大創運(Vol.5)

【第二章】守護霊が、創運を助ける

守護霊とは何か

前章で述べたように、あなたの才能や運気は、すべてあなたが前世で行った修業や、努力の積み重ねの結果である。そして、それに合った家運の家に生まれてきているはずなのだ。

そして、これらの才能や運気を開花させるには、あなた自身が、心の目を見開き、己の素質のありどころを知ることが大切だ。そうすれば、あなたが成功を収める条件の半分は、ここにすでに整ったことになる。

あとは、みずからの才能を磨くための努力をすればいいと言いたいところだが、実はそれだけでは不足である。

サラリーマンを例にとってみよう。朝、目を覚まし、「今日も元気でやるぞ!」

ジョギングをしてシャワーを浴びて、気分爽快な状態で家を出る。会社には定時より三十分前に着き、仕事のための心の準備をする。

勤務時間には一心不乱に仕事に没頭し、残業もいとわない。社内の冠婚葬祭には、率先して世話係を務めるし、時には若い社員を引きつれて飲み屋にでかけ、職場の融和を計る。上司にも部下にも大いに信頼される、サラリーマンの艦のような人物だが、こういう人物が出世するかといえば、必ずしもそうではない。

係長から課長あたりまでは、順調に階段を昇ったものの、それからバッタリという人は結構いるのである。そのあげく、ふと気がつけば、窓際、壁際に追いやられ、せっかく仕事への意欲を湧かせていても、力を発揮する機会も与えられない。

結局数十年間、会社のために努力したのは一体何だったのだろうかと、むなしい思いにひたるしかないのだ。古いタイプのサラリーマンの哀話である。

最近の若い人たちはどうだろうか。寄らば大樹の陰という思いを抱くことに関しては、旧世代のサラリーマンと変わるところはないが、そこから先は違う。

会社のために、全人生を賭けてもたかが知れている。部長はともかく、重役社長になれる人間は一握り、それも、仕事の能力だけを評価されての出世ではない。学閥、人脈、閨閥けいばつなど、もろもろの要素が絡まり、そのうえ、世渡り上手でなければ無理である。

言いたくないお世辞を言い、木下藤吉郎ばりに上司に仕え、ゴマをカリカリすり続けて、重役の地位を得ても、一体どれだけのものなのか。

そんな出世争いをするよりも、社内のその他大勢の中に身を置き、会社で消耗するエネルギーを適当に節約し、休まず遅れず働かず。いや、与えられた仕事だけは義務としてこなすが、それ以外はしらんぷり。

勤務時間が終了したら、さっさと会社を出て自分の個人的生活を充足させようとするのが、新人類サラリーマンのパターンだそうだ。古いタイプと新しいタイプのどちらにも、良い面と悪い面とがある。

古いタイプのサラリーマンの、努力する気持ちは大切なことだが、自分の力と出世の意欲だけに頼り切ろうとするところに誤りがある。だから、「自分はこれだけやったのに、何の見返りもないではないか」という不満が生じるのである。

若いタイプは、人間一人の力と自己の限界をクールな目で見ている。「オレがやった」ということは、つまるところ自己満足でしかないことを見抜いているのだ。ただし、努力を怠るということは、決定的な考え間違いである。

ここで、「前世から受け継いで才能や運気を開花させるには、努力だけではだめである」ということを思い返してほしい。

努力はしなければならないが、前述のごとく徳性の涵養が必要となるのである。他には天徳、地徳、人徳とがあるが、授かるのに時間がかかる。

そこで、誠で祈れば即授かる徳があるので紹介しよう。それが神徳である。厳密に言えば、天徳の一部であり、神徳もさらに厳密に言えば、神霊の徳と霊徳とに分類される。だからこれらを活用せず、自分の力だけを信じて生きれば、むなしい結果しか得られない。

努力をしつつも、己の力の至らなさを認める謙虚さ、クールさ、そして出世の意欲。つまり古いタイプと新しいタイプのサラリーマンの考え方から、いい部分だけをピックアップしてみればどうなるのか。必ず神霊界から、その人の誠に感じて援軍がさし向けられる。この援軍が守護霊であり、その霊徳なのである。

