第2章 孤独の中にこそ、本当の神との交流がある
心の金しばりをとこう!
苦しい時の神だのみを、神様は懐かしがっている
人の「苦しい時の神だのみ」ほど真剣なものはない。苦しみが大きければ大きいほど、そこから絞り出される「神様!」という祈りは切実となる。
ところが、それによって救われ、幸せになってしまったら、いつの間にか神様のことなどすっかり忘れてしまうのが人間である。
それでも神様は、幸せそうなその人の姿を見て、「幸せになってよかったね」と、喜んでくれている。
しかし、同時にこんなことも考えているはずだ。
「幸せ一杯なのはなによりだけど、でも、人間はそれだけのために生まれてきたのかな。
魂を向上させるために生まれてきたんじゃないのかな」と。
その人が昔、涙を流しながら、「どうしてこんな目にあうんだ!私が何をしたっていうんだ!神も仏もあるものか!」と夜空に叫んでいたことを、神様はチョッピリ懐かしく思い出す。
なぜなら、誰にも助けてもらうことができない絶対的な孤独感の中で、歯を食いしばりながらもがき苦しみ、神や仏にさえ毒ついていた時こそ、実は、いちばん魂は神様の近くにいたのだから。
「でも、まあ、幸せになったならいいか。私を忘れるくらいの毎日の方が、この世では幸せだな。
でも、あの世に帰ったら、魂はあまり磨かれていないから、中有霊界の上ぐらいか、天国界の一番下くらいで、まあ、いいかな」
神様は寛大だから、きっとそうおっしゃるに違いない。
それはそれで幸せの姿なのである。しかし、自分自身の御魂は本当に喜んでいるのだ
神の与える試練を受け止める
人間は一人ひとり、はっきりと目的を持ってこの世に生まれてきている。自分が霊界にいるときに、「今度はこういう修業をして御魂のレベルを向上させたいと思います」と、神様に誓いを立てて生まれてくるのである。
これが天命である。自分が今世においてやりとげなければならない目的のことだ。
最近、幼児や胎児の能力開発に関する研究が盛んだが、そういう機関でも、小さな子供が自分の生まれてきた目的を、はっきりと親に告げる例が報告されているという。
生まれる前の記憶を、一部持ち続けたまま生まれてきたのであろう。私たちが、自ら選ん天命を持って生まれてきていることの証明だろう。
そういった天命を持っている以上、また霊界に帰るまでの間に、やはり何かをこの世に残しておかなければいけないわけである。
そのため、充分修業ができるようにと、自ら選んで因縁の深い家に生まれてきたりするのだ。
霊界での記憶は、この世に出てくるときに消去(といっても、潜在意識の奥にはしっかり記録されているが)されることになっているので、もちろんほとんどの場合は、自分の天命を覚えていない。
修業しながらだんだんそれに気づいていくのである。その修業とは、自分で自分に課したさまざまな課題を克服し、乗り越えていくことである。
そういった課題が、いわゆる人生の試練となって自分の目の前に立ちはだかるのだ。
使命感を持った高い御魂だからこそ、世俗の幸せと中途半端な満足の中に安住してしまうと、本来の天命と実際の生き方とが噛み合わなくなってしまう。それでは何のために生まれてきたのかわからない。
元々高いレベルの御魂であれば、この世で人一倍恵まれた人生を送ることはできる。
異性にもてるし、家庭運もいいし、才能もあるし、幸せになろうと思えばいくらでもそれに浸ることはできる。しかし、そんなこと(幸せに浸って生きること)のために生まれてきたわけではないのだ。
高いレベルの御魂ほど、恵まれた才能を活用して、神の大御心を成就しようと思っている。社会に何かを成していこうと発願し、それだけの能力を持っている。
ところが、この世の楽しみ事に耽るうちに、あれよあれよという間に年をとっていって、何もできなくなってしまった・・・・・・そんなことでは困る。
だから、神様が霊界での約東に基づいて試練を与えるのである。
病気の苦しみ、経済的な苦しみ、結婚できない苦しみ、対人関係の苦しみ、自分のやりたいことがやれない苦しみ、社会の理不尽さに直面する苦しみ、その他さまざまな形で神の試練は用意されている。
苦しみは他人と共有することができない。悩み、苦しんでいるときの心は孤独である。
でも時には、他人が優しい言葉で励ましてくれるかもしれない。一緒に泣いてくれるかもしれない。
