富士神界とその働き
このたびのセミナーを、なぜ箱根で開催することにしたのか。
大阪の富田林のあたりか、あるいは埼玉の西武球場の近辺で開催してもよかったのですが、箱根という場所を選んだのにはちゃんとした理由があります。無論、東京から近いという地理的条件も理由の一つではあります。
しかし、本当の理由はそんなものではありません。箱根には非常に深い神霊的な意味があるのです。
そこで、セミナーを開催するに当たって、箱根の神霊的意味について語ってみたいと思いますが、それにはまず、富士の神霊的意味から説き 起こさなければなりません。
箱根と、箱根の背後にそびえている霊峰富士とは神霊的に切っても切れない、不即不離の関係にあるからです。
ところで皆さんは、岡本天明さんの「ひふみ神示」をご存じでしょうか。これは、すべてが言霊と数霊で書かれている予言書ですが、その中の一節に「二二は晴れたり、日本晴れ」というのがあります。
続いて、「神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて……」という言葉が綴られているのですが、「二二は晴れたり、日本晴れ」の「二二」は「ふじ」と読み、その指し示すところは富士山です。
では、なぜ「富士」を「二三」と表現したのか。換言すれば、「二二」にはどのような意味が隠されているのでしょうか。
ワールドメイトで救霊を受けられた方はすでにご存じのとおり、救霊を行うとき救霊師は、「ひとふたみよいつむななやここのたり、ふるべゆらふるべゆら……」という祝詞を上げます。
別名「天の数歌」とも呼ばれるこの祝詞には、天地創造のありさまがすべて歌い込まれております。
詳しい説明は割愛しますが、古来、日本に伝わる数霊学によると、富士の「ふ」、すなわち「二」は、増える、吹き上げる、敷衍する、布教する、膨張するといった意味があるとされております。
「二」の意味、働きについては『老子』も、「一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」という言葉で解説しています。
この場合の「一」とは「易経」でいうところの太極、神道でいえば神様、仏教でいえば仏様のことですが、その無形の「一」が「二」を生じるということは、太極から陰陽の二極が出てくるということ。
そして「二」が「三」を生じるというのは、陰と陽が交わる働きが生じるということであり、その結果、万物が生成するというのが、「一は二を生じ、二は三を生じ…・・・」という言葉の意味するところであり、「老子」でもやはり、「二」の働きとして増える、敷衍、膨張といったことを挙げているのです。
このように、富士には「二」の意味や働きがあるのですが、もう少し具体的にいいますと、まず
神(編集部注 これは主神とも書きますが、宇宙創造神のことです)という存在があります。
神というのは無限絶対無始・無終で、そこには教えもなければ道もない。もちろん形もありません。
それでは人間にとってわかりにくいので、天照大御神を通してさまざまな天界の教え、道といったものが地に降ろされるのですが、それが出てくるのが、いわゆる富士神界なのです。
富士の「二」の働きによって、はじめて神様の教えと道が出てくるわけであって、それを司っているのが富士のご祭神である木花開耶姫です。
此花開耶姫とも書いたりするこの神様は、木の花がパッと開いてパッと散るように、人間の精神状態やそれぞれの時代に合わせて必要な教えをパッと出される神様です。
野に咲く花は四季折々にパッと花を咲かせてパッと散るのが普通で、真冬の夜に一斉にチューリップが咲くなんてことはあり得ません。
温室栽培ではそういうこともあるかもしれませんが、自然の花は季節に合わせてタイミングよく花を咲かせます。
そのタイミングを計って天の教えを出すのが木花開耶姫の特徴であり、その意味で、木花開耶姫は「教えの神」であると同時に「時の神」でもあります。
だからこそ、その時代、その時代、そのときどきの人の精神状態に合わせて天の教えを出されるのです。
本地垂迹説、反本地垂迹説
仏教哲学者の鈴木大拙さんが昭和十九年に書いた本に『日本的霊性』というのがあります。
これは、日本人の霊性の目覚めとその特質を述べたものでありますが、鈴木大拙さんによると、日本人が霊性、すなわち宗教性に目覚めたのは、栄西、道元、法然、親鸞、日蓮といった仏教指導者が陸続として現れた鎌倉時代であるとのことです。
いわれてみればたしかにそのとおりで、鎌倉時代は日本の仏教界にとって一大変革期であったということができるでしょう。しかし、鎌倉時代にあって大きな変革が起きたのは仏教界だけではありませんでした。
平安時代以来、日本古来の宗教である神道は、本地(中心)であるインドの仏が神という仮の姿になって日本に現れたのだという本地垂迹説によって、仏教の風下に立たされてきました。
ところが、鎌倉時代になると、いやそうではない、日本の神が中心なんだ、神が本地で仏が仮の姿なんだという、いわゆる反本地垂迹説が主張されるようになったのです。
これを最初にいったのは伊勢神宮外宮の祠官、度会家行ですが、それ以後も反本地垂迹説に基づく吉田神道が生まれたり、あるいは北畠親房の「神皇正統記』によって神国思想が広まったりもしました。
その意味で、鎌倉時代は仏教のみならず、神道においても「日本的霊「性」が目覚めた時期であった、ということができるのではないかと思います。
ちなみに、反本地垂迹説に関して私の師匠の植松愛子先生は「仏様も「神様よ」と、常々おっしゃっています。
