大創運(Vol.6)

【第三章】守護霊を味方にする法

■ 自力本願の犯す過ち

自力本願の犯す過ち

仏教用語で自力本願という言葉がある。

自分一人で修業を行い、徳を積み、知恵を磨き、しかして、念願を達することである。

自力本願を旨とする宗教には、天台宗、真言宗、禅宗などがあるが、いずれも厳しい修業で知られている。

最近流行しているのが、想念術、メディテーション(瞑想)、イメージコントロール、あるいは大脳コントロールといった自己能力開発法である。

これらは言ってみれば、自力本願、みずからの力でみずからの中で眠っている素質を開発させようというものだが、私の目から見れば、その成果は芳しくない。

なぜなのか。自分だけの能力を頼りにしなければならないから、おのずからエネルギに限度がある。そしてまた、自分の持つ能力で自分を開発するのであるから、一種の自己矛盾に陥る。自分という枠に頭をぶっつけてしまえば、それ以上に伸びようがない。箱に閉じ込められたみたいに、自分の枠の中であがくことになるのである。

さらに、悪いことには、ひたすら我が強くなる。何でも自分で処理をしなければという思いにとらわれて「俺が」「俺が」という自己主張をするようになってしまうのだ。いっそう悪いことには、自分自身で修業ができたと思い込んでしまう結果になることである。

客観的に言えば、以前の本人と、今の自分とはまったく変わってないにもかかわらず「修業をしたんだ」という思いで自己満足をしてしまう。

自信に満ち満ちた顔で胸を張り、外にでて見れば、いきなり目の前に壁がある。体をぶっつけてもその壁を壊すことはできないし、跳び上がっても、壁を乗り越えることはできない。その時初めて、それらの修業が何の役にも立っていないことに気づき、ガックリとめげてしまう。

これでは、自己開発どころか自己嫌悪に陥るばかりである。それでも、真剣にやれば少々の環境改善ぐらいはあるだろう。

だが、礼節をもって、その道と事柄に詳しい人に頭をさげれば、誠意を感じて人は助けてくれるものだ。一匹狼的な世渡りより、多くの人の引き立てを受けて生きた方が、よほど楽であり幸運なはずである。

努力をしても絶対的好結果を得ることはできないという無意味な行動をなぜ取るかと言えば、現実界、霊界、そして神界の仕組みを知らないためである。

日本人の御魂もその守護霊たちも、ましてや神霊たちは日本神霊界に籍を置くものである。この日本神霊界の価値規準が、「素朴で素直が第一等、清らかで真摯なのが第二等。至誠の日々を送るのが第三等」なのである。

だから、素朴で素直な人が、清らかな目差しで真摯な態度をとり、至誠の日々と行いがあふれそうになった気風を備えて、言葉を丁寧にお願いをすれば、神も仏も守護霊も、親戚縁者も友人も、別れた女房も飛んで来て、あらん限りの協力をしてくれるものなのである。

それが日本神霊界の最も貴い美徳であり、価値ありとされているものなのだ。ここはインド社会ではないのだ。文化構造も歴史も違う。インドでは是でも、日本に来たら否となることだって多い。だから、自念力を強くする修業は、日本の神霊界の第一義の道に合わないので、神々からも、祖霊からも、人々からも忌避される傾向にある。

ただし、日本神霊界のおおらかさの中にそれらが溶け込んでくれば、「人生に素敵な夢をもって、神々とも夢の中で逢おう」、というスーパーメルヘンや童話の世界を大切にする心となり、幸運と神々とのパイプを太くする糧ともなる。つまり、軽やかで美なるものへと昇華されていくのである。

ところで、前述した神霊界の仕組みを知り、守護霊の存在を知れば、無理の多い努力はしないですむ。

ひとまず頑張ることを前提に、守護霊に教育をお願いする。

自分もやりますからどうぞ手助けをしていただきたいと、いうなれば守護霊に対して甘えてみれば、世の中の景色はがらりと変わり、また、素質も開花するのである。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。自分はトコトン努力したから、あは神の御意志のままに、ということだが、私の述べていることは、これとも違う。

「努力するから」という将来にわたっての約束をして、守護霊の協力を依頼するのでって、「あとは知らん、神様勝手にしてくれ」といったあきらめに似た考え方ではのだ。

神を自分の向こう側の存在として見るのではなく、自分の側におられる存在とし助けていただこうとするのである。日本の神霊たちは、かえってそれを望んでおられるのだ。これが、日本の神霊界ける開運のやり方なのである。

ほどよく甘えよ

男親はしょせん娘には弱いものだが、ある企業の創立者で、やたら大甘な方がいる。遅くなってできた一人娘だから、可愛さもつのるのだろうが「ババ、あれ買ってえ!」といわれて拒否したことが一度もない。

