神から働きの神へ
大事なのは、「現実界に近い神仏には具体的にお願いする。高級神霊、大神霊には抽象的に大きくお願いする」ということ。
つまり、お願いごとの種類によりまして、神様を変えなければならないわけでありまして、これを忘れないようにしていただきたいと思います。
その際にはまた働きの神だけではなくて、宇宙神、根源神にまずお願いして、大きなことをお願いし、次に、具体的なことがらを働きの神様にお願いするといった具合に、順序立てることも大きなポイントになります。
私たちの人生を考えますと、人生の目的、人類の幸福、日本の国の繁栄、天命の全う、御魂の修業という大きなテーマがあり、その次に日常生活の細々とした問題があるわけです。
それを考えたら、目前のことばかりにとらわれているのは、よくありません。人間として生まれてきた一つの目的、テーマ、まずそれがあって今日がある、というふうになりますと、人生を見失わなくて済みます。
ですから、神様にはまず最初にこれをお願いして、そののち、「とりあえず今日のことですが……」と具体的な細々としたことをお願いするのが正しい姿勢です。
今日を一生懸命生きたらそれでいい、というのは一見正しいように思えます。しかし、それでは今日しかわからないし、全体が見えないので、今日の努力、目前の努力が、より大きな局面から見てずれてしまうこともあります。
大局があって初めて部分があるわけですから、まずは大局を見る目を養ってから、小さなところ、具体的なところに目を向けるようにしなくてはなりません。
そうでなければ、目前の仕事に執着心が出てしまって、人生の本質を見忘れがちになります。
偉そうに言っておりますが、これはすべて私自身が体験して悟ってきたものです。何度も何度も失敗し、そのたびに「すみませんでした」と畳に頭をこすりつけて、おでこで汗をかいた分だけ悟ってきたのです。これ本当です。
ともあれ、全体を見て、大きなテーマがわかってから、小さなところに意識を移していく。神様や仏様にお願いする場合、ここが大きなポイントになるのです。
法華経霊力はなぜ生活に密着しているのか
一般的に法華経の霊力は、失せ物、当て物がもっぱらで、「あなたの息子さんは、何県のどこどこにいます」とか「水子の霊はこうでございます」とか、現実に密着した霊力の場合がほとんどです。
しかも、よく当たるものですから、それを目の当たりにした人は、「おお、法華経というのはすごい霊力があるんだ」と驚くわけです。
しかし、摩訶不思議なものを見せる霊力なんて、どうってことありません。本当の大きな霊力というのは、見たところごくごく普通で、何一つとして不思議なことがありません。摩訶不思議なことをして人を驚かすのは、レベルからいえば、大したレベルではありません。
本当は、大きな霊力というのはわからないものなのです。世界最高の霊力の存在は何かといえば、私は「空気」ではないかと思っています。
ある人が、「何を拝んでいるんですか」
「今、感謝しているんだから、ちょっと静かにしていてくれないか」
「何に感謝を?」
「空気だ(笑)。もし空気がなかったら、窒息して死んでいる。私が生きているということを考えたら、空気様のお蔭だ。だから感謝しているんだ」
「ほう…… 言われてみればたしかにそうだ」
まあ、太陽は光り輝いていますから、そのありがたみは誰にでもわかります。けれど、空気の存在にはなかなか気づかないし、感謝する心も湧いてきません。
空気のほかでは地球もそうです。
「はあ、ありがたい、ありがたい」
「何やっているんですか」
「地面様に感謝しているんです」(笑)
「えっ、地面に?」
「そう、地面様です。地面様があるお蔭で、こうやって立っていられるんですから。地球儀を見て、よくどこかに吹っ飛んでいかないものだと思いませんか。
重力があり、地面があるからこそ、私たちもこうやって立っていられるのです。だから、地面様に感謝しているんです」
たしかに、地面があるお蔭です、私たちがこうして立っていられるのも。もし、海の上だったらとっくに水没しておりますし、飛行機事故に遭う瞬間、「ああ、すぐ下が地面だったらなあ」と思うでしょう、乗客は。
面のありがたさ、空気のありがたさには、なかなか気づきません。大きな働きというのは、それほど微かで大きすぎるので、それとはすぐに気づかないわけです。
