第一章浅草観音とほおずき市 ~東京・浅草寺境内でのお話 平成3年7月10日~
「四万六千日」に、富士山から降りてこられる正観音
今日は、「ほおずき市」で有名な浅草観音にお参りするわけですが、「四万六千日」のこの日(七月十日)にお参りすると、四万六千日お参りしたのと同じ功徳がいただけるといわれております。これ、どうしてそういわれるようになったのか、私もよくわかりません。
今日お参りすると、四万六千日分の功徳がいただけるというふうにいえば、普段参詣しない不精な人間も、今日だけは参詣するのではないか、と。それから植木屋さんの組合が、今日こそは人を呼び込んで、ほおずきの鉢植えを買っていただこうと考えて、「四万六千日」ということをいいはじめたのかどうか、詳しいことはわかりません。
わからないんですけれど、私は不思議に思いまして、四万六千日分の功徳が授かるという話が本当かどうか、確かめに来たことがあります。
そうしましたところ、何と富士の正観音様が降臨されているんです。
金龍山浅草寺という名前のとおり、普段は金龍神さんがいますが、「四万六千日」のこの日には、富士山の頂にいらっしゃる正観音様が、浅草のここへ降臨されている。三千メートルくらいの、ものすごく大きな正観音様です。清々しい神様が降臨されて、忍耐しながら皆さんを見守り、願いを聞いてくださっているんです。
それで、「ああ、なるほど。これならたしかに大きな功徳がいただけるはずだ。世間でいわれているのは間違いじゃなかった」ということがわかりました。武観音様は、身の丈三千メートルの大神霊です。
四万六千日を三百六十五日で割ると、約百二十年ですか。それだけ大きな神様が来ていらっしゃることは間違いありません。
最高神だからこそ、一番下の底辺まで降りてこられる
いまから参拝をさせていただきますが、ここのおみくじ、よく当たるんですよ。もちろん、観光気分でただボケーッと参拝するだけで当たるわけではありません。
しかし、心を清めて観音様に向かうと、その時々に必要なことをおみくじを通して教えてくださいます。
浅草の観音様の尊いことは何かといいますと、ここには普段、聖観音様がいらっしゃるんです。観世音菩薩というと四次元なのですが、浅草の観音様は観世音菩薩ではなくて、神社の神様と同じ「位」の霊格を持っている聖観音様。その聖観音様がいつもいらっしゃる。
しかし、今日は正観音。正しいという字の正観音が、富士山から降りてきていらっしゃいます。「四万六千日」の今日は、次元も位も上がっているわけです。
高級神霊は本来、こういう下町の雑踏には降りてこられないはずなんですけれども、最高の観音様、最高の神様は一番下の庶民のところに降りてこられる。それを浅草の観音様が表しているわけです。
あっ、気持ちよくなってきた。自分のことをこんなに褒めてもらって、観音様も喜んでいらっしゃるみたいです。こんなに観音様のことを正しく宣伝してくれるところなんかありませんからね。
浅草の観音様は、最高神なるがゆえに、底辺のところに顕現しているという相を表しているんですけれど、そういう観音様は本当に少ない。観世音菩薩を祀っているところは全国にたくさんあります。しかし、「聖観音の位」を持っている観音様がつねにいらっしゃるところは、ほとんどありません。
聖観音様は、神社の神様と同じ位です。それが、第六神界に上がるときには正観音。今日はまさに、その正観音様が降臨される日なのです。
浅草観音では、神仕組の成就の祈りを第一に ~宝蔵門(仁王門)でのお話~
これからご祈願をするわけですけれど、何を祈るべきかといいますと、もちろん、ご自分の願いを申し上げて結構です。しかし、神仕組の成就、関東の神仕組の成就、これをメインに祈らなければなりません。
最高次元の神様は、一番下の底辺のところに降りていらっしゃる。最高なるがゆえに庶民のところに降りてこられる。
そういう徳のある神様、最高なる神がゆえに降りてこられる。普通こういう繁華街に降りてこられても、こういうところは荒れてしまっているので、すぐにお帰りになりますが、ここは荒れていない。ご神霊がまさしくいらっしゃって、人々と神仕組を見守っていらっしゃいます。
ということで、この浅草の観音様では、神仕組の成就を第一に祈らなければなりません。
神仕組に動き始めた仏界の仏様たち
先だって、私は四国へ行ってまいりました。そうしましたら、そこからまた霊界が大きく動き始めまして、神様がおっしゃるには、これからは仏様が神様のために動くようになるんだ、と。
江戸末期から明治にかけて、如来、金光、天理、黒住と、新しい宗教が生まれました。あの一連の宗教の誕生は、仏教の時代が終わり、神様の時代が始まることを告げる象徴的な出来事であったわけで、それ以後はまさしく神様中心で仕組が進んできました。
ところが、私が四国へ行ってからは、仏教というか、仏様がもう一度、仕組のために働く時代になった、とおっしゃるのです。
