第二章 天照大御神の働きと功徳 ~関東定例セミナー講演 昭和63年1月27日~
神々様とご神名の関係
今日は、天照大御神様の話をさせていただきます。伊勢に坐す、天照大御神の巻でございますが、「坐す」と書いて「ます」と読みます。
「鎮座坐します」なんていうときに、この字を使います。神様がそこに座っているということではなく、「いらっしゃいます」と意味です。
さて、伊勢に坐す天照大御神様と申しますのは、私の「大金運」(たちばな出版刊)という本に詳しく書いてありますように、働きの神様の中心にいらっしゃる神様です。
働きの神様には須佐之男命や大国主命をはじめ、宇佐八幡、鹿島、香取、吉など、いろいろな神様がいらっしゃいますが、そういう神々様の中心として、わかりやすく言えば代表取締役社長としていらっしゃるのが天照大御神様なのです。
と説明したところで、働きの神という言葉がわからないとおっしゃる人もいると思いますので、「働きの神とはどういうことなのか」。これについて簡単にお話しいたしましょう。
神とは何かと言いますと、私の師匠である植松愛子先生曰く、「火と水ですよ」と。神の「か」は「火」で「み」は水です。
この火と水の働き、陰と陽の働きを総称して神と言うわけですけれど、植松先生は続けて、「その火と水、陰と陽の留金のチョンが
神であり、菊理姫様なのですよ」と、おっしゃいました。
菊理は縦と横、陰と陽の理を利かせる、という意味であり、陰が陰であり、陽が陽であるように、うまく回転するための結びつき、要の役割を果たしていらっしゃるのが菊理姫様です。
私はよく、一厘と九分九厘ということを申しますが、九分九厘とは何かと言いますと、陰と陽に含まれるすべての働き。それに対して一厘とは、中心のチョン、つまり点です。
点というのは、面積も体積も質量もなければ、においも色もありません。けれど、無ではない。点はあくまで点であります。
そして、この点が集まると、数学上は線になるわけですけれど、仮に縦と横の二本の線、xとyが十字にクロスしているとしましょう。
そのとき、xとyがクロスする点はX線上にあるのかと言うと、そうではありません。厳密に言えば、Xに含まれるけれどxではない。同様に、yに含まれるけれどyではない。つまり、xでもなければyでもない、陰でもなければ陽でもないわけです。
しかし、この点(チョン)があるからこそ、縦と横、プラスとマイナス、陰と陽、男神と女神に分けられるのであって、もし、点(チョン)がなければ、十字が回転したときバラバラになってしまいます。
留め金の点がなければ陰は陰陽は陽、それぞれバラバラになって回転できません。
前述しましたように、神様とは陰と陽、火と水、この働きを総称したものでありますが、陰でも陽でもなく、そして働きもない中心のチョンがあって初めて、円滑な神働きができるのです。
そうやって、最初は何もなかったチョンのところからいろいろな働きが出てくるわけですけれど、その働きに合わせてつけられているのがご神名です。神様のお名前とは、すなわち働きのことなのです。
よく同体異名と申します。同じ神様で名前が違うだけ、というのがこの言葉の一般的な意味ですけれど、たとえば大国主命様には、葦原色許男神、大己貴神、大物主神、宇都志国玉神、八千矛神、それからもう一つ、大国魂神という七つの名前があります。
猿田彦神様も、白髭明神とか土公神とか、いろいろな名前を持っております。
同じ神様がいくつもの名前を持っているのはどういうことなのか。同じ神様でも名前が違うのはなぜなのかと言うと、それだけいろいろな働きを持っている、ということであります。
働きが変わるとお姿も変わりますし、身につけている衣装も変わります。顔も変わります。つまり、ご神名そのものが、その神様の働きを物語っているわけです。
天照大御神というご神名の意味
その観点から言えば、天照大御神様は「アマテラスオオミカミ」というご神名の中に働きのすべてが表されている、と言うことができます。
「アマテラス」が五文字、「オオミカミ」が五文字になっております。左手が五本の指、右手が五本の指。五と五。すなわち、天照大御神様というのは五の数字なのです。
「アマテラス」までが乾、「オオミカミ」が坤で、「アマテラスオオミカミ」で乾坤、すなわち天地を表します。
