御魂の力で開運する(Vol.4)

「御魂の力」とは何か

実は今、スキーの練習もしております。スキーはまだトータルで七回か八回かしかやっておりませんが、シルバーぐらいにはなりました。そのかわり、難行苦行の一つとしてやっています。(編集部註・平成三年現在)

一人で滑ったことは一度もないです。いつもコーチと一緒に滑っていますが、「あれほどスキーを真剣にやる人はいない。死にそうな顔でやる人ははじめてです」と(笑)。

スキーをやって累計で七日目か八日目です。それで傾斜が三十二度のこぶ滑りの一番上、断崖絶壁のようなところから滑るのです。自分のレベル以上のコースに挑戦するから。

「よーし、もう死んでもいい」という気持ちで、守護霊と神に最後のお別れをしてから滑ります(笑)。

こぶ滑り、もうホントにウワーッです。三十二度になりましたら、もう死を覚悟します。最初に滑ったときにはコーチも、「よく滑りましたねえ」と。

初めのうちは倒れてばかりでしたが、途中から倒れなくなりました。私の場合は、滑りながら落ちるというのですが、とにかく倒れないように倒れないように、なんて言いながら、何度も倒れますけども、途中から倒れなくなりました。まあ、簡単なんです。そのコーチの守護霊を借りて滑るから(笑)。

「いやあ、できましたねえ。理想どおりの滑りですね」

「そ、そうですか」

そのコーチがいなくなったら全然できないわけです(笑)。そのコーチの守護霊が私に映るのです。

やはり、守護霊がハラハラドキドキして、こちらに映ってしまう。

だから、教えてもらうときは、上手な人に教えていただいた方がいい。上手な人は、自分にはできるという意識を持っているし、それに高級霊がついていますから。

「頑張れ、頑張れ」と、向こうが思いをかけてくれるから、自分のレベル以上のものが、いい意味でひょいっと憑霊する。するとハッとできるようになる。

ですから、いつもいい先生を選ぶようにしているわけです。霊層が高くてパワーが強い人で、圧倒的な技術がある人に目をかけてもらうと、その人の持っている運で自分がうまくなります。不思議なものです、ホント。

「やれるんだ!」と思っている人ですから、そのコーチは。その傍にいると、「やれるんだ!やれるんだ!」という念が来ますから、「やれるんだ!」という気持ちになって、実際、できてしまうわけです(笑)。

これ、私の一つの秘密です。うまくなる秘密です。

「やれるのか、どうなのかな?」という、不安を抱えている人に教えてもらうと、「やれるのかなあ、どうなのかなあ」と、ますます己がダメになる。

だから必ず、圧倒的なレベルの人に教えてもらうようにしています。忙しいですから、そんなに何回も何回も教えてもらうわけにはいきませんが、回数が少なくてもいいから、頭を下げて教えてもらう。

そうすると、「やれるんだ!」という自信を持っている先生だから、そういう霊域がある。その中でいつも一緒に親しく、己を無にしてやると、向こうの守護霊が映ってくる。

私は何でも映るほうですが、無にしてやるとそれが映ってきて、「やれるんだ!やれるんだ!」と、ますます自信が湧いてくるのです。

「深見さんはいつも自信に満ちて頑張ってますね」

「ええ、まあ」なんて。

実際はコーチの守護霊を映しているのですが、問題はコーチがいないとき、一人で滑るときです。周りにいっぱい滑っているでしょう。

いろいろな人が滑っています。それが全部映って、同じように倒れる(笑)。

前の人が右に倒れると、同じように右に倒れる。こっちの人が左に倒れると左に倒れる。だから、何も見ず、神を見て滑らなければいけないわけです。

人が通ったら、ふとその守護霊が映って、同じように滑っています。

「深見さんは滑り方が一定してませんね」

今の課題はそれなんです。だから、コーチの写真を見ながら滑るとか、何らかの私なりの新しい技術を開発しなければ…。困ったスキー技術です、私のは。

私のコーチは菊池英男先生といいますけれど、その先生がご自分の本の中で私のことを書いてくださいました。去年か一昨年、スキーを生まれてはじめてやったときのことです。

それが北海道のニセコスキー場。

それからスキーを練習するようになったのですが、あのニセコスキー場の初心者コース。リフトを降りたところがすぐ傾斜しています。

だから、まっすぐ行かないと下に落ちそうになる。リフトを降りてからゲレンデに出るまでが、本当に緊張します。先生も、

「大丈夫ですか、大丈夫ですか」

「だ、だ、大丈夫だと思います」

リフトから降りたら突然急傾斜で、しかもボコッと窪んでいるところがある。それで、穴がボコッとあいているところに落ちて、パッと私の姿が消えた(笑)。それを見た先生は、