とはいいましても、全国の仏閣を見ても、荒れ果ててしまっているところが多いのです。四国のお遍路さんが巡る札所でも、ご神霊が帰ってしまわれているところも少なくありません。
それでもまだ残っているところもあります。たとえば、浄瑠璃の「壺坂霊験記」で有名な関西の壺阪寺。観音様をお祀りしているお寺ですけれど、あそこにはご神霊がいらっしゃいます。ほとんど龍王ですけどね。
それから、この浅草はもちろんですが、川崎大師にも間違いなくご神霊がいらっしゃる。あといくつか、本当にご神霊が残っている仏閣が関東にあります。
これからは、そういう残っているご神霊の大いなる力を引き出すことも、やっていかなければなりません。
さもなければ、向こうから来ていただいてもいいですね。正しい仏様は、こちらが正しくお願いすれば、必ず来てくださいます。
そういうことで、仏様もすでに動き始めておられます。
私たちは、御魂の救済という形でやっておりますが、心を救済し、霊を救済し、現実界を動かすのは仏界なんです。
その仏教には、いろいろと千変万化の教えがあるわけでございます。神様の世界は御魂の世界でありまして、明浄正直、すなわち明るく清く、真っ直ぐであることを大切にしておりますが、心の世界となると、霊界ですので、仏様の領域になります。
心というものは絶えずコロコロ変わる。だからもう、教えは無尽蔵にある。ネタは尽きないわけです。
実際、仏界が動かないと、心の救済、現実界の救済ができないわけでありまして、「仏界が動く」という一言の中には、それだけの深い意味が含まれております。
神界と仏界。両方が動かないと本当の救済にはならないんです。
四国に行ったとき、「観音様に行きましょうか」と言って、四国の会員さんたち(編集部注著者が主宰するワールドメイトの会員)をお誘いしました。今回もそうです。
しかし、「観音様に行きましょうか」という言葉の奥には、それだけの深い意味がある。単に、観音様のご縁日の十八日だから行こうかとか、「四万六千日」だから行こうかというのではなく、天の仕組を考えたうえでそういうことを言っているわけです。
何か楽になってきましたね。観音様も私の話を聞いていて興奮されたのか、楽になってきました。
神社や仏閣の参道が教えるもの
それからもう一つ、お話ししなければならない大事なことがあります。
観音様の話をするときによく言うのですが、鈴木正三という人が提唱した「王禅」というものがあります。皆さん、ご存じですか。
鈴木正三という人は、武士から禅の僧侶になった江戸時代の人です。
これから禅の修業を始めようという若い人が、観音様みたいに悟りきった顔をしていてはダメだ。観音様のような優しい像を追い求め、「朝に礼拝、夕べに感謝」などと、浅草橋の仏壇屋さんの広告みたいなことを言っていたら修業にならない(笑)。
参道の入り口を見てみろ。仁王様が恐ろしい顔をしてクワーッと立っているだろう。あのような勇猛心でもって、おのれを奮い立たせていかなきゃいかんのだ。とまあ、大略そのようなことを言っておりますが、まったくそのとおりです。
悟りの境地に至れば、誰でも観音様のような穏やかな顔になるでしょう。勇猛心の固まりといわれ、鬼の形相で知られていた、かの山岡鉄舟でも、悟りを開いたあとは実に柔和な顔をしていて、一挙一動がまさしく悟りを開いた人物であったと伝えられております。
だから、そのころ山岡鉄舟の下に入門した人は、お師匠さんを真似して、のっそのっそと歩く人ばかりで、まるで修業が進まなかった。
ところが、悟りを開く前の山岡鉄舟はまさに修業の鬼で、剣道のイロハを知らぬ若輩者が相手だろうが何だろうが、容赦なく面を打ち込み、胴を切り抜いた。
そのため、入門早々、裸足で逃げ出す者が後を絶たなかったといわれております。それでも耐えて残った者を徹底的に鍛えぬいたわけです、山岡鉄舟という人はこれこそが修業の道というもので、鈴木正三の例にならっていえば、まさに「参道の入り口を見てみろ!」です。
あそこに立っている仁王様の顔を見てください。恐ろしいばかりでしょう。
あれ、何のために立っているのかといえば、入り口を守っているわけですが、最初から観音様のような柔和で穏やかな像を求めていたら、入り口あたりでうろうろするばかりで、中に入っていけません。
剣の道であろうと、神様の道であろうと、修業は厳しいものなんです。あの仁王様のように厳しく、激しい姿勢で向かわなければ、修業は進みません。
そうやって、ある一定レベルまで向上したら、あの観音様みたいな穏やかな優しい姿になる。それはまさしく三十三相に化身できる観音のようになった、ということなのですが、最初は血を流し、涙を流しながらでも、歯を食いしばって耐えていかなければならない。
参道というのは、そういう修業のプロセスを教えているのです。
「仁王様のような心で修業に向かわなければ劫を超えられないし、人を救済できるような人間にはなれないですよ」ということを教えているわけです。
