熊野 ~日本霊界風土記~(Vol.3)

第一章 熊野の神のお働きとは ~ 東西合同鼎倶楽部の熊野神業より 昭和63年11月18日~

地に現れ出ずる即効力ナンバーワンの神 ~六月十四日の講話より~

熊野の特色は何かと言いますと、

「地に現れ出ずる即効力ナンバーワンの宮なり」と、熊野の神様自らおっしゃっています。すごいでしょう。

ですから、熊野に来ますと、一発でバチーンと答えが出てきます。もちろん、いい答えですよ。自分にとってプラスになる答えが一発でバシーンと出てきます。

「伊勢に七度、熊野に三度」なんて昔から言われていますが、とくに煮詰まって困 445 った問題がありましたら、伊勢神宮へ行ってビシーッと整えてもらう。そして、熊野へと行きますと、ビシーッと整ったものをさらにいい方向へグワーッと変えてくださるわけです。

伊勢は言わば波動砲です。

しかし、波動砲をそうしょっちゅう、しょっちゅう撃つわけにもいきませんから、こうパンパンパンと確実に落としていバズーカ砲みたいなものもいるわけです。変な話ですけれど、いま「宇宙戦艦ヤマト」のシーンが浮かんできました。

ということで、伊勢神宮はビシーッと整えてくれますけれど、「地に現れ出ずる即効力ナンバーワン」は熊野の神。

ですから、本当に願いを叶えて欲しいとき、本当に困ったときには熊野に来ると解決してくださいます。

いうなれば、伊勢神宮は主薬、熊野大社は副薬でありまして、主なる薬である伊勢神宮に参拝し、そして副薬である熊野にお願いに来ると、根本治癒ができるよう道を大きく開いてくださる。目前の事柄をバシッと解決してくださいます。

そうやって、神様の世界の主薬と副薬をうまく使いますと、効いた、功徳があっと実感できて、神社の神様のことが好きになります。

「よく聞いていただいたことを、慎み感謝いたします。ああ、神社の神様なかりせば、いまの私はなかった」というふうに実感が持てるからいいですね、主薬と副薬の使い方をマスターすると。

私が思いますに、伊勢神宮には、年に一回、参拝されたらよいでしょう。そうすると、方向を大きく変えてくださいます。これがまず大事なんですね。そうやって大きな方向を変えてビシッと整えていただくと、目前の小さな苦しみや葛藤は最初から起きてこないわけです。

伊勢神宮にきちんとお願いすると、ばい菌が取りつきやすい体質、出来物や腫れ物ができやすい体質、何か汚い話になってきましたが、出来物ができやすいような体質が改善されていくわけです。

そうしたら、もう病気にならないでしょう。だから毎年、伊勢神法悟得会を行っているのです。

伊勢と熊野を比較すると、そういうことが言えるわけですけれど、しかし、われわれが生活している現実界は、無菌室ではありません。

身の回りには菌やウイルスがうようよしておりますので、どんなに注意していても、取りつかれることもあり得るわけです。そういうとき解決してくださるのが、熊野の神様なのです。

熊野の神様にお願いすれば、遅くとも一カ月以内に結果が出る

熊野の神様は、本当に思い出が深い。

目前の事柄で苦しんでいるとき、どの神様どんなにお祈りしても結果が出ないとき、もうぎりぎりのところまで追い込まれて、何とかこれを解決して超えなければというときに熊野へ来たら、「よし、わかった!」とすぐに反応されます。そして、確実に解決してくださいます。

一週間、二週間、三週間、早い場合は一週間、二週間のうちに結果が出てきます。だいたい一ヵ月以内に出てきます。

「神様!熊野の神様!」と絶叫するような気持ちで熊野に来ると、熊野の神様は見事に受けてくださいます。

「よし!わかった」と。そして、遅くとも一ヵ月以内にバチーンと結果が出てきます。

はっきり言いまして、大した問題がないときに熊野に来ても、「何か、清々しくてよかった」という感想が残るだけです。どこがどうよかったのかわかりません。

熊野の神様も、「ああ、来たね。よかったね」と、おっしゃるだけ。

「とくに困っている問題はありません。熊野の神様にはいつも感謝しています」「まあ、いいだろう」で終わりです。熊野の神様もやりがいがない。

「同じ来るのなら、ぎりぎり追い詰められている人に来て欲しい。相手にとって不足がありすぎるぞ。わしがわざわざ出向くこともないなあ」と、こういう感じですね。

マイク・タイソンみたいな神様だから、強いやつが来ないとやる気が出てこないんですね。

チョーンと押したら終わってしまうようなものばかりなら、「あ、ご苦労さん、ボクシング頑張ろうね」で終わり。熊野の神様ご本人が「よーし、やってやるぞ!」と燃えてこないですね。

