第二章 熱田の神の功徳とは ~熱田神宮での講話より 平成5年6月13日~
「氏より育ち、育ちより誠」
名古屋には今後、定期的に参りまして、大阪と同じようにセミナーなどを行っていこうと考えておりますので、皆様にはぜひ、名古屋を中心とする中部地方を盛り上げていただきたいと思います。
名古屋は日本の地理的中心であり、文化的・政治的・経済的な中心の一つでもあります。さらにいうならば、日本武尊様の剣が納められているところでもありますから、やはり、日本の将来のために大きな働きをなしていかなければならない地であり、それだけの役割がある地でありましょう。
そういう気持ちで、先ほど、熱田の神様にお祈りしていたのですけれど、熱田の神様がおっしゃるには、「氏より育ち、育ちより誠だ」ということでした。
どんなにいいお家に生まれても、育ちが悪かったら立派な人になるのはなかなか難しい。家系はよくても、やはり育ちがよくないと、その人の内的世界の価値観というか、文化レベルは高いものにはなりません。
「氏よりも育ち」というのは、そういうことだろうと思います。
しかし、どんなに育ちがよくても、神に通じる誠がなかったなら、神の道に生きている人とは言えない。逆に、誠を絶えず輝かせ、誠をもってご神業にも仕事にも人間関係の営みにも取り組んでいる人は、少しぐらい育ちが悪くても、少しぐらい家の因縁が深くても、その誠の力によって乗り越えるだけのものがある。
「氏より育ち、育ちより誠だ」と、熱田の神様がおっしゃっていました。
熱田の神の功徳とは
今日奏上した祝詞の中に「剣の意志」という言葉が出てきましたけれど、その「剣とは、「草薙剣」のことです。周囲から火が押し寄せてきたとき、草薙剣で草をパッパッと切って火をはね返していったという日本武尊様の物語の中にあるみたいに、剣によって迷いの草を切っていく。
剣の働きとは、あくまで魔が近づいてきたときの防御の力なのですが、一人ずつの心の中に、魂の中に、この熱田の働き、草薙剣の働きが必要なはずです。
あるいはまた、衰弱した自分の弱い心をパッと蘇生させる。私の場合は、何百体、何千体、何万体もの霊との戦い、一対何万という戦いですから、当然のことながら熱田の剣の働きが不可欠ですけれど、救霊師や九頭龍師など、霊的なことを扱う人にとっても剣の働きは必要です。
では、霊的なことを扱わない人の場合は必要ないかというと、この世の誘惑とか他人からの非難・中傷・攻撃がありますから、やはり必要なのです。
どんな人であれ、自分にとってマイナスとなる魔物とか妨害はあるわけです。そういうときに、自分自身がバシッと蘇生し、越えていく力を与えてくださるのです、熱田の神様は。
ですから、「迷いを吹っ切って越えていくんだ!」というときには、熱田神宮を思い浮かべて、「熱田の大神、守りたまえ、幸はえたまえ。熱田の大神、守りたまえ、幸はえたまえ」と何回もご神名を唱えて、「熱田の大神、わが身に添えて守りたまいて、やり通す体力と精神力と集中力と知力、霊力、言霊の稜威を与えたまえ」と、必死で祈ったらいいのです。
すると、「よし!」といらっしゃって、バシーンと越えさせてくださる。それが「草薙の働き」なのです。草薙の草とは、汚いもの、みっともないもの、見苦しいもの、心の中のクサクサするもの。そういうものすべてをバシッと切って越えていく自分をつくってくださるのです。
熱田の神が与えてくださる永遠の宝
これが、熱田の大神の功徳なのでありまして、そういうふうな限界点に立たない人や、ただ悠々閑々と日々を送っている人は、別に熱田の大神様のお力がなくてもやっていけますから、この大神様の功徳を自覚することがないまま一生を終わっていくのです。そういう人も多いでしょう。
人間は、苦しみが多ければ多いほど、困難が大きければ大きいほど、神様からいただく喜びも大きく、奇跡も大きいわけですが、そういう人生は嫌だ、面倒くさいと思ったら、もう、神の世界とは永遠にお付き合いできません。
御魂がそのレベルだったんだ、ということでしょう。日本武尊の足跡が教えるのは、それです。
大きな困難に直面したときに、熱田の神が、そして草薙剣がピカピカピカーッと光ります。
剣を大いに使いこなすようになるには、当然のことながら苦しみも大きく、困難も大きい。それを考えたら私たちは、先の見えない人生、曲がりくねった迷路のような人生を、この熱田の神、そして草薙剣を灯明にしながら、一生懸命突っ走っていく人生観をあえて選び、喜びとしなければいけない。
そういうふうな魂の英雄でなければいけない。英雄にして初めて剣が使いこなせるのです。
大自然は平等です。困難が大きく、苦しみが大きく、葛藤が大きかった分だけ、喜びも大きく、奇跡も大きく、感動も大きくしてくださるのです。困難が小さかったら喜びも小さい。神様はいらっしゃる。