「あっ、骨折でもしなければいいのにな……」と思ったそうですが、それでまあ、私は身体が柔らかいから、穴に落ちてペシャーンとなったけれど、またスルスルと起き上がったのです。

「身体が柔らかいんですね」と、驚いていましたけれど、私は転んだ拍子に足がつったものですから、その場でスキーを外して靴を脱いで揉んでいました。

「どうしたんですか?」

「いや、ちょっと足がつって痛いので、マッサージしているんです。大丈夫です、すぐ回復しますから」と、足をピッピッピとやりながら、ギュッギュッギュッとやったら、痛みがだいぶ薄らいできた。

「あっ、回復した回復した。ここを少しねじっちゃったもんですから」と言って、自分で靴を履いて、「さあ、先生行きましょう!」と、明るく元気に言ったら、菊池先生がびっくりした顔をしていました。

「私は今まで何千人という人を教えてきたけれど、はじめてスキーをやったときに、足が少しつっちゃったから、痛いからとゲレンデのど真ん中で靴を脱いで足を揉んだ人ははじめてだ。普通は、コーチと一緒だったら、痛くても辛抱して滑りますよ」

たしかに、ゲレンデのど真ん中です。すぐ近くを人がピューピューピューピュ滑っているわけです(笑)。そういう状況だったら、普通の人は足が痛くても我慢して滑るかもしれないけれど、人は人、私は私です(笑)。

私は足が痛いわけだから、そんなので滑れるもんではないと思うから、人がピューピューと滑っている中で揉んでいるわけです(笑)。痛いんですから。

「すみませーん。回復しましたので、先生、滑りましょう!」と言ったら、「そういう人はいなかった」と(笑)。

「このように自然に振る舞える人ははじめてだ」と。

そういうふうに、人が滑っているど真ん中で、足がつったからといってマッサージして、「もうしばらくお待ちください」と堂々と揉んで、「回復しました!」と言って、清々しくまた滑っていくわけです。

最初の体験がそのように恐ろしかったものですから、あとはまあ楽です。生まれてはじめて滑ったところがニセコでしたから、ホントに。

だから、先生曰く、その先生が、何に驚いたかって、そういうふうに普通は振る舞えないらしいです。

「やはり大勢の上に立っている指導者や、一つの道に秀でた人は、精神性が違いますね。どういうときにどういう精神状態で臨めばいいのかがわかっているし、自分の精神と肉体をベストコンディションに、いつも持っていくコントロールがうまいんだ」と。

会社の社長をやっている人でも、上達の早い人は、運動神経がいいというよりも、スキーに対する心構えとか精神性が優れているみたいです。

「肉体をどういうふうなコンディションに持っていけばいいのかがわかっていて、自分なりにいつも調節ができる人が、やっぱりその一つの道に秀でた人で、大勢の上に立つ人間はそうでなければいけないんだ」とおっしゃっていました。

何千人も教えた中でそういう人ははじめてだったらしいです。

私は、無意識でやっていただけです。いつも、背後霊とか前世を見ながら滑りま
す。その先生の霊に教えていただくと思っていますから。

その事柄に対しては、向こうの方が偉いですし、他にどんなことができても、その事柄に関しては自分は弟子だから、やはり礼節を持って、馬鹿正直なくらいに言われたとおりにやります。その先生と同じ顔の表情で滑りますから(笑)、

「深見さん、顔まで似せなくていいんじゃありませんか」と言われます。その先生と同じ顔をして滑っています(笑)。

同じスロープで同じように滑っていきますから。

その先生はプロを教える先生です。デモンストレーターで、サーッと滑っていくから、私も同じようにサーッと滑ります。

「よく滑りますね」と言って、その先生の滑るとおり物真似しているだけです。それでできてしまうわけです。馬鹿正直に言われたとおりにします。

自分が知らない分野の立派な先生だと思って、敬意を表して礼節を持っていますから。

だから、なにかやってダメなときや、うまくいかないときには、「ああ、自分の精神性と肉体が老化しているから、自分でこういうふうにして」とコントロールして、自分なりに調節する力があったら、どんな状態であっても困難を越えていく。越えていく力が御魂の力なのです。

「御魂」と「身魂」

私たちが持つ神魂と霊体と肉体、これを全部総称して御魂です。だから、「身魂」とも書きます。霊心肉、これを全部合わせて身魂。

いわゆる御魂は身魂の一部で、神魂と言うべきかもしれません。だから、誤解がないように、「御魂」という字を使ったり、「身魂」という字を使ったりします。植松愛子先生は、「みたま」とは見たまま、姿とは「す」の型だ」とおっしゃっていますが、こういう意味が御魂の中にあるわけです。

