第3章 運が悪いと嘆いているあなたへ
身の周りで悪いことが連続して起こる
Q 僕の兄は四ヵ月前に自転車を買ったのですが、ほんの二ヵ月ぐらいで盗まれてしまいました。一ヵ月前にまた自転車を買いましたが、それも二週間ぐらいで盗まれてしまいました。
僕も一週間くらい前に自転車を盗まれ、かわりにスクーターに乗ろうとしたら、アクセルが壊れてしまいました。
このように調子が悪いときというのは、諦めるしかないのでしょうか。運の悪い状態から抜け出して、調子のいい状態に戻るにはどうしたらいいのですか。(MK/二十四歳/男)
調子が悪いと思わず感謝すること
深見:誰にでも悪いことが続けて起きるときというのはあります。そのときに大切なのは、決して運が悪いとか、調子が悪いと思わないことです。悪い、悪いという思いは、悪い現実を引き寄せます。
自転車を盗まれたのは、確かに運が悪いことでしょう。しかし、もしその自転車に乗っていたら、トラックにぶつかって大ケガをすることになっていたのかも知れません。
もちろん、そんなことは分かりませんが、そういう可能性だってあったのです。
善因善果、悪因悪果といいますが、ものごとには必ず原因と結果があります。良い行いや思いは、よい現実を引き寄せますし、悪い行いや思いは悪い現実を招き寄せます。
すぐに現実となってあらわれる場合もあれば、前世で行ったことが、今世、結果となってあらわれる場合もあります。いずれにしろ何か悪いことが起きるというのは、巡り巡って、その原因は自分自身にあるのです。
逆に言えば、自分の身に何かよくないことが起きたということは、自分が抱えこんでいる悪因縁(劫)がひとつ解消されたということです。
ですから、それは現象としては悪いことに見えても、これから良くなっていく契機でもあるわけです。
しかも、それが交通事故のような大難ではなく、自転車を盗まれたぐらいのことで済んだのですから、有り難いことなのです。神様が大難を小難に祭りかえてくれたのだと思って感謝することです。
そう思えば、運が悪いと思うようなことでも、運が良かったのだと考えることができるわけです。
また、特に悪いことが起きなくて、普通に一日が過ごせたならば、それは神様が小難を無難に祭りかえてくださったと考えることです。そう思えば、いつでも感謝の気持ちで一杯になります。
いつも「良かった良かった」と思っていれば、良いことが現実に起こるようになります。これが、明るいものの考え方、運をよくするものごとの受けとめ方なのです。

最悪の状態で関東に出て行っていいか
Q ここ二年半の間に、なぜか友人と次々と別れる羽目になってしまい、寂しく思っています。
また、最近は体調も崩してしまいました。もう、関西ではやっていけないような気がするので、関東に出ようと思うのですが、最悪の状態のまま出て行ってしまっていいのか考えてしまいます。|(M・N/女)
よい方位に動けば運命は開く
深見:運勢が変わるというのは、人間関係が変化していくということです。今まで身の周りにいた人との関係が駄目になっても、また新しい人と出会い、その人が新しい場所へ連れて行ってくれたり、今まで知らなかった情報をくれれば、自分の環境は良くなっていくわけです。
寂しいような気がするかも知れませんが、明るく前向きに考えるようにしてください。
ただ、自分の生まれた年月日によって、大地のエネルギーの流れから受ける影響というのは違ってきます。
あまり小さいことをいちいち気にしていては、社会生活ができなくなってしまいますが、これから新しい環境で人生を切り開いていこうと思うなら、信頼のおける気学の占い師に見てもらって吉方位を取ることをお勧めします。自分にとって関東が吉方位になる時期に引っ越して、出直せば、そこで新しい仕事、新しい人間関係が開いていきます。

①吉方位…自分にとって吉の効果をもたらしてくれる方角。その方角に旅行したり、引越したりすることで運勢を改善できる。気学(九星・方位学)などで鑑定する。
お盆の前になると身体の具合が悪くなる
毎年お盆の前には身体の具合が悪くなります。今年も身体がだるく頭痛に悩まされています。心では頑張ろうと自分にハッパをかけるのですが、ここ一番というところでファイトが湧かず、粘りがききません。
