日蓮上人が示した霊能力
本日は、「法華経霊力の秘密法華経にはなぜ、あれほどまでの霊力が込められているのか」というテーマで、少しお話ししてみたいと思います。
生活に密着した話、生活に生かす話ということで、霊能力を活用する一つの方程式を、みなさまにお教えいたしますので、日常生活でフルに活用していただきたいと思います。
まずは、日蓮上人様の霊力についてちょっと紹介いたしましょう。
日蓮上人様にまつわるお話はいろいろありますが、霊力ということに関しまして申しますと、真言律宗のお坊さんと霊力比べをした話が有名です。
日蓮、お前は大層な通力の持ち主だそうだが、わしと通力の競争をしよう」
「よし、受けて立とう」
通力に関しては当代随一といわれる真言行者がおりまして、日蓮上人様に対決を申し込んだわけです。
「ウワーッ!」と叫ぶと同時に、巨大な岩石を空間にブワーッと上げたのです。バカでかい岩がふわふわと空間に浮かんでいる。
これを普通の人が見たら、「ウワーッ、すごい念力だ」と腰を抜かしてしまうでしょう。ところが日蓮上人様、「ほー、ふぅーん」と言うだけで、驚く素振りなどまったくありません。そして、泰然自若としたまま、
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
日蓮上人が示した霊能力と唱えますと、その岩がピタッと空間に止まった。
「今度はあなたの番だ。あの岩を地面に下ろしてごらんなさい」と、日蓮上人がその真言密教の行者にいいました。
「何をバカなことを。そんなのはいとも簡単なことじゃ」
真言密教の行者、自信満々に呪文を唱え始めました。ところが、岩は空間にピタッと止まったままで微動だにしません。
「うーむ、それならば、ガーッ、ガーッ!」と、脂汗をダラダラ出しながら、あらゆる呪文を唱えたものの、やはり効き目がありません。何度やっても、浮かんだままです。
考えてみましたら、空間に浮かんでいる岩石を地面に下ろすより、浮かんだままの状態を保つほうがずっと大変です。それでもその真言密教のお坊さんはまるで歯が立たなかったわけです。
「恐れ入りました。私の負けです」
「うん、それならばよろしい」と言って日蓮上人がもう一度、「南無妙法蓮華経」と唱えたところ、岩がすーっと落ちてきた、と。こういう話が日蓮上人様の伝記の中に残っております。
それからみなさまよくご存じなのが、竜ノ口のご法難。竜ノ口のご法難というのは、幕府に捕らえられた日蓮上人が竜ノ口、今の神奈川県藤沢市の刑場で首を刎ねられることになった。
そして、いよいよ一人の武士が日蓮上人の後ろに回り、刀を振りおろそうとしたその刹那、江ノ島の方角から光り輝く物体が飛んできて、首斬り役人が腰を抜かした。あるいは、雷がその役人の刀に落ちて、刀が三つに折れたという説などがあります。
とにかく、そのため刀を持った役人は気絶し、周囲の武士たちも恐れおののいて逃げた、というのが竜ノ口のご法難の概略です。それくらいの通力を日蓮上人は持っていたわけです。
まあ、法華経の「念彼観音力、刀尋段段壊」というやつですね。
このとき飛んできた光り輝く物体とは何なのか。毬のようなものだったとか、最近では円盤じゃないか、という人もいますけれど、竜ノ口のご法難というのはそもそも、ある人物によって画策されたものでした。
この人物も当時、日蓮上人のライバルと目されるほどの、大変な法力の持ち主でした。
ことごとく病気は治すし、人物的にも立派だった。しかしというか、だからというべきか、日蓮上人のことが癪に障ってしょうがなく、日蓮上人のことを意識しておりました。
ある旱ばつのとき、この人が雨乞いの祈願をしまして、見事に雨を降らせたことがありました。その後、もう一度日照りがつづいたので、「よし、またやるぞ」となったのですが、そのとき、日蓮上人が「しめしめ」と手紙を出した。
「もし、七日間のうちにあなたが再度、雨を降らすことができたら、私はあなたの弟子になろう。その代わり、雨が降らなかったら私の弟子になりなさい」
