親鸞と日蓮は、どちらが過激か?
今回の関西定例セミナーは当初、大阪のフェスティバルホールで行う予定でしたが、急遽変更になり、浄土真宗さんのこのM会館をお借りして行うことになりました。
ここは本来、浄土真宗以外の宗教活動はよろしくないというお話でした。そこを曲げて使用を許可してくださったわけで、浄土真宗の関係者の皆さんには心から感謝申し上げます。
せっかく浄土真宗さんの会館をお借りしておりますし、これも神縁だろうと思いますので、親鸞上人の話をしてみましょうか。第一部の講義として親鸞上人のお話を少ししてみたいと思います。
親鸞上人という方は、比叡山で修行していらっしゃったわけです。その非常に素晴らしい人柄については、倉田百三さんの「出家とその弟子」を読んで感銘を受けた人も多いのではないかと思います。
私の「大天運」(たちばな出版刊)にもちちょっと書きました。
ところで、親鸞上人を理解しようとする場合、「歎異抄」から読む人がいるようですが、それはあまりお勧めできません。というのも、「歎異抄」はお弟子が傍らで書いたもので、生き生きとはしていますが、親鸞上人の素晴らしさはなかなかわからないからです。
親鸞上人のことを勉強しようと思うならやはり、親鸞自ら書かれた「教行信証」から読むべきです。
それはそれとして、私たちが考えている親鸞さんと、あの時代を生きた親鸞さんの実像とはずいぶん違っているという気がいたします。どう違うかと言いますと、極めて過激な方だったということです。
どちらかと言いますと、親鸞上人より日蓮上人のほうがずっと過激だったイメージがありますが、親鸞さんの足跡を追ってみますと、日蓮以上に親鸞さんのほうが過激だったと思います。
どのように過激だったかと言いますと、当時、僧侶は妻帯をしてはいけない戒律があったにもかかわらず、親鸞上人、あえて奥さんを持ちました。僧侶が妻帯することは要するに破戒です。
しかも、単に戒律を破っただけではなく、僧侶でも妻帯をしていいという教えを新たに打ち立てたのですから、これ以上過激な生き方はないと言っても過言ではないかもしれません。
その親鸞上人についてはいろいろな角度から見ることができますが、「道」というところから見た親鸞上人の求道心の強さは実に感動的です。書物を見ても伝記を見ても、いつも涙が出てきます。
浄土真宗のこういう会館ではなかなか聞けない親鸞さんの実像や素晴らしさを、私なりの角度で追って紹介申し上げるのも、この場所を借りておりますご縁。親鸞上人様の聖霊に対して、まさに礼をもって報いることになるのではないかと思いますので、その角度からちょっと見ていきたいと思います。
親鸞と日蓮の志
親鸞上人は非常に革命的で過激な方でした。
一方の日蓮上人も過激な方で、「どれが本当のお釈迦様の教えなのだろうか」という大きな疑問を日蓮上人はいつも抱いていました。
お釈迦様は一人なのに、比叡山もあれば高野山もある、天台宗もあれば真言宗も南都六宗もある。日蓮上人が生きた鎌倉時代後期には、南無阿弥陀仏という教えも出てきた。
「いったいどれが本当の教えなんだ」と、日蓮上人は千葉県・小湊の清澄寺で虚空蔵菩薩に必死の祈願をしました。そのご祈願が聞き受けられ、宝珠を授かったわけです。それから日蓮上人の勉強が始まり、比叡山それから高野山でも修行をし、ありとあらゆる学問を修めました。そして一切経典を読破した結果、「法華経しかない」という悟りに至ったのです。
もともと天台法華の僧であったわけですが、彼は新しい道を開いた。
日蓮上人は「どの教えが本当なのだ、真実なのだ」と疑問を抱き、「日本第一の知恵者とならしめたまえ」と発願し、あれだけ勉強した。
そればかりか、多くの宗派と公的な場であえて論争もし、神通力でも競った。日本一の知恵者になることを彼は願っていたので、そういう道を生きたわけです。
対して親鸞さんは何を目指していたのか。いろいろと葛藤していらっしゃいましたが、一言で申しますと「衆生済度」。衆生を救うということの一点で親鸞上人は願を立てていたのです。
衆生済度ということを考えますと、倉田百三さんの「出家とその弟子」にも書いてありますが、猟師さんは殺生をするから地獄界に落ちる。
