入門 先祖供養(Vol.3)

なぜ家の宗派が決まっているのか?

なぜ宗派ごとに本尊やしきたりがいろいろ違うのか。あるいは、なぜ自分で選んだわ けではないのに家の宗派が決まっているのか疑問に感じている方もいらっしゃると思います。

ここで、簡単にその問題を考えてみることにしましょう。

仏教はもとよりお釈迦様が説いた教えですが、朝鮮半島を経て日本に伝わったのは六世紀中頃のことです。

これを積極的に国策に取り入れて保護したのは皆さんご存じの聖徳太子でした。その後、奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教と数多くの宗門宗派が生まれましたが、日本の仏教はもとをたどれば聖徳太子に行き着きます。

ですから、太子が建立した法隆寺は、現在でも宗門宗派を超えた信仰の場となっているわけです。

その後、さまざまな時代の移り変わりの中で、その時代の衆生救済にふさわしい教えが説かれてきました。

どの宗派の開祖、あるいは中興の祖と呼ばれる高僧も例外なく高い霊格を持ち、衆生救済の道に命を捧げた素晴らしい方々です。

また、その教えもそれぞれに素晴らしい。そして、現在まで受け継がれているしきたりも、実はそれぞれの教えに通じる根拠のあるものなのです。

しかしながら、日本全国隅々まで、庶民の誰もが仏教徒としての意識を持つようになったのは江戸時代に入ってからです。

浄土真宗などいくつかの宗派は独自の信徒集団を作っていった経緯があるものの、全ての民衆を寺院に帰属させたのは、徳川時代の宗教政策によるものと言っていいでしょう。

その発端は、新しい外来宗教であるキリスト教に対抗するためでした。

幕府が鎖国政策のもとに徹底してキリスト教徒を排除したことは有名ですが、これにともなって全国の寺院が幕府による統治の末端機関として戸籍(宗門改人別帳)を管理することになったのです。

つまり、すべての国民はそれぞれの宗教的な自覚とは無関係に、いずれかの宗派の寺院の信徒となることが義務付けられ、なかば自動的に登録されることになりました。すなわちこれが「家の宗教」の誕生です。

現在においても、大方の日本人は「家の宗教」については、ほとんど無自覚ですが、実は先祖も「家の宗教」について、私たちとほぼ同じようなとらえ方をしていたわけです。

しかしながら、その形式に則って連綿と先祖を供養する風習が伝えられてきました。です

から、個人の信仰とは関係なく、先祖を供養する場合は、ある程度「家の宗教」の方式に従ったほうがいいということになります。

しかし、形だけを真似して厳密にしきたりを守ることにあまり意味はありません。少なくとも供養ということに関していえば、線香の数が一本多かったからといって怒り出す先祖はあまりいません。

大事なのは子孫の気持ちなのです。

もし、「家の宗教」にこだわるならば、自分と縁のある聖人の生き方に学び、その教えを深く理解しようとすることのほうがよほど大事なのではないでしょうか。

御霊入れは必要か?

話を仏壇に戻しましょう。

「仏壇を購入したんですけど、お寺さんを呼んで御霊を入れてもらったほうがいいでしょうか」という質問をよく受けます。仏壇店で勧められることもあるかもしれません。

一般には仏壇を購入した際、檀那寺のお坊さん、あるいは近くの同じ宗派のお寺を檀那寺から紹介してもらい法要をしてもらいます。こうした習わしは「おしょうね入れ」 「魂入れ」「入魂式」「開眼供養」と呼ばれ、もともとの仏教の意味からすれば非常に大切な意味を持つ儀式です。

考え方によっては年忌法要よりも大事な儀式ということもできるでしょう。

しかしながら、神霊的な側面から見ると、これがいいことか悪いことかは一概には言えません。というのは、率直に言わせてもらえば、法要をされるお坊さんの質にかかわっているからです。