お金が入ったとか、恋人ができたとか、目が見えるようになったとかというふうに、具体的にハッキリとした形で出てくれば、気がつきますけれども。
そういう、現実界にすごく密着した形で出てくるのが、法華経の霊力なのです。
つまり法華経では、現実界に近い神仏を使っているわけでありまして、七面大明神の龍神などです。これは、元をただせば蛇です。
法華経行者さんも、白蛇さんや龍神などがやっている場合が多いです。それから天狗も使っています。法華経の行場に行きますと、天狗もたくさんおります。
龍、天狗、蛇のうち、一番地面に近いのは蛇です。空を飛んでいる蛇っていませんね(笑)。白龍は空を飛びますけれど、大宇宙を羽ばたく白蛇ってあまり見たことない(笑)。
大空を羽ばたく大タヌキもいません(笑)。蛇とタヌキはやはり、地にかなり密着しております。
これを考えたらわかるはずです。白蛇というのは地面に近いから、近い未来を予測するのです。行者タヌキ、人霊も、現実界に近いから近い未来の予測ができるのです。
これがタヌキ、白蛇の霊力の特色で、こういう類の霊は、正邪を別にして現世に近い。人間社会に近い霊です。
だから、大切にするとすぐにお蔭を出してくれるものの、大切に扱わなかったら仕返しをする。そういう人間的な情感があるわけです。
大神霊になりますと、もっと大らかで微かでありますので、たとえお蔭があってもよくわからない。祟りもない代わり、お蔭も明らかに即出てくるわけではないのです。
「伊勢の天照大御神にお参りしたんだけれど、功徳なんてないじゃないか。稲荷の「ほうがいい」といったことを本に書いたりする人がいますが、それはこの法則がわからないからです。
何ということを書くんだ、こんなことがまことしやかに語り伝えられるようになったら、伊勢の神様に申しわけない。
そう思って『大金運』に神霊世界の真実を書かせていただいたのですが、この法則がわかっていないから、そんなことを平然と言ったりするのです。
法華経霊力を活用したお祈りの仕方
結論を申しますと、現実界に近い神仏であればあるほど、現実界的で不思議な働きが出てきます。守護霊もそうです。
「あっ、何かすごい導きがあったな」と実感するときには、ご先祖などの現実界に近い存在が背後で働いていると考えて間違いありません。
まあ、守護霊が働いてくださる分には何の問題もありませんが、稲荷や蛇だったら大変です。どれほどお蔭があっても、無邪気に喜ぶわけにはいきません。
その稲荷や蛇に代わる正神界の神様、最も現実界に強い働きをもたらす正神界の神様、生活に密着している正神界の神様は何だろうかと探しておりました。
邪神界ならいくらでもいますけど、邪神界は弊害があります。そう思っていろいろと探した結果わかったのは、「三宝荒神」「蔵王権現」「三面大黒天」が最も現実界に近く、具体的に働かれる神様である、ということでした。
胎蔵界、金剛界のすべての仏様にインタビューした結果、その三神に絞ったわけです。
ですから、お金の問題や仕事の問題で困ったことがあったら、これらの神様にお願いしたらいいのです。
そのとき、具体的に「たとえば」を多用するという、「法華経霊力の秘密」がセットされると、より一層強力な霊力になります。
つまり、こういう現実界に近い神様、仏様を動かそうと思ったら、具体例を巧みに盛り込むのが一つのポイントで、それをうまくやればやるほど、具体的に言う言い方がうまければうまいほど、ハッキリとした霊力が出てきます。
たとえば三宝荒神様に、
「荒神様、よろしくお願いいたします。本日もよろしくお導きください」とお願いすると、「うん、わかった」と言ってくれます。荒神さんは現実界に近い正神界の仏様ですから、お願いが人の道から外れていなければ、何くれとなく面倒は見てくれます。
しかし、「よろしくお願いいたします」という抽象的な祈り方では、少しばかり弱すぎます。私がお願いするときには、こういうふうに言います。
「荒神様、本日もよろしくお願いいたします。ところで、今月末にはどうしても三百万円なければ支払いに困ります。三百万一円でもいいですし、三百万二十五円でもいいですから、三百万を超えるだけのものを、あと七日間でぜひともお願いいたします」
その次に、