そして、真ん中に「ス」がありますので、「アマテラスオオミカミ」でもダメですし、「アマテラスオオミカミ」でもいけません。
やはり、「アマテラスオオミカミ」にならないといけません。
「ア」は天。あるいは、開くとか閉じるという意味があります。「マ」は真ん中ですから、「アマ」で「天の真ん中から」というふうに解釈できます。
「テ」というのは、手です。あるいは、照らすとか照るという意味もあります。つまり、ばーっと放射線状に広がるというのが「テ」という意味です。
「ラ」は回転する。したがって、「アマテラ」で天の真ん中からぱーっと手のように照り輝いて回転している神、と考えられます。
そして「ス」は、神様がそういうふうに働いていると同時に、私たちの「
」でもあります。「
」というのはホルモンのところでもありますし、中心であります。魂に呼びかけてくれるところ、と考えてよいでしょう。
「オオミカミ」の「オオ」とは何かと言うと、「お願いするよ」「おお」、「やってくれよ」「おお」と言いますね。すなわち、「オオ」というのは応ずると考えてよいでしょう。
ちなみに、「お」のつく子、おさむ君とかおこぜ君。おこぜ君なんていう名前の子はいないと思いますが(笑)、名前の頭に「お」のつく人には、おおらかな人でのんびりした人が多いです。
皆さんの周りにいる、名前が「お」の母音で始まる人を見てください。とおる君とかよしお君とか。おおらかな人が多いはずです。
それに対してあきら君とかたかお君とか、「あ」の母音で始まる人は活発な人が多いです。あきら君、たかお君、たけし君。母音が「あ」で始まる人は、非常に活発で活動的な人が多いですね。
その「オオ」に応じて「ミカミ」となるわけですけれど、「ミ」は「美」とか「身」と書きますし、「水」とも書きます。「身」を持っている神様、火と水の働きの神様、陰と陽の働きの神様など、いろいろ考えられます。
そうやって全体として見ると、先ほども申しましたように、「アマテラスオオミ「カミ」が天地を表す。「アマテラス」が天、「オオミカミ」が地であるわけです。そのように、ご神名も一文字一文字に全部意味があります。
今回は簡単な、ラフな解説をしておりますけれども、「ア」の一文字にいくらも意味があります。日本の神様の場合、「ア」の一文字、「マ」の一文字にすべて働きが表されておりますので、この一文字一文字がまさに神様であるわけです。
そして、イロハ四十八文字、清音が四十八種類ありますので、これを「四十八の神様」と申します。
真言密教には「阿字観」というのがあります。これは、丸い円の中に書かれた「外」という数字をずっと見ることで、宇宙との一体感を体験する瞑想法ですけれ「列」という字は宇宙の中心の文字であるとされています。
真言密教でもそのように、一文字一文字に意味があるとされているわけで、日本の神様のご神名はただ単につけられているわけではありません。
同じ神様で名前が違うだけ、というのではないのです。名前が違えばすべてが違う。そう思って間違いありません。
天照大御神の場合も、ご神名そのものに深い意味がありまして、より具体的に言えば、太陽神界の働きが「アマテラスオオミカミ」の中にすべて表されております。
すべて太陽の働きはこの十文字に集約されているわけです。そして、この「アマテラスオオミカミ」を十一回あげることを「十言の神咒」と言い、「十言の神咒」を唱えると、太陽神界のパワーを全身に浴びることができます。
天照大御神というのは、太陽神界のすべての働きを総称したご神名ですが、その中のご神魂は、天照大霊女貴之神様と申し上げます。
天照大霊女貴之神様は、緋の色と言うのでしょうか、真っ赤なお着物を着ていらっしゃいます。その天照大霊女貴之神様がご神魂でありまして、そのほか国治立之神、天之常立之神という男神様もいらっしゃいますが、総称して天照大御神と言います。
たとえば、私でしたら深見東州という名前があります。皆さんにも名前がありますけれど、不思議なことに、運勢がその名前のとおりになりますでしょう。
画数で鑑てみたり、音で鑑てみたりいたしますが、姓名判断がなぜこんなに当たるのか、実に不思議です。
ある宗派では戒名の画数を鑑まして、これは運が悪いから変えたほうがいい、成仏していないから変えたほうがいい、なんていうことを言っております。
