一丸となるための史上最高のノウハウ ~神柱になれるシリーズ6~(Vol.2)

第一部 「理念の確認」と「スコアにすることの重要性」~全国タマガキ会にて 1991年12月23日~

「国宝スピーチ」とはいかなるものか

この伊勢のビデオ(注 伊勢神事のプロモーションビデオのこと)は、もう絶対に皆さんに見ていただきたいのです。タマガキ(現・エンゼル)会員必見です。支部には、いつ出せるのかな。チラシももちろん出しますけれども、その前になるべく早く、全国のタマガキ会員だけにはお渡しして、見ておいた方がいいと思います。

というのは、あれを見たら燃えますからね。私が見て燃えましたから。「深見東州先生って立派だな」と、自分で見て感動しましたし(笑)、「岩戸びらき神事ってすごいな」と、あれに参加できることを喜びに感じました。

だから、もうなるべく早く、ダビングが出来次第、タマガキ会の人だけでも、まず見たらいいと思います。

それで、「すごかったよー」と言いながら、みんなに勧めてください。各支部で催しがあるときに、来た人一人ずつに、「このビデオ見たんだけど、すごかったよ」と、一言でも二言でも言ってあげてくだ さい。この伊勢のビデオは、それだけの説得力があります。

さて、先ほど各支部の代表の人たちが、発表しているのを聞いていましたが、 Aさんみたいに、延々と報告するというやり方はだめです。何でもかんでも「ああだった、こうだった」と報告をすればいいというものではありません。

「国宝スピーチ」は、相手が感動し、やる気が出てくるためのものであり、ご神業とご奉仕ができることに感謝して喜びとする気持ち、「ご神業やご奉仕をさせていただいてありがたいな」という心になるためにするスピーチです。ここは、あった事実を報告する報告会ではありません。

『国宝スピーチ』と名前がつけば、聞いた人が、「感動」と「喜び」、「納得」と「感謝」、そして「やる気が出てくる」という結果になるようなお話を、言葉を通してやらなければいけません。

だから、お話しする前に、あれとあれを話してというように構成を考えておく。そして、長い間話を聞いていると、当然、聞き手はだれますから、私の場合も、一~二時間になると、その間に疲労感を回復するために、自然にギャグが出てきます。それから、またパッとまじめな話になっていく。

お話というのは、あったことをだらだらと話していても、人が聞いてくださるとは限らないわけです。私の場合は、神様がついておられるから、同じ話をずっと聞いていて「だるいな」と聞き手が思ったころに、ギャグが自然に出てきます。そうやってこなれて、聞き取りやすくなっているわけです。

お取り次ぎ前の心得

今日、この会の前に、定例講演神業があったわけですが、その舞台裏で、「ばか者!」と言って、スタッフを怒っていました。なぜかというと、楽屋裏で、スタッフだけで盛り上がっていたからです。そこで、そこのスタッフ全員を呼んで、「おまえたち、何やってるんだ!」と言って怒ったわけです。

救霊師会や九頭龍師の試験(注霊力チェック)でもお話ししましたが、 お取り次ぎの前というのは、必ず黙っていなければいけません。

まず「黙」。

黙することによって、「気」が凝結する。気は、まず「先天の気」が凝結する。

先天の気が凝結すると、今度は「後天の気」が凝結します。気が凝結すると、次に自分の「霊」が凝結します。霊が凝結すると、次に自分の「念」、祈りの念に「しん」が入って、そこに神が宿る。

念に「しん」が入り、神宿って発する言葉には、霊妙なるものが宿るわけです。

言霊に霊妙さが宿るから、祝詞をあげても、神化咒をあげても、数歌をあげても、神を呼びます。あるいは救霊でしたら、その霊を奮い起こしたり、救済したり、威圧を与えたりするだけの力を持つわけです。

だから、救霊のお取り次ぎの前、九頭龍のお取り次ぎの前、薬寿のお取り次ぎの前は、必ず三十分~一時間、黙ってお祈りをする。普通に黙っているだけではいけませんから、最低、いい気を醸し出しながら、集中し、観念を破る。

そういうときに、「臨済録」「無門関」「碧巌録』の三大禅書はいいですね。それから、『論語』『老子』『荘子』『列子』くらいまでいいです。

そして、それらを読むときは、その解説をなるべく読まずに、和訳を読むようにします。和訳そのものに、その世界がありますから。解説は、学者が書いているので、頭に観念がまたこびりついてしまうので、そういうときには読まないようにします。そうやって黙っていて、そこから「祈り」に入っていくと、祈りが深いわけです。

「救霊師や九頭龍師のお取り次ぎの前は、必ずそうするんだ」という話をしていますし、それをスタッフも聞いているはずなのに、今日の舞台裏では、キャッキャと盛り上がっていました。

私の場合、出番の前は、昨日の夜から、こもって静かにずっと祈り続けています。本番の舞台に立った時に、目に見えない世界のパワーを発揮するためにお祈りをしているし、静かにして、何時間もベストコンディションになるまでやっているわけです。

