神業奉仕は背後霊を動かし、開運、神業、神人の道の一厘となる ~神柱になれるシリーズ5~(Vol.3)

第二章 己を磨くことの意味~関東たまがき会にて 1993年8月28日~

神人合一の道は、祈りに始まり祈りに終わる

神業奉仕をしている皆さんに、「勉強しなさいよ。知恵がなければうまくいきませんよ」ということを、時々申し上げています。

ある程度、ご奉仕の精神が行き渡ってきたなら、ご奉仕をしている姿勢にプラス実力というものがともなわないと、ご奉仕の質が上がらないわけです。仮に十倍質が上がれば、一時間ご奉仕することで、以前の十時間分ぐらい貢献できるわけですから、その分だけ徳分が増えます。

しかし、心の奥は、「神業奉仕をさせていただくことを喜びとし、神業奉仕をすること自体が幸せである」、という気持ちであることが一番大切です。

あくまで、有効なご奉仕をするために質の向上ということが必要になってくるわけですから、その原点は常にしっかり持っておかなければなりません。それは、そこに行くまでに体にしみついていくものです。ご奉仕が喜びであり、ご奉仕が幸せであり、何のためらいも抵抗もなくご奉仕ができるというのが本当なのです。

いついかなるときにも、何が一番世の中で大事であるかというと、ご奉仕の精神であり、ご奉仕の実践です。

産土様も、如来様も、菩薩様も、みんなの大神様の御心が弥栄えていくために、の大神様の功徳が行き渡るために、の大神様の恵みが行き渡るために神業奉仕をしています。

の大神様のお役に立たせていただいて、それだけで喜びでございます」というのが神社の神様です。もちろん、守護霊さんは皆さんそうだし、菩薩様も如来様も、全部、その価値基準で統一されています。

私も全部、奉仕精神です。自分の会社以上に一生懸命人を育てています。そして、朝に夕に、「きょうも、神業奉仕をやらせていただいてありがとうござ「います」とお祈りしています。

祈祷会、悟得会英語セミナー、会社の取締役会でもそうだし、財務のミーティングでもそうです。アタールの打ち合わせでも、アクセサリーつくるときでも、本を書くときでも、いかなるときでも、お祈りをする。

まず、祈りの初めには、「神様の神業奉仕のご用にお役立ていただきまして、誠にありがとうございます」と、深々としみじみと神様に感謝します。

具体的なことをお祈りする前に、神業奉仕をさせていただいている喜びと感謝の祈りに一番時間を使います。そうすると、生意気な偉そうな姿勢だとか、おごり高ぶるような気持ちだとか、格好つけているような部分が、スッと瞬間のうちにアクが消えていく。ご神業の原点です。

だから、お祈りの初めにいつもそれを言うわけです。そうやって、たっぷりと神様や仏様へのレベルに自分を合わせていく。

今日、このような会場に何人もおいでいただいて、それでまたこういうふうな話をさせていただくのも喜びだし、また祈祷会を通して救済できるのも幸せだし、たくさんお与えいただいた叡智を皆さんに伝授して、皆さんのレベルが上がることも喜びです。

「神様、今日も○○○のことを通して、神業奉仕のご用のお役に立てさせてくださいまして、ありがとうございます」と、何をする場合でも、全部そういう祈りです。二時間も三時間も四時間も祈っています。

神様や仏様や如来様と同じ価値観の中に、自分がバチッと照準を合わせて、真心を込めてお祈りをするから、神様も仏様も守護霊様も聞いてくださるわけです。

だから、「神人合一の道」の始まりは何かというと、祈りから。そして、神人合一の完成は、やはり祈りです。祈りに始まり祈りに終わるのが「神人合一の道」であり、その祈りの中身は何かというと、神業奉仕に始まり神業奉仕に終わるのです。

なぜ知恵が必要なのか

奉仕というのは、「仕え奉る」と書きます。神様にお仕えし、奉る。これが、エンゼルです。

神様に、お仕えし奉っているのがエンゼルです。菩薩様も、皆、大日如来様にお仕えするし、神社の神様も天照大御神様にお仕えし、天照大御神様は宇宙の神にお仕えする。絶対なる神様以外は、全部、仕え奉る存在です。