繊細微妙な神様の世界は、あまりにも深遠すぎて人間にはなかなか理解できない。それをわかりやすく説明しているのが仏教です。だから「仏様も神様よ」と植松先生はおっしゃるのです。たとえば、相手が霊的に覚醒した人なら、
「あれ、お願いします」
「ああ、あれね」といった具合に、一言二言いっただけでパッと通じます。ところが、相手が霊覚の低い人の場合はそうはいきません。
「あれ、よろしく頼むよ」
「あれって何?具体的にいってくれなきゃわからないよ」
「ほら、昨日いったあれだよ」
「そういわれてもわからないよ」
「ほら、いったじゃないか。今度の仕事の手順について説明したろ」
「ああ、思い出した。でも、あれってどういうことなの?」
「あれには、これこれこういう意味と目的があって……」などと、「あれ」の中身をあらゆる角度から説明しなければなかなか通じない。
じつは、そうやって神界のありさまを伝えているのが一切経典なのです。神様同士、仏様同士なら「愛」「慈悲」「涅槃」といった言葉を聞いただけで、その意味する奥深いところまで一瞬のうちに理解できる。
ところが、人間にはそこまでの霊覚がない。
だから、あれほどまでの膨大な経典と教えが必要なわけで、お釈迦様が言葉のかぎりを尽くし、あらゆる角度から道を説かれた理由はまさにそこにあるのですが、日本の神界でも教えを出し、広める働きをなされている存在があります。
ほかならぬ富士神界の木花開耶姫です。
とはいえ、木花開耶姫自ら教えを出されるわけではありません。
その時その時の時代の仕織人、つまり神仕組を進めるための何らかの使命を帯びた人を通して、その時代に合った教え、必要な教えをパッパッと出されるのが木花開耶姫の教えの出し方の特徴でありまして、実際、聖徳太子も日蓮上も富士山に登ったと伝えられております。
役小角も登っているし、たくさんの時代の仕織人が導かれるように富士山に登っています。そうやって、その時々、その時代時代に必要な教え、宗教を出されてきたのです。
ところで、日本人の心に根強く残っている観音信仰、あの観音様は木花開耶姫であるといったらどうでしょう。
「ええっ?」と首をかしげる人が多いのではないかと思いますが、じつのところ、木花開耶姫が仏の次元に降りてくると観世音菩薩の姿になります。つまり、木花開耶姫が本地で観世音菩薩が垂迹なのです。
その観世音菩薩は、外見上は優しい女性の姿をしています。しかし、その中身たるや、まるで男のような厳しさがあります。
もちろん、病苦や貧困に悩み苦しんでいる人に対しては、大慈の心で優しく救いの手を差し伸べられます。そのかぎりでは、外見どおりの慈悲深い仏様ということができるでしょう。
しかし、ひとたび遊惰安逸に流れると大悲に徹し、地獄の鬼もかくやありなんというほどの恐ろしい形相で怠りの罪を戒められる。
それもこれもすべては人の幸せを願うからこそなのですが、観世音菩薩は世間一般で考えられているような、何でもかんでも許してくれる、優しいだけの仏様では決してありません。
厳しさを内面に秘められる木花開耶姫
厳しさということでは、木花開耶姫も負けてはいません。木花開耶姫といえば八百万の神々のうちでも飛び抜けてあでやかな神様です。しかし、美しい外面とは裏腹に、その内面には観世音菩薩と同様、男性以上の激しさと厳しさが隠されているのです。
ご存じのとおり、木花開耶姫は天孫降臨の瓊瓊杵尊の奥さんです。ところが結婚後、あまりにも早く妊娠したため、夫の瓊瓊杵尊から「君、ちょっと早すぎるんじゃないか。誰か、ほかの男の子どもじゃないのか」と疑いをかけられる。
これに激怒した木花開耶姫、そんなに疑うんだったら、身の潔白を証明しましょうとばかりに、「もし、あなた以外の男の子どもだったら、無事には生まれないでしょう。もし天の御子だったら無事に生まれるでしょう」と宣言して産屋に火をつけた。
しかも、産屋の隙間という隙間を粘土で塗りふさいだというのだからすごい。
これほど勝ち気で激しい気性の女性は、古今東西どこを探してもいないのではないか。そんな気がしてなりませんが、このとき生まれたのが海幸山幸で有名な火照命と火遠理命です。
ともに「火」がついていることがあたかも象徴するように、富士山もまた火山であります。一見したところ綺麗な山ではあるものの、地下の奥深いところには毒々しいまでのマグマが煮えたぎっているのが富士山です。
つまり、日本一美しい富士山は木花開耶姫が坐す山にふさわしく、その内面にはものすごいエネルギーとパワーが秘められているのです。
いずれにしても、産屋に自ら火を放ってお亡くなりになるというくらい、木花開耶姫は勝ち気で激しい気性の女神であったわけですが、その木花開耶姫の御魂を引き継いでいらっしゃのがわが師、植松愛子先生
なのです。
植松先生は、普段はニコニコしていらっしゃいます。その笑顔は、木花開耶姫もかくやありなんと思わせるほど美しく、たおやかなのですが、こちらの気が悪いとパッと「怒りの木花開耶姫」にパッと変化され、火山を爆発させる。植松先生の前では気の悪さはご法度なのです。
口から出る言葉がどんなに美しく、一挙手一投足がどんなに正しくても、気が悪ければそれだけで植松先生は大爆発される。いまのいままでにこやかに笑っていらっしゃったかと思うと、次の瞬間は怒りの木花開耶姫にパッと変化されるのです。
だから、私にとっては火山が爆発する前が勝負であって、爆発しそうだなと思ったらパッと自分で自分の気を審神し、神様に祈って気を綺麗にすると、何事もなかったかのごとくにこやかに微笑んでいらっしゃる。