しかし、それだけでは解決しないのだ。心の中では常にただ一人で状況に向かい合い、歯を喰いしばり、挫けそうになるのを必死でこらえながら、試練に立ち向かうしかないのである。
私はこれを「絶対的な孤独」と呼んでいる。
逃げも隠れもできない絶対的な孤独の中にあって、初めて、その人の誠が試される。全力をあげて苦しみを乗り越えるための叡知を振り絞る中で、その人の御魂が磨かれる。
だからこそ神様は、自ら発願し道を求める者に、何らかの試練をお与えになって、絶対的な孤独の中にいるように仕向けてくるのである。それなくして、宗教的人格の完成もあり得ないからである。
宗教家は皆、どん底から這い上がった
絶対的な孤独を神から与えられた典型的な例が、歴史に名を成した数々の宗教家である。
日蓮しかり、親鸞しかり、法然しかり、天理教の中山みき、大本教の出口なおも、皆それぞれパターンこそ違うが、この路線で生涯を送ってきたことは間違いない。
やはり、小さい頃から貧困の中で育ってきたり、あるいは病気で苦しんだり、親戚縁者の中で気違い扱いされたり、牢屋に入れられたり……という苦難の中で求道心を保ち続けてきたのである。
その最たるものが日蓮上人だ。鎌倉幕府と真っ向から闘ったり、伊豆に島流しにされたかと思えば、佐渡ヶ島に流されたりという具合に、あられもない試練を受けている。
とにかく、生まれてこのかたずっと、豊かなる楽しい日々を送っていた宗教家というのはいない。何故なのか。御魂を磨き人格を高めていくのはもちろんだが、それだけが理由ではない。
本当の理由とは、信心の誠を極めるためである。先ほど言った絶対的な孤独が、神との本当の交流を可能にするのだ。
絶対的な孤独の中で追い詰められたとき、人は初めて、心の底から掛値なしの切実な雄叫びをもって、「神様!」という祈りを絞り出すことができるのである。
興味本位でも、名誉欲からでもない。すべての虚飾をかなぐり捨てた、血を吐くような祈りがそこから生まれるのだ。
人はどんなに必死に祈っているつもりでいても、平穏な日常の中にあっては、やはりどこかに余裕があるものである。
「神様、なにとぞ人類の積み重ねてきた劫(悪業)をお許しいただき、大難を小難に小難を無難にまつり替え、一人でも多くの方をお救いいただけますようお願い申し上げます。
あっ、待てよ。テレビのペアで三泊四日ハワイ旅行の懸賞に応募したんだ。そっちが先です。なにとぞハワイ旅行を」といった具合である。
これでは神様は動かない。いや、動いてはくれるだろうが、小指の先ほどだろう。
神様の偉大なる神力を発動させる祈りとは、髪を振り乱し、汗をほとばしらせ、誠の想い極まる中からしか生まれてこないのである。神への信心が極まるとは、そういう状態を言うのだ。
この境地を体と魂で体験しないと、神様のお取り次ぎをさせていただけるほどの、不動の信仰心はでき上がらないのである。
私もそういう人生を送らされてきた。何回、孤独の中で「こんちきしょう」と思って涙を流し、何回、すばらしい奇跡と証をいただいて、「ありがとうございます」と涙を流したことだろうか。
不動の信仰心というのは、その陰と陽との涙の絶対量に比例するのかもしれない。
本当にそういうことが、これでもか、これでもかというぐらいに何度も何度もあって、不動の信仰心が練り上げられていった。
不動の信仰心があるからこそ、不動の実践力があり、神人合一(神と人が一体になる、高いレベルの状態)の道を貫き通すことができる。
そして、神との一体感がより深く、より高く、より繊細になっていくからこそ、神様に体力も精神力も与えていただいて、元気に日々のお取り次ぎもさせていただけるわけである。
この世で不幸な人ほど、あの世で幸せである
神人合一というのは、なにも私が主宰する「ワールドメイト」の専売特許というわけではない。人はみな、御魂を向上させ神のごとくなるために、生まれ変わり、死に変わりしているのであって、人は日々、進歩向上のために生きている。
これは、すべての人に共通する不変の真理なのである。
向上のための御魂磨きであるから、小さい頃から試練を経験していた人は、神人合一の道を歩むという意味において、非常に恵まれているということができる。
この世的に恵まれていない人は、あの世的に恵まれているのである。陰と陽がこの世とあの世で逆転するのだ。
そして、そういう試練を通じ、信心の誠を確立することが神人合一への近道であり、完成形なのである。
信心の誠とはどういうものだろうか。
