第三章 青春時代を懐かしむな!
青春時代は胸にとげ刺すことばかり
冒頭から、他の人の詩を引用させてもらう。私が歌っていると思って頂きたい。五十代の人にはカラオケで人気がある歌だから、声に出して歌って頂いてもかまわない。
卒業までの半年で答えを出すと言うけれど、二人が暮らした年月を何ではかればいいのだろう。
青春時代が夢なんて後からほのぼの思うもの。青春時代の真ん中は道に迷っているばかり。
二人はもはや美しい季節を生きてしまったか。
あなたは少女の時を過ぎ、愛に悲しむ人になる青春時代が夢なんて、後からほのぼの思うもの。
青春時代の真ん中は胸にとげ刺すことばかり(「青春時代」作詞:阿久悠 作曲:森田公一)
私は以前、五十代以上の人だけを集めてセミナーをやっていたが(五十上セミナーといった)、何度かこの歌を歌ったことがある。
この章のテーマ・キーワードは、この詞に隠されている。そもそも、五十を過ぎたおじさんが、二十年以上前のこの歌をなぜ歌いたがるのか。また、なぜそれほどまでに人気があるのだろうか?
それは、この詞そのものが、ひとつの霊的世界(霊界)を作っていて、なぜかおじさん達が時々そこにはまりたくなるからなのだ。
その現象がどういう意味を持つのか、追って明らかにしていこう。
「もっと老けよう」を合言葉に
大体、五十過ぎの人が集まる機会というのは、「若返りましょう、若返りましょう」という合唱になりがちである。
しかしこれは、考えたら恐ろしく失礼な話だ。
既に年をとっているということを前提の上に言っているわけで、要するに、若返りましょうとか、若々しく生きましょうと言えば言うほど、あんたは老人だということを駄目押ししているようなものだ。
ある八十何歳の人と、こんな会話をしたことがある。
ものすごく元気で、かなり距離のある戸隠神社の奥宮まで往復しても、けろっとしている。若い人はばたばた倒れ、ああ痛い、くたびれたと言うのだけれど、その人は平然としているのだ。その人に、「かくしゃくたるもんですね」と言うと、怒るのである。
「そんな老人に言うみたいな言い方はやめてくれ」と。確かに、「かくしゃくとしてお元気ですね」と言うのは老人に言う言葉だ。既に老人と相手を認めているわけで、その人はそれが気に入らないのだ。
若返りましょうとか、いつまでも若々しくとか、言えば言うほど既にあんたは老けている老人だということを認めているわけだから、ここで、五十以上の人はもっと老けよう、みんな頑張って老化しよう、頑張って年をとろうということをお互いに言い合うことこそ必要だ。
逆説のようだが、つまり、自分は若者なんだということを意識の底まで自覚せよということだ。常に神霊界においては自分は若いということを前提にしているわけだからだ。
お互い若過ぎるから、少しは人間が成熟して枯れてこなきゃいかんねということを言い合うと、不思議なもので若い気になってくる。
もう既に自分が年をとっていると認めることが、最もいけない。
そう言うと、五十上セミナーに出るということも、既に五十歳以上だということを社会的に認めてしまっているのだから本当はいけないような気になってくる。
だから、五十上というのは、これは伊勢神宮の五十鈴川の川上のような清らかな心の流れを持つ方の集まりというふうに宣り直しをしよう。
「九十二の早死には許せない!」とは?