「そのために私自身、一生懸命、鋭意努力いたしますから、ぜひ聞いてください」正神界の神様は、人間が努力しない場合には、動いてはいけないことになっています。
邪神界は、努力するしないに関係なく、本人の魂の成長に関係なく、経験を積む積まないにも関係なく力を貸します。お布施やお神酒、玉子、油揚げをあげておけば働いてくれるわけです(笑)。
その代わり、あとの仕返しが怖い。正神界の
神様は、努力を約束しなければ、なかなか動いてくれません。ですから、「一生懸命に努力いたしますので、月末には三百万五円でもいいですからください」と、お願いするのが大事なのです。
そうしたら「よしっ」ということで動いてくださり、月末になったら三百万十円ぐらいは入ってきます。
とはいっても、何もない空間からパッと札束が出てくるとか、宝くじが当たるとか、そういう摩訶不思議なことが起こるわけではありません。
どういうふうにお金が入ってくるかというと、一生懸命に働いているとき、思いもよらぬ智慧がパッパッパッとひらめくのです。
「あっ!あの仕入れ先に支払いをちょっと待ってもらって、それから、あの販売先の会社には委託で出した商品があるから、あれを入金伝票にしてもらうか、買い取ってもらおう」といった具合にパッとひらめいて、そのとおりに交渉したら、月末にピタッと三百万十円入ってきた、と。こういう感じです。
これが荒神様に動いていただく方法、動かし方です。
ただし、これは初級です。神仏の動かし方ということでは入口に立ったにすぎません。ここから中級、上級へと進んでいくにはどうしたらいいのか。次に、それについて少しご説明いたしましょう。
「たとえば、たとえば」を多くするのが秘訣
法華経はなぜあれほどまでに霊力を発揮するのかといえば、先ほども説明したように、「たとえば、たとえば、たとえば」と、やたらと「たとえば」が多いからです。
その法華経霊力の秘密を導入すると、初級から中級へとレベルアップし、荒神様はもっと働いてくれるようになります。
具体的に説明すると、「三宝荒神様、本日もありがとうございます」と、まず感謝から入ります。次に、「私は鋭意努力したいと思います。今日も頑張りたいと思います。
ところで、月末には三百万円の支払いがあり、そのために三百万円を何としてでも集めなければならないのですけれど、三百万円ではいつもカツカツでございます。
やはり、四百万くらいで、百万円ぐらいの余裕があればいいんじゃないかと思いますので、たとえば… と、ここから法華経が入ってくるわけです。
「たとえば、あの販売先はダメだと言われましたけれども、もう一回私は訪問してみようと思っています。本日は五社アプローチして、入金をお願いしようと考えております」
さらにつづけて、
「半分は手形、半分は現金でなんてお願いする人が多いですけど、私は全部、現金で払ってもらうようお願いしようと思います。たとえば、A社の担当者の何々さん、 B社の何々さん、C社の何々さん、D社の何々さん、E社の何々さん、この五社のみなさんが二十万円ずつ払ってくれれば、五社で百万円増えます。
月末三百万円は最低ラインのお願いです。それに百万円を上乗せするには、たとえばA社の何々にいくら、たとえばB社の何々にいくら、たとえばC社の何々にいくら、たとえばD 社の何々にいくら、たとえばE社の何々にいくら払ってもらわなければなりません。荒神様、何とぞよろしくお願いいたします」
このように、「たとえば、たとえば、たとえば、たとえば」を連発するわけです。
そうすると、法華経の霊力で荒神様も、「わかったよ、やるよ~」とおっしゃる(笑)。
法華経の霊力で追い込むと、「もうわかったよ、わかったよ。やるよ、やってやるよ」と言いながら、働いてくださるわけです(笑)
これが法華経の霊力の秘密です。ですから、「たとえば」がうまく使えれば神仏も動いてくださいますが、そうでなければ、なかなか動いてくれません。
霊力は国語力、表現力に比例する
「霊力というのは国語力に正比例する、あるいは霊力は言語能力に正比例する」ということを、私はつねづね言っておりますが、巧みな表現力があって、言語能力が豊かな人は霊力が出てきます。
何の枕詞もなく、ぶっきらぼうに「お願いします、荒神さん。三百万円!」(笑)。これではダメです。荒神様、動いてくれません。