夢は一杯あるのに、情けない話です。自分を奮い立たせるためにはどうすればいいのでしょうか。(K.Y/女)
自分を鼓舞することを習慣づける
深見:まず救霊(救済除霊)を受けることをお勧めします。お盆の時期に必ず具合が悪くなるというのは、多分、不慮の事故で亡くなった先祖や、何らかの理由でこの世に怨みを残している先祖の霊があなたに助けを求めているのでしょう。
先祖というのは無尽蔵にいますから、全部救っていたらキリがありませんが、自分の直系の霊くらいは救霊しておいたほうが身のためです。
もう一つは荒魂を鍛えることです。
人間の魂というのは役割によって次の四つに分かれています。
①奇魂(くしみたま)… 智を司る。他の三つの魂の統括的な働きをする。
②和魂(にぎみたま)… 親、和、すなわち調和を司る。肉体では内臓を担当。
③荒魂(あらみたま)… 勇気と根性を司る。肉体では筋肉や骨格を担当。
④幸魂(さきみたま)… 愛情を司る。心の部分を担当する。
荒魂は具体的な問題を現実に成就させるために大きな働きをします。身体の役割としては筋肉や骨格に対応していますから、朝早く起きてランニングをするとか、縄跳びをするなどして筋力を鍛えることです。
荒魂が鍛えられると、オーラが剣のように強くなり、霊は恐れをなして寄って来なくなります。
しかし、すでにある程度霊にやられてしまっている場合は、そうした気力が湧いてこないでしょう。やればいいとわかっていても、そうできないから自分のことを情けなく感じるのです。
そんなときは、神様の力を借りることです。
神様にもいろいろな働きがありますが、自分を鼓舞して、活力を取り戻し元気になるには、現実界に大きな働きをする三宝荒神様が一番です。
家に三宝荒神様の社がある場合は、毎日天津祝詞(三宝荒神様のお祭りの仕方、ならびに天津祝詞奏上については拙著『大金運』(たちばな出版刊)をご参照ください)を唱えてみてください。
水をあげて、線香とロウソクを灯すと、水気と火気が合流して、神様のエネルギーがより強く顕現します。それが直接身体にパワーを与えてくれますから、身体中に活力がみなぎってきます。家に荒神様のお社がない場合は、近くの産土様にお参りをするといいでしょう。
「体調が悪くて頑張りがききません。夢はいっぱいありますから、何とか自分を奮い立たせて頑張りたいと思います。どうぞお力をお貸しください」と毎月一回お願いしてみてください。
できれば一日か十五日がいいのですが、その日にどうしても行けないときは、二~三日ずれても構いません。とにかく、一年間毎月神社にお参りすれば、必ず目に見えて元気になります。
頑張ろうと思っても、なかなか力が湧いてこないという状態を変えたいと思うなら、やはり具体的に自分の生活を変えていくしかないわけです。それには、まず毎日祝詞を奏上して神様に感謝することを習慣づけることです。
あるいは、月に一回産土神社にお参りをして、祈願、発願をすること。そうしているうちに、体操とか筋力トレーニングとか、あるいは本を読むとか、自分で自分を奮い立たせるために有効なことを自然にやれるようになって、どんどん自分が変わっていきます。

①三宝荒神… 民家の代表的な屋内神。火の神、竜の神としてまつられている。
四角い顔を丸くしたい
Q 最近、顔がやせたわけではないのですが、だんだん四角になってきたような気がします。知人にもよく言われます。これは守護霊様の顔が四角くて、それに似てきたからなのでしょうか。
それとも、母親の顔が四角いので、母方の因縁を受けやすくなってきたということなのでしょうか。どちらにしても、私は女性なので、顔が四角くなるのはあまり嬉しくありません。
できればもとの丸い顔に戻りたいのですが、守護霊様にお願いして、もとの顔に戻してもらうことはできないのでしょうか。(R・K/女)
四角いなりに美人になればよい
深見:守護霊は、前世で徳を積んだ霊で、一年三百六十五日、一日二十四時間、休むことなく私たちを背後から守ってくださっています。
一般に幼年期、青年期、壮年期というように、生涯に四~五回守護霊は交代します。その人の成長に合わせて、もっともふさわしい霊が守護にあたるわけです。
