第三章 運営の中でおのれの心を磨け ~全国支部代表者会議にて 1998年9月20日~
御魂を捧げるということ
御魂を捧げるということ
ご奉仕とかボランティアでやるっていうのは、時間を使い、労力を使い、またプライドを持ってやっていると思うんだけど、辛いこと苦しいことというのも多いものです。入会後のフォローをするとか、本を見ていただくとか、道を進めるとかっていうのは、あんまりカッコイイものじゃないと思うんです。
でも、そこの忍耐の分と一生懸命労力で頑張ってる分、よかれと思って汗を出して、汗水たらして血が出るような思いをして、初めて誠というものが輝くわけです。
自分なりに苦しいなとか、辛いなとか、大変だなというのは、一生、生きてる間にいろんなことがあります。何をやってもね。
しかし、ご神業上のことはそれらのものすべて神様に捧げるわけです。忍耐したものを神に捧げる。汗水たらしたその汗と水を神に捧げる。それが、「誠を捧げる」ということです。
真心というのは心だけなんだけど、そこに口と行いが伴って「誠」になる。
口で言ったことに行いが伴って、真心が入って、初めて御魂が輝くわけです。神に何を捧げるかというと誠を捧げるのだけれども、「誠を捧げる」ってどういうことかというと、神に御魂を捧げるわけです。
それを、神様は受け取ってくださるから御魂が磨ける、「御魂の恩頼」になる。水晶のように御魂が輝き始めて、御魂に神がお懸かりになる。これが正しいお取り次ぎだし、これが本当の神懸かりだし、これが神人合一の一つの原則になっているわけです。
「神人合一」ということは、いろんな角度から見ていくことができます。「神様」という人格神と「自分」というものの対話これも神人合一です。
救霊も九頭龍も薬寿も、皆それなりに神様と合一してやるわけだけれど、何をする場合でも、そうやって真心に口と行いが伴った誠を捧げていく。汗を流しながら「この汗を神に捧げます」、苦しいという思いがあれば、「この忍耐を神に捧げます」「血を吐くようなこの血を神に捧げます」と。
みんなから誤解を受けて、いろいろ言われて孤独な思いを受けたら、「この孤独を神に捧げます。お受け取りください」と。
ここまで心が深く、ある一定以上まで来たら、やはり神様は、その人にとっ切実な問題を必ず解決してくれます。たとえば、「縁を広めたから結婚ができた」というふうに。簡単に言えばそうですけれど、では、「縁を広めたいからやろう」というのは、それも初歩的にはいいけども、何回も回数を重ねていった人はどうなのかと。
神書流布の隊長や責任者となったら、その人その人の持っている因縁とか、劫とか、気持ちの深い浅いとか、個人差があるので人によって違いますけれど、深く自分を極めて誠を捧げていけば、やはり、その人の中のいろいろな問題は解決されていきます。これはプロセスの中で必ずそうなっていく。ハッキリ出てきます。
神書流布ばかりでなく、ご神業上のことであれば、すべてこの原則は当てはまります。支部長でもそうだし、救霊コミッティー、九頭龍のコミッティー、
何でもそうですね。
神様は絶対に裏切らない
十五歳のころに神様の道を志して三十二年、誰から教わったわけではないんですけれども、私は、「神様だけは、どんなことがあっても裏切らない」と思い続けてきました。
人間に期待をかけたら「この人は」と思う人に、いつも裏切られてしまう。特に女性に(笑)。小さいころからずっとそうでした。
幼稚園に入ったときだったかな。向かいの女の子に「あんた、目大きいねぇ」と言われて、砂をバーッと目にかけられたんですよ。僕の運命はそのときに決まりました(笑)。それに類することがずーっと今日も続いてます。
その子は一重まぶたで、アカギレみたいな目だった。泣いて帰ったら、母親から、「女の子に砂かけられて泣いて帰るなんて、不甲斐ない男の子だ。そんなことで泣いて帰るもんじゃないよ」って言われたけれど。
でも、「向かいの女の子は気がきつい子だ(笑)、あんたは、素直すぎるのよ」とも言われました。
小学校の五年生のときは、Mさんという女の子が好きになりました。三つ編みでいつも水色のジャンパーを着ていた。そのころ、私は背が低くて、Mさんも背が低かったので、席が隣同士だったんです。六年生のときもそうでした。中学に進むとき、私は、地元の中学校に行ったのですけれど、彼女は女子校に行ってしまって・・・・・・引き裂かれてばかりですね。
どうでもいい話ですけど、驚いたことがあります。
Mさんが、誕生日に、お父さんからプレゼントもらったというので、「えっ、何もらったの?」と聞いたんです。そうしたら、「これ」と言って見せてくれたのが、受験研究社の「自由自在」。参考書です。
私だったらオモチャとか、釣り道具とか欲しいじゃないですか。こんなものプレゼントでもらったら「要らん」と言う(笑)。でも、Mさんは喜んでいた。誕生日のプレゼントに数学の参考書をもらって喜んでいるです。私とは違うなあと思いました。
とにかく、小さいときからずっとそんなことばかりです。引き裂かれたり、砂をかけられたり。そんなとき、いつも「神様」と言って泣いていた。神様だけは裏切らない。真心込めて一生懸命よかれと思ってしたことならば、神様は絶対に裏切らない。
あまりにもばか正直なものだから、言葉どおりに人を信じて、何回も何回もだまされました。しかし、神様に向かってお祈りしたこと、神様に向かってしたことは一度も裏切られたことがない。
すぐに返ってこないときでも、「きっと神様が何か考えているに違いない」「きっと、神様が僕のことを思ってこうしているのに違いないんだ」と思ったら、本当に、しばらくしたら必ずそうなります。「ああ、ああいうふうに思ってよかったな」と。小さいころからそうだったし、十五歳でご神業に志を立てて、神様のためにと思って三十二年、いつもそうだったからね。
命は捨てられても我は捨てられない
神様の道がこんなに深いものだということを極めるまでには、みんなが遭遇する悩みや葛藤は、全部、小さいころから今日まで体験してきました。この現実界で自己実現するのは、いかに困難で思いどおりにいかないものなのか。