その行者さん、前に一度成功しているから、「何を言うか。よーし」と受けて立った。受けなければ、何十人といるお弟子たちにしめしがつかないということで、真剣に受けて立つことにしたわけです。
この行者さん、自信満々に雨乞い祈願を始めました。ところが、あにはからんや雨は一滴も降らない。
七日間やっても降らない。そこで、「延長戦をやるからちょっと待ってくれ」と、日にちを延ばしたばかりか、お弟子や諸宗の坊さんの加勢を受けて、一生懸命雨乞いをしたのです。
まあ、龍神から蛇から、すべての眷属を呼び寄せて雨乞い秘法をやったのでしょう。それでも全然降らない。
それを見た日蓮上人、「どうだ、雨は降ったかな。約束どおりわしの弟子になれ」と言ったまま喧嘩別れ。
そのとき以来、この行者は日蓮上人を怨みつづけ、日蓮上人を抹殺すべく、竜ノ口のご法難を背後から画策したのです。竜ノ口のご法難にはそういう歴史的背景があります。
蒙古来襲から日本を救った日蓮上人の霊能力
この竜ノ口のご法難のときの日蓮上人の霊力は、まさに驚異的なものがありますけれど、一番大きな霊力といわれておりますのは、何といいましても蒙古来襲のときに発揮された霊力です。
日蓮上人、第一回の蒙古来襲、すなわち文永の役の十四年も前に『立正安国論」のなかで、「幕府が法華経に改宗しなかったら外敵が日本を襲うだろう。
国内にも天変地異や混乱が起こるだろう」と予言しておりました。
そして、そのとおりに飢饉があったり、国内の政治的混乱があったわけですけれど、外敵が日本を襲うだろうという予言もまた、蒙古来襲という形で見事に的中。
「見たことか、蒙古が来襲しただろう」と、日蓮上人、見事に面目をほどこしたわけです。
ところが、ご自身はそんなことは露ほどにも思わず、何とかこの国難を救わなければと、一生懸命お経を上げておりました。
そして、神風が吹く前日、日蓮上人は墨で経文を書き、「これを博多の海に投げ入れろ」とある人に命じた。
そして、その夜、日蓮上人から命じられた人が、筥崎宮近くの海に投げ入れたところ、その翌日、神風が吹いたといわれています。まあ、龍神が働いたのでしょう。
国家が戦争に動くときには、黒龍が働きますから。あのときも、日蓮上人様の背後で黒龍が動いていたのでしょう。
筥崎宮というのは福岡にあるのですが、福岡の一宮は宗像大社です。
『船方さんよ』というのは三波春夫さんが歌った歌です(笑)。船方さんが集まるのが、宗像さんなのです。
それから、宗像コーチというのがいましたね、あの『エースをねらえ!」に(笑)。社会的にエースをねらわせてくれるのが、宗像さんなのでしょうね。
それはともかく、宗像大社は福岡県の一宮でありまして、田心姫、湍津姫、市杵嶋姫という、須佐之男命の剣から生まれた三神。これが宗像大社にお祀りされている神でありまして、そのご三神が弁天様の基になっています。
天河弁財天、江ノ島弁財天とかいろいろありますけれども、弁財天のご本地は田心姫、湍津姫、市杵嶋姫のご三神です。
剣は数を増やします。「二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、さあお立会い!」というのがありますね(笑)。あのように、剣で切ったものは数が増えます。
だから、剣は数魂を表すのです。そして、数はお金も意味します。
それは別として、福岡の一宮は宗像ですが、その近くに筥崎宮というのがあります。そこの神様が、蒙古来襲のときに日本の国を守った、といわれております。
そういう神社はたくさんあります。宇佐八幡宮の神様も蒙古来襲のときに力を貸されたと伝えられております。
筥崎宮へ行きましても、宗像大社に行きましても、あるいは、どこか東北のほうの神社に行きましても、「当神社の神様は、蒙古来襲のときに大活躍された神様である」というようなことがいっぱい書いてあります。まあ、「蒙古来襲の時に活躍しなかった神だ」とは書けないものですから(笑)。
