第二章 磐梯の神霊的意義~箱根二十時間セミナーより~ 昭和62年4月28日~5月1日
「遊」の富士、「定」の磐梯
神坐す山、磐梯山。ここで以前、ご神業をしたことがありますが、磐梯山はどのような山なのか、ということについて少しお話ししておきましょう。
富士山は、皆さんもご存じのとおり、裾野が末広がりに広がっている非常に美しい山です。そして、主祭神の木花開耶姫様がそのあでやかなお姿を瞬間的にパッパッと変えるように、富士もまた、姿を絶えず変化させています。
その意味で、富士は「遊」の境地を象徴する山、ということができます。
それに対して会津の磐梯山は、山頂がパックリ口を開けていて、美醜を言えば決して美しくはありません。むしろ、醜に属するといっていいでしょう。
そして、磐梯山が象徴する境地は、「遊」の富士に対して「定」。すなわち、ものごとをビシッと定めるわけです。
それというのも磐梯山には、磐長姫様が降りていらっしゃるからなのです。
磐長姫様は、実は木花開耶姫様のお姉さんです。「古事記」には、この二人の姉妹を巡って一つの出来事が起きたことが記されております。
その出来事に神霊的な深い意味が隠されているのですが、事の発端は瓊瓊杵尊様が天孫降臨されたときから始まります。
瓊瓊杵尊様が降臨されたあと、お妃を探しに行ったところ、あるとき河原で一人の美人と出会った。
「なんてきれいな人なんだ。結婚したい!」
あまりの美しさに一目惚れした瓊瓊杵尊様は、その美人のお父さんのところへ掛け合いに行きます。
「一目で見初めました。お嫁さんにいただきたいのですが……」
「天孫の妻になるのでしたら、喜んでわが娘を差し上げましょう」
このお父さん、大山祇神様といって、仕組に出てくる立派な神様です。その大山祇神様が「ああ、わかりました」と、瓊瓊杵尊様の申し出を承諾したのです。
そして、瓊瓊杵尊様が嫁入りのときをいまや遅しと待っていたところ、木花開耶姫様と磐長姫様の二人がやってきました。一人で来るものと思っていたのに、姉妹でいらっしゃったわけです。
木花開耶姫様は何ともあでやかで美しく、この世に二人とない美人です。対して磐長姫様はどこから見ても決して美人とは言えません。というより、岩のように醜かったと言われております。
それで瓊瓊杵尊様はこのとき、「いやもう、結構です。磐長姫はお返しします。どうぞお引き取りください」と、磐長姫をお返し申し上げた。
それを聞いた大山祇神様が、「皇室が千代に八千代に繁栄することを祈って二人の娘をやったのに、大事な磐長姫を返してしまった。
ああ、日本の皇室はこれから、木花がパッと咲いてパッと散るように有為転変の歴史を繰り返すことになるだろう」といって嘆かれた、という話が「古事記」にあります。
「古事記」は神霊界のあり様をシンボライズしたものであり、陰陽二極が示されているのですが、この段での陽は木花開耶姫様、陰は磐長姫様です。
時の神である木花開耶姫様は状況に応じてパッパッと変化する。それがこの神様の長所なのですが、時の神だけだったら現実界に定立しない。
只今、只今の状況に合わせることももちろん大切ですが、それだけでは蓄積されるものがないわけです。だから、陰の磐長姫様、磐梯に降りている磐長姫様のように磐石なものをつくっていかなければ本当ではない、というのが、『古事記』の教えているところであります。
花にたとえれば、木花開耶姫は桜か梅。「梅一輪一輪ほどの暖かさ」という言葉がありますが、梅の花が一輪咲いたということは、神様の教えがパッと開いたということです。
しかし、パッと咲かせても、パッと散っていくのが花の宿命でもあります。
一方、磐長姫様は何かと言えば松。春夏秋冬いかなるときにも色を変えない常磐のです。その松には「神様を待つ」という意味が含まれております。
常磐の松のように、いついかなるときでも変わることのない磐石な信仰力、磐石な社会の体制があって、初めて世の中は平和になり、やがてミロクの世がやってくるわけです。
ですから、木花開耶姫様と磐長姫様の陰陽二極が揃わなければいけないのですが、瓊瓊杵尊様は磐長姫様をお返しになってしまわれた。
それゆえ人類は戦争と葛藤の歴史を繰り返すであろう、ということがシンボライズされていて、それがまさしく実際の歴史として現実界に現れているわけです。
「古事記」という書物は、こういうふうに読まないといけません。
また、「古事記」に書かれている内容は皇室の運命でもあるし、私たち自身の目指すべき方向性とも言えますが、いずれにしても世の中には陰陽の二極が必ずあります。
