喜んでやる心が神に近い
そういうことで、国祖国常立大神様の直系の息子さんや閻魔大王しか、鬼の役割、働きはしないし、できない。あんなストレスのたまる仕事だけれども、お父様がそうなさっているし、本当の神様だからこそ、みんなが一番嫌がる仕事を喜んでやっている。
嫌々やっても喜んでやってもやらなければいけないものならば、喜んでやろう。「ねばならない」ものだったならば、私がさせていただこう。これが神心に一番近い心です。
国祖国常立大神が閻魔大王をなさり、直接、大綿津見となり、閻魔大王様となり、その息子さんたちがみな鬼の役割を率先して喜んでやっていらっしゃるわけです。ほかの神々様にもいろいろな役割がありますよ、神霊界ではね。仏様の世界でもあります。
ほかの神々様に「これをお願いします」と言っても、誰も嫌とは言いません。しかし、国祖国常立大神様は、本人自ら一番大変な仕事をして、その息子さんたちが地獄の鬼の役割をなさっている。血の池地獄があり、針の山もある。
舌を抜く仕事って、大変ですよね。 3Kの極致です。抜かれるのも痛いけども、抜く人も大変です。
国常立大神とそのご子息が、そういう仕事を喜んで率先してなさるから、ほかの神々様にいろいろな役をお与えしても、「ああ、もう、ありがとうございます。このような楽な仕事をさせていただいて、感謝いたします」と、喜んでいます。
それに対して、国常立大神様とそのご子息たちは、「いえいえ、私たち鬼のような仕事をしてあげて極悪人を改心させないといけませんからね。善人に改心するためのお仕事ですから、喜んでさせていただきます」と、謙虚に、黙々と自らの役割を果たされる。
清々しい神が青鬼になったり赤鬼になったり、来る日も来る日も棒を持って、地獄の化け物のような顔をしている人間を殴ったり蹴ったりしながら、改心させるために根気よく指導している。
あれは、指導なんです。ただ刑を執行しているだけでなく、「お前は日ごろこういうことをしておったから、報いとしてこうなっておるんじゃ。お前、改心せんのか」と、鬼は地獄の住人と対話しながら、ちゃんと教育訓練をしているんです。
ほかの神様も、ぐうの音も出ない。
「このような楽な仕事をさせていただいて申しわけございません、ありがとうございます」
と言って、みんなが一生懸命に働く。自ら一番大変なことを喜んで率先してやる神様がいるから、ほかの神様も喜んでするわけです。
本物の神様であればあるほどそういうふうなお心を持ち、そういうような実行をなさるんです。それと同じように、支部長自らがあえてその道を選んで大変なことをすれば、支部の部員は喜んでします。これが率先垂範。どこかの支部で「率先垂範」なんて書いてあったけれど……。
「決定事項で率先垂範をして」と書いてありましたが、誰だって楽なこと、カッコいいこと、面白いことをやりたがります。
やりたがらないのは不恰好なこと。3K、4Kです。上に立つ人間が一番大変なことを自ら率先して、しかも喜んでやっていると、ほかの人間はそれ以上に楽だから、カッコいい仕事とか楽な仕事とか、面白いことは何でも喜んでやりますよ。ちょっとくらい大変なことがあっても喜んでやります。
これが神心。これが指導者。これが本当の率先垂範です。
国常立大神様やその息子様たちがやっている地獄の番人と鬼のお仕事のことを考えれば、クレームの対応がちゃんとできているんだろうかとか、あるいは支部の相談がどうだとか、新入会の皆さんをちゃんと指導しなければとか、そんなのは非常に楽な、簡単な、面白い仕事ですよ。
地獄の番人のお供よりはよっぽど楽です。楽しすぎて楽しすぎて、顔が恵比寿様、大黒様みたいになってしまいます。そういうふうに考えて、どのような役割も喜んで勇んでやることです。
勇んでやれば勇んでやることが起きてくる。悔やめば悔やむことがやってくる。喜んでやれば喜ぶことがやってくる。
「勇めば勇むことがやってくるぞ。やめば悔やむことがやってくるぞ」というのはお筆先にある言葉ですが、国常立大神様のお言葉ですね。お筆先にある言葉です。嫌々やってもしなければいけない。喜んでやってもやらなければいけない。同じやるんだったら喜んでやる。これが率先垂範。これが指導者の真心。これが神心に一番近いお心なのです。