その笑顔を見て、「うん、木花開耶姫に勝ったゾ」と私も密かに微笑むのですが、思えば私の修業はこういう気の勝負の連続でした。
植松先生の下での修業が始まったのが、私が二十五歳のときです。
以来、十余年(編集部注 昭和六十二年当時)、いっときも怠ることなく修業の毎日を送っていますが、修業といっても、「神とは何ぞや」「霊とは何ぞや」「
神とは何ぞや」と植松先生が講義されるのを聞いて、「ああ、そうですか」と納得するといったものではありません。いかに気を審神するかがすべてなのです。
いうなれば塚原卜伝に入門したようなもので、何気なくご飯を食べていると、いきなりカチーンとやられます。
「なぜですか」
「静かにご飯を食べているのに、なぜ頭を叩くんですか」
「お前はそんなこともわからないのか。隙があるからだ!」と、卜伝に叱られる。
そんな毎日が十数年間、ずっと続いてきたのです。おかげで今日では、どんな繊細微妙な気でも審神できるようになりましたが、それもこれもすべては厳しく指導してくださった植松先生のおかげです。
そうやって人を育てるのが、笑顔の中に秘められた木花開耶姫の偉大なお働きの一つなのです。
木花だから、見た目はすごくあでやかでパッとしているものの、火のような激しさを内面に秘めている。それがまさに植松先生なのですが、木花開耶姫の系統の人は多かれ少なかれ似たような要素を持っています。
私の見たところ、三碧木星の女性はとくに木花開耶姫に近く、瞬間瞬間に感情が変化し、ときには大爆発することが多いような気がしてなりません。それをうまくかわすことができたら、男性は大成するのではないかと思うのですが。
ところで、観世音菩薩は日本の神霊界では木花開耶姫となります。
観世音菩薩様は、一見柔和なお姿をしていらっしゃいます。しかし、人を戒めるときには恐ろしいばかりの姿に化身される。
パッパッパッと三十三相に化身して、人々の救済のために働かれる。つまり観世音菩薩とは、天の教えの神であり、時の神である木花開耶姫が天界からもう少し現界に近い仏界、すなわち心の世界に降りてきた姿であって、人の心のあり方について教えを説いていらっしゃる。これが観世音菩薩様であるというふうに考えていいでしょう。
菩薩とは何か
ここで少し、観世音菩薩の次元分解をしてみると、まず菩薩という言葉。これは心の世界、すなわち霊界の言葉であって、神の世界、神界の言葉ではありません。
『神霊界』という本に書きましたが、神界、霊界、現界はそれぞれ感覚の世界、心の世界、肉体の世界に相当します。
そして、その神界、霊界、現界に則して説かれたのが神道、仏教、儒教であって、観世音菩薩の菩薩はあくまでも霊界(心・仏教=四次元)の言葉であります。
宗教家や神霊研究家の中には、最高神界は如来界である、というようなことを主張する人がいますが、それは大きな誤りというほかありません。
そもそもの定義が違うのかもしれませんが、如来とは、「如は如にして如のごとく、如から来る如来」という言葉があるとおり、「ごとくやってくる」という意味で、人に合わせて、現世に合わせて、そのごとくやってくるのが如来であり、最高神界であるわけではありません。次元でいえば、菩薩と同じ四次元界なのです。
では、菩薩とは何かというと、心の世界があるレベルに達し、ある程度の悟りを開いた人は菩薩になる。
つまり、菩薩とは悟りの境地を意味する言葉であり、その菩薩の境地がいついかなるときでも変わらないというレベル…どんなことがあっても愛を失わず、いかなるときであっても信仰心を維持し、人生観を狂わせないというレベルに到達すると如来になり、そこにおいてはじめて自在に説法を行うことができるようになります。
人に説法をしたり、教えを出そうと思ったら、何よりもまず自分自身の境地が極まらなければならない。自分の境地がいつもぐらぐらしているようでは、説法なんかできるわけがないし、人さまを教え導くことは不可能です。
いやしくも自由自在に法を取り次いで人を教導しようと思ったら、ある程度、境地の定まりがなければいけない。その境地の定ま如来というわけです。
その如来から上が神界。ここは、内面の境地が定まっているだけでな神のごとく清浄な人が行く世界で、菅原道真公や明治陛下のように、人間でありながら内面が神のごとくなると、その感覚、感性が如来界を超えて神界に上がっていくのです。
神霊界の上のほうに行けば行くほど清浄で清らかで、神界となると、もはや人間の肉体とか人格というものを感じさせないくらいに清涼感に満ちています。
その神界の下の如来までが仏教界のジャンルであって、これが四次元界。
「われは七次元からの使者である」とか、「八次元からの使者である」といったことを口にする人がいますが、それは四次元界の中のランクをいっているにすぎず、神界のことをいっているわけではありません。
もちろん、次元が高ければいいというものではないし、四次元界であっても人々に役立つ働きをしていればそれでいいわけです。

聖観音と正観音
観世音菩薩の話に戻すと四次元界、つまり人間の心の世界に非常に近い次元に降りてきているのが観世音菩薩であって、仏教の趣旨からいえば、救世観音も如意輪観音も観世音菩薩とイコールです。
そのほか、千手観音とか十一面観音とかいろいろな観音様がありますが、特別な役割が名前として付けられているだけで、観音様は観音様です。ただし、聖観音となると、次元がもう少し高くなります。
その聖観音よりさらに高い次元に上がると、正観音になります。正観音の「正」の字は、「一で止まる」と書きます。