守護霊はあなたの教育係

「修業だ、努力だ」ということは、たいていの人が苦手とするところである。

「修業して努力して、いい結果が出るのは当たり前。なにもしないで、幸福を得ることができないかと思って、この本を買ったのじゃないか」とお怒りになる人もいるだろう。何もしないでとは、少々虫がよすぎると、一言苦言を呈して、改めて修業・努力に触れるが、実際のところ、それほど大げさに考える必要はない。

たとえば、私の著書を書店で見つける。何気なく手に取りパラパラとめくる。面白そうだなとレジに足を運んだ段階で、あなたはすでに創運のための修業、努力をしていることになる。そして、過去の私の著書を取り寄せようとするならば、もうあなたは大創運の人だ。

また、たとえば、人に悩みを訴えられたとする。お互い首をひねってもよい解決策はみつからない。

「ごめんね、何の力にもなれなくて」と、自分の無力ぶりを申し訳なく思ったりする。だが、あなたは決して無力ではない。悩みを聞いてくれたことで相手の心は、相当にすっきりしたはずである。

その上、悩みを聞き、ともに考えたという行為はあなた自身の努力であり、また修業なのだ。確かにことの解決には至らなかったが、あなたは心の中で相手と悩みを共有し、時々繰り返して考えるはずである。これもまた、あなた自身の修業と努力なのである。

私たちの周辺には、さまざまな状況が展開される。それらの状況から目をそむけないという心構えを持つことだけで、あなたが「何もしない」ということにはならないのだ。

どうだろうか。修業だ、努力だという言葉の堅苦しさが随分となくなりはしませんか。それにしても、「そのような微々たる努力でいい結果を得ることができるかしら」と新たに不安を抱く人もいるだろう。

心配は無用である。

あなたには、前世から引き継いだ素質があり、その素質が才能として開花する教育係がいる。教育係は、あなたの努力する姿勢を観察して納得すれば、親身になって面倒をみ、励まして、よい結果へと導いてくれるのだ。

前世とは、あなたの過去の魂の存在である。

人は父と母とによって誕生するが、その魂は、はるか過去の自分から受け継がれている。その過去の人は、あなたの家系をたどればどこかで接点を持つことも多いが、血統的にまったく無関係な場合もある。

その魂がなぜあなたの肉体に宿るかは、神の意志とあなたの魂の選択であって、私たち人間の顕在的意識の理解範囲にはない。ただし、地獄界である程度まじめに修業して、肉体をもって生まれてきたほうが早く改心できるので、許されてこの世に生まれてくる人もいる。

そういう場合は、神様の意志が一方的に働き、人の魂の選択は許されない。ちょうど、優秀な人の栄転に際しては、ある程度本人の意向や意志を打診してくれることもあるが、左遷の場合は一方的であり、問答無用であるのに似ている。

ところで教育係とは何か。あなたが、この世での生を全うするように見守ってくれる守護霊である。この霊の力の強弱によって、あなたの運勢も変わっていくが、霊力の強い守護霊がつくかどうかは、徳分によって大体決まっていることも多いが、ただ今のあなた次第で変わり得るのが原則である。

つまり、あなたの生きる姿勢によって、強い霊力を持つ守護霊がつくか、いささかボンクラな守護霊がつくかが、最終的に決まるというわけだ。

以上の関係を整理してみよう。

①…あなたは、前世の魂を受け継いでいる。
②…この魂のもつ素質があなたに受け継がれている。
③…その素質がいかなるものかは、あなたは知らないが、ある時、ふとした思いにとらわれる。
④…ふとした思いから、あなたの関心が向いたところに、素質がある。
⑤…関心が向いたあなたは、関心を満たすための努力をする。
⑥…守護霊が、その努力ぶりを見て力を貸す。

おわかりいただけただろうか。あなたは自分一人だけの力で自分の運を切り拓かなくてもいい。やる気を見せ、祈り、守護霊の存在を強く確信するだけで、守護霊はあなたを導いて成功への道を歩ませてくれるのだ。

守護霊は四つの魂として働く

運がひとたび働くとき、四つの魂の活動として表れる。これを一霊四魂と呼ぶ。

四つの魂とは、奇魂くしみたま幸魂さきみたま荒魂あらみたま和魂にぎみたまであるが、これらの魂の働きぶりやその特性を戦国の武将にたとえると、わかりやすいだろう。

智を司る奇魂は織田信長(1534~1582年)である。優れた直観力と性格で、群雄をなぎ倒し、覇権を目指していたが、大望を果たす直前、明智光秀の謀反により生命を落とした。