役割とかご用は、役割とかご用をやること自体ではなく、喜んでさせていただくという心が大事なのであって、自分がそういう心でもってやっていたならば、支部の部員は自ずから喜んでさせていただきますという気持ちになる。
国常立大神様とそのご子息の鬼のお働きのことを考えれば、非常に楽な楽しい仕事ですよね。一番徳の高いところのお仕事、皆さん、いいとこ取りしたわけです。
こうやって宣り直しをし、神心の原点に帰っていくっていうことが大事なのであって、それができていたら「あああああ$301C、えええええ~」という、泣く泣く、嫌々、「ああ、大変そうだなあ」なんていうような想念は微塵も出てこないはずです。
万能の人となった本当の理由
議事の運営にしてみても、あるいはクレーム処理にしてみても、私が細かいところまでチェックできるのは、やはり二十五のときからお弟子を抱えて二十五年間、ああでもないこうでもないとやってきた経験があるからです。
今は三百何人のお弟子(編集部注 2002年当時のスタッフの数)がおりますけれど、十五歳から支部の運営をずっとやってきた。だから、誰よりも運営能力では優れているわけです。
そういう私を見て、「先生はカッコいいなあ」なんて思っている人がいるかもしれませんけれど、まあ、別に馬に乗ったりすることがカッコいいわけではないんですけれど、カッコよく見えるところなんか氷山の一角で、水面下では尻拭いと、このような細かいことの反復練習ですよ。
「一緒にやろうよ」と言って、何回も何回もやってきたわけです。
山本五十六ではないけれど、「やってみせ言って聞かせてさせてみて褒めてやらねば人は動かじ」です。ずっとそれの連続です。
その目に見えない下積みの、汚れ仕事と責任の尻拭い。目に見えない仕事、目立たない地味な仕事をこつこつこつこつ三十五年。植松愛子先生とお会いしてから二十五年。目に見えない努力と苦労、それから嫌な仕事の尻拭いを、いっぱいやっています、私は。
だから仕事ができるわけです。カッコよくお告げだけのたまっているような教祖と違うわけです。そういう教祖に誰がついてくるか、です。
立正佼成会の庭野日敬さんにしてみても、小学校しか出てないけれども、裸一貫から叩き上げて苦労しているからこそ、人の痛みと苦しみがわかる。
だからこそ、お弟子を一生懸命育てたし、お弟子はお弟子で、庭野さんのためにと思ってみんながついてきたわけです。
弘道布教部の人たちも、なぜ、こんなになぜ頑張っているのか。他の人たちは普通に仕事したり遊んだり休憩を取ったりしているのに、不眠不休でやっています。汚れ仕事でも後始末でも、全部、具体的に指示してやっています。
その何倍も私が現場でやっているからこそ、弘道布教部の人も支部のスタッフもぐうの音も出ないです。
目立たない地味な仕事とか、不恰好な後始末とか尻拭いとか、根気のいるようなものはみんなやっていますよ、私は。三十余年間。植松先生のところに来て二十五年。だからみんな、文句を言うことなく黙って「はい」とついてくるわけです。
教祖様だから、神のお告げだからという、そんな権威をもって人をかしずかせているわけではない。
海原開き神事でも伊勢の神事でも、去年の伊勢の神事でもどれだけ率先して頑張ったか。
足がぼろぼろになろうと、霊障でへろへろになろうと、八時間でも十時間でも二十時間でも、もう霊的、肉体的、頭脳的な極限状態でも、ずっと千五百四十三人、手抜きを一切せずにきちっと最後までやりつづけるわけです。
よその教祖さんは、すなわち、できあがった組織の上に立つ人間は、シンボルだけで、「よきにはからえ」というふうにやっていくのかもしれませんが、庭野敬さんや日蓮上人、あるいは親鸞さんや法然さんのようにゼロから創教した教祖様、何もないところからつくってきた教祖様というのは、みんなそれだけ塗炭の苦しみと苦杯と差別の中、そして、屈辱の中を乗り越えてきた。
それでも支持者がついてきたのは、雨の中、雪の中、寒い思いをし、苦しい思いをし、殺されるか殺されないかという危機を乗り越えてきたからです。そういう人間についていくわけです。