煮え湯を飲むような思い、屈辱感。不安と恐怖、わびしさ、葛藤、割り切れない思い。人の間に入って悩んだり、真正面から責任取らされたり、しりぬぐいをさせられたり……。
しかし、そうした中でも誠を貫き、御魂を捧げるということが、神様が一番喜ぶわけです。
御魂を捧げるというのはどういうことなのか。
みんな、命は捧げられるんです。大義名分があり、自分が納得して、「これだったら」という道だったら命懸けでやる。命を捨てることもできる。それも大変なことですけれどね。滅多にできることではありませんけれど、自分が納得したことなら、命を捧げることができます。
しかし、自分が気に入らない、納得できない、意義を見出さないことのために死ねるでしょうか。できないことですね。意義が見出せなければ「自分が何でこんなことのために死ななきゃいかんのだ」と納得できない。その納得できない部分は何かというと、「我」なんです。
人間というのは、命は捨てられても我は捨てられない。その我を捨てるために屈辱感があるわけです。それは、煮え湯を飲むような境地、精神の苦界です。でも、その精神の苦しみの海の中に自分がいるときに、初めて神との出会いがあるんです。本当の、本当の神との出会いがある。
神様もそういう世界に住んでおられるからです。
神様はいつもそういう世界に住んでおられて、忍耐と苦界の血を吐くような思いで人類を見守っておられる。民を救っておられる。「何とかこの人たちを救わねばならん」と思って、地獄の中にも入っていく。血の池地獄の中にも入ってきて、どうしようもないような連中に救いの手をのべられる。
もし、人間がそのように命も捨て、我も捨てるとなったら、その人は神様なんですよ。これが神人合一の極意です。
それがわかっているから、苦というものから逃げようとしないし、葛藤というものから逃げようとしない。ますます葛藤は増えていくけれど、割り切ろうと思わない。割り切れないことばかりだから、割り切ろうともしないし、割り切れなくてもいいと思っています。
精神も肉体も頭脳も心も酷使して、倒れそうになっていても、あえて苦界の泥海の中に飛び込んでいって、そこに神様がお出ましになって、安らかになるまで決してそこから逃げない。そうやってそこにいれば、必ず神様が来て救ってくださる。奥深い人間を超えた、我を超えた、自分の神なる部分の輝きに神様が降りてこられる。そうして呼びかけてくれる。
「頑張れよ。神も応援するから、しっかりしろよ」
「あの人間は、このように導いていけば救えるのじゃ」
「この問題は、こういうふうにやっていけば超えられるのじゃ」
勇気を与えてくれて、叡智を与えてくれて、忍耐力を与えてくださる。
これが本当の信仰心というものなのです。
命は捨てられても我は捨てられない。しかし、本当の信仰というものは、そこを乗り越えていく。命も捨て我も捨てなければ、神人合一なんていうのはありうるわけがない。
そこまでの境地に三十二年の間、何千回となくなっています。毎日そうです。そうじゃないときは緩んでいるし、神様が遠くのほうにいる。
だから、絶対に逃げないし、ケツを割らないし、棒を折らないし、捨てないし、やめない。貫く精神こそが信仰心だからです。
貫く精神のことを、「信仰心」と呼ぶわけです。
貫けない人は、どんなに才能があっても、どんなに愛があるつもりでも、どんなにみんなのことを思っているつもりでも、それはわがまま、自分勝手、「我」に生きているわけで、信仰心があるとは言えない。
すべての才能に弥まさる才能は、信仰心です。真の信仰心を貫いて、神上がりするという才能、信仰の才能が一番の才能なのです。
神に向かう心を見つめなおせ
スタッフの中には、仕事がろくにできない人もいるし、仕事ができても穴ボコだらけの人もいるし、細かい気配りが足りない人もいます。若いときからはげてる人もいるし、なんかこう風采の上がらない人もいる(笑)。
だけども、心根っていうのは純粋な人が多くてね。神様には熱心で、貫いてきている人がいっぱいいるんです。神社参りとなったら目の色が変わります。
その貫く精神の思いの分だけ、生霊も強いものも出したりしますけれど、でも、その才能が一番だから、いろいろこの世的に足りないところはあっても、神様は、お受け取りになっている。
だから、私も絶対に見捨てないんです。この世的に見ればもう腹が立つようなスタッフも多いけれど、何が大事かと考えたら、会社じゃありませんから絶対に見捨てない。
エンゼル会の支部長や救霊・九頭龍師のみんなも、一生懸命努力してきた人、少しぐらいこの世的に足りないところがあっても、貫いてきた心、貫いてきた信仰、神様の御為にと思って命も我も捨ててそれで来た人は、絶対に見捨てることはない。
それは、神心を大事にしているからです。そういう心というのが、やっぱりエンゼル会の皆さんの中にも、もっとあっていいんじゃないだろうか。もっと普遍的な「信仰」というもの、神に向かう「心」というもの、心の奥にあるもの、そういうご神業がみんな足りないんじゃないですかね。
だから、事なかれ主義になったり、責任のなすり合いになってきたり、生霊の飛ばし合いになったりする。あるいはまた、「最近やる気がしないなあ」とか。やる気がするとかしないとかの問題じゃないと思うんだけど。
エンゼル会のエンゼル会員、少なくとも支部長とか支部の代表者となっている人は、信仰というものの道における大先輩であり、あるいは指導者であり、リーダーであらねばならんはずでしょう。そこの中身というものをどれだけ深く自分を見つめているのかな。
そういう神に向かう心。みんなが心を一つにしていこうというときに、どういう心を持ってご神業に臨み、ご奉仕に臨み、布教に臨んでいるのか。
支部の運営でも何でもそうです。その心がちゃんとできていたならば、現実界も調うし、神霊界のふたも開くわけです。
私が、道歌の中に読んだようなものは、今だけではありません。ずっとなんです。物心ついた五歳のころから。家がそうでしたし、忍耐や苦吟が三十二年続いてます。