そういうつもりで奥へ入っていきましょう。だいぶ気持ちよくなってきました。
今日は富士山から正観音様が降りてこられていて、特別なご加護を頂戴しに行くわけですから、先ほどお話ししたように、気持ちを引き締めて奥に向かわなければいけません。
仕組のために動き始めた仏界の中でも、浅草の観音様は中心的な存在です。ここから行き来しているいくつかの仏様が、関東の仕組のために動き始めておられます。
もちろん、一般庶民の救済にも働いていらっしゃいます。最高神だけれども一番底辺の庶民に降りられて、どんな人でも救ってくださる。それが観音様の功徳だから、庶民に人気があるわけです。
そういうことで、皆さん、いまからお参りしたいと思います。
お参りしたあと、もう一回ここに集まりましょう。そのとき、観音様からのお告げがあったらお知らせいたします。
よく当たる浅草観音のおみくじ ~祈願後のお話~
本堂のところに、「ご本尊は聖観音様でございますので、南無観世音菩薩を唱えましょう」という張り紙が貼ってありましたね。
だから、南無観世音菩薩と唱えましたけれど、戻ってくるときにもう一度見たら、「漁師の網にかかった観音様の像が隅田川から引き上げられて、ここに祀られたのは推古天皇三十六年」と書いてありました。
その三十六という数字を見て、私はピーンときました。実は以前、やはり「四万六千日」に浅草に来たことがあるのですが、そのときどういうわけか、三十六という数字が浮かんできたんです。
それで、三十六の倍数でお賽銭をあげたらいいですよ、という話をしたんですが、やはり三十六という数字には意味があったんです。まあ、南無観世音菩薩を一回唱えて百円とすると、三十六回で三千六百円ですね。
もちろん三万六千円でもいいんですよ。三十六円でも三百六十円でもいいと思います。いずれにしても、三十六という数字でお賽銭をあげなさいということでしたので、そのとおりにしました。
それはともかく、推古天皇三十六年ということは、西暦でいうと六二八年。聖徳太子さんがお亡くなりになったのが六二二年ですから、聖徳太子がお亡くなりになって六年ぐらいたったころに、観音像が浜から上がったらしいですね。
ところで、おみくじですけれど、皆さんはどうでしたか。私は、神様が「四十二番を引け」とおっしゃるから四十二番をパッと引いたら吉でした。
「桂は春に至れば彼岸花。人も時節来たらば運開くなり。人も運開けば誉れ高く天に昇る道もあるべし。貴人に会うこともあるべし。曇れる月の晴れる如く、ますますよきこと来るなり」と。私のはよかったですね。次回ここに来るときには、四十二番を引いたらいいですよ(笑)。
(編集部注 これは当時の歌であり、現在は違うこともあります)
浅草観音は、菊理姫様の分魂
それから、観音様のお告げですが、「三年後から本当の布施行が始まる」(編集部注平成三年当時)と。それまでは準備期間で、私が四十三歳のころから本当の布施行が始まっていくんだ、ということをおっしゃっておられました。
いまも布施行をしておりますけれど、どちらかというと、いまは私達の組織の支部をつくったりしている、いわば地固めのときです。本当の布施行は三年後から始まる、とのことでした。
それで、面白い話がありまして、六二八年、推古天皇の三十六年に観音像が隅田川から引き上げられる前、このあたりに白山に縁のある人が住んでいて、霊場を開いていたそうです。白山の霊場としてもともとあった、そのあたりに観音像が上がってきた、と。
このたび、その小さい観音像が「菊理姫様の分魂でございます」と言って出てこられました。
そういう意味で仕組の神としていらっしゃった、ということを教えてくださいまして、なるほど、そうだったのかと思った瞬間、女神様が出てこられたのです。
それで、「本当のお姿は何ですか」と尋ねたら、パッとお姿を現されたのが菊理姫様の分魂だった。ほら、清々しい風が吹いてきたでしょう。
観音様が隅田川から引き上げられる前に、この奥の北側に白山の霊場があった、と。昔から神霊的に意味のある場所だったんでしょうね。
「ここはもともと、そういう場所なんだ」とおっしゃっておられました。
浅草の観音様の功徳
それから、この浅草の観音の四つの功徳を教えてくださいました。
一番大きな功徳は「父祖伝来の縁を結んでくださる」という功徳。
「これが浅草の観音の功徳だ」とおっしゃった。
「父祖伝来の縁」というのは、前世で助けられたとか、あるいはご先祖さんがあちらのご先祖さんにご恩を受けたとか、こちらのご先祖さんがあちらのご先祖さんのところへ来て何かしてもらっただとか、先祖に貸しがあっただとか、そういうような縁でしょうね。
あるいはまた、初めて顔を合わせた相手の人の血脈を辿ってみたら、同じご先祖さんから出ていたとか、まったく知らない者同士だったんだけれど、「何か初めて会ったような気がしませんねえ」というので調べてみたら遠い親戚だったとか、そういうケースもあるでしょう。