一流ということ

一流のプロというのは、音楽家で言えば、バイオリニストでも、ピアニストでも、歌手でも、いかなるときにも練習をし、準備をして、指でも体でも心でも、ベストコンディションになるようにしています。

百回、演奏会をやったら、百回ともやります。絶対に手を抜かないで、手間暇を惜しまないで準備をするわけです。手間暇を惜しまないで徹底的にその準備をするからこそ、ベストコンディションになりますから、人様の前でもずーっと一流の出来栄えが、本番でも出せるわけです。これがプロであり、一流なのです。

二流や三流というのは、そこまで、自分のコンディションをベストにするために、百回なら百回とも準備をするだけの「根気」や「周到さ」や「細やかさ」がありません。逆に、一流を維持している人間は、全部それを実践しています。

ですから、スタッフを呼んで、「ばか者!救霊や九頭龍の法や薬寿の法でお取り次ぎをするときのやり方を聞いて知っているはずだろ。定例講演神業で、前に出て、皆さんにお話をするのも同じことだ!」と言って怒ったわけです。

舞台裏でワイワイと盛り上がっていると、本人が盛り上がっているだけで、聞くお客様には、パワーが落ちているので、しらけて聞こえてしまうんです。

楽屋裏でワイワイと騒いでいたスタッフに、「みんな不用意な言葉が多過ぎるし、言葉に力がない。知恵が本番に出るようにと思ったら、準備中というのは黙って神様に向かいながら、グーッと気を高めていなければだめなんだ。

救霊のお取り次ぎや九頭龍のお取り次ぎをするときと、定例講演神業で人前に出て、マイクでお話しする時というのは、どちらも「お取り次ぎ」ということで、原則は変わらないんだ。

もっと黙々と緊迫をして、気を張って、祈り続けて、お話をする前にちゃんと準備をする。こんな話をしたときにはこれ、この話をしたときにはこれというように、スピーチでも、頭で草稿を練る。初めは…、真ん中は…、結論は……、というようにお話を組み立てていくんだ。

そうしていくことのすべてが、感動であり、喜びであり、納得であり、感謝であり、和気藹々でありというようにするためのものなんであって、自分が盛り上がってしまったら、お客さんは盛り上がらないんだよ」と指導しました。

芸人さんや役者さんでも、プロというのは、自分の心はいつも冷静ですし、ずっと周到で細やかです。芸人さんを見てもわかりますが、「ここでこう言えば笑う」「ここでこう言えば感心する」「ここでこうなる」というように、何度も何度も練習して、楽屋裏でもまじめに、静かにしています。

桂文珍でも、いくよ・くるよでも、やはり出番の前というのはそうやっています。そうして気を蓄えることで、本番で力が出るわけです。準備しているときに、楽屋裏でワイワイと言ってしまうと、エネルギーが消えてしまいます。

少なくとも、私はどんな出番でもそうやって事前の準備をしています。

「それでよし」という気が来て、これは絶対にうまくいくというときまで、控室でじーっとしています。

「何故そうしないんだ。何故もっとそうやって緊迫して、黙々として、準備にずっと知恵を使わないんだ。おまえたちは、お取り次ぎをする腰もなっとらんし、態度もなっとらん!」と、机をバーンとたたいて、スタッフたちを緊迫させました。

同じように、各支部での催しの準備のときでも、準備をする舞台裏の人間というのはそうでなければいけません。

準備をする人間は、「来たお客様が楽しんで、喜んで、感動しますように」というように、「陰」の世界、「静」の世界でいって、そして、陰と静が極まっ て、「陽」にスパークし、「動」に動いていくようにする。このように内なる気をためていかないと、本番がスパークしません。

全国の支部代表者が集まってお話をする意義とは

ですから、「国宝スピーチ」と名前がつけば、言いたいことを言うわけでもありませんし、報告をするわけでもありません。

友達同士や同じ支部の中で、世間話をしたり、「ああだったね、こうだったね」というときであればかまわないのですが、ともかくみんなの前で、全国のタマガキ会の仲間同士で話をするときには、「何のために話をするのか」を再確認する必要があります。

やはり「感動し」「喜び」「やる気が燃えて」、あるいは「反省し」「感謝をして」という、プラスの効果になるために言葉というのは発するわけです。レポートするためのものであったり、報告するためのお話ではだめです。

お互いに「やる気に燃え」「エネルギーが満ち満ちて」「感謝と反省をし」「進歩する」ために、全国タマガキ会のミーティングがあるわけです。そのために、皆さんはここに集まっているのです。

もちろん、最低限必要な情報も吸収しなければなりませんが、それは何のための情報か。やる気をなくすための情報ではありません。

そうしたプラスの効果になるために、集まっているわけです。そのような場で話す「国宝スピーチ」ですから、それだけ周到なるものが準備できているということが必要になります。それがご神業であり、そうしていくことで、自分も錬磨されていきます。