いらっしゃるけれども、いつも困難を避けようとしてばかりいたら、いつまでたっても神様を実感できないし、使いこなせるようにはなりません。
「神人合一の道」と「神の仕組」、「御魂の道」を歩もうとする人間は、「われに七難八苦を与えたまえ」と言った山中鹿之介のように、まず腹の底で覚悟を決めなければなりません。
覚悟を決めたら、あとは突き進んでいくだけです。そのプロセスの中で本当の神様を体験します。そのときの安らかさ、幸福感、恍惚感、喜びというものを積み重ねていくと不動の信仰心になっていき、神様とともにいるときは一つのミスもないというレベルに到達します。
また、苦しみ、葛藤、困難、悩みのあとに、必ず、喜びと満足と感謝が待っているんだということを体で覚えていますから、どんな困難や苦しみにも雄々しく立ち向かっていくことができます。
それを得た者は永遠の宝物を得たことになりますし、永遠の剣をわがものとしたことになります。永遠の安らぎ、安心立命。神様といると結果は必ず吉になって、最後は愛が勝つ。その魂の安らぎというものは、えもいわれぬものです。
この世的な安らぎの中に生きている人間は、どこか恐怖で、どこか不安で、どこ焦りがあって、どこか虚しいんですけれども、神様の道に生き、本当の神様を体験し、困難をいくども越えた経験のある人間は、いつも心安らかで、心の深いところに絶対的な幸せがあります。
神とともにいる安らぎ、神とともに生きる喜び、幸せ。これが本当の、そして究極の安心立命であり、本当の信仰の妙諦であります。信仰の道を目指した人の妙なる諦。
諦というのは、ものごとを明らかにするという意味であり、悟りでもあって、これこそが、信仰の醍醐味なのです。神の道を目指した人のうち、この信仰の妙諦をどれだけの人が会得できるでしょうか。
誰でも得られるものなのですけれども、多くの人が途中で倒れてしまっている。
そして、倒れたそのときのレベルで、幸せのレベルも終わってしまっています。
神と語り合う絶対的な孤独の時間を持て
では、どうしたら途中で倒れることなく、最後まで神様の道を貫くことができるのか?
それにはまず、自分の意志あるいは自分の力だけで歩もうと思わないことです。もちろん、しっかりとした意志を持つことは大切ですけれど、いつも神様とともにいるという思いと姿勢を貫いていくことが大切です。
そして、苦しいときも悲しいときも、神と語り合う絶対的な孤独の時間を持つように努力していくと、絶対的な信仰心が生まれてきます。
お金や地位や名誉ばかり求めていたり、あるいは家族や職場の友や仲間たちと楽しい日々を送るだけで、神と語らう孤独な時間を持たない人や、神とともに生きるという体験が少ない人はもろい。孤独の境地に立たされたら、すぐにダメになってしまいます。
忙しい中でも神様と語り合い、神様とともにいる安らぎと安心を体験する。
そういうひとときを、一日のうちに三十分でも一時間でも持つようにしていくと、お祈りや、自分の思っていることがすでに神様の世界に入っていますので、どんなことがあっても決して折れないし、めげない。勇気があって、息吹があって、元気があって、前向きに考えて、何度でも蘇生できる。
そのためにも、御魂の恩頼というものを、毎日毎日、補給しなければいけません。
それができたら、いま言った信仰の妙諦の、究極の幸せの世界に、知らないうちに行けます。誰でも行けます。行けるか行けないか、それはすべて、日々の習慣にかかっているのです。
強そうに見えている人が意外なほどにもろかったり、ポロンとやられたり、ヘナヘナと折れてしまう。
逆に、いまにも倒れそうな人が、どこまでも全うできたりする。どこが違うのか。奥深いところで神様とともに生きているかどうか、そして、神様とともに生きることで、安らぎや安心感というものを体験しているかどうか、
この違いなのです。
いつも神様と語り合い、神様とともに生きている人は非常に強い。それに対して、我力の頑張りとか意志力というのは、強そうに見えてもろい。言ってみれば、信仰の妙に至った人の強さは、しなやかな竹のようなものです。
バネがあって、強い力を加えても、すぐにバーンとはね返して、決して折れることがありません。鋼のような強さがあります。
魂の旅人へ熱田の神が残されたもの
いま申し上げたことが、熱田の大神の功徳であり、熱田の大神様が皆様に一番言いたいことなのです。熱田の神様はお口がないから、私の口と私の知識を通して、一番言いたいことを、皆様にいまお伝えしているわけです。
「そうなんだ、そうなんだ」と、熱田の神様もおっしゃっています。