女性を引き合いにして言えば、磐長姫様のような人がいる一方、木花開耶姫様のような人もいます。
顔はそれほど美人ではないけれど、家の中を上手に切り盛りして、財布のひもが固い磐長姫タイプ。あでやかで美しく、いつも楽しくニコニコしているけれど、財布のひもが緩くて、家庭の中はいつもハラハラドキドキという感じの木花開耶姫タイプ。
もちろん、両方を備えている人もいますが、一般的には地味なコツコツタイプとパーッと派手なタイプの二極に分けられるでしょう。
こういう話をすると「アリとキリギリス」の話を思い出すのかどうか、磐長姫のほうがいい、磐長姫のようでなければいけないという人が少なくありません。
たしかに、磐長姫は磐石で安定しています。しかし、磐石だからいいかと言うと、これがあまりに行き過ぎると頑固になります。
揺るぎないことは揺るぎないのですが、頑固で強情で、一つのことに執着して、変化にまるで対応できない。顔まで龍神めいて、ダメだといったらテコでも動かない。
「この頑固女が!」と、ご亭主が怒鳴る。子どもは子どもで、「隣のおばさん、お母さんより美人できれいだよ」と、思ったことを素直に言う。それを聞いて、「うるさいわね、この子は!」と怒鳴り返す。
いずれにしても、磐長姫も度が過ぎたら頑固で強情で、融通性がなくなるわけで、やはり「中」を得なければいけません。そうすれば磐長姫本来の「定」が発揮されて、すべてがビシッと見事に定まります。
一方、木花開耶姫はどうかと言えば、これが行きすぎると「遊」。あまりにも流行とファッションばかり追い求めるので、楽しいことは楽しいのですが、放縦で遊び好きで、しまりがない。
絶えずコロコロ変わる時代のニーズはとらえるものの、定立がない。そこが木花開耶姫の欠点であり、もし磐長姫の要素を入れることができれば、木花開耶姫本来のあでやかさ、美しさが輝きを増してきます。
この両面があって初めて陰も陽も生きる。「定」があって「遊」が生き、「遊」があって「定」が生きる。
つまり、磐長姫様と木花開耶姫様は不即不離の関係にあるわけで、私たちも「古事記」で出ているこのあたりを深く勉強しなければいけません。
これを別の角度から説明すると、木花開耶姫は神霊的なものをキャッチする人を象徴している、と言うことができます。
たとえば、「神様のお告げがあった」などと口にする霊能者がいます。
彼らの多くは目に見えざる世界に対しては敏感で、強さを発揮しますが、現実界のこととなるとまるでできない。
人がどんなに苦しんでいようと何であろうと、神のお告げだけを信じて、心の豊かさ、心の安寧といった方向にばかり目が向いてしまう。神様のお告げとかご神意に生きる人にとってはそれがすべてであるからです。
一方、現実界に生きる人にとっては現実界がすべてです。お金がすべてだ、常識がすべてだ、神も仏もあるものか、ミロクの世がやってくるなんて、そんなこと信じられるか……。
現実界に生きる人は総じて神仏や霊の存在を否定し、常識と科学だけを拠りどころにしています。
この両方を整える働きを「伊都能売の働き」と言います。つまり、木花開耶姫から出た縦のものと、磐長姫から出た横のものをガチッと十字に組むわけです。
姫とは言霊で「秘めている」という意味ですから、そういうことで表現されているのです。
それから、神様の教えをいろいろと勉強しても、磐長姫のように、山あり谷あり苦節を経たうえでの磐石なる信仰力がなかったら、神様の教えを地上に降ろすことができません。
艱難辛苦を乗り越えても微動だにしないような信仰力、神試し。こういうものを得て初めて本物になる。それが磐長姫の修業なのです。
今回のセミナーで、皆さんは磐長姫の修業をさせられているわけです。長時間椅子に座るのは大変でしょうけれど、それを耐えるのが椅子長姫、いや、磐長姫の修業(笑)。
何時間も椅子に座って講義を聴きつづけるという忍耐力、そういうものがなければご神業も成就できません。
これが「古事記」が物語る神霊界の一つの法則ですから、皆さん一人ひとりの人生の局面に当てはめて、さまざまに考えていただきたいと思います。
天位の転換とは
なかなか磐梯神業の中身に入っていきませんが、それは最後の楽しみにとっておくことにして、ここで少し、「天位の転換」という重要な話をいたしましょう。
天位の転換については「神霊界」(たちばな出版刊)で書きましたが、あれはごく一部であって、今日は『神霊界」で書けなかったことを少し掘り下げて語ってみたいと思います。