何を根拠にいうのかわかりませんが、「蒙古来襲のときにご神力を奮われた神様だ」といわれている神社が、全国に相当数あります。
そのうちの一つの神社である筥崎宮近くの博多の海。そこに向けて日蓮上人は何日もお祈りをしたわけです。
そして墨で書いたお札を、「これを持っていけ」と。日蓮上人が何日もお祈りをして書いたお札です。その人は、夜にそれを持っ博多の海に投げた。その翌朝、神風が吹いたのです。
ですから、「蒙古来襲のときに神風を吹かせた神をお祀りしている」という神社はたくさんありますけれど、霊的には日蓮上人様が中心になっていたわけです。
まぁ天の時と地の時が相まって、満を持して神様が動かれたのでしょう。日蓮上人はそういう天の機を受けておられたのでしょう。
鎌倉時代の神仕組というのはいろいろありますけれど、霊的に国家、国難を救うというときには、日蓮上人は七〇パーセントぐらいの任を持っていらっしゃった。
その日蓮上人が一心不乱に祈ったので、天が動き、大龍王が動き、神風を吹かせた。博多の海に経文を流したその翌日、神風が吹き、蒙古の船が全部沈んだわけです。
これが歴史上に残っております日蓮上人の大霊力。まあ、さっき言いました「刀尋段段壊」だけではなく、雨を降らさないようにしたり、それから空間に浮かべた岩を、落ちないようにしたりする霊力があるわけです。
それだけのことができる人だったら、いよいよ日本の国が危ないというときに、船を沈没させるぐらいのことは、朝飯前のことだったのでしょう。
このように、日蓮上人様にはものすごい神通力、ものすごい霊力があったわけですが、日蓮上人の歴史を詳しく振り返っていたら、何日もかかってしまうので、そろそろ本題に入りましょう。
「梅に鶯、ホーホケキョ」
このように、法華経を信奉しておられる方は、日蓮上人様のものすごい神通力、ものすごい霊力で、「南無妙法蓮華経」とやって、七面山に登ったりするわけです。
日本の仏教史における日蓮上人の特色、彼の教えのポイントは、「開目鈔』『観心本尊抄』の中で明かした、「二乗作仏」と「久遠実成本仏の釈迦牟尼仏」というところにあるわけです。
化身仏である阿弥陀如来よりも、お釈迦さんと一体となっていた本仏である、「久遠実成本仏の釈迦牟尼仏」を拝むべきだと主張する信仰です。
※
それは別として、法華経にはなぜ霊的な力が秘められているのか。なぜ法華経を読経しているとあんなに霊力が出るのか。
たとえば行者さんでも、人数を見ても、密教系の行者さんか、法華経系の行者さんが多いでしょう。
日蓮宗系、法華経系の行者さんというのは本当にたくさんいます。有名な中山法華経寺では、真冬に百日間の荒行をしています。荒行の間は毎朝二時半に起床し、
三時間ごとに一日七回、寒水で身を清めます。睡眠時間は三時間足らず。食事は一日二回、それも梅干し一個に白粥だけというのですから、比叡山の千日回峰行ほどではないにしても、非常に過酷な修行です。
途中で耐えきれなくなる人がいたり、昔は途中で死ぬ人もいたそうです。
この百日の荒行を終了すると、魔を切るとされる木剣という木の札が授与されますが、法華経系の行者は、この木剣をカチカチやりながら加持祈祷をするのです。
最初に見たとき、ケン玉でもやっているのかと思ったら(笑)、木剣で魔を切っているのだというので、驚いたことを覚えております。
それはともかく、法華経の行者にはなぜ霊力があるのか。これを真剣に分析した人はあまりおりません。もし、そのポイントがわかればみなさんも守護霊にお祈りするときに応用できるし、神棚を祀っている人は、神様にお祈りするときに応用できます。
また、神社へ参拝に行ったときでも応用できます。守護霊にお祈りするときでも、神社でご祈願するときでも、これは一つの基礎になりますので、今日はぜひ覚えて帰っていただきたいと思います。
さて、法華経というのはどういうものなのか。私の師匠、植松先生はおっしゃいました。
「法華経は、梅に鶯、ホーホケキョよ」と。
花の咲いた梅の枝に鶯が止まって、「ホーホケキョ」と鳴いている。