難問題であれば難問題であるほど、熊野の神様は燃え上がる。ですから、ぎりぎりまで追い詰められて、生きるか死ぬか、何とか、即、これを解決しなければならないというときには、熊野が一番。熊野の神様に勝る神様はいません。

日本随一の霊所、霊場と書いてありますからね。

熊野は一願成就の神

実際、熊野の神様は私にこうおっしゃいました。

「とどめの苦境を見事に救う神なり。人心善しは最上なるも、親神なれば、心と行い悪しき者も、至心の祈り、敬神の慕情強き者の願いは叶えるなり。これ、一願成就の神なる所以なり」

人の心が善く、愛と真心と精進努力をしている人は最上だ、素晴らしい人だ、と。

しかし、親神地球をつくった最初の親神様であり、一番霊力もあり、一番厳し神であるけれど、一番優しい、怖いぐらいに優しい親神だから、ふだん信仰もしないし、おのれのことしか考えないし、欲望に満ちてやりたい放題、好き放題やってきた悪しき人間でも、至心の祈り・・・・・・心が至った祈りをし、敬神の慕情強き者は願いを叶える。

これが一願成就の神なるゆえんなり、と。まあ、どんなに心が悪く、行いが悪い者でも、かわいい自分の子供であり、バカな子ほどかわいい、ということです。

「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と、親鸞さんが言いました。善人でも往生するぐらいだから、悪人が往生を遂げないわけがない。

まあ、誤解を生みやすい言葉ですけれど、親にとってバカな子供ほどかわいい。酒ばかり飲んで極道しているバカ息子だけど、自分の血を分けた子供であるし、そういう子であるがゆえに、一層、愛しく思う。

そのバカ息子が、

「ぼく、ほんとうに極道ばかりして、ちっともお父さんの言うことを聞かないし、それに何回も牢屋に入れられてきた。だけど、今度こそは頑張って、自分を変えようと思うんだ。だから、ぼくの願いを聞いてくれないかな、お父さん」と言ったら、

「本当にお前が変わるとは思えないけれど、たった一人の自分の子供だから、しょうがない、何でも聞いてやるよ」

バカな子なるがゆえに一層かわいそうに思う、聞いてやろう、と。

そういうお父さん、お母さんのように何でも叶えてくださるのが、熊野の神様なんです。

「とどめの苦境を見事に救う神なり。人心善しは最上なるも、親神なれば、心と行悪しき者も、至心の祈り、敬神の慕情強き者の願いは叶えるなり」

一生懸命、至心の祈りをし、神様を慕って来るならば、少々行いが悪くても、心がけが悪くても、欲に満ちてやりたい放題やっていても、願いを聞いてあげようというのですから、ありがたい神様ですね。

「蟻の熊野詣」と言われた理由

熊野の歴史を見てください。「蟻の熊野詣」というのを、皆さんもご存じでしょう。昔の人は、何十キロ、何百キロという道のりを、山坂越えて歩いて来たんです。そして、熊野が近くに見えたというだけで、みんな涙を流す。苦労して来るわけですからね。

そうやって苦労して苦労して来て、「神様、何とか~!」とお願いするから、熊野の神様も「よしよし」と。

もともとそういう神様だから、「そこまで苦労して来たのなら、よし、その願い事、即、聞いてあげよう」ということで、すぐに結果を出してくださいます。

蟻の熊野詣・・・どうしてあれだけたくさんの人たちが熊野へ熊野へとやってきたのか。地に現れ出ずる即効力ナンバーワンの神様で、即、結果がバシーッと出てくるからです。

「あっ、熊野の神様に祈ったことがすぐに出た」と、異常なぐらいにはっきりとわかるから、「熊野の神様ってすごいんだな」と思う。だから、たくさんの人が来たわけです。

お伊勢さんもそうですけれど、半年後から一年たって、「そう言われてみれば、伊勢の神様のお導きかも」というのと、すぐに結果が出てくるのとを比べたら、やはり熊野のほうがいい。そう思うのが人情ですよ。熊野の神は、即、出てくるから、すごいんだと思うのじゃありませんか。

即、出てくるということは、次元界が現世に降りてきている、ということです。ゆっくり出てくるということは、次元界が上のほうにあるということ。大きい船は動くのに時間がかかる。

