【第四章】不運を嘆く前に
カルマとは何か
カルマは一般に業と訳されている。葉とはまた、人間が背負わされている悪い宿命と解釈されているが、これは正しくない。前世で、他人を苦しめたり、悲しませた場合は悪いマイナスのカルマを負うが、逆に人々のために善根を施した時は善=プラスのカルマとして引き継がれる。
したがって、業に苦しむということがあるとすれば、善悪のカルマの差し引き勘定をした結果マイナスが残った場合なのである。
マイナスのカルマを負った人間は、どうすれば悪い宿命を断ち切ることができるのか。ある宗教では、祈れば業から救われるといい、またある宗教では金銭を喜捨すればよいという。だが、これらの方法では、一瞬救われた気にはなっても根本的な解決にはならない。
カルマは自分でまいた種が成長したものだから、自分の手で刈り取らなければならない。最初から神に頼む、あるいは地獄の沙汰も変えることができるだろうと金に頼るのは、みずから刈り取ることにはならないのだ。
刈り取るには二つの方法がある。ひとつはカルマと正面きって対決する方法である。前世から負った宿命であればいたしかたない。「われにすべての苦しみを与えよ」と一歩も退かず耐え抜くのである。苦しむことによってカルマは次第に消滅していく。
もうひとつは、徳を積む=プラスのカルマを増やすことによって、差し引き勘定をプラスにする方法である。どちらがよい方法なのかは断言できないが、前者は消極的な方法であるのに対し、後者はより積極的であるということはいえよう。
しかし、最上の策とはこれである。二つ同時にやることだ。つまり、同じ苦しむなら善根功徳を積むプロセスの中で思いきり苦しみ、その苦しみが同時に悟りであり、進歩であり、人々を幸せにして徳積みができる道に進むことである。
宗教家になれと言っているのではない。それもいいが、私たちの日常生活の中で苦は苦、徳積みは徳積み、求道は求道、と分けないで、同時になるように工夫することが大切なのである。
カウンターパンチの威力のようなもので、苦しんで悪いカルマを消しながら、同時に徳を積んで、それを魂の成長の糧とするのである。そういう日常生活をめざすべきだ。ところで、企業が赤字を負ったとする。消極的な赤字解消法は、経営の軽量化を計り、経費を節減して業績が上向きになるのを待つ方法である。
堅実といえば堅実だが、その一方でジリ貧になる可能性なしとはいえない。
赤字を解消するために、新規事業を開始するのが積極的な解消法である。じっと耐えていても、いい風が吹くとは限らない。赤字部門はそのまま凍結して、新部門からの利益で赤字を補填していけばいいではないかという考え方である。
従業員にしてみれば、その方がはるかに気分はよろしい。マイナスを上回るプラス、赤字を超える黒字を出せばいいのであるから、希望に燃えて仕事に打ち込むことができるからだ。
しかし、新規部門でダメージを食ったら二重苦を味わうことになる。それだけ危険の度合いが多いというわけだ。
どんなカルマを背負っても人生を全うできる
私はワールドメイトという会を主宰しているが、会員のA氏を例にとらせてもらう。年齢五十歳のサラリーマンで、素敵な奥さんと優秀な子ども三人に恵まれ、家庭生活はまさに順風満帆。ところが、こと仕事に関しては、順調にいった試しがない。
最初は公務員だったが、上司の不始末をかぶる形で退職せざるを得なかった。次に民間企業に就職したが、ほどなく会社は倒産してしまった。その後幾度か職をかえたがいずれも思わしくなく、今は某企業の独身寮の管理人をやっている。
人柄もよく学歴もあるのに、なぜなのか、私も興味をもって霊視してみるとこんなことが分かった。
A氏の九代前の御先祖は江戸時代、ある小藩の家老を務めていたが、不祥事を理由に改易を命じられ、家の子郎党三千人が、散り散りになってしまった。もし、不祥事が根も葉もない噂であることを証すために本人一人が切腹をすれば、このような事態は起こらなかったという。以後代々、この家の主は職に恵まれないカルマを背負ってしまったのである。
「積善の家にはかならず余慶あり。積不善の家にはかならず余映あり」と「易経」はいい、カルマは家系の宿命であることが多い。その結果九代前の先祖の影響を今も受けるのである。
そこで、私はA氏に次のようにアドバイスした。
