中有霊界で満足していいのか
天国と地獄の間にあるのが中有霊界です。あまり耳に馴染みがないかもしれませんが、実はここに行く人が最も多いのです。天国に行くのは難しいけれども、地獄というのも生半可な悪さで落ちるところではありません。
生きている間それなりにいいことも悪いこともしたという自覚の方は、だいたい中有霊界に行くと思っていただければいいでしょう。
一昔前の世論調査で「日本人の九○パーセントが中流意識を持っている」というものがありました。中有霊界というのは、現実界にたとえるなら中流階級の人が住む霊界です。
ただし、同じ中流でも上と下ではかなりの開きがあるように、生前積んだ徳と劫のてんびん秤でさまざまなランクに振り分けられることになります。
「それなら大丈夫、私はかなり上のほうに行けるんじゃないかな」と思った方も安心してはいけません。
自分では意識しないところで、案外、人を苦しめていたり、恨みを買っていたりすることがあるものなのです。
特に多数の人を心理的・肉体的・物質的に長期間にわたって苦しめた場合は、飛躍的に劫の値が加算されます。
この評価は現実界での社会的地位や成功の度合いとは、また別の基準で判断されるものです。
もちろん、大きく仕事をして世の中に益すれば、それだけたくさんの徳分を積んだことになりますが、その一方で、社会的に大きな影響力を持てば劫を犯すリスクも大きいのです。たとえば大会社の社長になれば、状況によっては何千人も一度にリストラしなければ会社が生き残れないということだってあるわけです。
これも考え方の問題になりますが、自分の守備範囲を守って、そこそこ善良な生き方をすれば大きく人に迷惑をかけることはないし、死んでも中有霊界の真ん中ぐらいには行くことはできるわけです。
しかしながら、歴史に名を残すような大きな仕事をしようと思えば、地獄に落ちる可能性もあります。極端な話、平和な世の中を作るために、愛と真心を持ちながら、やむなく戦争を起こすこともあるかもしれません。
実際、織田信長も徳川家康も一度は地獄に落ちているそうです。けれども、長い時間をかけて、そこからまた復帰しているわけです。
人は皆、生まれ変わり死に変わりを繰り返しています。ということは何度でもやり直すチャンスが与えられるということです。
今世はもちろん一度だけですが、来世も来々世も来々々世もあります。死んでいい霊界に行くことが人生の目的ではありません。少なくとも中有霊界の真ん中ぐらいで満足していては、ちょっと寂しいのではないでしょうか。
天国は最終ゴールではない!
さて、皆さんお待ちかねの天国ですが、これも大きく分けると第一天国、第二天国、第三天国と三段階に分かれています。
中有霊界のすぐ上にあるのが第三天国で、第一天国が最もランクが高く、ひと口に天国といっても、やはりいろいろな階層があるわけです。
誰でも「死んだら天国に行きたい」と願うと思いますが、もちろんそう簡単に行けるものではありません。気になる条件ですが、だいたい次のような基準とされています。
★ 第三天国・・・・・・清らかな心で、世のため人のために尽くした人。(最低一五万功の徳)
★ 第二天国信仰の道を至純にまっとうした人。(最低一五〇万功の徳)
★ 第一天国……信仰心に篤く、また現実界である程度の成功を収め、広く世のため人のために尽くした人。地位、名誉、財産といった要素も加味されるが、篤く世の中にそれを還元し、社会に善なる影響を大きく及ぼすことが必要。(最低一億五〇〇〇万功の徳)
カッコ内の功数というのは、徳分を表す目安の単位で、一功は、寝たきりのお年寄りを三日三晩徹夜で看病し、衣服や食べ物、飲み物を与えた行為に匹敵します。
これを考えると、天国に行くというのはなかなか容易なことではないことがお分かりいただけると思います。
また、天国とは少し位相の違うランクに兜率天という霊界があり、これが現世を生きた人間の霊が次の段階で行ける最高の霊界ということになります。
当然、さらにハードルは高くなりますが、ここでは詳しい説明は省略させていただきます。
ただ、ここがよく誤解されがちなところですが、どのような霊界に行くにせよそこが安住の地ということではありません。中有霊界の上のランクや天国は、もちろん素晴らしいところです。
地獄から見れば文字通り天と地の開きがありますが、それでもやはり修業の場なのです。到達した段階と次なる使命に応じた修業とがちゃんと準備されているのです。