だから、タマガキ会の皆さんもそうです。各支部での催しであっても、タマガキ会の人に「国宝スピーチ」をするコミッティーは、準備の間、そうしていなければなりません。

準備の間に「静」極まり、「黙」極まり、そして、タマガキ会員が集まって話をしたとき、バーッと「動」極まり、「陽」極まって盛り上がることで、みんなが感動を分かち合うことができるのです。

その「陰」極まり、「静」極まり、「黙」極まったときの分だけが、やはり徳分になっているわけです。これが、準備をする人間の約束事です。

コミッティーというのはそうでなければいけません。それが責任です。そして、みんなが感動して喜んで、あるいはまた感謝して、やる気に燃えてくれたということで、法施の徳が積めます。そうして、「よかったね」と言ってコミッティー同士が喜びを分かち合うのです。

スポーツでもそうです。サッカーでも野球でも卓球でも、「試合に勝ってよかったね」と言って喜び合うわけでしょう。「試合に勝ってよかったね」と言って、お互いに喜びと感動を分かち合うためには、練習中はそれなりに黙々と一生懸命やっています。

そのようにした勝利でなければ感動はないでしょう。練習も全然していないのに勝利したら、「勝ったー」と言っても、まあ、嫌なことはないですが、喜びもそれほどではないはずです。

タマガキ会のコミッティーと同様に、スタッフもそうです。この会の準備のために、一体どれだけスタッフの人間が準備したか知りませんが、同じことです。青山塾でもそうです。定例講演神業や他のご神業でも同じです。

だから、タマガキ会の中でも、コミッティーと一般のタマガキ会員が、準備する側とお客さんとに分かれたときには、そうです。全タマガキ会員が集まっ今度催しをやろうというときには、また準備があります。準備が始まる前に、今言ったようにお祈りをして、「静」極まり、「黙」極まり、「準備」極まって、そして、その当日、バーッとスパークする。これが原則です。

会員さんも、静極まり、黙極まり、陰極まって、今度は一般の人に一生懸命人形・形代のお勧めをしていく。

「こんな奇跡があらわれましたよ」

「よかったねー」

これがスパークです。話をして、入会して、「おかげでよくなりました」

「いいところに紹介してくれてありがとう」「よかったねー」と喜びを分かち合う。

陰極まり、黙極まり、静極まったときの準備が篤ければ篤いほど、長ければ長いほど、辛ければ辛いほど、「よかったねー」の、その感動が大きく、深く、長続きするわけです。それは天地の法則です。

皆さんも、それはわかりますよね。だから、支部での催しもそうですし、また、スパンを長くしてみたら、クリスマス神業や海原びらき神事、伊勢の岩戸びらき神事も、とにかく、そうやって黙々と準備をしたら、「よかったー」という感動は、もう骨から、内臓から、脳髄からわきあがる、滂沱と涙が出てくるほどの感動になります。

その感動は誰のものか。自分自身のものです。その幸福感と満足感と喜びというのは、自分自身のものになるのです。

自分自身が、そのように幸せな体験をするためには、それだけの準備が必要なわけです。

そのことがわかっている人というのは、そのときの感動が、どれだけ大きくて深く偉大なるものであり、長続きするのかということがわかっていますから、その自分の幸せを成就するために、準備になるべく手間暇をかけ、時間をかけ、黙々とやります。

静極まり、陰極まり、黙極まるときを大切にするわけです。その究極には、そういうものがやってくるということがわかっていますから、大切にしていくのです。

その法則がわからないまま、そういう心を持たないで、ただ「みんながやっているから」「しなければならないから」という「ねばならない」という義務感とメンツ、「何かわからんけど、やけくそでやっている」ということでは、一回やれば、もう次に気持ちが続きません。

「ああ、大変だった」と思い、「労力も時間も費用もいっぱい使って、何だったんだろうかな」と思ってしまいます。

それは、君達が、コミッティーの人間が、あるいはタマガキ会の皆さんが一一般の会員さんたちに対して、私が今言ったように「そういうふうに物事を受け取ってやるものなんですよ」という教育が足りていないからです。

実は、この準備の「陰極まり、黙極まり、静極まり、黙々とやっていると「き」というものがあればあるほど、その本番のときが幸せなのです。

その幸せになったときに、「ああ、あのとき準備をしたものが、こう開花したんだな」と思える自分の心の中身が、結局悟りであり、鑑賞力であり、味わっていけるという内的な世界の奥深さなのです。

たとえば、「神事に向けて、支部単位でお神輿を作っているプロセスで徹夜した」「二晩徹夜で衣装を縫った」「みんなで一生懸命練習した」というように、その準備のプロセスの中でみんなが大変そうなときに、今、私が言ったように、「みんな大変だけれども、この大変なのがいいんだよ」と言葉をかけてあげなければいけません。