「それなりに発願して、お蔭ももらっているんだけれども、神様というのがなかなかわからないんです」、という質問をされたことがある。
それはやはり、絶対的な孤独感の中にいたことがないからである。その中から絞り出すような「神様!」という雄叫びがまだ出てこないから、本当の神との交流ができない
修験道では山の中に何日も一人でこもって苦修錬行をしたり、行脚の旅に出たりする。それは孤独の中に身を置くためなのだ。
自分の中に眠っている魂がある。自分でわかっているようでわからない、自分の中の自分の再発見のために旅に出て、修業をするのである。しかし、旅のやりかたはそれだけではない。
本を読んだり、人と話をしたりするのもまた旅であり、修業なのだ。自分の中に眠っている自分の魂は、過去、現在、未来にわたって、森羅万象のことを全部知っている。
それらが、本や人の話や体験などによって、御魂がスパークしたときに、その奥底から弾け出てくるのである。
あらゆる芸術も、あらゆる宗教的悟りも、あらゆる武芸の極意も、すべて御魂の中に存在する。私たちは全知全能を秘めているのだ。
しかし、外から来る刺激によって魂が感動したときでなければ、それは出てこないのである。
瞑想で同じことが体験できるというが、大きな間違いである。瞑想で見るビジョンは本物ではない。本物と出会ったときの魂のスパークとは程遠い。
そういう意味で、真の自分自身を発見するために、旅に出て、友と語り、書物に学ぶのである。魂を揺さぶるような出会いの中に飛び込んでいくのである。
人間、どう転んでも幸せ
人間、どう転んでも幸せである。
例えば、神様のおかげで本当の運が開いて、いい人と結婚できて、子供もいい子で、「ああ、こんな幸せを神様にいただいてありがたいな」というのも幸せ。
逆に、仕事がうまくいかず、結婚にも失敗して体も壊したという場合。それはまた高貴な霊格となって本当の神と交流するために必要な、絶対的な孤独なのである。
宗教的人格を完成させるために、神が与えてくれた試練だと受け止めることができる。
そうすればやっぱり、「ああ、こんな幸せを神様にいただいてありがたいな」ということになるのである。
もしかしたら、単に邪霊が邪魔していただけかもしれない。あるいは前世の業のせいで苦しんだだけなのかもしれない。
しかし、そういったレベルに自分の意識を持っていっては、苦を苦としか受け取れなくなってしまう。だから、無理やりでもこじつけでもいいから、自分の境遇を神の恵みと受け止めるのだ。
そうすれば乗り切ることができる。
客観的に見て、自分の今いる状態が、幸せか不幸せかということは問題ではない。健だから幸せだ、病気だから不幸せだということではないのである。
健康だろうが病気だろうが正しい信心の誠を得た人間は、どちらに転んでも幸せにしかならないのである。
重い病気が治る患者と、治らない患者の違いはこれだ!
ある漢方医がこんな話をしていた。
重い病気なのにすぐに治る患者もいれば、たいしたこともないのになかなか治らない患者もいる。どういうことだろうと思って観察していたら、口ぐせにパターンがあることに気がついた。
どんどん良くなるタイプの人は、「おかげさまで」を口ぐせにしている人が多い。誰に対しても何事に対しても、すぐに「おかげさまで」という言葉が出てくるのだ。
たとえそれが相手のおかげでなくても、「おかげさまで」と言うのである。
逆に、治りにくい人の場合は、「いやあ」という否定語をよく使う。多少、症状が軽くなっても、「いやあ、なかなか良くならないね」と言ったりするのである。
そこで、その医者は思いついて、ガン患者に、「ガンにかかったことを感謝しなさい」と指導した。ガンのおかげで自分に向けられる他人の情がわかったこともあるだろう。
健康のありがたさがわかったこともあるだろう。そういうことをとにかく何でもいいから見つけ出して、ひたすら感謝させるようにした。
すると、ガン細胞が消滅してしまったというのだ。
感謝の念を出すと脳波が波(四~八ヘルツ)になり、それが細胞を活性化させるのではないかといわれているが、医学的なことはまだよくわかっていない。
しかし大切なのは、これが信心の誠と一致していることである。
「おかげさまで」というのは、神様からのお蔭(ご利益)に感謝する言葉である。すべ神様の「お蔭」ととらえ、感謝する信心の誠が、ガン患者に奇跡をもたらしたと考えることができるのだ。