その人の「す」、ご本霊とか御魂は、その人の姿。ですから、身体も格好もボロボロで、中身だけ素晴らしいというのでは、やはりよくありませんし、本来あり得ない話です。

内面的なものが形、すなわち霊体・肉体の輝きだとか、美しさだとか、柔らかさだとか、振る舞いだとかに現れ出てくる。それは全部、御魂の働きです。

だから、「身魂」という字を当てはめる場合があります。この「身魂」という字を使ったほうがわかりやすいから、「霊心肉、全部を総称して身魂というんだ」と。

御魂の現れはそこまであるから、霊心肉、総称して考えたほうがいいです。

そう思ったら、御魂の働きは肉体の隅々まで流れ、肉体を鍛えると霊体と神魂に影響し、神魂が充実すれば霊体と肉体に影響を与えるという具合に、霊心肉のそれぞれが互いに影響し合います。

死とは何か

死んで肉体が滅んでしまうと、御魂は神界に、霊体は霊界に、肉体はお墓に(笑)、それぞれ帰っていくのです。

霊体があっても、意識があっても、「あ、あなたにはもう死の相が出ている」というときは、御魂が神界に帰っている。神魂が帰っている。

霊体と肉体だけが残っていて、顔にもう輝きがない。霊体はありますから、まだ肉体は動いているし、命もあるわけです。しかし、また神魂が帰ってきたら、パーッと顔が輝きだして、やる気と情熱が出てきます。

死というのは、霊体と御魂が両方消えていく場合が死です。普通は、霊体が霊界に帰るそのちょっと前に神魂が帰っています。

人はなぜ、御魂を磨かなければならないのか

この神魂、御魂も、ますます進歩発展しようとしています。別の質問にありました。

「神魂というのは神様なのに、なぜ、さらにまた御魂を磨かなければならないのか」と。これは、私の「信仰の道』(たちばな出版刊)という本にも書きました。

日本の曹洞宗の開祖として知られる道元禅師は、「衆生本来仏なり。つまり衆生は本来、仏性を持っているといわれている。それなのに、なぜ修行して仏性を磨くんだ。おかしいじゃないか」と思いましたが、そうではないのです。

このことについて、親鸞上人がまだ善信と名乗って法然上人のところで修行をしていたころ、兄弟子さんと善信が話し合った。

「お前が言う南無阿弥陀仏と、お師匠さんの法然上人がおっしゃる南無阿弥陀仏は同じか、違うか」と。先輩が、「違う」という。親鸞すなわち善信は、「一緒だと思う」と答えた。

それで、じゃあ、お師匠さんに聞いてみよう、ということになって法然上人に尋ねた。法然上人は何と答えたのか。

「南無阿弥陀仏と唱えて祈ろうというのは、阿弥陀如来様から来る御心だ。われわれの中にある阿弥陀如来の部分が、南無阿弥陀仏と言っているんだ。

その意味において、善信が言う南無阿弥陀仏も、私が言う南無阿弥陀仏も同じだ」

こういうふうに答えたと残っております。

「本来、仏であるのに、人はなぜ何のために己を磨かなきゃならないんだ。悟らなきゃならないんだ」

それに対する道元禅師の答えは、「肉体を持って生まれてきても、ますます座禅をして己を磨き、精進しようという心、その心の部分がその人の仏様の発露なんだ。仏性なんだ」ということです。

仏様も、仏性もますます大宇宙の無極に向かって、進歩発展、向上しているわけだから、仏性を輝かしても、悟りというのは一枚悟ればいいというものではない。

二枚悟り、三枚悟り、四枚悟り、五枚悟りと、ますます悟りを深めていかなければいけない。

白隠禅師は、「われ大悟徹底すること七度八度、小悟徹底すること枚挙に暇なし」と言いました。

大悟徹底、ウワーッと悟りが開いたというのが七度八度。小悟徹底、小さく悟って徹底すること、こんなのはもう枚挙に暇なし、と。

だから道元さんは、「人間は仏様になってもますます輝きつづけて、ますます奥深く悟っていくものであって、これでいいということはない」と言った。

悟りはどこまでも深くなる、大きくなる、細やかになる。

私たちに内在する神魂も同様です。神の分魂ではあるけれども、神というものはますます進歩発展し、向上し、広がっている。

いっときも休むことなく。だから、いっときも休むことなく進歩し、発展し、向上し、磨いていこうという私たちの中の発露、これが御魂の部分。神魂様の顕現している姿なのです。