「仕事に恵まれないのはマイナスのカルマであるが、それをそのまま認めなさい。そのかわり、仕事がありさえすれば良しとして、心の中でやりがいを見出すことです」
カルマを自覚し、苦しみを享受しつつ、楽しみをみつけることを第一に考える。一方、「あなたの家庭生活は幸せに満ちている。その幸せを他の人にも分け与える気持ちを抱けば、その徳分がマイナスのカルマを減らすことにもなるのです」
「隣の芝は緑」という外国の諺がある。実体はそうでなくても、隣家の幸せそうな家庭をうらやましがる気持ちは洋の東西を問わない。ましてや、真に幸福な家庭を見れば、うらやましさを通り越して、ねたましい気持ちを抱かせる。これは本人にとっても、隣家にとっても不幸のきっかけになりかねない。
しかし、単に見せびらかすだけでなく、隣家を幸せに引き込むようにすれば、幸せは伝染し、徳を積むことにもなるのだ。それに、子どもを立派に育てる。妻と力を合わせて、何か社会的に意義あることを行う。なんでも、良き家庭であればできる積みの方法はあるはずだ。
もう一人、A氏とは逆の立場にある人を例にあげておこう。B氏は仕事の面でも、肉体の面でも、これ以上恵まれようがないぐらいだが、不幸なことに子はなく、奥さんも相当な悪妻である。
そこで先祖を霊視してみると、代々事業では成功しているし、健康であるが、その健康をもてあましたあげく、姿をかこったり、妾の子を不幸な立場に追い込んだりしているのだ。
このカルマが、後世に伝わり、家庭の不幸をもたらしているのである。もちろん、そういう家に生まれてくるのは、自分の前世にそれ相応のカルマを犯しているからに他ならない。
そこで私はこう諭した。
「家庭生活に夢を抱くのはやめなさい。子どもが欲しい、いい奥さんが欲しいと執着していても、それらが備わる善徳はほとんどないのです。その分、仕事や自分の趣味を拡げるようにしたらどうですか。
仕事や趣味にあまりに打ち込み過ぎて、家庭をまったく顧みない人も多いでしょう。そうなればいいのです。そこに生きがいと夢と幸せを発見して、それ以外は一切見ないことです。そこに目を向けて、ないものねだりをするから苦しくてたまらないのです。離婚する意志がないのなら、それが一番ベストなカルマの越え方でしょう」
不味因果という言葉がある。「因果をくらまさず」という意味である。
因縁というものは天地の法則、つまり神の定められたルールであって、変わりはしない。したがって因果は因果として納得し、さらに、それによって不幸を感じないような境地が大切だという意味である。要は苦しみが苦痛ではないような生き方をしなければならないのである。
最近の研究によると、人間には苦痛を快感に変える機能が備わっているという。
マラソンをする。四二・一九五キロもの道を走り続けるのは、途方もない苦痛に思えるが、本人にしてみればそうではない。
確かに走るうちに、苦痛を感じ出すが、その苦痛が、脳内にある特殊な物質の内分泌をうながす。その物質が働くと、苦痛が快感として感じられるようになるというのだ。マラソンやトライアスロンがブームになっているのは、このことと深くかかわっているのだろう。
それはともかく神様は素晴らしいお方で、不味因果に対応できる人間の仕組みをお作りになっているのである。そのお陰で、マイナスのカルマを背負った人も、この世での人生を全うすることができるのだ。
戒律の勧め
因縁因果は、この世にいる限りついてまわる。いやそれどころか、普通では前世から来世にわたって無くならないものである。したがって因縁を安易に絶ち切ろうとしても、しょせんは意味のない行為なのだ。
よく、男女の仲を清算するための殺人事件が報じられる。腐れ縁、悪因縁を絶ち切ろうとしても果たせず、死によって決着をつけるしかなくなってしまうところに、このような悲劇が生まれるのだ。
声帯模写の佐々木つとむさんが、愛人に惨殺された事件があったが、加害者の愛人も死を選ばざるを得なかったのは、切れるべくもない因縁を切ろうとした結果であろう。では、人間はひとたび悪因縁にとりつかれたら、一生苦しみ続けなければならないのである。
悪因縁に負けぬような自分を造りあげればいいのである。悪因縁=マイナスのカルマに対して、みずからに戒律を課することによって、悪因縁を封じ込めることができるのだ。
あなたの家系が代々、酒飲みだとしよう。
お父さんは、酒で失敗を繰り返した。お爺ちゃんは、深酒をしている最中に脳卒中で亡くなられた。遠い御先祖様は、酒宴での乱暴狼藉がもとで、切腹を命じられた。
