事業をやることもある。

逆に、素晴らしい息子に恵まれたと思っていたのが跡を継いだ途端、お父さんの悪因縁まで継いでしまって、道楽に走ってしまったり、そこから立ち直ってまた事業欲が出てきたりと、先のことはわからないもの少なくとも自分が、前向きで明るく元気で神の御心に合うような人生を送っておけば、死んでもそれほど悪い霊界へは行かない。

そういう人は、たとえしばらく地獄に行ったとしても、すぐリカバリーする力があるから、大丈夫だ。

信仰心のある人は地獄からでもリカバリー

そこにいくと信仰心のない人間は、死んでからどうしていいのか分からないから、地獄へ行ったら行ったまんまだ。

正しい信仰のある人は神の道も、地獄のあり様も知っている。私が原作をしたコミック本「完全霊界マニュアル」(たちばな出版刊)などにも、死後の世界の真相をある程度記しておいた。

そういうものなどを通じて、霊界の様子や地獄からの脱出法を知っていれば、必ずリカバリーできる。一生懸命お祈りしたら、仏心ある人間はたとえ地獄にいても、必ずリカバリーできる。

一旦神仏の道を勉強してきた者は、死んだらそれを思い出すから、地獄へ行ったら、まずいぞ、あれとあれとあれが悪かったかと反省する。そうしたらまたリカバリーできる。

徳川家康や秀吉なども、今では立派な大守護霊となって霊界で活躍しているが、皆一度は地獄へ行っている。

そんな中で一番早く回復したのは織田信長だ。一番深い地獄へ行ったのは秀吉だったが、これも何百年後かにリカバリーしている。

しかし「地獄には行かなかったが大したこともない」という人間にだけはならないで頂きたい。

現世で何かを為し遂げ、その過程でやむなく多くの人を傷つけ、たとえ地獄に行くはめになっても、いっぱいお迎えが来るほどの大物であってほしい。

「さあ、待ってたぞ、おまえ。しごきのコースはAからZまでだ!」と言われて、「うわあっ」と言いながら、しかし、「要するにZまでやったら許されますね」と、リカバリーする気持を持って、前向きに乗り越えたらいいのだ。そうしたら帰ってこられる。

こういうやる気と覇気のある人は、ものすごい守護霊、非常に役に立つ霊になる。後が気になるなら、それからまた息子に神がかればいい。

だから、帝国を作ることや、まそれが滅んでいくのを恐れてはいけないのだ。栄枯盛衰は神心によるものだし、鬼と神の両方あって神様なんだから、鬼のほうを恐れてはいけない。

陰がなければ陽もない、滅亡は、新しいものを生むためにあるんだというふうにだけ、ものを考える。それがやっぱり陽の心だ。

息子や娘がどうしようもないとか、息子も娘もいないという場合も全く気にしない。

子供がいない、継承者がいない、それから、ろくな子供がいないとしても関係なく、今の仕事があくまで自分の修業であり、自分の神試しであり、やった分だけ自分の魂の糧になるんだと知る。

それで大いに頑張る。それが一番だ。

ガチャガチャな死に方こそ理想だ

自分が生きている間に、後のことを思ってなんて考えて、あんまり完璧な死に方をすると、かえって良くないとも言える。

私はもう最後はガチャガチャにして死んでやろうと思っている。後のことを考えて、きちーっとした死に方したら、その後の人は、することがなくなるからだ。

理想を言えば、私が死んでからミーティングとか反省会が開かれて、あの先生のこの部分は良くなかったとか、あんまりに楽しすぎて、真剣な神の道に生きる人が少なかったとか、あるいは、踊ってばっかりだから、踊る宗教みたいに誤解されたとか。それから、いつも歌ばっかり歌うから、歌謡曲とか、音楽をする人だけが来てしまって、絵画の人が少なかったとか、いろんな反省があっていいのだ。