仏界の次元でいうと、より悟りを深めて、より内的に向上していく世界へ行くのだという私たちの部分が仏様なのです。

道元禅師は、座禅そのものが目的と考えた。

「修証一如。修行していくそのプロセス、そして、修行するごとに与えられる証覚、悟りは一つだ。座禅は手段ではなく目的なんだ」と。

座禅そのものが尊いということで、「座禅をして、しかるのち悟るなんていうものではない」そういうふうに道元禅師は悟ったわけです。

「人心これ危く、道心これ微なり」

霊体というのは、たとえば草木でも動物でも何でも、霊を持っています。意識があります。動物の意識、植物の意識。猫でも霊体を持っていますから、机も長年使っていると机に霊体ができます。

草花でも猫でも犬でもみんな霊体を持っています。

しかし、神魂がないわけです。

神魂というのは、精進し努力し研究しようとする発露です。信仰心や芸術や学問で、一言でいうと「文化的に己を高めていこう、向上していこう」という意欲と御魂の輝き、情熱、精進という神なるものです。

猫や犬とか猿とかゴリラには、そんな芸術的な感覚というのはありません。

どんな動物も植物も、宗教性なんて持っていません。神を信じて拝んでいる猿がいますか。突然、海の上に飛び上がって二礼二拍手して、真剣にお祈りするイルカなんかいません(笑)。

どんなに高等動物だといっても、朝夕、二礼二拍手しているマウンテンゴリラの集団なんか見たことがない(笑)。チンパンジーは真似しますけど、信仰心というのはない。人間にしかないのです。

学問をする猿はいません。毎朝毎朝、猿が本を読んで勉強して、「来るもの拒まず、去るもの追わず………」というなんてあるわけがない(笑)。

学問する心、信仰して神なるものを自覚して祈る心、芸術的な感性、それらは万物の霊長たる人間にしかありません。普通の動物には霊体があるし、意識もあるけれども、神魂はないのです。

神魂がない人間は畜生と同じだから、死ぬと畜生道に堕ちます。霊界では動物のような格好をしています。逆に、神魂の思ほすままに自分の霊体をもっていくと、輝かしき神のような姿になる。

霊体というのは肉体の裏の部分ですから、この裏の部分の霊体が動くと肉体も動くわけです。

神魂、御魂の部分のことを「魂」と言います。

一方、オギャーと生まれたときの肉体を維持していく、本能的な衝動とか意識を「魄」と言います。寝て食べて、子孫を増やしていこうという意識は、猫や猿も持っている本能的な衝動で、これを魄と言うわけです。

魂と魄。

御魂からくるものが、いわゆる「道心」。これは「魂」です。

前にも言いましたし、「大天運」(たちばな出版刊)にも書きました。

肉体から来るところの霊体というものが「魄」。これは儒学でいうところの「人心」、ひとごころ。

「人心これ危く、道心これ微なり。これ精、これ一、允にその中を執れ」と、「中庸」に書いてあります。舜が禹に、政治家と帝と聖者として、「聖人の道」を全う成就するためのポイントとして伝えたのが、「人心これ危く、道心これ微なり」という言葉なのです。

「道心」というのは神魂から来ます。芸術、信仰心、学問を、一生懸命に道心を持ってやろうという、その内的な、文化的な、神なる部分。

「人心」というのは酒池肉林。金と権力と肉体的な喜び。物質的な、肉体的な、あるいは動物的な世界での喜び。これが人心。

その道心と心、魂と魄。この両者の戦いです。そして、道心が人心を乗り越えた状態というのが、御魂が肉体を制覇した状態で、肉体をポンと割ってみたら中が神様になっています。死んだらそのまま神界へ行くのです。

魄が大きくなった場合には、権力と闘争と欲望、動物的な面がウワーと前に出てしまっているから、神魂がダメになってしまい、道心が消えてしまう。

人心が大きくなり魄が勝ってしまって、御魂なんてのはもうプツンと消えてしまう。人の皮を被った獣みたいなもので、猫や猿や動物と同じだから、死んだら畜生道に堕ちます。

こうやって、道心と人心、魂と魄との戦いが、つねに我々の中で行われているわけです。我々の中に、魂と魄の両方があるわけです。

魂が魄をウワーと押さえ込むと、魄が消えてしまった状態になり、霊体が清純化されて、神魂の御魂のレベルと同じぐらいになって、区別がなく一体になる。

それを「神上がり」と言います。死んでそのまま神界に帰る。

魄は、肉体ができたときに持っているものですから、当然生命を保持するのに必要です。肉体がある間は全部は消えません。やはり、生命を維持していかなければいけないですから。

魂が消えてしまって、魄が強くなっていけば畜生道に堕ちる。魄の極致は畜生道です。人でありながら畜生と一緒。いるでしょう、金の欲、女の欲、権力・・・、要するに、文化レベルがまったくないわけです。