故・笹川良一さんが、大本教の三代教主補の出口日出麿さんが九十二歳でお亡くなりになったときにおっしゃった至言がある。
Nさんという方が、「会長、日出麿先生がお亡くなりになりました」と報告した時、笹川さんは何とおっしゃったか。
「え、何歳で亡くなったんだ」
「九十二でございます」
Nさんはもちろん、長寿を全うしたというつもりで言ったのである。そうしたら、笹川良一さんが、「何、九十二。そんなに早死にしてどうするんだ。許せんやつだ、あいつは」と怒ったという。
本人はその時、九十四歳である。それでNさんが、やっぱりすごいもんだな、さすが驚いたよ、とおっしゃったのを、聞いた私も驚いた。
笹川良一さんは、いろいろな評価を受けた方だが、一つ一つの言動を見ると、そういうすごいと思うところがいくつもある。
あれだけの方になると、太陽が当たるところもあれば、樹木の大きい分だけ日陰の部分も多いということだ。
心外悟道無し
その笹川さんが大好きな言葉がこれだ。
「心外無悟道」
心の外に悟りの道無し、である。
笹川さんがお祈りする所を、一度見たことがある。かごに入ったおもちゃの鳥がオフィスにあって、スイッチを入れると一分間、ピヨピヨピヨと鳴く。笹川良一さんがいらっしゃると、ぴゅんとスイッチを押す。
すると、ピヨピヨピヨと鳥が鳴く。その間に、あーっとお祈りして、ぱっと終わりであっという間に帰って行かれる。
その早いこと。一心不乱に長時間祈る、というタイプの信仰ではない。
しかし、毎日朝八時半に必ずそうされる。オフィスに来るまで銀座の町を歩くのだが、歩くのではなく走る。
それも酸素を多く吸って、少ししか出さない独自の走法で、まずパパパパパと吸って、パッと吐く。出したものを全部吐いちゃいけないというのだ。
より多く入れなきゃいけないので、いっぱい呼吸を吸ってちょっと出すというやり方だ。毎日走って、オフィスで一分間祈って、ぱっと帰られるのだ。
一分間に集中した祈り。それは、どんな場合でも瞬間にぱっと心の切り替えをする、切り替え名人でもあることを示している。
その笹川さんの座右の銘が、「心外悟道無し」。心の外に悟りの道無しというので、暗さや怠慢な心を持っても、瞬時にパッと切り替えて左右されない。
それが悟りだと。おそらくは、武道で鍛えられたものだろう。
年を取れば取るほど、これが上手になってくる必要がある。そうすると若い人に負けない、一層若い人になれるわけだ。
恐怖の青春時代の追憶
私は、森田公一の曲「青春時代」には、「恐怖の青春時代の追憶」というサブタイトルをつけるべきだと思う。
青春時代のことを思えば、ああよかったね、あなたは昔若かったねと誰でも思うのだけれども、神霊的に見たらいかに恐怖なのかということを、今から書いていきたい。
こうした追憶は、想念の魔窟をつくる元凶なのだ。私は、もう何回かこういう経験をしている。
例えば先日、まだ私が二十九歳のころの写真を見つけた時。まあ当時の私は、顔も色が白くて、首も今より細かった。体重も五十四キロをキープして、まさに「青年」という感じである。
それで、そのころの写真を見たり、植松先生とその頃の話をしていると、何か横隔膜のあたりから、うわーっとエネルギーが込み上げてきてしまうのだ。
この感覚は、ゴルフに行く前日と似ている感じだ。
あしたゴルフに行くというときに、横隔膜あたりから何かうわーっと喜びが込み上げてくるのだが、それを春の風とするならば、昔の思い出は秋の日だまりのような感じで、どこかに寂寥感を含んで込み上げてくるのである。
その話を二言三言すると、もう、涙がぽろぽろぽろぽろ出てきて、ああ、あのときは二度と返って来ないんだと思ってしまう。
懐かしいんだけれど、言えば言うほど、自分が今そのときと比べて年をとってしまったことが身にしみる。
白髪もできて、歯茎も減退化している。あの頃はもっと歯茎が豊かだった。そういうように思ってしまうのである。涙がうわーっと出そうになる何かのパワーがあるのだ。
というのは、自分が極限状態の目いっぱいで生きてきたからだ。
後から思えば本当に良かったなと思うのだが、この「青春時代」のように振り返って見たら、もうとにかく胸にとげ刺すことばかりで、迷っていることばかりだった。
しかし、年をとればとるほど、その痛みとか苦しみが癒されて、レトロの写真のようにほおーっと映像で思い出されてくるのである。