豊かに恵まれてよかったという幸せもあれば、不遇な生涯を送って、御魂のためにはかえってよかったという幸福もある。どんな状況でもそれを幸せととらえられる心に、本当の幸せがあるのだ。
神人合一とは、神と人との深い交流のことだ
ところで、神様というのはどんな存在なのだろうか。
もちろん気の存在であるし、天地の法則も確かに神様の一部である。それから、絶対的な愛を持っている存在、それも神様である。
朱子学では、理気二元説というのを説いている。これは簡単に言えばこういうことである。まず、宇宙は気でできている。
その気が、山なら山、川なら川と、しかるべき方向に形を成して、天地万物自然ができている。その仕組を理という。
つまり、二元説というのは、宇宙が「気」と「理」の二つによってできているという考え方だ。しかし、神界の実相から言うと、これだけでは不十分である。
本当はこれにもうひとつ、「意」を加える必要があるのだ。
すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神にも見られるように、神は「意思」を持っておられるのだ。
それで神の絶対なるご意思というものを尊重し、「天にまします我等が父」というように、神が人格化されてくるのである。私も体験上、そうとらえるのが正しいと思っている。
神は、ただ「気」と「理」によって自然現象として存在するだけではなく、「意」をともなった存在なのだ。だからそこに人格を認める必要があるのである。
これを反映したのが神道の先祖崇拝である。
神道では、我々が今あるのは先祖のおかげだし、その先祖はルーツのルーツをたどっていくと神様から出ていると考える。
したがって神道では、神様というのはお父さまのような存在であり、お母さまのような存在であるととらえられているのだ。
ということは神人合一というものも、神と人との人格と人格の交流でなくてはならない。神様が降りてきてその人に合体するというのも、確かに神と合一した瞬間ではあるのだけれども、それがすべてではない。
本当の神人合一とは、あくまで人格と人格とを交流させることなのである。
神の人格と交流するコツ
では、神に人格があるなら、私たちはどのように交流すればよいのだろうか。
信仰心は厚いのに、神を身近に感じたことがないという人がいる。そういう人は、神を崇めるあまり、神とはまるではるか遠くにあって手が届かない存在だと思っているのである。
神様と親しくするなど恐れ多いというわけだ。
しかし、そうして神との間に距離を作ってしまうことを、神様自身は寂しがっておられる。では、どんな接し方をするのがよいのだろう。
先ほど、神は父であり母であると言ったが、ならば私たちは子供である。いや、むしろ赤ん坊と言ったほうがよいかもしれない。
私たちは赤ん坊が自分の親を信頼し、安心して身をゆだねるようなつもりで、神に心を向ければよいのである。
天理教では、教えを究めたい人は、アレコレ理屈を言うのではなくて、赤ん坊がお母さんの膝の上をハイハイしているようなつもりで信心せよと教えている。
子が母を無意識に慕うように、神を慕っていく心がないと道は究められないというのだ。
黒住教では、信仰はお稽古事と同じだというように説かれている。神と交流する法則がいくら頭でわかっていても、何回も何回も反復練習して、体得していかなければ意味がないということである。
そのためには、やはり神様と慣れ親しむことである。本当の父のように母のように、礼節は尽くしながらも決して他人行儀になることなく、その存在を身近に感じて、人格と人格の触れ合いを高めていく。
そういう感覚が大切なのである。
父である国常立大神が、大愛で試練を与える
自分の本当の魂と直面できる絶対的な孤独に追い込むために、神が試練を与えると先程述べた。
この働きは、父なる働きの神がもたらすものだと考えていいだろう。獅子は、わが子千尋の谷底に突き落とすというが、それはまさに自分の子供に強く育ってほしいと願う父親が、厳しさの中に秘めた大愛である。
では、神界においては、どなたがその役目を負っているのであろう。その代表格ともいえる神が、国常立大神様である。
国常立大神とは、宇宙創造の神、大神が、地球神霊界に降りてきたときのご神名である。
の大神そのものは、宇宙創造神としてあらゆる次元界の上にいらっしゃるが、その力徳をどの次元に降ろして発揮するかによって、御名が変化するのだ。