「だからきっと、ほくも酒で身を滅ぼす。どうしよう」と考えるのは、すでに悪因縁のとりこになり自由のきかない身になっている証拠である。
「だから気をつけよう、ほくは絶対に酒を飲まないようにするのだ」と、深く思い、努力すれば、悪因縁に負けることはないのだ。
昔、ある人とバーで会った時のことだ。ひたすら、ウーロン茶や、ジンジャー・エールを飲んでいるので、「お酒をお飲みにならないと知っていたら、他のところでお会いしたものを」とお詫びすると、「いえ、気にしないでください。飲めないのじゃなくて飲まないのです」「体質ですか?」「いや、わが家は酒飲みの家系ですから、そんなことはありませんよ」
どういうことかと重ねて聞くと、親族の多くが、酒で体をこわしたり、失敗を重ねているそうだ。
「それじゃ、なおさらのこと、酒と関係のない場所でお会いすべきでしたね」
「いえ、私は修業のつもりでここにいるのです。酒から逃げ回っている間は、酒と縁が切れません。酒と正面向かい合って、飲まないでも平気になった時、酒とは無関係な自分になると考えているのです」
相当に修業を積んだらしく、茶や水でも、楽しそうにふるまっているし、一向に苦痛でもない様子である。
仏教に「諦観の境地」という言葉がある。
字句どおりに解釈すれば、「あきらめの境地」となるが、「Give up」ということではない。
因果の法則が厳として存在することを素直に認める。酒飲み、あるいは女性関係にルーズな家系であることをみずから踏まえる。それを前提にして自分の人生をどう生きるかを考え、悟るのが諦観なのである。
もちろん、もっと深い意味もある。大宇宙の因果、因縁の成り立ちを明らめる。そういう、大いなる達観に立つこともいうのであるが、ここでは日常に即して話している。
つまり、あきらめるとは「明らかにする」ということであり、涅槃の境に入って、万物、万象、万法、楽々として明々としてある境地のことを言うのである。だから、「Make it clear」、そして「Going my real way」をひっくるめたのが本来の諦観の真意なのである。
酒を飲まない彼は、みずからの家系のことを十分に認識している。その上で、みずからを戒め、積極的な生き方、自分の道を切り開こうとしているのだ。悪因縁に勝つにはこの方法しかないのである。
天知る地知る
かたくるしい字の説明で申し訳ないのだが、修業とは、業を修めることであり、業とは業、つまりカルマにつながるのである。
そして、最も直接的に出てくるカルマとは性格である。父母伝来のわが性格の中に、おおむねカルマとは内在するものなのである。だから、カルマを改めるとは業を修めることであり、業を修めるとは性格を改めることなのである。
そして、性格を改めることによって生ずる徳が、人徳と言われるものなのだ。
このように、カルマと向かい合い、その何たるかを知り、悪いカルマを解消するために、よいカルマ=徳を積むことが修業というわけだ。すべての修業はここからであり、何教、何宗に入らなくてもできる、人生修業の原点なのである。
逆に、どんなに霊能力があり、どんなに高邁な教理を知っていても、性格がちっとも改まっていない人は、修業の何たるかがまったく分かっていないことになる。学問と教の意味を考えても、やはり、この原点に根ざしていなければ、真に学問と教養ある人であるとは言えない。
きて、その原点の修業に励む姿を見ているのは、守護霊である。日常のあなたの生活ぶり、心構え、全てを見通している。時に修業の心がゆるむと守護霊としても落ち着かない。
「これこれ、脇見をしないで修業してくれよ」守護霊はあなたの誤った行動に対して処罰を下すことはしない。本質的にあなたを愛し、肩入れしているのだから、ただやきもきするだけである。できれば、手助けしたいのだけれども、あいにく「天知る、地知る、我が知る」
天とは宇宙の主神、地とは守護霊や大地に生うる草木禽獣、人々などである。みんなが見ているところで、努力をしない人に無条件に手を貸すことはできない。
しかし、日々懸命に生業に打ち込み努力し、その時、処、位によって自己の修業をしている姿を見れば、守護霊は大喜びだ。
「よし、よくやってるな」
それなら幸せへと導いてやっても、主神のお叱りを食うことはない。こうなれば、あなたの運は開け、この世に生まれてきたことのメインテーマを全うすることができるのである。