一つの家から枝葉が分かれて、家系というのはつくられていくわけですけれど、観音様はすべてご存じだから、それを結んでくださるわけです。
そのほか、守護霊様の導きとかご先祖さんのお導きによる出会いもあるでしょう。
一口に父祖伝来の縁といっても、いろいろな意味があります。先祖の徳分によって才能豊かに生まれてきたものの、いまいちパッとしなかった人が、浅草観音にお参りしたことで才能が一気に開花するとか、そういうこともあるでしょう。
御魂を導く菊理姫様の分魂ですから、父祖伝来の縁を結んでくださるのです。
それが浅草の観音様の第一の功徳。
今回の参拝は、今日を境として、三日後から功徳が出始める。三日後から出てく変化は、みんな浅草の観音様が導いていることなんだよ、みんなでお祈りしたことが実現したんだよ、と。そうおっしゃっていました。
浅草観音の二番目の功徳は、「清浄なる澄みきった心、澄みきった霊体、澄みきった気分にしてくださる」ということです。
それから三番目が、「体施物施法施など、布施行の成就をご守護してくださる」と。
世のため人のために役立ちたいとか、人様に対して布施行をしたいと思っている人はたくさんいます。しかし、仕事が忙しくて時間が取れなかったり、費用が捻出できなかったり、口下手だったりして、思うように布施行ができない。
徳を積もうと思っても徳が積めない環境というものがありますが、そういう状態から徳が積めるような環境へ導いて、徳積みのチャンスを与えてくださる。
徳がなければ徳も積めないわけです。徳を積もうと思っても、職業柄、なかなか許されない立場の人もいますよね。
だから、やはり徳を積もうと思ったら、ある程度、徳が要るわけです。そういう意味で、布施行の成就を守護してくださる。これが三番目の功徳。
それから四番目が、「万行成就」。
どういうことかというと、要するに自分がしたいなあと思っていた事柄が、もうちょっとのところでいつも失敗する。あと少しというところまでは行くんだけれど、そこからなかなか先が突破できない、ということはよくあります。
もちろん、ある程度のところまで行く努力をしなければダメなのですが、もうちょっとのところでいつも失敗していたことをスーッと通してくださる。そういう万行成就の徳を与えてくださる。要するに、中途半端だったものを最後までやり遂げられるように導いてくださる、ということです。
あっ、いい匂いがしてきた。ねえ、皆さん、いい匂いがしてきたでしょう。匂いのする人、手を挙げて。ね、してきたでしょ。ふわふわとしたいい匂いが。
以上が、浅草の観音様が与えてくださる四つの徳です。
大事なのは第一番目ですね。浅草観音の功徳は父祖伝来の縁を結んでくださる。
いいもの、いい縁を結んでくださる。ここへ来たら、そういう縁がピタッピタッと結ばれていく、ということです。
そういうことでいい香りがしてまいりましたので、ほおずきに神気を入れましょう。それでは、ほおずきを手に持っていただけますか。それにいまから私が神気を入れさせていただきます。
それでは、ほおずきを手に持って、「南無観世音菩薩」と唱えてください。
皆さん、ほおずきに触れてみてください。涼やかなのがきますか。どうですか。
清々しいのがきますか。来る人はほおずきを振ってください。手を振って。きたききた。
みんなでお祈りしてきたときに、ご本堂の奥から涼しい風が吹いてきたと思いませんか?吹いてきたと感じる人、手を挙げて。それからガーッと熱くなった人、手を挙げて。ねえ、強烈にきましたね。浅草の観音様、本当に生き生きとしておられます。
それでは、時間もきたようでございますので、これで解散したいと思います。皆様、ご苦労様でございました。三日後からが楽しみでございますね。
第二章 観音様のお働きとは ~「関東定例セミナー」より 平成4年7月12日~
慈悲のまま救ってくださる観世音菩薩
今日は、観音様について説明をしたいと思います。
三蔵法師が中国からインドへ渡りましたときに、般若心経をずーっとあげていたんですね。あの時代、般若心経がどこの誰から中国に伝わったのか、謎とされているのですが、「西遊記」に出てくる玄奘三蔵は一生懸命に般若心経を唱えながらインドへ行ったと、記録に残っております。
で、その当時、弥勒信仰というものがありまして、死んだら兜率天へ行きたいと誰もが願っておりました。人々はみな、弥勒菩薩様の兜率天へ行って成仏したい、というあこがれを持っていたわけです。
もちろん、弥勒信仰と並行して阿弥陀信仰も観音信仰もありました。
そのころは、家々には必ず観音様がいらっしゃっていて、そして行く先々では阿弥陀如来様が守ってくださっているんだ、と人々は考えていたわけですけれど、皆さんもご存じのように、阿弥陀如来様の左右には、観世音菩薩様と勢至菩薩様が脇侍として控えておられます。