日蓮上人さんも佐渡に島流しされたときには、周囲八方に壁がないところに住んでいました。
お屋根だけです、雨をしのぐのは。寒いところで別に暖房もなく、粗末な食べ物だけ与えられて、「自分はもうここで死ぬな。だから死ぬ前に、自分が言いたかったことを全部まとめて活字にしなければいけない」ということで書いたのが、「勧心本尊鈔」とか「開目鈔』。日蓮上人の思想の中心的な事柄を執筆したのです。
生命の危険を感じたからこそ、あれを書き上げたわけです。
出来上がった組織の上に乗っかっている教祖ではなく、ゼロから立ち上げ、無から有を生んでいった宗祖たちは、それだけの苦労をした。だから、民衆がついていったわけです。
みんな、苦労を苦労とも思わず、神に対する使命、神に対する忠誠心、民を思う慈悲と慈愛、その一念で迫害をものともせずに生涯を貫き通したわけですよ。
二代目、三代目、五代目になって組織が出来上がってきたら「よきにはからえ」となるのだけれど、宗祖の原点はそんなものではなかった。
私も同じ。皆さんも同じです。無から有を生んでいく創教の時代にあって、このような仕組の宗祖存命中にお弟子になったのですから、同じ立場でともに苦労をしていくわけです。
そして、ともにこのご神業の組織をつくっていくために、汚れ仕事、3K、4Kでも、「喜んでさせていただきます。お役をいただいてありがとうございます」と、感謝と喜びをもって取り組んでいく。
本当に有意義な楽しい仕事です。カッコいいことは人に任せて、自分は一番大変なことを率先してやる。これが本当の率先垂範、本当のリーダーであり、国常立大神、本当の神様に直結した真心なのです。
そういうことをあえてやるというのでなければ、人は喜んでついてやるはずないですよ。そこに御魂の威光というのか、威厳がバシッと備わってくる。神様が一番愛してくださる人になるわけです。
国祖国常立大神やその直系の神々様が、「お前、本当の神心をよくわきまえているね」と褒めてくださる。そういうものの考え方、そういう行動を取る人が神に一番近い。
少なくとも私はそれがわかっているから、そう思って毎日、汚れ仕事、軽作業でも、喜んでやっております。
単純な書類のチェックから何でもやっております。やりにくい弟子とか、みんなが見放した人間を再度私が預かって、その人の話を聞いてあげ、何とか一人前になるようにと教育しております。問題が行き詰まったときは、最終的に私が解決しております。
ニッチもサッチも行かないような問題ばかり、私のところにくるわけです。
絵を描いたり、書を書いたり、歌を歌ったり、踊りを踊っているだけではありません。
普段は、そういうお伺い書がたくさん来ます。お弟子では判断できないような難しいことが、みんな私のところに来る。一つ判断を間違えたら大変なことになる重大問題が常に来る。最終決断をどうしますか、というものばかり来るわけです。
同時に、弘道布教部でも会社の中でも、お弟子に対してゼロから教えていかなければならない。H君などは、学生のときから教えております。何度も何度も根気よく、一緒になって手取り足取り教えていかなければなりません。
自分が吸収して表現するほうが、よっぽど楽です。しかし、それでは人が育たないから、自分は自分で吸収し表現しながら、同時に学生上がりの人間、学生のままの人間、何も知らない人間に一から順番に教えていっているわけです。
いったい、どれだけの根気とどれだけの忍耐がいるか、です。そんな綺麗事ばかり、カッコいいことばかりやっていません。汚れ仕事、責任の尻拭い、単純な反復練習をしながら、一生懸命、弟子を育てているわけです。
皆さま方にこんなことを一つひとつ言うことも、そのうちの一環です。
皆さんは会議をしているけれども、私は霊的にずっと重たい思いをしながらも、あえぎあえぎしながらも、頭が朦朧となりチクチクしながらも、同じようにお祈りをして、皆さんを目に見えない世界からちゃんとチェックして、見守っているわけです。
会議の結論だけ聞いて、「ああ、そうかいね」と言っているだけなら楽ですけれど、それでは人が育たないではないですか。