「うれしそうな顔して、頬っぺたにキスしてもらえるもんでねぇ」としまりのない笑いを浮かべている。

「親バカが過ぎるのでは」と私がいうと、「そういってくださるな。私の実家は、えらく貧しくて、オモチャひとつ買ってもらえなかったから、娘には、何ひとつ不自由な思いをさせたくないのさ」

その気持ち、分からないとはいわないが、不自由させないことと、何でも買い与えることとは意味が違う。きっと、成長してから手を焼くぞと思っていたら、案の定である。年頃になると、わがままのいい放題。幼児ならまだ可愛げがあるが、ボーイフレンドをこしらえるぐらいの年の女の子。

それがわがまま放題では手に負えない。いうことを聞いてくれないなら、家を出て彼と同棲しちゃうなどと脅されたあげく、むちゃくちゃな要求を呑まされているらしい。

もう一人のオーナー社長も、立志伝りっしでん中の人物だが、教育方法がだいぶ違う。

「欲しいものがあるといってきたら、その金額を聞く。十万円なら、その半分は援助してあげることにしているんです。あとの半分は小遣いを貯めるなり、バイトをするなりして自分で調達するようにといってますよ」

まことに合理的な子ども操縦法ではないだろうか。

「欲しけりゃ自分で買いなさい」と突っぱねては、親子の断絶が起きかねない。といって全面的に親がかりでは、依頼心が強くなるばかり。その真ん中、ほどほどの親子関係が保てるのである。

人と守護霊との付き合い方も、この線が適当だ。自力本願については述べたが、その反対に拝み信仰というものがある。「南無阿弥陀仏」と唱えれば、念願が成就し極楽浄土にも旅立てると、ひたすら手を合わせて、一心に唱える。

仏様を脅迫しているわけではなく、信仰心も篤いのだから、一緒にはできないが、他力に頼り切りになるという点では、わがまま娘とそうは変わらない。もちろん、正しい阿弥陀仏信仰の本質が分かって上げる「南無阿弥陀仏」なら、なんら問題はない。

もし、守護霊に、頼り切りになったらどうなるか。

「いいかげんにせい。もう面倒みてやらん」とお怒りになるに違いない。

一人よがりにならず、またまかせ切りにもならない、自力本願と他力本願を十字に組み合わせたような形で、いわば親子のような交わりをするのが、守護霊とうまく付き合うコツなのである。このポイントに関しては、拙著「大天運」に詳しい。参照されたい。

努力を見せれば助けてくれる

人間の付き合いで、もっとも重要なことは約束を遵守することである。とりわけ契約社会においては、約束違反が生命取りになることがある。

企業は不渡り手形を二度出すと倒産する。手形の落ちる日の銀行の営業時間が終了してから「金ができた」といっても、もう間に合わない。たった一時間遅れただけなのだからと、頼み込んでも、ダメなものはダメというのが契約社会なのである。

会社が倒産すると従業員が生きていけなくなるから、と泣いてすがっても無駄なことだ。もし、一度、契約不履行を容認すれば、歯止めがなくなり、ひいては経済機構のものが崩壊してしまうのである。

では、親子や夫婦といった親しい関係の場合はどうだろうか。約束は守らねばならぬのが大原則だが、血縁社会は契約で成立しているわけではない。

「ちっとも約束を守らぬルーズなやつ」であっても、親子は親子。昔なら勘当ということもあっただろうが、今の世では、説教するのがいいところ。また、かりに約束が守られなかったとしても、相手の事情によっては、許すことだってある。

子が親にファミコンを買ってとせがんだとする。

「勉強しなくなるからダメ」「そんなことないよ、一生懸命がんばって一学期よりいい成績をとるから」「本当だな。取れなかったら、ファミコン没収だぞ」「約束するよ」と交渉成立。

約束通り、がんばって、さて終業日、通知表を見れば、一学期とまるで同じ。

こんな時、賢明な子はどうするか。

「お父さん、ゴメンなさい。約束が守れなかったから、ファミコン返します」

そうか、約束は約束だからなと、ファミコンを取り上げる父親はまずいない。息子が一生懸命勉強したという努力を評価して、「来学期には、上がるようにしろよ」とちょっぴり小言つきの励ましの言葉を投げかけるのが、親の情というもの。それに良識ある人間は、結果よりも努力の過程経過を評価する。