もちろん現在でも、高い志を持って修業を積んだ霊格の高いお坊さんもいらっしゃいます。

そういう方に法要をしていただけば、これは意味のあることです。ところが問題は、必ずしもそうした立派な方ばかりとは限らないということです。

現在の仏教界を批判することは主旨ではありませんが、残念ながら宗教人としては首を傾げたくなるようなお坊さんもいることは確かです。

さしたる修業を積んだわけでもなく親の寺と檀家を世襲して、もっぱらお金儲けのことばかり考えている人も少なくないわけです。

極端なケースでは、「お布施が少ないと亡くなった方が霊界で苦しみますよ」と遺族を脅迫するようなお坊さんもいるようですが、端的にいえば、タヌキ(動物霊)つきのお坊さんです。

そういう方に「おしょうね入れ」をしていただくと「タヌキつきの仏壇」になってしまいます(動物霊については、深見東州著 「神界からの神通力」たちばな出版刊〉に詳述)。その結果、先祖にとっては非常に居心地の悪いものになってしまうケースが少なくないのです。

それよりも子孫が礼を尽くし、真心のこもった言葉で「ご先祖様、どうかこの仏壇にいらしてください。位牌にお降りください」と敬虔な気持ちで丁寧におことわりをしたほうがよほど確実です。

仏壇とお墓どっちが先?

「おばあちゃんはお墓と仏壇、どっちにいるの?」というコマーシャルがありましたが、人間は死後、位牌の中に入るわけでもお墓の中に入るわけでもありません。

位牌というのは木の札ですし、お墓に入るのは骨だけで、 霊魂は霊界に行っているのです。ただ、子孫が「ご先祖様」と思って拝むから、位牌や 5 お墓に先祖の霊が降りてくるのです。

「位牌もお墓も霊が降りてくる神籬(注2)なのです。先祖を敬う子孫の想念が凝結して、はじめてその神籬に先祖の霊が降りてくるというのが神霊界のメカニズムです。

注2…古代、神霊が宿るとされた森山老木の回りに常磐木を植え、玉垣を巡らした所。のち、それに似せて室内や庭に作り、神の宿る神聖な所とする。

位牌やお墓に先祖の霊が降りてくる。先祖が降りてくる割合としては、位牌が七〇%、お墓が三〇%といったところです」と深見氏は述べています。

最近では、地方から都市部に出てきて家庭を持った方の中には、お墓も仏壇もないという家が増えています。

もちろん郷里に帰れば先祖代々のお墓はあるわけですが、とりわけ次男、三男の方の場合、傍系ということになりますから「○○家」という意識も薄く、ふだんは先祖のことに気を向けることは少ないようです。

さて、そのような家でどなたかお亡くなりになって、お墓と仏壇を買う必要が出てきたとしましょう。

こんな場合、どちらを先に買ったらいいのかというと、経済的に両方買う余裕がない場合は、まず仏壇を購入するのがよいでしょう。

お墓と仏壇、もちろん、どちらも大切ですが、お墓の場合は檀那寺にお骨を預けておくこともできます。

お墓を選ぶというのは非常に手間と時間のかかる作業ですから、とにかくまずは仏壇を整えて故人を安心させてあげることです。

お飾りと仏具

お墓については、第3章でより詳しいお話をしたいと思います。

仏壇を求める際、仏壇店で合わせていくつかの仏具を購入するのが普通です。また、お飾りを勧められることもあるかもしれません。

「お飾り」とは仏壇を美しく立派に見せるための装飾品で、輪燈や瓔珞、金欄の水引や垂れ幕などが代表的なものです。

確かに、ある程度の大きさの仏壇の場合は多少の飾り付け(専門用語で「荘厳」と言います)をしないと寂しい感じがしますが、小型の仏壇の場合は特に必要ないでしょう。

もちろん、やっていただいても構いませんが、あまり派手に飾り立てる必要はないと思います。

一方の仏具は、ある程度のものは必ず必要です。これもさまざまな種類がありますが、ここでは供養をするのに必要な最低限のものについて説明しておくことにしましょう。

①燭台(ろうそく立て)
正式には一対でお飾りしますが、中型までの仏壇なら一つでも構いません。なお、仏教では灯明は智恵をあらわすものとされています。

②香炉(線香立て)
香を焚く器です。葬儀の時は抹香を用いますが、日常的な供養では香炉灰を入れて線香を供えるのが一般的です。

③花立(花瓶)
仏壇に置く花瓶は独特の形をしていますが、これはインドで香水を入れる宝瓶をかたどったものだと言われています。仏壇に花を置く際には、花は礼拝者の方向に向けることになっています。