法華経では霊力のことを妙力と言ったりしますが、法華経の妙は妙力と言いまして、南無妙法蓮華経の「妙」の字は「少女」と書きます。少女は妙なるものです。
少女は心が純粋で、夢とロマンがあります。この妙について説明していたら、また長い講義になってしまうので割愛しますが、妙とは要するに少女。
その少女、あるいは女性に、「そう言われればそうだなあ」と思わせるくらいの表現能力が必要なんですね、霊力を発揮するには。
「奥様、本当にお似合いでございますねえ、そのアイシャドー。それは○○○化粧品さんでございますか。○○○化粧品さんもよろしゅうございますけど、この度の私どものこのアイシャドー、これも奥様にはお似合いでございます」
「そうかしら、これが気に入っているんだけれど…」
「でも奥様、たとえばこの私どものアイシャドーでお化粧して(笑)、ワールドメイト(著者の主宰するグループ)のセミナーに参加すると、霊的にすごくひらめきますし、たとえばこの口紅なんかつけて参加しても(笑)、運気が急上昇すると聞いておりますよ。世間では今、大変な人気なんですよ」
こういうふうに、「たとえば、たとえば」と言われると「そうかなあ」と思ってしまいます、女性も。これを悪用すると、女衒師になってしまいますが、「そうだなあ」という気持ちにさせるくらいの表現力がなければ、霊能力はなかなか思うように発揮できません。
仏教では、女性は救われない存在だったのですが、日本の僧侶のなかで日蓮上人ほど女性を大事にした人はいません。
日蓮上人もおそらく、「たとえば、たとえば」の練習をしていたのではないか、私はそう思っているのです(笑)。とにかく「たとえば、たとえば」と言えば言うほど、具体的なイメージが出てきます。
万葉集もそうです。いい歌と悪い歌との違いは、すぐにイメージが浮かぶか否かにあります。古今集などは非常に理知的ですけれども、万葉集にはあるがままを表現している歌が多いです。
アララギ派も同じで、あるがままの気持ちを歌で表現すると、イメージが彷彿としてきます。「東雲の……」なんて言うと、「夜空が…………」なんてウワーッとイメージが浮かんできます。
ありのままの表現、万葉的な表現はイメージを彷彿とさせます。そういう和歌がいい和歌で、イメージが彷彿とするような曲、これは名曲です。
法華経が素晴らしいのはそこです。イメージが彷彿とするように、「たとえば、たとえば」と巧みに表現されています。それは、お釈迦様の慈悲の深さ、広さであり、お釈迦様ご自身の能力ですね。
弘法大師の霊力も同じです。
弘法大師は、「胎蔵界の仏さん、わてが空海ですねん」
なんて言いません(笑)。
弘法大師、伝教大師の真似をよくやりますが、弘法大師さん、香川の人だから関西弁に近いですね。弘法大師は高松ですから、当時の言葉で真似すると、関西弁で、「じぇんじぇん、法力でまへんなあ」(笑)
こういう感じですね。
伝教大師は滋賀県の人です。その伝教大師を当時の言葉で真似すると、「ほんとにやっているんけ」、「なにを言うてるんけ」と(笑)、「け」で終わるんですね、江州の言葉は。
嵯峨天皇は京都ですから、「何を言うてはるの、天皇家というものは」(笑)
こういう感じでしょうね、京都弁です。歴史の実像をその当時の言語で物真似すると、本当に格調が下がりますね(笑)。
とにかく、弘法大師も抜群の言語力、表現力を持っておりました。多くの著作を残すだけの素晴らしい学識、表現力のあった方です。
『三教指帰』は、大師が十八歳から二十四歳までの間に書かれたと伝えられておりますけれど、その当時の最高の文章で綴られております。当代随一です。
漢詩、和歌、御詠歌に見られる絶妙な表現力。そして、あらゆるところで駆使されている「たとえば、たとえば」弘法大師の霊力は、それによるところが大きいのです。もちろん、それだけではありませんけど、重要な要素です。
文才がないというか、文学的表現力、言語能力、国語力が乏しい人で、ものすごい霊力があるという人は、あまりいません。日蓮上人様も、著作を見たらわかるように巧みな論術を駆使しています。
おそらく、法華経を踏襲されたのでしょう。
いつかまた、国語力と霊力の関係について詳しく講義しようと思いますけど、簡単に言いますと、「たとえば、たとえば」という言語能力、表現力によってイメージが彷彿としてくる。聞いている私たちのほうも、言っている本人もイメージが彷彿としてきて、情感が乗るわけです。