ところが、息子に、そこらへんのことを理解する能力がなかったり、甘え心が優先してしまった場合はどうだろうか。

「成績どうだった」「一学期と同じだったよ」「アレッ、がんばって通知表上げるはずじゃなかったのか?」「いいじゃん、落ちなかったんだから」

こうなると、たとえ、努力している姿を知っていても、親としては、見逃すわけにはいかない。

「約束破ってそういういい方はないだろ」とたちまち親子関係がギクシャクする。

人と守護霊の関係も似たようなものだ。

念願を成就させたいために「守護霊様、精一杯がんばりますから、なんとかお力添えをお願いします」と頼み込む。

守護霊様は「さようか、その気になっているのなら手助けしまひょ」

明治維新の時、江戸城開城をめぐって勝海舟と西郷隆盛が会談したが、海舟は、隆盛のことを「太鼓のような男」と評した。

弱く叩けば小さく鳴り、強く叩けば大きく響く人物というわけだが、守護霊も、人のやる気に応じて、力を発揮されるのである。

ただし、約束ごとが履行されたかどうかについては、あまり厳しい評価をされない。

本人がやる気を見せているにもかかわらずなかなか成績があがらないとしても、お怒りにはならないのだ。その努力の有無、プロセスの善し悪しを、それこそ二十四時間そばにいて、知り抜いているからに他ならない。だから、いいかげんにしていたら、もちろんしかられるのは当然のことである。

また、本人の努力と守護霊の力が相まって念願が成就するのであるから、単純に計算すれば、いくら本人ががんばっても半分しか望みを満たすことができない。

守護霊は「やはりワシの力がなければなァ」と、満足気な笑いを浮かべられて、登場し、ことの解決にあたられる。

ここだけの話といっても守護霊はすべてをお見通しだから、秘密は守れないが、守護霊のプライドを多少ともくすぐるようにすれば、その気になってくれるというお人好しの面が強いのだ。

いってみれば、理屈抜きにわが子をかわいいと思う親心。かわいい子にくすぐられ、頼りにされれば、相好を崩しながらがんばってくれるのである。

要は、知性と教養と霊覚のすぐれた、おじいさんのおじいさんのそのまたおじいさんのおじいさんが、家族一緒になってそばにいてくれると考えればよいだろう。こういう一体感が大切なのだ。

恩を受けたら徳で返せ

アメリカの家庭の崩壊は、日本のそれとは比較にならないほどだという。核家族化はわが国と同様として、アーバン・シングルと呼ばれる独身者、もしくは結婚否定主義者が急増する一方、離婚率も高く、女性の場合離婚経験が一種の社会的ステイタスになっているほどだ。

これは、アメリカのモラルの低下といった問題ではなく、家庭というものに対する認識の違いであろう。彼らは、親は親子は子とはっきり区別した生活をし、子は十八歳になったら、自分でバイトをしながら上級校に進むし、職も独自に探す。お互いの人格を尊重するという考え方がその根底にあるのだ。

ところが、日本の場合は、誕生から結婚まで、さらには孫が生まれても、親は子の生活に関与したがる。子は迷惑に思う半面、親の力を利用しようとする。

ギブ・アンド・テイクといった形だが、日本人的な感覚で「持ちつ持たれつ」といった方が適切だろう。私が学生時代の時のことだが、トコトン成績が悪く、毎年落第かどうかのボーダー・ラインをさまよっていた男が、超大企業に就職した。

「こりゃあ、奇跡だ」と、私などは呆然としたものだが、聞いてみれば何のことはない。彼の父親が財界の有力者であっただけのことである。

もう一人、成績は箸にも棒にもかからぬ男が、それまた優良企業に就職した。実家は農家でコネらしきコネはなさそう。学校の就職部のデータによれば、「前代未聞の快挙」ということになる。

「一体どうして」と聞けば、父親の仲間が村会議員であったというところから話が始まる。

村会議員が県会議員に話を持ち込み、県会議員が国会議員に頼み込んだ。ここらへんまではよくある話なのだが、ラッキーなことにこの国会議員、なんと現職の総理大臣だったのである。

一見頼りなげな父親のツテが、最終的に一国の宰相にまでつながってしまうところが、日本独自の社会構造である。先祖伝来の地縁血縁として徳分を継承し、その上に新しい世代が成長する。

人は一人で生きるにあらずというわけだ。すでに述べたように、守護霊と守護霊に守られる人間との間にはどこかで因縁がある。

その人の前世はるか昔の前世における関係が判然とはしなくても、なんらかのつながりがある。

しかも、人につく守護霊は複数であるから、日本人は現世の血縁、人脈に守られると同時に霊界の血縁、人脈にも守られていることになるのだ。

その関係を大切にし、みずからなしうることをなせば、その人の人生は、なかば大成功といっていい。だが、忘れてはならないのはその先だ。自分が世話になったことを深く記憶にとどめ、その恩を次の世代に引き継ぐことをしなければならない。