そうやって戒名の画数さえよくしておけば、地獄に落ちるべき人でも天国に行くことができるのだったら、これほど都合のいい話はありません。修業なんか必要ないわけですから。
しかし、そのようなことは決してありません。常識的に考えても矛盾しております。あくまで占う基準でございますので、戒名変えたところで、どうということはありません。
それにしても不思議ですね。人間も何々さんと名前を付けたときからその働きが出てきて、その名前のように運勢が進んでいきます。
姓名判断がなぜあんなにぴったり当たるのかと言えば、名前あるいは言葉というのがそれだけ、霊を発しているということでありまして、それはとくに、日本では大いなるものがあります。
太陽神界が降りている伊勢神宮
さて、伊勢には太陽神界からパイプが降りております。太陽の働きを総称して天照大御神と申しますが、天照大霊女貴というところから目に見えないパイプが降りています。そこには、伊勢神宮とそっくりなお社があります。
これについては「強運」に書いてあるとおりですが、伊勢神宮と申しますのは、伊勢神宮から見渡せるすべてが伊勢の神域でございます。
山があり、河があり..赤福餅や伊勢うどんなんかもあったりいたしますが・・・・・・見渡すかぎり、すべてが伊勢神宮の神域です。伊勢神宮から見える景色は全部、伊勢神宮の持ち物なのです。
それほど広い神域に太陽神界が降りているわけですが、その中心が御垣内です。内宮の御垣内というところに太陽神界からのパイプが降りております。
伊勢神宮では二千年前から、すべてのお祭りが玉砂利の上で行なわれてきました。
室内ではなく屋外で行なわれてきたのです。御垣内の中に大宮司さんが座りまして、切り火、つまり昔ながらの火おこしをしたりしまして、お祭りするわけです。雨のときには傘をさしながら、御垣内の玉砂利の上に座って、土下座をしてお祭りをしています。
ですから、御垣内に入ったら、一言も言葉を発してはいけません。黙ってザクザクと玉砂利を踏みしめながらお社の正面まで歩いていって、そこで二礼二拍手一礼をして、再びザクザクと玉砂利を踏みしめながら帰ってくる。
それまで一言も発しない。御垣内というのは、それくらいの祭祀場なのです。神様を斎きまつっている祭祀場です。
ですから、御垣内が伊勢神宮における最高の神域でありまして、二千年間、御垣内で毎日のようにお祭りをされてきました。
私たちも、新しい会場でセミナーなどを行なう場合、お祓いをいたします。皆さんもお感じになったことがあるでしょう。この会場は何か重いな、だるいな、眠いな、と。ところが、お祭りが済んだらスカッとした、と。そんな体験をしたことがあると思います。
そういうお祭り、真心を込めた参拝が二千年間、一年のうちに何百回も御垣内でなされているのです。
その御垣内には、太陽神界のパイプ口の極点にありまして、天照大御神様のご神霊が総合的に降りてきている。中心がピシッと降りています。
だから、神様が行き来するのです。その意味で、御垣内に降りている太陽神界からのパイプは、言うなれば、天の通い路のようなものと言えるでしょう。
伊勢神宮へ行くと、普通の人はあちこち見てまわりますが、御垣内に入らないと、あまり意味がありません。
もちろん、伊勢神宮に参拝するだけでも神様は受けてくださいます。しかし、一番の神域の中に足を踏み入れないと、神気の中には入れません。
そうやって神気に触れることを「接霊」と言いますが、私たちにとってこの接霊は非常に大切なものであります。なぜなら、霊に接することによって「御魂の恩」をいただくことができるからです。
恩頼とは何かと言いますと、これは神道用語でありまして、神様からいただく徳分、魂のエネルギーです。接霊することによって、魂とか霊体の栄養分をいただくわけです。
その意味で、御垣内は神様のビタミンが凝結しているような場所と言うことができるでしょう。
人が悩むのは御魂の恩頼が欠乏するから
また、ワールドメイトのセミナーは、言葉で聞いて、神気に触れて、接霊することによって恩頼をいただく場と言えます。
ところが、セミナーに参加して、講義を聞いて、頭ではわかったけれど、どこかすっきりしない、とおっしゃる人がときどきいます。なぜ、すっきりしないのか。一言で言えば、接霊が足りないからです。