「神人合一の道」というのは、神様と人が合一するということですね。一に合していくわけだけど、そこで「祈り」ということを通して神様と人との間の接点がある。その中身は神様と共通の価値観、奉仕精神の徹底、奉仕精神の実行、これが一番高貴で一番神なるものなのです。

そのうえで、何を通して神業奉仕するか。何を通して、「神業奉仕の精神」を輝かしていくか。たとえば、救霊師なら、その救霊のわざという一つの霊的な救済という手段を通して、神業奉仕をしている。

九頭龍師は、九頭龍大神という、龍神さんの持っている力とレベルがあるから、それに合わせて九頭龍さんを動かす。その御業を通して、神業奉仕しているわけです。

たまがき会は、全人格的に体施、体の施しを通して神業奉仕している。

青山塾は、神業奉仕するんだけれども、己を磨くこと。「みんなのためにみんなのために」という気持ちは尊いのだけど、「大天運」に書いたとおりで、これもレベルがあります。若いころに、神業奉仕というものが大事だというこ青山塾で学ばなければいけない。

古今東西の書物を見てみれば、みんな社会への奉仕、天地の大御心にかなうための奉仕というふうに考えて、若いときに志を立てています。西郷さんもそうだし、楠木正成、諸葛孔明、聖徳太子もみんなそうです。若い間でしかできないことを学ぶわけです。

それから、弘法大師伝教大師、みんな法の下、仏法というもののために仕え奉る。お釈迦様も「無法の法」という宇宙の「法」に仕え奉り、絶対的な謙虚さ、絶対的な奉仕精神を持って貫いたからこそ、あれだけのものを残しているわけです。

ですから、どこからこう転んでも、神業奉仕の精神に徹底するしかないわけです。皆さんも、神様に対して仕え奉る心をきわめていっていただきたい。そのうえで、救霊師ならば救霊を通し、九頭龍師ならば九頭龍の法を通しというふうに、それぞれ、専門分野に分かれていくわけです。

たまがき会なら、自分が空いている時間に支部活動をお手伝いするということを通して神業奉仕しているわけですが、その際、やはり知恵というものが必要になってきます。

知恵というのは技術です。神業奉仕の精神がきわまれば、技術もともなってこなければならない。技術と知恵が上がれば上がるほど、神業奉仕の精神をこの世の中に、現実界に顕現できる度合いが大きくなって弥広がるわけでしょう。それは、神の御心に合うことですから、だからこそ己を磨くわけです。

己を磨くことの意味

「己を磨く」というときに大切なのは、神業奉仕の精神とともに自分自身を磨いていくことです。己を磨くために、「己を磨く」のではありません。

「己を磨く」というだけなら、世界中、誰でも磨いています。皆、御魂の向上のために生まれてきたのですから。自分を高めるために頑張って努力をしていくことは、生まれてきた意味、使命に合っていますから、一応は守護霊も守ってくれます。

しかし、神業奉仕の精神とともに技術も磨こうという気持ちでやっている人は、もう神様は大喜びです。神業奉仕をさせていただこう、という気持ちが、輝いているからです。その神業奉仕していくために、自分の足りないところを補っていこう、もっと知識を蓄えていきたい、技術をきわめていきたいのです。

そういう気持ちで頑張っている人に対して、神様は、諸手を挙げてあらゆる方法を通して、その人の精進努力を助けてあげようと思う。どんなことをしても、この人の技術の錬磨と精進努力を応援してあげよう、と思うのです。

ですから、私は、神業奉仕をしている人に、「勉強しなさいよ、知恵がなきゃうまくいきませんよ」と時々言うのです。己を磨くために己を磨くんじゃない。発するところが違うんです。

ですから、心の奥は、神業奉仕させていただくことを喜びとし、神業奉仕すること自体が幸せであること。神業奉仕させていただくチャンスと、元気でやれる自分を喜びとするという、その心が前面に出てないと、一般の人と全く変わるところがありません。