降りしきるこの雨も、ますます雨音が強く大きくなってまいりましたが、肉体があるのはあと数十年ですから、その間にどれだけのものを得てあの世に帰るか。それが、私たちが生まれてきたテーマであり、意義でありまして、この世に生まれて生きていく人たちのために神社があります。
神社には、神々様や神人たちの足跡が残されているだけでなく、人々を助けてくださる神様の宝物いま申し上げたような、艱難や辛苦を乗り越えていく妙諦が残されているわけです。
この出会い、そして、その意味することを理解できるのは、実にありがたいことです。日本武尊様がここに置いていってくださった剣は、御魂磨きのためのご飯であったり、一汁であったり、井戸水、湧き水であったり、救急セットであったりするわけです。
肉体を持っている間は短いけれども、自分一人の修養では寂しいだろうからということで、雨降るときには傘となり、山道を行くときには杖となって助けてくださる。そのための宝物を置いてくださっているのです。
宝物があっても、意味がよくわかっていないと使いこなすことができず、宝の持ち腐れになってしまいます。
この熱田の神様、そして日本武尊様が残された、魂の旅人たちのための救急セットであり、湧き水であり、非常食を、いったいどれだけの人が宝の持ち腐れにしていることでしょう。
熱田の神様と剣の意味をよく知っている私たちは、そうあってはなりません。「熱田の大神をただ崇敬し、拝んでお参りするだけでなく、熱田の大神様、そして、天叢雲剣を宝の持ち腐れにしない唯一のグループでありたい、唯一の人の群れでありたい」そう思います。
そして、「そうあってほしいぞ」というのが、熱田の大神様の願いなのです。
「あなたたちこそは神仕組に生きる人間なのだから、この熱田の大神様を宝の持ち腐れにしないでくださいよ。唯一のグループであってくださいよ」
そうおっしゃっています。
一人でも多くの人が宝を宝として守り通してくれるのを、神様だから喜んでおられます。そういうのを「弥栄」と言います。「弥栄、弥栄」と唱和しましても、現実に弥栄になっていないことが多々あります。そういうことがないようにしなければ、申しわけないと思います。
「神人合一の道」と言いますけれども、こうあってほしいという神様の大御心を受けて、宝の持ち腐れにしないような人の誠を貫き通さなければ、「神人合一の道」は成就いたしません。
その道を貫き通すことを本当の誠と言うのでしょう。神と人とが誠をもって一つに結ばれて、ともに歩んでいく。「神人合一の道」をより具体的に言うならば、そういうことではないかと思います。
「熱田の神様、人はどうあろうと、きっと私だけはあなたを宝の持ち腐れにはしませんからね。あなたのお力を何倍にも活用して、神の大御心を地上に顕現しますからね。
少しでも多くの人を助けますからね。少しでも素晴らしい功徳を世に広めるべく努力しますからね」
このように、目の前にいらっしゃる神様に語りかける、誓う、約束する、宣言する。そういう表現力があれば、神様はみんな受けてくださいます。
お社にお参りする人は何万といますけれど、ただお参りすればいいというものではなく、やはり、心の奥深いところで参らなければいけません。奥深いと言っても、別に念を込めるのではありません。目の前にいらっしゃる神様と一対一で語り合う、対等の位置で語り合う。そういう姿勢が大事なのでありまして、それを神様も待っていらっしゃるのです。
ああ、いい匂いがしてきた。皆さん、檜の香ばしい香りがしますね。感じる人、手を挙げてください。この香ばしい香りは、「そうだよ、そうだよ」という神様のお返事です。
神様の深い御心を深い部分で受けて、しかも、素直に実行してくれる人がいかに少ないことか。神様の恩に報いる、あるいは誠を捧げるというのはそういうことなのです。
神人合一というのはもっと深い意味がありますが、神様に対する誠ということに関しては、それもまた、「神人合一の道」の一つであります。
ということで、「宝の持ち腐れにしませんから」ということをもう一回、いまからおのおの、この熱田の大神様の前で誓いを立ててお開きにしたいと思います。十分間、自分の言葉でお祈りいたしましょう。
できるだけ文学的に表現してください。そうすると、自分でも「そうかな」という気持ちになってきます。自分の言葉でお祈りしてください。いま私が申し上げたのをヒントにして、おのおの神様に誓いを立てましょう。それが灯明をともしたということですからね。
それではいまから十分間、小声でぶつぶつぶつと誓いを立ててください。十分後に「終わり」と言いますから、それまでお祈りしてください。
(全員で誓いの祈り)
はい、十分たちました。体がシャキーンとしてきましたか?