こういうプロセスの中で、陰極まり、静極まり、黙極まって準備しているときが篤ければ篤いほど、大変になればなるほど、その当日の感動は大きくなります。

その感動は、一人ひとり、自分自身のものですし、何年経っても、「伊勢」と聞けば思い出し、太陽を見たら思い出し、炎を見たら思い出すというものになります。

その魂に奥深く残ったものが、自分の「御魂の恩頼」であり、霊界にも持っていけるし、永遠になくならない宝物です。この魂の奥深くに入っていくものが長く残っていくものなのです。これを「理念の確認」と言ってもいいでしょう。

「理念の確認」の大切さ

ここで皆さんに一つの例をお話ししましょう。

中国で、毛沢東の共産党軍と、蒋介石の一般の傭兵で構成された軍とが戦ったとき、蒋介石の軍隊の方は、負けそうになるとすぐにぱっと逃げていってしまう。雇われた兵隊さんですから、すぐに逃げてしまう。

ところが、絶対に最後までギブアップしないし、やられても、たとえ死んでも、忠誠を貫いてやっているというのは、毛沢東の軍、共産党軍なのです。戦ったら、毛沢東の軍隊の方が、三倍ぐらい強いんです。

毛沢東の軍隊が、蒋介石の軍隊に比べて、三倍ぐらい強い秘密は何か。

蒋介石の軍隊というのは、お金で雇われた兵隊さんの軍隊です。ですから、一応やるだけはやるのですが、命が惜しいですし、お仕事でやっておられるわけですから、一応、戦うけれども、危なくなったらぱっと逃げる。

それに比べて、毛沢東の軍隊、共産党軍は、戦う意味を知っています。この戦いが「聖なる戦い」であり、この戦いによって、「貧しき者が、本当に、永遠に解放され、虐げられた者たちが永遠に幸せになっていくための戦いなんだ」ということが、毛沢東の軍隊はわかっています。

戦う理念がよくわかっていて、その理念に心の奥底から賛同し、納得して戦っている軍隊と、戦っている理念がよくわからない状態で守らなければならない軍隊とでは、強さに差が出てくるのは当然です。

お金で雇われているだけで、戦う理念がよくわかっていない人間や、またはそれを説明されても、腹の底か信じていない人間というのは、自分の命が惜しい。

反対に、「たとえ自分が死んでも、これは守り通さなきゃいかん」と思って戦っている人間や、「この戦いが永久に中国の民と自分の子孫を幸せにするためのものなんだ」と思って戦っている人間は、根性や気合の入れ方が違います。

ですから、これを「理念の確認」というわけです。本当に戦う理念がわかっている人間、確認ができている人間は強いです。

戦争中の日本軍もそうです。「天皇陛下のために」「民のために」「大東亜共栄圏の安寧のために」というように、日本は日本なりの戦う意味と理念をよく確認しておりました。だから、あれだけ強かったわけです。何でもそうです。

仕事をするにしても、チームを組むにしても、「これは何のためにしなければならない仕事なのか」「この仕事が終わるとどういうことが起きてくるのか」「この仕事をやる意味はどういうところにあるのか」という、その理念をよく理解し確認のできている人間が、その仕事をしますと、ものすごい仕事ができます。

何だかわからないまま、「上がやれっていうから」

「タマガキ会や本部で、しなければならないということが決まったから」

「上の方で、皆さんやってくださいというから」というように、「やらなければならないからやろう」といってやる人と、「それはどういうものであり、何のためにしなければならないのか」

「やることが、どんなに素晴らしいことなのか」ということをよく理解してやる人では、それは仕事の中身が全然違ってきます。これを「理念の確認」というわけです。

神様との感応力を強くするためには

全国にある支部で、支部ごとにお神輿を作っていくという場合、何のためにお神輿を作るのか。ここで、「理念の確認」をします。それは、前にも言いましたが、「みんなが一丸となるため」に、お神輿を作るわけです。

お神輿を作るために、創意工夫して一丸となっているときに、神なるものの世界が動き、自分の魂も神なる世界へと近づいていきます。

そして、準備をすればするほど、陰極まり、静極まり、黙極まっていくので、本番に出たときに、支部の人間同士が感動と喜びを分かち合うことができます。このように何かの共通の目標があり、一丸となるものがないと、伊勢の大神さまも感応力が弱くなります。

「人形・形代をお書きした人たちが、少しでもすばらしい功徳をいただくためには、一丸となって神に向かっていくということが要るんですよ」

「神力を出すためにこうやっているんですよ」

「こうやって準備して本番に出たときの感動と喜びが、御魂の恩頼であり、徳分であり、永遠に忘れることのない魂の思い出であり、そういう感動と幸せのひとときを、自分たち一人ひとりが得るためにやっているんです」というように理念の確認をしていきます。

このように一丸となって準備することもなく、普通に参加したのでは、「ああ、よかった」「寒かった」というだけで、魂の奥に感動や喜びは残りません。

「苦中楽あり」

ですから、「そのためにやるんだよ」という理念の確認を、毎回毎回、すべてのタマガキ会員や一般会員さんに、しつこいぐらいにしていただきたいと思います。そうやって、毎回毎回、言ってあげると、みんな初めて意味がわかりますから、「よーし」と思って、気合と魂が入ってきます。