小さい船は、すぐに進路を変えることができる。私たちにとって大切なのは、大きい船と小さい船の使い方なのです。

何ゆえ、歴代の天皇や皇族をはじめ、たくさんの人たちが熊野へ熊野へと来たのか。こういうふうに働きがあるから、はっきりと自覚できたわけですね。

これがよくわかったら、正しい熊野の神様の動かし方、活用の仕方がわかるわけです。この原則がわかったら得です。頭の中に特色を入れてください。

究極のお願い事は熊野の神様に

その熊野の動かし方、活用の仕方ですけれど、たとえば、これというはっきりとしたものがまだ掴めないとき、掴めないというか、開かないとき、そういうときには、「最後に熊野だ」と決めて熊野に行くんです。

私自身、そういうふうに極まったときに熊野へ行くと、本当に素晴らしい霊験が出てくる。

地に現れ出する即効力ナンバーワンの神様だからといって、何でも熊野にお願いすればいいというわけではありません。

それなりの働きの神々様がいらっしゃいますので、まずはその神様にお願いして、それでもダメな場合、一番最後に、究極に行くところはどこかというと熊野だと、そう考えてください。

わかりますか。これが、熊野という神様のお参りの仕方であるし、大事な熊野の大神様に働いていただく方法の伝授です。熊野の大神様の功徳とは、そういうことなのです。

ですから、もうぎりぎりのところまで来て、いろんな近くの神様、伊勢の神様、の神様にお願いしても、解決しないこともあります。それにはもちろん、前世の劫、家の劫、いろんな劫が原因になって、なかなか解決しないのかもしれません。

しかし、そんな原因はどうでもいい。前世の劫であろうが、家代々の劫であろうが、生霊だろうがどうでもいい。過去の失敗、過ち、それは誰にだってありますよ。しかし、どんな理由であれ、出てきた問題点を見事にブワッと、面白いぐらいに解決してくださる。

適切なたとえかどうかわかりませんが、痛くて痛くてたまらない虫歯をガバッと抜いて一気に解決するとか、病んでいる部分を手術でスポッと取り除いて治すとか、そういう感じですね。

とにかく、本当に困ったとき、どん詰まりのときに究極的に行くところ、それが熊野です。

一遍上人と熊野

一遍上人もそうでした。一遍上人が求め求めて、融通念仏をどういうふうに伝えたらいいんだろうかと、あらゆることを勉強していた。そして、もうぎりぎりのところまで煮詰まってこの熊野へ来たとき、熊野の神にガーンと会い、時宗を開いたのです。

お釈迦様は過去仏、弥勒菩薩は未来仏、いまというこのときに、生きて衆生を救ってくれるのは阿弥陀如来様だ、ということで時宗を開いたのです。そして一遍上人は、各地の神社とうまく結びつきながら、お札を全国に配ったわけです。

文字や言葉でいかに衆生を救っていくのかということで悩みに悩み、ぎりぎりのところまで来たときに熊野に詣て、この世で宗教家として認められる契機を与えられたんですよ。

一遍は宗教家でしたけれど、芸術家に置きかえても同じで、書道でも何でも一生懸命やってきて、ぎりぎりのところまで頑張って、とどめとして熊野に参拝すれば、ガーンとこの世で成らせてくれます。

宗教もそう、学問もそう。

博士論文をいくら書いても全然ダメだったのが、究極のところまで煮詰まったときに熊野に来たら、その論文を認めてくれる先生と出会って博士号をいただいたとか、大学の講師になれたとか、助手になれたとか…。

とにかく、ぎりぎりのところまで来たら、ここで成ります。

素盞嗚大神は学問の神、宗教の神、芸術の神だから、そのテリトリーのことなら、この地上で結実させてくださるのです。

素晴らしいと思いませんか。この中にも、思い当たる人がいて、「あっ、しまった。住吉なんかに行くんじゃなかった、ここへ来ておけばよかった」などと思っているかもしれません(笑)。

しかし、まずは住吉さん(住吉大社、大阪市)に導いていただき、とどめとして熊野に来なければいけません。

どうですか、神様にお働きいただく方法がわかりましたでしょう。

売り上げで言いますと、お客さんをどんどん集めて売り上げを上げてくれて、営業状態をよくしてくれるのは住吉の神。

言霊の神様ですね。で、いまいち大きな仕事が取れなくてどうしたらいいんだろうか、ということで究極のところまで煮詰まったときに熊野へ来たら、大きい仕事がゴーンと取れる。住吉で道を開いておかないと、熊野に来ても意味がないわけです、とどめだから。

「初めからとどめのほうがいいです」と言う人がいるかもしれないけれど、それでは気持ちが極まらない。

だから、わざわざあれだけの長い長い道のりを山坂越えて来たところに熊野のお社があるわけです。いまでも交通不便です。そうやって一生懸命苦労して来て、気持ちが極まったとき、もう叫ぶがごとく祈らないと届かないんです。