梅は神界の教え、桜は仏界の教え
植松先生がおっしゃるには、「法華経とは、梅に鶯、ホーホケキョなのよ」ということなのですが、そう言われたところで普通の人には何のことかさっぱりわからないと思います。
ダジャレじゃないかと思っている人もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、これには非常に深い意味が含まれているのです。
まず、梅の意味についてですが、梅というのは大本教のお筆先にも、「三千世界一度に開く梅の花」とあります。
「艮の金神の世に成りたぞよ」
なんていうお筆先があります。
また、梅は天神様、すなわち菅原道真公も梅が好きでした。私も好んで梅を描きます。今日は黒板ですから描けませんけれど、紅梅も白梅も実にきれいです。
で、梅の意味ですが、梅は「神の教え、神界の教え」を象徴するものであります。
梅からは神様の教え、叡智が出てきます。それが、菅原道真公が梅を好んだ理由でそれに対して、仏様の教えを意味しているのが桜です。パッと開いてパッと散る。
桜で思い出すのが役行者。
役行者さんが開かれた吉野の大峰山。あそこにはたくさんの桜がありますが、あれは役行者さんが植えたと伝えられております。大峰山だけではありません。役行者さんが行ったところは、ことごとく桜が植えられております。大島もそうです。
役行者さん、伊豆の大島に島流しになりました。讒訴されたのです。お母さんも人質に取られました。
そして役行者さん牢屋に入れられまして、いよいよ処刑されるというそのとき、
「ちょっと待ってくれ」
「何だ?」
「死ぬ前にちょっと刀をなめさせてくれますか」
変わっていますね、刀をなめるなんて。
「死ぬ前にそれだけ頼むよ」
「じゃあ、いいだろう」ということで、役人が差し出した刀を役行者さんペロペロなめたら、刀がクニャクニャになった。「ネンピカンノンリキ、トウジンダンダンネ(念彼観音力、刀尋段段壊)」ではなく「ネンピカンノンリキ、クニャクニャネ」ですね(笑)。
それを見て、処刑をする人が驚きまして、腰を抜かしました。
「何という舌の力だ」と、驚いた役人が天皇様に報告したところ、天皇様が、「それは聖人、神人の生まれ変わりに違いない。処刑を中止しなさい」とおっしゃって、役行者さんは釈放され、同時にお母さんも釈放されたのです。
恐ろしくなって釈放された。
まあ讒訴されて、役行者は縛りつけられたわけですけど、刀がクニャクニャになったことで処刑を免れたと伝えられています。「念彼観音力、刀尋段段壊」。すごい霊力です。刀が三つに折れるか、クニャクニャになるか。
いずれにしても、島流しにされた伊豆大島には、ちゃんと桜が植えてあります。役行者さんの行ったところにはみんな桜が植えてあります。
その桜は、パッと開いてパッと散っていく。人間の心も、桜のように刻々に変化しています。その刻々に変化する心をとらえ、正しい心のあり方を教えているのが仏教であります。
だから、桜は「仏界の象徴」であり「仏教の教え」を意味しているのです。
それに対して、神界の象徴、神様の教えは、さっきも言ったように梅です。
その梅に向かって鶯が「ホーホケキョ」と鳴く。神様の教えの方、神界の教えの方に向かいまして、「梅に鶯、ホーホケキョ」。
まあ、植松先生が簡潔明瞭におっしゃって、「なるほどなあ」と思うことなんですが、神様の教え、神界の教えに向かって鶯は「ホーホケキョ」と。
この「ホー」は法でもあります。つまり鶯は、法華経の教えをもって、文字や言葉では言い表せない神界の教えに向かっている、ということであります。
文字や言葉では表現できない神界の教え、神様の教えを、人間の心や現実界に即して出されたものが法華経なのです。この鶯さんが法華経でございます。
たとえで出ているのですが、それを植松先生は、「梅に鶯、ホーホケキョ」と簡単明瞭におっしゃったわけです。
白隠禅師の悟り/span>