「よーし」と思って、気合と魂と根性が入ると、その渦中にがーんと入りますから、苦しみや大変さというものは消えるんです。これが「苦中楽あり」という境地です。

本当は「苦中楽あり、楽中苦あり」なのですが、苦の中に没入して、腰を入れていったら、苦しいということを忘れますので、楽しいのです。

この苦中楽ありの極意を確認しておかないと、終わった後、その苦の中から出たときに、大変だったなと思ってしまいます。

その苦の中にいたときは、苦中楽ありで、本当は十分楽しかったはずですし、喜びの中にいたはずなのですが、苦の中から出た後に大変だったなと思ってしまう。反対に、その苦の中に没入する前も大変だなと思ってしまい、苦の中に入っていけず、もたもたして没入できないわけです。

「苦」という壁の前と後で「大変だったな」「大変そうだな」と思う心が大変なのです。苦の中に没入しているときは、楽しいはずです。そのときには苦はありません。

反対に、苦から離れた楽のときこそ「楽中苦あり」で、「大変だな」と思ってしまいます。別に今が大変なわけでもないのに、「過去が大変だったな」「未来が大変みたいだな」と思っているからです。

実在の神を掌握する

神事の前と終わった後には、しっかりと「理念」の確認をします。「本当に素晴らしかったですね。私たちが努力をしたことが、私たち一人ひとりの魂の中の恩頼となり、これが永遠に残っていくんですね」

「こうやって準備したことは、神様が全部受けとってくださったんですね」

そして、人形・形代で素晴らしい証があらわれたら、「あの一生懸命に努力し、苦労し、苦の中に入ったあの歓喜の中、あれがあったから、こんな功徳が出たんですね」というように、必ず言葉を添えてあげるようにします。そうした小さな「国宝スピーチ」が、支部やタマガキ会の中で、もう、きら星のごとく実行されていなければいけません。

そういう言葉がないと、どう考えていいのかがわからないので、やる前は「大変そうだな」と思い、やり終わると「もう本当に大変だったな」と思い、次に「懲り懲りだ」と思ってしまうのです。

私の日々と比べてみたら、二晩徹夜など、どうってことありません。時間を捻出したり、家の中では、ばらばらになるような危機を今でも持っておりますが、そういったことは、腰を入れて頑張る中で、家族ばらばらの危機とか、資金的問題とか、大変なことは解決していったらいいのです。

まさに「苦中楽あり」の状態で、腰を入れているときには、霊力が入っていますし、自らの御魂が発動していますし、神が動いていますから、ものごとが良い方へ、良い方へと立ち回っていきます。

自分の魂が発動しないときにやると、もう初めから環境に負けてしまっていますから、相手のペースで物事が進んでいきます。解決しなければならないことは解決しなければいけないのですが、解決するときの内的状況がどうなのかが大事なのです。

それによって、自分に有利な方へ行き、吉に動くか、相手側に有利な方へ行くかが決まってくるのです。

そうすると、普通の人たちの三倍も、五倍も、十倍も時間の使い方がうま楠本なり、三倍も、五倍も、十倍も、時間の捻出の仕方がうまくなります。また、三倍も、五倍も、十倍も、お金の使い方やお金の捻出の仕方、あるいは、お金を使わない知恵が出てくるようになります。

そこに妙なるものを体験し、神なるものを実感する空間スペースができてくるわけです。

「普通通りに、普通通りのことをする」、あるいは「普通にしている」という状況で、どうして未知なるものの体験とか、神なるものの体験を味わえるのでしょうか。そういう「普通ではない」体験を経て、初めてものすごい感動や神なるものとの出会いがあるわけです。

そのような中で、「神を実感し、神と触れ合い、確かにこうだというふうに神を掌握する」

空間の中に自分が入れるのです。どうですか。頭が冴えて、しゃっきりしてきませんか。今、みんなの御魂が「そうだ」と思ったからです。御魂が発動し、頭が冴えて、不思議に目がぱっちりと開いてきましたか。私はいつも、こんな状態です。

まず「心構え」から確認しよう

こういう体験をした人はわかっているのですが、こういう体験をしていない人というのは、体験する前はわからないわけです。だから、頭でああだろうか、こうだろうかと思っています。

そのようなときは、「一回体験したらわかるよ」と言いながら、連れていくしかありません。この場合は、お母さんが子供に「やってごらん、やってごら「ん」と言いながら連れていくというような意味合いです。子供がぐずぐず言っていても、お母さんがいろいろなことを言いながら連れていって、体験させる。

そうして、子供が「よかった」と思ったら、その「よかった」ということについて、子供にもわかるように一つずつ説明してあげると、子供も「うん、わかった」と言って、次からは自分でやれるわけです。

