この祈り方では守護霊は力を貸さない
「困った時の神頼み」という。日頃、神の存在など信じていない人間が、突然、信仰心を燃やすことへの皮肉も込められている言葉で、神様も苦笑されるだろう。その点、守護霊は、その人個人についているのだから、苦笑しつつも、何とか力を貸そうとしてくれる。
ただし、たとえ、守るべき人の頼みであっても、どうしても力を貸すわけにはいかない場合がある。本人の魂の向上にはならない頼みの場合だ。守護霊とは、魂の教育係であるからだ。そのひとつは、エゴイズムを丸出しにした頼みである。
就職試験の最終段階。二人のうちどちらか一人しか採用しないという状況の時、「なにとぞ、ライバルを蹴落としてください」と、願っても、守護霊はソッポを向く。「人の不幸は我が身の幸せ」という発想は、愛と誠意を大前提とする神霊界にはなじまないからである。
もし、このような場合は、どうすればいいのだろうか。
ただひたすら全力を尽くすことを誓うだけにするのである。受かるもよし受からぬもよし。受からなくても、これは落とされたのではなく、他の道への転進を勧められたものと解釈することだ。
また、結果だけを願い祈るのも、守護霊の好むところではない。たとえば「あの女性と何が何でも結婚したいのです」と願ったとする。結婚にこだわる気持ち、執着心ばかりが感じられると、守護霊は首をかしげる。
「相手の気持ちはどうするのか。また、自分が幸せになっても、それが相手の幸せにつながるとは限らないではないか」
あるいは、今、ことを焦って、あとでもっと素敵な人がでてきたらどうするのか。「何回も結婚させてくれと頼まれるのはたまらないぞ」ということになる。このような時は、「相手も私も不幸になるとお考えでしたら、私も断念しますから、そのように御指導ください」とお願いすることだ。
基本的に守護霊は、ついた人の味方であるから、その人のためを考えた結論を下すはずである。
また、長い期間をはさむようなお願いも、守護霊にとっては迷惑なことである。
「二十年後には、幸せを得られるようにしてください」といわれても、サテ困った。
守護霊「その頃には、私は交替しているのだがな…。よく、次の守護霊さんに引きぎをしておかなければなあ…。どれどれ。忘れないうちにメモをしておこう。ああ…。老眼鏡を忘れてきたので、メモ用紙の字が見えんわい。はて、鉛筆けずりはどこじゃい。隣りの背後霊さん、ちょっと貸してくださいませんか」
背後霊「はいこれ、どうぞ」
日々の努力に対応した形で、守護霊は力を貸すのが務めであるし、また、守護霊それぞれの守備範囲が決まっている。
117ページに述べてあるように、人が成長、あるいは変貌していく時々において、
主たる働きをする守護霊も替わっていくのだから、二十年先に面倒を見れるかどうか約束をするわけにはいかないのである。したがって、長くて半年ぐらいの範囲を区切ってお願いする。その方が効果的である。
「一週間後に、大切な商談があります。その時まで、お力添えをください」と頼めばいいのである。おそらく一週間の間に、さまざまな変化があなたの周辺に起きるはずだ。
商談に必要な書類の欠落に気がつく。根回し不足だぞという忠告が耳に入ってくる。上司が応援して同行しようと、声をかけてくれる。これらはみな、守護霊が働いてくれたお陰なのである。
もし、商談の結果が、望む形にならなかった場合、どう考えればいいのか。まず、心の中で自分自身に問いかけてみてほしい。
願いごとに誤りはなかったか。願いごとにウソは含まれていなかったか。個人の利益ばかりを思う邪念がなかったか。何も心当たりがなければ、これは天の意志であると考えるべきだ。
大手商社が、イランと合弁で石油化学プラントを建設しようとした。完成の暁には商社の所属するグループに莫大な利益をもたらすはずだったが、イラン・イラク紛争が長期化したために、結局プラント建設計画を断念しなければならなくなった。