目に見えない霊力というのは四次元、心の世界です。ですからイメージが大切で、これが阿頼耶識、あるいは潜在能力といったものを動かし、神々を動かすわけでございます。
ぶっきらぼうに「神様、よろしく」とお願いしても、神々はなかなか動いてくれません。やはり、女性がイメージを彷彿とするようにお願いすること、これが大事で、そうすると、神様も彷彿としてきて動いてくれるわけです。
神社の祝詞でも同じです。祝詞とは「ノルト」、つまり乗るわけです。そして、祈りとは「意乗り」で、意を乗せるわけです、神様に。
ですから、ただ単に「神様、お願いします」とお願いするよりも、「この磐船に神鎮まり給える、何々の産土神社。掛巻も綾に畏き、大神の尊き功を、かかぶらせ給いて……」と、まず神社をほめるのです。小さな神社でも(笑)、
※
「何と素晴らしいお社なんだ!」
「何と大いなるお社で、カナダの森を彷彿とさせる縁深き森なんだ!」などと、文学的にウワーッと言うと、神様も「そうだな」という気持ちになって 55 聞いてくださいます。これ、本当なんですよ。このように出てくる神様もいますから。
そういう祝詞を上げると、詠んでいる人も聞いている人も気持ちが乗ってくるのです。イメージと感情を乗せていく。神様に意を乗せる。そうすると、神霊に感応するのです。
具体的に言えば言うほど、強い霊力、念力が出る。その分、受けてくれる。キャッチしてもらえる。この法則です。だから、神々に祈るとき、お願いするときにはできるだけ「たとえば」を多く使う。
巧みに「たとえば、たとえば」を入れながら、自分の意識を乗せていく。そうやってイメージを彷彿とさせながら神様や仏様に祈ると、具体的にハッキリと出てきます。
法華経の人には、日蓮上人様があれだけの霊力があったからという目標があり、「自分も日蓮上人に匹敵するぐらいできるんだ」と信じているから、余計に霊力が出てくるわけです。
ワールドメイトのみなさんの場合は法華経の信者ではありませんので、「深見先生があれだけやっているんだから、自分にもきっとできる。できるはずだ」と思ってやってくだされば大丈夫です。
私も、その秘伝を公開しているわけですけれども、とにかく現実界に近い神仏には、具体的にお願いする。具体的には「たとえば」を連発する。
「たとえば、たとえば、たとえば、たとえば」と、考えられるすべての「たとえば」を連発する。ヘトヘトになってしまうぐらいに、「たとえば」を連発しながらイメージを高めていく。
同時に、必ずやってくれると強く信じる。そしたら、素晴らしい霊力が出てきます。
お祈りの台詞、表現を自分なりに工夫して、自分なりに祝詞をつくってもいいです。ワンパターンでやっているだけではダメです。毎回、新鮮な感動があって、毎回、具体的にイメージを浮かべ、連想するように出していくのがポイントです。
私もお祈りするときは、毎回即興でそのときどきの思いを織り込んでやっております。なるべく具体的に美しく、そしてイメージが彷彿とするような祝詞。これはもう原則です。
現世のお願いごとをする神様、現世に近い神様に向かうときには、これでなければダメです。
お願いする相手の神様が、具体的な働きの神様なのか、それとも大きく、抽象的に働く神様なのか、神霊の役割によって祈りの仕方の使い分けができないと、霊力の使い分けもできないわけです。
執着心を捨てる
以上が法華経霊力の秘密ということでございまして、これは守護霊様にも応用することができます。守護霊様には現実界に近いご先祖の霊が多いので、
「守護霊さん、今日もお守りくださいまして、ありがとうございます」と感謝から入って、具体的にお願いすれば動いてくれます。
たとえば、「あの人が好きなんだけれども、何とかお近づきになれないかなあ」という場合、具体的に守護霊様にお願いすれば、たまたま行った打ち上げパーティに彼女も来ていたとか、あるいは、親戚縁者の法事のときに、知り合いの知り合いという形で来ていて、「あっ、あなた。なぜ、こんなところにいるんですか」と。そんな不思議な出会いがあるかもしれません。
そういうような縁があるかもしれないという論理で、「たとえば、たとえば」とお願いしたり、考えられるケースをいくつも連想しながら神様にお願いしたらいいのです。