④錀(カネ)
「リーン」という音を立てて、祈る前に打ち鳴らす仏具。一般的には二回打って勤行のはじまる合図とします。宗派によって内側を打つか外側を打つか違いますが、あまりこだわる必要はありません。

⑤仏飯器
ご先祖にご飯をお供えするための器。お供えする場合は、家の人が食べる前にするのが礼儀です。

⑥茶湯器
茶湯、水を入れてお供えします。

⑦高坏
仏前の左右に置いてお菓子や果物をお供えします。

香炉を中心に、向かって右にろうそく立て、左に花立を配するのが三具足と呼ばれる組み合わせで日常的にはこれで充分です。

年忌法要など特別な仏事のときは、香炉を中央に外側両側に花立を一対、内側両側にろうそく立てを一対配します。これは五具足と呼ばれています。輪は仏壇手前の右側に置きます。

仏飯器、茶湯器、高坏などは、三具足、五具足の奥に置きます。位置については、宗派によっていろいろ違いがありますが、あまり厳密にこだわる必要はないでしょう。

第2章 先祖があの世で恥をかかないために ── 間違いだらけの先祖供養

家族の思いが霊を引き戻す

供養ということを考えるときに大切なのは、ある程度霊界のメカニズムの基本を押さえるとともに、霊の気持ちを理解した上で、現実的な対処をすることです。

生きている人間の思い込みだけで勝手な判断をしてはいけないし、あまり霊に振り回されるのもよくありません。何事も大切なのはバランスなのです。

では、具体的にどの程度の供養が必要なのか。

「仏壇に毎日食事をお供えしたほうがいいでしょうか」

等の質問をよく受けますが、普通は、自分の直系の両親や祖父母、曾祖父母など三代前までのご先祖様に対して、三十三回忌までの回忌供養をし、さらにお盆の供養をすれば十分でしょう。

三十三回忌を過ぎたら特定の故人のために供養を続けるというのはやめてください。

というのは、亡くなった方が、せっかく執着を捨てて霊界で修業に励んでいるのに、子孫が供養を続けると、その思いでこの世に引き戻されてしまうからです。

「どうして死んでしまったの。あなたが生きていたら……」

家族のそんな思いが強ければ強いほど、強力な念となって霊をこの世に引き戻そうとします。すると霊のほうも未練が断ち切れず、修業に打ち込むことができなくなるわけです。

霊界というのは意志と想念の世界ですから、私たちの想いはそこに感応する力が思いのほか強いものなのです。

ですから、家族は霊に思いを向けすぎないよう自分の気持ちをコントロールする必要があります。生きている人間の思いで、霊界での修業を妨げるようなことがあってはいけない。これは供養以前の大原則です。

ですから、仏壇に向かってご先祖様に手を合わせるときも、「未練を断ち切って霊界で修業を積んでください。みんなのことは心配なさらなくて大丈夫です」と念じるべきでしょう。

そうすれば、先祖の霊に多少なりとも伝わるものがあるはずです。

そういう意味で、亡くなった方の写真を飾っておくのも考えものです。思い出はアルバムに大切にしまっておくことをお勧めします。

とにかく、日常的にあまり故人や先祖のことに思いを向けすぎないこと。それより遺徳を偲んで学び、積極的に生きていくためのバネにするような気持ちで過ごすことが何より大切です。また、それがより深い意味での本当の供養なのではないでしょうか。

命日を忘れられた霊の気持ち

しかし一方で、故人のことをしっかりと思い起こさなければならないときもあります。

一番大事なのはなんといっても命日です。特に本家や長男、また家族全員が回忌供養を忘れたりするとてきめんに影響が現れますから気を付けてください。

というのも、霊にしてみればこの日を本当に心待ちにしているからです。「せっかく十三回忌のつもりで来たのに、なぜ供養をしてくれないんだ」と怒り出す霊もいるわけです。

規則に則って許可を受けて帰ってきたときに何の用意もなければ、霊にも怒る権利があります。これも、わが身に置き換えてみると理解しやすいと思います。

たとえば、商社マンが中東のどこかの都市に転勤になったとしましょう。日中は四十五十度という暑さです。慣れない環境の中で一生懸命に仕事をしながらも、日本に残してきた家族のことが気がかりです。