国常立大神とは、神の分魂(御魂)と肉体を持ってこの世に生まれてきた人間を、ビシッと地にならしていく神様である。
したがって厳しいのだが、それは神界から見た大愛なのである。
この国常立大神は、世紀末にあって地球の立て替え立て直しを行う神でもある。大地の神様だから、国常立大神がいったん力を発揮すれば、天変地異を起こすことも可能である。
そのとき人類は、「神も仏もあるものか」と泣き叫ぶような思いをするだろうが、それもまた人類を進化させ、神人和楽の「みろくの世」を建設しようとする大神の大愛なのだ。
大本教の開祖・出口なおに降りた艮の金神の正体が、この国常立大神だったのだが、なおを通じて降ろされた「お筆先」(ご神示)にもこういうことが出ている。
「身の苦労なと気苦労なとしてもらわんと、この神のご用はできんぞよ。身の苦労なと気苦労なとしてもらわんと、誠の信心、受けとれんぞよ」
また、「嬢やほんでは、この神のご用はできんぞよ」ともある。
苦労を知らないお嬢さんやぽんぽんでは、今回の厳しい立て替え立て直しの神様は乗り切れないというのである。身の苦労も気苦労も乗り越えるくらいの強さが必要なのだ。
私の師匠である植松愛子先生は、なんと七回もの手術を乗り越えておられるが、これこそ身の苦労である。もちろん気苦労も、人一倍されていることは言うまでもない。
私の場合は、一度も手術をしたことがない。身の苦労といえば、小さい頃に赤痢をし腸が弱い程度である。しかし、気苦労の極致は嫌というほど体験してきている。
本当に「身の苦労なと気苦労なと」して、初めて信心の誠が完成するのである。もともと、本人がそういうことを神様に約束して生まれてきているのだが、顕在意識では忘れてしまっている。
それを思い出させるための苦労なのである。
予知や証より信心の誠
以前、講演のために、神様に日本の政治の動向を伺ったことがあった。
ちょうど細川さんが脚光を浴び、政界が新党ブームに沸いていた頃である。誰もが政治の行方にひとかたならぬ興味を抱いていた。
ところが、神様から帰ってきたのは、「政治のことよりも、汝らの信心ができていないことのほうが問題だ」という答えだった。
確かに政治のことは気になるだろうが、そんなことを知ったからといってどうなるのか、選挙で投票する時の参考になる程度ではないか、と神様はおっしゃるのだ。
それよりも、これからの人類の進むべき道、日本の進むべき道を、今の自分とわが為すべきことに当てはめて考えたときにどうするんだ、と。
神業(神様事)の証についても同じである。
平成五年に行われた伊勢神宮の式年遷宮において、二十年に一度のお白石持ち神事が行われた。
これは全国から「一日神領民」として選ばれた奉仕者により、御垣内に新しい石が置かれる神事だが、神職ではない一般の崇敬者にとって、あの伊勢の最神聖域たる御垣内の奥の奥まで入らせていただける機会は、ほとんどこの時しかない。
それゆえに希望者も非常に多いのだが、ワールドメイトはこれまでの伊勢に対する貢献が認められて、その日の神事参加グループの中ではいちばん多い、二百五十人という参加者の枠をいただいた。
そのとき外宮の神様から「三、四日したら証がある」という神示をいただいた。
どんな証かと思ったら、ちょうど三、四日後に台風が四十四年ぶりに関東を直撃した。
神霊的に見れば、式年遷宮によって新しくなった日本を清めるべく、祓戸四柱の一柱たる気吹戸主大神が禊ぎを行われたという証なのである。
こういった出来事は、神業をやっていると日常茶飯事である。しかし、神様が動かれている方向性を知ったからといって、だから何なのだ、と神様はおっしゃるのだ。
普通には知らされてないことを知ると、神業の励みにはなるが、それ以上のものではない。そんなことよりも、只今において、一人ひとりの信心を確立することの方がはるかに大切なのである。
証を喜ぶよりも、人類の幸せを心から祈ることである。
巷には、地震や噴火の時期を予言して、当たると喜び、外れればくやしがる霊能者もいると聞くが、言語道断だ。人々の幸せを真に思う愛と誠があるならば、地震など来ないにこしたことはない。
ならば、天災の起きる時期がもしも示されたなら、それが起こらぬように、神様のお力によって大難を小難に、小難を無難にと、必死で祈らずにはいられないはずである。
さらに言えば、地震の時期を知るよりも、常日頃からその祈りができていたなら、それほど尊い誠はないであろう。