人としての高貴な部分がないわけ。姿にも形にも出てきます。その反対の極致が神上がりです。

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御魂の働き、一霊四魂

御魂というのは、奇魂、和魂、荒魂、幸魂、その各部全部を合わせて御魂です。

それぞれ全部が、御魂の働きの一霊四魂なのです。(編集部註・くわしくは「強運」(たちばな出版刊)をご参照下さい)

分離すると肉体は荒魂で、肉体に荒魂が感応する部分が多い。特に筋肉です。

和魂は霊体の内臓機能です。内臓をバランスよく調節しています。

それから感情というのは、幸魂です。奇魂は直感、閃き。神魂の部分です。

しかし、そのそれぞれに接点があり繋がっています。バラバラではないのです。

だから、あまりにも奇魂が過剰で、神経がピリピリする人は、肉体、特に筋肉をトレーニングすると荒魂が増幅されますから、ピリピリが柔らかくなって気持ちが穏やかになります。

神魂、霊体、肉体

人間というのは、三重構造です。霊体が霊界、神魂が神界、肉体が現実界。(編集部註・くわしくは『強運』(たちばな出版刊〕をご参照下さい)

そういう意味で霊体というのは中間点です。霊体があるところが霊界。

だから、霊体が清められますと、奇魂に近い神々しい姿にもなるし、逆に、肉体の欲求に盲目的に従っていると畜生、動物のような姿になります。霊体というのは、いわば問屋さんのようなものです。

神魂がメーカーさんで、肉体が小売店です。

厳密には入り組んでいますから、明確に分類するのは難しいですけれども、だいたいそこに属するものだと考えていただきたい。

三重構造が相互に関連し合っています。霊体が想いの世界。神魂が感覚の世界。現実界(肉体)が肉感。こういうふうに分類できます。

この「想い」と「感覚」というのも微妙でして、一概にはいえないわけですが、どちらかというと「感覚という言葉で言えるような直感力」が感覚。そして、「いろいろな想いとか念」が想い。

ただし、それぞれがバラバラにあるのではありません。わかりやすく分類して説明しておりますが、現実にはバラバラではありません。入り乱れております。重なっております。

想いもあれば、感覚もあれば、肉感もあれば、というふうになっているわけです。

一つの自分という想いの中に、「感覚の部分」だとか「ああだこうだと思っている「想いの部分」だとか、「肉感の部分」だとかが同時にあるのです。

それをわかりやすくするために、要素を分類しているだけで、バラバラにあるわけではありません。ですから、肉体のパワーが強くて粘着気質の人は、霊体の力も強いし念力も強く、なんか威圧感がある。影響しております。

神魂が強烈な場合は、霊体に影響を与えるだけでなく、肉体にも影響を与えます。

霊体を輝かすことによって肉体を回復し、霊体を強くして想いの力で奇魂を調節したり、逆に、神気を受けることによって霊体を清め、肉体を清めたりする。肉体をトレーニングすることで、霊体や神魂を強くする。いろんな方法があるわけです。三つが関連し合っていますから。

人によって、どこかが弱くてどこかが強いのですが、究極はよくなったらいいわけですから、霊体を清めてみたり、肉体を強くしてみたり、感覚を変えてみたり、神気に触れてみたり、あらゆることをしてよくしていくことが大切です。三つの要素があるわけですから。

だから、私たちの「霊心肉の状態」というのは、いろいろな見る角度によって説明ができます。

道心と人心という角度で見ることもできるし、魂と魄ということもできるし、神魂と霊体ということもできます。全部真実です。

人間をダメにする観念信仰

全部真実ですけれども、頭でそういうふうに分類できても、現実に今生きている精神だとか霊体だとか肉体をベストな状態に、いかにして維持し、内的にも外的にもいかに維持して素晴らしくしていくのかが重要なのです。

分類がどうのこうのといっても、現実というものはいろいろな角度から見ることができるわけです。一つの見方も真実だし、別の見方ももちろん真実です。

現実、事実というものを、いろいろな角度から見て分類している。それはみんな真実です。「どれが本当ですか」と言いますが、どれも真実です。正しい見方は一つだけではない。どれも正しいのです。ただし、