でも、そういう中で、自分の内なるものが磨かれ、研ぎすまされ、深まり、鍛えられた分だけ、神霊界というものが感応する。深い神霊界、冴えた神霊界、広い神霊界、多様なる神霊界に自分の魂が感応するわけです。
自分の中に宇宙の軸を立てる
心を練っていくというのは、どういうことか。「練る」とは、煮え湯を飲むような思いであり、鞭打つ心です。
虚しい。わびしい。寂しい。つらい。はかない。うらやましい。妬ましい。もうだめだ、やめる。腹立つ。落ち込む…..。
そういうふうに浮いたり沈んだりする自分の心、右へ行ったり左へ行ったりしている自分の心をしっかり見つめて、自分で自分に言って聞かせる。自分で自分に喝を入れる。あるいは、だめなときは自分で自分を慰める。
自分で自分を慰めたり、喝を入れたり、励ましたり、「ばかもの!甘やか「すか」と自分に言ってみたり、そうやって自分に向かう自分が、一人ひとりの中の天常立神様、宇宙の軸、御魂の軸ですよ。「常立」だから常に立てているわけです。
中身も磨いてない人間が、神書流布にしろ、支部の運営にしろ、九頭龍の法にしろ、救霊の法にしろ、くだらないつまらないことに文句を言ったり、偉そうに言ったり、燃えてこなかったり、「やる気がありません」と言ったり。
わがまま放題、言いたい放題、我の張り放題、妬み、嫉み。魑魅魍魎のよう心を平気で飛ばして浮いたり沈んだりしているのに、よく言うなあと思うね。自分の心を見つめてみたこと、あるんだろうか。どこまで自分を甘やかしたら気が済むんだろうか。
ご神業って何なんだ。神様に向かい布教に向かうけども、それらを通して、何で自分を磨かないのか、何で自分に鞭打たないのか。落ち込んでいたら、何で自分で自分を励まして、やる気が燃えてくるまで蘇生させないのか。浮いたり沈んだり、右行ったり左行ったり、落ち込んだり、ヘロンとなったまま。何で、自分で自分を見つめて、それを超えようとしないのか。
浅い浅い自分への向かい方だ。浅い浅い受け取り方だよ。本当に若いころに苦労したことないんだなと思うよね。
その心が練れていたなら、練れた心の人が一人いたら、エンゼル会はまとまるし、支部もまとまるし、神書流布も広まるし、天変地変も乗り越えられる。
私は、苦界の海に生きているんですよ。それは神様の御為に。神様もそうだからなのです。
それが自分の信仰力の証だ。「みんなのために」と思う愛の証だ。世の中を思い、人類を思う自分の真心の証なんだ。
その気持ちの上にあぐらをかいて、いろいろとよく注文なさいますね、皆さん。いろいろと意見をおっしゃいますね。低次元なことで、よくいろいろと揉められますね。
私の話を聞いて、アンケートで「黙って先生についていきます」「先生の苦しみを少しでも分かち合います」というのが何人もあったけど、本当にそう思うのだったらば、まず細かいグチャグチャしたことで悩まないでください。
黙って「はい」って言ってついてきてください。何でも自分で責任取ってください。自己犠牲を厭わず、我を張らずに、一緒に苦界の海に生きてください。神々様がそうであるように。
そういう人が一人でも二人でもいたならば、どんなに私は心強いことかと思います。得難い素晴らしい神柱だなと思って、心から慈しむし、お礼を言います。
「ありがとう。君こそ本当の我が友だ。君こそ本当の神柱だ、君のためにも私は頑張るよ」と。
自分の中の神心を練り、鍛えることを忘れているから、妬んだり、恨んだり、浮いたり沈んだり、「支部長がどうの」「コミッティーがどうの」「あいつがどうの」と、わがままが出るわけでしょう。
みんなの気持ちはわからないでもないけれど、その気持ちを自分で超えていったらどうだろうと思うんです。
それで人に相談するわけです。相談したい気持ちもわかるけどね。相談して少しはスッキリするだろうから、ある程度は相談も要るとは思うけども、ずっといつも相談するのだろうか。相談した後、自分で自分のことを決めなければいけないでしょう。
アルプス合唱団であったこと
昨日、宝生東州会の第一回の鍛練会(一九九八年九月十九日)がありまして、そこでも聞いた人は繰り返しになりますが、全国のエンゼル会の皆さんにも考えていただきたい。
私が団長を務めるアルプス合唱団で、Cさんを通して「アルプス合唱団の人間は、全員、宝生東州会に入るように」ということを言いました。その経緯については、長々といろいろありますが、エリア本部におけるエリアコミッティの懇親会で、それを取り上げて説明をしたところ、ほとんどの人には納得いただき「先生の言うことだから」ということで宝生東州会に入ったんです。
ところが、Cさんから手紙がきまして、その中に「二、三人経済的理由で入れない人がいまして……」と書いてある。「全員が宝生東州会に入るのは、ちょっときついかもしれません」というふうにCさんは上手に言ってきました。
ただ、表面上はそういうことだったのですが、私もエンゼル会の隅々、コミッティーの隅々にも、アンテナはいっぱい張っていますから、ふとした直感から聞いてみると、いろいろ話が入ってきます。背後霊団が七千人もいますんで、誰かが聞いているんです。ひょんなことからわかるわけです。
確かに二人ほど、宝生東州会に入らない人がいました。しかし、それは経済的理由じゃないんですね。「深見先生の言うことはおかしい」と言って入らなかった。頑固な人が二人いて、そういう理由で、宝生東州会に入っていないのです。
合唱が好きな人が集まるのが合唱団ですから、別に能の謡に興味がなくても不思議ではありません。
「合唱が好きだからアルプス合唱団にいるのに、何で宝生流の謡なんかをやらなければいけないんだ。先生の言うのはおかしい」と。
当然そうです、私もおかしいと思いながら、あえて言っているんですから。それで私は、昨日、こういう話をさせていただきました。
しかし、言わせていただくと去年の秋に「今年の九月に箱根の山が爆発し、富士も爆発し、首都圏・東京の機能がストップする」なんて、こんな荒唐無稽なような話を信じておきながら、何で団長がこっちに行けというのがおかしいと言うのか。