その方がよほど大切なことであるし、神様の眼から見てずっと大切なことなのだ。
そういった信心の誠の確立なくして、神人合一の完成はないからである。
なぜ私が神霊と感応できるのか。
それは神事の際でも、御魂の底からふりしぼるような思いで、何度も何度も神様に祝詞で奉上し、自分の魂のぎりぎりのところから言上申し上げるからである。
ただ形式的に神事を行っているわけではないのだ。私の祝詞が、一、何々、二、何々というような、頭で考えて上げるようなものだったら、神霊はまったく感応してはくださらないだろう。
神事が行われる数週間~数ヶ月前からそのことに気を向けて祈り、また当日は始まるまで三時間も四時間も、一人静寂の中にあって、神と心をひとつにする。
そして拝殿に上がってからは参加される皆さんの代表となり、言葉の奥に深く魂をこめて言上申し上げる。
そういう神祭りだからこそ、神様に届き、大きく動いていただけるわけである。『霊界日記』で有名なスウェーデンボルグも、若い頃はその超人的な天才性で脚光を浴びたが、最後は神に目覚め、信心の誠を得て完成した。
最終的に信心の誠が確立されて、初めて本物となったのである。これは弘法大師も伝教大師も、日蓮も法然も親鸞も、ミケランジェロもダ・ビンチも、アインシュタインも皆そうである。
芸術から入っていったり、宗教から入っていったり、科学から入っていったりと、きっかけはさまざまだが、最終的には信心の誠にたどり着いたのである。
自分の道において、信心の誠が極まるまで精進努力をする。これが神業としての仕事や、芸術をはじめとするあらゆる物事を行う目的である。
楽しく生きられるのも、あと数年
人それぞれに苦労はあるだろうが、時代全般としては、今は幸せな時である。しかし、何の努力がなくても、嬉しいとか、楽しいとか、面白いとか、明るく元気に生きられるのも、ここ数年のことである。
それから先はどうなるのかというと、何とかお助けいただけますように、何とか乗り越えられますようにという、必死の祈願の連続になると神様はおっしゃっている。
特に二〇〇五年くらいからは、それがいよいよ厳しくなるだろう。
環境汚染や環境破壊だけではない。天災もあり、人災もあり、病気も増えていく。助けてくれ、と泣き叫ぶ時代がやってくるのだ。
なぜ私が、信心の誠の確立をやかましく言うかというと、この数年間でそれを確立していないと、そのあと生きるのが辛くなってしまうからなのだ。
たとえば水害が起こって、目の前で子供が波にさらわれたとする。とても悲しいことだし、そのことで自らも生きる気力を失くしてしまう人もいるだろう。
しかし、信心に生きる人間は、これも神様が与えてくださった貴重な試練だと受け止め、その試練を乗り越えて立ち直って強く生きていけるだろう。
また、集中豪雨で家が流されたとする。どんなに嘆き悲しんでも流された家は戻ってこない。水が引くまで待って、たくましく復旧作業に取り組むしかないのである。
そのとき、これも御魂磨きだと受け取れるかどうかということなのだ。
大事なのは、おのれを救うということである。それも霊的に救うのである。おのれの心も救えない人間が、どうして人や世を救えようか。肉体的なものや物質的なものを救えるのは、そのあとのことである。
神が大難を小難に変えて起こす災害もある
ここ数年間の、世の中の激変ぶりは目まぐるしいばかりだ。政治もどんどん変革され、神様のおっしゃるとおりに寸分の狂いもなく進んでいる。
平成七年一月に、神戸を中心に起き、五千人以上の死者を出した阪神大震災はもう申し上げるまでもない。被害に遭われた方々には本当にお気の毒であった。
平成六年も災害はあったし、さらに平成五年は、日本がさまざまな災害に見舞われた年だった。ここ数年、北海道奥尻島の地震と津波、九州を襲った大型台風など、大規模な災害が続出している。
問題は、それを通して神様が何を意図しているか、ということなのである。
まずひとつ言えるのは、関東で起こるはずだった大きな災い・富士の爆発や大地震を、そうして全国的に散らし、あるいは延ばしてくださっていることである(勿論散らすと言っても、関東の地震エネルギーが地方に移るなどという物理的な意味ではない。
神霊的なバランスとして、関東を襲うはずだった天災が各地に振りかえられた、ということである。