守護霊が交替すると守護霊に顔が似てくるということは確かにあります。しかし、問題は顔が四角いか丸いかということではなくて、その人なりに綺麗かどうかということなのではないでしょうか。
四角くても綺麗ならばいいじゃありませんか。丸い顔をしている人がみんな美人とは限りません。四角いなら四角いなりに美しく、人が見て感じがいいと思うような顔になる努力をすることです。
守護霊さんもせっかく四角くて綺麗な顔にしてあげようと努力しているのに、あまり丸い顔にこだわってばかりいると、目が吊り上がったり、細部の造作において、いろいろ問題が生じてくるかも知れません。
それから、あまり気にしないことです。周りの人に四角と言われて、本人も「四角いなぁ」と思うと、本人と周囲の人の想念で、ますます顔が四角くなっていきます。
「私は美しい。人が見て感じがよいと思う顔だ」と思うようにすることです。
自分のためだけではなく、人に対する愛と真心を込めてそう願えば、守護霊さんも聞いてくれます。
しかし、「四角い顔を丸い顔にしてください」というのは、愛と真心が出しにくい祈りなのではないかと思います。
どうしたら悩みを解消できるのか
Q 私は大変な悩みを持っています。どうしたら、この悩みが解消できるのでしょうか。(Y.O/五十九歳/女)
悩みを持ったまま明るく生きること
深見:悩みの中身が書いてないので、どういう悩みなのか分かりませんが、基本的には悩みを持ったまま、明るくエネルギッシュに生きることです。
ふだん、あまり悩んだことのない人は、ちょっとしたことでも大変な悩みに感じられます。もうお亡くなりになりましたが、名古屋で農業をやってらっしゃる明るくて元気なおばあちゃんがおりました。その方には息子さんが二人いらっしゃるのですが、二人とも犯罪を犯して刑務所に入っているということでした。悩みといえば、これは大変な悩みです。これに比べれば、たいていの悩みなんてたいしたことはないものです。
悩みというのは雲のようなものです。雲の中に入ってしまうと、雲しか見えません。でも、曇っている部分が三十%ならば、残りの七十%は晴れているのです。
どんなにお天気がよくても、雲一つない晴天というのは一年に何日もありません。
それと同じように、心の中に全く悩みがないときなんて、結婚が決まったとか、子どもが学校に合格したとか、栄転が決まったという一瞬だけです。ふだんは誰でも、絶えず心のどこかに雲はかかっています。でも、雲があっても太陽が輝いていればそれでいいのです。
人にはそれぞれ色々な悩みがあります。お金の悩み、仕事の悩み、顔やスタイルの悩み、人間関係の悩み……。
しかし、悩みの種類が何であるかということよりも、悩みがその人の心の何%を占めているかということが問題なのです。
他人から見たら、よく生きていられると思うほど大変な悩みを抱えているように思える人でも、じつは若いときにもっと大きな苦労をして、これくらいは何でもないと夢と希望に燃えて生きている場合もあります。
だいたい、心の中の三十%くらいに悩みを抑えておけば、その人は幸せな状態だと言えるでしょう。
世の中には、解決できる問題と解決できない問題があります。解決できる問題は、早く解決したほうがいいのですが、解決できない問題をどうしたらいいかと考えて悩んでいる場合が多いのです。たとえば、女として生まれたら、嫁姑の問題はどちらかが死ぬまで本質的には解決しません。
解決できない問題は、とりあえず保留にしておいて、考えないようにすることです。時間がたって環境が変わると自然に解決することもあります。
解決できない問題は、解決できないと頭で解決して、解決できる問題から一つずつ解決していくことです。現実的な方法としてはそれしかないのです。
試練を乗り越えずに回避したらどうなるのか
Q 神様や守護霊様から与えられた試練を、それと知りつつ、乗り越えられずにそこから回避したら、導いてくださろうとした神様や守護霊様はどう思われるのでしょうか。
今まで、試練を乗り越えるべく、吐きながらでも行動し続けてきましたが、もうこれ以上今の状態を続けることはできません。得ることも多々ありましたが、結局は壁を越えられませんでした。口惜しくもあり、また導いてくださった方々に申し訳なく思います。