奇魂が過敏な人は、往々にしてヒステリーであり、神経や体質が過敏すぎる場合が多い。愛を司る幸魂は、上杉謙信(1530~1578年)にたとえられる。

ざきょうしん

知略のみならず、義侠心ぎきょうしんに富んだ武将であり、武田信玄と戦いの中であっても、「敵に塩を送る」という、男らしさと慈愛に満ちた性格を思わせる逸話を残した。

将軍足利義昭の命を受け、織田信長征討に立ち上がったが、その途中で急死した。もし、織田、上杉の戦いが起きたとすれば、日本の歴史も相当に変わったかもしれない。

忍を司る荒魂は、徳川家康(1542~1616年)にあたるだろう。

幼少の頃は、織田、今川氏の人質となるなどの不遇をかこっていたが、十八歳になる頃から、ようやく、その能力を発揮するようになる。信長死後、羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧、長久手の戦いで対峙したが、その後和を結び、秀吉の天下統一に協力の姿勢を示した。

しかし、秀吉没後は、その狸爺たぬきいと表される老獪ろうかいさで勢力を拡大し、関ヶ原の戦いに勝ち江戸幕府を開いた。

和魂は、豊臣秀吉(1537~1598年)である。

幼少時、家を出て諸国を放浪した後、織田信長に仕えたが、快活な気性と機知に富んだ言動で、信長の寵愛を受け、出世を重ねた。信長の死後、諸大名を抑え天下統一を果たし、栄華をきわめる。

歴史の流れからすれば、ほぼ同時代に活躍したこれら四人の英雄の中で、最終的な成功者は、徳川家康ということになる。

しかしながら、貧困の生まれから天下統一という大事業を成し遂げたエネルギー、そしてその人間性を合わせ考えれば、秀吉こそ、本当の意味の成功者ではないだろうか。だが、結果は不運であったが、天下統一の大事業の七割をやり上げたのは、ほかならぬ信長である。

これら一霊四魂をまとめてみると、奇魂は智恵であり、創造と開発を行う神魂である。荒魂は勇気であり忍耐であって、それを地上に完成させ成就させる魂なのである。

幸魂は愛であり、「サキタマ」であって、先頭に立って切り開いていくこともある。和魂は和であり、親であって、全てをたばねて融和させていくのである。

この四魂を統率すは奇魂であり、地上で最も価値あるものは、完成成就させる荒魂なのだ。また、和魂は人間関係を善に向けさせ、神意と自然の道に人を導く魂であり、バラバラのものを完成成就に向けてまとめ上げ、結びつける役割もする。そして、幸魂こそが愛であり、情であり、神仏を動かしうる最も麗しい魂なのである。

先の戦国大名の話はたとえであり、厳密に言えば、一人ひとりがこの四魂を全て備えていた名将ばかりである。四魂のうち、最も色濃く出ているものはどれか、ということで分類したものにすぎない。

悪因縁を克服させる守護霊の力

松下電器の創立者である松下幸之助氏の名はみなさんご存じであろう。私の著書でもたびたび、氏のことについて述べさせてもらっているが、改めて触れてみよう。

松下氏は明治二十七年、きわめて貧しい家庭の子として生まれた。幼少の頃は、病弱であったという。当時の貧困家庭の例として、十歳になるかならぬうちに、丁稚奉公に出され、その後、電器工場の職工となった。このことが氏の開運のひとつのきっかけとなる。

与えられた仕事をしながらも、氏の頭脳はめまぐるしく回転した。もっと便利な製品はできないだろうか。

人の生活を心地よくするための製品を作りたいという氏の願いは、まず二ソケットを生み出し、爆発的な売上げによる利益で、みずから会社を設立し、数々の新製品を作り出していく。昭和三十年代の家電ブームが氏の事業に拍車をかけ、松下電器の業績はうなぎ登りに上昇し、いまやナショナルは世界のブランドになっている。

氏の成功の要因は何であったか。

もちろん、地道な努力が大きな要因ではあるが、その前世から受け継いだ素質と運気が大きくものをいっている。氏の前世は誰か。十四世紀、中国で明帝国を樹立した朱元璋である。朱元璋は、貧民の生まれで十九歳の時、飢餓と伝染病により、親兄弟を失い天涯孤独の身となった。