いま、熱田の神様から、「汝の申したことはまさにそのとおりだが、一カ所違うところがあるので訂正する。私は名古屋を守っているのではない。日本の国を守っているんだ」と、チェックが入りましたので(笑)、訂正しておきます。
これで、神様への参拝を厳かに終わらせていただきます。
第三章 熱田の神の守護を得るには ~名古屋定例セミナーより 平成4年1月25日~
団体参拝の大事なポイントとは
この名古屋セミナーは今年に入って初めてのセミナーでございます。今日もまた、たくさんの方にお集まりいただきましたが、皆さんの中で熱田神宮の団体参拝に参加しなかった方、何人ぐらいいらっしゃいますか。ちょっと手を挙げてみてください。
はい、わかりました。
今年(平成四年)の参拝は、まず、鹽竈神社(宮城県)で始まりまして、次に関東の氷川様(氷川神社・埼玉県)。
三番目がこの熱田の神様ということになるわけですが、私たちの場合、参拝したあと、神様からのご神示があります。
団体参拝の重要なポイントは、参加される皆さん一人ひとりがいかに気を充実させるかなんです。
普通の参拝は、神主さんがご祈$79B1されているところに自分も参列して願いを聞いていただく。
あるいはまた、私が先達するときには、私が神様にお祈りを言上申上げている中に参加して功徳をいただくのですが、こういうのは間違いではないけれども、参加される皆さん一人ひとりが団体参拝の構成員なのですから、本当は皆さんが直接、神様に向かっていかなければいけないわけです。
「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」という言葉が「御成敗式目」の中にあります。
人間の敬、神様に対する敬によって神威が増される、その増されていく神威をいただいて運勢を神様から与えられる、これが人と神のよき繋がりだ、という意味ですけれど、だから、団体参拝およびご神事が成功するか失敗するか、盛り上がるか盛り上がらないかは、構成員である参加者一人ひとりにかかっている。
つまり、お祭りがどうなるかの鍵は、自分自身が握っているんです。
そういうふうな話をいたしまして、熱田神宮にお参りいたしました。その答えがポンと返ってきましたので、いまから私が発表いたします。
他にも団体参拝をしているところはありますが、行ってお祈りするだけです。それだけでも尊いことですが、こういうふうに答えがスパッと返ってくるというのが楽しいところです。
ということで、いまから発表いたしますので、ここから奥が熱田神宮の御垣内だとお考えになって、神様からのご神示をお受け止めください。
お聞きしましたら、熱田神宮は戦災で焼失し、建物が再建されたのですが、伊勢神宮の場合は、あの檜の柱が大地に埋め込まれています。埋め込み式になっているわけです。それに対して熱田の場合は、下に石を置いて、その石の土台の上に柱を立てている。
これが違いなんです、とおっしゃっていました。
それ以外はほとんど同じだそうです。戦前は全部同じだったらしいのですが、色が少し違う。お屋根が緑色である以外、御垣内から何から、みんな同じですね。
そういうことで、御垣内がこの中にあるつもりで、さっそく解説いたしましょう。
いまから私が黒板に書きます。
面白いことに、今回のご神示は項目別に出てきました。
熱田の神訓
熱田
地獄の心を祓う神なり
一、礼・義に神府調うなり
二、心のたけをうつして省みるを、信仰の祝いと徳なりとすべし
三、熱田に月一度、年二度、三年に一度の順にて、意徳横溢の功徳を受くるなり
地獄の心を祓う布都剣
まず第一に、「地獄の心を祓う神なり」。
地獄の心を祓う神様だよ、と出てきました。
参拝に行った人たちには説明しましたが、熱田神宮では伊勢の天照大御神様の荒魂をお祀りしております。そして、ご神体は剣。
この剣は、最初、素盞鳴尊が持っていらっしゃって、その後、日本武尊もその剣を持って東征をされたと言われております。その剣、布都御魂がご神体。天照大御神の荒魂と言われております。
では、布都御魂はどういう意味があるのかというと、地獄の心を祓ってくれるんだ、ということです。いままで、いろんなことを神様から教えてもらいましたけれど、今回また項目別で出てきました。
「礼・義に神府調うなり」
次に、「礼・義に神府調うなり」とあります。
神府というのは神様の府、神様の大御心。その神府に則った道が神霊界の道なのです。だから、「神様!神様!」と言って、常日ごろから最も近い存在として接触していていいし、接触すべきなのですけれど、それだけではダメなのです。
やはり、今日の団体参拝のように、みんながきちんと正装して集まって、それなりに玉串をしてお願いしなければなりません。そうすると、神様のほうもビシッと受けてくださいます。