この事件などは、おそらく天の意志にさからったために起きたと考えられる。先方は、イスラムの国であり、神霊界に対する考え方は、日本民族と大幅に食い違う。そのような国と共同作業を行うには、事前に解決する問題が山のようにあったはずだ。
これをどう解決するか、責任ある立場の人が、守護霊に相談し、指示を得、力添えを得ていれば、事態がややこしくなる前に決着がついていたはずである。
「いや、イラン・イラク戦争が、こんなに長期化するとは誰にもわからなかったはずだ」と、いいわけをするだろうが、誰もわからないのではない。神霊界からはすべてお見通しだったのである。
神霊界に鋭敏で、絶えず守護霊と共にいる人ならば、理論的にはすべて良好のようだが、なんとなく気が進まないのでやめる、というふうになるのである。
小林一三氏や松下幸之助氏をはじめ、財界のトップにはこういう直覚力で難をさけた先見の明を得たりする人が、結構いるものなのである。ただ、そういう方々はあまり公表なさらないだけである。
動物霊に結果を祈れば…
人は得てして「結果よければすべて良し」と考えるものである。結果が、利益につながるというケースが多いからだが、そう思い込む人は、人生の楽しさを知らないことになる。
たとえば野球。今年の巨人軍の戦いぶりを見てファンは満足しただろうか。確かにリーグ優勝はした。だが、その勝ち方は、ファンを熱狂させるようなものではない。ランナーがでればバント。大量リードを奪っていても、ゲーム後半になれば「ピッチャー鹿取」という王監督の声が聞こえる。
プロは勝つのが目的とはいうが、もうひとつ、ファンを楽しませるのも目的ではなかったのか。何が飛び出すか分からないという星野監督の作戦に、ファンは勝負を度外視した楽しさを見出したはずだ。
たとえば麻雀いくばくかの金をかけるとして、勝ち負けだけを願いたければ、ジャンケンでもして決着をつけた方がてっとり早い。
麻雀の楽しさは、お互いが、牌の中に夢を託し、手を作り、スリルを味わうところにあるのである。人生で結果をもとめるとすれば、それは死しかない。しょせん死んでしまうものであれば、何をやっても無駄ということになる。
しかし、死にいたる過程が大切であると考えれば、生きることに希望も励みもでてくるのだ。このことを理解すれば、守護霊に対して結果のみをせっつくようなことはしないはずである。それでも、どうしても結果を得たいというのなら、動物霊に頼むといい。狐や蛇の霊はまさに動物の知恵で、協力を惜しまない。
油揚げをさしいれ、あるいは生卵を差し出して、どうぞ願いを叶えてくださいと頼めば大喜びである。
ただし、動物霊は、あとが恐い。願いを叶えてやったのだから、さらに油揚げをよこ生卵を持ってこいと、激しく要求する。もしも、十分な恩返しをしないと、後世までたたりをおよぼすのだ。
また、その願いが邪悪なものであろうと、動物霊は、いっさい、とがめだてをしないから、願いが成就したとたんに、守護霊団や祖霊達が離れるために、怨念霊の襲撃をもろに受けて、不幸が訪れることだってあるのだ。少なくとも、祈っていた人は死後にいい霊界に行くことはない。
稲荷狐を神のごとくあがめていた人は、稲荷狐の霊流を強く受けるので、次第に自分の顔も白っぽく、狐っぽく、油揚げ臭くなる。
この人が死ねば、稲荷狐の配下に入り、人霊でありながら、どう見ても狐にしか見えない霊体となるのである。そして、永遠に稲荷狐にコキ使われることになる。これを人霊キツネと言うのである。詳しくは拙著「神界からの神通力」(たちばな出版社刊)を参照されたい。
ところでこれに対するに、守護霊は物を見返りとして要求はしない。「願いが叶いました。どうもありがとうございます」と感謝の意を捧げれば、それで十分。そして、感謝の意を表現しなくても、そのことを根に持ってたたりを及ほそうなどとは思わないのである。
