大創運(Vol.11)

豊かな生活を獲得するには?

日本が繁栄を誇り、豊かな生活を満喫している時、アフリカや東南アジア、あるいは南アメリカには貧困であえいでいる人たちがいる。

この人たちを救い”貧困”をなくすことは、同じ地球に住む人間の使命であると言える。

ところが、宗教の世界では、豊かな生活が罪悪視される。高潔な心を持つ人間になれとはいっても、金持ちになれと勧める宗教家はいない。むしろ逆に、実生活が貧しくとも、心さえ美しく豊かであればいいのだという。

これは、どう考えてもおかしいことではないだろうか。心が豊かになれば、おのずか生活も豊かでなくてはならないし、豊かな生活を送れば、心も豊かになる。心と物は不即不離の関係にあるのである。

いや、それよりも「衣食足りて礼節を知る」「貧すれば鈍する」という言葉がある。生活が貧しい人は、心を豊かにせよといっても聞く耳を持たない。その貧しさから。

どうしても脱却できない社会構造や環境である時、人々は別の豊かさを求めざるを得ない。過去、それが宗教の役割だったのである。腹を減らした食人種を前に、宣教師が説教を垂れる。

「人は、パンと水のみに生きるにあらずとイエスはのたまいました。では、何によって生きるのでしょうか」

食人種の酋長が答える。「ワレワレ、アンタ食ウ、ソレデ生キテイケル」

私は、現世における豊かな生活を否定するものではない。それどころか、どうすれば現世利益を得られるかについて、みなさんに語ってきたつもりである。

幸福開運という言葉は、不即不離の関係にある魂と実生活の豊かさの裏づけがなければ、絵に描いた餅でしかないのだ。

ただ問題は、現世利益だけでは真の魂の喜びや内面の進歩がなく、また、内面の喜びや魂の進歩だけでは、社会はいつまでも改善されず、魂の、社会における顕現とその深き充実感は得られない。

だから両面が必要なのである。問題となるのは、どちらか一方に偏っていて、それに気がつかないでいることだ。

これを霊体一致の幸福実現、あるいは、神魂の真実の顕現というのである。

しかし、一致するにも順序がある。まず霊が先で体が後である。霊が体に影響を与え、体から受けて霊に反応が返ってくる。隠れて目に見えない陰が先で、表れてある陽が後なのである。

しかし、陰と陽とは相互に関連していて、決して引き離すものではない。引き離した時には、陰も、陽も死んでしまう。死ぬというのは、その本来の特性を失ってしまうことだ。

これが逆に、陰と陽がその本来の特性を発揮して、ぴったり合一している時は、「太「極」に帰結しているのである。この太極が神魂であり、万物創造の主神よりきたる本当の御魂、玉なのである。

貧乏神よサヨウナラ

ところで、話を急に現実的にするが、「稼ぐに追いつく貧乏はなし」と言えば、その一方で「稼げども稼げども、我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る」と嘆く人も世の中にはいるものだ。

「入るを制して、出るを定む」

収入に応じて支出を考えれば、貧乏になることはないというが、実際には、なかなか理屈どおりにはいかない。金は天下の回りもので人の意志どおりには動いてくれないということもあるが、もうひとつは、前世からのカルマが大きく影響しているためである。

前世で、さんざん浪費したり、金で他人に迷惑をかけた人は、その罪をあがなうことを要求されているから、いくら金を稼いでも、砂に水を撒くようなことになってしまうのだ。

こういう人は、家運と自己運の相応の理によって、財産に関する劫の深い家に生まれてくる。

一番多いケースが、三代前ぐらいの先祖が財を為し、その次ぐらいの人がお人好しで、保証人の印鑑をついて財産を減らし、だめ押しに、その次の人がパクチか酒か女で身目をつぶすというケースだ。もちろん順序が逆のこともある。

そして、今はまったく財産はないが、財と家柄自慢のばあさんだけが残っているという家に生まれてくるのである。

こういった状況から逃れるには、どうすればいいのか。

みずからの金に対する認識を徹底的に改めることである。「たかが金じゃないか。生命を取られることに比べればどうということはない」という甘い思いをまず、心から追い出す。

現代の生活の中では、金が、すべてを制しているという事実をしっかりと把握しなければならない。その上で、入った金を、支出項目に分けて、それらを、袋に入れてキープする。

生活費、交際費、教育費と分けるのである。

そして金を払う時は、それらの袋の中にある金の中で処理するようにする。「今月は交際費がかかって」と言い訳をしながら、他の袋から拝借するようなことはしてはならない。

この方法を取れば、水道の蛇口からポトポトと水が漏れるように「どうしてか分からないが、金がなくなる」という現象はかなり抑えることができるはずだ。

このような努力をした上で、あなたは守護霊に対して祈る。

多くを望むわけではありません。金の大切さは、身にしみて感じています。違いはしませんから、なにとぞ、前世の業に対して御配慮ください」

神霊界の人々は、あなたの努力を認めるはずである。仕事も順調に回転し、金の流れもスムーズになる。

ただし、ここで気をゆるめてはいけない。

以前と同じく、抑制し、もし余裕ができた時は、その余裕分を無条件に二等分し、一方は、貯蓄し、一方を、徳分を積む行為に使うのである。たとえば、貧しい人への援助をするもよし、文化事業にささやかな寄付をするもよし。