そういうものが「神府調う」。府は中心という意味ですから、要するに、中心の神なるものが調いますよ、ということです。
だから、いい想念を持っていても、想念だけではダメなのです。想念というのは霊界ですので、霊界だけ素晴らしくても決してよくない。神界とは何かというと、感覚と現実界。感覚と現実界が、神界なのです。
ですから、素晴らしい感覚を持って、素晴らしい足跡を残すことが大切で、そういう人生を最後まで全うした人が、神位、神なる位をもらうし、神様が喜ぶので神様がよしとなるわけです。
もちろん、現実界に素晴らしい足跡を残しても、想いの世界、心の世界が悪かったら、それは偽善ですからダメなのですが、感覚と現実の行いがビチッと一致しないと、惟神の道、神様の世界ではダメなんです。
仏様の世界は心。意思と想念の世界です。だから、いい想念といい悟りを持っていたらそれでいいんだ、と。それが仏教の世界です。
「♪ボロは着てても心の錦~」という、何十年も前に流行った歌がありますが、「ボロは着てても心の錦」で一生を通せば、いい霊界に行きます。しかし、神界には行けない。
肉体を脱げば中身の素晴らしさが出てくるから、そのままでいい霊界に行けるのですが、神界には行けないのです。神界に行くためには、足跡。現実界にどのような足跡を残したかが大事なのです。
そのように、感覚と想念と行いの三つを立派にしなければならないわけですけれと、感覚が神界、意思と想念が霊界、行いが現実界というふうに分けることができます。
これを宗教に当てはめると、神界への道を指し示しているのが神道、よき霊界へ行くための道を説いているのが仏教、現実界の正しい道、人として歩むべき道を説いているのが儒教、と言うこともできます。
神界というのは感覚の世界なのですけれど、感覚極まりて現実で、もう一回、現実界に来なければいけない。
その現実の道は、「礼・義」。礼と義。義というのは、たとえて言うならば愛と真心です。「世のため人のため」といいますでしょう。これが現実界における正しい道です。
ところが、この愛と真心、世のため人のため、というのには落とし穴があるのです。世のため人のため、愛と真心で生きようと、皆さんも思うでしょう。それはとても尊いことですけれど、頑張って半年か一年。三年以上は無理なのではないかと私は思っております。
世のため人のためと思い、自分を犠牲にして頑張る。この人のためにと思って親切にしたり身を粉にして努力したりする。ところが、こちらの気持ちなんか全然わかってくれなかったらどうですか。裏切られたらどうですか。がっかりするでしょう。
そして、「もう、あの人のことなんか知るもんか!」という気持ちになるのではありませんか。
親に対する思いも一緒です。一生懸命に親孝行しても、親があまりにも身勝手で、子どもの気持ちを全然わかってくれなかったら、「親孝行なんかするものか!」という気持ちになります。
昔は、「親、親たらずとも、子は子たれ」なんて言いましたが、あまりにも身勝手な親だったら、いいかげん腹が立ってきて、「お父さんなんか嫌いだ!」なんていう気持ちになります。
世のため人のため、神様のためと思いましても、結果・成果が出てこないと、頑張ってもせいぜい二年か三年。そんなに長続きしません。そう思いませんか。
世のため人のためにと思う愛情や真心は尊いものです。しかし、それだけでは続かない。裏切られたり、がっかりしたり、あるいは仕事が忙しくなってくると、それどころじゃない。社員と私と明日の生活のことを考えたら、そんなことはもう、どうでもいい。
ついつい、そういう気持ちになってしまいます。自分たちの明日の生活も大事なんだと、勝手な理屈をつけて、世のため人のために生きることをやめてしまう。そういうものです、人間というのは。
ところが、義の心がありますと、愛情や真心も長続きします。
「世のため人のためというのは、世のため人のためじゃないんだ、神様が世を思い、人を思うがゆえに、私も思うんだ」
「その神の大御心に対する信義を全うするために、あるいは神の義に生きるためにやるんだ」と。
「結果は裏切られたし、どれだけ世のため人のためになっているかわからないけれども、やはり、神様がそうなんだし、神もそう思っておられることだろうから、私は、神の大御心に則して義を全うし、信義のために、明日もまた世のために人のために活躍しよう」と、こう思うわけです。
義理という言葉がありますが、義理とは義の理。つまり、義の法則です。その義の理に生きている人間は、あれもしたいこれもしたい、ああなってほしいこうなってほしいと思って、いや、義理があるからしょうがないと言って、義を貫くでしょう?
