心の金しばりがとける本(Vol.6)

第5章 人間のレベルを上げよう

苦しみと葛藤のある人生は幸せだ!

無理が無理でなくなるためには

これまでは、いかに自分の御魂を奮い立たせ、困難を克服して志を貫き通すかということを語ってきた。そして最も大切なのは「恒」だということも説いてきた。

では、「恒」を貫いて志を成就するためには何が必要だろうか。それは、けっして無理をしないことである。焦らず怠らず、マイペースで続けることが志を成就するコツなのだ。

ではなぜ、無理をしてはいけないかというと、実は、無理をし過ぎると無理がきかなくなってしまうからなのだ。つまり、無理をし続けるためには、あまり無理をしてはいけないのである。

早い話が、神業というのはもともとその人なりの無理を伴うものなのである。

適度な無理をするから、体力、筋力、霊力、通力、頭脳が伸びる。無理のないところに進歩はない。神業ならずとも、スポーツや学問など何かに熱意をもって打ち込んでいる方ならば、おわかりいただけることだろう。

だから、死ぬまで無理を続けられるような自分というものを確立することが、大切なのである。

これを嫌々やったり、悲壮感を持ってやると、無理をすることが御魂を傷つけたり、悲しみになってくるし、社会的にもあつれきを生じさせてしまう。

そうなると、もうその無理は、神に近づくための無理ではなくなり、地獄界の想念になってしまう。

しかし、無理こそ進歩なのだということがわかったら、無理が無理でなくなる。

私にしても3章で語ったように、「お金がない」「時間がない」「家族の理解がない」というプロセスを超えてきたからこそ、人を救えるだけの霊力、通力を神様からいくつも与えていただいたのだ。

葛藤の中で悶々とした思いを振り払いながら、神様に祈って、祈って、祈って、祈りまくれば、断崖絶壁といえども必ず越えられるものなのである。

自分の心の中に、よこしまな思いや、怠りや、増長魔がなければ、確実に一〇〇%乗り越えられる。なぜなら神様が助けてくださるからだ。私も自分の体験からそう断言することができる。

それはもう理屈ではない。三十三年間の錬磨の中で、無理に次ぐ無理の中で体験させられてきたものだ。どんなに困窮した場合でもそれを乗り越えてきたから、どんなレベルの人でも指導できるのである。

本当に、どんな人が相手でもポイントをはずさずに話ができるように、ありとあらゆることを神様にさせられてきたわけだ。

勘違いの無理をするな!

ところで、あまり無理、無理と言っていると、勘違いする人がいるといけないので、一言つけ加えておきたい。

修業には大きく分けて、先天の修業と後天の修業の二つがある。

先天の修業とは、神様や高級霊の方から引き上げていただき、神力を与えていただけるものだ。神様の方からいらっしゃるわけだから、修業が速いし、神力の冴えも後天の修業よりずっと確かである。

植松先生はこれについて、「常識のある日常生活そのものが修業です。真心と愛念に満ちた言葉を使い、美しい立ち居振る舞いをし、バランスのとれた生活を営んでいれば、神様はいつでも微笑み、どんな宝物でも授けてくださるものです」とおっしゃっている。

すなわち、神様から見て「立派な人間だ」「この者にかかって神力を現せば、さらに世の中がよくなるだろう。人が幸せになるだろう」と映るよう、自己を修養していく時に、神様の方から他力を与えてくださるのである。

一方、もう一つの後天の修業とは、自分の方から神様に近づいていって行力を得ようとするもの。

いわゆる苦行・難行を指し、滝に打たれたり、断食をしたり、アクロバットのようなポーズで瞑想したりするものだ。

世間では、「修業」というと、どうしてもこの後天の修業のイメージが強いようだが、ワールドメイトでは、一切こうした行法は指導していない。

確かに、後天の修業でもある程度の能力を身に付けることはできる。しかし、その苦しい努力の割には、かんばしい成果は得られないようだ。

そして、もう一つ。後天の修業が危険なのは、修業そのものが自己目的化する傾向があることである。

つまり、修業のための修業、苦行のための苦行、無理のための無理になってしまうということだ。

よい例が行者だ。

行者さんは確かに厳しい修業を積んでいる。しかし、神人合一はおろか、死んでどの霊界に行くかというと、残念ながら殆どが地獄界なのだ。

いったいなぜだろうか。

行者に決定的に欠けているのは、他者への愛念なのである。

だから、人の幸福のために自分が何をやるかということより、修業を積むこと、通力を得ること自体が目的になってしまっている場合が多い。すると、そこに激しい執着心が生まれてしまうのだ。