では、この法華経には何が書かれているのか、これについての話に移りたいと思います。その前に、白隠禅師にまつわる有名な話がありますので、それをちょっと紹介することにしましょう。
白隠禅師という方は、地獄の話を聞いて、「地獄に行くのは嫌だ、どうしたら地獄に落ちずに済むか」ということで修行された方なんですが、白隠禅師も若いころ法華経を読みました。
ところが、法華経を読み終わったあと、何と言ったかと申しますと、「法華経の教えはラッキョウの実に、さも似たり。剥けども剥けども、実はあらず」と。剥いても剥いても実体はないと言ったのですね。
ラッキョウって、たしかにそうです。剥いても剥いても中身がありません。そのラッキョウのように、法華経も中身がない。そう白隠は言ったわけです。
「法華経はありがたい、ありがたい」とみんなが言うものだから、法華経って一体どんなものなのだろうと思って勉強したわけですけれど、
「何にも値打ちはない、こんなところに真実はない」と。それで白隠禅師、いっとき法華経を捨てました。
その後、白隠禅師がもう一度、法華経を読んでみようという気になったのは四十歳を過ぎたころでありました。時あたかも秋深まりつつあるころでありまして、スズムシが、「リーン、リーン、リーン」と鳴いております。
その鳴き声のなかで白隠禅師は法華経を静かに読んでおりました。白隠禅師の吐く息と吸う息が、自然にスズムシの鳴き声と調和していく。白隠禅師、知らず知らずのうち法華経の世界に没入していきました。
すると、突然のごとく、「あっ!!!」と叫んだんです。
「ああ、そうか!」と言ったその瞬間、滂沱と涙が出てきて、それからの三日三晩は涙、涙、涙で明け暮れ、いっときとして涙の途切れることがなかったと伝えられております。
つまり、頭じゃない、知性じゃない、魂でわかったのです、白隠禅師は。
白隠禅師、「我、大悟徹底すること七度八度、小悟徹底すること枚挙に暇なし」と言っておりますが、これは大悟徹底のうちの一つですね。法華経を読んで「ああっ!!!」と思った瞬間、滂沱と涙が出てきた。
なぜ、こんなに涙が出てきたのか。それは、お釈迦様が法華経を説かれたときの境地がわかったからなんです。
もっと言いますと、お釈迦様が法華経を説かれたときと同じ境地に立って感応したから、涙が止めどもなく流れてきたわけです。魂と魂の交流。もう理屈の世界ではありません。
では、なぜ白隠禅師はお釈迦様と同じ境地に立って感応したのか。
それについて少し解説いたしますと、お釈迦様は「たとえば、たとえば、たとえば、たとえば、たとえば・・・・・・」と、あらゆる人に対して、あらゆるたとえを通して衆生を導こう、仏様の真実なる世界に導こうとされました。
それというのも深い慈悲の心があったからで、お釈迦様は身分の高い人から低い人にいたるまで、その人にあわせて「たとえば」で教えています。
白隠禅師はそこに「はっ」と気づいたわけです。
「こんなにも、たとえば、たとえば、たとえば、たとえばで道を説かれたということは、それだけ大きな慈悲があったんだ」と、それがわかったのです。理屈じゃないところでわかった。
法華経を説かれたときのお釈迦様の慈悲の大いなるところに感応して、三日間、涙が出て止まらなかった。
それ以後の白隠禅師は、本当の慈悲の心に目覚めまして、ガラッとまた大きく変わっております。
あるとき、女の人から子どもを預かりました。その母親がしばしば白隠禅師のところに出入りするものだから、白隠禅師の隠し子ではないかと言われたりしました。
それでも白隠禅師、「ああそうだ。わしの隠し子だ」と言って、身寄りのない子どもを預かったりしています。その慈愛の深さは、「おたふく女郎粉引歌」や「遠羅天釜」などに滲み出ていますが、白隠禅師は本当に慈悲深い。
鎌倉時代の道元禅師は求道心も強く、『正法眼蔵』など本当に素晴らしい。しかし、白隠禅師も、それに勝るとも劣らないくらいの深さがあります。
あまり知られていませんけど、「隻手の公案」など見ますと、非常に学問的に高いものを持っていることがわかります。