「伊勢神宮の下に契約の箱が埋まっている」とか、「神社の神様の後ろを見たら、ユダヤの預言者だった」と。こんな怪しいことをいっぱい言って、それをみんな信じているのに、何で同じ人である合唱団の団長が「宝生東州会に入るように」と言うのをおかしいと言うのか。
「深見先生の言うことなんだから、何か意味があるんだろう」ということで、何で黙って「はい」と入ってくれないのか。
これを「我見」と言います。その二人以外は、全員、入ったんです。私はみんなよくわかって言っていることです。やはり何倍もすぐれた見識とものの見方考え方を持っているわけで(笑)。なんで「先生の言うことだから、何かあるのに違いない」って言ってくれないのでしょうか。その心があったらみんな和の精神が成就できるんじゃないですか。
能の付祝言の中に秘められた神仕組
去年の十二月二十三日、アルプス合唱団の東京・大阪・名古屋のジョイント・クリスマスコンサートが実現しました。
最初は、関西のアルプス合唱団と静岡支部の人が「同じチャリティーコンサートをやるだったら、一緒にやろう」ということで始まった話です。それで静岡で百五十人の会場を設定して、Cさんが「先生、ぜひ来て歌ってください」と言ってきたわけです。その話を受けて、私はこう提案しました。
「アイデアは聞くし、いいことだとは思うけど、しかし、百五十人の会場というのは、あまりにもスケールが小さすぎるよ。同じやるなら、もっとでっかいチャリティーコンサートにしようよ」
そうして、関東のアルプス合唱団、名古屋のアルプス合唱団、関西の合唱団の三つが、ジョイントしてコンサートをすることになった。大阪のアルプス合唱団にバス二台チャーターして、名古屋の合唱団もバス一台チャーターして、そのバス代はワールドメイトが負担する。ゲストを呼んだつもりで、交通費は全部負担してあげようと。
宿泊も、ワールドメイト会館やエスポワールや、あちこちの支部にお願いして全員の分を確保しました。
宿泊費もゼロ、交通費もゼロ。合唱団の皆に経済的な負担をかけないように全部用意して、十二月二十三日の関東定例会の後、関東、名古屋、関西の三つのアルプス合唱団がジョイントして、二時間、コンサートを行ったわけです。
こういうふうにするときは、当たり前のごとくしてもらって文句は出ないわけです。ワールドメイトの負担ということは、会員の皆さんの玉串が循環しているわけです。
そういうふうにしてもらっていることは当たり前のごとく思って、納得できるから「はい」って言うんだけど、たったそれだけのことが、何で「先生の言うことはおかしい」と思って我を張るのでしょうか。おかしいということはわかって言っているんだから。
能というのは本当に素晴らしいものなのですが、唯一の欠点は「とっつきにくい」ということなんです。やったらほんとに楽しいんです。
私は、オペラも能も両方やっています。声楽にしろ、音楽にしろ、アルプス合唱団の誰よりもよっぽど極めていますよ。能だって半端じゃありません。免状もらって教えられるんですから。その私が言っているのだから、何で素直に「はい」と言えないのでしょうか。
もちろんその人は、命も捨てられないし、我も捨てられないし、何でも素直に従えないという方なんでしょう。天変地変だけは信じるみたいだけどね。
能の付祝言というものは、「千秋楽は民を撫で」。これは、本当に神様の仕組が入っていますから、これを広めていきなさいということです。それから、アルプス合唱団については「日本中で有名になる」というような予言があった。これだと思いましてね。
今の日本オペラ界というのは、本当に能というものを研究しています。これは「能楽風に」とか、「謡曲風に」とか、「今様風に」というような歌い方で、たくさんの人が、日本古来の音楽、能的表現というものを現代音楽や合唱曲の中に取り入れているんです。世界にないものですから。
しかも日本歌曲とか日本歌曲風の言葉というのは、やっぱり古語、擬古文調の文章が多いわけで、西洋音楽をやる人にとっては、大変おしゃれな、カッコイイ分野なんです。
それでアルプス合唱団がコンクールに出て、たとえば有名な合唱曲を歌った後、「付祝言」とプログラムに書いてある。審査員は、「付祝言って、何だろうな」と。それで最後に「千秋楽は民を撫で萬歳楽には命をのぶ」と合唱団が謡うと驚きますね。
いろんなコンクールとか合唱会に行って、必ず最後は付祝言を謡う「宝生流の合唱団」というのは、いまだかつてなかったものですから、日本中の合唱会で有名になりますよ。
謡曲の謡い方、発声とオペラの声楽の発声、私は両方研究しています。共通項と違うところとがあるんだけど、大変おしゃれな発声の技法とかやり方がいくらでもあるんです。それを次にやろうと考えているから、「全員入りなさい」と言っているわけです。
このように説明を聞けば納得するわけです。では、説明を聞くまでは納得しないのか。この心が問題なんです、この心がね。
危機を乗り越えていく心
一人ずつの個に主体性があるわけですから、民主的であることはいいんです。その魅力もわかるし、民主制なのもわかります。ただ、能楽というのは、日本古来からのものを持っているわけで、そこは全部序列で決まるんです。その序列の最高が家元です。
何か問題があって揉めたときは、納得できる余地のある場合は話し合いをしますが、納得できないことがあったときは、序列が上の人が「こうだ」と言えば、それで決まるんですね。序列の最高は家元ですから、家元が「こうだ」と言えば、全部それで決まります。
そうやって伝統的なるものが守られてきた。どちらも一長一短があります。両方ともすべていいわけではありません。
民主的な運営をして、一人ひとりの意見は聞いてあげるけども。とにかく、末端の人間がコミッティーに対して吊るし上げをするとか、コミッティーが議長を吊るし上げをするとか、エンゼル会員がコミッティーを吊るし上げるとかいろいろ言うとか。
それで、コミッティーもエンゼル会もワールドメイトのスタッフや幹部を吊るし上げるとか、おかしいと思うとか。それから、また深見先生がおかしいと思うとか。
民主的なる運営方法というものの欠点です。文句と非難とわがままと自己中心的な主張を言い合って、まあ不承不承やってやろうっていう、これが民主政治です。