苦しかったときの景色が、しかし、夢や希望に満ちてきらきらと輝いていたなぁと、そう思うと、また涙がばあ~っと出てきて、また横隔膜からうわーっと寂寥の秋風が出てくるのだ。
そういう覚えは、みなさんもあるのではないだろうか。それで植松先生にお聞きしたのである。
「植松先生、青春時代のことを思い出したら、横隔膜からうわーっとエネルギーが出て、涙がぽろぽろなんていうふうになりませんか」
「なるわよ~。でもね、そういうふうに思い出すのもいいけれど、今が一番いいわ。
当時は大変だった分、今とまた違った意味で充実していて、楽しかったでも、そういうふうに一緒に十七年前からご神業を築き上げてきた仲間がいるから、そういう人たちと話す今が一番楽しいわ」というようにおっしゃった。
植松先生はさすが師匠で、それでパーンと切り換えて終わられるのだが、多くの方はそう簡単には終わるまい。
一度思い出に浸り出すと、またそれからそれへといろいろ思い出してしまうのではなかろうか。
霊界物語に出会った頃のこと
植松先生と出会う前、私は大学時代の四年間を京都で過ごした。私は、二十歳の頃に自分の人生を自分のためにでなく、神様のために使わせて頂こうと誓いを立て、人生を捨てたのだ。
その頃のことについて記す前に、少々大本教の『霊界物語」と「大本神論」のことに触れてみよう。
時々、セミナーなどで私が出口王仁三郎の『霊界物語」の話をするから、「お話を聞いて、「霊界物語』を購入しました」という手紙が来たりする。
しかし、これは八十一巻あって、しかも一巻が四百ページぐらいあるから、大体五巻ぐらいで力尽きる人が多い。
私は、二十五才までに八十一巻の『霊界物語』を二度読んでいるのだが、それは、よほど根性入れて神様に祈りながらでないと、なかなか完読できない。
それよりも、『大本神諭」という「お筆先」(御神示)ならば五巻だから、もし読もうと思う方がいたら、まずそちらを読むことを私はお勧めする。
「三千世界一度に開く梅の花、開いて散りて実を結ぶ。
三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」とか、「須弥山に腰をかけ、三千世界枡掛ならすぞよ」とか、無学文盲の五十七歳のほろ買いのおばあちゃんだった出口ナオが神がかってそういう格調高い言葉を「筆先」に出した。
それが基本になっていて、出口王仁三郎が未来と過去の物語と予言を、霊的暗示に託してずっと出したのが「霊界物語』だ。
未来の予言が全部秘めてあるわけだ。それゆえに、普通に読んでもわからないようなことばかりである。
だから「霊界物語』は、頭で理解しただけではわからない。『古事記』と同じように、ただそのまま、ありのまま、魂で吸収しようという姿勢で、神様にお祈りして読むのが番。
そうすれば、読んですぐ忘れてしまったとしても、実は深く御魂に入っているから、大事なときにはぱっぱっと内容が出てくる。
「大本神諭」のほうは五巻で活字も大きい。この「お筆先」には、日清、日露、第一次世界大戦、第二次世界大戦の太平洋戦争の敗戦までも予言されていて、予言書として超一流である。
この中には、神様の御心が切々と書かれている。例えば、
「今はわれよしと強いものがちの世になりておるぞよ。差し添いいたす種ぞ恋しき」とか。
これはみんな自分のご都合ばかりで、自分の都合ばかり、我ばかり張って、神様の御心にかなうような人民はほとんど無いぞよと。
さらにこのままで行くと人民三分になるぞよとまで出ている。三分というのは三%。
つまり、九七%の人民は滅んでしまうよと。そういたしたくないために、神が仕組(計画)をしているのであるぞよと述べている。
「差し添いいたす種ぞ恋しき」、新しい時代にその種を植えることによって、新しい時代の芽が芽吹いていって、木が生い育っていく。
そういう人民、目薬にするほどもおらんぞよと嘆いておられる。
五巻の中に何度も何度も繰り返し出ているのは、神様が”われよし”と”強いものがち〟の世を立て替え、立て直ししていくおつもりで、仕組を進めておられること。
そして同時に、神様がどんなに人々のことを思っていても、神様の心をわかってくれる人間は目薬にするほどもおらんぞよというお嘆きだ。
言葉にとらわれないで、精神の流れを読みとれ!