やむなく托鉢僧たくはつそうとなって、諸国を巡るうち、友人に誘われて兵士となる。

幾度かの戦役で殊勲をあげ、軍人としての能力を発揮した彼は、軍の総指揮官となり、(モンゴル)軍を討伐した後、帝位についた。

明の皇帝としての彼は、漢人による王朝の回復、国家組織の整備など、数々の業績を残し、賢帝といわれたが一三九八年、七十一歳でこの世を去った。

没後五百年、彼の魂は松下幸之助氏に宿ったのである。松下氏と朱元璋は、その生い立ちや、志の高さ、逆境から立ち上がるエネルギーなど、数々の共通点もあり、その風貌も似かよっている。

しかし、反面、朱元璋は軍人としての必然とはいえ、己れの権力確立の過程で、多くの人々を殺戮してきた。この点は、今世の松下氏にどのような影響を与えてきたのだろうか。

軍人としての才能は、その経営哲学の中に現れている。企業戦略を推し進めることは、軍略以外の何物でもない。その証拠に経営者は「孫子」をはじめとする兵法書をよく読んでいる。人を殺したという行為については、その幼少時代の境遇に現れている。貧困、病気、無学歴という三重苦にあえいだのは、朱元璋の犯した罪が原因なのである。

松下氏は、前世からの才能を受け継ぐと同時に、罪という悪い要素=悪因縁も受け継だが、悪因縁を何とか克服し、成功への扉を開いた。

悪因縁を克服するには、みずからの努力、修養で徳を積まなければならないが、実はそれだけでは不足である。

前世の罪を後世の人間がつぐなうのは、苦しむことであり、たとえてみれば、高校野球で、先輩の罪を後輩がかぶって、試合出場を辞退するようなものである。まことに不条理。この不条理を苦しみながら乗り越えようとする時、霊界から支えてくれるのが守護霊の役割のひとつなのだ。

私が天眼視したところによれば、松下氏にはその数、2300~2500という大守護霊団がついていた。この守護霊の大半は中国人であるが、敬神の情深き松下氏に対し、彼らが朱元璋の悪因縁を絶ち、彼を成功へと導いていったのである。

繰り返すが、もちろん、本人の努力なくしては成功はあり得ない。しかし守護霊の力を借りなければ、これもまた大成功を得ることはむずかしい。つまり、本人の努力が、守護霊を呼び、両者の力が相まって初めて、実りを得ることができるのである。

天国に入る方法

守護霊は、私たち一人ひとりをバックアップし、教育し、幸せへと導いてくれる。それに対して、私たちは、感謝の意を捧げなければならないが、それ以上のお礼はしない。いや、しょうがないといった方がいい。相手は目に見えぬ霊的存在であって、金品や食事など形あるものを差し上げても喜ばないからだ。

守護霊の無償の愛に甘えるようで心苦しいと、律義な人は思うかもしれないが、それは取り越し苦労というもの。

守護霊が、応援するという行為によって私たちが立派になり、人々に益するような人間に育ったなら、それが守護霊にとっても、霊界で徳を積んだことになるのである。そして、主神から愛と歓喜と功候をさずかり、それなりに報われるのである。

神霊界には、この世の仕組みと同じように階級、階層が存在する。

この世では「人間は平等である」として、階級、階層を打破せねばならぬと考えられている。しかし、これは主に経済的格差、人種差別のことであって、その人の魂のレベルの問題ではない。

魂の在りどころについて考えるとするならば、高貴な魂の持ち主、下劣な魂の持ち主と、明らかに階層は分けることができるし、このことに平等思想を持ち込もうとする人はいない。正しい神の理による基準により、その魂の向上レベルに合わせた応報が行われるので、結果として不平等になることが、真の平等となるからである。

神霊界の階級、階層も、経済や人種によるのではなく、魂の錬磨の度合いによる輝きや、徳分功候の質、量によって分けられるのである。

この功候については、拙著「大天運」(たちばな出版刊)を参照されたい。

では神霊界とはいかなる組織になっているのだろうか。

私たちが神霊界と呼ぶ世界は、神界と霊界を総称していう世界であり、いわゆる目に見えない世界のこと全てをさすのである。

一般的によく使われる天界というのは、神界の最上部のことを表わすのが本当であるが、巷で使っている定義をよく分析すると、霊界の上部である天国界のことである場合がほとんどだ。