だから、ともに苦しんで、ともに時間を過ごして、あえぎあえぎしながらこうやって見守っているわけです。伊勢の神事でも、両足が刺さったみたいな状態であっても極限までお取り次ぎをしているのは、あるいはできるのは、普段からそうやっているからです。
皆さんは、それほどやっているのかなと思うんですね。「人間としての努力の究極に神の誠がある」と言いますけれど、さらに人が嫌がるような締めくくりをやっていく。
勇めば勇むことがやってくる、悔やめば悔やむことがやってくる。3K、4Kを喜んで率先してやる人間は、神に一番近いじゃないですか。
そう思って私は、どんなことでも嫌がらず、喜んでやっていく。だから、どんな仕事でもできるわけです。
クレーム処理であろうと、支部の教育であろうと、やりにくい人間や歪んだ人間をまっすぐにさせることであろうと、ある程度限度はあるけども、どのような問題でも何でも全部解決できるのは、神様がいつも守っているからではなく、全部、私自身が経験しているからです。
経験し、乗り越えてきているからできるのです。神に守られている人間は、そういう山険、大蛇の比禮、蜂の比禮の試練を全部、通らされるわけです。それらを乗り越えて初めて、人を導き育てることができ、神の本当のお取り次ぎができる人間になるのです。
みんながいまやろうとしていること、いままでやってきたこと、みんなが大変だなと思うことは、全部、私自身、すでに何百回も何千回も経験してきたことです。というか、神様にやらされてきたことです。ブツブツ、嫌々ではなく、喜び、感謝でやってきました。
ブツブツ、嫌々だったら己に負けているし、神様に負けているわけですからね。勇めば勇むことがやってくる、悔やめば悔やむことがやってくる。嫌々やっても喜んでやっても、やらなければいけないのならば、喜んでやるんだ、自分の役割とか使命に負けないで。
嫌々、ブツブツ言いながら、嘆きながらやったら、役割と使命に負けているんです。役割と使命に勝つためには、喜び勇んでやる。そうしたら、役割と使命に勝つわけです。嫌々やったら負けてしまう。
国常立大神様のことを思えば、こんな仕事は大したことない。鬼の皆さまの日々のことを思えば、こんな仕事は大したことない。
あまりにも美しすぎて、簡単すぎて、楽しすぎる。血の池地獄のお供は、ずっと臭い中にいるわけですからね。人が泣き叫んでいるのをじっと見ながら、ちゃんと教育していくわけですから、それよりははるかに楽な仕事です。
私はいつもその基準で見て考えています。だから、伊勢の神事のように、いつでもどこでも何十時間でも座りつづけるし、何十時間でも砂を掴むような単純軽作業、事務処理でも黙々とやりつづけていますよ。
単純軽作業や事務処理も大事なことですけれど、あまりカッコよくないような、不恰好な、目立たないような仕事ですよね。でも、一番徳の高い仕事なんです。
「地上の天人」を目指そう
それを喜んで実践する人を、霊界では、「地上の天人」と言います。地上の天人というのはそのようにして、人さまがいやがる仕事を喜んで率先してやっていくのです。
後始末とか目立たない仕事を喜んで率先して、しかも喜びを持ってやっている。そういう人間が、地上の天人なのです。「霊界物語」に出てくる言葉です。
地上の天人は、不言実行、実行菩薩。不言実行が実行菩薩なのです。その地上の天人になるんだ、と。地上の天人こそが、神人合一をし、ミロクの世をつくっていく一番の原動力。それが私のスローガンだったわけです。
だから皆さん、いろいろ役割が決まったとき、レベルの低いこの世の普通の人間みたいに、嫌々、仕方なく受け止めたとしたら、それは宗教的悟りの低い、文化レベルの低い、浅はかなことだと思わなければいけない。
そういう感情をお持ちになった方は、「地上の天人、不言実行、実行菩薩。不言菩薩は不言実行」と書いて、地上の天人になろうというスローガンを掲げなければいけませんね。
エリアの議長、支部長は、まず自ら率先して、地上の天人の生き方を実践する。そうでなければ、神人合一の一番高いレベル、本当に神様に愛される地上の天人にはなれません。