天位の転換というのは、『古事記』に書かれている内容が変化するということであって、角度を変えて言えば「古事記』に眠っている歴史、『古事記』に書かれていない歴史、ということになります。
どういうことかと言うと、たとえば小山勝清という人の小説に『それからの武「蔵」というのがありますね。
巌流島の決闘のあとの宮本武蔵について書いたものですが「それからの磐長姫」というのは『古事記』には書かれていません。
瓊瓊杵尊様に返されたあと、磐長姫様はどうなったのか。実は九頭龍さんとなって箱根の芦ノ湖に鎮まったのですが、それについて「古事記」には何も書かれておりません。
黄泉の国の段にしても同じです。
黄泉の国へ行った伊邪那美神様のあとを追って伊邪那岐神様が迎えに行くと、伊邪那美神様は伊邪那岐大神様に向かってこう言いました。
「もうすぐ帰るから、私の姿を見ちゃいやよ」
ところが、見るな、見るなと言われると見たくなるのが人情というもので、伊邪那岐大神様もつい見てしまった。すると、体のあちこちにウジがわき、おまけに雷のお化けみたいなのがくっついています。
驚いた伊邪那岐神様が「わーっ」と一目散で逃げ帰ろうとしたその刹那、伊邪那大神様が「見たな!」と言って黄泉の国の醜女、恐ろしく醜い化け物のような女に命じて伊邪那岐大神様を追わせます。
女性の見ちゃいけないところを見たらこうなる。
だから、女性の過去をあばくなんてよくないことなんだと「古事記」を読んで思った覚えがありますが、それはさておき、伊邪那美大神様の姿を見てびっくり仰天した伊邪那岐大神様は、あわてて黄泉の国から逃げ帰ろうとするのですが、とうとう黄泉比良坂というところで伊邪那美大神様に追いつかれてしまう。
そこで伊邪那美大神様はこう言いました。「お前の国の人間を一日に千人殺すぞ」
それに対して、伊邪那岐大神様はこう反論します。
「だったら私は、千五百の産屋を建てて、一日千五百人産んでやるからな」
これが夫婦喧嘩の起こりだと言われています。この神霊界のパターンが現実界の日常生活に反映されるから、どこの夫婦喧嘩もだいたいこういうケースが多いはずです。
男性は探究心が旺盛なものだから、ついつい奥さんの見てほしくないところを見て、触れてほしくないところに触れてしまう。それで奥さんが逆上してカーッとなって、旦那が家から逃げ出す……。
伊邪那岐大神様も、伊邪那美大神様と「殺すぞ!」「産んでやるから!」とさんざん罵り合った末に、命からがら黄泉の国から逃げ帰ることができた。
そして、「ああ、あんなのはもうこりごりだ」と思って祓いをしたら、左の目から天照大御神、右の目から月読命、鼻からは須佐之男尊様が出ていらっしゃった……..。
こういういきさつが「古事記」に書かれていて、それからの伊邪那岐大神様のことはよくわかります。ところが、それからの伊邪那美大神様となると、何も書かれていません。
天位の転換ということを「古事記」に基づいて考えるとき、それからの磐長姫様、それからの伊邪那美大神様が大事なのですが、それからの伊邪那美大神様について言えば、伊邪那美大神様はしばらく黄泉の国にいたものの、黄泉の国から帰ってきた。
このパターンは一つの隠退の段としていろいろあります。
たとえば、大本教でいっているような、国常立尊様のご隠退の段もその一つで、艮、すなわち東北の方角に国常立尊がお隠れあそばして、坤、すなわち西南の方角に姫金神の豊雲野神様が鎮もられた。
神の国はもともとエルサレムにあったのですが、東北の日本に国常立尊がお隠れになったんだ、というのが大本教の神霊界の解釈です。
それからの豊玉姫
私の恩師、植松愛子先生のところに出ておりますのは、鎮もっておられた磐長姫が帰ってくるパターンと、同じく鎮もっておられた伊邪那美大神様が帰ってくるパターンです。
それからもう一つは、豊玉姫のパターンであります。
瓊瓊杵尊様と木花開耶姫様との間に生まれたのが、海幸山幸で、あるとき山幸は兄の釣り針を失くして海辺で泣いていた。
そこに現れた神様の導きのままに海に入っていくと、豊玉姫という美人さんがいて、「うわ、きれい」と言って結婚し、豊玉姫の海の国に滞在することになった。
そして三年たったころ、山幸は海から上がって帰ってきたのですが、そのとき一緒についてきた豊玉姫は妊娠していて、海辺につくった産屋で出産することになった。
そのとき豊玉姫は山幸に釘をさした。「故郷の姿、元の姿になって産むけれど、産むところを見ちゃいやよ」