つまり正観音とは、神様の一厘(真髄)にピタッと止まっている観音様であり、慈悲の深さ、広さなど、内面の極まりにおいて最高レベルにある仏様、ということになるわけです。
ちなみに正観音は、身長が三千メートルぐらいもあり、富士山全体を包んでいらっしゃいます。ですから、遠く離れたところから遥拝する分には問題ないものの、近くで「観音様」と手を合わせて拝むときには、自分の首を三千メートルにするか、足を三千メートルにするか、胴を三千メートルにしないと正観音の顔が見えません。
あまりに大きすぎるわけで、お茶の間に三千メートルの観音様を一体置いていたところで、どうやって拝めばいいんだという話になってしまいます。
やはり、仏様にしても神様にしても大きければいい、次元が高ければいいというものではなく、実用的… 実用的というと神仏に失礼になりますが、私たちの生活にいかに役立つかということも大切な要素になります。
いずれにしても、富士山には正観音様がいらっしゃるわけですけれど、それは木花開耶姫之大神の仏界でのお姿なのです。
「大神」「尊」「命」
ところで、日本の神様の名前を申し上げるとき、何々の大神様とか、何々の尊様、あるいは何々の命様といったりしますが、なぜそのように呼び分けているのか。
たとえば、伊邪那岐之大神様という場合と伊邪那岐之尊様という場合、あるいは伊邪那岐命様という場合の違いは何なのか、きちんと理解されている人はどれだけいるでしょうか。
まず、何々の大神様という場合ですが、これは陰と陽、男神と女神を生み出していく自然界の働きを意味し、それを指すときには大神と呼びます。次の尊様は、陰陽が結ばれて生まれた神様。これを何々の尊様と呼ぶわけです。
何々の尊様と何々の尊様の間に生まれてきたのは命様。神様から分魂をいただいているということで命様になります。
たとえば神道では、人間が亡くなると、生前どんなに悪いことをしていた人でも命様になります。
白井権八之命様、石川五右衛門之命様…といったところで、若い人にはいったい誰のことかさっぱりわからないかもしれませんが、どんなに凶悪な殺人者であろうと天下の大盗賊であろうと、神道では死んだらみんな命様になります。
それくらいですから、神式の葬儀は総じて明るい。仏式のようなじめじめしたところがなく、「このたびはご愁傷様でした」といいながら、みんなニコニコ笑っています。
そういう中にいると、何か、生きているのが申しわけないような気分になるから不思議ですが、神式の葬儀が明るいのは、死んだとしても黄泉の国へ行くだけのことで、また戻ってくるんだ、という考えがベースにあるからです。
それを言霊では、「黄泉から帰るからよみがえりだ」というふうにいっているのをご存じの人も多いでしょう。
ところが、いや、そうじゃない、人間は死ぬと黄泉の国に行くといわれているが、地面の下に埋葬していた風習から黄泉という字を書くようになっただけの話であって、本当のヨミの国というのは夜見と書くんだと、平田篤胤という人が、「霊能真柱」という彼の代表作の中で述べています。
ヨミの国は地面の下じゃない。夜の世界なんだ。だから、黄泉から帰るからよみがえりというのではなく、黄泉に行った人はずっと黄泉にいるんだ。
平田篤胤はこういうふうにいったのですが、それまでずっと、黄泉から帰るからよみがえりといわれてきたことを考えれば、日本人にとって死はそれほど暗いものでなかったのは間違いないところでしょう。
それからもう一つ、人が死ぬと「何々之命様」と呼ばれるようになった背景には、「人は祖に基づき、祖は神に基づき」という、神道の基本となる考え方があります。
つまり、人間はご先祖様から生まれてきた、そのご先祖様は神様から生まれてきたと考えられてきたわけです。
だから、日本人は誰でもご先祖様を大切にするわけで、神様、神様といっても、日本人にとって神様はご先祖様なのです。
お父さん、お祖父さん、そのまた上のひいお祖父さん、さらにひいひい祖父さん、ひいひいひい祖父さんと、「ひい」が何十乗にも重なって、無限大になったら神様になるわけです。
たとえば、出雲大社の宮司さんは千家といい、代々、千家何々という人が出雲大社の宮司さんを務めていらっしゃいます。その千家の百何十代前は天穂日命という神様。それが千家の氏神様なのです。
先ほど、「氏神様と産土様はどう違うんですか」という質問がありましたが、その一族のご先祖……千家なら天穂日命が氏神様です。
役小角命の家柄を見ても、やはり何代も上には須佐之男命様がいらっしゃる。それが役小角命の氏神様。つまり、家のご先祖様=神様という考え方に氏神の起こりがあるわけです。
それに対して産土神というのは、テリトリーを掌握する神様。
たとえば、神奈川というテリトリーを掌握しているのは寒川神社、宮城県では塩竈神社、大分県では宇佐八幡宮といった具合に、それぞれのテリトリーで一之宮を形成しているわけで、その一之宮様が産土様。
一之宮はたとえていえば県知事のようなもので、その下には市長や区長、あるいは町会長がいます。
杉並区なら杉並区長、○×町なら○×町会長がいるわけですが、それぞれ杉並区というテリトリー、○×町というテリトリーを掌握しており、地域住民にとっては知事である一之宮よりもっと身近なのが産土様ということになります。
これが氏神と産土の違いです。まあ、働きに関してはどちらかというと、今はテリトリーを掌握する産土様のほうが日常生活に直結しているので、強くてはっきりしたおかげがあります。
清涼の気に溢れる高級神霊
話がだいぶ横道にそれましたが、富士の意味を理解するためには、何よりもまず木花開耶姫之大神という存在を知る必要があります。
