大創運(Vol.12)

肉体の健康を保つには?

「健全な魂は健康な肉体に宿る」という箴言があるが、近頃は健康な肉体に不健全な魂が宿ることも少なくない。

これ、ひとえに医学の進歩によるもので、肉体の病の方はどんどん治ってしまう一方、病んだ魂はそのままの状態に放置されてしまうというわけだ。医学の進歩は、かつて死に至る病であった結核を克服し、ガン治療にも光明を見出している。

だが、医学の進歩に人間の意識が追いつかないところから、新たな悲劇をも生んでいるのだ。生まれた時、すでに脳死状態であった嬰児を生命維持装置で生き続けさせてい病院に対して、両親が「これ以上生きさせるのは子にとって残酷な行為だ」と訴える事件があったが、生きる権利に対する死ぬ権利問題には明確な答えは出されずにいる。

また内臓移植にまつわる死の定義についても、世界的な意志の統一はなされていない。対するに、不健康のままに取り残された魂が、新たな病気を生み出している。

後天性免疫不全症候群、AIDSの蔓延は、単に疫学上の問題ではなく、心が病んだことの結果として捉えられるべきだろう。

性の個人化が叫ばれ、過去のモラルが崩壊し、異性愛よりも同性愛を標榜する方が進歩的だと考える人、不特定多数との接触を肯定する人々の増加と、軌を一にしてAI DSが表面化したことが、そのひとつの証拠である。

また「病は気から」というが、不健康な魂が、心の病いそのものを増加させていることも事実だ。いわゆる精神病の領域のことは別にして、突如、正常さを失って異常な行為に走り、悲惨な結果をもたらすことも少なくない。

宗教の名のもとに、仲間の体の中から悪魔を追い出そうと、殺した上、切り刻むという猟奇事件が起きたが、これなども、現代人の心がいかに病んでいるかをまざまざと思い知らせるものだ。

この病から立ち直るにはどうするか。神の示す正しい道、すなわち調和と自然の正道を、色々な分野から検討して発見し、それに添って人々が歩む以外にないのである。

人は病では死なない

ある患者が手術の甲斐もなく亡くなったとする。医師は「手術は成功したのですが・・・・・・」と言う。

患者の親族はやむを得ないと思いつつ、どこかで割り切れぬ気持ちを抱くはずだ。「死んでは、手術は成功したとはいわないのではないか」

そう思うのも無理のないところだが、死は手術の成否の結果ではなく、ましてや病気のためではないことを知っておくべきである。

では、なぜ死ぬのか。それは寿命である。寿命がある限り、いかなる業病、難病にも耐えられるが、寿命がくれば、些細な原因でもあっけなく死んでしまうものなのだ。

もちろんこれは原則である。本来ある寿命を縮める行為もあるのである。それが自殺であり、極度な肉体の酷使であり、過度な不摂生なのである。寿命とは、ごく普通に生きて、普通に健康に気をつけて生きている状態を前提とした言葉なのだ。

ところで、あるスキー場での話だが、リフトを待って並んでいた青年が、バランスを崩してコテンとひっくり返った。仲間が「ドジだなァ、お前」と、引き起こそうとした時はすでに死んでしまっていたのである。

死因は心臓麻痺などの病気ではない。ころんだ時、雪面からわずかに露出していた岩の角に頭をぶつけ、頭蓋骨が陥没してしまったのだ。

人は「なんと不運な」という。「そんなつまらぬことでなぜ死ぬのか」という。しかし、寿命がきれるのに理由はいらないのである。

余談だが、縁日で銭亀を売っているおじさんに、子どもが「これ、長生きするの?」とたずねた。おじさん「鶴は千年、亀は万年というから、ずっと長生きするよ」

喜んで買っていったらその日のうちに死んでしまった。翌日、子どもは亀の死骸を持ってきて「おじさんのうそつき。この亀、一日で死んじゃったよ」

「ウーンそうか、ちょうど一万年目だったんだな?」

これは単なるペテンである。

寿命は努力で延びる

明時代の中国の思想家に袁了凡という人がいる。前述した横尾忠則さんの前世である。

ある時、易の大家、老人に会うと、孔老人は了凡の一生を占い、こう言った。「あなたは、何歳で科挙(官吏登用試験に合格するが、その時の席次は何番である。結婚するが子には恵まれない。寿命は五十二歳まで」

まさかと思ったが試験を受ければ孔老人の言うとおり、結婚しても子はできない。ことごとく占いが当たっているので、すっかり運命論者になってしまった。

もう自分の一生は、神のタイムスケジュールで決められているというわけだ。その結果、一切ものに動じない心の備えをするようになっていた。

後年、禅に関心を抱き、参禅したが、三日三晩、一度も雑念、安念、不安に心を乱すことがない。その姿を見た雲谷禅師が、どこで修業をしたのかを尋ねた。凡は、運命論者になったいきさつを語り、「私の未来は決まっていますので、全然迷うことはありません」と言った。

それに対して、雲谷禅師は、「この愚か者よ。古の聖人や先哲達は、天から命数(寿命)を授かっているそれを、徳を積むことによって、改善したのだ。寿命を延ばし、自分の運命を切り拓いていったその足跡を汝に教えてやろう。

運命論者などとおさまりかえっているのは、単なる凡人にしかすぎない」と叱り喩した。

この言葉に目覚めた了凡は、一生懸命徳を積み、造命、創運の努力をした。その結果、子どもは生まれるし、五十二歳であった寿命は七十四歳にまで延ばすことができたという。

人が死ぬのは寿命であるが、それを延ばすことは努力によって可能なのである。

病に勝つには

すでに述べたように、人は病気では死なない。そしてまた、天に授けられた寿命は、自分の努力、徳を積むことで延ばすことができる。

このことをまず信じて、闘病の心構えを作ることが大事なことである。

ただし、徳を積むことが、ただ「自分が生き延びたいため」という動機であっては、無意味であり、効果はない。「人のために自分の寿命ある限り生きて徳を積もう」という心がけが肝要なのである。

エゴと邪念を排して、限りある生命の中で努力すれば、神は新たな生命をそそぎこんでくれるはずだ。いや、それだけではない。病気そのものを体内から追い出してもくれるのだ。

私の話を聞き、日夜、徳を積もうとしたガン患者がいて、末期ガンであったが、徐々に病巣が縮小し、医者が「完治しました。奇跡という他はない」と、呆然とするばかり。

今、その人は、健康人と同じ日常生活をしているが、その気になった人間には神は偉大な力を与え拾うのである。