そもそも本当の神界や天界とは、一部の例外を除き、人間の霊が行けるような所ではないのである。ところで、私たちの霊が通常行く最高の所は、天国界である。その最下層に地獄界がある。地獄界のことは後ほど述べよう。

天国界は大きく分けて三つの階層があり、第一天国、第二天国、第三天国と呼ばれる。人は死ぬと、天国へ行く者と地獄に落ちる者とがふるい分けられる。ただし、地獄に落ちるのは、相当な悪行を重ねた者に限られるから、少なくとも、この本を読まれる人は心配しなくてもよい。

もっとも、天国行きのキップを手にしたからといって、喜んでばかりもいられない。

天国の入口には審査官が待ちかまえていて、天国のどの階層に配属するかを決めるのである。この世で行った善行と愚行をチェックし「まあ、難点がないわけではないが、善行を行った方が多かったことは確かである」と、認定された人は、第三天国に入れられる。

第三天国に行く人は、金や財産を恵まれない人に贈るといった、いわゆる慈善行為を行った人たちである。これならたいていの人に経験があるはずだ。

第二天国には、神の道を極めようと努力し、生涯を、世の人々のために捧げた人、高潔で、学識豊かな人たちが行く。

第一天国は、神の道を極め、同時に富も名声も手に入れ、しかも、それらを神のため世の人々のために善用した人のみが、入ることを許される世界である。

では地獄に落ちる人とはどのような人か。

みずからの幸福のみを追求し、他人の幸福については、まったく関心を払わなかった人である。

一代で莫大な財産を築き、死の間際でそれらの財を、貧しい人々のために寄付したとしても、その財が、やましい行為によって築かれたものであれば、神はお許しにならない。地獄の沙汰も金次第というが、こと霊界では、通用しないのだ。

地獄界には、物質界を支配している魔王たちが住み、金や財産に固執する人たちをさいなみ、財産を巻き上げる。この世でいくら成功した人でも、地獄界では丸裸にされてしまうのである。

あなたは、充分に善行を施したつもりで死の世界に足を踏み入れる。ところが、気がつけば地獄にいたということもある。

これは、善行を行う動機を神に見破られたためである。

たとえば、人のために尽くしたといっても、まず自分が幸せになることを追求し、己れの安泰を計ってから、他に手をさしのべるのであれば善行とは認定されないのである。

いわば、食べ残しを人に施して「御馳走した」というに等しい。これは、発するところの思いがエゴであり、慈愛や誠意でなかったからである。霊界とは意志と想念の世界なので、それを為す時の想いが、まず大切となるのである。この他に、善行と勘違いしやすい、擬似善行に当たるものを列記しておこう。

①…独善
一人よがりのことである。よかれと思っても、まったく相手のためにならない行為は、独善に基づく広い見識を持たぬ人は、自分の偏狭な判断力で行動するから、しばしば独善に陥るのだ。独善は、真に人々と世に益さないから、善徳とはなり難い。

②…独善
己れの罪、悪行をごまかすために善行を積もうとすることである。このままでは地獄に落ちるのは目に見えているからと、あわてて神信心をしたり、人の世話をしたりする人がいるが、このような自分本位の人に対して、神は厳しい態度をお取りになる。極端に言えば、悪行までならまだ許せても、悪行に偽善の皮をかぶせる行為は許されないのだ。

全て、海王星にある偽善地獄へと落とされる。正確に言えば、自分の内面性の真実の部分の所へ、自分が自分で行くだけである。

私も霊界探訪したことがあるが、デビルマンやブラックデビルのような不気味な人間がウヨウヨいて、身の気がよだつ嫌悪と寒気だったのを覚えている。特に、口が耳までさけてバケ物のような顔をしている人が多かった。二度と見たいとは思わない。

③…小善
子どもの世界ではよかれと思っても、社会から見れば、むしろ悪であるということがある。あるいは一国の善が、世界の善に反する場合もある。善悪の判断は大局的になされなければならないのである。

また、小さな善が積み重なれば、大局的な善になるというわけでもない。トランプや花札のゲームにあるように、突然プラスがマイナスになり、マイナスがプラスになることもあり得るのだ。巨視的に全体を眺めることをせず、目先の善ばかりにこだわっていると、大きな善が見えないことになる。