別名、木花姫ともいうこの神様は、非常に創造性に富んだ神様で、そのお姿の雅であでやかなこと、この上ない。かといって、光明に輝くというわけではありません。
ヨーロッパ系というかキリスト教系の場合、光明に輝くまばゆいばかりの神様があたかも最高に尊い神様のごとく扱われていますが、実際はそうではありません。
本当に尊い神様は清らかで涼しい。前にもどこかでお話ししたと思いますが、「神は広大無辺にして清涼なり」というのが植松先生に降りられた神様の教えであって、清らかで涼しく、無限に広いのが最高神なのです。
その点、イスラム教も似ていて、神は清真、つまり清らかで真実なものであるといっています。
それに対して、仏教が生まれたインドにしても、あるいはまた中国にしても、決して清らかとはいえません。
風土的に難しいのかもしれませんが、神道では清らかであることを尊びます。ユダヤ教もそうです。そういうふうに清涼なのが一番次元が高いのであって、そこから働きの次元に下りてきたら光と熱の世界になってくるのです。
ここが大きく誤解しやすいところで、光まばゆい神霊だからといって最高神ということはありません。清らかで涼しげな神霊のほうが次元が高いのです。
富士山でも、頂上に近づけば近づくほど清らかで涼しいでしょう。それを求めてきたのが日本の山岳信仰というものであって、光まばゆき神霊が下りるのは違う場所です。
清らかで涼しい高級神霊は、同じように清らかで涼しい山上に降りる。
そういう山が神山とか霊山として、古来、人々の信仰を集めてきたのです。そこから里に下りてくると、熱くて眩いような状態になってきます。ここを誤解している人が多いのですが、とにかく最高の神界は熱や光の世界ではなく、清らかで涼しい世界なのです。
その最高神界から少し下りた第六神界というのは創造の世界。こういうふうにしたらいいなあ、ああいうふうにしたらいいなあと、静かに想いを巡らせながら設計図を書いたり作曲したり絵を描いたりするクリエイティブな世界、それが第六神界です。
こうしたらいいなあ、ああしたらいいなあというときに、燃えて眩い状態だったら脳が働かない。
発想を巡らすときは、やはり一人静かに沈思黙考するはずです。そして、「うん、こうしよう!」と着想が決まったら、うぉーっと意欲に燃えて情熱的な活動が始まる。それが五次元神界なのです。
霊能者とか宗教家と呼ばれる人の中には、光明に溢れて眩いばかりの世界が最高神界であるかのごとくに書いている人がいますが、決してそんなことはありません。
霊能力の多くは、病気治しなどの現世利益に密着した形で出てきているので、そう解釈しても仕方のない面もありますけれど、最高神界というのは光の世界ではありません。
感覚と感性の芸術の世界、あるいは無から有を生み出していく創造の世界のほうが次元が高く、病気を治すというのは肉体の次元に降りてきた神様の働きなのです。
病気が治るのではっきりと神様のおかげが理解できるのでしょうが、それは物質に近い次元に降りた神様であって、それが最高に尊いわけではありません。
大本教の筆先にも、「この神は病気治しの神じゃない。病気ぐらいいつでも治してやるよ」と書かれています。
病気治しよりもっと大切なのは、世の中の立て替え立て直しだと、大本教開祖の出口ナオさんはいったのです。天理教の中山みきさんも「これから世の中が大きく変わっていくんだ」ということをいっています。
植松先生も、「病気を治すとかそんなことよりも、これからの時代、これからの社会がどうなっていくのか、神様はどういうお心でいらっしゃるのか。
それを考えて、世の中を救う人にならなければいけません。そうしていれば、病気なんか当然治りますよ」とおっしゃっています。病気治しも尊いことではあります。しかし、病気が治ったら植松先生のおっしゃる方向へ向かわなければなりません。
あくまで御魂があっての肉体なのです。肉体を通して魂を錬磨せんがために生まれてきているのであって、肉体を大切にするために生まれてきているわけではないのです。
肉体がないと魂が磨けないので大切にするのであって、肉体が大切だから大切にするのではない。その点、主客転倒しないようにしたいものです。
富士山には木花開耶姫之大神様がいらっしゃるわけですけれど、静かで清涼な創造の世界からもう少し肉体の感覚に近い次元に下がると、木花開耶姫尊、あるいは聖観音。両者はイコールです。
そして、もっと心の世界に降りてきたのが木花開耶姫命であり、観世音菩薩様なのです。
これが神様と仏様の関係。これまで、神様だ、仏様だといわれても、何がどうなっているのかよくわからなかった人も、明快に整理されたのではないでしょうか。これからは、どんな話を聞いても、どんな本を読んでもバシッと理解できるはずです。
そういうことで、木花開耶姫様は非常に重要な働きをなされているわけですけれど、その木花開耶姫様が坐す富士山は、古代のころ、天の教えを出すところだから天教山と呼ばれていたようです。
大本教の出口王仁三郎という人がそういっています。初めてそれを知ったとき、なるほどなと思ったものの、なぜそうなのか、いまひとつ漠然としていてわかりませんでした。
ところが、植松先生に次元界の構造を教わり、「ああ、そういうことだったのか」と、頭の中がビシッと整理され明確になりました。
王仁三郎氏は天教山といってはいるものの、これまで述べてきたような明確なことまではいっておりません。植松先生によって初めて次元界のことが明確になったのです。
ご神名と働きの関係
富士神界に関しては、ここが一番のポイントですが、じつのところ、菊理姫様が木花開耶姫におなりになっています。