ところで「霊界物語』でも、「大本神論」でも、「バイブル』でも、『論語』でも、仏説でもそうなのだが、一つ一つの言葉だけをとらえて、これはああだこうだと断片的に分析していると、とんでもない読み間違いをする。
それは、教えというものの大半が、そのときのTPOに合わせて出されているからだ。たとえば、私の「御神示録』もそうだ。
しっかり勉強せよという神示が出た時は、勉強が大事だからではなくて、怠っていたときに神様が怒っているのだ。
豊かなる日々を送れという神示は、がりがりがりがり仕事ばかりしていたときに、もっと豊かなる日々を送れと出てくるのだ。
それでよろしいという場合もあれば、反対のことをしている場合に注意を促している場合もある。しかしいずれの場合も、神様の大きな愛の流れから出てきた励ましなのである。
だから、その言葉、言葉を捉えて、全く違うシチュエーションに用いようとすれば、当然意味が違ってくる。
この悪いやり方を断章取義という。毛沢東の主張について「毛首席はこのように「実践論」で言っております」というAグループがあったら、Bグループは、「いや、毛首席はこのようにも言っておられます」と反対したりする。
お互いが都合のいいところだけとって言い合っている。それは、仏教でも、キリスト教でもそうだが、そういう読み方をしていくと、知的分析的な見方に流されて、失敗することになる。
「古事記」を読むときも、『日本書紀』を読むときも、「大本神諭』や『霊界物語」や、私の「御神示録』も、精神の流れを読まなければいけない。
精神の流れとは何か。たとえば、「バイブル』全体に流れている精神の流れというのは、神は愛なり、愛は神なりということだ。律法のための律法、法律のための法律じゃなく、神は愛のために律法をおろされたんだよということだ。
それが、バイブルを貫く精神の流れだ。その流れに沿って、バイブルの全ての言葉があるのだ。
「御神示録」も幾つか読んでみて、全体の流れを魂で吸収すると、自分に必要なことがぽっぽっと浮かんでくるというのが、これが正しい読み方だ。
「大本神諭」も同じ、「古事記」も同じ。法華経を見ても、一字一句にとらわれることなく、法華経精神の流れを読んでいかなきゃいけない。
そのようにして読んでいくと、自分の胸に響くものがぽっぽっと来る。そのように「大本神諭」を何度も何度も読んで私が思ったことは、ああ、神様って大変だなあということだった。
私たちはいろんな願い事とか、自分の苦しみや葛藤を、神様、神様とお祈りしているけれども、神様ってこんなに苦労しているんだなということが、しみじみと響いて来たのである。
神様は大変だ。「人民のほうがまだ楽であるぞよ」と書いてある。
「神と人民と比べたら、人民のほうが楽であるぞ。神に寄っかかって、神に乗っかって生きていけばいいのだから」と。
神様は朝から晩まで、いつもわかってくれようとわかってくれまいと人民の守護をしておられる。
出口ナオにおかかりになった艮の金神、国常立大神が、神の心をわかってくれよということを、切々と訴えておられた。
私は、神様かわいそうだなと思って、神様に同情したものだ。こういうことを、私は京都で過ごした四年間に学んでいたのだ。
二十歳で、神様の言う通りに生きると決意した
その私が二十歳のころに、世の中には、四十何億の人口がいたのだが、世の中にいろんな人間がいて、いろいろな人生があるとも知った。
人それぞれの人生がある。だけど私は、世の中でたった一人になってでもいいから、その神様が欲しておられるような人生を送ろうと決心したのだ。
病気で死んでいく人もいるし、事故で死ぬ人もいるし、これが戦争時代だったならば戦で死んでいくのだ。
いつかは死んでいく同じ一生涯なら、「筆先」を読んで感応した神様の御心を思って、私だけでもいいから、神様がこう生きてほしいと言う通りに生きよう。
自分の我だとか欲望なんか、あっても言わないで、最終的には何でも神様の言う通りに生きていこうと、決心したのだ。