「神人合一の道」を目指すのならば、まず、神業奉仕の精神をきわめていかなければならない。神様はみんな、の大神様に対して神業奉仕の心なのですから。

そのの大神様が、どんなお心でいるのか。天が下、平けく安らけく、幸多かれと思う心、大慈大悲の大御心なのです。いつも、人々を幸せにしたいと願っています。

底辺の人を救済して、少しでも幸せにしようというだけではありません。あらゆる階層のあらゆる種類の幸せを、実現してあげたいなと思っている。人が望む幸せはさまざまですが、そのなかには、進歩向上の喜びという幸せがあります。進歩向上という幸せが一番高級な幸せなのです。

「人が喜ぶこと、幸せになること、進歩向上するという幸せを与えるようなことを取り次ぐことができればなあ」という心が、の大神様からあらゆる神様と一本スパーンとパイプが通るポイントになります。

神業奉仕の精神は、上に対してはお仕え奉り、人々に対してはの大神様の大御心で、みんなが幸せになることを願う。具体的には自分が関わることを通して、少しでもその人が幸せになるようにという気持ちでやることです。

たとえば、荷造り発送する人は、「発送を受けた会員さんに喜んでいただけますように」と心を込めて作業をする。そうすると、発送を受け取った人は封筒を触ったときに何か温かいものを感じます。

発送した人の思いがこもっているから、パッと封筒を触った瞬間に「幸せ!」っていう気がする。中身を見る前に、救われたような気持ちになってきます。

実際、セミナーや祈祷会に参加して感動的な体験をした人は、郵便物を受け取ったときに封筒から温かいものを感じたから、「行ってみようかなあ」という気持ちになったというケースが多いんです。荷造り発送、郵便物発送で徳を積んでいるわけです。それは、神様もご存じです。

ですから、荷造り発送でも、どのような気持ちでやるかということがいかに大切かということです。皆の幸せを願って「受け取った方に喜んでいただけますように」と心を込めて一つひとつの作業をする。あるいは、担当の係のスタッフが見たら、担当係の喜びとなりますようにという気持ち。

しかし、それは組織のためでも担当係のためでもありません。担当係の後ろには、その人の背後霊がいます。その後ろには、三宝荒神がいて、その後ろにはの神様がいらっしゃる。

の大神様は、現実界の中では実体がありません。その大御心を現実界で形にしていくためには、人が要るわけです。

ですから、私たちが手足を動かしていかなければならないのです。そのの神様に喜んでいただくために、という仕え奉る心。それが神業奉仕の精神の根本であり、未来永劫変わらないものです。

「神人合一の道」というのは、神業奉仕の精神一本でバチッと全部がつながりあっています。そして、人々の幸せと喜びと満足と感激、感動ということで、信仰が弥広がっていく。縦と横が十字に組めていたらいい。それが、すべての一本の基本です。

その基本が前に出ていること。神業奉仕をさせていただいているというだけで、心が前に浮き立っているような情感で絶えずあり続けること。そのうえで、今日よりも明日、明日よりも明後日と進歩があったらいいんです。そこに研鑽が出てくるわけです。

ですから、私が研鑽に励むのは、研鑽に励まんがために励んでいるのではありません。の神様や、この使命に対して仕え奉ることが、より効率的に、より広く、より大きく、より永遠に残っていくために、おのれを磨き続けているのです。

自分が大きくなった分だけしか、お伝えできないからやるわけです。と同時に、みんながよかれという気持ちがあって、それがにじみ出てくる思いだからこそ、神様が動いてくれて超能力とか霊力を与えてくださる。そういうふうな気持ちにならないときは、何の能力も出てきません。

「神人合一の道」ってこれだけです。

私の場合は、そういうものを二十七年間、ずーっと、来る日も来る日も思い続けて、今も、思い続けるだけじゃなくて実践しています。

その基本があった上に精進があるわけです。それは神人合一してやる精進ですから、普通の人の努力より何倍も効率がいい。神様に守護されている精進ですから、普通の人の能力の何倍も早く、何倍も素晴らしく開花します。

体にしみこんだ奉仕の精神

私は十五歳のころから、ずっと神業奉仕を続けています。十代の青春時代は、組織で一番末端でしたから、掃除や神事の後片付け、新聞配りをしました。それから、毎日の薪割り。「教会長先生がお入りになる風呂だな」って一生懸命薪を割っていました。