ですから、明日も血の叫びで、「くくく、熊野の、かかか、神よ~」と祈らなければいけない。そうしたら、熊野の神様も、「ななな、何だぁ~」と応えてくださるはずです(笑)。

住吉の神は七福神の船をスーッと出してくださいます。しかし、この世の困難事に遭遇し、どうしても解決して欲しいという極みに至ったら、この熊野しかありません。

芸術の神だと言いますけれど、本当はこうなのです。こんなことを知っている人がどれだけいますか。私は体験しているからわかるわけで、「強運」のときも、ぎりぎりまでやって、もうこれ以上できないというほど煮詰まったときに神様が動いて成らしてくださった。

この中に芸術家の人もいらっしゃるでしょうし、もう、できている人だったらもっと大きいものに挑戦すること。煮詰めて煮詰めてぎりぎりのところまで来て、

「よーし!」と思って来たら、見事にバーンと聞いてくださる。一事が万事ですので。芸術の神としての説明をしておきます。

国常立大神と素盞鳴尊の関係

ところで、太陽の働きのすべてを総称して天照大御神と申しますが、この働きの主なるものは、天照大霊女貴。天照大霊女貴というのが神魂なんですね。

太陽の働きを総称して天照大御神。お月さんの場合は、総称して月読命と申しまして、主宰神は月照彦神です。

では、地球はどうかというと、地球の働きを総称して素盞嗚大神。この働きの主なるものは、中心が国常立大神。ですから、この中心の神様がウワーッと出てくるときの働きを総称して、素盞嗚大神。それが、あの「古事記」で出ているわけで、中心は国常立大神なんですね。

そして、この極点が動いたありさまが素盞鳴尊。

では、素盞嗚大神とはどういう神様かといいますと、素盞鳴の「す」は素。「さ」は、さあ行こうかと言って行動していく、成っていく。

「な」というのは、流れていく、あるいはめぐらせる。「すさ」が成っていく。「素」の働きが成って完成されている。バランスよく地球を地球たらしめている。

そのように、地球を美しい状態にしているのが素盞嗚大神。「」の神が「すさ」成った状態。「」の神は、地球の局面においては国常立大神という働きなのです。

熊野は、この地球の中心からウワーッと出てくるところの霊地なのです。素盞鳴大神の地球全体の働きの中心になるところなのです。これが、この熊野。

宇志止羅。こういうふうな字が書いてあります。「止」は、宇宙の意思をとどめて、「羅」はめぐっている。艮の金神というふうに出ています。

ということで、国常立というのは、ガアーッとこの地球を球体に凝結させている、その凝結させている力のことを言う。それがあるから、地球が丸いわけです。これがなくなると、爆発してしまいます。

国常立大神は、火山の神様、地震の神様であり、地球を修理固成した神様であって、地球の中心、素盞嗚大神を素盞嗚大神たらしめている。

初めて私がこの地に来たとき、大地の奥からグワーッと上がってくるようなエネルギーを下半身に感じました。

それだけの、神霊界とこの地を結ぶものすごいパイプがあるわけで、腰から下が温泉に入っているような感じです。大地の底からゴオーッと上がってくる、ものすごいエネルギーを感じました。

ははーん、なるほど、ここから上がってくるのか、と。ですから、マグマ大使みたいな神様ですね。それが艮の金神、国常立大神。

そういうことで、熊野はとどめの金神、国常立大神が顕現する霊地なのです。

熊野は「九真納」

熊野というのは、神様がいらっしゃる野なのだけれども、熊野の熊は九つの真、九真とも書けます。九というのは陽の極まり。陰の極まりは六です。

六白金星は陰の極まりです。陽の極まりは九。九で極まるから、今度はゼロへ帰って、一からまた始まっていくわけです。

そのように、熊野の「く」は「九の真」。真実なる九がグウーッと極まる。「くま」というのは神のいる場所。「の」というのは納入の納。神様がいらっしゃるところ。だから、九真納と言う。

それは熊野一帯ですね、襞のように連なっている熊野の山々、峰々。この一帯にそのエネルギーが出ているわけで、この和歌山のこのあたりが熊野という霊域なのです。

百年目の参拝 ~六月十五日の団体参拝より~

本日は、九鬼(宗隆氏。平成十五年逝去)宮司のご厚意で、私たちの団体参拝がうまくいくように、熊野神社の婦人会の皆様が三十名、「吉兆」の板前さんのような白い上品な割烹着を着て、私たちのために冷たい麦茶を準備してくださいました。