悔やめば悔やむことがやってくる。勇めば勇むことがやってくる。嫌々やっても一年、喜んでやっても一年ならば、喜んでやろう。嫌々やってもやらなければならない。喜んでやってもやらなければならない。だったら、喜んでやろう。こういう心が大切です。
それがやっぱり信仰を持っている人間の宣り直しであり、悟りの心ですよね。
私自身、いま言ったようなことを実行してきましたし、今日まで貫いてきた生き方であります。そして、それが神にお仕えする大切な心構えなのです。
ですから、常にそのことをスローガンとして教えていかなければいけないし、示していかなければいけない。そうすると、支部の部員はみんな、「地上の天人、不言実行、実行菩薩」になる。
国常立大神様は大綿津見となりて、閻魔大王、その直系の息子さんが地獄の鬼をやっているわけです、血の池地獄の番人を。
まあ、伊勢で言うならば白子隊で、寒い中で誘導している。まだいいほうです。これ、お地蔵さんみたい救霊師というのは人の悩みを聞いて、一生懸命、霊障と闘いながら霊を救済しますので、ちょっと近いかもしれません。一番徳の高いのは、4K、5K です。
だから「Kを愛する」とか「Kを愛そう」とか、そういうようなスローガンやキャッチフレーズを出して、自らが率先していくと、支部の部員は喜んでどんなことでもやるんですよ。これが本当のリーダーシップなのです。
魂の威厳ですし、威力ですし、魂の力なのです。そこに最高の神様が守護してくださっているから、冒すべからざる品格と、冒すべからざる霊威というのが授かるわけです。霊威は霊的な威力です。威厳です。その支部長が何か、ご威光があるように見えるんですよ。
そうすると、「君、これ、お願いします」「はい、わかりました」とつい言ってしまう。そういう御魂の霊威、霊厳、威光が輝き始める。最高の神様が守護されているから、冒すべからざるその人の言霊の力というか、体からにじみ出てくるオーラというか、霊厳さがあるのです。
その人がいると何でもビシッとうまくいくし、その人がいると「はい、わかりました」とすぐ言ってみたくなる。言葉とか存在自体に、それだけの霊威、霊厳、霊力が授かるのです。
いま申しあげたような生き方を貫いている人は、魂は知っています。これがリーダーの器というものを磨いていく極意なのです。死ぬと最高の位に行きますよ。国常立大神、
の大神様の御心に一番かなっているということなのです。
観世音菩薩の大慈、大悲とは
それから、の大神様は観世音菩薩様に化身なさるんですけど、観世音菩薩様は、三十三相に化身します。子どもになったり、将軍になったり、事業家になったり、いろいろな姿に化身します。
いろいろな姿に化身するのは、みんなのためにわかりやすいように、ということなんです。それほどまで細やかに、みんなのことを考えていらっしゃるわけです。
子どもが悩んでいたら、子どもの姿となって導く。将軍が悩んでいたら将軍の姿となって導く。
商売人がビジネスで苦しんでおったら、同じく商売人の姿となって導く。観音経に書かれていることですけれど、
の大神の化身です。
の大神、すなわち最高神なるがゆえに大日如来様の下、第八番目の位に下って、庶民の救済に努められている。愛が一番大きいがゆえに、大愛なるがゆえに大慈悲。やさしいお母さんの思いと、厳しいお父さんの二つの要素を兼ねた働きをなさって、そして観自在。
三十三相に化身してあらゆる人を導かれあらゆる人を救う。
の大神様だからこそ、一番慈悲が大きいからこそ、そういうお姿になられて、胎蔵界では、中心の大日如来の下にくだって大日如来の政治をお助けになる。
また、阿弥陀如来がお告げをされたとされている西方浄土においては、阿弥陀如来様の脇仏、勢至菩薩と観世音菩薩が阿弥陀如来様の脇仏になる。
阿弥陀如来さんは、いかなる衆生をも阿弥陀浄土に送るんだという発願で、何万年もやっておられるわけですけれども、それを助けてあげようということで、阿弥陀如来さんの脇仏、配下に下って庶民の救済をしておられる。これが、観世音菩薩様です。
阿弥陀如来の脇仏になったり、大日如来の配下に下ったりして、とにかく庶民を一人ずつ救っていこうということで、三十三相に化身される。最高の神様なるがゆえにへりくだることができるわけです。