接霊が足らず、魂がやせているからすっきりしないのです。
御魂がやせるとどういう状況になるかと言いますと、寂しさというのがまず出てきます。寂しさの次にわびしさ、せつなさ、はかなさ… ほとんど歌謡曲のせりふですけれど、そういう精神状態になります。
だから、歌謡曲を歌いますと寂しくなり、わびしくなり、せつなくなり、はかなくなるのです。
現在の日本人は総じて、魂がやせ細っていますから、ああいう歌を歌いたがるし、聞きたがる人がたくさんいます。
それに対して、魂がぶくぶくに肥えていたときは、「♪~見よ、東海の空あけて、旭日高く輝けば~」といった、元気のいい歌を歌っておりました。魂が豊かな人は、ああいう歌を歌いたくなるのが普通です。
ところが、いまの世の中の人は接霊も恩頼も欠乏していて、御魂がやせておりますから、寂しさ、わびしさ、せつなさ、はかなさに心を揺り動かされるわけです。
考えてみましたら、寂しさ、わびしさ、せつなさ、はかなさ、これはサ行四段活用ですね。もう一つ、むなしさもありますね。
お墓の土地代が高くて墓がないから、まずはかなさ(笑)。そこからむなしくなって、せつなくなって、わびしくなっていく……。
寂しさ、わびしさ、せつなさ、はかなさ、むなしさというのはほとんどの歌謡曲に当てはまります。
恩頼が欠乏し、魂がやせ衰えているから、寂しい歌、わびしい歌を歌う。寂しい歌、わびしい歌を歌うから、そういう霊を引っ張り込んでしまう。そういう傾向があります。
魂がやせますと、どうしても寂しさ、わびしさ、むなしさといった情感に誘われます。これはすべて、御魂の恩頼が欠乏している状態と考えて間違いありません。
恩頼が欠乏すると寂しくなりますし、わびしくなります。
ですから、日常生活の中で、「ああ、寂しいな、わびしいな、せつないな、はかないな、むなしいな」と思ったら、「寂しいな、わびしいな、せつないな、はかないな、むなしいな」という文学的な情感に決して浸り切らないことです。
神霊の道に生きよう、神様の道を探究しようという人は、これを文学的にとらえてはいけません。あくまで霊的にとらえるべきです。そのほうが解決しやすいはずです。
「ああ、こんな情感にとらわれるのは、私の魂がやせてしまっているからに違いない。きっと魂の恩頼がないからだ。だったら、神気を補給すればいいんだ」と考え産土神社へお参りすると解決します。
とりわけお勧めなのが、天照大御神様です。寂しさ、むなしさといった問題を解決するには、太陽神界が一番です。
どうですか、皆さん、ギラギラと輝く太陽を見て、「ああ、寂しいなあ」と思いますか(笑)。青空にカーッと照っている太陽を見て、「わびしい、せつない、はかない、むなしい」と思いますか。
寂しいとかわびしいという情感に誘われるのは、だいたい夜空を見たときではないですか。
「十六夜の寂しき我が家にわびしさの、財布をあければせつなくて、お墓を買えないはかなさに、むなしさ余って悲しむ嫁、姑」とかね。お月様や夜空を見ていたら、そういうふうな詩が浮かんできますよね。
でも、太陽を見て、そういうふうな情感に誘われますか。灼熱の太陽を見ていたら、そんな気分にならないでしょ。相当努力しないと、この情感には浸り切れません。
お天気がよくて、お空が晴れていて、太陽がまばゆく照り輝いているとき、どういう感情が湧いてきますか。やっぱり、「ああ、明るいわ。暑いわ。日に焼けるわ」と思うでしょう。日傘が要る、帽子が要るとか考えますよね。
悩みごとを解決する太陽神界のエネルギー
とにかく、太陽はそういうふうな情感をおのずから醸し出すわけで、その力徳をいただくと、寂しさ、わびしさ、せつなさ、はかなさ、むなしさが自然のうちに消えていきます。
どことなく寂しさ、むなしさを感じたとき、天照大御神様に向かって「十言の神咒」を上げると、ふわっと消えていきます。
たとえば、皆さんも友人や知人に悩みごとを相談することがあると思いますが、相談をもちかけるときは、「あのさ、ちょっと相談したいことがあるんだけれど、話を聞いてくれない?」と、沈んだ声で話しかけるのではありませんか。
「いま、まばゆいばかりに燃えていて、元気澄刺なんだけど、相談に乗ってくれない?」などと、明るく元気な声で相談をもちかけたりはしないはずです。