これらのことを認識し、善とは何かを考え続けることが、あなたを天国に導く方法なのだ。だが、そう言われるとますますわからなくなるだろう。善と思っても悪かもしれないと思えば、善行を行うのがこわくなるはずだ。だが心配はご無用。

そのことさえわかっていれば、神様だってよくご存じなのだ。発するところが慈悲ならば、そのつど、そのつど神様からチェックしていただくよう謙虚に反省して、一歩一歩大善に、少しでも偽善を排し、なるべく独善をさける努力をするだけでよいのだ。

そのプロセスこそが霊的進歩であり、御魂の修業なのである。だから、良いと思ったことはドンドン積極的にやるべきである。そして、もし誤りに気づいた時は、素直に反省してあやまれば、神様は即許してくださる。失敗を恐れないで善に立ち向かう気持ちを、神様は第一にで、至誠なりとお受け取りになるのである。

日本人は霊的咀嚼力に優れている

明治時代の美術思想家であり、教育者であり、またボストン美術館の東洋部長を務めた岡倉天心は「東洋の思想」の中で、「日本は世界の博物館である」と述べている。

あらゆる文化が日本に流れ込み、しかも、現在まで生き続けているという意味である。たとえば、茶道は七世紀、中国で興ったもので、栄西が日本に持ち込み、現在の隆盛へとつながっているが、今の中国には存在しない。

アラビア文明の結晶である芸術品も、シルクロードから日本に持ち込まれ、正倉院に残されているがアラビアにはほとんど残っていない。

仏教はインドを発祥地として拡まったが、栄えているのは日本のみ。あとはスリランカ(セイロン)、タイなどで細々と命脈を保っている程度で、発祥地インド、日本に伝来するルートであった中国には、遺跡が残っているだけである。

こういった文化、あるいは宗教がなぜ日本に残るのか。ひとつの宗教、文化が他の宗文化を征服するという形をとらず、お互いが巧みに融け合ってしまうからである。日本の神霊界も同様で、その特色を一言にして表せば、初めと終わりが出されているのである。真ん中とプロセスがないので、外国から輸入しているのだ。

ところで初めとは、太古の歴史の発祥であり、神霊界の玄極は、まず縦長でスパイラル構造になっている日本神霊界に表れて、横広のヨーロッパ神界やインド神界、中国神仙界へと写し出されていくという意味である。

終わりとは、外へ写し出されたものを引き寄せて集大成し、完備させる霊徳があるということである。

これを菊の御紋にたとえることができる。この菊の理を回っているのが、白山菊理姫の大御働きなのである。文化も宗教も今や先端技術も、日本にきて一厘が足されて完成するのである。それは、日本の歴史を見れば一目瞭然である。

そういう霊的土壌のことを、日本神霊界の顕現としてとらえ、特質と考えてもよいのである。

次に、日本神霊界を情感や思想の面から見てみると、全ての初めとしてある白色無想に近い感性の上に、ユダヤ教的要素、キリスト教的要素、イスラム教的要素、仏教的要素、さらには老荘思想が混じり合って、壮大な神霊界ができあがり、独自な日本文化や日本人の情緒のとして仕上がっているのである。

さまざまな宗教の良い部分、合理的な部分、納得できる部分の集大成であるから、万人に理解できる大らかさ、豊かさ、なじみやすさがあるのである。私がこうやって、本を書き、また講演でみなさんにお話をしているのも、実はこの点を理解してほしいと思うからに他ならない。

他の宗教を批判、攻撃するのではなく、七福神の精神で、みな仲良くやれば、魂の進歩と現世利益も得ることができる。

お互いの融合を第一に考えれば、世界が開けるのだ。このことを実行するには、それなりの修養が必要だが、同時に霊的咀嚼力も持たなければならない。

つまり、理屈や論理の理解力だけでなく、善なる心で、広くあまねく、理解の光を当てる能力を持たなければならない。これが日本的な霊的咀嚼力である。一億二千万人の日本民族は、霊的咀嚼力に関しては世界に冠たる国民といってよいだろう。

霊的咀嚼力は、私たちの日常生活の中でも大きな力を発揮している。一九七一、二年初めの石油ショックは、世界の経済構造の根底を揺るがせる大事件で

わが国も大きな打撃を受けたことは記憶に新しい。一部の我利我利亡者がりがりもうじゃの扇動にのって、トイレットペーパーを買いに走った人もいただろう。だが、そのパニック状態から、いち早く立ち直ったのは日本である。