では、観世音菩薩様はどういう仏様なのかといいますと、慈悲ながらに救ってくださる仏様。それに対して、勢至菩薩様は智恵の仏様でして、中央の阿弥陀如来様と観世音菩薩と勢至菩薩様、いずれが尊い仏様かというので、くじを引いたところから「あみだくじ」と呼ばれるようになったとかいわれておりますけれど(笑)、いずれ劣らぬ尊い仏様ばかりです。
阿弥陀浄土へ連れていってくださる阿弥陀如来。慈悲ながら、慈悲のまま救ってくださる観世音菩薩。そして、天来の智恵を授けてくださる勢至菩薩。みなそれぞれに尊いですよね。
それはそれとして、先ほども言いましたように、当時の中国では観世音菩薩と阿弥陀如来は広く信仰されていたわけです。時代でいえば、三蔵法師がインドへ行ったころですから、七世紀。日本の飛鳥時代です。
そのころにはもう、日本にも仏教が伝わっておりました。仏教が伝わったのは五三八年。あるいはまた五五二年という説もありますが、五三八年、百済の聖明王が仏像と経文を日本の欽明天皇に贈ったときから、日本の仏教が始まったとされています。これがいわゆる仏教公伝です。
一方、中国に仏教が伝わったのは三二七年ですか。はっきりしたことはわかりませんが、四世紀です。
四世紀にインドから中国に伝わっております。そのあと、二百年ぐらい経ってから日本に伝わったわけですから、その間に中国の仏教は、中国的な色彩を帯びながら発展を遂げ、聖徳太子のころにはすでに、弥勒信仰、阿弥陀信仰、観音信仰が広まっていたのです。
その観音信仰を日本で広めたのが聖徳太子さん。中国人も日本人も観音様が好きだったわけですね。
名前の違う観音様がたくさんおられる理由
今日の講義は観音様がテーマなのですが、観音様のことを考える場合、皆さんにとって最もわかりにくいのが、千手観音、十一面観音、白衣観音など、観音と名のつく仏様がたくさんいらっしゃることではないでしょうか。
皆さん、不思議に思いませんか。観音様は、三十三相に化身されるわけです。いろいろなお姿に化身して、人々の悩みとか苦しみを救ってくださるというのですが、そんなに化身しなくても観音様お一人いらっしゃれば、すべて救われるのではないか、と。そんなふうに考えたこと、ありませんか。
こういうとき、神様と正しく会話できる私のような存在は便利ですね。
私はこれまで、あらゆる神様とお話ししてきましたが、もちろん、観音様にもお聞きしました。
いまから十何年前、手に入るすべての文献を読んだうえで、あらゆる観音様、あらゆる如来様、あらゆる菩薩様、あらゆる明王様に、「あなた様はどんな役割の仏様ですか」と、インタビューしたことがあります。
暇といえば暇ですが(笑)、そのときは真剣でした。
それというのも、月末の支払いに窮して会社が倒産するかどうかという状況に追い込まれていたからです。もちろん、人として為すべき努力は最大限したつもりです。それでもどうにも窮状から脱することができない。
私は必死に祈りました。
まず最初に祈りを捧げた神様は、
の大神様(編集部注 これは主神とも書きますが、宇宙創造神のことです)でした。ところが、どんなに祈っても答えがないし、集金もうまくいかない。
その次に祈りを捧げたのはどの神様だったか忘れましたが、もう片っ端から… といったら語弊がありますが、思いつくままに神様の名前をあげてお祈りいたしました。もちろん、観音様、菩薩様にもお祈りいたしました。
といっても、朝から晩まで祈っているわけではありません。昼間は決死の覚悟で集金に駆け回り、夜は夜で仕事に追われ、ようやく一日の仕事が終わり、一段落してから祈ったわけです。
そういう死に物狂いの努力をご覧になって同情してくださったのか、最後になって天照大御神様が「三宝荒神を祀れ」と教えてくださり、そのとおりにしたら、何とかその月を乗り越えることができました。お金に関してはやはり、メイド・イン・ジャパンの神様だったわけです。
そのときにも思ったんです。観音様には、どうして名前がいっぱいあるんだ、一つでいいじゃないか、と。
十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音・・・・・なぜ、観音様にはいくつも名前があるんだろうか。皆さん、不思議だと思いませんか。
この問題について、今日ははっきり解説いたしましょう。
いま申しましたように、観音様にはいろいろな名前の観音様がいらっしゃいます。
しかし、その代表的な存在があります。
すべての観音様の代表を、「聖観音様」と申し上げます。これが要するに観音様の代表で、あらゆる観音様はこの観音様に統合されます。浅草の観音様は、この聖観音様なのです。
たとえば、龍の上に乗っている龍頭観音とか、魚を持っている魚籃観音とか、いろいろな観音様はすべて聖観音に統合されるわけです。
ではなぜ、それぞれ固有の名前があるのかといいますと、現れ出てこられるときのTPOに合わせて、お姿や行態を変化されるのです。