悩みごとの相談というのはだいたい、恩頼が欠乏して魂がやせてしまったときに、「だって、この年でしょう」
「だって、彼氏がいないでしょう」
「だって、私だけ取り残されているでしょう」
「だって、アイスクリームを食べ過ぎたら肥えるでしょう」
「だって、一人じゃむなしいでしょう」と、適当な理由をつけてもちかけるのが普通で、現実的な問題を解決するために相談するケースはほとんど稀です。
もちろん、そういう場合もあるにはあるでしょう。けれど、ほとんどは気分の問題で、何となく寂しい、何となくわびしいから、どうでもいいような理由をつけて人に相談する人が多いはずです。
ところが、御魂の恩頼を受けますと、悩みごとなんか、みんな吹き飛んでしまいます。何だか知らないけれども明るくなるし、何だか知らないけれども楽しくなるし、何だか知らないけれども元気になるし、何だか知らないけれどもやる気が出てきます。
そういうとき、人は誰でも過去のよかったときの記憶が蘇ってきます。そして、未来もいいに違いない、頑張れば絶対にやれる、成功するという気分になります。
それとは反対に、何となく寂しい、何となくわびしいという精神状態になりますと、そういう霊界に入っておりますので、過去の寂しかった思い出、わびしかった思い出、せつなかった思い出、はかなかった思い出、むなしかった思い出がそれからそれへと出てきます。
そして、未来もそんなものだろうという悲観的な気分になるので、他人に相談したくなる。これ、わかりますね。皆さん、そうではありませんか。
だから、世の中のごく常識的な人たちは、人に話をもちかけたり、お酒を飲んだりして、気分をまぎらわせるのです。
もちろん、お酒を飲むこともお付き合いすることも必要ではありますけれど、自分自身まで落ち込ませることはありません。
落ち込みそうになったら、「あっ、魂がやせているからだ。恩頼がないからだ」と、パッと気持ちを切り替える。「いろいろ悩みはあるけれど、自分の想念さえ明るく元気にしていたら何とかなるぞ」と、素早く切り替えることです。
昔の嫌なことが思い出されて、未来のことが不安に感じられるというのは全部、御魂の恩頼の欠乏に原因があります。それを解決すれば、頭の中の葛藤はウソみたいに消えていきます。
こういうふうに物事を解決していくのが神霊世界に目覚めた人。神様の道の法則性を知っている人は、普通の人と一味も二味も違うおのれ自身の持っていき方も知っているわけで、そうでなければ普通の人たちと変わりません。
霊障を吹き飛ばす太陽神界のパワー
天照大御神様というのは、いま申し上げた、自分の御魂を明るく元気にするうえで、最も手っとり早い神様です。
たとえば、岩戸開きの段で天照大御神様は天の岩戸の中に入られました。するとどうなったかと言いますと、ご存じのように高天原は真っ暗になりました。真っ暗になっただけではありません。
真っ暗になって悪神・悪霊、邪気・邪霊が横行し、高天原はやっていけなくなったのです。そこで神々様が相談をして、岩戸から天照大御神様をお出ししようと諮ったわけです。
ということは、悪神・悪霊、邪気・邪霊が横行したり、因縁霊障や邪気・邪霊に悩まされたりするのも、天照大御神様の働きがないからで、自分自身の中に天照大御神様の功徳、すなわち恩頼を豊かに持っていると、こういう状態にはなりません。
明るい波長を持っておりますから、先祖代々の因縁がありましても、邪気・邪霊はほかの兄弟のほうに行くし、地縛霊、浮遊霊がいてもどこかへ行きます。決して皆様のほうには行きません。
天照大御神様に接し、天照大御神様に祈り、天照大御神様の「十言の神咒」を上げれば、御魂が回復されて、霊がうようよしている世界からパッと脱却できます。
これは、霊が見えたり聞こえたりする、いわゆる霊媒体質の人によく心得ておいて欲しいところです。
霊にいつもやられている人でも、天照大御神様の功徳をいただきますと、霊の世界に心が向かなくなります。
天照大御神様の力徳をいただきますと、邪気も邪霊も、因縁も浮遊霊も来なくなります。あまりにもまぶしくて、いたたまれなくなってしまうわけです。
皆さんが、親戚や縁者の代表をして因縁を受けることはありません。愛を分かち合うなんて言いますが、因縁も互いに分かち合ったほうがいいと思いませんか。