101ページに述べているように、私達に対する愛もさることながら、私たち同様に、修業のために守護霊の役に任じておられるのである。守護霊として、神様にお約束したその使命を全うし、立派に霊界に戻るためには、十分に徳と功候を積まなければならない。
もしも、利益をネタに、依頼者の願いを叶えたりしたら、天界におられる神の怒りにふれ、永久に地上に居残りさせられるかもしれないのだ。まあ、神霊界は厳然とした秩序と命令の伝達が完全に為されているので、現実にはあり得ないが、それぐらい一生懸命に活動なさっているのである。
また、依頼者の願いが邪悪なものであったなら、それを拒否するのも守護霊の役割である。
天から派遣された教育係が、生徒の誤りを礼せないようでは、失格者の烙印を押されてしまうのである。守護霊を失格した霊はあたりをさまよい歩く浮遊霊になるしかないのだ。
神霊界の存在に対する正しい作法
守護霊は過去の人々の魂である。古くは平安、室町、近くは明治時代に生きていた人々の魂であるから、価値基準はいささか古風である。若い人たちに、礼節、秩序などと言えば「何を古めかしいことを」と一笑に付されるかもしれないが、いずれ彼らも、古きことの中に真理があることに気づくはずだ。
現世はともあれ、神界、霊界は、秩序と礼節によって統一されている。神や守護霊は、ともに相和しながらも、銘々の立場を厳しく保っている。
上位におられる神は、下位の神をいつくしみ、下位の神は上位の神を敬いつつ、全体の和と統一を保っているのだ。私たちが、神界・霊界の存在と接触する場合も、神界・霊界の秩序を見習わなければならない。
その秩序、作法は、わが国の皇族方のそれを範とすればいいのである。天皇家の方々は、仲良くあらせられるが、天皇陛下、皇后陛下に、皇太子殿下や美智子妃殿下がお会いになられる時は、親しさの中にも、荘重かつ気高い格調をこめられた作法をお守りになる。
親子の情とは別に、一国の運命をになわれる天皇というお立場に対する、深い尊敬の念を表されるのだ。もちろん、孫にあたられる浩宮様、礼宮様、紀宮様が、天皇陛下、皇太子殿下にお会いになられる時も、同様である。
私たちが、天皇家の作法を、日常的に見習おうとしても難しい。長い伝統、歴史を背景とし、幼少のみぎりから、特別な環境で育たれた方にとっては緊張感の中に身をおかれることが、心の研鑽につながるが、日頃、雑然とした世界に身をおくものにとっては、息が詰まる思いをするだけである。
「ねえ、父さん遊園地連れていってよォ」といっていた子に、皇族の作法にのっとった頼み方をせよといっても無理である。第一、具体的にどのような言葉で会話をすればいいのかも分からない。
しかしながら、目上の者に対しての尊敬と秩序を保つことは理解できるはずだ。日常生活においては、この理解だけにとどめておいてよい。
ただし、神界・霊界の存在と接する時は、皇族方の作法をイメージしながら、特別な思いをこめるべきである。
なぜならば、日本の神霊界の構造が、皇族のありさまに映し出されているからだ。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の定義する神と人とは、造物主と被造物者、創ったものと創られたものという関係にある。
つまり、この両者の間には途方もない距離があり、人間的な交流などは存在しない。けれども、日本の神霊界には、神人合一、神と人との交流があるのだ。それで丁度、皇太子殿下が天皇陛下に親しく、恭しく、願い事を宣べたり、逆にご意見を伺ったりする感触とそっくりなのである。私たちは、ああいう感じで高級神霊と接触したり、親し交流すればよいのである。
現在の天皇陛下は、国家の象徴という立場にあられるし、人間宣言をなされているが、古く歴史をさかのぼれば、天照大御神の直系、天孫として、わが国を統べておられたのである。
日本民族はこのような歴史を土台にして、数千年も、生き続けていたのであるから、ことの良し悪しの判断を超えて、この環境になじんでいる。