そして、同じく現世も修業の場です。普段そんなふうに意識して生活していないかもしれませんが、それぞれのテーマに沿って、魂を磨いていくことが、この世に生を受け本当の目的なのです。
私たちは、生まれ変わり死に変わりを繰り返していますが、どの段階においても究極の目標は一つです。
そういう意味では、現在生きている人間もご先祖も変わりありません。前回いつ生を受けたかという時代の相違はあるにせよ、人も霊も皆同じ目的に向かって旅を続ける同志なのです。
この世とあの世の修業の違い
あの世もこの世も同じく修業の場。目指すところは一緒ですが、環境という面では現実界と霊界では、もちろんずいぶん隔たりがあります。
たとえば、天国などの良い霊界にいると、何処へでも行きたいところに瞬間移動もできるし、欲しいと思えばその瞬間に何でも手に入ってしまいます。
また、霊界では秩序がきちんとしていて、同じ霊層や考え方の人は同じ霊界に行くことになっています。天
国には邪まな考えで人を陥れるような人はいません。皆感謝の気持ちを持って互いを思いやりながら生活しています。従って、摩擦や葛藤が少なく、そういう意味ではなかなか修業らしい修業にはならないのです。
それに比べると、現実界ではあらゆる階層の人が、互いの主義主張をぶつけ合い、いわば玉石混淆という形で生きていますから、さまざまな矛盾や葛藤があって思い悩みます。
しかし、だからこそ、その苦しみを乗り越えることで魂が磨かれていくのです。
そして、ここが大切なところですが、私たちは、こうした困難があることを承知の上でこの世に生まれてくるのです。
大部分の方は覚えていないとは思いますが、天国にいた人は、より早く魂を磨き上げるために、また、下の霊界に行ってしまった人は、敗者復活戦のつもりで、自ら求めて生まれてきたのです。
どの霊界からでも生まれ変わることはできるのですが、条件はそれぞれ違います。これは会社の人事異動と同じと考えていただいたらわかりやすいかもしれません。
それまでの業績が会社から高い評価を得た人は、希望を言えばだいたいその通りの部署に配属されることになります。
これと同じように、天国や中有霊界の上のクラスにいた人は、どんな環境に生まれたいかという希望があれば、神様はそれを聞いてくださるわけです。
逆に、あまり評価が芳しくない社員は、希望があってもそれが受け入れられるとは限りません。本人がいくら本社の営業で頑張りたいと思っても、生産部門に回されるかもしれないし、地方に転勤になるかもわかりません。
霊界でも一般に下のほうに行けば行くほど生まれ変わるときの選択肢は狭くなります。
ただし、重要なポイントは、生まれてくる環境というのは、すべて修業の目的にふさわしいところが振り当てられるという点です。
本人の希望に沿うかどうかは別として、魂の成長のために一番ふさわしい環境が、もっと大きな見地から選ばれているのです。
そして、それがすべて因果の法則によって裏付けられているというのが、本当にすごいことなのです。
魂に刻まれた前世の記憶
霊界のランクである程度生まれるところが選択できるのと同時に、今世から来世に持ち越すことができるものもあります。
もちろん、いくらお金を貯めても豪邸を建てても、あの世までは持っていけません。社会的な地位や名誉もこの世限りのものです。
逆に、かなりの財産を残して亡くなった方が、貧乏な家庭に生まれることも結構あります。
修業というのは、その人の欠けている部分がテーマとなりますから、貧しい人の気持ちを知るために、そうした環境が選ばれる場合もあるわけです。
これに対して、今世に蓄積したものをほぼ完全な形で来世に持ち越せるものがあります。それこそ魂に刻まれた財産とも言うべきもので、具体的には、学問、芸術、信仰心の三つです。
この三つは、今世から来世に持ち越せる無形の宝だと言えます。
つまり、今世でこうした分野に秀でた人というのは、前世で一生懸命にその才能を磨いてきたということが言えるわけです。ですから、人間というのは、生まれながらにし 2 て決して平等なのではありません。
たとえば、世の中には、生まれながらにして非常に頭のいい人が確かにいます。
知的探究心が発達していて、本を読むのが好きで、親に言われなくても勉強するような子どもがたまにいますが、これは前世に相当学問を深めてきた人です。