たとえ、マイナスからの出発となっても、今の環境を一度すべて壊して、明るく前向きな気持ちで生活がしたいのです。
神仏だけでなく、世間一般の目から見ても、勝手なやつと思われるに違いありませんが、二十五歳からの十年間は「修身斉家、治国平天下」のための修身の期間として、自分のやりたいように自分を錬磨していきたいと思っています。
しかし、今の状態にいることを喜んでいる人たちや両親、そして何より導いてくださった方々に対し、申し訳なく思っています。その方々がどう思うのか教えてください。(Y.K/二十五歳/男)
焦らず努力を積み重ねていけば必ず壁は越えられる
深見:二十五歳というのは、男性の厄年のひとつです。厄年というのは、それまでの劫が一気に吹き出してくる時期です。
男性の場合、特に、四十二歳やその前後に大きな社会的な問題で苦しんだり、病気をしたりします。しかし、逆に長い間得られなかったものがそのときに得られることも多いのです。
二十五歳というのも大変苦しむ時期ですが、その苦しみと葛藤の中から、今まで得たいと思っていたものが見出せる天の時でもあるわけです。
私も二十五歳のときに師匠の植松愛子先生との出会いがありましたが、本当に大変な時期でした。ただ、私の場合は与えられた試練を全部乗り越えてきたと自負しています。
試練を回避して、「修身斉家、治国平天下で十年間頑張る」というのは、おかしな話です。今直面している問題を乗り越えなければ、次なる試練も多分乗り越えられないだろうと思います。
二十五歳というのは、自分の理想と現実のギャップに突き当たる時期ですし、対人関係のゴチャゴチャもいろいろ出てきます。そういうときは「すべての環境をぶち壊してやりたい」と思うものです。
試練とはいいますが、具体的にはどのようなことなのでしょうか。本人は精神的に試練と感じているかも知れませんが、客観的に見れば、別にたいしたことのない普通の日々を送っているだけということが多いものです。
自分でこうしようと決めたことが貫けずにいるだけなのではないでしょうか。
何か大きな志のためには、全てを捨てて新しい環境に身を置くことが必要なこともあります。その場合はそうするべきです。何かを得るためには、何かを捨てなければなりません。
何もないのに全てをぶち壊したいというのは、誰でも思うことです。特に結婚なんてすると、ストレスがたまって、まず旦那の顔からぶち壊したくなるようです(笑)。
子どももいい子ならばいいのですが、問題のある子だった場合は、親は本当に全てをぶち壊したくなりますが、それを乗り越えていくのが家族です。
芸術でも技術でも、何かを習得していこうとすれば、途中で必ず壁にぶつかります。その壁をジャンプして越えたときに実力が上がるわけです。
しかし、ジャンプする前というのは、悶々として全てをぶち壊したくなるような衝動にかられます。これがものごとを生み出していくときの悶絶するような葛藤です。
私も何千回も何万回もそういう思いを持ちました。しかし、その度にすべてをぶち壊していたらどうなるでしょう。
気持ちは分かりますが、これは焦りなのです。理想はあるけれども、実力がともなわないために意志が貫けないという、自分自身に対する焦りです。
そんなときは、全てをぶち壊してゼロからやり直したいと思いますが、ほとんどの場合、環境を変えてみてもまた同壁にぶちあたります。
一度壁を越える瞬間を経験した人は、次に壁にぶつかったときも、それを乗り越えることができます。一度体得すれば何度でもジャンプすることができるのです。
しかし、壁にぶつかる度にすべてをぶち壊して、違う環境へと逃げていたのでは、結局何ごとも成就できない人間になってしまいます。問題は最初の壁をどう越えるかです。
はじめて壁にぶちあたったときというのは、身も世もないほどの大問題のように感じられるものです。はじめは誰でもそうです。
これは、語学の壁でも、絵画や書道や音楽などの芸術の壁でも、あるいは人間関係の壁でも同じことです。
悶々としながらも、焦らず急がず、一つずつものごとを積み重ねていくことです。爆発しそうな気持ちを抑えて続けていけば、必ずパーンと越えるときが来ます。
その瞬間に、神様や守護霊様の存在を実感するのです。
人間関係の壁を越えろ!