私は、神様のことがまず第一だけれど、みんなのことをいつも考えているし、お国のこと、これから迫りくる危機をいつも考えて苦界の中に生きているんです。もうちょっと自分を深く見つめていただきたい。
それだけのものを神様に託されるまで、三十二年の間、休む間もなく内に極め、外に極め、全人格的に磨いてきました。もちろん百点満点じゃないですよ、
まだまだ足りないところがありますから。
しかし、たとえば、M先生という宗教評論家は、「日本には数多くの宗教団体があるけれど、宗教界全体を見渡しても、深見さん以上にすぐれた宗教家はいません。宗教界の次期世代のホープです」とおっしゃっています。
「日本の宗教界見渡してもあなた以上に実力のある人間はいませんよ。焦らずにじっくり普通にしていたら、何もしなくてもトップになりますからね」
そう言って、M先生は私を励ましてくれましたよ。宗教評論家とか、まじめに研究している人は皆わかっていることです。
N先生という桃山学院大学の宗教学の専攻の教授は、近世の優れた宗教家として三人名前を挙げています。一人は出口王仁三郎、一人は高橋信次、もう一人は深見東州。
「しかし、王仁三郎も高橋信次さんも亡くなっているから、現存する中ではあなたが断然トップですよ」とN先生はおっしゃっています。
それから東大の宗教学の教授のS先生は、「戦後にすぐれた宗教家は三人いる。一人は庭野日敬、もう一人は高橋信次、三人目はワールドメイトの深見東州さんだ。高橋信次はもう亡くなってるから、庭野日敬さんと深見さんの二人だ。
本物の宗教家っていうのはこの三人だと思います」と言っているわけです。
ちゃんと会員になって私の著作も読み、話も聞いて全部調べています。「宗教に関する知識だけでなく、たとえば仏教についても、それをどう捉えていくのかというセンス、表現のセンスがどこよりも最先端をいっていて、どこよりも深い」と東大の宗教学の教授のSさんがそうほめてくれるわけです。エンゼル会とスタッフがわかってくれないだけでね。
これから私が中心になって、大きな危機を乗り越えていかなければならないわけだけども、危機に対してどう考えるか。
「危機だから頑張らなければいけない」ということではないんです。危機に対しては心なんです。この危機を乗り越えていくのには何が要るかっていうと、心なんです。その心根、心掛け、心構え、心の持ち方によって現実界が調うし、神霊界のふたが開く。
心で向かって心を磨かなかったら、危機がある程度去ったらどうなるかというと、組織はバラバラになってしまいます。「危機だから頑張った」ということだったら、危機が去ったらバラバラですよ。
危機をバネとして、尊き試練として受け取って、また有り難い試練として受け取って、光栄なることだと受け取って、お互いが心を磨いていったならば、危機が去った後、立派な組織ができ上がるじゃないですか。立派な人材が育っているじゃないですか。
本物の信仰心が樹立されているじゃありませんか。永遠無窮の幸せ、御魂の幸せというものが会得できているじゃありませんか。
日本に民主政治が芽生えなかった理由
民主政治ってどこから来たのか。我の塊のようなヨーロッパから来たんです。日本には、民主政治というものは芽生えませんでした。
なぜか。それは天皇様が権力によらず、権威を持って国を治めてきたからです。下の人たちは、皆、素直で「はい」と言って治まってきた。上は下をおもんばかり、下は上をおもんぱかって、「易経」でいう「地天泰」だったわけです。
天皇は本当にお優しくて、いつも民のことを思い、心を砕いていました。何人かの例外はありますが、でもほとんどは仁徳天皇のような方ばかりです。仁徳天皇が山の上に上がって里のほうを見ると、煙が少なくなっていることに気づきます。それで側の者に尋ねてみると、「不作で民は苦しんでいるんです。それで煙が少なくなっているんです」と。
「ああ、そうか。そういうことならば、昔の暮らしぶりがよくなるまで税金を取るのをやめよう」
仁徳天皇はそう決めて、労役も年貢もなしにした。皇居に雨漏りしても修理もせずに、年貢も取らないであるもので暮らしたわけです。
それで三年経ってまた丘へ上がってみたら、煙がもうもうと上がっていた。「ああ、よかったな。民が栄えてよかったな」
それで安心して、また少しずつ税金を徴収して御所の修理もぼちぼちやり始めた。このように仁の徳があるから仁徳天皇というわけです。
そうやって天皇は、「天が下、平らけく安らけく」いつも民のことを思い国を治めていた。下の人たちもいつも天皇を思って従っていました。「和を以って貴しとなす」ということを基調に、上も下も心を一つにしていた。だから歴史の中に民主主義なんて起きなかったわけです。
武士の時代がきても、天皇にはちゃんと礼節を尽くしていました。そして天皇は、権力にあらず、権威で国を治めていた。権威といってもヨーロッパのような専制君主ではありません。一族をおもんぱかる王であると同時に、祭祀王であり、神祀りを専らとした。天皇は、皆、宗教家だったんです。
何でも目上の言うことを、「はい」と聞けというのではありません。目上の言うことには、何でも黙って従えというふうに浅く受け取らないでください。
下が上をおもんばかりながら、一応「はい」と受け止めて、そのうえで「こういうところも改善したほうがいいんじゃないでしょうか」「ここは、こうしたほうがいいんじゃないですか」と。
自分というものがあって、上に主張するんじゃないんです。和を以って貴しとなす。みんなが仲良く団結していくために、一応目上に礼を尽くして「はい」と言ってみよう。我を張るのではなく、みんなのことを考えて前向きに一つずつ解決していきましょうと、そういう心根を言っているんです。
その心根ができ上がってないから、浅いものだから、受け止めるより先に文句ばっかり出てくる。「やりましょう」と上が決めても、「ああでもない、こうでもない」と言って結局やらなかったり、文句と自己主張と批判と吊るし上げの追及ばっかりが発達してくるわけです。
ご神業ってどこにあるのか。運営そのものがご神業ですからね。