その経験が今世に持ち越されていますから、その道の第一人者と言われるような学者というのは、最初からスタートラインが普通の人とはちょっと違うわけです。
もっとはっきりと天賦の才能が示されるのは芸術の分野です。特に音楽などでは、決定的な要素と言ってもいいでしょう。
もちろん素質だけではなく、特にクラシックの世界では、早期教育が決定的と言われていますが、興味深いのは、才能のある人はその素質が小さいうちに見いだされ、その才能を伸ばすことができるような環境の家に生まれてくるということです。
モーツァルトなどはその典型と言えます。
信仰心も同じです。誰に教えられたわけではなくとも、小さな頃から「神様が好き」「仏様が好き」という子どもがいるものですが、これも前世に積んだ修業が魂に焼きついているのでしょう。
私たちの魂は生まれ変わり死に変わりを繰り返していますが、すべてご破算でゼロからスタートするのではなく、魂の中に刻み込まれたものがあるわけです。
現世の修業は幸せになること
学問、芸術、信仰心。それぞれの道で一流の才能を発揮する人はもちろんですが、誰でも多かれ少なかれ前世の蓄積というのはあります。
人によってかなりの開きがあることは確かですが、皆無ということはありません。つまりは、それがその人の個性であり、特性であり、また生きる喜びにつながっていくものなのです。
たとえば、世の中には大きく分けると理科系の人と文科系の人がいますが、これも魂に刻まれた傾向によって自然に定まっています。
だから、理科系の人の中には、複雑な数式を何時間もかけて解くのが楽しくてたまらないという人もいるわけです。これを無理やり文科系の人にやらせると頭が痛くなってきてしまいます。
そうした自分の魂の傾向を知って、特性を伸ばしていくことは現実界での幸せをつかむうえで大切なことです。そして、それが同時に魂を磨く修業にもなっているのです。
修業には確かに劫を抹消するという側面があります。しかし、あまりそこにとらわれると暗くなってしまいますから、むしろ徳を積むことを中心に考えたほうがいいと思います。
そうは言っても難しいと思う方は、まず、自分が幸せになっていくこと、心から喜べることを追求してみてください。
それが、周囲の人をも幸せにする、さらに世のため人のためになることならば、よりベターというように考えていけばいいのです。
修業というと、滝に打たれたり断食をするなどのイメージが強いかもしれませんが、生きていくことすべてが修業なのです。
むしろ極端な難行苦行は、「行」が目的化され本来の意味から外れる場合が多いので注意が必要です。
いずれにしろ、これから先何回も生まれ変わって修業を続けていくわけですから、楽しみながら自分を開花させていく方向を目指していくべきでしょう。
それでもこの世はままならないものです。たとえばいくら才能があっても、それを発揮する機会に恵まれないというようなことも多いものです。
つまりは、そういうことが前世の徳にかかわっているということになるわけですが、現世でそれを上回る努力をし、また徳を積み重ねていけば、運命というものはどんどん改善されていきます。
おおらかな気持ちで、何事にも明るく前向きな姿勢で取り組んでいくこと。それが現世での、あるいは霊界でも、修業に取り組んでいく基本的な心構えです。
すべては縁によって生じる
このようにして私たちは生まれてきました。あるいは、いずれこのように霊界に行き、また、この世に生まれてくる。
そこで改めて、因縁ということの意味を問い直してみたいのです。
たとえば、現在、地球上に約六十六億の人間がいるわけですが、一人の人間が一生の間にかかわりを持つのは、そのうち何人ぐらいになるでしょうか。
もちろん、大きな意味でいえば同時代を生きる六十六億すべての人と何らかの形でつながっているわけですが、実際に言葉を交わし、何らかの利害関係と感情をもって接する相手となると非常に限られてきます。
実はその人たちとは、前世・過去世からの縁でつながっているのです。
「袖擦りあうも他生の縁」というのは、そういうことです。
ましてや親兄弟となると、これはかなりの深い縁です。というのも前世の果が因となり、また縁となって因果関係が続いていくのですから、縁というのは原則として切れようがないのです。