すずめを撃ったり猪を捕ったりする猟師は、職業そのものが殺生だから地獄に落ちる。魚を獲る漁師の人たちもそうです。これも地獄に落ちる。
死刑執行人もダメ。殺生に関する職業に 110 就いている人は、最初から地獄行きに決まっている、と。それから、盗みをしたとか、お妾さんが何人もいる人もダメで、地獄に行く、と。
そして、地獄とはこんなにも恐ろしいところだと、源信というお坊さんが「往生要集」という書物のなかで、地獄のありさまを明確に出しています。
その一方で、「森羅万象ことごとく仏性あり、一切衆生ことごとく仏性あり」と言って、その気になればいかなる人でも救われる、と仏教は教えています。一仏乗と申します。
そのように、いかなる人も志せば救われる、仏になれるのが比叡山の最澄の教えです。親鸞さんも、いかなる人も救われなければならないはずだと考えておりました。
ところが、巷の衆生はこんなにも苦しんでいる。奥さんで悩み、子供で悩み、ありとあらゆる悩み苦しみで呻吟している。その衆生の苦しみを僧侶たちが理解できるのだろうか。
あんな山の中で学問を積み、お経を上げていても、人々の苦しみを本当に理解して救うことができるのだろうかと考えていたわけです。
私が「神界からの神通力」(たちばな出版刊)で書きました漏尽通力ですね。
衆生済度とは言うけれど、漏尽通力を発揮して本当に救済できるのだろうかと悩んでいました。
百日間の大祈願
親鸞上人には好きな女性がいたのでしょう。結婚したいと思うような女性がいたのでしょう。自分自身の葛藤も含めて、衆生済度という問題で壁に直面していた親鸞上人は、自らの道を見出せずにいたのです。
「我が行く道はいかなる道なのか」
悩みに悩んだ親鸞上人はついに比叡山を下り、聖徳太子が建立したと伝えられる京都の六角堂で百日間のお籠りをします。日本仏教の父である聖徳太子に、自分の進むべき道を教えてもらおうとしたのです。
ところが、十日、二十日と祈りつづけても何の導きもありません。やがて五十日が過ぎ、そして九十日が過ぎても霊告らしい霊告は何もありません。
しかし、天は親鸞上人を見捨てませんでした。百日のお籠りも徒労に終わろうかと思われた九十五日目の明け方、救世観音が化身した聖徳太子が現れて、「行者宿報にて、たとい女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生の間よく荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしむ」と告げたのです。要するに、
「妻帯をして、衆生救済の願いを成就しなさい。妻帯する際には、奥さんになる女性に私が神懸かって玉女になり、汝を終生導こう」
玉女玉の輿に乗るのではありませんよ(笑)。玉女になり、汝を終生導こう、と。
だから、奥さんは奥さんであっても、救世観音が奥さんに神懸かっていますから、肉欲的なこととか奥さんが欲しいなとか、そういう単純な気持ちで親鸞は言ったわけではないのです。
根源的な願望である衆生済度を成し遂げるために、「自らのなかに飛び込んでいって人々の悩み、苦しみを肌で感じたい」と願を発した。
その親鸞上人の願いに応える形で、救世観音が、「玉女の姿となって、終生汝を導こう」とおっしゃったのです。
実は、私が神様に伺ったところ、「法然上人のところへ行け。行って浄土の教えを勉強しなさい」とも、そのとき同時に親鸞上人は告げられています。
その言葉に従って親鸞上人は、法然上人のところで浄土の教えを学びます。のちに浄土真宗を開くまでになったわけですから、浄土真宗のスタートはこの六角堂のお籠りのときにあったのです。
死の予告を受けた親鸞上人
本当を言いますと、親鸞上人は六角堂で百日間のお籠りをする前にもお籠りをしています。大阪・河内の太子町にある叡福寺に、磯長の廟という聖徳太子のお墓があります。
聖徳太子とお母さまと、太子の妻の膳部大郎女という方の三人がお祀りされています。
ここには日蓮も親鸞も、そして弘法大師も、名だたる僧は誰でも一度は必ず訪れています。というのも、日本に仏教を根づかせたのは聖徳太子で、日本仏教の教主と言われる聖徳太子の霊廟を訪れるわけです。