最高の神なるがゆえに、最高の愛を持つがゆえに、へりくだって一番嫌な仕事、一番大変な庶民の救済に率先してお出ましになる。これが観音の心だし、の神のお働きの実態です。
お地蔵さんは、地獄で「わーっ」と火に焼かれている人がいたならば、身代わりになって焼かれてあげる。そのお地蔵さんも国常立大神様の子です。「わしが代わりに焼かれてやるから、お前、待っていろ」という形で身代わり地蔵さんが、代わりに焼かれて熱い思いをされているわけです。
「お地蔵さん、ありがとう」
「お前が生前、人に高利で金を貸して、火の車にさせたので、同じように火に焼かれる焦熱地獄にいるんだよ。わしが代わりに焼かれてあげるから、生前の罪を改心して、再び同じことを繰り返さないようにな。この熱い思いをすることが天地の裁き。自業自得じゃ」
お地蔵さんは、地獄の霊に成り代わって焼かれてあげるわけです。熱い熱い思いをしながら、黒こげになって地獄の人間を救ってあげる。
「お地蔵さん、ありがとうございます」
「よかったな。生前、人を苦しめたからこうなったんだぞ。この熱い熱い苦しい思いを自分で感じて、同じようなことを繰り返すなよ。生前、罪を行ったこ大日如来様に、仏様にお詫びをして、心から悔い改めることだ」
「何とお礼を言っていいのか、わかりません」
「お前が改心してくれれば、わしは何も言うことがない。苦しい思いをするときがあったら、またわしを呼んでくれ。いつでも身代わりに焼かれてやるからな」
これがお地蔵さんです。六道の辻々に立って、人々を導かれる。お地蔵さんがお釈迦様に申された。
「末法の世になったならば、地獄に堕ちる人間がたくさんおりましょう。私は、六道の辻々に立って地獄で苦しむ衆生を導きたいと思います」
そのお地蔵さんの発願に対し「よろしい。末法の世で苦しむ衆生の救い、お前に委ねよう、託そう」と。
これは、地蔵本願経嘱累品というお経に書かれてあります。末法の世になったときにも、そのようにして衆生を地獄から救う。そういう役割、働きはお前に任せたよということが、地蔵本願経嘱累品にあります。
そのように、六道の辻々にお地蔵さんが立たれているから、街角にお地蔵さんがおられるわけだ。身代わり地蔵、とげぬき地蔵、いろいろとお地蔵さんがいますけれど、苦しんでいる衆生の身代わりになって焼かれてあげて助けるという、捨て身の救済。これがお地蔵さんですよ。
そんなカッコいいところでカッコよく、先頭切って「それー!」なんていうようなものではありません。
フランス革命のときの絵がありますね。フランス国旗を持って「それー!」なんてやっている絵。あれとは違うんですから、お地蔵さんの率先垂範は。
身代わりに焼かれてあげるお地蔵さん。地獄の番人となっている閻魔大王と鬼。みんな大変です。けれども、地獄にまで救済に行こうと発願するお地蔵さんがいるわけですし、すべての衆生を阿弥陀浄土に送るんだと発願している阿弥陀如来さんがおられるわけです。
それを応援してあげようと言って配下に下っている観音様は、の大神様のご化身なのです。国常立大神も、さらにその上の大神様がそのように大慈大悲の御心でおられるから、嫌なことでも率先してなさっている。
衆生に対する慈悲と慈愛が先に立つから、そういうようなことを喜んで率先してなさるわけです。お地蔵さんでも、阿弥陀如来さんでも、観音様でも、閻魔大王でも、鬼たちでも、みんな大慈大悲の御心を持っておられる。仏様は、皆さん、そうなのです。
それを考えたら、いろいろな役割が与えられたとき、「ええっ、そんなことするのか。嫌だなあ。大変そうだな」なんて思うのは、本当に罰当たりなことですよ。
そのような仏様の活動と実態を、仏典を通して勉強し、御仏たちの働きの実際を考えて、神々たちのお働きの実際を考えたならば、「こんな楽な仕事をさせていただいて、このようなお役をさせていただいて、神様、ありがとうございます。感謝の心をもって喜び勇んでさせていただきます」という感情以外に抱かないはずです。
それが本当だし、一番徳が高い。