別々の価値観をもっている人間が一緒に何かをするときというのは、最初のうちは自分にない魅力を相手に感じるものですが、だんだん距離が近づいてくると、お互いの欠点が大きく見えてきます。
お月様は遠くから見ると綺麗ですが、近くから見ると、クレータだらけです。空気も水もない埃と塵のボコボコの固まりというのが月の実体です。人間の実体というのも、それと同じことなのです。
その上でなお、他人を理解して包容して愛そうとすること。それが人と人との付き合いです。他人は決して自分と同じようには考えないし、期待するようには動いてくれません。
これは、夫婦でも兄弟でも会社でも、あるいは御神業のグループでも同じです。
人間関係がうまくいかないと、ストレスがたまって、すべての環境を破壊したくなります。その気持ちは分かりますが、どんな人でもそれを乗り越えて、本当の愛や包容力、忍耐力をつけていくのです。
それが人間として成長していくプロセスであり、大人になるということです。
二十代というのは、理想と希望に燃えて、自分の思う正義がすみずみまで行き渡るべきだと考える時期です。
三十代になると、上司や先輩を立て、部下を使い、同僚と仲よくやっていかなければ社会的な責任が果たせなくなっていきます。そこで、片目をつぶることを覚えます。
人に対して完璧を求めず、しかたないと思うところは見ないようにするわけです。
四十代になると、これが抵抗なくできるようになります。片目をつぶるべきときはつぶり、ときには両目をつぶったふりをしながら薄目をあけて見ていたり・・・。
しかし、開くべきときには、両目をカッと開いて自分の意見を堂々と言えるようになります。
押すべきときにはガーンと押して、引くべきときにはサッと引く、そして何もしないときには何もせずにボーッとしている。
この調整が効くようになるのが四十代です。そうして、はじめて社会で本当の実力を発揮して、活躍できるようになるわけです。これが、年代とともに脱皮していかなくてはならない人間関係のポイントです。
道を志す人間の四つの戒め「矜・燥・偏・急」
道を習得して行こうという人間には、戒めなければならないことがあります。それは「矜燥偏急」の四つだと神様は指摘しています。「矜」は、奥深い部分にある内的な驕慢の意味で、心の深い部分にある奢りです。
「燦」はあせりです。「焦り」というのは肉体的な次元に近いあせりですが、「燥」は、もっと内的に深い部分のあせりです。「偏」は偏った物の見方。そして、「急」は急ぐことです。
若い人は、春の樹木のようにエネルギーに満ちあふれていますから、急いでよくなりたいと思います。しかし、バランスよく物事を見ずに、偏った見方をしています。
偏った見方になるのは、燥りがあるからです。なぜ燥るのかというと、内的に深い部分に心の奢りがあるからなのです。
つまり、急いで良くなりたいというのは、結局は心の奥に芽生えている傲慢さから来ているのです。
逆に言えば、心に驕慢、傲慢なところがあるから燥って、偏ったことを急いでやろうとするのです。焦らず急がないということは、自分の傲慢な部分を払拭して、素直な誠の状態に心を戻すということなのです。
知識と経験を積み重ねて、信用と人脈と財力が少しずつ出来上がっていって、社会的な実力となっていくわけです。
発想とひらめきは、年を取ると鈍くなりますが、ただ無駄に意味もなく年を取るわけではありません。人間としても成熟して、社会的な実力をつけて、はじめて自分の理想や神なるものの御心を成就させることができるのです。
十年間を「修身斉家、治国平天下」のための修養期間にしたい、ということですが、今できない人間が後でできるわけはありません。
己を修めるとは、驕燥偏急を戒めることです。急いでよくなりたい、早く立派になりたいという心を抑えて、黙々と忍耐と努力と精進の毎日を続けるということなのです。これが一番大変なことです。
目標を定め、発願をしたら、焦らず急がず、どんな劣悪な環境にあっても、それを神様の試練と受けとめることです。解決しなくてもいいのです。ただ忍耐することです。
全部をぶち壊して、火をつけて自分も死にたいというような気持ちに襲われながらも、ひたすら耐えて道を貫くことです。
それが、本当の男らしさだし、本当の勇気だし、本当の慈悲だし、本当の信仰心です。信仰心とは、貫き通す精神のことに他ならないのです。修養の成果とは、そこにあるのです。
人からボロクソに言われても、魯のごとく愚のごとく、五年、十年と黙々と精進努力を続けていけば、必ず大輪の花を咲かすことができます。
大いなる道を体得し、どんな事も成し遂げられるような人物になれます。それができた若者だけが大成するのです。