「一つ、この考えだけが本当に真実だ」というのが正しくない。

正しい見方は一つだけではなく、いろいろな角度から見ることができるのに、「一つだけが正しいものとしてしまいたい」というのが問題で、そこが間違っているわけです。

世の中の現実というのは刻々に変わっているわけで、一つの見方しか正しくないというのは観念。それも正しいかもしれないけれど、ほかにも見方があります。

世の中を全部、素粒子で見ていこうという考えがありますが、素粒子で見ようとすれば、全部、素粒子です。

あるいは宋学でいう「気」で見ようと思えば、全部、気です。しかし、生命体というふうに考えれば、全部、生命体です。全部、神の御心だと思えば、全部、神の御心です。

禅宗では、「森羅万象これ悉く仏性ならざるはなし」と言いますけれど、森羅万象はすべて仏様の仏性なんだ部、仏性です。

「先生、どれが本当なんですか」

「全部正しい」と。

人間というのは、知性で一つにしてしまいたがるのです。どれか一つに絞ってほしい、そのほうがわかりやすいから。

まあ、角度が違うだけで、道心と人心というふうに分類することもできるし、その道心と心を魂と魄に分けて、魂が奇魂であり、霊体が魄の部分ということもできます。

だいたいがわかればいいわけです。その分類だけで一生涯を費やす人もいますけれど。

全部真実。見方が違うだけです。問題なのは、「この一つの見方だけが真実で、それ以外の見方がおかしい」というのがおかしいのです。いろいろな物の見方があるわけですから、その見方の中で自分の感覚をより素晴らしく、霊体をより素晴らしく、肉体をより素晴らしくするにはどうしたらいいのか。

「今の自分がより素晴らしくなるには、こう考えた方がいい。それには、こう考えた方がいい。こういうな考え方で荒魂を鍛えてみよう。

または、現実の想念だ」とか。

一霊四魂で説明できますけれども、すべてがそれで説明できるわけではないのです。ケースバイケースで違うし、要件が違うわけで、一つのものの見方が絶対的であるわけではない。

その一つの見方は正しい。正しくないのは、「それしかない」というものの考え方で、柔軟な人はそうやっていろいろな角度から見ます。見るけれども、「どれとも言えません。答えがない」というのが真実です。

「一霊四魂」は人が勝手に決めた言葉ですから。わかりやすくするために、人が勝手に分類している要素です。そう考えるのが、私は正しいと思います。

神霊界に関するいろいろな考え方があります。その一つひとつはみんな真実かもしれないが、それだけが真実ではない。

いろいろな角度、いろいろな局面があるし、 TPOによって変化しますから。それをいつも頭で理解しようと思うのは、観念の信仰。そんなことをいくらわかったところで、荒魂が強くなるのか。奇魂が強くなるのか。

荒魂が強く、奇魂が強く、いつもベストコンディションで生きていて、調節機能が素晴らしく、どんな問題に遭遇しても見事に解決できる、死んで素晴らしい霊界に行っていらっしゃる人は、あらゆるものを見ても、「一応、まあ真実だろう。しかし、一番大事なのは、ただ今の自分をいかに素晴らしくしていくのかということなんだ」と、そう考えています。

これが「惟神の道」です。

教えとか、知性というものは、己を高めるためのプロセスにすぎないのです。

現実に和魂、奇魂が動かせないし、荒魂を発達させられないし、霊体や奇魂を素晴らしくすることができない人間が、こんなことがわかったところで、意味がないわけでしょう。人間というのは、そう陥りやすいのです。

今の自分がより素晴らしくなることが一番大切

私が今、申し上げたのはみんな真実です。みんな一面を穿った見方です。現実に使いこなして、素晴らしいことができたらいいわけで、こんなものをいくら知っていても、どこも動かせない人間には無意味なことです。

「ああ、そうか。道心は微かなんだな。あれをしたい、これをしたいというのは心なんだな。魄なんだな。自分の中の魄の部分だから、これに負けちゃいかん。

だから、寸暇を惜しんで本を読んで少しでも己を磨こう。それが微かなる道心なんだ」と

「微かなるがゆえに大切にしなければいけない。魄のほうが物質界に近くて刺激が強いから、精進努力して心掛けなければ、つい流されて魄に向かってしまう」そういうふうに考えたらいいわけです。