愛念がなく、妄執が強まると、そこには暗い悲壮感がただよう。そして、なまじ念が強いだけに、自ら発する行念と妄執の暗黒霊界をつくってしまうのだ。

ところで、人里離れた山中に篭もって行を積むのと、社会人としての役目を立派に果たしながら、生活の中で自らを研鑽するのとでは、どちらが、より大変な無理をすることであろうか。

答えは明快だと思う。欲望を持とうとしても対象となるものが何もない山の中では、欲望を捨てることなど何の努力もいらない。

それに対して生活修業は、欲望の渦巻く現実社会の中において、あらゆる誘惑に打ち勝たねばならない。だからこそ修業になるのだ。

時間がない。お金がない。家族や周囲の理解がない。そうした中で、無理をしながら修業をしていくことは、現実から閉ざされた山の中で行を積むことより、はるかに困難なことなのだ。

そして、その困難を克服していくからこそ、その努力に応じた大いなる神力、神徳、神運が得られるのだ。

無理を超えることこそ魂の喜び

時間がタップリあって、お金もドブに捨てるぐらいあって、家族も神業をすることに大賛成などという人がもしいたら、同じ修業をしても、あまり進歩しないのではないかと思う。

つまり、時間がない、お金がない、理解がない、という状況がすでに修業のテーマになっているのである。考えようによっては、恵まれていると言ってもいい。

すべては御魂を磨くために整えられた条件なのである。

夫婦も旅の道連れ、錬磨のパートナー。仕事も家庭も全部、御魂磨きの旅の道連れである。人間は仕事のために生まれてきたのではないし、家庭のために生まれてきたのでもない。

結婚のために生まれてきたのでもないし、健康に生きるために生まれてきたのでもない。みんな、御魂を向上させるために生まれてきたのである。

本当に神様のお取り次ぎ(神様の御用)ができるような人間になりたいと切に発願し、意欲を燃やしている人間、それが喜びなんだという人は、無理を超えていくプロセスが楽しいものになるはずだ。

そうして一つ無理を克服し、クリアすれば、今度同じような状況になったときには、それを無理と感じなくなっているものだ。

「なんだこんなの、前にもあったじゃないかという気持ちになれるのである。

つまり、その時点で修業のレベルが上がり、人間としてのレベルも上がっているわけだ。そうなるともう、無理が無理ではなくて、楽になっているのである。

しかし、楽ばかりでは修業にならないから、今度はさらにもう一歩上をいく無理に挑む。あるいは、そうせざるを得ない状況に自分を追い込む。

しかし、自分から飛び込まない人には、神仏が、その人をワンランク上に行かせるための無理に追い込まれる。

ある程度まで磨けた人にとっては、何かの困難が現出した時、それが神仏が与えてくださった試練だとわかるから、それはもうワクワク、ドキドキするものだ。

御魂を磨くチャンスを与えてくださった神様に心から感謝したくなる。

無理を超えていくプロセスが喜びであり、楽しみであり、充実であり、生き甲斐になるわけだ。そうして向かう心の人には、無理が喜びになり、出会うことがすべて魂の栄養になっているのである。

ここまで来たら、本当に信仰力が堂に入ったと言えるだろう。

混沌の中に神との接点がある!