親鸞上人はそこでお籠りをし、聖徳太子の墓前で、「我が行く道を知らしめたまえ!」とご祈願したら、二日か三日目くらいに、「汝の寿命は、あと十数年余りである」という、ものすごいお告げがありました。
そのため、親鸞上人はそれ以後、じつは死の予告との戦いに明け暮れていたのです。「自分はあと何年で死ぬのだ、それをどうやって乗り越えることができるのか」と。
衆生済度を考えていた親鸞上人は、聖徳太子さんのお墓でお籠りをしたときに死予告されました。
さぞかし驚いたでしょうね。衆生済度どころか私を済度してくださいとお願いしたい気持ちになったのではないでしょうか。一度ならず再度お願いした(笑)。
ともあれ、衆生済度、妻帯の問題、死の予告をいかに乗り越えていくのかという親鸞の苦悩があり、そういう布石があったうえで百日間のお籠りを六角堂でしたのです。
さっきも言ったように、六角堂は聖徳太子が開いたと伝えられるお寺です。その六角堂で真剣にお祈りし、寿命の問題、妻帯の問題、我が行く道、それらすべてがそのときに示されました。
別に七日目に聖徳太子が現れても、八十日目でもよかったのではないかと思いますが、九十五日目のほうが感動があります。ぎりぎりまで親鸞の求道心をご覧になって、最後の最後にお出ましになったのでしょう。
悩み事は神様に投げろ
ここに一つ、私たちが学ばなければならないことがあります。皆さんも、自分はどういう方向へ進んでいけばいいのか、自分の天命は何だろうかと考えたことがあると思います。
天命というのは自らの心君、心の奥にある心の君に宿っているもので、心の奥の自分が満足して喜びとするところが天命ですが、そう言っても具体的にわかりません。
だから、私はどういう仕事が合っていて、どういう人と結婚して、どういう人生を送ればいいのだろうかと、仕事や結婚の問題で悩んだことがあるはずです。もしかしたら、いま現在悩んでいる人もいるかもしれません。
しかし、衆生済度ということに疑問を抱き、命がけで祈った親鸞上人ほど真剣に悩んだでしょうか。「我が行く道を知らしめたまえ」と願を発して、百日間もお籠をするでしょうか。
おそらく、そこまで真剣にお祈りしたことがない人がほとんどだと思いますが、皆さんが抱えている問題点、悩み事も、百日ぐらい一生懸命に祈願すれば、必ずや解決されるはずです。
神仕組を担っていた親鸞と日蓮
私の本を読んでいらっしゃる方には、守護霊のことも天照大御神様のことも産土の神様のこともご理解いただいているのではないかと思いますが、関西で一番神仕組に動いている神は住吉さん(大阪の住吉大社)、第二番目は三輪の神様(奈良の大神神社)。
関東では箱根が一番で、第二番目が諏訪の神様。日本全国で言いますと、白山菊理姫が一番動かれている。南北朝の時代には熊野の神様がよく動かれたけれど、明治維新ではあまり動きませんでした。
神社の神様、産土の神様など、いろいろな神様がいらっしゃいますが、神仕組に関して言えば、宇佐八幡がよく動いたとき、熊野の神様がよく動いたときといった具合に、時代時代に合わせた当番制になっております。
第二次世界大戦以降のいまの時代でも、お当番が回っている神様と、単に土地を守っている産土様と二種類あります。
土地を守りながら、しかも神仕組に動いているお当番の神様は、その役割を宇宙の神(宇宙創造の主神)からいただいているのです。
では、鎌倉時代はどうだったかと言いますと、仏教にお当番が回っていた時代でした。なかでも南無阿弥陀仏の親鸞さんと南無妙法蓮華経の日蓮さんが中心になって動いていた。
そういう時代であったとお考えになればよろしいでしょう。
いま現在、神仕組に動いている神様は、関西では住吉さんが一番です。二番が三輪の神様。
これだけわかっていたら、特に関西の方はぜひとも住吉大社、あるいは三輪に詣でて祈るべきですね。
親鸞上人と同じように、百日間もやれとは言いませんが、真剣に守護霊に祈り、住吉の神様、三輪の神様、そして天照大御神に「我が行く道を知らしめたまえ」と、脳細胞がちぎれるくらいに祈りつづけていますと、必ずや神明の加護、導きがあって、明確に道が開かれるものなのです。