人間の情感とか思いとか気持ちが向こうと向くまいと、そんなのは一切関係なく貫くのが義なのです。
それからメリット。利ですね、利欲。自分の利欲になろうがなるまいが、プラスになろうがマイナスになろうが、やっぱり義理だから行くよと。
損になることなんかやれるかと、何でも損得で考える人はたくさんいます。そういう中にあって、利益にならないこと、得にならないようなことでも、義のためにあえて行う。
感情が赴こうと赴くまいと、自分にとってプラスであろうとマイナスであろうと、絶えず義理を優先する。そういう人は、神様の道でも長続きするのです。
それからまた、大義名分という言葉があります。大いなる義に則って生きる。楠木正成公などは、その代表的な人です。自分の命を天皇様のため、南朝のために捧げていった。
命を捧げるわけですから、何のメリットもない。それでも、負けるとわかっている戦に出向いていって、君命を奉じて死んでいく。決して嬉しい気持ちではありませんよね。
しかし、自分の感情や自分の利益、あるいは一族の繁栄よりも、やはり大義を大切にし、大いなる義に生きていく。だから、節を全うできるわけです。己の感情とか、利欲を離れてああいう行動を取れたということが、大楠公の素晴らしさです。
大義に生きた西郷隆盛
それから、西郷隆盛もそうです。維新の志士のしたことは新しい革命ではあったけれども、末端の下級武士たちの中に不満分子が何人もいて、彼らの言い分を聞いてみたら無理もないことだった。西郷南洲が、征韓論に敗れて野に下りましたときに、その人たちに言うわけです。まさに君たちの言うとおりだ、と。
しかし、西郷さんはわかっていた。政府の立場に立ったら、これも致し方ないことだ、誰が政治をやってもこの問題は起きてくるし、過渡期はしようがない。下級武士たちの気持ちもわかるし、政府の立場もわかる。
では、どうしたらいいのか。西郷南洲が庭で「うーん」と考えていたとき、蛇が一匹にょろにょろ出てきた。それを見て、ハッと悟ったらしい。
「よし!新政府に抗議を申し入れよう。それが受け入れられなかったら戦争を起こそう」と。最初から抗議が受け入れられるとは思っていないし、戦争になった場合、勝てるとはハナから思っていない。また、勝ってもいけない。
西南戦争というのはそうやって起きたわけですけれど、あの時代、下級武士の鬱憤とと不満はどうすることもできなかった。
それで、西郷どんもやるだけ頑張って、なるべく相手を殺さないように頑張った。そして、政府の大砲がバーン、バーンと撃ち込まれるたびに、「ほー、政府も大砲技術が向上してよかったなあ」と、感激している。
敵が強ければ強いほど、「日本の軍隊も立派に育ってよかった」と喜んでいる。
そして、「もうそろそろこのあたりでよかろう」と言って、城山で自害したわけです。
西郷どんのお墓の周辺には一万の下級武士のお墓があります。みんな、西郷さんと一緒に死ぬなら本望だと言って、戦うだけ戦って西郷どんと一緒に死んでいった。明治の新政府に抗議したし、やるだけやったし、武士らしく死んでゆけるのだから満足だと。
一方、明治政府から見たら、不満分子が消えていくのだからめでたし、めでたしで、つまり、双方にとってよかったわけです。そのために、わざわざ彼は挙兵したのです。
しかし、時間がたてばたつほど、西郷どんの大いなる義がわかってきました。明治政府のこと、そして不満武士たちのことを考えて、起こした行動だということがわかってきました。時間の経過とともに、自分の利害・損得、命までも超えて、大道と大義に生きた西郷どんの偉大さというものが光ってきたわけです。
だから、鹿児島に行くと西郷どんが英雄です。西郷どんと話をすると、本当に明るく楽しく、春風駘蕩といいますか、ほのぼのとして幸せな気持ちになる。
やはり、西郷隆盛の偉大さは義を貫いたところでしょう。西郷隆盛にかぎらず、義の心を持っている人は、利害損得関係なく、感情が赴こうと赴くまいと神の義に生きる。「神の義、大いなる義」。それに則して生きている人は立派ですね。人間の器の大きさ、偉大さがあります。大義とか、世のため人のためというのは、神義です。「神の義のために生きる」と。