そうして一年ぶりに、まとまった休みが取れました。会社から許可をもらって、旅費を出してもらって、日本に帰ってきました。

ところが、空港に着いても誰も出迎えにきていません。今日帰ることは、ちゃんと知らせてあるはずなのに、一人として迎えに来ていない。

仕方なく、電車とバスを乗り継いでわが家に帰ってみると、みんなめいめい勝手なことをやっている。「ただいま」と言っても誰も見向きもしなかったら、どんな気持ちがするでしょうか。

これが回忌供養を忘れられた霊の気持ちです。

向こうでは毎日エスニック料理ばかりで、水もまずい。久しぶりに日本に帰ってきたんだから、好物の梅じその卵巻きを用意しておいて欲しかった。備長炭で焼いた焼き鳥に、大吟醸で一杯やりたかった。

それなのに、「もう死んだんだから、供養なんか関係ないよ」

位牌はあっても放ったらかし。誰も炭火で焼き鳥を焼いてくれない。大吟醸はおろか水さえもない。これでは怒るのも当然ではないでしょうか。

「会社(霊界)から許可をもらって帰ってきたんだぞ。本当にこの日を楽しみにしてたんだ。それなのにあんまりじゃないか。俺のことを思い出してくれよ!」

必死になって子孫に訴えているのです。

こうした戒告は、子孫の体の首から上の症状となって現れることが多いのが特徴です。目がショボショボしたり、耳がキーンとなる。鼻がズルズルする。耳垂れが出る。首が凝る。ノドが痛い。

小児喘息というのも、ほとんどは何らかの先祖の戒告です。大人は平気でも、体力のない子どもに来ることが多いのが戒告の怖さです。

ですから、やはりこういう場合はきちんと供養しなければなりません。霊の気持ちを考えて、それなりの対応をすることが必要になるわけです。

回忌供養の数え方

そこで基本的なことですが、回忌供養(年忌法要)の数え方を覚えておいていただきたいと思います。

通夜~葬儀、四十九日(満中陰・忌明け)、百か日(卒哭忌)を終えて、最初に訪れる年忌・年回法要が一周忌です。つまり、亡くなってまる一年目の命日です。

そして、その翌年、まる二年目につとめるのが三回忌。ここで数え方が変わりますから注意してください。

次にまる六年目が七回忌、まる十二年目が十三回忌、まる十六年目が十七回忌、まる二十二年目が二十三回忌、まる二十六年目が二十七回忌、まる三十二年目が三十三回忌ということになります。

これはあくまで標準的なもので、地方によっては若干違いがありますが、その場合はその地域のしきたりに従ってください。

また、故人が特に生前熱心に法要を営んでいたような場合は、その考え方を尊重してあげたほうがいいでしょう。

なお、七回忌からは併修といって、複数の故人の回を併せて行っても構わないことになっています。たとえば、父親と母親の年回が一~二年の間に続くような場合は、二つの年回を一緒に行うのです。

この場合は、早く亡くなった方のほうの命日に合わせるようにしますが、この点はよく言別けて、お断りしておく必要があります。

「来年はお母さんの七回忌ですけど、今年がお父さんの二十三回忌にあたりますから、秋に併せて盛大にやりたいと思います。お待ちしていますから、どうか夫婦お揃いでいらしてください」

こんなふうに仏前で報告をしてから、準備にとりかかるようにしていただきたいと思います。親戚を呼んでの法事というのはお金もかかりますから、お母さんも納得してくださるでしょう。

ただし、年回の法要というのは、必ずしもお坊さんを呼んで大々的に執り行わなければならないというものではありません。

何よりも、残された家の者たちが故人を思う気持ちが伝わることが大切なのです。そのためには一定の形式を踏んだほうがいい場合もありますが、それが絶対というわけではありません。