「神人合一というのは、神様に近い存在になることなんだ。だから、微かなるがゆえに消えてしまいそうな道心を大切にしながら、素晴らしい感覚のものを勉強していこう」

「奇魂を磨くことによって、神界との交流をしていこう。神界との交流だけではなく、人間としても文化的レベルを磨いていこう。

そうすることが、万物の霊長た神なる部分を生み増やしていくものなんだ」

「神魂もまた進歩向上しているから、学問、芸術、信仰心を磨いていかなきゃならないんだ。だから、いろいろと忙しいけれども、少しでも時間をつくって己を磨こう」

「あれだこれだと、いろいろ煩悩や欲望があるけれども、これは肉体、霊体の要求する人心の要求だ。これは危うい。

人間の堕落と失墜と失敗と困難はみんな、この心の中から出てくる。これを修めなきゃいけないんだ」

そういうふうに思って、この世的なものに対する欲求を節していく。節欲していく。

「ああ、この肉体というものが、荒魂というのが立派でなければ霊体も弱くなって「負けてしまう」といって、肉体を鍛えてトレーニングして、霊体を清々しくする。

奇魂があまりに過剰だと敏感になりすぎ、バランスが必要だからといって、また肉体のトレーニングをする。

内臓機能が立派になってきたら和魂の調節機能が働く。和魂、内臓が健やかな人は非常に温和だから、人と仲よくできる人が多いです。

内臓のバランスがどこか悪いとイライラ、トゲトゲします。胃腸が健やかな人には明るい人が多いです。「ああ、やっぱり内臓を大切にしなければ和魂が発達しないから、人と仲よくできない。

和の精神というのはやっぱり内臓が健やかでなければいけないから、早く病「気を治そう」と。

「影響し合っているということだから、運動をして身体を元気にして、内臓機能もよくして、感情も豊かにして、一霊四魂のバランスをよくしよう」と。

そういうふうに、ただ今ただ今の己をいかに素晴らしくしていくのか。マイナスをなくし、プラスをいかに強くしていくのか、という精進と努力。教えというのは、一歩も二歩も己を素晴らしくしていくための媒介です。

それを活用しているだけです。

そんなことをいくら知っていても、それがただ今の努力に結びつかないのなら、頭の中に知識がグチャグチャグチャグチャしているだけです。

観念の世界で、「あれはどうでこれはどうで」などと言っているうちに、刻々と時間が過ぎていって老化していきます。

この世の中に磨くものが何もなくて残すものがない。これを「観「念信仰」といいます。

数学頭では神様を理解できない

真実は一つではありません。いろいろあります。それを知性で一つの答えをはっきり出したいというのは、学校教育、数学教育の弊害です。

悟った一言の一つの意味が、五つにも十個にも二十個にも同時にパッと当てはまり、「わかった!」というのが霊覚。

「わかった!」という、その悟りの世界を解説すると十二個も十三個もいえるのが、霊覚の高い人ですけれど、その悟りを解説してしまうと、感動の中身が消えてしまうわけです。

「それは心だよ」と言われて

「そうか!」と悟った瞬間、あらゆる説明がドドドドドドーッと出てきますが、それでもそのものなのです。

悟りの世界を解説し尽くすことはできません。

わずかな言葉でそれだけのことを悟るというのが、高級神霊同士の会話です。内的な覚醒というのはそういうものであって、神霊界での答えというものはそういうところが、学校の数学教育では、「解=いくら」という具合に、答えは一つしかありません。

たとえば、正方形とか正三角形というのは一辺が何々で、頂点の角度はみんな同じである、と。

そういう勉強をすると、世の中には正方形とか正三角形が存在すると思うではありませんか。しかし、現実には正方形なんか存在しないし、正三角形も二等辺三角形も存在しない。

かぎりなく正三角形に近いけれども、どこか寸法が狂っております。

かぎりなく二等辺三角形のようだけれども、どこか寸法が違う。正方形も長方形も存在しません。あれは理論上の計算であって、実際にはかぎりない誤差があるから、正三角形や二等辺三角形や正方形はないのです。

長方形も微妙に蛇行しております。真っ直ぐに見える線でも、真っ直ぐではないのです。

現実は、理論どおりではない。正三角形、長方形、二等辺三角形、円なんか存在しません。あるのは理論の中だけです。

そして答えも、「解=3」とか、「解=4」とか、はっきりしたアラビア数字で出てくるものだと思っている。

ところがこれは、ピタリ答えが出る問題を学校の先生がつくっているだけの話で、

実際には近似値で、「30000 いくらいくら」というのがもうほとんど。

それが本当の数学です。中学や高校、あるいは大学入試までの数学では「解=3」と答えが出ますが、微分や積分を見ればわかるように、近似値表現でその方向性を示していくのが現実の数学です。

そんな、解=3とか4とからというふうに、ピタと答えが出るものではないのです、現実は。

ところが、こういう教育を受けている人は、何ごとも一個に絞って、「解=3」でなければ納得しない。頭が納得しないようになっています。

こういう人は、神霊界とか霊体とか肉体だとか、現実に生きて刻々に変化しているものは扱えないです。

理屈なんかまったく関係なく、「とにかく身体で覚えたらいいんだ。やるしかないんだ」という人間の方が、世の中で頭角を現していきます。

学校の数学を勉強していても、「行動は関係ない、現実は違うんだ」と身体でぶつかっていく人は、肉体、霊体、魂を動かしていくから、刻々の変化に対応ができ、己の壁を越えて、世の中で成功しています。