菊理姫様のことにつきましては機会を改めてじっくり話すつもりですが、菊理姫と木花開耶姫はイコール、つまり同系統の神様なのです。
同じ神様でも名前が違うとどうなるかというと、働きが違ってきます。神様は要するに働きですから、働きが違えば当然、名前も違う。これを同体異名といいます。
同じ神様なら名前が違っても別にどうってことないじゃないか。そう考えている人が多いようですが、名前が違うと働きがまったく違ってきます。
たとえば、大学教授の伊藤さんという人がいるとします。この伊藤さんが大学へ行けば当然、「伊藤先生、伊藤先生」と学生たちから呼ばれます。
ところが、家に帰ってきたら、子どもたちから「お父さん、お父「さん」と呼ばれます。一方、ご近所の人から見れば、同じ地域の住民でしかなく、「伊藤さん、町内会費、払ってください」などといわれます。また、郷里に帰ると何々高校のOBになります。
「えっ、ぼくらの高校のOBですか」
「うん、OBなんだよ。 OBに短し襷に長し、なんだ」
なんてことをいったら、わけのわからないOBだと思われてしまいますが、そのように、伊藤さんという一人の人間でありながら、職場では大学の先生、家に帰ったら一人のお父さん、一人の夫、地域では一人の町内会員であって、働きが異なると名前が違ってきます。
職場では先生、家ではお父さん、郷里に帰ったら何々高校のOB、男女に分けると男性の一人、年齢で分けたら中年、壮年期の方であると。
こういうふうに、一人の人間でも場所によって働きが違い、働きが違うと名前も違ってくるわけで、大学の学生たちに向かって「お父さんはね」なんていったら頭がおかしいんじゃないかと思われてしまうし、家に帰って息子や娘に「理論経済学と計量経済学の関係について、君たちはどう思うか」なんてやったら、「お父さん、どうしたの?頭、大丈夫?」と心配されてしまいます。
やはり、役割が違うと働きが違い、働きが違えば名前も違うわけで、神様の世界では役割がすなわちご神名なのです。
働きに合わせて三十三相に化身する観音様などその典型ですが、日本の神様では大国主命、この神様も七つの名前を持っていらっしゃいます
「大国主命」「葦原色許男命」「大己貴命」「大物主命」「八千矛神」「大国魂命」「宇都志国玉命」という七つの名前を持っていますが、それはすなわち、七つの働きがあることを意味します。
七つの名前すべてが大国主命のご神霊であり、役割によってそれだけ名前が変化しているわけです。
六次元神界、七次元神界、八次元神界、九次元神界・・・・
菊理姫様の話は別の機会に譲りますが、六次元神界の上の七次元とはどういう世界かというと、カラーの世界、色の世界です。先ほど少しお話ししたように、六次元神界は創造とかイメージの世界であるのですが、そのイメージが出てくる前の世界、それが七次元のカラーの世界なのです。
といったところでわかりにくいと思いますので、ちょっとテレビを引き合いに説明してみましょう。
テレビとは、改めていうまでもなく映像を映し出す機械です。そのテレビが映し出す映像の前は何かというと、電波です。しかし、電波が直接、映像になるわけではなく、受けた電波をいったん色に分解し、それをさまざまに結合して映像になります。
七次元とは、その映像になる前の段階の色の世界であるといえばわかりやすいかもしれません。
では、八次元とはどんな世界かといえば、テレビでいえば電波の世界。あるいは波動の世界といったほうがいいかもしれませんが、そこには人の姿はありません。神様の姿もありません。あるのは波動だけ。いうなれば電波が飛び交っているような世界、それが八次元なのです。
こうなるともはや人間にはわからない、人間の理解を超えた世界であります。そのことから、七次元以上を「かくれみの神界」ともいいます。
「われは八次元からの使者である」とか「八次元パワーで病気を治す」とか「八次元パワーで金粉を出す」なんていうことを口にする人がいますが、そういう話は眉につばをして聞いたほうがいいでしょう。八次元パワーで病気が治るなどあるわけがありません。
八次元の波動はあまりにも繊細すぎて、われわれが生きている三次元の荒々しい波動とはまるで合わないからです。
病気を治すのは、四次元パワーのちょっと上ぐらいの龍神パワーであって、もし病気を治す霊能者がいたら、龍神を使っていると考えて間違いないでしょう。
それから、繊細微妙で、人間のあずかり知らない八次元から、三次元のこの世界に金粉を出すということも絶対にあり得ません。
世の中には、やれ七次元、八次元だと、やたらと次元の高いことを誇りにする人がいます。どういうつもりで七次元とか八次元という言葉を使っているのか、そのへんのことは詳しく知りませんが、次元の定義からしてすでに間違っているとしか思えません。
次元界に興味のある人は、次元に関する単語にごまかされないように注意する必要があります。さて、最後は九次元世界。これは何かといえば波動の根源であり、波動が出てくる前の神気の塊、炁胞の世界です。

老子のいう道とか大道というのがこれで、神気があるだけの世界であり、波動や色とかとはまったく別の世界なのです。
次元界とはこういうふうな構造になっているのですが、ほとんどの人がこれに対する基礎的な理解を欠いています。
それでいながら、「われは六次元からの使者である」「いや、われは七次元からの使者だ」などと、あたかも次元が高いから偉いんだ、次元が高いから病気が治るんだ、というようなことをいいふらす人もいます。