どのような才能を持って生まれ、また自分を磨いていく環境がどのように準備されているかということは、個人に焦点を当てて考えれば前世・過去世の蓄積によって決まる要素が大きいわけですが、現実界でのつながりでいえば、親の影響ということは無視できません。
これには大きく分けて二つの要素があります。一つには生まれてから自立するまで親が与えてくれる環境や援助。
もう一つは、争うことができない血筋というものです。
人間の能力、あるいは性格も含めて生まれつきのものなのか環境によって形成されるのかは、いろいろな角度から議論されていますが、いずれにしても親が子に与える影響というものが非常に大きなウエイトを占めることは間違いありません。
「蛙の子は蛙」と言いますが、子は親から背格好や顔かたち、また才能や素質も受け継ぎます。さらに親は、その親からそうしたものすべてを受け継いでいる。
それは遺伝の神秘であり、何人たりとも断ち切ることはできません。
先祖代々連綿と続く血統。 DNAに刻まれたこのシステムは、最近の科学によってかなり解明が進んできたようですが、実は私たちの血の中には、先祖が積んだ善行も犯してきた悪行も全部眠っているのです。
そのすべてが因縁です。すべては縁によって生じるわけですから、そうした縁がなければ、自分という人間は、少なくともこの世に存在しないということになるでしょう。
この世に生まれてくる限りは、誰もが自分に一番ふさわしい血筋を背負っていかなければならないのです。
別の言い方をすれば、私たちは先祖の代表選手として、今生この世に生まれてきているのです。
好むと好まざるとにかかわらず、つまりは、背中に位牌を背負っているようなものです。そういう意味で、私たちの“いのち”というのは決して自分一人のものではありません。
そう考えれば自然に先祖を敬う心が生まれてくるのではないでしょうか。
第4章 霊にとっての幸せを考える ― 供養と救霊
因縁から生じるもう一つの問題
因縁ということを考えるとき、もう一つ無視できない問題があります。たとえば地獄に落ちた先祖が一人いるとしましょう。
地獄に落ちるということは、エンマ様の厳正な裁きによってそういう判定が下されたということですから、相当な理由、つまり罪状があるということになります。
生前の行いによってそれ相当の報いを受けるのは、因果応報の理にそったものですから、言い訳は一切通用しません。
ただ、霊界のルールは厳罰主義ではありませんので、改心して真面目に地獄の刑期を務め上げれば、いずれ罪は許されます。
しかし、実は問題はそれで終わりではないのです。たとえば犯罪があったとすれば、加害者がいれば当然ながら被害者もいるわけです。
果たして犯人が厳正な裁判のもとで裁かれれば、被害者の気持ちはすべてそれで癒されるでしょうか。
結論をいえば、これは人によって受け止め方が違います。むごい仕打ちを受けながらも「罪を憎んで人を憎まず」で、慈悲の心をもって許せる人もいれば、そうではない人もいます。
そして、特に恨みが深い被害者は、自分が死んだ後もその思いを引きずる場合があるのです。文字通り、死んでも死にきれないわけです。
この場合、加害者が生きていれば、霊は直接その相手に恨みを晴らそうとします。もちろん、すでに死んで霊となった存在が、生きている人間の運命に影響を及ぼすことは霊界のルールに反することです。
しかし、それを承知で自分が味わったのと同じ苦しみを与えようとする気持ちはある程度理解できます。恨みを受けるほうも身に覚えがある
ことですから、自業自得という面があります。自分が殺した相手にたたられるのであれば、これは仕方がないのではないでしょうか。
ところが問題は、恨みを晴らそうにもその相手が死んでしまったとき、そこで諦めてしまわずに、恨みを加害者の子どもに向ける場合があるのです。
「俺がこんな目にあったのは、おまえのオヤジのせいだ」ということで、子どもに苦しみを味わわせようとする霊もいるわけです。
もし、子どもが死んでしまえば孫へ、そのまた子へと血筋をたどって代々その家を恨み、たたり続けていく。これが怨念霊、すなわち家代々のたたり霊です。
いくら子孫が供養をしても先祖の劫を抹消することはできません。そして、その劫が消えない限り、何代にもわたってその家系に生を受けた子孫が恨み続けられることになります。
供養が通用しない怨念霊
地獄から抜け出た先祖が子孫の運命に悪影響を及ぼすことはありますが、それは助けを求めて訴えている場合が大半です。