学校でよく勉強した人は、数学で割り切れるものだと思うけれども、現実に生きてみたら全部異なり、同じものは二度とないのです。パターンはあっても違うのです。

それを、割り切れないからと悩んでいる。割り切れないものなんです。これが世の中の真実の姿です。

世の中の真実の姿は、国語教育の点数だと思ったらいいです。「これを何字以内に要約しなさい」という現代文なんか、解答がありません。

模範解答しかありません。古文でも書き下し文でも、だいたいそうです。

「これだけのことを書いていたら、まあいいだろう、合格点だろう」という採点。数学のように数値でピタッと出ません、国語は英文和訳でもそうです。論述でもそうです。それが現実です。

ところが、数学頭で神様というものを理解しよう、神霊界というものをとらえてみよう、運・不運を体得していこう、実践してみようと思うから、永遠に噛み合わない、そういう世界です。

真実はいくつもある

わかりますか。永遠に噛み合わないから、永遠にわからないのです。

「全部正しい」「一つじゃない」「いろいろあって楽しい」と。

だから、今はこう考えた方がいいと思うときにはそう考えて、違う角度から見た方がいいと思ったら、違う角度から見ていく。

そのように、ただ今の現実にふさわしいように考え方を採用していって、現実によくなったらいいのです。現実に素晴らしかったらいいのです。「これでなければならない」ということはありません。

何でもそうです。墓相学を研究している人は、「人の不幸は全部墓相が悪いからだ」と言っています。姓名判断の先生は、「全部名前が悪いからだ」と言います。

四柱推命の先生は、「生まれたときの命式が悪いからだ」と。気学の先生は、「引越しした方位が悪いからだ」と。人相の先生は「顔が悪いからだ(笑)」と言います。

大脳生理学の先生は、「頭が悪いからだ(笑)」と言って、何でも頭、頭脳のせいにします。

一つのことをやると、何でも一つのもので、そうだと言ってみたくなるものです、ホント。それが一つの錯覚です。そうじゃないです。現実は一つのものだけではない。

墓相を鑑る人は、何でも墓相。「子孫に関するものは墓相だ」と。

姓名判断を鑑る人は、何でも姓名判断。「やっぱり、おぎゃーと生まれた命式、これ一番大切です」と。

ホロスコープで鑑る人は、何でもホロスコープで解決しようとします。

しかし、それも徳を積むことによって、信仰で変えられるわけです。「何でも信仰だ」と。

そうばかりではない。やはり方位も大事、名前も大事。

それから、印相をやる人はもう、「全部印鑑が悪いからだ」と言います。何でも印鑑ですよ、ホント。たしかに印鑑も大事です。

いいというものは全部やればいいじゃないか。「究極的に全部ダメでも神様がある、信仰がある」と思ったら気が楽だ。そりゃそうでしょう。

「やっぱり姓名判断です」「いや、やはり墓相です」「いや、印鑑です」

「いや、何といっても四柱推命です」「何といってもホロスコープでございます」「何といっても人相でございます」「何といっても霊障でございます」……いろいろなことを言います。

いろいろ見ても全部真実。その中でどれだけ影響が大きいか小さいか。そして人によってどうなのか。

人間というのは、何でも一つのことで割り切りたくなる面があるわけです。観念という一つのもので説明をしたがりますが、現実は違う。

何でも一つの方程式で割り切ってみたくなる。一つの考え方で割ってみたくなる。大きな落とし穴です。

いろいろな角度からの見方があります。その中で一番ピンと来るものの考え方を採用したらいいわけです。

そして、自分がより素晴らしくなり、明るく元気で、エネルギッシュで幸せで、生きても死んでも幸せになるようにものの考え方や教え、法則を活用したらいいのです。

教えを信じているのではなく、教えを活用したらいい。そして、今の自分が内的にも外的にも明るく元気でエネルギッシュで幸せで、向上し進歩して幸せならいいのです。

ますます幸せで、死んでからも幸せ。だいたいいくつかのパターンや法則がわかれば、あとは本人の応用力です。

まず、「解=いくら」の頭を捨ててください。捨てると、新しいものの考え方、向かい方が出てきますから。

個々の質問にお答えしたいと思っていたのですが、きょうの一連の話で、皆さんが今、疑問に思っている公約数が出たのではないでしょうか。

今度お会いするときまで、御魂を輝かして情熱を持っていればいいわけです。

そのためには目標を持って、神柱を立てて、とにかくやっていたらいい方向へ行きますので、あまりそれ以上深く考えない。そのほうが幸せだと思います。

そういうことでございまして、お時間がきたようでございます。

これで終了したいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)