苦へ入る前と、苦から逃れた後に、言葉を添えて、小さな「国宝スピーチ」をしてあげるようにしないと、人はなかなか育ちません。

それには、まず自分ができなければなりませんが、自分ができても、人ができるようにしてあげようと思ったら、今、言ったように「理念の確認」を絶えず前と後にして、「どう鑑賞し、どう受け取っていくのか」ということを教えてあげないと、自分ができたように人ができるとは限らないわけです。

これが、全国のどの支部でも、絶えず行われていなければならない、ご神業の中身なのです。

「救霊を受ける心構え」や「救霊師を目指す人の心構え」など、少なくとも「心構え」ということは、いつもお話ししてあげなければいけません。それが「理念の確認」ということです。

「人形・形代を書くときの心構え」もそうですし、何かができ上がったり、よかったりしたときには、その都度、ちゃんと言ってあげてください。

よくなかったときには、励まして、「さらに頑張ろう」というように、神秘の体験と神なる証を体験するまでもっていってあげます。

よかったときには、「こういうことで、こういうことだから、感謝して、また頑張ろうね」と言い、悪いことがあったら、「こういうことで、こういうことが原因かもしれないから、こういうところに気をつけて、また頑張ろうね」と言ってあげる。

「私もこういうことがあったし…………」、あるいは「○○さんもこういうことがあったけれども、乗り越えてこうだったんだよ」というように、絶えずお話をしてあげましょう。

ただ、わあわあと集まって、御飯を食べたり、ケーキを食べたり、団体参拝に行ったり、歌を歌ったり、仮装パーティーしたりするだけではありません。

それは中身ではありません。中身はやっぱり「理念の確認」なのです。

「心構え」ということについて、みんなを教育し、お互いに確認し合っていくという中で、ご神業における信仰力の中身というものが、上乗されて育っていくわけです。

まさ初めからそればかりでは抹香臭いし、大上段に構えてしまいますが、一緒にふれあい、一緒に遊び、一緒にやりながら、仏教で言う「同事」、「同じことをしながら、古い人が新しい人を育てていき、その育てていくプロセスで、自分もまた教えられる」というわけです。

全国すべての支部で行われているご神業の中身というのは、やっぱりこれが主でなければならないはずです。味つけはいろいろなことがあってもいいと思うのですが、主なるものを忘れてはいけません。

「弥栄の儀」に初めて来た人がいる場合でも、「弥栄の儀というのは、こんな意義ありまして・・・・・・」と理念の確認をする。そして、弥栄の儀が終わった後も、そして弥栄の影が終わった後も、「清々しいでしょう。弥栄の儀とはこうですからね」と言ってあげれば、

「ああ、そうか。また弥栄の儀に来ようかな」と思います。初めて来た人には、必ずそう言ってあげるようにしてください。

ただ黙って始めて、終わった後も「ご苦労さんでした。どうでした?」

「ああ、そうですか」というように終わったら、「何やってるんだろうか」と思いますから、次には来ないです。

そのような神業の中身の密度について、具体的な場面ごとに、「ああ言おう」「こう言おう」ということをタマガキ会の人たちが話し合い、あるいは、コミッティーの人たちで話し合うという会合があってもいいのではないかと思います。そういうことが会合の中身でなければいけません。今、申し上げたような場面は、いくつもあるはずです。

皆さんも今日の話を聞いたのであれば、「うーん」というだけではなく、必ず「理念の確認」ということで、「深見先生はこういう状態で、こういうふうにしておられるから、ああなんだよ」というようにお話をしてあげてください。

お母さんが、子供を寝かしつけながらお話をするように、丁寧に一つ一つお話をしていく。たとえば、「お父さんは、今、働きに行っているからね。今、経済は不況でね」

「フキョウって何?」

「不況っていうのはね、なかなか説明が難しいんだけどね、景気が悪いっていうことなのよ」

「ケイキって何?」

「経済全体が落ち込んでいる状態を不況っていうのよ。お父さんも、今、働きに行って、残業で遅くなるまで頑張っているの。だから、帰りも遅いのよ」「ふーん」
 
「お父さんが働いているから、こうやって生活もできて、僕にもおもちゃが買ってあげられるんだからね。だから、お父さんが帰ってきたら、「お父さんお帰りなさい」って言わなきゃだめよ」

「ファミコン買ってほしい」

「ファミコンねー。ちょっと景気が悪いから、ボーナスが出るまで……」

「ボーナスって何?」

「縦になっているおナスで…(笑)。年に二度出るから、そのときには買えるからね。それまでは辛抱してね」

「うん」

「しかし、一生懸命勉強しないと、ボーナスが出ても買ってくれないよ」

「そうか」

「少なくとも宿題だけはちゃんとして、先生の言うことを聞いて勉強しないと買ってくれないよ」

「うん、わかった」

そう言って、子供は一生懸命勉強します。

お母さんは、子供をそうやって育てます。「お父さんが、ああやって働きに行って」ということを子供にしっかりと説明することで、子供は「そうか、お父さんって大変なんだな」と思い、感謝するようになります。