ですから、苦しんでいる先祖の気持ちを考えてきちんとした供養をすれば、根本的な解決とまでは行かなくとも、ある程度は癒されることができます。
ところで、これは怨念霊にも通用するのでしょうか。
ちょっと考えてみていただきたいと思います。
たとえば信頼していた仲間に裏切られ後ろから槍で刺されたり、友人に毒を盛られて殺されたり、身に覚えのない罪を着せられて牢屋に入れられ処刑された人に「供養をしますからすべて水に流して許してやってください」と言って通じるでしょうか。
特に封建時代の武士階級では、名誉を重んじ、また家の継続ということを非常に大切に考えていました。
自分の切腹はまだしも、あらぬ罪を着せられて家がお取り潰しになった場合など、その怨念は凄まじいものがあります。そうした背景があるからこそ、相手の家に代々たたり続ける気持ちにもなるのです。
ですから、実は名家といわれる家、長く続いている家ほど先祖代々の因縁は深いものなのです。特に武士の家系というのは、それだけ劫を積んでおり、いろいろ先祖に恨みを持つたたり霊がいると思って間違いありません。
では、ごく普通の家系なら怨念霊にたたられることはないかというと、そうとも限りません。先祖というのはたどっていけば膨大な数になるので、その中には生前いろいろ悪行を重ねたご先祖様もやはりいらっしゃるわけです。
しかも、一人の先祖を恨んでいる霊は一体とは限りません。その行いによっては何十人、何百人、あるいは何千何万という人の恨みを買っている場合だってあるわけです。
霊がもたらす障り
怨念霊にたたられるというのは、具体的にどういうことなのか。一般の方はあまりピンと来ないかもしれません。というのも、映画に出て来るような超常現象が頻繁に起こるわけではないからです。
しかし、私たちが生きていく中で出会うさまざまな不運、事故や病気、物事の行き詰まり、人間関係の不和などは、霊の影響がかなり大きいのです。
怨霊をはじめとする諸々霊が取りついた人間に与えるさまざまな悪影響を霊障といいます。すなわち霊の障りということですが、実はこれは非常に微妙です。
もっともわかりやすいのが体に現れる症状でしょう。たとえば、首が痛いとか、喉を切られるような苦しみを感じる場合、打ち首になった霊の障りである場合があります。
締め付けられるような感じがするのは、首を絞められて殺された霊。腹を引き裂くような痛みは切腹させられた霊。
背中に刺すような痛みを感じるのは、槍で後ろから刺され霊の障り。このように、霊の感じる痛みや苦しさが、そのまま憑かれた人の症状に現れるというのが、比較的単純なケースです。
怨霊というのは、死んだときの思いをそのまま引きずっています。つまり、肉体的痛みや苦しさをずっと感じ続けているのです。ですから、霊が特に相手を苦しめてやろうと意識しなくても、つかれた人間にその感覚が伝わっていくのです。
あるいはこれが病気やケガという形で、現実的な災難として降りかかることもあります。何度も同じところばかりケガをする。
また、持病を長く思うというような場合、医学的な原因もさることながら、霊が関係しているケースが少なくありません。
もう一つ大きいのが想念への影響です。やる気をなくす、気力が失せる、判断力が狂う、死にたくなる、ある種の考えに取り憑かれるようになる。そこから微妙に運命が狂わされていきます。
怨念霊のやり口として典型的な一つの例は、ある程度まで物事がうまく運ぶように仕向けておいて、あと一歩で完成というところで失敗させる。ギリギリのところで真っ逆さまに転落させるということをよくやります。
頭のいい怨念霊になると、相手を不幸のどん底に叩き落とすために、いろいろ手の込んだ仕掛けを仕向けてくるのです。
お祓いや除霊の問題点
怨霊が血脈をたどってたたるのに対して、因縁に関係なく憑依する霊もいます。
仏壇にお供え物をあげっぱなしにしていたり、供養のつもりで般若心経を唱えると浮遊霊が寄ってくるという話をしましたが、浮遊霊というのは、本人が死んだことを自覚せずにウロウロしているケースと、霊界の存在を否定しているためにあの世に旅立てないケースがあります。
また、土地や家への強い執着を持って死んだ人が、自らの想念に縛り付けられて霊界に旅立てないのが地縛霊。