ただし、そうやって祈った最後にどうやって締めくくるのか。これもまた大事でありまして、祈ったあとは執着心を捨てなければなりません。
「たとえば、たとえば」で祈ると、イメージが具体的に彷彿としてきて、自然に感情が乗ってきます。
神々も受けてくれて、「うん、力を貸してやろう」という気持ちになって、お互いが盛り上がってきます。しかし、お願いしたことがらに対する執着心が出たら、いい結果にならないのです。
これをやります弊害は、法華経の弊害は、強烈な執着の思いをつくってしまうことで、この執着心を何とかしなければいけない。この執着心は雲になります。我よしの心で祈ると、真っ黒な雲になります。
たとえば、「いくら入って、何円でなければいけない」とか、「月末には必ず三百万円入りますように。
絶対、絶対、絶対に入りますように」とか、「ということで、絶対に入金がありますように」や、「ということで、絶対に結婚できますように」などと事柄のほうに、結果ばかりを強く期待すると、執着の雲になります。事実、事実、事実、ことがらに着して神様に対してお願いしますと、これが真っ黒になっていくわけですね。
反対に、相手もよし、我もよしの心、愛と真心で祈ったら、想念の世界がピンク色、愛の色になります。
「最終的に相手にもよく、自分にもよくなりますように」という思いで祈ったら、想念の世界がピンク色になり、そのとき初めて神様に通じるのです。
だけども、これでも強くやりますと、愛の執着、愛の執着心が出てきます。これが問題です。
ものすごく「たとえば」の使い方が巧みで絶妙で、神様も恍惚とするような素晴らしい表現、素晴らしいイメージで祈った結果、神様が願いを受け入れてくれたとしましょう。
神様が「よしっ」ということで、動かれたとしましょう。ところがそのとき、本人の想念のなかに執着の雲があると、神様がテレパシーを送って教えていても、この雲が邪魔をするのです。
太陽光線も燦々と輝いておりますが、真っ黒な黒雲があるために、雨が降っているような状態になってしまうわけです。
太陽はいつも照っています。しかし、私たちが出した執着の雲で、通信が遮断されてしまうのです。
そうならないためには、『大金運』や『強運』(たちばな出版刊)に書いたように、祈りの最後で、「神様の御心から見て一番いいようにお願いいたします」と、神様に下駄をお預けしなければいけません。
そうしないと、己の執着心と欲心を満たさんがために、神様を使っていることになってしまいます。神様に動いていただくという心、神様にお任せするという心が大切なのです。
ですから、最初に申し上げたように、生活に密着したお願いをする前に、もっと大きな大局、人生の本質をきちんと理解しておく必要があります。
求道の精神で貫くと同時に、世の中を良くして人を幸せにし、徳分を積んでいく。それが人生の本質であり、そのひとこまとして日々の生活がある、ということがわかって初めて、「生活の中でいかに神仏の力を活用していくのか」というテーマが出てくるわけです。
本質がわかっていないと、欲心と淫らな思いを成就せんがために神様を使うことになりかねません。
そうなると、たとえ正神界の神様にお祈りしていても、この邪な思いに邪神界が感応して、変な霊がやってきます。変なお告げがあったり、変な思いが起きてきたりして、方向がずれていってしまいます。
ですから、お祈りの仕方も、正神界の神様に向かうなら締めくくりを大事にしなければなりません。
「神様の目から見て、相手もよし我もよし、私の将来から見ても一番いいものでありましたら聞いてください」と締めくくることが大事です。
そして、ここから先がとても重要なのですが、「もし、間違っているところがあったら、具体的にどこがどのように間違っているのか、たとえばお父さん、たとえばお母さん、たとえば親戚縁者、たとえば上司、たとえば友達の口を通して教えてください。素直に従います」
これを最後の締めくくりとしなければなりません。
これが非常に大事なポイントでありまして、自分の思いを遂げんがために神を使っているというのと、神様の御心に合うようにと、抽象的なことから具体的なことまで大自在で活用しているのとでは、本質的に全然違います。