これ、伊邪那美大神様のときの話とよく似ていますが、「見ちゃいやよ」といわれた山幸も、やはり見たくなって見てしまい、腰を抜かすほどびっくりした。出産していたのはワニだったからです。
「わーっ、ワニだ!」
いったいどんな顔していたんでしょう。相当毛深かったのかわかりませんが、おそらく外国人だったのでしょう。
ちなみに、私たちが奈良の橿原神宮にお参りしたとき、植松先生が神武天皇を天眼でご覧になりました。私にも見えましたが、神武天皇は二メートル近い長身で、きれいな金髪でした。
これは外国人に違いないと思ってお尋ね申し上げたら、「ガド族だ」とおっしゃった。
日本の天皇はガド族だから“ミカド”と言うんだ、という説がユダヤ研究者の間で語られてきましたが、ご本人の霊にお尋ねしたら、やはり「そうだ」とおっしゃっていました。神武一派がガド族であることに間違いないでしょう。
まあ、ミカドという読み方が大和言葉なのかどうかはっきり知りませんが、大和言葉だったらそういう意味なのかもしれません。
それはさておき、豊玉姫が外国人の姿となって産んでいるところを見て、山幸は腰を抜かすほど驚いたのですが「見ちゃいやよ」と言ったのに見られたものだから、豊玉姫さんは「恥ずかしい」と言って産んだ子ども、すなわち鵜葺草葺不合命を残して海へ帰ってしまった。
そこに、豊玉姫の妹の玉依姫様が出てきて、「姉が産んだ子を私が育てます」と言う。そうして大きくなったお姉さんの息子と、育てた乳母の玉依姫が結婚し、生まれてきたのが神倭伊波礼毘古命。この方が神武天皇です。
ところで、海に帰った豊玉姫はそれからどうなったのか。
これについては「古事記」にはまったく書かれていませんが、このたびの仕組では天位の転換で帰ってきます。昔、「帰ってきたヨッパライ」という歌がありましたが、原点にお鎮もりになった神々が、全部帰ってくるのです。
神人合一の道が降ろされた磐梯神業
大本教に出ていたのは艮の金神、国常立神。「煎り豆に花が咲くときまで出てくるな」と押し込められた国常立神様が帰ってくるパターンです。
「煎り豆に花が咲くときまで」と言っても、煎った豆に花なんか咲くわけがありません。つまり、永遠に出てくるなという意味です。
ところが、煎ったお豆に花が咲くときがやってきましたよ、いよいよ時節が到来しましたよ、ということで出口ナオさんに国常立神がおかかりになった。明治二十五年のことです。
そういうふうに「煎り豆に花が咲くとき」がやってきて、一番最初の神様が帰ってきた。それが箱根権現にもなっていて、いま現在、仕組の中で大いに活躍されています。
そして、このたびの仕組にお出ましになったのが、磐梯に鎮まっていらっしゃった磐長姫様。磐長姫様がお出ましになったのは昭和五十二年、私どもの磐梯神業のときのことです。
先ほどもお話しいたしましたように、磐長姫様と木花開耶姫様は陰陽の関係、不即不離の関係にあるのと同様、神霊世界には富士神界と磐梯神界の二極があり、これまた不即不離の関係にあります。(参考 「日本霊界風土記 富士箱根」(たちばな出版刊))
その二つの極をがっちり固めていこうということで磐梯神界を開かれたことが、植松先生の霊的に素晴らしいところであり、また大きな功績でもありますが、富士神界の「ふ」の働き、すなわち布教していく、敷衍していくという働きを磐梯神界によって万代までもつき固めていく、この地の仕組を磐石なものにしていく、というのが磐梯神業でありまして、この磐梯で神様と人とが一つになるためのかけ橋、すなわち「神人合一の道」が降ろされたのです。
磐石な岩のうえに延べられたかけ橋、神と人を一つに結ぶかけ橋である神人合一の道が降ろされたこのとき、植松先生はたくさんのご神示を受けられました。
そのご神示は、たとえば「只今に生きる」といった、実に短い一言ではありますが、しかし、あらゆる宗教に通じるエッセンス中のエッセンスであります。と言っても、普通の人にはわからないかもしれません。
「只今に生きる」という言葉の奥に隠されているご神意を理解できる人は皆無、と言っては言い過ぎかもしれません
が、かぎりなくゼロに近いのが実情ではないでしょうか。だから私が植松先生になり代わって、あらゆるものにたとえながら延々と説明をしているわけです。
植松愛子先生との出会い笛吹童子
ところで、植松先生と私のそもそもの出会いはどのようなものであったのか。これについて少しお話しいたしますと、大本教の出口ナオと出口王仁三郎の出会いに似ております。
立正佼成会の長沼妙さんと庭野日敬さんとの出会いとはちょっと違いますが、両方とも出会う前に神様のお告げがありました。