これが現実面では、たとえば関東を襲うはずだった地震エネルギーが、サイレント地震である程度解消された反面、予想外の地域に地震が起きる… などのさまざまな事象で現れていると言える)。
なぜそのような形になるのか。日本の首都である東京に大災害が起こったら、国の機能は停止してしまい、災害自体の何百倍もの悪影響が国全体に及ぶからである。
そのため、本来の大災害を雨の禊ぎ、地震の禊ぎ、風の禊ぎという形にして、大難を小難にまつりかえていただいているのである。
また、災害の起きた地域も、禊ぎの働きによって、その土地の業をきれいにしていただけている。
本当なら別の形でもっと大きな災害が起き、おびただしい死者が出るところを、神様が小さな形にしてくださっているものなのだ。
特に気象の災害などは、禊ぎの神様である祓戸四柱大神(瀬織津姫、速開津姫、吹戸主、速佐須良姫)そのものである。
気吹戸主の働きとは、現実界にたとえれば台風であり、風で穢れを吹き飛ばす。
そこに雨を降らせて、穢れを川へせせらぎのごとく流していくのが、瀬織津姫。
それを海まで押し流していくのが、速開津姫。
そして、穢れが大海の藻ずくとなって消えていくという、海の浄化作用のことを、速佐須良姫のお働きと申し上げる。
この四つのエネルギーの働きや、また大地の神のご発動による地震などで、土地が神霊的に浄化されていく。
時にはご神示により、きれいになったところで、その土地の神様にお出ましになっていただけるよう、私たちが行って神事を行うこともある。
平成五年八月、鹿児島の開聞岳のふもとにある枚聞神社の神様にご挨拶にうかがったら、その直後、大型台風が開聞岳の真上を通って上陸し、大きな被害が生じた。
しかし、それによって土地が浄化され、開聞岳の神界が開かれたのである。
しかしその同じ日、細川政権が誕生し、自民党の一党支配体制が崩壊した。日本の政界も大きな禊ぎの時代に入った証である。
このように、災害もただ不幸ということだけではなく、神様の大いなるはからいで生じている場合があるということだ。
勿論、だからと言って災害に遭って苦しむ人々を無視するようなことがあってはならないし、前述の霊能者のような態度で証や予言の的中を喜ぶべきでもない。
胸が痛むような災害が各地で起こるたびに、私たちもさまざまな形で救援の活動をさせていただいている。
甚大な被害に、やるせない思いを抱きもする。しかし違う次元で見た時、その災害がなければ、もっと大きな災いが別の形で生じた可能性もあり、人間の考えでは一概に良し悪しは判断できないのである。
国家の業が国全体を不幸にする
いずれにしろ災害が起こるということは、その土地に業があるのだと言うことができる。そして、自分自身に災いを越えていけるだけの強い運がなかった場合、災害の中でその土地の業に巻きこまれてしまうのである。
こういった土地の業や国家の業、時代の業を総称して「供業」と呼ぶ。
日本も太平洋戦争中、三百万人の人が亡くなった。一人ひとりは前世の業や家代々の業で亡くなる運命にあったのかもしれない。
それにしても、国民が三百万人も亡くなったのである。これはやはり、日本がそれまで知らず識らずに犯した、国としての供業が原因なのだろう。
日清戦争、日露戦争、そして第一次世界大戦を通じ、日本人が心おごりをして、知らないうちに積み上げてきた供業が、第二次世界大戦で一気に吹き出したのだ。
皆それぞれ、業もあれば徳もある。なのに国民全体がひとつの災厄に巻きこまれていということは、日本そのものが大きな供業の中に入ってしまったということだろう。
逆に言えば、あの時代に生まれてきて、それを乗り切った人というのは、よほど強運だったと言えるかもしれない。だがそうした方でも、さまざまな苦労を体験されたことは間違いない。
それを思えば、供業を作らないように政治が正しくあらねばならないし、宗教家も科学者も教育者も、皆がそれぞれの分野で頑張らなければならない。
人間が精進努力して、供業が最小限にとどまるのだし、そこに良い社会をつくる必然性が起きてくるわけである。
日蓮の「我、国難の柱とならん」を真似てみる
前述した伊勢のお白石持ち神事が終わった後の直会で、外宮の神様からひとつの神示をいただいた。
「日蓮を見習うべし」と神様はおっしゃったのだ。
これはなにも、日蓮の他宗教を排撃するところを見習えという意味ではない。
信心の誠を輝かせ、日々精進に生きて、いかなる困難も乗り越え、神力無双であった日蓮。