神に通じる信義・礼義・恩義に生きる人
その神義のほかに、信義・礼義・恩義という言葉がありまして、神の義は知らなくても、信義・礼義・恩義に徹している人もいます。
私の父もその一人で、「お前、大切なのは信義だ、恩義だ。」と、いつも言っておりました。ずっとそのペースでやっておりますけれども、非常に厳格な父でございまして、「信義。わしはこれで生きているんだ!神様がどうのこうのとお前は言うが、そんなものは知らん!」
「信義だ!これを忘れたら、わしゃ許さん!」
いつもそう言っております。
信義・礼義・恩義。信じたことを貫いて、その信のために義を全うする。信・礼。
これが正しいハーモニーであり、調和であり礼節。そのために義を全うする。恩ある人のために義を全うする。義というのは、利害損得を離れた行動と考えていいでしょう。
それから、感情が動こうと動くまいと、信義・礼義・恩義を貫く。これが大いな義の心です。
大いなる義大義というのはそういうことですけれど、これに神義というのを入れてみたらどうなるか。神様が世を思い、人を思っておられるからこそ、自分も愛と真心を貫かなきゃいかん、というふうになるのではないですか。
愛と真心を貫いてえらい損した、けれど、それでもいい、自分はあくまで神義に生きるんだ。世のため人のためと思ってやってきたけれど、世の中の人は己のことしか考えていない。そんな人たちのために愛と真心で生きるなんてバカバカしい。
いや、そうじゃない。世の中の人がどうであろうと、自分は神義で生きているんだ。
最後の最後まで神の義で生きるんだ、と。
そうやって、神の道が全うできるわけですが、義の心がない人は感情の赴くままに行動する。気分が乗ったらする、乗らなければしない。得すればやる、損ならやらない。そこはやはり、魂の欠けたところですね。
神様の道を貫こうと思ったら、義の心が要るのです。その義の心を行動で表し、立派な足跡を残さなければ、神様は受け取ってくれないのです。
玉串もそうです。本当に神様に対する真心があるのなら、わざわざ正装して、わざわざ神社へ行き、それから真心込めて玉串をする。
そして、きちんとお辞儀をし、御垣内に入って手を合わせる。そうやって正しき式に則ってお参りしたら、神様も正式にお出ましになります。この礼が大事なのです。
礼と義。これがあって初めて神府、神の中心が調うんだよ、ということです。
日本の神界はまさにそうなんです。そのためにお祭りとか神事というものがあるのであって、そんなもの、わざわざしなくても心の中で祈ればいいじゃないかと言う人もいますが、そうではない。お祭りや神事があるからこそ、より一層、神府が調うわけです。
この義の言葉一つにしましても、それだけ深い意味があります。
それから、神府というのは神様の府だけでなく、自分自身の中の府という意味もあります。自分自身の内的な神府。もちろん内的、外的と考えていいでしょうけれど、自分自身の神なる部分をも大切にしていくと、神府が調う。
自分の中にある神なるところ、神坐す場所を神府というわけです。
府というのは中心という意味です。政府とは政の中心ですし、神様がいらっしゃるところだから神府。
そして、自分自身の中の神様がいらっしゃるところも神その二つの神府が、神社にお参りをしたり神事をするとスパッと調うのです。これが「礼・義に神府調うなり」という言葉です。
神様のお言葉でございますから、短い言葉の中にも深い意味があるわけでございまして、「調うなり」というのは、要するに、感情だとか利欲だとか迷いだとかだとか、ためらいだとか雑念だとか、いろいろ錯綜しているものがスーッと消えていく、真っ直ぐになる、ということです。
これができれば、乱れているものが調って、真っ直ぐになるわけです。
今年の初めにこの言葉が出てくるということは、今年一年、これを目指して励みなさい、ということです。もちろん、名古屋の人たちだけでなく、われわれワールドメイト全体、そして、ご神業全体に対して神様が与えてくださった訓話であり訓示であり、教えであります。