神仏の功徳を引き出す法則
神霊界というのは、ゆっくりと求めたら、ゆっくり返ってきます。真剣に求めたら、真剣に強く返ってきます。こちらが投げるのに合わせて返ってきます。
如来様もそうです。如来とは「如は如にして如なり。如の如く来る」。私たちの情勢と求道心に合わせていらっしゃる。
神様は無理に強制しません。だけど、求道した分だけは返してくださいます。それはもう、日本の歴史、世界の歴史を見ても明らかです。その時代その時代に合わせて、特別な使命を帯びて生まれてくる人がいますが、その方たちの前世を見ると、皆さん、それに見合うだけの修行を積んでいらっしゃいます。
たとえば大本教の出口ナオや、あるいは天理教の中山みきも、前世ではやはり、大変な修行を積んでいます。もちろん、親鸞上人もそうです。
それだけの修行を積んでいるからあれだけの咀嚼力があるわけです。咀嚼力のあるとかないとか、深いとか浅いという理由はそこにあります。
今日は、親鸞上人について講義をしていますが、親鸞上人の歴史を聞いて、「ああ、そうだったのか」だけで終わらせたらもったいないです。別に叡福寺に行けとか六角堂に行けとは申しません。
しかし、せっかく関西に住んでいらっしゃるのですから、住吉さんや三輪さん、あるいは近くの産土様でも結構ですから、日参するなり願を立てたらよいのではないでしょうか。
そうすれば、必ず返ってきます。とくに、ここ一番というときには、礼節をもって神様に願を立てることです。
これを「事分けて申さく」と言います。
「神界からの神通力」(たちばな出版刊)にも書きましたが、言葉を分けて申し上げる事柄を分けて申し上げる。
二つの意味がありますが、人生ここ一番のお願いをするときには、そのお願い一本に絞って真剣にお願いすると、神様はよく応えてくださいます。
そうではなく、たとえば、「お元気ですか。最近どうしてます?ちょっと頼みたいことがあるんだけれど、ちょっと暇があったら家に来てくれない?」
なんて友達に言ったら、「じゃあ、もし暇があったら行くわね」
「まあでも今日は忙しいからね…」
と、友達のほうもいまひとつ真剣になってくれません。
ところがですよ、スーツを着て菓子折りを持って、眼鏡なんかもっともらしく拭いて、それから散髪に行って髪をきれいに整えて、声も低音で、
「今日は折り入って、君に頼みたいことがあるんだ。ぜひ、会って欲しいんだけど」と言えば、「え?何か、ちょっと君、深刻そうじゃないの」
「うん。ぜひとも頼みがあるんだ。もしよかったら、君の家に行きたいんだけど、いつならあいている?」
「いついつあいてるけど」
「じゃあ、その時間に伺うよ」
「あ、そう。じゃあ、待ってるよ」
この前と違って、やけに今日は神妙だったなと思って家で待ってたら、一張羅のスーツを着て菓子折りを持って、眼鏡もクリーナーで拭いて、髪の毛もきれいに整えた彼がやってきたかと思ったら、神妙そうな顔して、
「折り入って、お願いがあるんだ」と、切り出してきた。
「何だ?まあ奥へ上がれよ」と、思わず友達も普段着のジーパンを穿き替えて身なりを整えてしまう。
「聞こうじゃないか。そのお願いというのはいったい何なんだ?」
「実は……一万円貸して欲しいんだ」
「なあーんだ」と。何でもいいですよ(笑)。
「じつは父親が病気なんだ。君、病院関係に知り合いが多かったよな。
ちょっと、いい病院を紹介してくれないか」というのでも構いませんが、事分けて、居住まいを正して礼節をもって、一つのことをお願いに行ったら、友達だって「うんわかった」と。
こんなに真剣に居住まいを正してきたら、普段の友人の動き方とこれは全然違います。「まあもし時間があったらお願いするよ」と言うよりも、こちらが事分けて友達に頼めば、友達も聞いてくれるし、私たちもそう来られたら、できるかぎりのことはやってやろうという気になるじゃありませんか。
弘法大師、白隠禅師に学べ
神霊界を動かすのもこれと同じです。
親鸞さんはこれが上手だったのです。上手だったと言うと変ですが、真剣なる六角堂の百日間のお籠りがあった。
その布石の叡福寺の磯長での死の予告と、求道の契機がなければ、今日の浄土真宗もありませんし、親鸞さんの歴史もありません。