しかし、先にも申しましたように、次元が高いからいいわけでも、次元が高ければ高いほど病気がよく治るわけでもありません。
これは頭で理解するものではありません。どんなに理屈でわかっても、体で体験しないことには本当の意味での次元界の理解にはなりません。
実際に体で気を体験し審神していくのが、神霊の学習上、非常に重要なポイントなのです。
そこで、この箱根二十時間セミナーの間に「目を改善する秘儀」などをやって、物質次元に近い気と高次元の繊細微妙な気の違いを実際に体験してみたいと思います。
まあ、秘儀をやるまでもなく、講義をしている私と聴いている皆さんの気が一つになると、ご神霊がお出ましになります。今回もおそらくお出ましになると思いますが、お出ましになったら「これが何々の神様の気ですよ」と教えてあげますので、体で気を感じてください。
といっても、高級神霊の気は非常に繊細なのでなかなかわからないかもしれません。それに対して、物質次元に近い気ならわかりやすい。その物質次元、肉体次元に近い気が降りてきたら、「目を改善する秘儀」や「背骨を改善する秘儀」などが可能になるのですが、そのほか、「胃腸を改善する秘儀」というのもあります。
秘儀の話は別として、次元の違いというものを理解しないと、何が正しくて何が正しくないのか、何が高級で何が低級なのか、順序と序列の区別ができません。善悪正邪の審神の基礎ができていないわけです。
これは拙著「神霊界」「神界からの神通力」で書けなかったことで、もっとハイレベルの内容を語ろうと思えばいくらでも語ることができます。
今日はその一部をお話ししているわけですけれども、それでもまだ基礎でしかありません。
「神霊界」にしても「神界からの神通力」にしても、簡単なことをサラッと書いただけでしたが、過去になかった内容だということでたくさんの人に読んでいただきました。
ということは、すなわち今の人の神霊界に対する理解はまだまだ浅い、ということであります。
僭越に聞こえるかもしれませんが、世間一般の理解はようやく守護霊とか背後霊をうんぬんするレベルに達した程度でしかなく、神霊世界の構造などレベルの高い内容になると、さっぱりわかっていないのが実情ではないでしょうか。
だから、八次元パワーだとか九次元パワーといった荒唐無稽な話が、あたかも真実であるかのごとく語られたりするのではないかと思いますが、かなりまともな宗教団体でも、天界の秘奥についてはほとんど説かれていません。
過去の霊学をひもとけば、それなりに論説はあります。しかし、神霊界の真実を明快に語っているもの、あるいは実習に基づいた体系ということになると皆無に等しい、といっても決して過言ではありません。
そういうことで、今回はこれだけ整理しておきましょう。九次元世界の神気の塊、炁胞が八次元に降りると波動になって、七次元になるとカラーになり、さらに六次元になると映像になっていくと。テレビの構造を思い浮かべればわかりやすいはずです。ああ、これで頭がすっきりしましたね。
この話を聞いて皆さん、「うんうん」と頷いていらっしゃいますが、私の目には皆さんの背後で同じように「うんうん」と頷いているたくさんの守護霊が見えます。
皆さんが「うんうん、なるほど」と思ったその刹那、守護霊たちも「なるほど、なるほど」と(笑)。
ご先祖様も皆さんの背中にあちこちに乗っかって、「へえー」なんて聞いているし、守護霊さんなんかも「ほおー」・」と耳をそばだてています。なかには、隣の人の背後に回って「ふーん、なるほど」といっている守護霊もいます。
歴史上、これだけの天の叡智を得るために一生涯をかけた人がたくさんいます。それでも、高次元の世界は気の塊じゃないか、ということがなんとなくわかったという程度でしかありません。
それを皆さんはいま、神界も霊界も仏教界もすべて理解したわけですから、もう十年分ぐらいの勉強をしました。
みんな、わからないんです。一生涯かけて神霊界のほんの一部を理解する程度……といっては失礼になりますが、それが偽らざるところではないでしょうか。
今日は中級講座だから基礎的なことにとどめておきますが、これぐらいカチッと理解してもいいのではないでしょうか。
富士と箱根の関係について話をするつもりでしたのに、富士の話だけでこんなに長くなってしまいました。次に箱根の話をしたいところですが、長くなったついでに、もう一つだけ富士の話をして一区切りにしましょう。
富士の姿から学ぶべきもの
富士山は私たちに何を教えているのか、あるいは、私たちは富士山から何を学ばなければならないのか。この講義の最後に、これについて考えてみたいと思いますが、富士山の教えるところは、山の形を見ればだいたいわかります。
神坐す山、神奈備山である富士は、日本一高い。けれど、高ければいいというものではなく、もし富士山がいびつな格好をしていたらどうでしょうか。
それでも富士山は富士山なのかもしれませんが、決して美しくはない。やはり、たおやかに広がっているあの裾野。あれがあるから富士は美しいのであって、裾野こそが富士の美たるゆえんであるといっていいでしょう。
富士の美はそれだけでなく、四季折々の変化、これもまた他に類例を見ないほどの美しさがあります。夏は黒く雄大な姿を見せるし、冬は真っ白になる。とりわけ、季節の変わり目の美しさは筆舌に尽くしがたいものがあります。
あるいはまた、中腹に雲がかかって、頂だけ見せている富士も美しいし、全体が雲に覆われていても、あのあたりに富士の姿が見えるはずだと思うだけで、なんとなく胸がときめいてきます。