過去、いろいろな神社に団体参拝しておりますが、私たちの団体参拝のために婦人会の方がわざわざお茶を接待してくださるのは初めてですね。

これを見ても、いかに熊野の神様が歓迎してくださっているか、よくわかると思います。気持ちをよくして、また参拝に来たいなと思いますよね(拍手)。

九鬼宮司と三十人の婦人会の皆様、どうもありがとうございました。心より感謝申し上げます。

植松先生がいらっしゃいますと、いつもお天気になります。私がいると雨になるわけではございませんが、今回の団体参拝は、本来、雨が降るという予報だったらしい。

ところが、「雨はよくない。明日は天気なんだ!晴れるんだ!」と九鬼宮司が断言されていたらしくて、ほんとに見事に晴れました。

昨夜は猛烈な雨でしたね。「ああ、清めの雨だよ。明日は晴れるよ」と言っていたのですが、九鬼宮司も「晴れる!」と言われたとおり晴れました。

やはり、東京からバスをチャーターし、名古屋からバスをチャーターし、九州からバスをチャーターし、北海道、九州、沖縄から熊野の大神様のためにという一心で参集したから、神様が応えてくださったのでしょう。

昨日の天気予報を覆して、見事に晴れました。

平成三年の今年は、参道の登り口にも説明がございましたように、新しいお社ができてから百年目なんですね。百年目のよきみぎりでございます。

明治二十二年に洪水で古いお社が流されて、明治二十四年に新しいお社ができた。その翌年が出口ナオの神懸かりです。それから、明治二十一年に会津磐梯山も噴火しています。

あのときは会津磐梯山でございましたが、百年後は雲仙の噴火がありました。噴火すると神気が発動します。

九鬼宮司さんも、この熊野の神様は「震動」「震えが来る」「お出ましになる」という意味があるんだ、ということをおっしゃっていました。

この平成三年が百年目に当たることを、私は知らなかったのですが、どうしても熊野に行かなければ、一刻も早く行かなければと、焦るような思いを抱いておりました。

そしてこのたび、九鬼宮司さんと箱根神社の濱田宮司さんの推薦をいただきまして、二年ぶりに本が出版されます。それが「神社で奇跡の開運」でございます。

惟神の道、神道における神社参拝をどのようにすればよいのか等々、詳しく書きました。その中で、出雲の熊野と和歌山の熊野と比べたら、圧倒的に和歌山のほうが神威、神力とも上である、ということも書きました。

それほどの神社でありながら、戦争直後はここの神社を預かる人がいなくなった。

それで、「何とか再建を!」という九鬼宮司の情熱で二千数百年の古い伝統と歴史を有する神社が、いま、こうやって赫々と光明を輝かせているわけです。ありがたいことです。

こういうお社がないと、私たちも参拝できません。

宇宙のの大神様は別にお社がないからいいけれども、神社の神様はお金がかかります。

しかし、「神様のために!」と向かっていった分だけは、必ず何倍かにして返していただけます。

ご神霊のいないところだったら空を切りますが、熊野本宮大社のように、本当の神様のいるところに「どうだ!」っという形で、バシッと玉串を息吹のごとく投げつけますと、何倍にもしてバンバンと返してくださいます。

そういうものを何百回も何千回も経験しているから、抵抗がないのですけれど、初めの一歩が難しい。初めの一歩は、騙されたつもりでやったらいいと思います。

そうしたら、カーッと証が出てきます。そうしたら、何回でも持続できるんです。ご神霊がいったん動かれれば、私たちの抱えているお金の問題だとか家庭の問題だとか、いろいろな問題はいとも簡単に解決される。

もちろん、そのための努力も必要ですが、ある程度の努力をしておけば、あとは神様が解決してくださる。そういう確信を持てるまでの体験がいるわけでございます。

私は、この熊野をはじめ、あらゆる神社の神々様を通して、そういう体験を何百回、何千回としておりますけれども、皆さんも、できる範囲から少しずつ体験なさればよいのではないかと思います。

宇宙神となるともっと高い次元ですけれど、本当に現実界を動かしている神霊に接する体験、これを少しずつで結構ですから、積み重ねていかれたらいいのではないでしょうか。

世の中には、あるかないかわからない仏様にお参りしている人もたくさんいます。

しかし、この熊野本宮大社は伝統を誇る素晴らしい神社であり、ご神霊がいらっしゃるのは間違いありません。

観光参拝と感性の参拝

そういうことで、今日もまた、いつも団体参拝でお話しする二つのことを申し上げます。一つは、観光参拝と神霊的な感性の参拝の違いについてです。

まず観光参拝ですが、これはどういうものかと言いますと、神社の建物を見ては、「ああ、立派な造りで……」と。そして、故事来歴を訪ねては、「ははーん、白河天皇も参拝されているのか…………」と。

要するに、歴史と建物を見る参拝が観光参拝であり、参拝が終わったら、帰りに温泉へ入って、「ちょっとかわいい巫女さんがいたねえ」「神職さんの感じもよかったねえ」と語り合う、その程度です。