皆さんが悩んだり、苦しんだりしてもしょうがないことです。誰も相手にしなかったら、そのうち霊のほうも、どこかほかの親戚に行きますし、疲れてきます。
因縁が深い家の場合、家伝の因縁は普通、長男に来るものなのですが、弟がモロに受けて、お兄さんだけがやたらと元気だというケースもあります。それはすべて、この作用です。
明るく前向き発展的で、いつも情熱とエネルギーに燃えていて、恩頼をいただいて豊かな魂を維持していると、因縁も避けて通る。それがないところに悪神や邪霊が横行するのです。
御魂の恩頼を受けている人のところには、悪神も邪霊もやってきません。天照大御神様の重要な功徳です。これをもっと応用しなければいけませんね。「古事記」の岩戸開きの段を参考にしてください。
伊勢へ参拝に行ったら御垣内参拝を
私の見るところ、伊勢神宮に参拝すると、早くて半年ぐらいで結果がパシーッと出てきます。それから一年、二年後、三年後ということもあります。時間がかかりますけれども、確実に出てまいります。
それだけの太陽神界の霊域に足を踏み入れるわけですし、自分自身の中にも太陽神界の窓口がありますから、そこがパッと開く。その結果、霊層が二つ、三つ、ふわっと上がります。伊勢の神域だけは抜群です。
もちろん、白山は白山で、光などが出てくる前の、もっと奥深い世界があります。
白山の菊理姫様のほうが天照大御神様よりももっと次元が高いし、力も強いですけれども、現実界で直接的に働いていくときには、光明、輝きが必要です。
その光明と輝きをもたらす太陽神界のパイプが、先ほども言いましたように、内宮の御垣内に降りているわけですから、伊勢神宮に行ったら、ぜひとも御垣内参拝をするようにしたいものです。
では、どうしたら御垣内参拝ができるかと申しますと、式年遷宮にご寄附ご寄進された方には、御垣内参拝が許されるカードがいただけます。
御垣内に入らなかったら、伊勢に参拝しても功徳は三分の一ぐらいしかありません。ですから、せっかく伊勢神宮にお参りするのでしたら、ぜひとも御垣内参拝をしていただきたいと思います。
御垣内に入ると、神気がスーッと降りてくるのが実感できます。
皆様も一度体験されたらきっと、私が今日お話ししたことの意味を身をもって理解できるはずです。ぜひ、実践してみてください。
まあ、そういうことで、精神的に落ち込んだり、霊にやられるようなことがありましたら、天照大御神様に接霊し、御魂の恩頼をいただいて魂を太らせることです。そうすれば、消えていきます。何だか知らないけれども、やれそうだという気持ちが出てきます。
元気を回復するということは、実に簡単なことなのです。
相談を受けるときには「十言の神咒」を忘れずに
相談ごとの話に戻りますけれども、悩んだり落ち込んだりするようなことがあって、誰かに相談したくなったら、天照大御神様のような人に相談に行くべきですね。
寂しさ、わびしさ、せつなさ、はかなさ、むなしさがあるわけですから、同じような人のところに行ったら、お互い、ますます墓穴の掘り合いになります。
「君は五メートル掘ったの、ぼくはまだ四メートルだけど……」と。そんなにボケッ(墓穴)としているんじゃない、と言いたいですね(笑)。
やはり、同じ相談するなら、太陽のように明るく元気で、「三波春夫でございます$301C」というような人のところに相談に行こうと思いませんか。私だったら、そういう人のところに行きます。
「あなたと会っているだけで元気になるわ」という人がいるでしょう。天照大御神様のように魂が発動している人。そういう人と会うと、お話ししているだけで元気と明るさが出てきます。
ほとんどの相談ごとはこれですよ。悩みがあると言っても、悩みの解答はだいたい自分で決めていて、相談するのはそれを確認するため、というのがほとんどのはずです。
ですから、私が相談を受ける場合も、よほど間違っていたら注意しますけれども、大して変わらないなら、相手の考えている方向に沿ったアドバイスをすることにしています。そのほうが成功する確率が高いですからね。
もちろん、よほど深刻に悩んでいる場合は、神界、霊界、現実界のあらゆる角度から考えて、ベストと思える答えを探しますけれど、そうでなければ、いかに元気を与えられるか、いかに明るさを取り戻せるかということに心を砕いております。