彼のように日々生きることができれば、会社の経営だろうが、セールスの仕事だろうが、学校の勉強だろうが、主婦の仕事だろうが、神様へのご奉仕だろうが、どんな困難であっても楽に乗り切り、責任を全うできるはずだ、と神様はおっしゃるのだ。
日蓮上人は言うまでもなく仏道に生き、仏法の奥義に精通した人物だが、同時に吉田兼$4FF1という人から吉田神道の奥義を伝授されている。そのせいか、彼の生き方は甚だ神道的である。
あれだけ明るく、元気で、エネルギッシュな仏者というのも、他宗派にはなかなか見あたらない。他宗を攻撃するという悪い癖もあるが、あれだけ国を思い、道を貫き通す仏者の姿勢は、中国やインドにはまずいない。
まさに惟神の精神に基づく大和魂そのものであり、国常立大神と一体になっておられた。
日蓮は伊勢神宮でも修業しており、そのときあの有名な「我、国難の柱とならん」とおっしゃったのである。
つまり、国家の災いをすべて自分が柱となって受け止めてやる、と言っているわけだ。本当に命と国を引き替えにする覚悟がなくては、口にできない言葉である。
神霊を受けて出てきた言葉というのは、こういうふうに言い切りの形になる。
それは、短歌や俳句のように情感の世界に入っていき、自分がそれになりきって「こうだ」と言い切る境地にならなければ、神霊を受けられないからである。
逆に言えば、そういう言い切りの境地を自ら作っていくことで、神霊を受ける素地ができる。
「我、杉並区の柱とならん!」
「我、クラスの柱とならん!」
「我、会社の再建主とならん!」なんでもよいのである。
日々、それだけの覚悟のもとに発願し、行動していけば、日蓮のあの不屈の大和魂を授かることができるのだ。
困難に立ち向かったときこそ、霊明が輝く
なぜ、伊勢で日蓮のことが出てきたのだろうか。
お白石持ち神事のとき、伊勢の大神様が我々のこの先二十年の神仕組(神様が用意された、地上における救済の筋書きのようなもの)の成就を守っていただく約束をしてくださった。
それは、人類を救済したいという我々の発願と覚悟を受けて、神様が加護をくださったのだ。確かにそれ以来、神様が今まで以上に積極的に動かれていることを、私もひしひしと実感している。
日蓮も同じである。国を守らんという熱意に応えて、伊勢の大神様が大きく彼を守護した。だからこそ日蓮も、それを受けて、あれだけのことが言えたわけである。
まさに神人合一の言葉と言っていいだろう。頭で考えたのではなく、神様から来たもの瞬間にパッと受けて、パッと出したのである。
日蓮が遺した神人合一の言葉には素晴らしいものが沢山あるが、その中に次のようなものがある。
「心は晴れて明くらく、心曇りてあかねさす。暗黒の闇に入りて神明の真中にあり」
この「心は晴れて明くらく」というのは、心が明るい人は、逆に魂の霊的な明るさ-霊明、御魂の輝き、聡明さといったものが暗くなるという意味である。
「心曇りて明あかねさす」というのは、その逆で、心の暗いときにこそ霊明が輝くという意味だ。
そして「暗黒の闇に入りてこそ神明の真中にあり」とは、絶対的な孤独の中にいてこそ、ほんとうの神と交流ができるという意味である。
神が試練を与えるのは、絶対的な孤独を体験させるためだということを、日蓮もよく理解していた。だからこそ、
「我に艱難辛苦を与えたまえ!」と、神仏に発願したのである。
そして、彼なりの神人合一の道を、あの時代に全うしたのだ。まさに、「心は晴れて明くらく、心曇りて明あかねさす。暗黒の闇に入りてこそ神明の真中にあり」という生きざまそのものだったのだろう。
これを聞いて「そうか、性格の暗いのはいいんだ」などと思ったら大間違いである。そんな浅い意味で受け取る人はまさかいないとは思うが、一応念のため。
性格は明るい方がいいに決まっている。しかし、絶えず心が晴れて、明るく、元気で生きてさえいればいいというものではないということなのだ。
真面目に、真剣に、あるときは深刻にものに立ち向かっていくときがあってもいいのだ。実際、楽天主義だけで越えられない壁というのが、人生の中でいくつもある。
それをみんな、神様の与えてくれた試練として受け止め、歯を食いしばって乗り越えていく。そのときにこそ、霊明なる英知と神力が魂の底から湧いてくるのを知ることができるのである。
それこそが神人合一の道である。同時に、神仕組を進めていく担い手としての修養の基本なのである。