私には「迎えに来る人がいるから」というお告げで、植松先生の場合は「笛吹き童子が来るから」というものでありました。
しかし、江戸や明治の昔ならまだしも、昭和の時代に笛吹き童子なんかいるわけがありません。ところが、その笛吹き童子がいたのです。
実は私は、大学時代から能管、つまり能楽の笛を習っておりました。「ご神業のつもりで笛を勉強しなさい」と神様から言われていたからなのですが、それはもう夢中になって笛のお稽古をしておりました。
そういう私を称して笛吹き童子と言ったのだと思いますが、植松先生を導かれている神様は、こうおっしゃったそうです。
「あなたに授けた神法を一人の人に伝えなさい。そうすれば、その人が世の中に伝えるから」
これを聞いた植松先生、「その人はいったい誰なんですか。誰に伝えたらいいんですか」と尋ねたところ、「笛吹き童子に伝えなさい」という返事をいただいたということです。
それは私が二十五歳のとき。体重も五十四キロで、いまよりずっと細かった。
それはどうでもいいことですが、ともかくそうやって植松先生と私の出会いがあり、植松先生の下での私の修業が始まったのです。と言っても、実質的には居候生活そのものでありました。
植松先生のお宅で始まった私の修業
植松先生のお宅にはご主人と二人のお子さんがいらっしゃいました。そのご家庭に突然、二十五歳の青年が入り込むことになったのですから、ご主人もさぞや驚かれたことと思います。
私もそれなりに戸惑いがありましたが、神様のお導きのままに、それまで勤めていた会社をやめて、「仕組のために生きるんだあ!」と思って植松先生のところにやってきたわけですから、真剣です。
会社をやめたので、当然職業はない。お金もない。もちろん地位や権力なんかあるわけありません。あるのは情熱だけでした。
「神様のご用に役立つんだ!」という一途な思い、それだけです。だから何でもやりました。あれやこれや叱られながら、掃除でも洗濯でも何でもやりました。
さっきも言ったように、神人合一の道が磐梯で降ろされたわけですが、北極老人の北極星と直に結ばれているのが磐梯。
太陽神界の富士山に対して、磐梯は北極星なのです。だから非常に厳しい。一日一日の修業は筆舌に尽くし難いほど、厳しく苦しいものでした。
考えてみましたら、植松先生のところへ来てからの十年間の厳しい修業は、磐石な巌の根をつくるためのものでした。
どうしたら神人合一の道を成就できるのかという修業を、植松先生、私をはじめ、あとから来たお弟子たちみんなが一緒になってやっていったのです。
なぜ、十年間の修業は厳しいものであったのかと言えば、眠っていた磐長姫様がお出ましになったからですが、それはとりもなおさず、万代までも続く世の中をつくっていくためであります。
これは、日本の経済面にも現れているし、世界的にも出てきています。そういう時代性も説かれているわけでありまして、当時はまだ霊能ブームとか星占いブームなど、まったくありませんでした。
ブームになったのは、仕組が大きく前進しはじめたころです。要するに、仕組の進展に合わせる形で世の中も動いているのです。
しかし、神人合一の修業に励んでいる私の存在を知っている人はほとんどいませんでした。私たちのご神業は、つまり秘密裏のうちにひたひたと、誰にも知られることがないままに進められてきたのです。
ここが原点。植松先生がゼロから始められ、神業を維持するために指輪とか着物を売りながら会得されてきた一厘です。私たちはそれを教えていただきながら勉強しているわけです。
豊玉姫と日本経済
そうして、磐長姫様がお出ましになって、世界的にも磐石なものをつくっていこうという仕組が出てきました。
大本教によって示されたパターンがさらに発展して、現代に合わせた形で出てきているわけで、神様の仕組もいよいよ完成の域に入ってきたのです。
磐梯から出てきたのは、頑固で強情なだけの磐長姫様ではありません。より正確に言うと、木花開耶姫様と一つになった磐長姫様、陰陽合体した磐長姫様であって、それまでの磐長姫様ではありません。
つまり、このたびの仕組では木花開耶姫様と磐長姫様の陰陽が合一して出てきているわけで、その分、非常に円満かつ調和がとれております。
磐梯山は食物も豊富だし、桃もブドウもみんな採れる。ササニシキもできるし、水はきれいだし、女の子の顔はまんまるだし、男性の顔も丸い。みんな桃みたいな顔をしている。それを福島県の顔と私は言っておりますが、本当に福島県の人の顔は丸く、調和がとれています。