新しく何かを切り開こうとするときは、そのスタートにおいて、ああでもない、こうでもないと三つの無理(時間がない、お金がない、周囲の理解がない)がうずまく中からこそ、何かが生まれてくるのだ。言わば混沌の世界から、物事はスタートしていく。

『古事記』でも天地の始まりは混沌だった。混沌として、クラゲが漂うようなところに、パッと初めて現れし一人神を天之御中主神と言う。

これは単なる神話ではない。混沌としている中、それでも何とか切り開こうと必死であがいていると、天の真ん中から御中主がパッと現れる。宇宙がそうであるように、内面的な境地も同じである。

たとえば、書道やピアノなどの芸術、あるいは生活修業や信仰においても、今までできなかったものが、ある日突然できるようになることがある。その時できるようになるまでは混沌とした状態があったはずだ。

ああでもない、こうでもないと、いくら考えても糸口が見つからない。

いろいろやってみても、どうもしっくりこない。本を読んだり、人から教えてもらったりして、答えらしきものは出るのだが、何か違うような気がする。

その混沌として悶々としている状態を世間一般では、悩みや葛藤、憂鬱や迷いと呼んでいるのである。

しかし、神の道に生きて、発願をして、魂の霊的な進歩向上こそが第一であるという人生観を持っている人にとってはそれは憂鬱などではないはずだ。

無理というものを喜びにできるレベルの人にとっては、混沌こそ喜ぶべきものなのである。

なぜなら、混沌とした状態に自らがある時こそ、新しい叡知と境地が生まれる前兆だからである。

無理と葛藤の中で答えが見つからず、悶々とした混沌状態にいる時、あるキッカケで雷鳴の如く、解決策や新たな悟りが閃く。その時の喜びと感動は、まさに表現の仕様がないものだ。

このわからないことを悟った、できるようになった、超えられたという喜びこそが、混沌の中に生れませる天之御中主であり、神なるものなのだ。

神なるものは混沌があるから出てくるのであって、混沌なきところに天之御中主はないのである。

悩み、葛藤、苦しみ、迷い、そういう悶々としたプロセスを経ずして、悟りも、神様も、充実も、生き甲斐も、感動も絶対に出てこない。

だから、真実の霊的人生、御魂の人生をわかっている人は、悩み、苦しみ、困難、迷いなどという俗界の言葉を使わない。

今、自分は混沌の中にいる、あるいは、今、トンネルに入っている、と言う。

やがて来たるトンネルの出口、混沌が晴れる瞬間を確信して、今の精進に励むのだ。前向きの努力をしている限りは、必ずこの混沌が晴れて、天之御中主が出てくる。そう思うから、混沌を楽しむことができる。

混沌には目も鼻も口もない。ただとらえどころのないものが渦巻いているだけだ。目だと思ったところは、次の瞬間にはもう形をかえている。

目や鼻や口のない混沌を、知性ではっきりさせたいと思ったら、もう混沌は死んでしまう。

知性で解決を急ぐあまり、天之御中主が現れる天機が熟する前に、混沌を無理矢理解消してしまう。それは、混沌から逃げてしまったことに他ならない。

せっかくのジャンプの機会を自ら潰すことはあるまい。はっきりさせた方がいいことと、はっきりさせない方がいいことが世の中にはあるのだ。

はっきりさせない方が楽しい場合も、世の中にはたくさんあるのである。それを体得した時、修業の速度はグンと上がる。

自分の中の男神と女神

『古事記』では、混沌の中から天之御中主が現れ、その天之御中主が動くと、男神と女神が出てくる。

男神は未来の方向性、自分というものの指針を表し、女神は柔軟性、吸収力、表現力を秘めていることを表すとも取れる。

実は人間、誰でも自分の中に男神と女神がいる。

無理や混沌ということの人生観がわからない人は、ぶつぶつぶつぶつ、自分の現状に不平不満を言う。そういう人は、せっかくの内なる女神が、既に老女になってしまっている。柔軟性や吸収力も表現力も枯れているのだ。

これがすべてを神学びと知り、感謝の心で観ることができるようになったら、老女が三十五歳の女神にパッと変わる。

十八歳の女神になろうと思ったら、目上でも同僚でも目下でも、誰からでも何でも吸収する。頭を下げて、お願いして、教えてもらう。

どんな環境でも、今の環境からプラスのものを引っ張りだす。これが十八歳の女神の働きなのだ。みずみずしい柔軟性、吸収力、表現力に満ちていて、華があるから周囲の引き立ても受け、自ずと幸運が巡りだす。