晴天の富士も雨空の富士も、あるいは冬の富士も夏も富士も、皆それぞれに美しいし、一日のうちでも朝、昼、夕と瞬間瞬間に姿を変える富士は見事というほかありません。
つまり、富士にはそれだけの多様性があるわけで、木花開耶姫も瞬間のうちにパッパッパッと変わる。
その木花開耶姫のご神霊に合わせて変化している富士山は、そのことをもって私たちに「多様性を持ちなさい」と教えているのではないでしょうか。
もう一つ、富士山の教えていること、富士山が私たちに与えようとしている教訓は「偏るな」ということです。
乙女峠から見ても、精進湖のあたりから見ても、富士山はだいたい同じ姿をしていて、非常にバランスがとれています。山梨側から見たら右のほうが張り出していて、静岡側から見たら左のほうが張り出しているというのでは、あまり格好がよくありません。
あるいはまた、広い裾野がなくて、ボコッと出っ張っているだけだったらどうでしょう。やはり美しくありません。これもやはり、富士山を通して天が私たちに教えているところではないでしょうか。
すなわち、日本一高い山、日本一美しい山になろうと思えば、それだけ下積みが要るんだよ、と。
裾野の広い経験と知識。裾野の広い人脈と多くの人たちの引き立て。それがあってはじめて日本一高い山、日本一美しい山になれる。自分一人、ボコッと高くそびえていても決して美しくない。
だから、年季を積んで基礎をがっちり固めなさい、実力を養いなさい。それが人として本来あるべき姿であって、下積みがなければ富士山のように人々から慕われませんよ。そう、天は私たちに教えているに違いありません。
晴天の富士も曇のかかった富士も白雪の富士も、岩肌のゴツゴツしている焦げ茶の富士も、皆それぞれに美しい。いつも同じ表情だったら、富士の魅力も半減する。
それと同様、人間もまた喜怒哀楽があって魅力が増す。素晴らしきよき人物、魅力あふれる人物というのは皆、多様性に富んでいます。
富士山はまた、どちらから見ても偏りがなく美しい。しかも、見る角度によってそれぞれに味わいがあります。
人間としても、大学の先生として見ても、お父さんとして見ても、地域の一町内会員として見ても、あるいは日本国民としても、神に向かう人としても偏りがなく美しい人は素晴らしい。
大学の先生としてはすごく立派だけど、家庭に帰ったら暴力亭主であったり教育に無関心な父親であったりしたら、人として醜い。
そうではなく、教養、学識、人間性、どこから見ても、どこをとっても素晴らしい。母としての要素、女としての要素、妹としての要素、姉としての要素、いろいろな要素がありますが、どの要素をとってもそれぞれの役割を見事にこなしている。
そういう人は富士山のように美しい。お天気であったり曇りであったりして、その都度、人間らしく表情を変える。けれど、どんなに嵐になろうと、イライラしない。
ときには腹を立てることがあっても、その腹を立てている姿にどこか厳かな余韻がある。「お腹を立てていらっしゃるんではございませんか」といわしめるような、高貴な内面性を持っている。
イカリソースみたいに味わいがある。ブルドックソースの犬みたいな顔で怒っていても、それなりに深い味わいがあるわけです。
偏りがなく、多様性があり、しかも基礎をしっかりと固めて日本一高い富士山のような人は、本当に素晴らしい。
富士山が教えていることはまだあります。頂上にスピーカーを設置して、「私は富士山と申しまして、日本一高い山でございまして」と、富士山が演説しているかといえば、もちろんそんなことはありません。
自ら宣伝しなくても、多くの人が「これが日本一高い山だよ、日本一美しい山だよ」といって訪ねてきます。
本当に美しいから、自ら宣伝しなくても多くの人がわざわざ遠くからやってくるし、日本の象徴とされるわけです。
そういうふうに、人々のほうから探し求めてきてもらえるべく、基礎をしっかり固めて己を磨かなければいけません。
富士山は、登ってみたら厳しい山だということがわかります。
その富士山のように厳しく己を磨くことによって多くの人から尊敬されるのであって、そういう精進努力を続けていけば、やがて世界の隅々からくまなく、日本の象徴としてあがめられるようになるかもしれません。
それが最高の「ふ」の働き、すなわち「増える、敷衍する、布教する」なのだ、ということを富士山の姿を通して神様が教えているのです。
その意味で、富士はまさしく天教山ということができるでしょう。神の教え、神の理といいますけれども、富士山のような日本一美しい姿を求めて精進努力している人は、自ら宣伝しなくても相手のほうから教えを求めてやってきます。
「お宅さま、そんなに立派に日々生きていらっしゃるのはなぜですか。見識は深いし、誰にも寛容だし、怒り狂ってもどこかに味わい深い怒りだし。どこでそういうふうに?」
「いやあ、じつをいいますと、ワールドイトのセミナーで勉強をしておりましてね……」
そういうような富士の山になることが「ふ」の働き。富士山は天の教え、神の教えの出てくる天教山であるといっても、まず自分自身がそうならなかったら、誰も相手にしてくれません。
ですから、何よりも自ら精進努力することが大切で、そうすればこちらから出向いていかなくても、相手のほうからやってきます。「どうしたらそんなに美しく怒り狂えるんですか」と、相手のほうから訪ねてきます。
そういう自分をつくると、自分自身も幸せで、幸せの輪を広げることができる。これが、富士山がものいわずして私たちに教えている神の教えではないでしょうか。
そういうことで、富士と箱根の、富士だけでこんなに長くなってしまいました。次に箱根と東京についてお話ししたいと思います。