道元禅師に勝るとも劣らない、それに匹敵するか、それ以上かといわれるような、禅学の難しい本も書いております。
それくらい最高に難しい本を書いているかと思うと、社会の最底辺の女郎とか子どもたちにも、わかりやすいように教えを説いているのです。
五百年に一度の天才といわれた人です。白隠禅師がいなければ、臨済宗は今日これほど残ってはいなかっただろう、といわれております。ですから、臨済宗中興の祖といわれております。
その白隠禅師が大悟徹底した一つの原因が、この法華経にあったわけです。しかし、白隠禅師の霊的な力は、日蓮宗系の法華経行者の霊力とは少し違っております。
まあ、最初は法華経を捨てましたけど、のちには感涙にむせんで大自在。上から下まで、難しいところからやさしいところまで、高度な学問的事柄から、本当に抱腹絶倒するような面白い事柄まで、自由自在に書物を書き表せた大自在の人。
それが白隠禅師であり、そこにこそ彼の霊力の、そして法華経の霊力の秘密があるのです。自在であるほうがレベルが高く、霊的ランクは上なのです。
法華経霊力の秘密とは
法華経の話に戻しますと、法華経には「たとえば」が多い。実は、これが法華経の霊力、通力の秘密なのです。「たとえば」が多いと。この一語に尽きます。法華経の霊力の秘密はこれなのです。
白隠禅師は、「たとえば、たとえば、たとえば」を駆使して、身分の高い人から低い人まで、すべての人々を何とか素晴らしい方向に連れていこうと説かれたお釈迦様の境地というものに対して、御魂と御魂で接したわけです。
こんなに「たとえば、たとえば、たとえば、たとえば」を使うお釈迦様の慈悲慈愛に、御魂と御魂で「二乗作仏」とか「本仏の思想」とか、法華経の特色とされるものがいくつかありますけれど、そんなものよりも霊力に絞りますと、「たとえば、たとえば、たとえば」によるところが多い。それが法華経の最大の特色であり、「たとえば」が多ければ多いほど霊力が強いのです。
白隠禅師は、「たとえば、たとえば、たとえば」という法華経に、お釈迦様の境境があまりにも巧みに、あまりにも素晴らしく、あまりにも絶妙に説かれているのを見まして、お釈迦様の境地に感応していった。
一方、日蓮宗系の僧侶は「たとえば、たとえば、たとえば、たとえば」と、あまりに見事に、あまりに克明に、あまりに巧みに説かれるお釈迦様の世界に、自らの情感を没入させていく。
その結果、眠っている意識が蘇ってくる。「たとえば、たとえば」によって、ご自身のご本仏、内面的な意識、深層意識が出てくる。あるいは、「たとえば」に乗ってイメージが具体化し、それに合わせて、守護霊なり神様なりが感応し、人間の力を超えたパワーが発揮される。
法華経行者の通力、霊力の秘密はそういうことであります。
現実界に近い神仏には具体的に、大きな神霊には抽象的に
霊力の秘密についてはもう一つ、『大金運』(たちばな出版刊)でも書いたように、神霊界には一つの法則があります。
その神霊法則とは、「現実界に近い神仏には具体的に、高級神霊、大神霊には抽象的に祈る」ということでありますが、これは重要な法則です。
この法則を、みなさま、よく頭に叩き込んで覚えてください。日常生活で活用していく基本法則です。これを理解しておかないと、日常生活に応用する神様とか霊力とかいいましても、なかなか体得できません。
「現実界に近い神仏には具体的に祈り、高級神霊、大神霊には抽象的に祈る」というのはどういうことかと言えば、たとえば、ご先祖さん、あるいは三宝荒神さんは現実界に近い神仏には具体的に、大きな神霊には抽象的に現実界に近いから具体的に祈る、ということです。
私の「大金運」を読んだ人はわかりますが、集金の神様といえば三宝荒神さんです。
その三宝荒神さんに、「願わくば、人類を救済たらしめたまえ」と祈ったりすれば、頭をカリカリカリと掻いて、「うーん」と考え込んでしまう(笑)。
「えっ、あなたの会社、「人類」という社名なんですか?」