お母さんの説明で、ちゃんとボディーブローが入っていますから、お父さんが帰ってきたら、子供もちゃんとなついてきますし、お父さんが言う「勉強し「ろ」というアッパーカットが効いて、子供もダウンします。

それが、お母さんのボディーブローで足腰を弱らせておかないと、お父さんがアッパーカットをくらわしても、三倍になって、お父さんに返ってくる。

「何でファミコン買ってくれないの!」と子供が言って、お父さんとえらい喧嘩になってしまいます。

「不況が……」

「景気が……」

「お父さんも頑張ってるんだ!」と言っても、「僕も頑張っているんだ!」と言い返してきます。

子供とお父さんとの戦いで、口数の多いお母さんに似た子供だったら、お父さんは口数で負けます。

そこでお母さんが、子供に「お父さんは…ああなのよ」ということをずっと言ってあげることで、最初からお父さんを尊敬するようになりますし、お父さんが「勉強しろ」と言えば、「はい」と答えるようになって、子供はしっかりと育っていくわけです。

人材教育における「お母さん役」と「お父さん役」

皆さんはお母さん役になって、「深見先生のすばらしさ」や「ワールドメイトの会員でいることの意義」などを、普段からお話ししてあげてください。今日の講義でお話ししたように、「日本一といわれている元東大の宗教学の先生が、「戦後日本の本物の宗教家は、三人いる。

庭野日敬、高橋信次、深見東州の三人だ」と言っていたそうよ。深見先生が三番目なのは、新しいからであってね、レベルが三番目というわけじゃない。それに、深見先生以外、庭野日敬さんも、高橋信次さんも、もうこの世にいないの。だから、今生きている、戦後の本物の宗教家は、結局、深見先生ただ一人なのよ。

もちろん、私たちは、レベルは先生が最高だと思っていますし、元東大の宗教学者さんも、現代のすべての宗教団体を詳しく調査し、さらに実際に数年間ワールドメイトにも入会して、すべての著作を読み、すべてのセミナーや神事に参加した結果、このように結論づけされているんですよ。

だから、ワールドメイトの会員でいるということを、誇りに思っていいのよ」

そうやって、お母さんが子供に言って聞かせるように、皆さんが、タマガキ会員や塾生や一般会員さんに、普段からボディーブローを打ち続けていることで(笑)、聞いている方はレバーパンチを受け続けているわけですから、わたしが、講義の中で「皆さん頑張ろう」と言えば、コテンといくわけです。

やはり講義だけでは言葉が足りませんから、普段からの皆さんのお話が大切なのです。

このように、お母さん役とお父さん役があって、人が育っていきます。やはり「愛と真心」ですから、「みんなが、素晴らしく神様の道を会得し」「宗教的人格を完成し」「運を開いていただいて」という気持ちでしているわけです。

そのためにも、やはり、お父さんとお母さんの両方の役割がないと。厳しいばかりでもだめですし、優しいばかりでもだめなのです。

今日の講義のように、時にはお父さんのように厳しくしないと、ますます生意気になってしまいます。もちろん謙虚で素晴らしい人が多いのですが、いいかげんな人もいますから、時々、教育しなければなりません。そのためには、皆さんの協力がないとできません。

全国すべての支部の皆さんが、それぞれの現場で、それをやっていただかないと行き渡りません。それが、皆さんにお願いしたいところです。私だけでは全部できませんから。

ところが、あまりにも厳しいしごきを受けてきたような場合、たとえば、二十日間徹夜して、ゲゲゲの鬼太郎の衣装をつけて頑張って、もうへとへとになってきたというようなときには(笑)、今度は私が「大変だねえ」と優しく言ってあげます。

たとえば、A支部で、目を血走らせて、「皇室のために」と言いながら、おでこに日の丸の旗をつけ、ほほを引きつらせてやっているというときには、「ああ、ちょっと支部でお父さん役が行き過ぎたな」と思うと、私がお母さん役になって、「まあ、いろいろ支部で頑張っているようだけれども、あんまり頑張り過ぎるとね、心棒が折れてしまうから、自分を幸せに楽しくしていかないとだめだよ。

あんまりきまじめに考え過ぎてもいかんし、ふまじめでもいかんけれども、自分が保てるようにしなきゃいかんからね」と、優しく言ってあげます。

そうすると、「先生が優しく言ってくれたから、またやる気が出ました」ということになります。人間の心には、やはりお父さんとお母さんの両方の役割が必要なわけです。

それだけのことができないと、人は育たないですし、子供も育ちません。同じように、新しい会員さんや、新しいタマガキ会員さんというのは、神様の子供です。皆さんも、神様の子供ですが、お兄ちゃん、お姉ちゃんですし、幼稚園でいうならば、年長さんです。ですから、年長さんは、やっぱり年少さんを育ててあげないとね。

皆さんは、そのように自覚を持ってほしいと思います。ただ、神様に向かっ一生懸命やるというだけでは、だめだと思うんです。そして、支部が小さくて、育てる人が誰もいないときには、自分を育てたらいいのです。