逆に言えば、天皇を現人神とは思わなくても、尊敬の念を抱いて、見上げる存在であり、見上げた視線の延長に、神霊界があるということになる。私たちの背後霊や守護霊たちも、尊貴なる神霊や高級人霊に対しては、この感覚でその姿勢を貫いておられるのである。
となれば、私たちは、皇族の方々に接する態度を取ることによって、神霊界の存在と接することが、もっとも理にかなっている方法であると言えよう。あくまでこれはたとえであるので、国粋主義者的だとは思わないでいただきたい。
ただひたすら恐れるのではなく、人間的な尊敬と愛情を抱いて接し、礼節をもって願えば、その望みはかなえられるのだ。これが守護霊や高級霊に対する正しい接し方であり、向かう姿勢なのである。
素直さと感性が運の源
この世で成功を収めた人の日常の言動を見ると、幼児のように素直で、可愛いものである。つまり、いかなるものに対しても関心や疑問を抱き、無邪気に感動するのだ。
そこには、あえて自分を装ったり、威厳を保とうとしたりする作為がない。そのような人たちと守護霊との付き合いも当然のことながら凡人のそれとは異なる。守護霊に願いごとや、質問をしたとする。
その守護霊自身が、即断で願いごとを叶える行動を取ったり、即答えを出してくることを、直接内流という。守護霊と人との間に瞬間的な通信がなされるのである。
また、もし、願い事や質問が、その守護霊の専門分野でない場合、守護霊は、専門家というべき守護霊に問い合わせる。
つまり、専門家の守護霊と人との間に中継役として入るのである。
また、その本人が鈍感であったり、既成の知識にまったくないことが答えであった場合、友人や知人の知識や言葉を通して答えが返ってくる場合が多い。このような通信の仕方を間接内流と呼ぶ。
この直接・間接内流は、人からの要請があれば強く流れるが、要請がなくても微弱な流れとして、常に存在する。
しかし、凡人の場合は、強い流れの通信は感知できても、微弱な通信を感知することができない。一方、成功を収めた人、また収める可能性を持つ人は、微弱な通信の大部分をキャッチすることができるのである。
つまり、彼らは、自分の心の障壁となる我執、我見のないナイーブな心と、研ぎ澄まされた感性を持っているのだ。
このことを逆に言えば、我執、我見を捨てさる修業を積み、素直なる感性を磨くことができれば、その人が人生における成功者となる可能性が大きいということなのである。前述した如く、日本神霊界がそのように仕組まれているからなのだ。
この本の第一章で、「ふとした思い」という言葉について触れたが、この「ふとした「思い」とは、守護霊から送られる微弱な通信によるアドバイスを、無意識のうちに聞き入れた結果、得ることができる感性なのである。したがって、感性を磨けば、それだけ成功に近づくのは当然のことである。
人には予知能力がある。感性の鋭い人は近づく危険を感知して、回避するか、防衛態勢を準備する。
しかし凡人は、せっかく危険を予知することができても「なんかおかしいな」と思う程度で、深く気に留めることはしない。危険な状態に遭遇してから、初めて「あっ、そうか。あのおかしい感じがこれだったのか」と気がつくが、もはや後の祭りとなってしまうのだ。
大成功を収めた人の話を聞くと、みなさん二度や三度の大ピンチに遭遇しているが、それを切り抜けることができたのは、背後霊団の強力なバックアップによる気力、胆力、体力、知覚力に加え、直観を越えた予知能力を最大限活用したためであろう。
感性は、自らを成功の道へ導くためだけでなく、危険から逃れるためにも、磨きあげる必要があるのだ。これからの時代は頭脳よりも感性の時代である。正確には、感性がリードする頭脳の時代である。ノーベル賞を取られた利根川進教授なども、このタイプの方だ。
読者の皆様も、感性幸運推進型の人物となって、新しい時代の大創運をやり遂げていただきたいものと、切に願う次第なのである。