だから、もう自分の人生は二十歳で終わって、あとは神様の思し召し通りに生きていこうと、その「筆先」を読んだ時に何度も決心したのである。世界中の人が、どんな人生を送っているかは知らないが、私はそういう人生を生きよう。
それがどんな道になるかわからないけれど、あまりに神様がかわいそうだから、私だけは、神様の言う通りに生きる人生を送ろうという決心であった。
今明かす女性と神様の板ばさみ体験
だから私は、大学時代はすべて神様のためにと思っていて、目いっぱいの学生時代を送った。
人が振り返って懐かしむような青春時代とは、ちょっと違うかもしれない。というのは、自分の青春時代というのは神様とともに生きていたから。
すべてが神様の御心に合うようにという心構えで、ESSという英語のクラブ活動にも打ち込んできた。
クラブ活動(ESS)は本当に忙しかった。一年生、二年生、四年生の夏は、毎年合宿を五度ずつやったものだ。
大学三年の頃は、ESSの委員長だったから八回合宿した。一回の合宿は五泊六日とか三泊四日とか。それを八回やったのである。アルバイトをする間がないから、親と弟にお金を借りて、大学四年生でアルバイトをして返した。
思い出すのも辛いのだが、私の母校である同志社大学、また中でも同志社の英文科はきれいな子が多かったのである。
「娘十八、番茶も出花」と言うけれど、番茶で出花じゃなくて、玉露が出花のような女性が多かったのだ。
容姿がきれいならいいというものではないが、キャンパスを歩いても、エメロンシャンプーの香りを漂わせながらルンルン歩く少女というのをわんさか見ながら、しかし、神の道に生きるんだ、とつぶやきつつ、ひたすら英語をしゃべりながらキャンパスを歩いたものである。
大学四年生のときにESSには四百人部員がいたから、その組織を改造するんだということに命を懸けた。
これが御神業だと思っていたからだ。他のみんなは、あっちこっち、あっちこっち、彼女をいっぱい作っていたのにである。
私の純な交際の始まり
大学二年生のときに、先輩から無理やりに「交際しろ!」と言われたこともあった。「おまえ、おまえのことをこんなに好きだというのがいるんだから、交際しろ!」と言う先輩が現われたのである。
それはKさんという人で、私はその先輩を尊敬していた。Kさんがそこまで言うんだったらと、私もついに交際することにしたのである。
その女性から手紙をもらったら、「心の片隅に置いてくれればいい」とある。「あっ、それならいいや」と喜んだのも束のしかし、そんなのは嘘だった。
何が片隅か、である。そのうち面白いことに、許せないという手紙が来たのだ。
「あなたを許せない、私は」「何ですか」「明るく元気に生きているのが許せない」と言うから、私もびっくりした。
どうしてなんだ、私が明るく元気に生きたらなぜいけないんだと、先輩に聞いた。私も若かった。
「先輩、見て下さい。この手紙、何で僕が明るく元気に生きていたらいけないんですか。暗く悄然として生きなきゃいけないんですか」
ところが、「おまえ、女心を知らんやつだな。自分が恋で葛藤して悩んでいるから、同じように悩んで葛藤してほしい女心がわからないのか」
「女心って面倒くさいもんですねえ。私は神様の道に生きているから、面倒くさい。明るく元気に生きなければどうしてクラブの活動ができるんですか」
「いや、おまえは、まだ大人になり切っとらん。そういう状況では、女は幸せにすることもできんし、ロマンも恋も成就せんよ」
「それでも、先輩、心の片隅でいいって言ってたじゃありませんか。片隅に置いているからいいじゃありませんか」
「そう理屈で割り切れるもんじゃないんだ」
今ならば、いろいろな人の相談に乗ってきた経験上、この気持ちもわかる。しかしこの頃は、「なんと理不尽なんだ」という思いでいっぱいだった。
私も未熟だった。絶えず手紙が来たり、弁当を届けてくれたりということはあったが、結局そのうちに終わってしまった。
青春時代のせの字くらいの恋である。多少なりとも青春っぽいムードになったのは一度きりだったが、これにも次のような悲惨な思い出があった。
鴨川の川辺で私の青春は守護霊につぶされた!