そういう観光参拝をする人がほとんどです。

しかし、この熊野に参拝する人は、最初に申し上げたような体験と証をいくつも持っている人が多いらしい。そういう方が、はるばるといらしてくださるのだと宮司さんから聞いております。

やはり、全国でも崇敬する人が最も多い神社の一つとされているだけのことはあります。それだけ皆さん、証を体験していらっしゃるんですね。

神社に参拝するときには何が重要かといいますと、神域です。箱根でも伊勢でも申しておりますが、熊野のこの地、和歌山のこの地。山々、峰々、山川草木に宿る産土力。

そういう神域、霊地が非常に大事であって、そこへわざわざ、はるばると足を踏み入れることで、神霊域に感応するわけですね。

もちろん、宇宙からも大地からもカーッと神気の湧き出ずる神霊域に足を踏み入れるわけですから、それだけで魂に入ってくるものがあります。

そして、私たちは生まれ変わり死に変わり、再生転生する中で、何度も何度も熊野詣をしたはずです。その足を踏み入れたときの懐かしさ、喜びの記憶、前世の記俺がふつふつと甦るんですね。何か魂を呼び覚ますものがあります。ということで、まず神域に足を踏み入れるということが重要なんです。

次に、その神域を中心に宇宙から降りておられるご神霊にお会いするんだ、という生き生きとした心。音楽を聴いて感動し、絵を見て感動し、大自然を見て感動するように

「ご神霊に会うんだ!」と、心を弾ませる。

メルヘンチックな文学少女みたいに、「神様に会うんだ!ご神霊に会うんだ!」というウキウキとした心で神様に向かっていく。

この二つで感応の準備ができます。

三番目が建物。神社のお社というのは、神主さんが神様に言葉を言う場所であり、神様がいらっしゃる場所、鎮もっていらっしゃる場所です。その物古りたるお社の景色を見ながら、

「ああ、神様にお参りするんだな」

心を乗せて、祝詞を奏上するわけです。

そういうふうに、神域・神霊・建物という順序で心を向けていく。つまり、目に見えない神界から霊界霊界から現実界というふうにもっていくのが、感性の参拝の手順です。

そして、お参りが終わったら、今度は静かな気持ちでこの玉砂利をサクサクサクサクと踏んでいく。一足一足踏むごとに、「熊野の神様!」という情感を大切にして、あまりガチャガチャと世俗の話はしない。

「支払い、大丈夫ですか。いやあ、大変ですな、来月どうします?」

「どうしたらいいんでしょうかね」

なんてこんな話をすると、感性が妨げられますね。俗界の思いによって汚れます。

この神域を歩くときは、「神域を歩かせていただいているのだ」という気持ちを噛みしめながら、玉砂利をサクサクと踏みしめていかなければいけません。

いまは新緑の六月ですから、木々の緑が美しい。その緑滴る森を見て、

「ああ、新緑だな……」と。この森の中にも神様の息吹がありますから、神様の息吹に触れているつもりで、

「ああ、鳥も鳴いてるな、カラスかな?ヤタガラスかな?」と心を巡らす。何でもいいんですよ。山川草木、一木一草に至るまで、熊野の神様の神気が宿っているわけですから、そう思いながら神域を歩いて行かなければなりませんね。

だから、あまり俗界の話はしないことです。月末の支払い、結婚、離婚、恋愛の話。そういう俗界の話はせず、文学的な話、「緑が綺麗ね」「焦げ茶色の土も綺麗ね」「玉砂利も綺麗ね」と、できるだけ文学的な話をして言霊を美しく整える。

そうすることによって、神域におけるボルテージが上がってくるのです。

これが、観光参拝と感性の参拝の違いであり、先ほども申したように、神域・神霊・建物という順でお参りすることを忘れないようにしていただきたい。

それから、帰っていくときもなるべく文学的な世界に心を向けながら、感性を大事にする。そうすると、たっぷり神気を浴びて家路につくことができます。

これが、神霊界とか霊的なものを大事にする人たちの参拝の仕方でありまして、観光目的のガサガサした参拝と大きく違うところであります。

これがまず一つのポイントですね。

誠の五段活用

もうひとつ、神社参拝で大事なのは、今度の「神社で奇跡の開運」にも書いてありますし、アニメ神だのみ入門「大祈願神社で開運する法」にも描きましたけれども、神様に真心と誠を捧げなければいけませんね。