産業構造を変え、先端技術を武器として、たちまち、世界一の経済大国にのし上がったのである。日本のGNPが、世界のそれの十%に当たることはすでに述べたが、その域に達すると日本の文化、言語、風俗が世界に大きな影響をおよぼすといわれる。

かつての大英帝国、そしてアメリカが強大な力を世界に及ぼしたのと同様な現象が起こる可能性があるのだ。世界のGNPの十%を越える国家が、そういう影響力を持つというのは、歴史的統計の結果である。

ただし、言語の面では、英語のように国際共通語になることはあるまい。文法、そして文字の形があまりに違いすぎるからだ。したがって単語のみが、国際的に通用することになるだろう。

文明の面では、すでにさまざまな形で世界の注目を浴びているが、最も重要なのは、わが国の神霊界に対する思想である。この思想を世界各国の人々が理解するようになれば、国家間、民族間のいがみ合いがなくなり、紛争の火種も消滅する。

しかし、自分達のやり方がぶつかってぶつかってどうすることもできなくなるまで、決して日本神霊界のやり方を学ぼうとはするまい。世界中の行き詰まりの最後に、の仕上げとして迎えられるだろう。

「初めと終わり」「初発と仕上げ」が、日本神霊界の使命であるからだ。ところが、イエロー・モンキーといわれた日本人そのものは、どのように評価されるのだろうか。

経済摩擦などから、ともすれば私たちが世界の孤児化の道を歩んでいるようにいわれるがこれは正確ではない。日本人の勤勉さ、正直さを認める人が多くなっているのだ。

また、その道徳心の高さにも敬意が払われつつある。

円高の影響もあって海外旅行にでかける人が多いが、かつては、ジャパニーズもチャイニーズも同じように見られていた。しかし、今は、日本人が中国人と間違えられることはあまりない。

行動は整然としているし、公衆道徳はしっかりと守る。中国人のようにワイワイガヤガヤ、バスに乗り、ツバを吐いたり、ゴミを投げるようなことはしない。静かに、素直に、コンダクターの指示通りにバスに乗っている。そして、身なりが美しくてお金をかけているからだ。一目見て、「ああ、日本人だな」ということが分かるのである。

日本人の国民性、文化、伝統は数十年にわたって醸成された酒のようなものである。二千年の長い歴史の中で充分に磨かれ、純化され、しかも、豊かな味と香りに満ちている。

今のところは経済が先行しているが、その素晴らしさを世界の人が認める日は近い。

特に、歴史の新しい国の人々にとっては、古い、伝統があるというのは価値があり、力があるということなのである。日本人がそこにもっと目を向ければ、国際社会の中で、より尊敬に値する人々となることは間違いない。自分を見失わないようにしたいものである。

神霊界の仕組み

守護霊の存在を信じれば、その人の運は上向くといった。しかし、読者の中には「信したくても、守護霊とは何いから信じようがない」という人もいるだろう。

そこで守護霊および守護霊のいる霊界、さらには神界について、簡単に説明しておこう。

理解を深めてもらうために、建設会社という組織をイメージしてほしい。あなたは、東京のど真ん中にある先祖伝来の家屋敷に住んでいる。ところが屋敷を持していくのが困難になった。

どうしたものかと思案しているところに、建設会社の営業マンが訪ねてきた。

「このお宅、どうするおつもりですか」「どうするもこうするも、いい知恵があったら教えてほしいよ」さればと営業マン、カバンからさまざまなパンフレットを出しながら、「土地にマンションを建て、一階をみなさんの居住区にし、二階以上を分譲もマンションにされたらどうでしょう。この土地ならば十分に採算が合うし、老後の生話も保障されます」

最近は、建設会社、不動産会社ともに悪役にされているから、あなたも、即決断する気にはなれないはずだ。

けれども、建設会社がすべて悪いというものではない。あなたのところを訪れた営業マンの会社は、信頼と実績を誇る優良会社であることが分かり、少し、心が動かされる。すると営業マンは、もう一人、彼の同僚を連れてきて、「どんな御相談にも応じますから、じっくりと考えられたらいかがですか」という。