運営そのものがご神業であり、その中に個人のご神業がある。苦界の海に生きて、愛を貫き、忍耐を貫き、責任と重圧を喜んで飛び込んで神性、神なる自分を磨いていくのが、個人のご神業です。
あるいは、みんなと和を持って、神書流布や布教を通して人の心を救っていくという救済の神業。仲間が増えていって一致団結して、神のふたを開けて国を救っていくという神業。
さらに、より多くの仲間が増えて心を一つにして祈って人類を救っていくという神業。今までの宗教界になかったもの、既成の概念を超えたものを、いくつも出して時代を変革していく宗教界の革命児としての神業。真心と真実の愛を貫き、神性を発揮して宗教史の歴史に残る活動をしていくという神業。
それらはグループとして、組織を持って進めていかなければいけないことだけど、その根幹にあるのは、一人ひとりの個人のご神業なんです。
それは私が今、言ったように、私が修養してきたように、君たちが一人ずつできてきたら、どんな組織もまとまるし、いろいろ問題が起きても簡単に解決乗り越えられるはずなんだ。行き詰まるのは、そういうふうに組織の上に立つ人、あるいはコミッティー、あるいは末端が、心の修養ができてないからです。
苦界の海に生きることを喜びとする、命も捨て我も捨てという心の修養。それができないながらも、必死に向かおうという個人のご神業ができていたら、必ず改善されることなんですよ。乗り越えられるはずなんですよ。これが宗教的人格づくりのご神業だと思うわけです。
運営のプロセスの中で、やはりそういう教育、また研鑽というものがとても大切になります。
危機は目前に迫ってきたんだけれども、そういうものがなかったら、ただ「危機だ、危機だ」と言って荒れ狂うだけです。腰をしっかり落ち着けて腹を決めて、みんなの心と和を調えて、自分のわがまま、低い狭い固い子見というものを超えていく自分をやっぱり大切にしていかなかったら、この大きな危機は超えられないと思うんですね。
なぜ支部の神様がお帰りになったのか
※この会議に先立ち、深見先生は全支部のご神前を審神して下さり、いくつかの支部で、神様が神界に帰ってしまわれたことが明かされました。
支部長をはじめとするコミッティーや、その支部のエンゼル会の心根がご神業の本質にかなっていたら、ご神徳はますます高くなって、決してお帰りになったりはしないわけです。そこの心根の部分が「ああでもないこうでもない」って揺らいでいるからお帰りになるわけでね。
だから、その原則がわかって、みんなの気持ちが一つになったら一瞬でパッと戻ってきます。
まだ発表してないところで、帰ってしまわれたところは三つぐらいですかね。三割ぐらいは「帰ろうかな」と思っているだけです。「帰ろうかな」っていうのは神様の御心に合わないから。それは、私が今説明したことが答えなんです。
一番末端がコミッティーを突き上げ、コミッティーが支部長を突き上げ、支部長がまたコミッティーに文句言い、また下に文句言いっていうのは、いつも言うように、イカとタコが墨を掛け合って真っ黒になっている状態です。
支部が真っ黒な霊界になってしまっているからお帰りになるわけです。
だから、末端の人がコミッティーをおもんぱかり、コミッティーが支部長をおもんばかり、支部長がコミッティーをおもんぱかり、末端の人をおもんぱかり、「足りないところはみんなでなんとかしようね」という気持ちで向かっていくこと。
そうして地天泰になれば、古代の天皇がみんなのことを思いやり、みんなが天皇のことを思いやるという、「下が上を思い、上が下を思う」という真心と心の交流がちゃんとできていたら、そこの支部の神霊界は最高に素晴らしくなります。みんなの心が和の心で一つになったら「来るな」って言っても、神様が降りてこられますよ。
そこがちゃんと正されたならば、ご神徳はますます高くなっていくのです。
ご神力はますます冴えていきます。
支部長をはじめとして、みんな一人ひとりの個人のご神業が、奥深い中身の部分が浅かったり、ゆがんでいたり、ひっくり返っていたりするから、神様が「帰ろうかな」と思ったり、お帰りになったりするわけです。
前回は一つ一つの支部に言ったから、今回も一つ一つの支部に言おうかなと思ったけれど。事務的に言えば、前回残った分を今回やろうと思っていたけれど、今日出てきたご神業のテーマから見たら、一つ一つやる必要はない。本質的な部分が出て話しているわけですからね。
「言霊の誓約」でやりとりをする
みんな、胸の中にあったかい灯火がともっているでしょう。あったかい灯火がともってる人、手を挙げてください。見えないけれど、ともっているはずです。
この灯火がともっていたら、些細なことでは何でも許してあげてください。支部長も十分じゃないかもしれないけれども、一生懸命ボランティアで皆さんやっているんだから、許してあげてくださいよ。
コミッティーの皆さんも、足りないところがいっぱいあって腹が立つかもしれないけれど、ボランティアでやっているんだから、許してあげてくださいよ。
末端の人も、気がきかんし、文句も言うし、批判ばかりするし、会合には来たり来なかったりするし、また十分にいつも霊障を飛ばしてくれてたりするけれど、皆ボランティアで神様を思い、世の中を少し思い、何かやろうと思ってるんだから、世間普通の一般の人よりもいい人たちなんだから、許してあげてくださいよ。
新しい若い人は礼儀を知らなかったり、節度が足りなかったりしますけれど、支部長さんもコミッティーさんも、許してあげてくださいよ。
神様や仏様はみんなの足りないところを、いつも許してくださって忍耐しておられるんだから、忍耐強く丁寧に、わからない人にはわかるように教えてあげてくださいよ。
目上が何かおかしいなと思っても、一応「はい」と受け止めて、「あのう、こういうふうにしたらどうでしょうか」と、謙虚に真心込めて、言向け和わすつもりで目上の人にも向かってくださいよ。
お話しする前にはよくお祈りして、支部長とかコミッティーの守護神さん守護霊さんに文句があったら言っておいて、言葉を口に出すときは丁寧に言ってあげてくださいよ。お互いへりくだりながら心根を大事にして、支部長やコミッティーの足りないところも許してあげてくださいよ。