しかもそれは、真実の感謝の気持ちから為さねばならないのであるが、面倒を見られた分、人生の後輩たちの面倒を見てあげることで、日本人の中に流れる徳分は婉々と受け継がれていくのである。誰も見ていなくても、あなたの守護霊たちは喜び、満足しておられるのである。

「ことわけて」申す意味

自他ともに優秀な男といわれているのに、どういうわけか、肝腎のところで、ツキに見離されるという人がいる。

まとまりかけた商談が突然つぶれたり、交通事故に巻きこまれて、デートの時間に遅れ、彼女にフラれたり、せっかく巨人中日戦の切符を手に入れたのに雨で試合が流れたりと、ロクでもないことが次から次へと降りかかる。

「こりゃ、天中殺か大殺界か」という気分になるが、その前に少し反省してみてほしい。日頃、自分の能力に頼りすぎてはいないだろうか。現実にばかり気を取られ、その背後にある世界をないがしろにしてはいないだろうか。

人間、人に無視されることほどシャクにさわることはないが、霊界におられる方々も同様だ。もちろん、人間流に腹を立てることはないけれど、無視された人間とは付き合う気をもたない。

一人よがり、現実主義者は、おかげで、守護霊の協力を得られず、運気も冴えなくなってしまうのだ。一方、意外な人間が意外なことをしでかす。

ちっともいい男でも切れる男でもないのに、どういうわけか、美女ばかりが寄ってくる。

たまに買った馬券が大当たりの万馬券。何気なく付き合っていた相手の会社と大きな商談がまとまる……。犬も歩けば幸運に当たる式に、ツキの方が勝手にすり寄ってくるという人がいる。

こういう人は、強い守護霊を持っているが、なぜ強い守護霊を持っているかと言えば、まず第一にその存在を信じているからである。

いや、守護霊という言葉は知らないかもしれないが、人智を超えた偉大な力の存在を信じている。あるいはそういった感覚を、どこかで自分なりにつかんでいる場合が多いのだ。

第二に、その存在に対して絶えず語りかけをしているのである。

巨人軍の桑田投手は、マウンドで一人ブツブツと呟く癖がある。どうやら、信仰する教団の神に祈っているらしいが、彼の強運のもとはここにあるのかもしれない。

もっとも、後半戦、ちょっと壁にぶつかった感があって、なかなかに勝てなかったのはどういうことか。噂によると、前半戦の大活躍でいささか天狗になっていたそうだ。

このことが、神の御加護の度合いに関係しているのかもしれない。守護霊の存在、偉大な力の存在を信じ、絶えず語りかけていても、感謝の気持ちを持たないと神様も、ちょっと御機嫌を損ねる。

「頼みごとばかりもちかけてくるくせに、お礼ひとついわないのでは、面倒の見甲斐がない」というわけだ。

ひとつ頼みごとをしたらそのつど「いつもお世話になっています。本当にありがとう「ございます」と感謝の言葉を念ずることが、守護霊の「やる気」を引き出すのである。もうひとつ大事なのは、親しさと馴れ馴れしさとは違うことを認識することである。

いつも、語りかけているうちに、ついつい馴れ馴れしくなって「守護霊のおっちゃん、今度も頼むわ。よろしくねぇ」なんて調子になると、守護霊も「私は便利屋ではない」ヘソを曲げられる。

私たちの日常生活でも似たような場合はいくつもある。友人に頼みごとをするのに、親しい仲だからと電話一本ですませてばかりいると「あいつは、面倒ばかりかけやがる。たまにはこっちの身にもなってみろ」と、不愉快な思いにさせてしまう。

そこで、時には、ビシッと服装を整え、手土産のひとつも持って正式に訪問し、感謝の意を表しつつ、頼みごとを述べる。

その姿を見れば「親しい仲にも礼をわきまえているな。いつにもない気の入れようだ。よし、力になってやろう」と以前にも増して、協力的になってくれるというものだ。

神道では「こと分けて申さく」という。

これは「事柄を分けて」とか「言葉を分けて」といった意味で、神にお願いする時には、改まったたたずまいをしなければならないということなのである。

赤ちゃんのお七夜、七五三、あるいは初詣での時、人々は正装をして神社に出かけ、玉串料を捧げる。

ここ一番大事な時には、威儀を正し礼節をもって祈願するものなのだ。こちらがそうすれば、あちらもその気になって聞いて下さる。こちらに合わせて共鳴し、動いてくれる太鼓の如き西郷隆盛と同じなのだ。

守護霊はたえずあなたとともにいる。とはいっても、あなたと同等の存在ではない。高い霊的位置から、過去、現在、未来を見通す目をもって、常にあなたたちを見、指導してくれるのである。そこには、おのずから付き合い方の秩序がある。それを無視した時、あなたの不運が始まるのだ。