「いえ、違います。人類は人類です」
「じゃあ、救済というのは何なんですか。あの鉄道会社の?」
「あれは鉄道弘済会です。お願いしているのは人類の救済ですよ」
「ああ、そういう商品があるんですか?」
こんな感じで(笑)、集金の神様に人類の救済をお願いしても、なかなかわかってもらえません。
三宝荒神に「人類の救済とか日本の国土を豊かならしめたまえ」とか、「天が下、安らけく平らけく」とかお願いしたら、まあ、受けてはくれるでしょうが、やはり担当分野が違います。
「日本の経済が大変です。どうぞ荒神様、お力添えをお願いいたします」とお願いしても、「いやあ~、私はちょっと立場が違います。日本の国のことだったら、天照大御神にお願いしてください。
人類の救済だったら宇宙の
神(宇宙創造の主神)にお願いしてください」と言います。
働きの神様のなかで最高位にいらっしゃるのは、日本の国では天照大御神ですから、天照大御神様に景気のことをお願いすれば、働いてくださいます。
しかし、その天照大御神様でも人類の救済となると分野が違います。
人類の救済といった日本の国の範疇を超えた問題は、やはり宇宙創造神か、地球を生成された神様か、その専門の神様にお願いしなければダメです。
※そのように「大神霊は大きなことがらに関わり、小さな神霊は身辺の具体的なことがらに関わる」
これが神霊界の一つの法則なのです。したがって、何でもかんでも宇宙創造の神様、神にお願いすればいいというわけではないのです。
「大金運」にも書いてありますが、「最高の神様だからいいというものじゃない」と。私もかつての神様にはがっかりさせられたことがありました。
当時、私が経営に携わっていた会社の支払い資金が二百万円ほど、どうしても足りない。このままでは会社は倒産してしまう。そこで宇宙創造の
の神様にお願いしたのです。
の神様、月末に二百万円の支払いがあるのですが、どうしても足りません。何とぞ、何とぞお力添えをお願いいたします!」ところが宇宙の神様、「うーん……」と言ったきりでなかなか動いてくれない。
やっと系列の働きの神様に命令してくださったかと思ったら、実際に動きはじめるまで、えらく時間がたっていた。
つまり、実際に動くのは集金の神様ですから、宇宙創造の
神様にお願いするのは、お門違いなのです。お金のやり繰りをお願いする場合は、初めから集金の神様にお願いすればいいわけです。
営業マンもそうです。仕事をもらおうと思ったら、まず窓口の担当者を大切にして情報を収集し、事務的なところをやっていただいて、稟議書が回りまして決定権者の印をポンともらいますと、OKとなります。
窓口の担当者だけを相手にしていたのでは、なかなか仕事は取れません。やはり、決定権を持っている人にも頭を下げないことには、OKということにはなりません。
まあ一番いいのは、代表取締役にお願いをしてから担当者にお願いする。このほうが早いです。窓口だけにいいましても、代表者の印鑑がないと、なかなか仕事が進みません。
よく申し上げることですけれど、松下電器の電気洗濯機を買ったところ故障した。
そこで、
「松下幸之助さんいますか」と松下電器の本社に電話をかけて、「ぼくは、君のところの電気洗濯機を買ったんだけれど、すぐに故障したんだよ。君は会社の代表者として責任を感じないのかね、直さないのかね」
「いや、どうも失礼いたしました。当方といたしましては、製品に関しては万全な準備をしておりますけれども、万が一故障等ありましたら、返送料はこちら持ちで修理させていただきます」などと、松下幸之助さんが直々に電話口に出て言うことなんか、まずあり得ません(笑)。
ます(笑)。
けれど、「万が一、製品に不具合等がありましたら云々」というのはよく書いてあります。名取のスルメなんかにはね(笑)。亀田のお煎餅なんかにも書いてあります(笑)。
それと同様、電気洗濯機が故障した場合、松下電器に言えば修理はしてくれるでしょう。しかし、松下幸之助さんが私たちの家に来て、電気洗濯機を直してはくれません。