TPOによってお姿、行態が変わるということは、そういうお働き、そういう霊界があるということであって、たとえば、龍の上に乗っている龍頭観音というのは、龍頭観音独自の功徳というか、特別な功徳があり、魚籃観音の姿で出てこられた場合には、それ相応の霊界と功徳があるわけです。
特別な願いごとではなく、とにかく観音様にお願いしたい、おすがりしたいという場合には、聖観音にお願いすればオーケーです。聖観音はオールマイティーですから、どんな願いをしようと応えてくださいます。
けれども、「とくにこれをお願いします!」という場合は、それにふさわしい観音様にお願いすると、よりベターです。
魚籃観音、龍頭観音、白衣観音……いろいろな名前の観音様があり、いろいろなお姿の観音様があり、また、観音様によって手にしているものが違ったりしております。
そういう名前、姿や手にしているものは象徴なのです。それぞれの観音様のシンボライズされた功徳、働きが強調されているわけです。
いまの話を神様の世界の話に置き換えると、いわば、聖観音様は天照大御神様と考えてよく、聖観音様がいろいろなお姿に変わっていくときには、鹿島の神様、諏訪の神様、三輪の神様、琴平の神様というふうに考えられます。あくまで話をわかりやすくするためのたとえですけれども。
やはり、仏教を信仰している方々も、どの観音様にどんなお願いをしたら特効的な功徳がいただけるのかと考えたんでしょうね。それで、こういうふうな観音様の区別というか分類が中国で始まった、と。そういうふうに考えていただきたいと思います。
観音様と他の仏様とのお働きの違い
しかし、仏様には観音様だけでなく、文殊菩薩様もいらっしゃるし、普賢菩薩様もいらっしゃるし、その他いろいろ仏様がいらっしゃるではないか、そんなにいっばいいらっしゃるのに、またどうして、観音様がいくつもいくつもお姿を変えて出てこられるんだと、そんなふうに思っている人もいるのではないかと思います。
その疑問に対する答えとしては、自在性があり、化身ができて、どこにでも来て救ってくださる仏様が、観音様で「ある」と、そう考えていいのです。
観音様の願いは、あくまで人々を救済することなのです。龍の上に乗っておられるのも、手が千本あるのも、それから白衣を持っておられるのも、すべては人々を救うため。だから、自在性があり、化身ができ、どこにでも来て救ってくださるのです。
仏様には、勢至菩薩文殊菩薩のほか、毘沙門天、弁財天、大黒天、それから広目天とか持国天、増長天、多聞天などの天部の仏様がいますが、だいたい天部の仏様の場合、お働きは一つなんですね。一人一役。おのおのの仏様が一役を担っているのです。
ところが、観音様はそうではありません。一役なんだけれども、その一役はどういう一役かというと、「自在性があり、化身ができて、どこにでも来て救ってくださる」という一役です。
たとえば、毘沙門天様だけに絞って、毘沙門天の得意な分野のお願いをすれば、そのほうがより大きな応援が得られます。
しかし、私たちの庶民の悩みはそんなに単純ではありません。これもお願いしたいし、あれもお願いしたい。こういう悩みもあるし、ああいう悩みもある。そういう願いのすべてを毘沙門天様にぶつけたら、毘沙門天様は忙しくて、とても対応できません。
「戦のことならいくらでも応援してやれるけれど、商売は専門外だからなあ。ちょっと待ってください、大黒天さんに頼んであげましょう。大黒天さん、商売の悩みごとがあるそうなんですけれど、何とか助けてやってくださいな」
「ああ、わかりました。商売のことなら任せてください。えっ、結婚のこともお願いしたいって?縁結びは私の専門外ですからねえ。ちょっと待ってください。縁結び専門の仏様を呼んであげますから」
やはり、仏様といってもオールマイティーではなく、それぞれに専門分野があるわけです。
それに対して私たちは、競争や戦だけでなく、商売のことも、結婚のことも、健康のことも考えなければいけないし、失せ物があればお願いしなければならないし、旅に出れば一路安全を祈願しなければならない。お願いしたいことが複雑多岐にわたっていますよね。
天部の仏様は、一つずつ願いを成就してやろうと思って降りてきているのですけれど、お願いの種類が多すぎるからとても対応しきれません。
その点、観音様だったら自在性はあるし、化身もできるから、どんな願いにも対応できます。千手観音とか准胝観音とか、いろいろいらっしゃって、何でも聞いてくださる。まさにオールマイティーです。
まあ、便利といったら失礼ですけれど、これほど頼りになる仏様はほかにないといっても過言ではありません。
もちろん、不動明王とか毘沙門天といった天部の仏様は、専門分野に関してはものすごい力を発揮されますから、願いごとが一つのときにはそれ一本でお願いすればいいんですけれども、私たちの願いごとは普通、あれやこれやと多岐にわたっております。
そういう場合は、観音様にお願いすべきですね。「あ、いいですよ、いいですよ」と何でもやってくださいますから、これは便利です。