人間のことですから、願いごとが間違っている場合もあります。神様の目から見たら、正しくないことも多々あります。
あるいはまた、願いどおりにならずに失敗を重ねたほうが、本人のプラスになることもあります。ですから、神様に祈ったからといって、すぐに結果が出てくるとはかぎりません。もちろん、すぐに結果が出る場合もありますが、なかなか出ない場合もあります。
しかし、結果はどうあれ、「必ずいい方向に向かっているのだ、神様はいい方向にしか向かわせないのだ」と固く信じていたら、神様もいい方向に動かざるを得ません。
これを「神様をいい方向に追い込む秘伝」と言います。目前のことで一喜一憂することなく、いい方向にいい方向に向かっているに違いないと思っていたら、必ず素晴らしい力が出てきます。
期待しすぎたら、がっかりいたします。その期待感を持たないで、お願いだけして、どこまでも努力していく姿勢が大切です。
今、願っていることは間違っているかもしれない。執着心の雲があるかもしれない。雲を払うためには、「神様の御心に従います。間違っていたら教えてください」と最後を締めくくる。
よくアドバイスしてくれる人を思い浮かべて、「たとえば、あの人の口を通して教えてください。知らない人でもいいです。どんな人を通してでもいいですから、正しいことを教えてください」と具体的にお祈りするのです。
最終的には謙虚で結ばなくてはダメです。そうすれば雲が切れていきます。最後は神様に下駄を預けるのです。そうすると、心が清らかで明らかな状態になりますので、答えを受信できるようになります。
第三者の口を通して教えられる場合を「間接内流」、直感的にパッとひらめく場合を「直接内流」と言いますが、心が清明、すなわち清らかで明らかなときは、正神界から来る通信を直感で明確にキャッチできるはずです。
具体的な働きをされる現実界に近い神様に対して、法華経霊力を応用していく場合、最も重要なのがこの点です。これを忘れると邪神界です。
ということで、本日の講義はかなり横道に逸れましたが、法華経霊力の秘密とは「たとえばが多い」ということでございます。
そして、「現実界に近い神仏には具体「的にお願いする」という法則性がおわかりになったのではないかと思いますので、さっそく、生活のなかで応用してください。
少々執着が出すぎても、少しばかり我が出すぎても結構です。少々の失敗があってもいいですから、実践してみてください。何ごとも、紆余曲折を経ながら体得していくものですし、やってみないと永遠に霊力は出てきません。
まずは守護霊様からお願いしてみてください。自分の守護霊を知っていても知らなくても、いると思ってやってみてください。
荒神さんとか大黒天さんとか観音様を祀っている人は、今日お話ししたようにやってください。
産土の神社に行きましても、これを忘れないようにして、日常生活の目前にあるようなこと、ご祈願されているようなことを、もう少し毎日、繰り返し繰り返し継続して実験してください。
ハッと素晴らしい結果が出るときもあるでしょうし、出ないときもあるでしょう。
なぜ出ないのか、なぜ出るのか。法則が全部あります。
そうして体験されたら、その体験を来月のセミナーで「こういう結果が出ました。
こういうときには出なかった」と、アンケート用紙に書いてください。そうしたら、私がケースバイケースで、具体的に解説いたしましょう。
一通りのことは全部、私も体験しております。失敗も成功もさせられております。九分九厘まで失敗かと思ったら、最後の一厘でどんでん返しで成功した、ということも多々ありました。まあ、たくさんのプロセスを踏んでおりますので、ほとんどの悩みごとはお答えできると思いますので、来月までの宿題です。
今日からの一ヶ月間、祈りの実践をなさいまして、結果をアンケート用紙に書いてください。そのうちのいくつかを実例として取り上げ、解説してみたいと思います。質疑応答も日常生活に即したことを取り上げたいと考えております。
神界、霊界、現実界のバランスを大切に
ところで、今日初めて参加なさった方、私の顔を初めて見る人は、ちょっと手を挙げてください。ああ、何人かいらっしゃいますね。どうもみなさま、ようこそいらっしゃいました。
ワールドメイト(著者の主宰するグループ)は、中心に植松先生という方がいらっしゃって、私がやってきたわけですけれど、今度は弟子の七澤さんが本を出します。