「至誠天に通ず、至誠にして動かさざる者は、未だ之あらざるなり」という言葉が「孟子」にありますが、この至誠とは何か。誠という字は「言」が「成」ると書きます。

つまり、口と心と行いの三つが揃って初めて誠になるわけで、口と心があっても行動が伴わない、心と行いがあっても口が伴わない、口と行いがあっても心が伴わないのでは誠ではない。

あくまで、口と心と行いが揃って誠になるわけです。

では、誠をどのようにして表すか。これには、大きく分けて「誠の三段活用」、細やかに分けると「誠の五段活用」というものがあります。

誠をどうやって神に捧げるかというと、第一番に来るのが「わざわざ」ですね。

わざわざ北海道から来た、わざわざバスをチャーターして来た、わざわざ九州から来た、と。

その、わざわざやってくるというところが天に通じるんです。わざわざ熊野の山の深いところに来る。昔の熊野詣なんて、大変な思いをしなければ来られなかった。それでも、わざわざやってきた人たちの中には誠がある。その誠が天に通じるわけです。

そのように、「わざわざ」は誠を表すうえで非常に大切な要素なのですが、わざわざ北海道から熊野にやってきたら、いっぱいお願いしたくなるかもしれません。

しかし、「一願成就」の話をしたように、願い事はできれば一つ、多くても三つぐらいにしておくほうがいいでしょう。

「まず、一番聞いて欲しいのはこれです!許されるものならこれとこれもお願いします」

と。まあ、三つぐらいにしときましょうか。十も二十もお願いしたら、「十三番目は何だったかな?」と、熊野の神様も困ってしまいます。

ご神霊だから大丈夫だと思いますが、やはり三つぐらいにしておくほうがよいと思います。

二番目は「さっそく」です。

「さっそくお出ましいただきまして、ありがとうございます」とお礼を言うでしょう。

案内が来たらさっそく申し込む。ぎりぎり当日に申し込むのは、悪いとは言いませんけれども、さっそく申し込んだ人に比べると、誠という面ではやや落ちる。やはり、「さっそく」というのは誠の表れですよ。

三番目には何が来るかと言うと、「たびたび」です。

「たびたびお邪魔させていただきまして、ありがとうございます」

熊野の大神のところへ一生に一回だけ来て、二度と来ない。これでは誠といっても、大した誠ではない。誠も徐々に薄れてきます。

できれば年に一度、それが難しければ三年に一度は参拝したいものです。

昔は、「伊勢に七度、熊野に三度」と言われておりました。一回きりよりも、何度も来るほうがいい。熊野には三年に一度は来たいものですね。

前にも言いましたが、ぎりぎり、どん詰まり、とどめのとき、最後はどこかと言うと熊野です。関西では熊野、関東では箱根です。これははっきりしております。

だから、たびたび参拝し、どん詰まりのときはもう、何年に何回なんていうことは関係ない。自分の内的境地が極まったときがまさに天のとき、「思い立ったが吉祥寺駅」です(笑)。

大阪の人は知らないかもしれない。「思い立ったが吉祥寺駅」と言うんです。思い立ち、情感が極まったら天のときだ、と。いつがいいなんて、一切関係ない。

そういうことがなければ、三年に一回は参拝したいところです。そうすると、「ああ、たびたび来てるね」と、熊野の神様も大いに応援してくださるはずです。

ともあれ、「わざわざ」「さっそく」「たびたび」の三つが、誠を表すうえで最も大切な要素と言えます。お百度参りなんか、「たびたび」の極致です。百回もやるわけですから。

四番目は何かと言うと、菓子折り持参。

「まあ、ご丁寧な。私も前から二人静かに食べたいと思っていたところなんですよ。ありがとうございました」

菓子折り持参でというのは、神社の場合はお玉串ですね。

「神様にお召し上がりいただきたいと思いまして」と言って、三笠饅頭ニトン。これどうやって食べるのか、神様が(笑)。

そんな、三笠饅頭二トンを積み上げられたら、ご神霊でも糖尿病になってしまいますよね(笑)。

熊野の神、糖尿病。ご神霊が困りますよ。婦人会に分けても食べ切れません。

やはり、お金のほうがいいですね。お金がなければ、三笠饅頭でもしようがない。

「海山川野の種々を横山のごとく置きたらわしめ、これを召しあがりたまえ」と言って、三笠饅頭三つ。お金に困っているときは、それでもいいんですよ。

「次回は、必ずや三笠饅頭を五トン献上いたしますから」と言って、そのとおり五トン献上すればいいんです。五トンと言っておきながら二キロしか持ってこないと、三回目からはもう聞いてくれません(笑)。

「こいつの真心、大したことない」と。

何もないときには、三笠饅頭三つでもいいんです。ただし、そういうときでも心の中では、「海山川野の種々を横山のごとく……」という気持ちで投げかける。そうしたら返ってきます。