ここでは細かな準備や法事の段取りについては省略しますが、一般的には、少なくとも二~三ヵ月前に所属のお寺と相談しながら準備を進めることになります。

誕生日はみんなで祝いたい

祥月命日(故人の死んだ月の命日)というのは霊にとっては特別な日です。特別な日を忘れられたらどういう気持ちになるか。たとえば結婚記念日や誕生日を大事な人が覚えてくれていなかったとしたら…。

これは霊でも生きている人間でも同じことです。

亡くなった人に対してよく「生前」という言葉を使います。「生前は故人が大変お世話になりました」とよく言いますが、考えてみるとこれは少し変です。

死ぬ前のことを指しているならば「死前」というべきではないでしょうか。「死前は大変お世話になりました」と。もちろん、そんな言葉はありませんが。

実は「生前」という言葉は、霊界から見た時間軸で表現しているのです。私たちは生まれ変わり死に変わりを繰り返しています。

つまり、この世とあの世を行ったり来たりしているわけですから、この世での死は、霊界に生まれたということになるわけです。

霊界に生まれる前はこの世で生活していたわけですから、「生前」という言葉は、まさに亡くなった霊の立場に立った表現ということになります。

別の言い方をすれば、祥月命日というのは、霊にとってみれば、霊界での誕生日ということになるわけです。だから、残された家族とはまた違った意味で、霊にとってはまさに特別な日なのです。

この祥月命日を記念して、この世では生前縁があった人たちが集まって、回忌供養が営まれるわけですが、霊にとってみれば、これはまさに自分のための誕生パーティというイメージです。

生きている私たちにあてはめてみればわかりますが、パーティというのは一人ではなかなか行きにくいものです。もと人間であったご先祖様も同様です。だから、法事のときは霊界のお友達を誘ってきたりします。

「今度、僕の十三回忌をやるんだ。いろいろお酒やご馳走が用意してあるから、ちょっと修業の手を休めて遊びに来ないかい?」

「そお。じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔するかな。僕の時も来てよね」というような具合です。

そういうときに、豪勢なご馳走が並んでいたりすると、ご先祖としては非常に鼻が高いというわけです。

そういうわけで、お供え物も豪華にして、この世の来客のみならず、あちらのお客様にも気を遣う必要があるわけです。ですから、回忌供養というのは本当に大事です。

お盆と正月の神霊的な意味

回忌供養とともに大事なのが、お盆と正月です。日本の伝統的な二大行事ですが、この期間も幽界にいる霊が、この世との交流を持つことが許されています。

お盆についてはともかく、「正月は先祖と関係ないんじゃないか」と思う方もいるかもしれませんが、本来の内”という言葉にはご先祖様を「待つ」という意味があります。

古来からの日本の民俗信仰では、先祖のそのまた先祖の大先祖が神様という考え方です。もともとはお盆も正月も祖霊祭という意味合いが大きかったのです。

ですから、故人や先祖とともに楽しく過ごす、あるいはしみじみ過ごすという態度が大事です。もちろん、仏壇は綺麗にして、後述する花や飲食などのお供えを忘れてはいけません。

お盆というのは盂蘭盆会”という仏教行事が、飛鳥時代以降インドから中国を経て日本に伝わり、伝統的な祖霊祭と結びついて現在のような形になりました。

仏教の蘭盆会〟の起源についてはいくつかの説がありますが、お盆というのは、日本古来の精神に仏教の要素が加わってできた夏の風物詩といった色合いが強いものです。したがって、霊としてもお祭り気分でかなり盛り上がっています。

夏が近づくと「体がなんとなく疲れる」「気だるい」「頭がボーッとする」「何だかやる気が出ない」というような症状が出ることがないでしょうか。

これは夏バテのせいばかりではありません。お盆が近づくにつれてさまざまな霊が動き出すので、いろいろ影響が出て来るわけです。

一般に関東では七月、関西では八月にお盆を行う風習ですが、霊界ではそう単純に分かれてはいません。亡くなった時代や地域、その他の要素が絡み合い、七月に出て来る霊もあれば八月に出て来る霊もいます。

そして八月の中頃まではおおかたの霊がウロウロしているというのが実状なのです。

だから、お盆の期間にはおいしいものをたくさんお供えして目いっぱい供養してあげましょう。

海川山野のくさぐさものを横山のごとく

さて、お供え物というのは具体的にどういう物をあげたらいいのでしょうか。肉や魚はいけないとか、生ものはいけないとか、韮やタマネギはいけないとか、いろいろ言う方もいますが、あまりとらわれる必要はないと思います。