世の中には、要領のいい人間がいる。ふだんはグウタラしていても、上司の前ではキビキビと働くからウケがいい。
「あいつ、なかなか見どころがあるな」と、取り立てられ、出世の糸口をつかむ。よく言えば処世術に長じているというわけだが、どうにもこすっからい。
私の学生時代の友人に、徹頭徹尾カンニング一本槍で通した男がいる。試験はカンニングすることに決めているから準備の時間があまる。
その時間を利用してスポーツに遊びに精を出したから、体はいいし、顔色はまっ黒で健康そのもの。就職試験を受ければ「ほう、キミは文武両道の道を歩んでいるね」ともちろん合格とトントン拍子であったが、「天網恢々疎にして漏らさず」とはよくいったもの。
基本的な知識がない上、努力をした経験がないから、たちまち仕事上のミスを続けて、馬脚を露わしてしまった。
さて、修業だが、やってるふりを見せれば守護霊の目をごまかせるものなのだろうか。さきに述べたように、「天知る、地知る」であるから、そんな小手先は通用しない。
それに加えて「我が知る」である。本人がいくら自分の心をごまかそうとしても、自分自身をだますことはできないから、魂はいつも寒々しい。寒々しい人間が、自分の人生を楽しめるものではないし、いわんや他人を幸福にしてあげられようもない。かくて、徳とも無縁なままに、悪いカルマだけを後世に引き継ぐ存在になってしまうのだ。
そんな状態に自分が陥っていいかどうかを、まず己れの魂に聞いてみよう。「嫌だ」と答えるだろう。つまり「我が知る」であれば、地も知り天も知りたもうであろうから、嘘の人生がもつわけがない。
だから、私たちは真実の人生に向かうべきなのである。
ところで、陰徳とは、人の見ていない所、知られていない所で行う善行の報い。陽徳とは、人の見ている所、知らるる所で行う善行の報いである。陽徳は、すぐに名誉や幸福感に還元されて消えていくが、陰徳は蓄えられてなかなかなくならない。だから、本当の徳とは陰徳のことを言うのである。
この「天知る、地知る、我が知る」の言葉も、陰徳を積む人の心の支えにすべきだ。カルマを乗り越え、独りで修業をやり続けていく人の、孤独に灯る神明の光とすべきなのだ。
この光こそが「本当の信仰の力」、「真実の学問の力」というものなのである。
なぜ王監督の野球が批判されるのか
野球ファンのみなさんにとって、今年(昭和六十二年)のペナントレースは近年になくスリリングなものではなかっただろうか。パ・リーグは五球団、セ・リーグは三球団が優勝の可能性を持ったまま後半戦に突入壮絶な競り合いを展開した。
優勝チームは結局、セは巨人、パは西武ということになったが、私は、巨人というチームに一抹の不安を抱いている。開幕以来、快調なペースで勝ち進んだジャイアンツだが、その戦いぶりは必ずしも、ファンを満足させるものではなかった。
私は単なる野球ファンであって、技術的なことはわからないが攻守にわたって、どうもチグハグな動きを見せることが少なくない。
監督の意志と選手の思うところが、うまく噛み合わない、あるいは、せっかく手に入れかけた運をアッサリと手離してしまうようなシーンに時折り出くわしたりした。
野球は、お互いの技術をぶつけ合うスポーツであるが、もうひとつ、チームという人間集合体の勢いを競うという側面がある。プロとプロ同士が戦う場合は、極端な技術的な差はないはずだが、それでも、実際には、大きな成績の違いとして現れてしまうのは、つまり、人間集合体の勢いの差ということになる。
今年の巨人軍の場合、個々の選手の勢いはなかなかのものだった。打線で言えば、クロマティが去年ほどの迫力を欠いているが、原、篠塚、吉村、山倉、そして中畑選手が絶好調ぶりを示している。チーム打率は、リーグ随一だ。
投手陣はとみれば、前半戦は、桑田投手の擡頭、後半戦は、江川が安定したピッチングを展開した。そして何より抑えの鹿取投手の存在が大きい。
これらの選手の勢いをトータルすれば、他のチームをぶっち切りに引き離してしまって当然だったのだが、現実には、中日、広島との三つ巴の戦いに巻き込まれてしまった。
つまり、選手の勢いが、チームの勢いに転化できなかったのである。
選手の勢い… これは、エネルギーと運の強さという言葉で表現できるが、これをまとめあげ、チームの勢いに変える役割をになっているのは、指揮官、王貞治監督である。