だが、忘れてはならないことが一つある。それは、拙著「大天運」でも述べたが、世の中の第一号、人々のまず最初は、自分自身であるということだ。

だから、自分自身を真に豊かにし、魂を向上させるためにはお金を使わなければならない。

私の言っているのは、レジャーや遊興費に使えと言っているのではない。そんな即物的なことに使うのではない。前述した如く、芸術、学問、信仰に関することに使ってめば、それは必ずや魂の糧となり、徳となり、智となって残るものなのである。

それは霊界に帰っても、来世生まれ変わってきても残っている宝物なのだ。如意宝珠というのも龍が欲する玉というのも、すべてこれらを霊的な角度から言っているものにすぎない。もちろん、これ以外の意味や解釈もあるが、詳説はまたの出版の機に委ねることとする。

さて、これらの宝物を養うために使うお金は、世の中の第一号である自分自身を救うための資金となるのである。自分自身を救えないような人は、決して人様を救える人になる訳はない。

学問が、芸術が、偏りない信仰が、人々を惹きつけ、魅了するのである。こんな人でなければ、世の中を良くすることも、人々を導くこともできるものではない。

だから、この求道の一歩こそが、「われよし、人もよし」の第一段階の御魂の修業となるのである。

おわかりいただけたであろうか。この資金こそが、やがて人徳と化し、人徳によって人に益する行為ができるので、地の徳が積める。そして、地の徳が極まって神智と神助がさずかるので、天の徳を運用することができるのである。これらが第二、第三の段階であるといえよう。

こうすれば、知らないうちに前世の罪穢ざいえも家伝のも消えているものだ。だが、そんなに難しく考える必要はない。いま、私は明確に方向性を示しただけである。実際は、方向さえ正しければ全てが自然にそうなっていくものであって、人為的に無理に考え込むことはかえってマイナスである。

これは「先天の道に帰して、化する働きを得る」という。だから、今日一日、今日一日と思って、地味ではあるが自分を救い続け、豊かにし続けながら、臨終のその日まで、修養と研鑽を積み重ねればよいのである。

これを「恒の徳」といい、これこそが天地人を貫く道の妙諦なのである。そして、この妙諦にたてば、真に実り多い人生を送ることができる。

そうして、ある時ふと後ろを振り返って見れば、前世の坊も家伝の悪因縁も相殺されすでに消え、自分の周囲には有形無形の福と富と名誉が備わっているものである。これが本当の創運のやり方なのである。

こうして作られた創運こそが、社会と子孫にも新たなる創運の機運を残し、自分が死んでからも大創運となって返ってくるものなのだ。お互い惜しまれつつ亡くなり、死んでからも感謝される人でありたいものだ。

また、もう一つ付言しておくが、「恒の徳」を発揮して修養を重ねていくと、最初は振幅が小さくて自覚が少ないが、徐々に大きくなって、やがて倍々ゲームで徳が積めるようになるということだ。

真に徳のない人は、徳を積むチャンスに恵まれない人であり、真に徳のある人は、ますます徳を積むチャンスに恵まれる人だ。「貧しき者はますます貧しく、富める者はま「すます富む」とは、経済学者ミュルダールが「貧困への挑戦」の中で引用している言葉である。

日本の中小企業と大企業との格差もこの如くであるが、逆にいったん「富める者」になれば後は加速度的に富むことができるという訳だ。要は最初の積み上げとチャンスが芽生えるまでの待ち時間の過ごし方である。

秘訣は山登りと同じで、上を見ないことである。「まだ、あんなにあるのか。とうてい無理だ…。自分にはできっこない…。来世だな、こりゃ」と思ってしまうからだ。

だから、足元と下を見ればよい。「ああ、もうこんなに登ってきたのか……。うわあ………。景色があんなに遠くまで見渡せるぞ…。やはり、山登りは気分爽快だな…。頂上まで行けば、もっと素晴らしい景色が見えるだろうな…。頑張ろう」ということになる。

昨日より今日、今日より明日、楽しみながら少しでも進歩があればよい。やがて必ず頂上にいけるのである。「蝸牛ゆるゆる登る富士の山」これが絶対に成功する求道者の心構えなのである。会社の経営でも、書でも、絵でも、音楽でも、学問でも、およそ道と名がつき、修養と名がつけば、全てにあてはまる大創運の一大原理であるといえるだ

投資に必勝法はあるか

さて、多くの人が誤解しているのは、投資という言葉である。投資とは、将来を考え、それに対応できるように資金をつぎ込むのであって、利ザヤを稼ぐ行為ではない。

投資ブームで、われもわれもと株に手を出す風潮があるが、株の値動きに神経をとがらせ、利ザヤを稼ごうというのは、投資ではなく投機、つまりマネーゲームなのである。まずその点をしっかりふまえておくとよい。

さて、投資は、将来に対する資本投下である。一人の人間の教育費と考えてもよい。教育費は教育のために使うのであるから、日に日に浪費されるべきものである。その教育の結果、その人の能力が開発されれば、さまざまな形で利を生む。

当然、金という形にもなるはずだが、それをもうけたと大喜びして使ってはならない。少なくとも、ふたたび教育の資金として還元してやることによって、はじめて金は順調に回転するのである。

このように考えれば、投資の心が分かるはずである。「投資の心母心、出せばお金の泉わく」、まるで指圧の浪越徳治郎のようだ。幸福実現のために、徳積み投資をやり続けよう。