当時、いつも薪を割っていましたから、今も薪を割るのは得意です。リズムでパットントンと(笑)。ですから、お餅つきなんかでも本当に上手にお餅をつきます。

十五歳から二十四歳の九年間は、ずっとそうです。そういう中で、身につけていった知恵や技術は満たされていくのだなということを、七、八年目ぐらいから思い始めました。そして、同時に神業奉仕をすることの喜びということを、ずっと体で感じ続けてきたわけです。今、その両方を持っています。

ですから、末端で動いている人の気持ちが、痛いようによくわかるのです。

神事や悟得会、祈祷会を、目立たないところで支えているご奉仕の皆さん、荷造り発送をする人、たまがき会の支部運営の人たち。自分がそういう存在でしたから、皆さんのことをいつも感じます。そういう私に神様が白羽の矢を立ててくださった。

自分は何もせずに、皆さんにだけやれと言っているわけじゃありません。自分がやってきたし、今もやっているのです。

私は、そうやって下からたたき上げてきた人間ですから、無意識ですぐに奉仕の体が動いてきます。今なおそうです。体も口も頭も動きますけども、それが喜びなのです。そういうのをよしとして、神様がいつも見ておられるから、このように能力も運も体の元気さも与えてくださっているのです。

ですから、神事のときでも、岩戸びらき神事でも、海原びらき神事でも、一番最後まで残っているのは私です。この間の海原びらき神事の最後は、直会で皆さんにいろいろ料理を作って差しあげましたでしょう。ソースとマヨネーズと、それから醤油でもうドロドロです。毎回、神主衣装をつぶそうと思っています(笑)。

でも、実は、今年(一九九三年)の鹿島はそれで終わりではなかったのです。直会が終わってから鹿島神宮に参拝に行ったのですが、最後に池のところで、沖縄から神事に参加された会員の方々と会いました。

「あなたたちはどこから来たの?」

「沖縄から来ました」

「ほう。それははるばると。往復十万円ぐらいかかるかな?」

「それぐらいかかります。それから、日程も関東近辺の人たちより二日プラスになりますから、決死の覚悟でまいりました」

「ああ、そうですか」

瞬間に、何かしてあげたいなと思いまして、それで色紙を書いてあげることにしたのです。鹿島神宮のあの鯉が泳いでいるところの茶店で、十七人いましたけれど、一人ずつ全部違う色紙を書きました。

ところが、途中で、冴えなくなってしまって、何回も書き損じをするのです。気がつくと、売店のおばさんたちがちょろちょろ見に来ていたのです。それから、全然関係ない一般の参拝客のおじさんも、色紙を書くのを覗き込んでいた(笑)。

もう、途中で五時ごろですか、色紙書くのをやめようとか思いましたけど、半分まで来ていましたからしようがありません。時間はかかりましたけれど、全員の分を書きました。

「ああ、終わった」と思ったんですけど、一般の参拝客のおじさんが「鳥の絵なんかよかったですよね」とか声を掛けてきました。次に今度は、売店のおばさんが、「私は、あの、鳳凰の絵なんかよかったですよね」って物欲しそうな目で見ているんです。

「いいねえ、これ、いいねえ」って言って。どうもおかしいなあと思ったのですけれど、おばさんたちも最後に色紙を書いてもらおうと思ってジーッと念を飛ばしていたから書けなくなったんです。

もう、わかりましたよって、結局、売店のおばさんたちにも色紙を書いて差しあげました(笑)。

結局、夕方の六時か七時ごろになりましたけども、そんなことをこの間の鹿島では本会場の神事が終わった後も、最後の最後までずっとやっていたわけです。

でも、やはり、はるばると沖縄からそれだけの時間と費用と労力をかけて、決死の覚悟で来た人たちに対しては反応します。神様がそれを受けていらっしゃる。

神様が受けていらっしゃるから、私も最後までやるわけです。売店のおばさんの分までやることはないと思いましたが(笑)。

ただ、そういう時間も全然苦じゃないのです。おばさんたちの念には少し参りましたけど(笑)、十五歳のころから、最後まで残ってやるという癖がついていますから、自然に体が反応して、喜びながらやっているのです。