熱田には熱田の神様の角度があり、氷川には氷川の神様の角度があるように、それぞれの神様にはそれぞれの角度がありますから、一つの教えがすべてではありません。熱田の神様の訓示がすべてではないのですが、とくにこの熱田の当地、名古屋ではこれが一番大事だということです。見落としがちだということなんでしょう。
意味が深い言葉だなと思ったでしょう。
「あ、礼・義で神府が調うんだ、ふーん」
なんて、そんな浅はかなものではない。解説を聞くと、「うーん、さすが神様だけあって」と思うでしょう。やはり、ある程度私が説明しなければわかりませんね。私は、この言葉を聞いた瞬間にピーンと来ますけれどもね。
神様の言葉には深い意味があります。「礼」一つにしましても、いろいろな意味があります。バッと受けた瞬間に「はっ、なるほど!」と思う。その何分の一かを説明しただけでも、これだけ時間がかかるわけですね。
でも、何割かはご理解いただいたと思います。
「心のたけをうつして省みるを、信仰の祝いと徳なりとすべし」
次が、「心のたけをうつして省みるを、信仰の祝いと徳なりとすべし」です。
「心のたけ」とは何でしょうか。
「わが心のたけを受け取らせたまえ」という、恋人同士がよく言う言葉がありますけれど、「思いのたけ、ありったけを言ってみなさい」とも言いますね。「ありったけ」とか、あるいは「首ったけ」の「たけ」です。
それから、身長のことも「たけ」と言います。「身のたけ」と言いますよね。さらには、増長魔の「たけ」のことも言っているのではないかと思います。知らないうちに、増長の「たけ」が長くなっているのではないか。
そういう「心のたけ」をうつす。「うつして」というのは省みる。自分の心はどういう状況なのだろうか。増長魔ではないだろうか。迷いがあるのではないだろうか。怖じ気ではないだろうか。恐れているのではないだろうか。
怠りではないだろうか。疑心暗鬼になっているのではないだろうか。やはり真心で向かっていかなければいかん。こんなことを思ってはいかん。そういうふうに省みるわけです。
「思いのたけ」というのは、絶えず変化している。それを、なすがママ、きゅうりがパパと言いますけれど(笑)、心の赴くまま、なすがままに流されていくのは修養のない人間。これはダメですね。
やはり、「これは臆病だ」「これは恐れだ」「これは迷いだ」「これは怠りだ」「これは前向きじゃない」「後ろ向きになってしまったら、こう思うようにしよう」と、絶えず、自分の「心のたけ」をうつして省みなければいけない。
省みるというのは、私がよく言うように、あまり反省しすぎてはダメなんです。もちろん、まったく反省しないのは論外ですが、反省しすぎるのも、これまた問題です。
「省」という字をよく見たら、「少」に「目」と書きます。つまり、少な目に省みるのがちょうどよくて、多目になったらダメですよ、と漢字が教えているわけです。
だから、過ぎ去った昔のことを、「ああ、あのときああいうふうに言ったからいけなかったんだ」と、ずーっと思い続けているのはよくない。いつまでも反省していたら、意気消沈してしまって、やる気がなくなってしまいます。
「済んだことだからしょうがない。今度会うときには、こういうふうに言おう」という程度に、少な目に省みるのがいいんですね。あまり反省しすぎたらダメなんです。面白いでしょう。
正しい反省の仕方というのはそういうことなのですが、自分の「心のたけ」をうつして省みることができないと、人間は成長しません。「神様!神様!」と信仰している。玉串もする。ご奉仕もする。
しかし、入会して十年たってもずーっと、わがままな人はわがままのまんま。ありのままに生きようとした蟻が蟻のままだったように(笑)、わがままな人間もわがままのままだった。
わがままはわがママじゃないけれども、やっぱり、わがママは私以上にわがままだった。つまらないジョークを言ってしまいました(笑)。