一方、未来に希望も目標も持たない人間は霊界が暗い。魂の中の男神様が、八十数歳のおじいさんになっている。肉体年齢が若者でも、未来の目標がなければ内面は老いて枯れている。

本気で若返るのは簡単である。未来に目標を持って、「ようし」と思った途端に、たちまち若返る。

それで頑張って、成果をあげて、未来に対する夢や希望が膨らんでいくと、男神はどんどん若くなっていく。

将来のビジョンが、混沌としながらもバラ色に輝いている人。自分の未来の方向性、発願と目標をはっきりと持っている人は、男神が二十五歳から年をとらない。

若々しい自信に満ち、躍動するエネルギーを感じるから、周囲の人も好ましく感じる。

混沌から現れた天之御中主は陰陽に分かれて、男神、女神となって心の中に住んでいるのだ。この男神、女神が若ければ、心が若い。

いつも元気澄刺、表情も明るくなる。だから、心の中の男神と女神には、いつも若々しいカップルでいてほしいものである。そうするもしないも、あなたの心がけひとつである。


心の教養を持とう

礼に達して楽になる

「心の教養を持ちなさい」と、植松先生がよくおっしゃるが、それでは心の教養とはいったい何だろうか。教養というのは、人の高貴なるものをまず理解することだ。

これについては、「詩に興り、礼に立ちて、楽に成る」という孔子の言葉がある。

最初の「詩に興り」は、たとえば詩を理解する。ポエムというのは、人間の心や感情の高貴なるものが極まって、思わずほとばしり出るものである。

人の記したその美しさ、素晴らしさを我が事のように感じ、理解できることは、その豊かにして高貴なるものを解することができるということだ。

それができない人、人間の高貴なるものが理解できない人では、少なくとも教養があるとはいえまい。

次に「礼に立ち」だが、人間の社会にはルールというものがある。葬式でも結婚式でも、また新たなる命の誕生や、訣別、旅立ちの瞬間など、物事の節目にはそれぞれに、喜びや悲しみをうるわしく表わす表現方法がある。

悲しみや喜びを、その時々と場面に最もふさわしいあり方で、しかも美しく表現できるのが礼というものである。これができない人物は君子とはいえない。

礼とはまた文字どおり、感謝する心でもある。

人は誰しも、自分一人では何もできない。今ここにこうしているのも、周りの人の引き立てがあってこそだと思えば、自然に謙虚な礼節の思いが湧き、礼という態度が出てくるものだ。

そして「楽になる」の楽とは、音楽のことであり、楽しさのことでもある。音楽というのは、それぞれの楽器があって、ひとつの曲を奏でるものである。

そこに調和が出現する。皆が好き勝手な音を奏でていたら、音楽にならない。

これと同じで、「楽に成る」とはつまり、人との調和によって生じる美を楽しみ、大切にし、重んじることを指している。そして、それがいやいやではなくて自分にとって楽な状態、楽しい状態だと感じるようになること、それが心の教養なのだ。

いい大学を出て、学歴もあり、知識もあり、社会的地位や名誉があっても、鼻持ちならない人間もいる。

あるいは傲慢で、わがままで、要領だけよかったり、自己中心的な発想をしたりする人がいる。

ただ、今がそうだからと言って、ガッカリしたり、救いようがないとあきらめる必要はない。なぜなら、教養は後天的に身につけるものだからである。今からでも遅くはない。心の教養を充分蓄積すべきである。