皆様も、誰かから相談を受けるときには、おなかで「アマテラスオオミカミ、アマテラスオオミカミ」と「十言の神」を上げていたらいいですよ。
そうやって、太陽神界からの恩頼を与えてあげて、なるようになるだろうと、軽く考えることです。
必要以上に真剣に考えますと、寂しさ、わびしさ、せつなさ、はかなさ、むなしさに接霊しますから、自分も暗い気持ちになってしまいます。
「おかげで元気になりました、さようなら」と、明るさを取り戻して帰っていく相手を見送ったあと、ハーッとため息をついて、二、三日どうも冴えない。
そういうこと、ありませんか、皆さん。あるでしょう。マイナスの波動を発する霊に接霊するから、そうなるのです。
これをどうしたらいいのか。植松先生曰く、「気を入れない」と。極意ですね。「気を入れない神法」と言います。
気を入れないで話を聞いている分には、何人もの相談に乗れるのですけれども、ついつい同情して、「うん、うん、それから、それから」と、深く踏み込んでしまうと、相手の気を受けてこちらの魂が枯れてしまいます。
相談に来たほうは、「ああ、お陰ですっきりしたわ、ありがとう」と言って帰っていく。相談に乗ったこっちは、真剣に聞いた分だけズボッと入っているから、寂しさ、わびしさ、せつなさが伝染して、翌日から冴えない。そうならないためには、気を入れないで話を聞くことが大事なのです。
とは言っても、悩みごとを聞いていると、ついつい気が入ってしまいます。では、どうしたらいいかと言いますと、おなかの中で御垣内のことを思い浮かべながら、「アマテラスオオミカミ」と、「十言の神咒」を上げるのです。
十一回あげると、もっとあげたくなります。そういうときには、三クール、三十三回あげればよいでしょう。
四クール、五クール、何回やってもかまいませんけれど、相手のお話を聞いていると数えられなくなります。
「えーと、何回だったかな、八回だったかな、九回だったかな。ちょっと待てよ、十回かもしれない。ああ、わからなくなっちゃった」と。こういうときは回数は関係ありません。
もし十一回より多かったらご免くださいよ、多くてもお許しくださいよと、神様に申し上げながら好きなだけあげたらいいでしょう。十一回にこだわる必要はありません。こだわっていたら、できなくなります。
別に実用新案ではありませんけれども、これが天照大御神様を実生活に活用する方法です。
人から相談を受けるときには気を入れない。けれど、気を入れないようにしていても、ついつい気が入ってしまう。
すると、御魂がやせるので、「十言の神咒」を上げて補給する。ただし、そのためには、実際に御垣内参拝をしなければなりません。御垣内の霊気を踏むと、感覚というものが残ります。
この感覚が大切なのです。神霊界というのは理屈ではないので、あくまでも感覚を踏まなくてはダメなのです。
ですから、今度伊勢にいらっしゃる方はそういうことを踏まえて、御垣内参拝の価値をよく理解していただきたい。そうではなく、ただ御垣内に行ったというだけでは応用力が身につきません。
どうですか、お話を聞いているだけで体中が熱くなってきましたでしょう。
私はしょっちゅう御垣内参拝をしておりますから、私の体の中には御垣内霊界がございます。
この中で御垣内参拝をしたことのある人、ちょっと手を挙げてみてください。ほとんどが行っていませんね。
行ったことがある人がこの話を聞くと、思い出すでしょう。
一度体験したりしましたら、参拝したときのシーンとか、玉砂利を踏んだ足の裏の感覚とか、体で覚えていますから、それが窓口となって御垣内に降りている神霊界に没入することができます。逆に、経験していないと、どんなに理屈で考えても没入できません。
ですから、とにもかくにも霊域に足を踏み入れることが大事なのでありまして、しっかりと御魂で感じる必要があります。
その御魂の思い出があれば、霊域に足を運ばなくても写真を見ただけで神霊に接する、いわゆる「魂振り」ができるようになります。御魂の思い出がないと写真だけでは接霊できません。
どうですか、熱くなってきましたでしょう。いま、皆さんが感じている世界には、むなしさ、せつなさがありませんね。どうですか。
こういう状態のときには悩みごとなどないですよね。気になることがあるかもしれませんが、何とかなるわという気分ではないですか。そう思っていれば、本当に何とかなります。