そういう磐梯の時代がやってきた。そして、神人合一の道についていろいろと私が本で書いたりお話ししたりしているわけです。
それらはすべて、植松先生の開かれた磐梯神業という源流から発展してきたことなのです。
天位の転換というのは、そういう意味で、万代までも続いてゆくことを象徴している磐長姫がもう一度帰ってきて、磐石なものになってゆくという時代。
そしてまた、お鎮まりになっていた伊邪那美命様も、もう一度出ていらっしゃる。伊邪那美命様はいま、月光観世音菩薩として、霊を救う役割を果たされています。月光観世音菩薩は救済のときに出ていらっしゃる仏様でもあります。
さらには、鎮まっていらっしゃった豊玉姫様も帰ってきました。豊玉姫様の豊玉というのは、ワールドメイトの東京事務所がある杉並一帯を指す多摩郡、あるいは豊玉でもありますが、豊かな玉、すなわち御魂を一人また一人と渡していく働き。
要するに経済力という意味です。その豊玉姫様が帰ってきたから日本の経済がってきて、経済で世の中を立て直していかれます。
このたびの仕組は白山菊理姫様直接的には白龍神が中心になって動いて、経済で日本の国の立て替え立て直しをしているのですが、そのために豊玉姫がもう一帰ってきてお働きになる、というのが天位の転換なのです。
大本教で出ていたのは国常立尊。
原点のこの神様がもう一度帰ってきて、隅々まで立て替え立て直しをやるんだ、というのが大本教の教えの骨子なのですが、それを多くの人が天変地変がどうのこうのと曲解し、「あちこちで天変地異があるから献金しましょう」という脅しの論理でやっていった。
本当の神様の御心はそうではありません。
世の中の立て直しをしていこう、いい時代をつくっていこう、万代までも続く国をつくっていこう、霊的にも経済的にも社会的にもあらゆる面で幸せな世の中をつくっていこう、というのが本当のご神意であって、そのように神霊界も動いていっております。
ただし、いいものができても、リンゴ箱のなかに虫のついたリンゴがあると、いいリンゴまでダメになってしまうように、とかく悪しきものは伝播しやすい。
だから、悪しきものは捨ててよきものを残していこう、よきものを残さんがために悪しきものは少しずつお洗濯していこう、というのが立て替え立て直しの本来の意味なのです。
ところが、多くの人がそこを曲解して、「天変地異が起こる」「一九九九年に大変なことが起こる」というふうにマイナスの方向に喧伝している。
これは、正神界に通じていない人の言うことです(編集部注 昭和六十二年当時)。
繰り返しになりますが、本当のご神意はそんなものではありません。
いいものをつくっていきたい、神人合一した人が世の中を治めるような素晴らしき時代をつくっていきたい、素晴らしき人材を育てていきたい、というのが神様の願いであり、その神様のご計画は着々と進行中で、いまというこの時代に功を立てた人が来世、生まれ変わってきたときには、もうミロクの世になっているはずです。
というより、江戸・明治のころから比べると、いまの日本はミロクの世の一部になっていると言っていいでしょう。身分による差別もほとんどなくなっているし、経済的にも非常に豊かです。
労働者だって、細井和喜蔵の「女工哀史」のあの時代に比べると、はるかに恵まれています。十二時間労働なんていうのはあり得ないし、それどころかいまは完全週休二日制を採っているところがほとんどです。
明治維新をひな型に世界連邦政府が建設される
もっとはっきり言えば、そう遠くない将来、ミロクの世の一つのベースとなる世界連邦政府ができます。
あまり詳しい話は申し上げられませんが、世界連邦政府は日本の明治維新をひな型に建設されます。これだけは明言できます。
明治政府が樹立される前、薩摩と長州はそれぞれ軍事力を保持し、互いにいがみ合っていました。
ところが明治政府の下、版籍奉還、廃藩置県が行なわれると藩同士の対立抗争は解消して、日本は文字どおりの統一国家として生まれ変わりました。
いま、「鹿児島県と山口県が戦争をしていますねえ」なんて言ったら、「バカなこと言うな。夢でも見ているんじゃないか」と言われてしまいますが、つい百年ちょっと前は薩長両藩が矛を交えていたのです。
経済面を見ても、各藩それぞれに藩札というのがあったから、非常に煩雑でしたけれど、明治政府が成立し、通貨が一つになったことで解決されました。