これは別に霊界の規則でも何でもありません。単純に考えて、故人が好んで食べたものを供えるのが一番喜ぶわけです。

特に回忌供養のときは、中華でもフランス料理でも、故人が生前好んでいた料理をたくさん並べてあげるべきでしょう。

これに対してお盆のときなどは、いろいろなご先祖がいらっしゃいますから伝統的な和食にしたほうがよいかもしれません。

日常的にお供えをする場合は、仏飯は、毎朝ご飯が炊き上がったら、家のものが食べる前に仏壇に供えます。

朝お米を食べない家はパンでも構いませんが、できれば軽くトーストしてバターを塗るぐらいの心遣いはほしいものです。

そして、黙って仏壇の前に置いてくるのではなくて「どうぞお召し上がりください」と挨拶をするのは当然でしょう。

朝は忙しいと思いますが、お供えをするなら、ちゃんとろうそくを灯して、輪を鳴らして手を合わせてください。

というのも、これは単なる形式ではなく実際に、先祖に召し上がっていただくわけです。

もちろん、仏壇の前にお供えしたものがパッと消えてなくなるわけではありません。別に物質的な変化は何もないわけです。

では、いったい何をお召し上がりになるのかというと食べ物の精気なのです。

そして、ここがポイントですが「どうぞこれをお召し上がりください」と真心を込めてお供えすると、その食べ物の精気が増幅されてピカピカ光ります。それが嬉しくておいしいのです。ですから、あくまで気持ちが大切なのです。

そしてさらに面白いことに「海川山野のくさぐさものを横山のごとく」と言うと霊界ではグーンと大きくなります。

海のもの”のもの”山のもの”野のもの”を横たえるぐらいの気持ちでお供えする。そうすると、鰯の丸干しが一尾、大根の葉っぱのお漬物が一切れに、焼き海苔が一枚というお供え物でも、仏壇に入りきらないぐらいの量になるわけです。ぜひこれは実行してみてください。

お供えは二十分過ぎたら下げる

ところで、まさかとは思いますが、仏壇にお供えしたご飯が二日も三日も放置されたままカチカチに固くなっているというようなことはないでしょうか。

あまり長く置いておくとゴキブリやネズミが寄ってきて不衛生なのはもちろんですが、問題はそれだけではありません。

食べ物の匂いやわずかに残っている精気にひかれて、「なんかいい匂いがしてるけど何だろう」と関係のない浮遊霊が寄ってくるのです。

浮遊霊というのは、死んだことを自覚できずにフラフラとこの世をさまよっている霊です。霊界に旅立てなくて、霊界修業を積んでいないのですから、あまりよい霊ではありません。

別の角度から言えば、先祖霊の中にも浮遊霊はいます。しかし、ここで言う意味は、姻戚関係のない霊が家の仏壇に寄ってくるということです。

お呼びじゃないお客さんまで来てしまう。だから、お供え物はあまり長く置いておいてはいけないのです。これが度重なると、先祖のための仏壇が浮遊霊に占拠されてしまいます。

そうなると、その家にはいろいろなゴタゴタが起こるようになります。

では、どのくらいまでなら大丈夫かというと、せいぜい二十$301C三十分が限度です。

お年寄りで最近亡くなった方がいる場合など、「おばあちゃんは、いつも一時間くらいかけて食事をしていたから、ゆっくり食べさせてあげたいなあ」と思うかもしれませんが、そういう場合は事前にはっきりと「二十分だけお出ししますから、どうぞその間にお召し上がりください」と言別けてお断りしておけばいいのです。

最初のうちは「他に楽しみもないんだから食事ぐらいゆっくりさせてくれよ」と文句を言うかもしれませんが、じきに慣れます。

ただ、時間についてはあまり厳密に計るまでもなく、食事をする前にお供えをして、家族の食事が済んだら下げるということで構わないでしょう。

生きている人間が主導権を

先祖と付き合うときに心がけていただきたいのは、生きている我々のほうが主導権を握ることです。生きている私たちの日々の営みを犠牲にしてまで、四六時中ご先祖のことに思いを向けることはないのです。