これが相談ごと、悩みごとの実態です。
産土参りは一日と十五日
それからもう一つ、正五九の話をして、きょうの第一部の講義を終わります。
正五九とは何か、孫悟空のお兄さんか、と。最初、植松先生から「伊勢神宮には正五九にお参りするものなのよ」と聞かされたとき、「正五九?孫悟空のこと?」と、本気で思いました。
正五九というのは、一月、五月、九月のことで、一五九と言うと、「一度、獄に入った」というような響きがありますし、発音しにくいので正五九と言うわけです。
この正五九というのはどういう意味なのかというと、たとえば、普通の神社でしたら一日と十五日にお参りをします。三宝荒神さんをお祭りしている方は、一日と十五日にお榊を替えますね。
なぜ一日と十五日なのかと言えば、旧暦の十五日はだいたい新暦の一日になる場合が多いです。厳密に言えばそうともかぎりませんけれども、そういうケースが多いです。
それから一日、十五日にお祭りしたりお榊を替えたりするのは、昔からの風習でそうしているのですが、一日と十五日にお参りすると功徳が高いと言われております。
実際にそうなのかどうなのか、私も産土さんで体験いたしました。
私の産土さん西宮神社でございまして、えびす、えびす、残り福とありますから、十四日にお参りしたときはどうなのか、十五日にお参りしたときはどうなのか、十六日にお参りしたらどうなのか。
あるいは、月末にお参りしたときと一日にお参りしたときと、二日にお参りしたときとでは、どう違うのか等々、いろいろ試してみました。
その結果、十五日と一日でしたらやはり一日のほうがより強いし、平日よりは十五日のほうが強い。一日が大吉で十五日は中吉。たとえて言うならばそういう感じです。
この一日と十五日は、神様がその気で待っている日、と考えていいです。ですから、いつ参拝しようかなと迷ったときは、もし予定が空いていれば一日、それが無理なら十五日にお参りするようにしたらよいでしょう。
どちらも無理なら、空いている日にお参りすればよろしい。これが原則でございます。
私の体験から言うと、だいたい平日の一・三倍ぐらいでしょうか。これは私自身の感覚ですから、一・二五九倍かもしれませんけれど、普段の日にお参りするよりも、一日ないしは十五日にお参りしたほうが一・三倍ぐらい、一・二倍ぐらいですかね、功徳が高い。
これは何度も実践いたしましたが、やはり月の初めの一日のほうがよろしいです。
神様がその気で待っていらっしゃいます。人々が昔からそう言っているし、人々がその日に来るから、神様も発動しているのかもしれません。
たしかに、一日、十五日にお参りしたときのほうが、スーッと神気が降りてきますね。同じ神社で何度も確かめましたけれども、これは間違いありません。
ですから皆様、同じお参りをするのでしたら、可能なかぎり一日か十五日にお参りするようにいたしましょう。それができないのでしたら、お参りしたいと思ったときにパッとお参りすればいいでしょう。
お参りしたくてお参りしたくてたまらないんだけれども、一日にお参りしたほうがいいという話だから、一日が来るまでちょっと待とう、と。そう思ったのが、二十九日だったといたしましょう。まだこれはいいですね。
十六日ぐらいだったら、二週間近く待たなければなりません。そうやって待っているうちに、忘れてしまいますよ。三日ぐらいになって、「あっ、すっかり忘れていた」と。
ですから、切なる思いがあるときは私はいつもストレスを神様に請け負ってもらうことによって元気いっぱいやれているんですけれども、皆さんも切に思ったら、即、お参りしたらいいと思います。
「思い立ったら吉祥寺」と、私は言っております。吉祥寺は若者の街ですので、東急に行くにしましても、伊勢丹にしましても、思い立ったらすぐに行くべきもので、一ヵ月、二ヵ月前から計画していくような街ではありません。
だから、「思い立ったら吉祥寺」と言っているのですが、切に思ったときが一番、真心が通ります。
選べるなら一日、もしくは十五日にお参りしたらよいでしょう。しかし、大事なのは自分自身の内面性でありまして、自分の心が極まったときが吉日です。そうお考えになってよろしいわけです。
これが、近くの産土様にお参りするときの原則です。