この明治維新をひな型にした動きが、やがて世界に現れてきます。そして、世界連邦政府の下、それぞれの国家はシティーのような存在になり、あるのは警察権力だけ。軍事力は地上から消えてなくなります。
もちろん、通貨も一つになります。これまた夢でも見ているかのような話ですけれど、神様の構想にありますので、必ずそういう時代がやってきます。
ところで、なぜ明治維新が成功したのかと言うと、当時の指導者たちが非常なる危機感を持っていたからです。
その危機感とは言うまでもなく、日本の植民地化への恐怖です。あの当時、隣の大国・清は、アヘン戦争を契機に国土を欧米列強に次々と奪われており、その魔の手がやがて日本に伸びてくるであろうことは誰の目にも明らかでした。
このままでは危ない。維新によって新しい国をつくり、富国強兵に努めなければ日本も欧米の植民地になってしまう。
そう憂える若い志士たちが陸続として現れてきたからこそ、維新運動は大きなうねりとなって日本を席巻していったのです。
けれど、そのさなかにあっては、勤皇・佐幕を巡って国論は二つに分裂。その間隙を狙う英仏による植民地化の危機は日増しに高まっていきました。
この窮地から日本を救ったのは、西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟といった英明な人々でした。
戊辰戦争で幕府方が敗走に次ぐ敗走を重ね、次は江戸だ、江戸が攻撃されるというとき、官軍の西郷隆盛と幕府方の勝海舟、山岡鉄舟が会談し、もし、官軍が攻撃して江戸が焼け野原となったら日本は占領されるだろう、だからもう互いに矛を収めよう、江戸を無血開城しよう、ということで合意し、これを徳川慶喜も了承して退いたので、見事に無血革命が成就したのです。
考えてみれば、明治維新というのはわずか十六年間の出来事で、しかも、ほとんど血が流されていません。少しは流されましたが、フランス革命やロシア革命などの欧米の革命に比べれば皆無に等しい、と言ってよいでしょう。
それゆえ、世界史上まれに見る奇跡とまで評されているのですが、明治維新が成功したのは一にも二にも外圧です。
争いを続けていたら日本が植民地にされてしまう、滅んでしまうという危機感で薩摩も長州も手を結び、勤皇派も佐幕派も月の砂漠みたいに穏やかな心で、争うことなく国を立て直したわけです。
これをひな型とした動きがやがて世界に出てきます。
明治維新で日本が新しく生まれ変わったように、人類も世界連邦政府の下で一つにならなければ、世界が滅亡する。そういう危機が必ずやってきます。
その際、危機の元となる“外圧”の正体は何なのか。これについては機会を改めて語ってみたいと思いますが、いずれにしても、世界が一つになるように神様が追い込んでいるのです。
これは、これまでの本では書けなかったことですが、人類の未来は非常に明るい。世界連邦政府ができれば戦争の心配はないし、通貨も一つになります。
そして、世界中の学者が集まって人類の幸福の増進のために研究するわけですから、科学文明がますます発展するであろうことは疑いありません。
わずか百年で日本の国がこれほどまでの発展を遂げたように、世界も明治維新〟が成功したら、急激に素晴らしくなります。まさに、人類が求めてきたミロクの世の到来です。
いまは、そのためのターニングポイントで、江戸時代の終わりから明治、大正、昭和にかけて、天位の転換が大きく孤を描いております。
これから、さらに一段と大きなターニングポイントを迎え、維新の動乱のようにハラハラドキドキすることもありますが、神様は、血を流すことなく世界を脱皮させようとしていらっしゃる。
なるべく血を流したくない、天変地異も起こしたくない争いも起こしたくない、飢饉も飢餓も起こしたくない・・・・・・それが神様の御心なのです。
そのためには、神人合一した人が一人でも多く出てくることが肝心で、その人たちが新しい世の中をつくっていく。
あくまで立て直し。あくまで建設。あくまで新しい時代づくり。災いとか災劫が最小限でとどまるように何とかできないものかと、日々お心を砕いておられるのが神々様なのです。
一九九九年に恐ろしいことが起きるだとか、大変な世の中になるだとか、人々を脅して神様の方向に引っ張っていこうというのは、神様と距離のある人のすることであって、神人合一した人は何を考え、何をするのか。
神様の御心と同じき境地に立って、そういう災いや不幸がないように日々祈り、明治維新をひな型として新しい世界、素晴らしい世界になるその日を楽しみにしながら、それぞれの役割に徹しています。
時代の仕織人はどこに?