そういうふうに、お互いの足りないところがあっても、「許してあげますよ」という寛容性の中から真心込めて、足りないところとかすべきことを「こうしたらどうでしょうか」と提案をし、アドバイスもし、忠告もしたら、心に響きくるものがあるよね。どんな人も御魂を持っているんだし、心を持っているわけなんですから。
腹が立ったとき、腹立った怒気のまま言うから、向こうからも腹立ったものが飛んでくる。いつも私が言う、「イカとタコの墨の掛け合い」になってしまう。イカがパーッと墨を吐いたら、タコもパーッと墨を掛け返して、お互いバッパパッパと際限なく墨を吐き合うから、もう海は真っ黒。自分の顔も真っ黒です。
だから、イカがパーッと墨を吐いてきても、そこでタコがウッと耐えて、口からスーッと金色の光を投げかければ、黒い墨を出していたイカも、「悪かったな」と思って黒い墨が漂白されて白い墨に変わる。金色に輝く墨に変わる。
そうしてタコもまた金色に輝く。イカも金色に輝く。これを「言霊の誓約」というわけです。
神人合一した運営
この間、エリア本部に関東のコミッティーの何人かを呼んで言ったんだけども、現実界で仕事がよくできる人というのは、最初は一生懸命愛と真心なんだけれど、夢中で話していると、やはり仕事のときの自分が出てきてしまうんです。
だから、「決して、ミーティングをしてはいけない。決して会議をしてはいけない。決して話し合いをしてはいけない」と、そう私は注意したわけです。
ミーティングも、会議も、話し合いも、みんな人間が頭でするものだからね。ミーティングとか、会議とか、話し合いということに類するような行為をするときには、必ずお祈りをして、「みんなが喜んでいただけますように。
神様のためにも、みんなのためにも、一番いいようにものが進んでいき、一人ひとりが皆、心から喜んで、感激して、納得して、やる気に満ちて、幸せだなあと思えるようなものができますように」とお互いがよくお祈りをしてから、話し合いをする、ミーティングをする、会議をする。
そして、お話をしているときでもウルトラマンのように胸の灯火がピカピカ光って、「どうぞ、みんなが喜んで、みんなにとって一番いいように、神様が上から見てて、一番いいようにものが進み調いますように」と胸でいつも祈っていることです。
私はいつもそういうふうにずーっと祈っています。だから、何か考えているようで、何も考えてないんです。口に手を当てて、「うーん」なんて考えているようだけど。それは手で口を隠して、ブツブツつぶやきながら祈っているんです。
「どうぞ、神様、みんなが一番いいと思うようにしてください。神様にとって一番いいようにしてください。みんなが後でよかったなと、思えるようにものが調いますように」と祈っています。口でつぶやくと変だから、手を当てているだけで、「うーん」と考えているようで全く考えてない。
いろいろよく考えてものを言うと、向こうのほうも「うーん」と考えて答えが返ってきます。その答えを聞いてまた「うーん」と考えて言う。
そういうやりとりを繰り返していくと、だんだん、この世的、現世的になってきてしまいます。頭と知性と我が出てきて、真っ黒になっていく。それで「ああも言えるし、こうも言えるし」ということで答えが出なくなってしまう。
それは、この世的なミーティングをするから、この世的な会議をするからこうなる。だから絶対に会議をしても会議じゃないし、ミーティングをしてもミーティングじゃないし、話し合いをしても話し合いではダメなんです。
では、何なのかというと、「言霊の誓約」なんです。「言霊の誓約」をしてやりとりをしていく。そうすると、だんだんお互い気持ちよくなってきます。お互いに相手のことをおもんぱかり、そういうふうな気持ちを出していくから。
みんなが胸の中でいつもそういう気持ちを持って祈っていれば、ミーティングとか会議とか話し合いというのは、もう気持ちよくて気持ちよくて、楽しくて楽しくてしょうがないわけです。
「運営って何て楽しいんだろう」
「会議って何て楽しいんだろう」
「ミーティングって何て楽しいんだろう」
「話し合いって何て楽しいんだろう」
そうなってくると、お互いの思いの愛念が、真心が飛び交うから、明るくてエネルギッシュで前向きなひらめきがどんどん出てくる。何となくいい方向に進んでいって、「うん。じゃ、そうしよう」と、一致団結、満場一致でこうしようと決まる。
それが神なる叡智、神なるエネルギー、神なる団結力。背後霊団が動き、神様が動くから、神人合一して結果が出るわけです。
これは青山塾のときから、私が言っていることです。この十数年間、支部代表者会議でも、何回となく言ってきました。
運営そのものも神人合一してやるんだと。我力でやらないんだ、頭使っているけども頭使わないんだ、心を使うんだ、祈りを使うんだ、言霊を使うんだ。
そうすると、喧々囂々の議論にならないんですよ。話し合えば話し合うほど盛り上がっていく。いつも盛り上がっているエンゼル会、いつも盛り上がっている支部になっていきます。
ですから、決して会議をしてはいけない。決してミーティングをしてはいけない。決して話し合いをしてはいけない。すべて「言霊の誓約」をやる。運営もご神業なんですから、神人合一して神様と一緒に運営をする。
そうすれば、やればやるほど元気になってくる。やればやるほどやる気が出てくる。やればやるほど盛り上がってくる。そうして、信じられないような叡智が次々次々出てきます。神なる叡智が授かるわけです。それが私のやり方です。そいつが私のやり方で、ギンギラギンにさりげなく、神様と一緒にいつもやっているわけです。
神様が来たら、希望がわいてくる、やる気が出てくる、エネルギーがやってくる、意欲が出てくる。健康で「やるぞー!」という気持ちに燃えているときは、神なるものが来たときの証です。高級神霊がいらっしゃったら、みんなそうなります。
言霊の剣によって魔を祓う