とすれば、巨人のチグハグな戦いぶりは、ひとえに、王監督の責任であったということになる。
このことは多くの野球ファンの共通の認識であって、王監督の指揮官としての能力に疑念を抱く声が、かつてないほどに高まっている。勝てば官軍というが、勝ちつつも批判されたのだから王監督も辛い。とはいえ、この批判、私の目から見ても、的はずれではない。
王監督はご存じのとおり、打者として頂点を極めた人である。ホームラン王になること、実に十五回。打点王十三回、首位打者五回、三冠王二回、MVP九回。通算ホームラン八百六十八本は、もちろん世界最高記録だ。
そしてまた、プレーに打ち込む姿勢、誠実な人柄は選手の鑑とされたものである。昭和五十五年、現役を引退し、三年間助監督を務め、昭和五十九年監督に就任して今日に到るが、監督になってからの巨人は、往年の強さを発揮することができないでいる。
その結果、王監督は、かつての英雄から、いまや、針のムシロにすわらされる立場に置かれているが、この原因は何か。指導者としての技量が云々されるが、そうではない。前世、現世にわたる徳分の問題なのである。
徳分を蓄積する大切さ
王監督の前世は、浪速の与力「大塩平八郎」である。あの有名な王陽明の学を修め、庶民のために立ち上がって、霧と消えていった「大塩平八郎の乱」の張本人だったひとである。今世は、人格と徳性に加え、王陽明の「王」を引き継いで生まれてきたようだ。
一代の英傑として獅子奮迅の大活躍をした人物で徳分も高かった。
しかし、その徳分も、現役時代、数々の大記録を樹立したことによって、大幅に消耗してしまったのである。そのうえ、国民栄誉賞を受けたことで、残った徳分も栄光へと変質し、いわば貯蔵ゼロの状態に陥ったのだ。
徳分の蓄えがなくなった時、人は何がしかの自覚症状を覚える。王監督は、現役引退にあたって「数年間はフリーな立場で、休養したい」と強く望んでいたが、これは己の徳分が消耗され尽くしたことを自覚していたためである。
休養する間、人のために尽くし、みずからを切磋琢磨すれば、徳分はふたたび蓄積される。そのことが分かっているから、彼は、休みたいと思ったに違いない。
ところが、球団の事情がそれを許さなかったところに彼の悲劇がある。
王監督の師匠にあたるのが、川上哲治元監督である。打撃の神様として、首位打者五回、打点王三回、ホームラン王二回、 MVP三回、通算打率三割一分三厘をマークした彼は、昭和三十六年、監督に就任するや連続九度優勝を含むV1を達成し、名将の名をほしいままにした。
彼が引退を表明した年、アメリカの大リーグのカージナルスが来日し、川上選手も日本チームのメンバーとして出場した。その日、後楽園球場のネット裏に足を運んだ人が、川上選手のバットから叩き出された打球が火を吹く勢いで、ライトスタンド場外に飛んでいくのを見たという。惜しくもポールの外側を通過したためファールに終わったが、彼はこの打球を見て思ったらしい。
「まだまだ彼のエネルギーは衰えていない」と。
エネルギーとは、その人のもつ、パワー、運、徳分などの総体である。エネルギーが残っているということは、つまり、徳分の蓄積がまだあるということでもある。
川上監督は、さらに、禅に傾倒するなど、みずからの徳分を補給する修業を積んだため、大監督としての名声を得ることができたのである。
もし、王監督にみずからを修業の場に置く意志と時間的余裕があれば、徳分の補給も十分にでき、川上さんに劣らぬ大監督としての足場を築くことができたに違いない。
では、王監督が、今後、大監督の道を歩むことはできないのだろうか。そんなことはない。もとより徳分に満ち満ちた人物なのだから、消耗した徳分をおぎなうことさえできれば、現在の評価をくつがえすことは十分にできるのだ。
彼は今、戦いの真っ只中に置かれた前線司令官であるが、その立場から一歩身を引き、後輩選手を育成し、彼らの能力をフルに発揮させることを第一の目的とすればいいのである。
目先の勝利にあくせくすることなく、チームの二年後、三年後に焦点を合わせてのチーム作りをすれば「人を助ける」「選手を幸せにする」という形で徳分の蓄積がなされ、川上監督に勝るとも劣らぬ存在になることができるのだ。
ただし、そのためには巨人に背負わされている「常勝」という呪縛から、一時的に解放されなければならない。この呪縛がある限り、王監督が徳分を積める余裕はないのである。