説教臭くならずにアドバイスするためには

自分を育てたり、人を育てたりしていくときに、注意しなければならないことは、説教臭くならないようにするということです。説教臭くなると嫌みが出てきます。

それでは、説教臭くならないためには、どうしたらいいのでしょうか。説教臭くならないためには、「「あれを言って」「これを言って」というように、頭で画策しない」ことです。

言うことの骨子は、一応、手帳などにメモしておいてもいいのですが、その場に行ったら完全に忘れてしまうことです。言うときに「あれを言わなきゃ」「これを言わなきゃ」と、いろいろと頭をめぐらしていると、相手は何か説教臭い、人為的な臭みを感じます。

たとえ準備の段階でいろいろと考えても、その場に出たら全部忘れるようにします。

そうすると、その人の血脈や意識の深い部分から、自然に出てくる言葉になりますから、右から来たら右から答え、左から来たら左から答え、上から来たら上から答え、何もなければ真ん中から話が進んでいくというように、自在性が出てきます。言うタイミングがよくないなと思ったら、「まあ、いいか」と思って、タイミングのいい時が来るまで、黙っていることもできます。

だから、あんまり頭で考えながら言わないことです。準備のときには、いろいろと考える。そして、よく愛のお祈りをすることですね。

「その方が幸せであり、納得し、喜び、魂が育成されますように、神様お願いします」と、そこで他力を使います。しっかりと祈り込み、その場に出たときは何も考えないようにする。そうすると、神懸かっているものですから、非常に言葉が柔らかく、自ずから出てくる言葉ですから、説教臭くならないのです。

準備のときに考え、相手に言うときにも考え、お祈りを忘れて他力を忘れたときは、「嫌みな支部長」「嫌みなタマガキ会員」と思われて、なんか人が近寄らなくなります。

やっぱり近寄ってきてもらわないと、パンチも浴びせられません(笑)。

相手も「浴びせられて、気持ちいいわー」と思えるような、打たれたら打たれたところが、ハートマークになっているというパンチでなければいけません。それが嫌みになったら、相手は近寄ってきませんから、教育もできません。そのためにも、説教臭くならないということです。

アドバイスするときも、「自分の体験でああだったんだ」というように、自分の体験をしみじみと語りながら言うというのが、相手にとって、一番気持ちよく聞こえるやり方です。

「あああるべきだ」「こうあるべきだ」「こうしなければならない」というように、上から下に物を言うようにしたら、なんだか知らないけれどもにさわるし、「そういうあんたは何なんだ」と思うから、癇にさわります。

そうならないためにも、「自分はこうだったんです」「自分はああだったんです」とお話をしていきます。

今日の講義(注 定例講演神業)でも、私の大学時代のお話をしました。「私の大学時代はああでした」「銀行で……、キャッシュカードで……どうのこうの」というように、一つ一つのお話は、まさに事実です。

「自分もこうだったんですよ」という話からしていくと、相手も比較的素直に聞けます。それが、初めから終わりまで「あああるべきだ」「こうあるべきだ」と言うと、そうかもしれないけれども、どこかひっかかりが残ります。

だから、体験をいっぱい積んでいる人というのは、いい教育者になれます。「私のときも、こうやってこうしてきたんですよ。だから、きっとあなたもそうですよ」と言うと、相手も「そうか」と思える。体験というのが、一番説得力があって、嫌みに感じないわけです。

自分の失敗談をしみじみと語りながら、その中で会得したものを語っていくというのが、相手に一番気持ちよく入っていきますね。

「こういうことがあって、こういうふうに先生に言われて、やってみたらああだった」

「自分は、ここがこう足りなかったのが、これがわかってよかったんです」というように、自分の成功談でもいいです。人にはそういう話し方をしていくと、うまくいきます。これは、一つの技法です。

そして、今度は自分が聞いているときでも、「どういうことが一番聞きやすかったかな」ということを思い出せるようになります。そのような体験がある人は、自分が人に言うときに、同じように言ってあげることができます。

私の場合も、唐突にあの体験を言ったわけではありません。「何々を言おう」と思って、いちいち頭で考えていませんが、高校時代や大学時代、そして仕事に出ても、「その場でどう言えばいいのか」というように、お話の仕方を研究しています。

普段から、ずっと何十年も研究をしていますから、いざ神懸かれば、ちゃんとできるわけです。

準備のときは、ずっと練習し、こういうふうに話そうと考えていくようにする。その下準備があるから、本番でぱっと出るわけです。それが、今日の定例講演神業のとき、できていませんでした。

ですから、舞台裏でスタッフを集め、「準備もせず、いろいろと考えて、お話の草稿を練るということもなく、行き当たりばったりで出ていったらだめなんだ」と言って指導しました。

私のように、長年の研究と訓練があってできるようになり、また成熟してきてやれるようになっているのに、その訓練期間を見ていないで、でき上がったものだけを見て、そこだけまねしても、同じようにはできません。やはり技の冴えが違います。