これには、事故や自殺で死んだ人がその場所に縛り付けられてしまう場合もあります。こうした霊が何かのはずみに取り憑くと、気分が落ち込んだり、頭痛や体調不良のもとになることがあるのです。
この他にも、霊障をもたらす霊はいくつか種類がありますが、詳しくは巻末にあげた「大除霊」「神界からの神通力」をはじめとした深見東州氏の著作をご参照ください。
悪霊と呼ばれるものに非常に多くの種類があることに驚かされるでしょう。ただ、興味本位に知りたがるのではなく、大切なのはこうした諸々霊にいかに対処したらいいかということです。
供養で先祖の気持ちを癒すことはできますが、地獄に落ちた先祖を一般の人が自力で救済することはできません。また、その先祖を恨み、家代々子孫にたたる怨念霊に対しては何の対抗力も持ち得ない。
浮遊霊に至ってはかえって招き寄せる結果になってしまう場合もあるわけです。
結局のところ、これはとても一般の方の手に負えるような問題ではありません。やはり、餅は餅屋で、専門家に任せるしかないというのが実際のところです。
そこで、ちまたでよく行われているのがお祓いや除霊というものです。しかし、果たしてそうした方法にどれだけの効果が期待できるでしょうか。
お祓いや除霊では、霊能者が念力や気合をもって霊を祓い除きます。
確かにこうした方法でも一時的に霊は外れますが、大方の場合、しばらくすると、また戻ってもとの人に憑いてしまうのです。というのも、霊は改心も納得もしておらず、迷いや苦しみもそのままなので救われた霊界に旅立つことができないからです。
浮遊霊や地縛霊の場合は、近くにいる霊媒体質の人に憑依することもありますが、いずれにしろ問題の根本的な解決にはなりません。ではどうすればいいのでしょうか。
究極の神法-救霊
運命を狂わす霊をついた人から外し、二度と再び生きている人間に取り憑くことがないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。
それには、取り憑いている霊が納得して、霊界に旅立てるように、霊を救済すればよいのです。
救霊について、深見東州氏は、「一般に行われているお祓い(霊を祓うのみ)とは異なり、透徹した愛念と至誠をもって、救霊を受けにいらっしゃった方の幸せと障りをもたらす諸々霊の幸せを祈り続け、その際、霊の苦しみや痛みをことごとく癒し、それぞれの前世の因縁因果から神霊界の法則までをわかりやすく丁寧に説いて諭していきます。
そして、直接ご神霊に来ていただき、霊の救済(霊位向上)をするのです」と述べています。
なぜ霊を救済しなければならないのか。基本的な考え方として知っておいていただきたいのは、私たちに災いをもたらす霊(一般に悪霊・邪霊とも呼ばれています)といえども、そのほとんどはかつて生きていた人間だということです。
すなわち、本来は私たちと同じ目的をもって修業を続ける仲間なのです。そして、この世にとどまる霊には、それなりの理由があるということも知っておかなければなりません。
一般に行われている除霊というのは、こうした霊の事情あるいは気持ちというものをまったく考慮に入れていません。
一方的に霊能者が念力や気合をもって霊を祓い除くわけですが、先ほど申し上げたように、力でねじ伏せても根本的な解決にはならないわけです。
これは生きた人間同士の関係でも基本的には同じではないでしょうか。利害関係や社会的な立場があるから、しぶしぶ相手の言うことに従っても、心の底では煮え切らない思いをしていることが誰にでもあります。
霊というのはストレートにその思いだけの存在ですから、体裁など気にせず、なりふりかまわずに気持ちのまま振る舞うわけです。
したがって、そこを変えない限りどうにもならない。つまり、救われるためには、霊自身に想念を転換してもらう必要があるわけです。この説得にあたるのが、ワールドメイトの救霊師(救霊のお取り次ぎをする人)です。
しかしながら、いくら霊界の法則を説いても、強い恨みや暗い想念をもった霊は、なかなか素直に従ってくれるものではありません。そこで救霊師にとって大切なのは、霊の痛みや苦しみを身をもって受け止めてあげることです。
苦しめばそれだけ霊の気持ちがわかります。「こんな思いをして大変だっただろうな」と心底感じるから、理屈ではない愛念が湧き上がってくるのです。この愛念が湧き上がらなければ救霊に入ることはできません。