いわば「コンビニエンスストア仏様」です。行けば何でも置いてあるし、手に入れることができる。もっと大きいのは「デパート仏様」。こういうふうに定義するとわかりやすいのではないでしょうか。
浅草の観音様は、先ほど少し触れたように聖観音様です。
ところが、「四万六千日」といわれる功徳日には、富士山の頂にいらっしゃる、身の丈三千メートルの大きな観音様が、年に一回、浅草に降りてこられるわけです。
この観音様は、「正観音」と申し上げます。
三千メートルといえば、富士山と同じぐらいの大きさですから、揉みやすいですね。どこからでも拝めます。
この富士の正観音様が、はるばると駿河湾を越えて浅草に降りていらっしゃるのが、「四万六千日」なのです。
「ほおずき」にこめられた観音様の願い
富士の正観音様の解説をする前に、「四万六千日のほおずき市」について、簡単にお話ししておきましょう。
「四万六千日」といえばほおずき市、というほどまでに浅草のほおずき市は全国的にその名が知れ渡っておりますけれど、なぜ、ほおずきなのか。これは誰も解説したことがありませんね。
私も知りませんでしたが、浅草の観音様が教えてくださいました。
ほおずきとは「法好き」なのだ、と。
法というのは御法、要するに仏法です。その仏法が好きだ、仏様の御教えを勉強したり、実践するのが好きだ、というのがほおずき。それが一つの実となって、私たちの魂や肉体の中に宿るわけです。
法好きとは、一言でいうと「発菩提心」のことです。
私たちは誰でも法体、つまり心と魂を持っております。その心と魂の中に、仏法を学んで観音様と親しみ、功徳をいただきながらさらにまた学んでいこう、実践していこうということで、ほおずき(法好き)の種を植える。
この種が大きく育っていって、やがてまた新しい種を生んでいく。そうやって、法が好きだという尊い実が、次々と新しい実をならしていくんだよ、ということを教えているのです。
どの文献を見ても書いてありません。観音様からお聞きして、なるほど、そういうことかと思いましたね。
「ほおずき」というのはそういう意味で、まさに菩提心を起こさせる実でありまして、浅草の観音様にお参りすれば功徳が授かりますというけれど、「ただ単におすがりするだけでなく、一年に一回、仏様の功徳を受けて、仏様の法、地の法を好んで、神仏に対する信仰心の種を、実を大事に育てなさいよ」という観音様の願いが込められているのです、本当は。
もちろん、いろいろな功徳が観音様にはあるわけですが……。
三月十八日は私の誕生日でございます。その日、浅草観音では、何もいわないのに、毎年祝ってくださっています(編集部注 観音像が浜から上がった日が三月十八日で、金龍の舞が行われる)。
実にありがたいことだと思っております。ま、日本中、世界中の人から祝福される一月一日生まれの人には勝てませんけれど(笑)、観音信仰の霊場では、何もいわないのに私の誕生日を祝ってくださっているのですから、ありがたいかぎりです。
それはともかく、一昨日の「四万六千日」、この日にお参りしたら四万六千日分お参りしたのと同じ功徳がいただけるといわれておりますが、その功徳とはどういう功徳かというと、発菩提心。神仏を敬い、御仏を信仰し、崇め、好んで御法を学んでいくという菩提心を芽生えさせる功徳。
「信仰心の芽生え、宗教心の芽生え」を功徳として与えてくださるのが、実はほおずき市なのです。
人がたくさん集まる市ですから、御法を修めるのが好きだという菩提心をあっちにもこっちにも起こさせる。そういう功徳を与えてくださるのが「四万六千日」なのだ、ということです。
その実は、自分の心がけ次第でいくらでも大きく育てることができる。
つまり、ほおずきとは、仏様の功徳をどんどん吸収し、発揮できる種であり実であるわけです。そうやって、自分自身の心の中に菩提心、信仰心を芽生えさせることができたら、永遠無窮の功徳がいただけるし、天来の叡智を直接、神仏から吸収できる。
それはまさに、四万六千回お参りしたに値する。いやもっと、永遠無窮だということでしょうね。それだけの功徳なんだよ、という意味です。
「観音の位」に立つには
富士の山頂からいらっしゃる正観音は、いま申し上げたような功徳を授けてくださるわけですが、正観音の「正」という字は、「一で止まる」と書きます。
一とは何か。中、太極、原点。一番大事な中心。内的なポイント。そこに止まっている状態が、まさに「正」なのであります。
中国の古い文献や詳しい辞書を見たらわかりますが、正という言葉には「善い」とか「不動の」とか「道にかなう」という意味があります。正とはまさにそういう意味なのです。
ですから、「正観音」とは、不動の道にかなった善き人生を送るための正観音ある、と。そこから聖の如く、尊い働きとなって出てくるのが、「聖観音」です。
正観音様は、今日、この会場にいらっしゃって、すでに降りてきておられます。