大学二年生の時、何かの帰り際に鴨川の川辺で二人きりになった時のことだ。ムードが出来上がってきて、今や若い二人が、キスをするかという瞬間までついに行ったのだ。
私の唯一の青春だ。その時までは、確かに青春時代だった。そうしたら、女の子がぱっと目を開けて、後ずさりした。な、何なんだ、どうしたんだ。
「私は、半田君にはこんなことしちゃいけないんだわ」と彼女は首を振りながら言うのだ。「なぜだ?どうしてなんだ?」と言うと、涙をぽろぽろ流して泣いている。
「わからない、わからない」と言って涙を流しながら、いきなりわーっと走って行った。「何
で?何で?」と、私も頭がクエスチョンマークになりながら、「何でなんだあ~」。その女の子がうわーっと走って、「わからないわぁ」と。
結局その子は行ってしまい、私はとぼとぼと川辺に戻ってきて、神様に祈った。これは一体、どういうことだ。私の何が悪かったのだ。
私は京都の吉田神社のすぐそば、京都大学のすぐそばで、溜め息混じりに夜空を見ていた。何でこんなことになるのかわからない。
女の子自身もわからないという。そして、お祈りしていたら、守護霊がブワップワップワッと出てきて、「わしらがしたんじゃあ」と言うではないか。
何というむごい仕打ちだと、私は石を投げつけた。鴨川にである。「何ていうことだ」、「何ていうことだ」と。
でも、それでいいんだ。こんなもんだろうと、自分を納得させた。こうなったということは、瞬間に相手に守護霊がかかったのだ。
そうだ、二十歳の頃に、自分の生涯を神様の思し召しどおりに生きるんだと決心したから、これでいいんだと思ったのだ。
こんなことで迷っていないで、神様の道とクラブと英語に生きるんだと思って、でも泣きながら帰って来たものである。
これが大学二年のことである。大学三年生、四年生の頃にもいっぱい辛い思い出はあった。
一つ一つは書かないが、結局は自分で想いを断ち切って、これでいいんだ、自分は神の道にすべてを捧げたのだからとまたあきらめた。
すてきな女性はきら星のごとくいたけれど、結局は自分の発願した修養を選んだり、選ばされたのである。
二十五歳の、植松先生との出会いのときまでに、神様が急ピッチで仕上げをしようとなさったのだろう。
自分が恋しいなあという心をねじ切って、ぶっちぎっていたのである。ESSの長として上に立つ人間が、女の子、女の子とうつつを抜かしていたらクラブの改革もできないから、己を慎もうと、恋しい心をぶわーっとぶっちぎった青春時代であった。
新聞配達でも修業はできる
さらに、組織の上に立つ人間は、己に厳しくなきゃいかんということで、朝四時に起きて新聞配達を始めた。
まず早起きだ、早く起きて体力もつける。それまで私は大体、秋の十月ぐらいになったらパッチをはいていたものだ。
冷え性だから、パッチと長袖のシャツである。要するに、地獄に落ちている先祖が多かったわけなんだが。
それが、この冷え性の己を克服しなきゃいかんということで、太陽よりも早く起きたら僕の勝ち、太陽よりも遅く起きたら僕の負けだと自分と勝負をして、「朝日新聞」の新聞配達をした。
これもトレーニングである。四時に起きて一年間、卒業するまでやっていた。
そうしたら、それから今日まで、真冬であろうと、いつであろうと、ずっとパンツとランニングでOKになっている。
今でもよほど真冬の神事以外は、パンツとランニングで乗り切れる。冷え性を克服したのだ。
その頃は「地上の天人は不言実行。不言実行、実行菩薩。不言実行、実行菩薩。地上の天人は不言実行だ」と口ずさみながら一生懸命ランニングしていた。
神様の御用に使って頂くんだと、毎朝四時に起きて神様にお祈りして、四時から二時間、四階建て、五階建てのマンションでもエレベーターを使わず、上がって下がって上がって下がって、自らを鍛えてから大学へ行っていたのである。
神様の御用に使って頂くためには、体力と精神力が要る。そうじゃなければ御用には使ってもらえないからと思いながら、毎日毎日ランニングしていた。
修業というのは、このように何をしながらでもできるものなのだ。