五番目は、丁寧な言葉。

「丁重なお言葉をいただきまして、ありがどうございます」と言うでしょう。それが、「よっ、神さま。オス!どう、元気?」と言ったらどうでしょう。「何だ、こいつは?」と思うでしょう(笑)。

そんな言葉で通じるなら、わざわざ祝詞なんかあげませんよ。

今日も清々しい風が吹いてきましたね。「そうだ!そうだ!」とおっしゃっていますよ。お天気にしただけでは足りないから、サービスで風まで吹かせてくださいました。

とにかく、神様に向かうときには丁寧な言葉でなければいけません。序詞が、「かけまくもあやにかしこき熊野の宮にしずまり給える大神は、ああ、百年の昔に新たなる神宮柱が立てじときこしめすなり」。

あるいはまた、「木々の茂みを見るにつけ、いかに大神の功徳が尊く立派か、涙なくしては語れはいたしません」と。

そう言われると神様も、「こいつは大したことないと思ったけれども、功徳をやろうか」という気持ちになりますよ(笑)。

人情、すなわち、神の御心に通じる。

しかし、丁寧な言葉を皆さんが使おうとしても、ボキャブラリーに限度があります。

そこで、皆さんの代わりに神主さんが祝詞をあげてくださいますから、あとは、あたかも自分が奏上しているかのごとく、「ああ、そうなんだ」というつもりで祝詞を聴いていたらいいんです。

ときどきいるんですよ、神主さんのあげる祝詞のあと、一秒か二秒遅れて同じことをブツブツ言う人が。あれ、やりにくいんですよね。別になぞらうことはありませんから、意味を考えながら聴くようにしてください。

それから大切なのは、どこの神社へ行っても褒めることなんですね。狭くて小さいお社であっても、「宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて」と。

たとえ小さなお社でも、霊界では大きいんです。ですから、どんな神社でも玉砂利を褒めるか、入り口の鳥居を褒めるか、何かを褒める。そうすると、その言霊によって神社の神様も気持ちがよくなるんです。

神社の神様に対してできたら、人間にもできる。逆に、人間界でうまくできる人は、神社の神様にもうまくできます。

自分の願いばかり言うのではなく、神社の素晴らしさを讃えなければいけません。願いを言う前に、神社を讃える。そうしたら神様も、「よしよし、そんなに言われたんなら、功徳を出そうか」という気になりますよ。

日本の国と皇室の弥栄を祈る

「わざわざ」「さっそく」「たびたび」来てくれ、「菓子折り持って」「丁寧な言葉で」お願いすると、「そんなに丁寧に言うんなら、よしっ、素晴らしい方法を与えよう」と言って、神様も願い事を聞いてくださいます。これは、どんな神社にも通じる、誠の活用法です。

とくに今回は、バスをチャーターしてやってきましたので、私たちはいまや、願いをいっぱい聞いていただけるという、よい環境にあります。

ですから、「これからも何度も来たいと思います。お玉串もさせていただきます。どうぞ、私の願いを聞いてくださいませ。これだけはどうしても聞いてください」と、一願をバーンとぶつける。

そして、お義理でもいいから、「日本の国を救いたまえ!」と付け加えることを忘れないように。言霊に出すと、そういう気持ちがワーッと滲み出てきます。

まず、日本の皇室および日本の国の弥栄、次に、私たちの神業の方向性、そして自分自身の願い事。この順序でお願いすると、「かわいいやつじゃな、こいつは」と言って、願いを叶えてくれます。

そういうふうに、まず最初の二つのポイント、「感性の参拝」と「誠を神様に捧げるやり方」を、しっかりマスターしていただきたいと思います。

これから団体参拝をいたしますけれども、熊野の大神様はとくに、至誠を傾けたその分以上に、何倍にもして返してくださる神様です。もう、何十回と私も体験しております。多くの方が体験してます。皆さん、今日、それをすれば、必ずや三月のうちにはっきりと結果が出てきます。

もちろん、宇宙のの大神様のお働きがあっての熊野の神様、お伊勢あっての熊野の神様であって、熊野だけというわけではありません。ほかにも立派な神様はいらっしゃいますけれど、一願成就、ピカイチの功徳というのは、ここが一番です。

素晴らしい熊野の大神様のことですから、皆さんが今日、祈った分だけガーンと返してくださいます。

今日は何か、二つの太鼓を叩いてくださるそうで、太鼓よ響けよとばかりにご神霊に訴えますので、皆さんも真剣に祈ってください。ばか高い声を出して祈れ、という意味ではありませんからね。カーッと燃えるがごとく祈っていただきたいと思います。

簡単ではありますが、二つのことをお話しして、ご挨拶に代えたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)