もし、これがエンゼル会支部、エリア本部、エリアコミッティーの中で実行できたならば、今、言ったように「決して会議をせず」「ミーティングをせず」「話し合いをせず」に、ミーティングと会議と話し合いをいつもできるようになったならば、その人は家に帰っても、会社に行っても、どんなコミュニティに行っても、アルプス合唱団に行っても宝生東州会に行っても、どこに行っても、何やっても、その人がいるだけでものがスーッとうまくいきます。
みんなから愛されますね。
これが剣山を開いたソロモン王の言霊の剣の威力です。その言霊の「言「向け和わす威力」によって、みんなの心が明るく前向きで、発展できる叡智に満ちて、エネルギーが湧き上がって、豊かなる心がどこまでも盛り上がっていくときは、魔物が入る隙がありません。
邪霊が来たり、邪神が来たり、魔物が来たらどうなるか。やる気がなくなる、
エネルギーがなくなる、バラバラになっていく。それぞれが勝手に主張して喧々囂々となって、皆疲れ果てて、盛り下がって、沈んで解散。これが魔物です。
簡単に考えたらそういうことなんです。
だから、ご神業をしていきながら、やる気をなくすようなことを言う人間というのは、神の名を語る魔物だよね。魔物にやられないために、やる気をなくすような発言は一切しちゃいけない。やる気をなくすような発言や行為やそういうものは、お互いに魔を呼ぶわけです。
だから、そこで言向け和わす。それが「言霊の剣によって魔を祓う」ということなんです。剣山の言霊の稜威によって悪魔を調伏する。
お互いの心の中に魔が巣くうのです。心の中のやる気とか、エネルギーとか、前向きで発展的な気持ちを阻喪するような言葉とか、顔とか、態度とか、そういう運営をするのが魔物の正体。一人ひとりの心の中に、言葉の中に、言葉の刺の中に魔物が入っている。あるいは、魔物を引っ張り込む誘因材料になっているわけです。
だから、支部の総会においても、エリアコミッティーのミーティングにおいても、支部のミーティングにおいても、また支部の選挙においても、どのような運営をするときでも、神人合一してやる。
運営そのものがご神業です。決し会議はしてはいけないし、ミーティングをしてはいけないし、話し合いをしてはいけない。
ミーティング風のご神業、誓約、祈り合い。心中深き会議風の誓約、言霊の稜威。話し合い風のご神業、誓約、言霊の稜威。これが「運営の中にご神業が「ある」というもう一つの意味です。
そうしていくと、みんながやる気に燃えて、夢に燃えて、ロマンに燃えて盛り上がっていって、そこは神様仏様エンゼル菩薩がいつも降りくだる斎庭になるわけ。
そういう状態のときに、ご神意とかご神気が盛り上がることがあっても、支部の神様がお帰りになるとか、「帰ろうかな」なんてことはありえません。それができていたら、支部の神様が帰るはずがないです。「帰ろうかな」なんて思うはずがないです。
上と下を貫く軸
民主的な運営をすることによって、末端からの意見が反映するようになるけれど、その弊害というのもやはり出ています。上は下をおもんぱかり、下は上をおもんぱかっていく。そういう心根というものを大切にしていってほしい。
上の意見というのは、皆さんに対する私の意見。神様のご意見なんだけど、それを取り次ぐ私がいるわけですから、私の意見はそれだ。民主的な運営をすることによって末端の意見は上には上がってくるけれど、同時に上の意見が下に降りて行き渡っていくことも大切です。
運営上の具体的な中身もそうだけども、ご神業でやっているわけですから、ご神業的中身というものを末端まで伝えてほしいわけです。
組織を運営し、支部をつくり、エリアコミッティーづくりをしている上からのご意思というのは、「これはすべてご神業なんだ」というご意思なんです。運営だけれども、「ご神業という運営なんだ」と。「ご神業という会議なんだ」と。
あるいは、「運営という神業」「会議という神業なんだ」ということです。これは、神様が末端まで行き渡ってほしいと願う第一のことです。お願いです。やはり、上から下に一本貫くものがなければね。それが中心であり、心棒です。本質です。それに基づいて具体的なものが上に上がってくる。上からまた、ご神業的な本質が降りてくる。
そこが、人間界のおもんぱかりと事情が先に立ってしまって、人知の考えで言って、考えて答えて、考えて話して、考えてやって、考えて考えてわからなくなっちゃって。妬み、嫉み、足の引っ張り合いと文句と批判と注文と要求と欲求と反目と………。こんなものがドロドロドロドロしていたら、だんだん神様も嫌になりますよ。
ご神業はどこにあるんだ?個々人の修養はどこにあるんだ。誓約はどこにあるんだ。和はどこにあるんだ。言向け和わせはどこにあるんだ。愛と真心の祈りはどこにあるんだ。人間理解はどこにあるんだ。忍耐と辛抱はどこにあるんだ?
一つひとつの運営の場面。一つひとつのミーティング、会議、話し合い。そのときが一番魔が入るんです。
やる気を阻喪する、和を崩そうとする、そういう言葉や振る舞いや態度がある人はみんな魔にやられていると言っていい。そこを反省していただきたいのです。
九月も中盤を過ぎて秋になり冬に近づいていくにしたがって、内的に深いご神業にモードが切り替わっています。大好きなスイカも桃も、かき氷も消えて、梨が出てきて、少しぶどうが残っているけども。もう季節が変わり、ご神業の力点も、より内的に深いものに移行していっているんです。
五月、六月、七月、八月と、本当に皆さん一生懸命頑張ってこられて、深く感謝しています。みんなボランティアでやってくださっているんですからね。
けれども、大きな危機を前にして、九月のこの中旬を過ぎてきたら、やはり箱根(富士箱根神業)に向かって、一人ずつの心中奥深き、心根の奥の中身を磨いていく、というご神業に進んでいっています。変化していっています。
秋は秋らしく、冬は冬らしく、春は春らしく、夏は夏らしく、ご神業のテーマが四種類に変化していくからね。今は冬に向かっていく秋の始まりだから、こういう奥深い話になるわけです。
すべての支部に神様が帰ってきましたよ、大丈夫。
目がパッチリ開いたでしょ?霊的な目というか――。
ということで、私の話は以上です。