の大神様の御心や、国常立大神の御心に直結しているから、霊光、霊威、霊厳、自ずから備わった威厳というのがある。だから、その人が「お願いね」と言えば、「はい、わかりました」と、みんなが、即、言うことを聞いてくれる。
後ろに神様が応援されているから、何か目に見えない素晴らしいオーラが輝いているから、何か知らないけれど発展していくし、何か知らないけれど、皆、一生懸命働いて、喜んでやっている。何を決めても、喜び勇んでやる。
これが神の御心に一番かなう。これが本当の率先垂範。これが本当のリーダこれが本当の神の御心に徹する地上の天人。
不言実行、実行菩薩。こうでなければ最高の神様の道に直結した指導者やお取り次ぎをする人間になれません。御仏たちは皆さんそうですし、神々様たちも皆そうですし、エンゼルの皆さんもそうです。
こういう悟りというか、ものの考え方の原則のできている人は、30%の人のような思いにはならない。30%の人はそこが至らない。浅いわけです、神のお取り次ぎをする人として、信仰者として。わかりますか。
微塵も、一ミクロンもそんな思いを持ったならば、いったいいままで何を勉強してきたのかということになります。目に見えない世界こそが神様の世界に直結しているのです。
結局、自分自身をそういうふうにすることが、支部の部員に対しての一番の思いやりなのです。
そういうすぐれた中身を持って実行していると、結局は支部の部員、結局は一般会員さん、結局は新しく入会した方に対する一番大きな慈悲の実践になる。一番大きな、本当の慈悲の実践というのは、それしかない。これが本物の慈悲の実践です。
こういうようなことを日ごろからやっている人が、神社に行って祝詞を高らかにあげて祈れば、たちまちのうちに神様は聞いてくださいます。ひとたび救霊したら、たちまちのうちに祟り霊も改心します。
九頭龍のお取り次ぎをすれば、たちまちのうちに九頭龍様が現れて、奇跡が起きて、抜群の神通力を発揮することができる。
日ごろから神様に一番近いところにおられるわけですし、天の道の一番の王道に生きておられるわけですからね。そういう人が奏上する祝詞や、祈りは、たちまちのうちに神霊界に感応するわけです。
私が祝詞を奏上して、神様にお願いすれば一発で聞いていただける理由はそれです。先生は霊力があるから、
の神様が降りておられるからと思うかもしれませんが、
の神様はわけもなく降りてきません。
降りてきたらの神様は何をしろというのか。いま申しあげたお地蔵さんや、阿弥陀如来さんや、観音様や、国常立さんや、地獄の鬼みたいなことをやれと神様はおっしゃるわけです。だから、自ずから出てくる霊光のオーラと霊威、霊厳がある。
だからこそ、神様がお懸かりになってひとたび祝詞を奏上すれば、このように天地が感応し、嵐が吹き、あるいはまた稲光がバリバリッと起き、またぴたりとおさまったりと、天候自然まで動かし得るだけの神通力、ご神力が備わっているわけです。
私に降りている正神界のの神様は、ますますそういうふうな方向へ私を導かれるし、降りてこられるまではそういうふうな人生を送ってきたからこそ、白羽の矢が立ったわけです。
たくさんのスタッフたちが、何の形もないところからついてきたのは、そのような日々を送っているからこそのことで、黙ってみんな今日までついてきてくれたわけです。
これからもそうです。歴代の宗教を創設した宗祖たちは、みんな、そのような日々を送ってこられた。仏様たちも神々たちもみんなそうやって生きておられるわけです。
神の道に生きる人間としての最高に素晴らしい生き方というのは、いま申しあげたような生き方しかない。
だから皆さん、
「神に一番近い生き方を心がけて、地上の天人を目指そう。不言実行、実行菩薩、不言実行しよう。お地蔵さん、国常立大神様、地獄の鬼に見習おう」と、たくさんスローガンを書きましょう。
そして、支部長がまず実践をして、支部の部員を育ててあげることです。本当の神の御心にかなう、神に一番近い生き方をする人間として育ててあげることですよね。
ということで、30%の人たちは、再びそういう想念を持つことのないように、一ミクロンも持たないでいただきますように。以上です。(拍手)