私たちが悩み苦しみ、困難に遭遇したとき、果たしてこれだけ真剣にやっているでしょうか。もし、親鸞さんのようにやって神明の加護が何もなかったら、これは
もう、神も仏も存在しないということになるかもしれません。しかし歴史を見たら、親鸞さんにかぎらず、みんな必ず答えが出ています。
たとえば弘法大師もそうです。弘法大師は最初、平城京の大学の明経科というところで儒教を勉強しました。しかし、儒教は本当じゃないということで、次に老思想を勉強したけれど、これも本当じゃない。
そして、仏教に触れて、これこそ本当だと思ったものの、仏教にはいろいろな教えがあって、どれが本当かわからない。
伝教大師は伝教大師なりにやっているけれど、「どれが本当の仏教なのだ、我が人生の道を知らしめたまえ」と、弘法大師は真剣に祈って祈って祈りつづけていました。
「どれが本当の仏教の教えなんだ、私が行く道はどれが本当なんだ」と、弘法大師が祈りに祈って見つけた本が「大日経疏』だったわけです。
それから勉強をして、やっぱりこれだ、と。しかし、日本には密教の指導者がまだいない。
密教を本当に勉強するためには、唐へ渡るしかない。ということで遣唐使の一員として唐へ行き、猛勉強に次ぐ猛勉強をした結果、恵果阿闍梨から灌頂を受け、真言宗第八祖になったのです。
このように、弘法大師が密教の道へ進む大きな契機になったのは、やはり、「我が道を知らしめたまえ」と毎日毎日、必死の祈りを込めていたからです。
そこまで己を極めて祈ったから神仏が動かれたわけで、極めた分だけ不動の信念ができています。親鸞さんの不動の信念もやはり、そういうところでつくられたのです。
白隠禅師もそうです。白隠禅師は当初、地獄が怖いから地獄に落ちないようにと法華経を上げたり、座禅を組んだりといろんなことをしていました。
そして、熱湯をかけてみて、ひょっとして熱くなければ地獄に落ちても大丈夫だと思って、お湯をかけたらやっぱり熱い。
やっぱりダメだ、地獄へ行く。痛みや苦しみはお経を上げって解消しない、禅をやってもよくならない、と。それで、法華経や禅はいったん脇に置いて、文章や絵や書道のほうへ遊びをしました。
けれどもやっぱり、地獄に落ちない本当の道は何なのだと白隠禅師は悩んで悩んで、何年も悩んで、
「我が行く道を、神々よ知らしめたまえ」と祈りに祈った。彼が富士の木花咲耶姫や秋葉権現にご祈願したことは歴史に残っています。
そして白隠禅師は文書蔵に入って、「我が行く道を知らしめたまえ」と言って、目をつぶってパッと手に取った本が「禅関策進」だったのです。
その「禅関策進』にはどのようなことが書いてあるのかと言いますと、昔の禅僧の修行法について書いてあります。
たとえば座禅をして眠くなったときには、刀か短刀で膝の上を刺して、血が出て痛いというので目を覚ました。
あるいは、本を読むときに日本刀を目の前に置いた。そうすれば、眠くなってコックリコックリしたとき、刀が刺さります。そうやって、居眠りしないように勉強した。昔の人は、このように禅を極めたと「禅関策進」に書いています。
それを見て、白隠ははっと思った。法華経にしても禅にしても、ここまで自分は極めてなかった。いにしえの人が探求し努力した万分の一も自分は真剣にやっていなかった。
そう白隠は反省して、それ以後、禅宗一本で雨の日も風の日も命がけで修行し、五百年に一度の天才と言われるほどの白隠禅師になったわけです。その背景にはこういう契機があったのです。
それだけ悩んでそれだけ真剣に求めたら、あとは徹底しています。皆さんも人生の中で、自分の職業や道の問題で悩んだり苦しんだり迷ったことがあると思います。これでいいのだろうか、もっとほかの道があるのではないかと迷ったことがあるはずです。
そのとき、親鸞さんや日蓮さん、あるいは白隠禅師のように真剣に悩み、己を極めて、「我が行く道を知らしめたまえ!」と神仏に祈りを込めて乗り越えた人は、迷いがないはずです。
そこまで極めることなく、「まあ、とりあえずこんなものか」と中途半端にお茶を濁していたら結局、迷いばかりが多い人生になってしまいます。