それで、この収拾がつかない状態を何とかしなけりゃいけないという使命感に燃えて、「このままではワールドメイトは良くないんだー」

なんて言うような若い人が出てきたりする。

それから「植松先生が本当だ」、「いや、深見先生が本当だった」とか、両方本当だけども、いまいちだったから「いまいちの会を作ろう」なんてことになったら、それも面白い。

完璧なものを残していくというのは、後世の人に対してかえって申しわけない。精進、努力の余地がなくなってしまうからだ。

だから、通とか、おしゃれな人は、どこか変なところを残して死ぬ。自分が本当に正しく真実なものを会得していれば、死後は霊界の活動があるのだから、ちゃんと霊界で調節できる。それで一向に構わないのである。

少々トラブルを残して死ぬのがおしゃれ

自分が中途半端な人生のままで、子孫のことばかりあまり考えて、相続税をどうしようとか、子孫のことを考え過ぎたりするのは良くない。

そのことが心配で死んだら地縛霊になったり、屋敷因縁の霊になったり、浮遊霊や仏壇の背後霊になったりするだろうからだ。

そうなると、子供が仏壇でチーン、「お父さん、お母さん」と言った時に、「おまえ、元気にやってるか」と心配して子供にビタッとくっついたりする。

子供はなんだか体が重くなって、かえって元気がなくなったりする。

お父さんとお母さんが亡くなってからというもの、前はシャキッと歩いていた子供が、なんかばあさんぽく歩くようになったりする。

子孫のことをあんまり考え過ぎた親というものは、マイナスの背後霊となって子供についてしまう。

元来、人を守護するには相当の霊格が必要であり、神様の元で修業を積んで、資格を得なければ人につくことは許されない。ところが、子供を溺愛しすぎた親は、無許可で子供についてしまう。

これは、子供にとっては大変に迷惑なことなのだ。「おまえ、わしの気持ちを理解して」とか言うが、そんな人(霊)なんか理解しなくても、一万倍以上立派なお釈迦さんの気持ちを理解したほうがいい。

孔子の気持ちとかイエスの気持ちを理解したほうがいいのであって、何でお父さんとお母さんの気持ちなんか理解しなきゃいけないんだと、子供は先祖の霊に反発するのが望ましい。

親の子を思う気持ちはわかる。しかし、その気持ちが偉大なるものなのか、高貴なものなのか、尊いものなのかどうかだ。

子孫のことを思う気持ちはわかる。しかし、実際に無断で子孫に憑いている霊を何人も救霊した経験から言わせて頂けば、子供のことをあんまり心配する本人は、ろくな霊界へ行ってない。

いらぬ心配ばかりして、心を曇らせているからだ。だから生きている間から、子供のことをあまり悩まず、自らの為すべきことを精一杯することだ。

帝国を作ることを恐れず、崩壊していくことも恐れない。大いに作っていけ、生み出していけということを私は言いたいのだ。

それから、完成しないで何か子孫に問題を少し残して死ぬのがおしゃれだ。

哲学とか宗教、あるいは、理論でもそうだが、ちょっと粗っぽい、未完成なところを含んだものが、多くの人を惹き付ける。それと同じである。

子供たちは、お父さんを非難したり、先祖を批判したり何かしながら、それを元気と活力素にして生きていくのだ。

あんまりピシーッとして死んだら、「立派な方でした」と言われるだけで、子供たちはすることがない。

そうすると「売り家と唐様で書く 三代目」になるのだ。五十代からは、死後の霊界で子供に迷惑をかけないような自分作り、やっぱり考えていかないといけないのである。

そして、どこまでも前向きで明るく意欲的でなければいけない。これが、五十代から気を付けよう、というポイントだ。

私も真実なるものをより深く、より広く探求してい今の生きざまを、五十代から本物にしていかなければいけないと思っている。

野心がないことを至上の価値として、お弟子もとらず組織も持たず、世の中に何の感化力もないままというのは、結局は、後から来る人のことを考えたら、ちょっと薄情だ。

少しく問題を残しながら、しかし立派だったな、見習うべきところが多いし、反省すべきところも多いし、ちょっとアレンジすればいいんじゃないかといって、多くの方が参考にして下されば、それも世の中に残した影響力だ。