よしんば、松下幸之助さんに電話が通じるようなことがあっても、松下幸之助さんご自身が私たちの家にやってくることはありません。
一応、苦情を聞いたうえで、担当の重役さんに連絡し、その重役さんがサービスセンターに連絡し、さらに購入した電器屋さんに連絡し、電器屋のおじさんが駆けつけて、「あっ、どうもすみません」と調べたら、「あっ、コンセントが抜けていましたね」と(笑)。こういうふうになるわけです。
電気洗濯機が故障したからといって、いちいち松下幸之助さんに電話することはないでしょう。
しかし、松下幸之助さんから直接、「君、どこそこの誰々さんへすぐに修理に行きなさい」と言われたら、電器屋さん、ブルブル震えて、「松下幸之助さんからのお声がかりで、電気洗濯機を直しにきました」と一生懸命修理します。
ですから、お願いするのだったら、まず代表者にお願いして、社長さんにOKもらってから窓口の担当に行ったほうが仕事は早い。顔見知りの社長さんのOKをもらったら、簡単に話が通じます。
あまり上の権威を利用すると、担当の窓口から意地悪をされますけれども、窓口を大切にして、代表者の印鑑をもらってくる。このほうが仕事早いです。
神霊界もまったく同じです。
高級神霊とか大神霊というのは、いわば松下幸之助さんで、松下電器の将来がどうのこうのだとか、あるいは「PHP」を出したり、松下政経塾を開設したり、自分の会社と日本の経済全体のことを考えます。
それと同じです。人間も霊も同じでございまして、高級神霊とか大神霊というのは広いジャンルで大きく働いていらっしゃるわけで、何か願いごとがある場合には、それ専門の神様にお願いする。これを忘れたら、なかなか神仏の応援をいただくことはできません。
行者にタヌキ顔が多い理由
これがわかるまで私も苦労いたしました。胎蔵界の仏様、金剛界の仏様、すべてにインタビューしました。
「おたくは集金の神様ですか」
「いえ、違います」
「おたくは販路拡張の神ですか」
「いえ、違います」と言うだけで「何々の神です」と教えてくれないのです。それで、「もういいや!集金は自分で頭を下げてやります。販路は水をかけられてもいいから自分で拡張します」と言ったときに、
「我は販路拡張の神なり」なんて出てくるんです。
「だったら初めから言ってくださいよ」(笑)
「それでは汝が精進努力しないではないか」
「そうですね」ということで、正神界の神様は、あくまで人間の自発的な努力を大事にしていて、私たちが精進のギリギリまでやらないとお姿を現さないし、助けてくれないのです。
行者さんはなぜタヌキのような顔になるかといいますと、霊能力を利用して楽をしようとするからです。
精進努力するよりも、いかに最短距離で行けるか、いかに楽ができるか、そればかり考えている。未来のことがわかったら、努力なんか必要ありません。初めからそこに行けば早いです。
なぜ、行者さんにはタヌキ顔が多いのかと思ったら、やっぱり不精をするからなんです。不精をすれば楽ではあるけれど、経験が残らない。魂の成長にはマイナスです。
その点、守護神、守護霊は守護する神であり、守護する霊であるから、本人の自発的な発動、努力、これがあって初めてアドバイスを与えてくれたり、もうちょっとのところをポンと後押ししてくれる。
ですから私の場合、どんなに霊能力が磨かれましても、霊能力だけに頼るようなことはいたしません。その分、社会経験があり、そこから学んだ叡智があります。
ということは、神様がすぐに教えてくれなかったということであり、教育になっているわけです。
そういうことで、私も苦労に苦労を重ねてそのことがわかったわけでございます。
こうして講義でお話ししているのは、そのエッセンスでありまして、何年もの苦労と努力の結果、わかったことです。
講義ではいかにも簡単にお話ししていますけれど、それだけの努力と苦労をしてきて初めてわかったことなのです。本当に、九分九厘まで悩みました。その代わり、体得したら忘れません。