だから、仕組に生きる人をどこまでも大事にしていく。ただし、その人が誰かはわかりません。
たとえば、救国の志士と呼ばれる坂本龍馬にしても、二十七歳までは大酒は飲むわ、女極道はするわの、どうしようもない男でした。
ところがある日、勝海舟に会って、「君、そんなことをやってる時代じゃないんだよ。隣の中国ではアヘン戦争というのが起きて、日本の国はこういう危機に面しているのがわからないのかね」と、諭された。
それを契機に坂本龍馬はがぜん人生観を変えて、結果的にあれだけの偉業を成し、それから、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など明治を切り開いた志士たちを輩出した松下村塾も、開校期間、わずか二年あまりです。
吉田松陰が実家の小屋を改造して松下村塾を開校したのが安政三年。その三年後に松陰は処刑されており、投獄期間を含めると、実際に松陰が教えていたのはたったの二年でしかありません。
ところが、吉田松陰が激しい血潮をぶつけて書いた『講孟余話』、あれを学んだ久坂玄瑞はじめ多くの若者が奮い立ち、明治維新の原動力となったわけで、吉田松陰の感化力の偉大さは、どんなに讃えても讃えすぎることはありません。
坂本龍馬が勝海舟に接した期間もそれほど長くありません。二十七歳までいい加減な人生を生きていた龍馬があれほどのことをするとは、いったい誰が想像したでしょうか。おそらく、龍馬自身も気づいていなかったはずです。
誰が大きな仕事をやっていく人なのか、人間的に見たらわからない。だから、縁のある人がいれば、誠心誠意、真心込めて育てていく。それでもまあ、七十歳になって勝海舟に諭されるというのもどうか、という気がします。
明治維新を振り返っても、活躍した志士のほとんどが二十代、三十代の若者だから、道を志すのはやはり若いうちにかぎります。私も、若い人には、なるべくそういう志を持つ人であってほしいと思います。
千人違ってもいい。千一人目に仕組を荷う人に巡り会えればいい。一万人違ってもいい。一万一人目に巡り会えればいい。
そういうつもりで御魂返しをしたり神業をしたりしております。人それぞれに働きというものがあるわけで、それは人為的にこうなのかな、ああなのかなと考えてわかるものではありません。
神様の願いと仕組の方向性を知って、一歩また一歩と誠心誠意、真心と愛で接していって、初めて期待していなかったような素晴らしい内面性が突如として開けることがあります。
つまり、神気を受けることで眠っていた御魂が発動するわけですが、その素晴ら 90 しい御魂の持ち主は誰なのかと人為的に考えて、この人はよい、この人は役立たないといって選別するわけではありません。
また、宗教遍歴がある人がいいとはかぎらない。お金がある人がいいとはかぎらない。何らかの秀でた才能があるからいいとはかぎらない。
何の変哲もない、ごくごく普通の人がものすごい力を持っているケースが多々あります。それは本人も気づいていません。
これからの時代と仕組を背負っていく御魂を、誰も知らないところで神様が用意されているのです。
正受老人によって目覚めた白隠
本格的に白隠禅師の話をすると長くなってしまいますが、白隠禅師がどのようにして「臨済宗中興の祖」と仰がれるほどの人物になったのか。それについて少し触れておきましょう。
五百年に一人の天才と讃えられ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた白隠慧鶴。それほどまでの人だったら、さぞや若いころから悟りを開いた立派な坊さんだったのだろうと思うかもしれませんが、じつのところはさにあらず。
大した禅坊主ではありませんでした。少しばかりの悟りで「われこそは天下一」と天狗になるくらいの坊主だったのです。
その天狗の鼻を折られたのが、白隠二十四歳のときのことです。
それまで諸国を行脚していた白隠は、ある日、信濃の正受老人(恵端禅師)を尋ねました。
そして、正受老人の庵を坂の下から眺め、「こんなみすぼらしい庵に住んでいる和尚なら大したことないわ。軽く打ち破ってみせてやる」と心の中で見下しました。
白隠の鼻は、きっと雲を突き抜けるほど高くなっていたに違いありません。
そんな白隠の心の動きを坂の上からじっと見つめていた正受老人、見るからに傲岸不遜な風情で坂を登ってきた白隠を一喝したばかりか、「ええい!」とばかりに蹴落としたからたまりません、坂の下まで転がり落ちた白隠は体中血だらけ。
このとき、凡庸な人間なら「何をするか!」と怒鳴り返すか、反撃に出るでしょう。
ところが白隠、やはり並々ならぬ資質を秘めていたのでしょう、生まれて初めて偉大なる禅の気風に触れた気がしたと言って、地面に額をすりつけながら、「弟子にしてください」とお願いしたのです。
この正受老人の下で修行をしたのはわずか八ヵ月。その間、正受老人は何を教えたかと言うと、何も教えない。
ただただ、白隠の鼻を徹底的に折っただけです。そのために廊下から蹴落としたり、棒で叩いたりと、正受老人の指導は辛辣を極めたと伝えられております。
しかし、この正受老人の薫陶を受けたお蔭で、白隠の本当の修行が始まり、最終的にはあれだけの人物になっていったのです。
わが生涯の師であると白隠自身が言っているとおり、正受老人なくして白隠はなかったし、日本の臨済宗も滅び去ったかもしれません。正受老人の働きはたったそれだけ。しかし、これが一厘なのです。
それにしても、正受老人の働きは見事と言うほかありませんが、それが果たせたのも、深い境地を保ったがゆえであり、だからこそ白隠の鼻をして完膚なきまでにへし折ることができたのです。
正受老人、地位も名誉もなく、禅僧としては目立たない存在ではありましたが、悟後の修行として、信州の片田舎に庵を結んで、一人静かに畑を耕しておりました。
その正受老人なくして白隠はなかった。わずかそれだけの働きで白隠が蘇り、衰亡しかけていた日本の臨済宗が蘇った。だから、小さな働きでもいい、そのための修業を倦まず弛まず続けていくことが大切なのです。