それは私だけでなく、五十代以降の皆さん一人ずつにも当てはまる。そのほうが、子供は立派に育つし、自分が死んでから霊界で立派な生きざまをすれば、また霊界から応援も送ってあげられるわけだ。

少なくとも、神様の許しもないのに、生きている人間にとりついて、迷惑をかけるようなことをしてはいけない。

自分が良い霊界に行けば、子孫を助ける力も授かるし、本当の意味で子孫のためになるのである。

子孫繁栄は陰徳の力

ところで、自分が死んだ後の継承をどうするか、といった外面のことよりも大事なことがある。また効果としても、よっぽど強力な法則だ。

それは、その人の「徳分」というものである。

徳分については、拙著「運命とは何だ」(たちばな出版刊)などに詳しいが、ここで簡単に触れておこう。生きている間に、より真実を深く探求し、広く探求した人は、自らの内なる御魂を向上させたという功を積んだことになる。この功を「徳分」という。

厳密にいえば、真諦の探求や上乗に至ることは「陰」の徳分となる。

陽の部分は、人を救済し、社会に残した功績だ。これも徳分になる。では、徳分を積むとどうなるのか。

自分自身の霊格や来世にも深く関係してくるのだが、ここでは子孫という面に限ってふれておこう。

上杉謙信と孔子さんを見たらわかる。たとえば孔子さんの子孫は今でも台湾に元気にいらっしゃる。

非常に福々しい顔で、人徳高く、人格も立派な方だという。こちらは介石の政府で重要な役職を占めていた人だ。

それから、上杉謙信の子孫も、今なお元気に生きている。宿敵だった武田信玄は血筋が絶えたが、上杉一族は謙信を先祖として敬って、ずっと血脈が続いていった。

さらに途中で「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」といった米沢の上杉鷹山という人もあらわれ出て、上杉家を立て直し、今なお上杉一族は残っている。

つまり、子孫の命脈というのは、家の祖先が残した徳分次第なのだ。孔子の家系は、もう二千何百年も続いているのだからものすごい。上杉も戦国時代から直系の孫が残っている。

しかし、これらの先祖は形を残さなかった。子孫のために美田を残さずというくらいで、財産争いが起きてきて、人々がもめるだけだからだ。

それでは何を残すのか。美徳すなわち徳分である。真実を深く広く追求し、それを表現して、徳分を残してきた人々は、子孫に、大きな見えない運勢を与えることで役に立っている。

さらには、人々を少しく、あるいは多く幸せにしたという目に見えない徳分は、子々孫々まで残って、家を豊かに繁栄させていくものなのだ。

心でああしよう、こうしようと子孫を案じるより、この方がよほど確実である。

人も幸せになり、自らも幸せになり、子孫も幸せになるのだから、こんないいことはない。

この「徳分を積む」ということは、五十代のみならず、どの世代の人にも忘れてほしくないことである。(どんな活動や言動が徳分となるのかについては、ここでは書ききれないので、拙著「運命とは何だ」や「大創運』『神界からの神通力」などを参照されたい。)

こういう先祖の徳積みを感謝してくれる子孫がいるかもしれないし、いないかもしれない。

しかし、神々様の覚えはめでたい。ああ、これもご先祖さんが残された徳分のおだと、そう思ってくれる子孫が一人か二人いればいい。

このように神仏、子孫に至るまで、こよなく愛される素となる美徳は、真実な道をより深く、より広く探求した分だけ、また世のための貢献をやった分だけ残る。

死ぬまでに、自分が磨いた分だけは、一切無駄がないというわけだ。

やはり、ここに目を向けていかないと究極的に有意義な人生にはならない。

これは七十になっても八十になっても九十になっても百歳になっても変わらない、人として生まれてきた者全てが考えるべき真実である。

それを五十歳以降、ハッキリ目標としていくべきではないかと思うのである。