ですから、自信を持って言うべきことはきちんと言う。あくまで礼儀をわきまえたうえで、こちら側の都合もはっきりと主張する態度が大事です。

たとえば、忙しくてお供えが毎日できなければ、一週間に一回でも一ヶ月に一回でも構わないのです。

ただし、それまで毎朝お供えをしていたのが、事情があってできなくなったような場合は、きちんと理由を述べてお断りすることが大切です。

「来週から私もパートで働きに出ることになりましたから、朝のお供えはちょっとカンベンしてください。夜も週一回にさせていただきます」というように毅然たる態度で、しかも、相手に納得してもらえるように気を遣いながら、言別けて申し上げてください。

このあたりの駆け引きというのが先祖とうまくやっていくためのポイントです。

生のそうめんが食べられるか

日常的な供養とは別に、人様から何か食べる物をいただいた場合、まず仏壇にお供えするということがよく行われます。

お中元というのはちょうどお盆の時期と重なっていますが、これはもともと祖霊へのお供え物として親族縁者がお土産を持参したことに由来したものです。

ただし、「中元」という言葉は、お盆の中日という意味ではなくて、太乙という天の神を祀る道教の行事から来たものです。

道教では一年を三つに区切り、一月十五日を上元、七月十五日を中元、十月十五日を下元としていますが、たまたま時期が一致したことから、「中元」という言葉が定着したようです。

さて、問題はここからです。お中元などでいただいたものを仏壇に供えるのは、本来の意味からも正しい供養ですが、だいたいの方が、いただいた包みのまま仏壇にあげているようなのです。

しかし、これもちょっと考えていただきたいのです。たとえば、三輪そうめんの箱詰そのままお供えして、ご先祖はどうやってそれを食べればいいのでしょうか。

ポリポリとそのままバタープリッツみたいに食べろというのでしょうか。

お盆の頃に、家中寝静まった後に、夜中に台所でコトコトと物音がする。なんだろうと思って見に行ったら、死んだはずのおばあちゃんが鍋で湯を沸かしていた――。

「なんて気が利かない子どもたちだろうね」とブツブツ言いながら、包みを開いて、そうめんを茹でているのです。

茹であがった麺をザルにあげて水にさらしながら、冷蔵庫を開けて、「あら、氷がまだできてないね」と。あきらめて結局、生ぬるいそうめんを食べていた。

「そういえばオフクロは三輪そうめんが好きだったもんなあ」と寝ぼけ眼で感心しながら見ていてはいけません。

生きている人間が食べられないものは、もと人間のご先祖の霊も食べられないのです。

やはり、お供えをする側がちゃんと食べられる状態にして出すのが礼儀というものでしょう。仏壇というのは、もらった物をとりあえず乗せて置く棚ではないのです。

ちょっと考えれば、あたり前だということがおわかりいただけると思いますが、こん基本的なことをやっていらっしゃらない方が実に多いのです。

「○○さんから、こんなものをいただきました」という報告の意味ならば、包装紙のまま置いてもいいのですが、それは別に供養ではありません。

報告だけして食べられる状態で出さなかったら、見せびらかしたと思われても仕方ないのではないでしょうか。

ここまで言っても、まだ勘違いされる方がいますから、もう少し細かいことを補足しておくことにしましょう。

たとえば、お祝い事を先祖に一緒に祝ってもらおうと、尾っぽのピンと張った尾頭付きの鯛を仏壇に供えても、猫じゃないのですから、そのままでは食べられないわけです。

ちゃんとお造りにして、ワサビと醤油を小皿に入れて、もちろん箸を添えてお供えする。果物もちゃんと皮を剥いて、すぐに食べられる状態にして出すことです。

箱入りのお菓子も蓋を開けるだけでなく、中の小袋や銀紙もきれいに剥いてあげてください。

ちょっとした手間ですが、その心遣いが先祖は嬉しいのです。

また、そういう形で出せば、そのまま放置しておくということもなくなるはずです。

この場合も二十分程度にしないと浮遊霊が寄ってきますから注意してください。