そして、次に大切なのは、傷ついた霊を心からいたわり癒してあげることです。
たとえば、水に溺れて死んだ霊なら、暖かい風呂に入れてやり、新しい着物を与え、温かい飲み物を飲ませてあげる。何かの事故で片足を失った霊なら、体を治す専門の仏様に来ていただいて、失った足を元に戻してあげるのです。
霊はすでに肉体を失った思いの存在ですから、本人の恨みや苦しみが解ければイメージの力で体は元に戻ります。そのうえで、霊界の法則、人生の本義を説いていくことによって、次第に恨みも解き放たれていきます。
場合によっては霊自身の前世を映し出す法なども使い、粘り強く説得を続けていくのです。あくまでも霊が心から納得することが前提で、最後に神仏にお願いして、霊を救済していただきます。
救霊師が霊を救うのではなく、救霊師が行うのは、あくまでも神様仏様へのお取り次ぎです。
神仏に導かれ悟りを得た霊たちは、霊層が高まり、しかるべき霊界に旅立っていきます。救霊によって救われた霊たちは、十分納得したうえで霊界へと送られますから、再びこの世に戻って人に取り憑くようなことは一切ありません。
この世への執着や未練を断ち切って、それぞれの霊界で修業を積むことこそが、霊にとっても一番幸せなことなのです。
三十年、四十年、五十年と先祖供養を続けながら、体の不調を訴えていた人が、救霊を受けたら一遍で健康になったという例はいくらでもあります。
また、家庭の不和がなくなったり、仕事の展望が開けてきたり、それまで霊によって阻まれていたさまざまな問題が解決していくのです。
霊も、また霊障を受けていた人間も、共に幸せになるのが救霊の素晴らしいところです。先祖の霊にとっては最高の供養ということができるでしょう。
開運の前提条件
救霊では霊に想念の転換を説きますが、実は一番大切なのは、私たち生きている人間の想念なのです。運ということを考えた場合でも、結局自分の運勢というのは自分で作っている場合が多いといえます。
先祖霊や怨念霊の場合は因縁をたどってくるので防ぎようがない部分がありますが、その他の邪霊は本人の想念が招き寄せることが少なくありません。
さしたる目的意識を持たずフラフラとしている人は、浮遊霊を同調して呼び込むし、ウジウジと物事に執着するタイプは地縛霊に憑依されやすい。
だいたい不成仏霊というのは、暗く悲観的な性格ですから、明るく発展的な性格の人には近寄って来ないのです。
ちょっと身の周りの人のことを思い浮かべてください。何となく運がよくツボにはまったように物事が進んでいくという人は、明るく前向きな性格ではないでしょうか。
そういう人は霊障を受けることも少なく、また、あまり人の恨みを買うようなこともないので、ますます運が開いていくのです。
もっとも、いろいろな霊に憑かれて年中体の調子が悪く、何をやってもうまくいかなければ、明るくなりようがないかもしれません。
ニワトリと卵のどっちが先かというような話になってしまいますが、いずれにしろ一度救霊を受ければ、それをきっかけに確実に運が変わり、性格も明るく前向きに変わっていくことが多い。中には本当に見違えるように変わる方もいらっしゃいます。
なぜそんなに変わるのかというと、私たちは誰でも、神仏の篤いご加護を受けているからです。本来、人間というのは明るく発展的なものなのです。しかしながら、想念が曇るとその輝きが表に現れることができません。
暗い想念の中に霊障がひそみ、神仏の加護が届かないのです。これは次章で述べる守護神、守護霊の守護に関しても言えることですが、どこからはじめたらいいかといえば、まず救霊がいいのではないでしょうか。
救霊はもちろん、いつ受けても構いませんが、特に次のような時に受けられることをお勧めします。
●先祖の供養をしたい
●開運したい
●人生の大きな節目(結婚・離婚・受験・就職・転職など)
●仕事・お金・人間関係に行き詰まってきた
●体調がさえない、やる気が出ない
●病気(自分や家族)
●よくないことばかり起きる
●お盆やお彼岸の前後
●厄年やその前後
●神仏に向かう気持ちが減退してきた
●旅行のあと具合が悪くなった・・・・・・など
本来救霊は、ご本人がお受けになるのが望ましいのですが、どうしても本人が直接受けることができないときや、ご理解のない家族、友人知人の救霊の場合には、その方のお写真でできる写真救霊(その方のマイナス霊を写真に呼び、救霊する方法)もあります。