二人の営業マンと頻繁に連絡を取り、研究してみると、なるほど、マンション建設もまんざら悪い話ではない。

「本気で考えてみようかな」「そうですか。今度、上司を連れてきますので、その上で話を煮つめさせてください」

この営業マンのように、人の相談に乗る窓口の一人にあたる存在を、霊界では、背後霊と呼ぶ。そして、営業マンをまとめる上司、たとえば営業部長のような、背後霊の責任者的存在が守護霊ということになる。

さて、あなたのマンションの設計が始まり、責任者は営業部長から設計部長へと替わる。つまり、守護霊が替わったわけだが、人間の一生の間に、守護霊は何回か交替する人間は歳に応じて必要とされるものが変わってくる。

十代の前半までは、肉体の鍛練が第一であろう。この時につく守護霊は、武芸に秀でた武士の霊などであることが望ましい。

本人が意欲的で元気であればあるほど、武芸の腕の達者な守護霊がつく。

十代半ばから二十代前半は、人生の中でもっとも学問が身につく時期である。この時には、学者などの守護霊が指導にあたる。向学心に燃える人には、歴史に名の残る大学者の霊がつくこともあるが、勉強が苦手、スポーツ大好きという人には、武芸の達人の霊が続けて面倒を見ることもある。

二十代に到り、実業界に漕ぎ出す時には、商才に長じた守護霊、多くの従業員をかかえる企業家になった時は、戦略にたけた軍人が守護霊となる。晩年になり、来し方をじっくりと振り返り、思索にあけくれて、人生の有終の美を飾らんとして励めば、思想宗教家の霊が守護霊となる。

守護霊の交替は、人の人生の節目節目に行われるわけで、たとえば江川投手が引退し、レストラン「キリンコ」の経営一筋に打ち込もうとしたら、弓の名人である武芸者から、商人の霊の守護霊に替わることだろう。

話をマンション建設に戻す。現場は活況を呈し、営業マン、設計部員、現場の工事従事者、さまざまな人が出入りしている。これらの人々の動きを管理しているのは、各部署の責任者、先ほどの例を引けば、営業部長や、設計部長=つまり、守護霊だが、その守護霊を統率する人物、企業でいえば取締役クラスを、霊界では、守護神と呼ぶ。

守護神は、つく人の生年月日によって定められるという説があるが、そうではない。

つく人が前世で、崇拝していた神や、先祖代々お参りしていた八幡様や、産土様、あるいは氏神様が守護神となることが多い。これらの詳しい話については、次回の出版に委ねたい。

また守護神は、守護する人の前世、現世、来世の全体にわたって見渡している立場にあり、時々に応じて、守護霊たちに正しい指示を与える。守護霊の人事異動の決定もこの神様がなさるのである。そして、この守護神の決定は、産土神(鎮守様)の媒介によってなされることが多い。

ところで、守護神つまり会社の役員を束ねる社長であるが、これは守護神の中で、その系統の神々の最高位にある神に該当する。即ち大国主之尊おおくにぬしのみことの和魂雲立彦くもたちひこならば、大国主之尊が元締めとなって、社長のようになっているのである。

また、仏を守護神と呼ぶ場合もあるが、如来や菩薩は守護霊の中でも最高位におられる存在として敬われている。日本人の場合は、決して神と名づけるべきではない。

日本にはいくつかの企業集団がある。旧財閥系で言えば、三菱、三井住友、安田といったグループである。建設会社の多くもこれらのグループに所属しているが、企業集団のトップとして、全体の様子を見られているのが、通常人々が神と呼びならわしている存在である。

たとえば鹿島の神がA建設株式会社、香取の神がB土木株式会社、少名彦の神が、 C コンピュータ株式会社の代表取締役といったところである。

これを、世界企業や外資系のコングロマリット企業集団と考えれば、ユダヤ資本系の企業集団の長は、ヤーベの神であり、米国やヨーロッパの民族資本系のコングロマリッ集団の長はエホバであり、OPECやアラブ資本系の企業集団の長は、アラーの神である。

日本では天照大御神が、いわば日本神霊企業集団の代表者ということになる。

さて、これらの神々が究極の存在であるかというと、日本の場合に限って言えばそうではない。天照大御神の背後には、北極神界があり、さらにその奥には白山神界があり、そのまた奥にも玄々微妙の神界があり、そのまた奥にもある。そして最終的には、宇宙創造の主神であられる絶対神の神が存在する。

これが神霊界の仕組みなのである。人の世にも、さまざまな階層があるが、これは神霊界の仕組みのミニチュア版と考えてよいのだ。