だいたい霊能者さんとか宗教の教祖さんというのは、よく本を出したりします。しかし、お弟子が負けないくらい本を出している団体はあまりない。だから結局、尻つぼみになってしまうのです。
それに私自身、いかにも教祖然としているのは好きでもありませんし、教祖一人が目立つということにも疑問を抱いております。その意味で、私以上にお弟子たちが立派になってほしいと願っております。
しかし、それには生きた見本が必要です。追いつけ追い越せという目標がなければ、何をどう努力したらいいのか、努力の方向性が見えてきません。
やはり、営々と努力をつづけていくためには、生きた見本が必要なのですけれど、その生きた見本があるところが組織のよさです。組織というのはいろいろ問題もあります。
しかし、先輩方の素晴らしさに学ぶ、先輩たちを目標に精進努力する、あるいはできるところが組織のよさではないでしょうか。
たとえば、神様ごとに関しては、七澤さんは私のお弟子ですけれど、作曲に関しては、七澤さんは私の先生です。
七澤さんが作曲した『与作』は百万枚以上売り上げております。私も作曲を勉強し、それなりに曲をつくっておりますが、やはり追いつけ追い越せという意気込みで、いろいろと教わりながら絶えず努力しております。
大事なのは、涙と汗と努力です。汗を流し、血を流すような努力をし、そして葛藤する。
その体験が人々に感動と影響を与えるのでありまして、神様はそういうような道を何十年と私に歩ませてきました。まあ、お弟子も同じように苦労の道を歩んできましたけれども、これからも精進努力の道しかありません。
私は宗教家でありますが、同時に仕事を持っております。ですから、あくまで社会性を大事にし、そのうえで霊的な世界や神様の仕組といったことを探究する。つまり、現実と神霊界とのバランスを大事にしているわけであります。
人にはそれぞれ得意な分野、現世の得意な分野があります。私はつねづね、その持ち味ということを尊重しており、七澤さんが今度自分自身の信仰体験をまとめた本を出します。
七澤さん以外のお弟子も、順次本を出していく予定です。
それぞれの個性がありますので、お弟子のみなさんが本を出していくというのは、非常に素晴らしいことだと思っています。
神業は大きなものでありますので、お弟子といっても、すべての面で私がすぐれているというわけではありません。神業の分野で私が先頭を切っているだけでありまして、別の分野ではお弟子のほうが立派なケースも多々あります。
ワールドメイトには、勉強の場があって、またそれぞれの実践の場があるわけです。ですから、道を探究、追求するのと、社会の実践、事業というもののバランスを持つことができるわけです。
ワールドメイトの会員は主に個人ですが、なかには霊能者さんもいます。宗教団体の教祖さんがいらっしゃったときには、「神霊世界はこうなっているんですよ」と、私が知り得た神霊世界の真実を教えてあげます。
するとその教祖さんは、自分の教団に帰って、そのとおりに信者さんにお話しするわけです。
道は普遍的なものです。ですから、その宗教団体が良心的な団体だったら、それでいいと。
要は道が弘がればいいわけで、普遍的な真理に基づいているかぎり、ここの団体だから守護して、ここの団体は守護しない、なんていうことは絶対にありません。宇宙の◎神はそんなちっぽけなものではありません。
ですからまあ、そういう大らかさを大事にして、人材の育成に関してはもっと広く大きく考えようと思っております。
私以上に、七澤さんはじめ、その他のお弟子もどんどん正神界の本を出しますので、その分、お弟子たちの個性が輝きます。みなさんも、そういうお弟子たちの本を読まれまして、幅広い勉強をしていただきたいと思います。
その人その人の立場から見た神業を語り、お互いを讃え合っている。私一人が目立つのではなく、グループで繁栄しようという考えに基づいているから、心の友情が通い合うのです。
神霊界でつながっていたらいいじゃないか、ということです。そういうことで、みなさまも初期のご縁で集まっておられますので、これからもますます素晴らしいご神業をしていきたいと思います。
ということで、これで終了したいと思います。どうもありがとうございました。