そうすることで、どんどん神様と親しくなっていきます。それが神通力を維持していく秘訣でもあり、これはもう体で覚えないといけないことなのです。十五歳のときからずっと続けていますから、もう体にしみついています。

私は、突如として神懸かって「我こそは」という霊能者ではないし、葛藤と苦しみを経て神に祈って救われたというのでもありません。十五のころから、一つの組織の中の末端の信者で学生部をつくって、ずっとご奉仕をやってきて、それが今も続いているわけです。

「天知る、地知る、神が知る、我が知る」

世の中にはいろいろな宗教がありますが、歴史上偉大な宗教家、宗祖といわれている方たちの精神的な中身の偉大さ、高貴さというのは、どこから来ているのでしょう。

たとえば、お釈迦様はどんな身分の人にも関係なく法を説き、また単なる能力の優劣で自分の弟子を分け隔てしなかった。周利槃特という弟子は、自分の名前も覚えられないくらい記憶力が悪かったけれど、それでもお釈迦様はやっぱり見捨てないで、「あなたはお掃除をしなさい」と一本の箒を渡した。

周利槃特は、毎日お掃除をしながら、ひたすら一つの偈だけを唱え続けて、それで見性、悟りを開いたのです。

日蓮上人もあれだけ男らしい人だけども、法華経はあらゆる者を救えるということで、女性でもどんな人に対してもとても優しかった。

イエス・キリストだってそうですね。当時、嫌がられていた税金取りの役人さんに対しても全く変わらずに親しくお話ししたし、マグダラのマリアにも優しく接しています。みんながいじめていたら、「汝の中で罪なき者のみ打て」と庇ったので、誰も石を投げられなかった。

みんなの末端の中に立って生きているというのは、浅草の観音様もそうだし、やはり立派な宗祖さんたちというのは、そういうふうな生きざまをしています。どんな身分の人でも、どんな人に対しても、平等にその人たちのことを考えています。

それは、精神の偉大さです。精神の偉大さが、霊格の偉大さです。ただ、組織ができ上がってしまって、それを維持していくことが重点になると、宗祖様、教祖様のカリスマ性を強調することで、ありがた味を持たせていこうとする傾向が強くなってきてしまう。

そのほうが組織の統合はやりやすいかもしれないけど、神霊界から見た中身のレベルっていうことから考えたら、

やはりレベルダウンしています。

ですから、神業奉仕に始まり、神業奉仕に終わるんだと、ことあるごとに、私はそう言っているわけです。

それは誰が見るというのではなく、「の魂が知っている。「天知る、地知る、神が知る、我が知る」。天が知ってる、地が知っている。「神が知る」とも言うし、「我が知る」とも言う。自分の魂が知っている。みんな自分の魂が知っています。神の道において宗教性を見た場合、それ以上に高貴なるものはないわけです。

ここでもう一回、改めてご神業とたまがき会の原点、神業奉仕の尊さの原点、どんな意味があるのかということを再認識していただきたいと思います。

どうですか、皆さん。

胸がほのぼのとしてあったかくなってきたでしょう。

皆さんのお腹の中に菩薩様。菩薩というのは悟った境地なのです。それを実践することによって揺れ動かなくなったのが、如来です。

菩薩があって如来があって、次に社会における実践行動を貫き通すことによ足跡と、さらに芸術性、社会における表現がもっと徹底し、そして抹香臭さが消えたものが、神の境地です。

初めは菩薩から入ってくる。次に実践の中で、揺れ動かない悟った境地が出てきます。

皆さんに、菩薩の考えが顕現しているから、胸がほのぼのと温かいのです。

温かくなったでしょう。ほのぼのとした文学的、宗教的な内面性です。そういう霊界、斎庭が広がっているのです。それを喜びとし、楽しみとして継続できていくように自分ができたら、ドンとしたその「如来の位」という「御魂の位」が定まるんです。

出てきたらパアーッと光ってきます。何で光っているかわからないのだけれど、光っている。見てわかります。私たちが見てわかるのですから、神様が見たらすぐわかりますね。神霊の存在から見たら、すぐわかるのです。