先ほど、お手伝いをしてくれた人が、「先生のそばによるとぽかぽか暖かい」と言っていました。
真言密教の三密というのは、まさにそういうものでありまして、身、口、意。
口では観音様の真言を唱え、手は観音様の印を結び、心はもう観音様になりきって、いかなる衆生も救おう、と。この三つが揃ったのが三密。身、口、意を合体した状態。つまり、自分の体がすべて仏様と一体となるわけです。
私の場合は、すぐに観音様が降りてこられます。それはなぜか。観音様に感応するような日々を送る努力をしているからです。
神様にしても仏様にしても、あるいは守護霊にしても、その人が日ごろどういう精神状態で、人生観を持って生き貫いているのか、その心の奥深い部分と足跡に合ったものしか来ないのです。
そういう意味で、「自在性があり、化身ができて、どこにでも行って救おう」という発願をする人は、死後、まさに「観音の位」をもらうわけです。もちろん、生きているときでも、その位に立ちます。霊的な位に立ちます。
たとえば、伝教大師最澄は、お亡くなりになって、即、この観音の御位をもらいました。
だから、自在性があり、化身ができ、どこへでも行って衆生を救うことができる。いうなれば最澄観音ですね。
それは人間だけではありません。龍神でも同じです。青龍でも白龍でも黒龍でも……黒龍はあまりありません。金龍がほとんどですが、金龍神が自在性を発揮して、化身をして、どこへでも行って救おうと発願すると、即、観音様のお姿になるのです。
典型的な例が箱根の九頭龍さんです。箱根の九頭龍神は、萬巻上人に説得されて改心いたしまして、衆生を救おうと発願し、以来、まさに観音様のような働きをしておられます。
九頭龍とは、すなわち、頭が九つある龍ですけれど、頭が九つというのは九つの働きができるということです。
ですから、非常に強い力を持ち、なおかつ自在性があって化身ができる龍である、ということです。その九頭龍がどこへでも行って救おうと発願したら、即、観音の姿になるわけです。こういうふうに考えたら、わかりやすいのではないでしょうか。
人の霊でも、龍神でも、天狗でも、「自在性と化身ができるだけの修養を経て、そしておのれのことを忘れて、どこへでも行って救おう」という発願をしたら、観音の姿になる。ですから、龍神様が化身して、観音の姿で出てくる場合も多いです。
正観音、聖観音、観世音菩薩
正観音様がいらっしゃる富士山の話に戻しますと、富士は「不二」とも書きます。
つまり、二ではない、ということです。二ではないということは太極、一ということです。その一に止まるから正。
そして、富士の「ふ」は、増やす、増える、敷衍する、吹き上げる、ひとふたみの「ふ」で、二でもあって、陰陽が出ていく。すなわち、太陽神界から降りてきた神の道を布教していく、弱めていくというのが「富士神界」なのです。
その世界に向かって進歩向上していくというのが、「箱根神界」。箱根神界は、陰の進歩向上。私の「神社で奇跡の開運」(たちばな出版刊)では、箱根方舟と書きましたが、まさにそのとおりです。方舟で上へ上へと上がっていく。
上がったら降りていく。これが富士神界です。
そういう富士神界から出てこられる観音様だからこそ、まさにほおずき市の菩提神仏を敬い、神仏を追求し、神様、仏様が好きだ、という心を与えてくださる。
ゆえに、四万六千日分の功徳があるんだ、ということです。それから降りてこられて、聖観音となると観音様の代表として救いの場に出てくる。
さらにまた、「救うぞ!!」と出てくるのが救世観音。救世観音は、聖観音がまさに世を救わんとして出てくるときの姿です。慈悲の心を漲らせて、から動へ移ったときのお姿が救世観音様。先ほど言いましたね。
TPOに合わせて化身される、と。地上へ降りてきて、「救おう!」という行態になったとき、救世観音という名前がつくわけです。
聖徳太子さんのお働きは、まさに救世観音そのものです。
これまでに何度も講義をいたしましたけれど、非常に重要なところなのでもう一度言いますが、この聖観音は五次元神界の仏様。産土の神社の神様とだいたい同じ「位」です。要するに、鹿島神宮だとか諏訪大社の神様と同じぐらいの位置にいらっしゃるわけです。
そこからまたずーっと降りてきて、四次元の霊界や幽界になったときが、観世音菩薩。聖観世音菩薩とはいわず、単に観世音菩薩といいます。
のお寺では、聖観世音菩薩と不用意に使っておりますが、厳密にいうならば、観世音菩薩と名乗られるときには、霊がいる霊界、幽界の四次元界の仏様。ご先祖の霊や地縛霊、浮遊霊がいる世界に降りてこられているのが、観世音菩薩様なのです。
そういう観世音菩薩を祀っているお寺はたくさんありますが、次元の高いところへ降りてこられている聖観音様はなかなかいらっしゃいません。
浅草の観音様は非常に珍しいケースです。そういうところをきちんとご理解いただきたいと思います。