秘書病に気をつけよう

「政治家の秘書とボロ雑巾」などということを言う。

きれいなタオルだったら、台拭きにもなるし、怪我をしたときには包帯の代わりにもなる。

赤ちゃんを連れてお出掛けしたおかあさんが、「あら、オムツがないわ。どうしましょう!」などというときには、最悪オムツ代わりにも使えるのだ。

ところが、雑巾は雑巾にしか使えない。政治家の秘書も同じだという。

どちらも、それしか使い道がない、ということだ。

政治家の秘書に限らず、大会社の社長の秘書、有名タレントのお付きの人などもそうだが、周囲の人たちは「先生」と同じように扱ってくれるわけだ。

それなりのクラスの人たちと接し、飲んだり、食べたり、話したり、という生活が日常になると、自分が偉いとは思わないにしても、自然にそのような態度になってしまう。

言ってみれば、人を見る目だけが肥えてくるのである。食べ物や、飲み物や、場所や、人間の品定めや、そういうものを見る目だけが肥えてくる。

もちろん、そういういろいろな人や物は、本人のところに来ているわけではなくて、先生のところに来ているわけである。いわば、秘書は先生の徳分のおこぼれに預かっているだけでしかない。

ところが、ついついそれが自分のもののように思ってしまうのが、人間のあさましさなのである。

これを「秘書病」という。

それで、自分が偉くなったような気になって、いざ独立して一人になったら誰も相手にしてくれない。

一人になったとたんに、周囲の人の態度が変わり、誰も寄ってこなくなる。

その時初めて、それまでの先生気取りが自分の実力ではなかったことに気がつくわけだ。

先生と呼ばれるような人の側にいる人は、ついつい誰でもそうなってしまいがちである。虎の威を借りる狐のようなものだ。

私の側にいるスタッフにしても同じことがいえる。スタッフというのは、奉仕者の上のさらに奉仕者だから、誰よりも謙虚でなければならないはずだ。

人間の素晴らしさと謙虚な輝きというものがなければ、あそこは何という教育をしているんだ、と師匠の教養が世間から疑われるというものだ。

だから、本当に「初心忘るべからず」なのである。

初めは誰でもそうした境遇に身を置くことができたことに感謝する。自分にはもったいない、ありがたいという謙虚な気持ちがあったはずだ。

その気持ちを持ち続けていれば、秘書病になることはないのだ。

しかし、狎れとは恐ろしいものだ。いつの間にか、その気持ちが薄らいでいく。

そして、それが自分の実力であるかのように錯覚して、増長魔になってしまうのだ。そのまま放っておけば秘書病が進み、生意気で傲慢になっていく。

心の教養は信仰の証

そうなった時には、いかにその人に、心の教養がなかったかということが誰の目にも明らかになってしまう。知らぬは本人ばかりなり、ということになってしまうのである。

地位ができれば誰でもふんぞり返る。名誉ができれば、それなりの待遇をしてくれなければ気にいらない。誰でも上に立てば、大切にされたい。

お金持ち病というのは、絶えず特別視してほしがる。

これは、ある意味で本人の実力だから、秘書病よりはましかも知れない。

しかし、いずれも凡人の域を出ないことに変わりはない。そうなった時にこそ、心の教養がますます試されるのだ。

誰でも放っておけば、増長魔が入る。そうならないためには、こういう立場になったら、自分はこういう心になる、という感情の動きをしっかりと自覚することである。

そして、振り返り、反省して、そうならないために自分はどうしたらいいか、絶えずおのれに問い直し、超えていこうと努力する。これが心の教養だ。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

どんなに学歴があっても、どんなに知識があっても、どんなに社会的名誉があったとしても、それができないのでは外面(上っ面)の教養しかない、ということだ。

天狗になって、偉そうにして、生意気で、鼻持ちならなくていやらしい。

人が見て、素晴らしいな、麗しいなと思えないような人間は、表面上の教養はあっても、心の教養がないわけだ。

心の教養をつくることこそが、本当の学問であり、信仰の錬磨の証なのである。

百点満点は永遠にないのだが、試行錯誤していきながら、どこまでもどこまでも問い続ける。

七十歳になっても八十歳になってもその姿勢を崩さないというのが、正しい求道者として、研鑽第一に生きている証拠なのである。

自分との勝負に勝って、心の教養を身につけよ!

だから、「心の教養」というのは「外の教養」と違って、一旦身につけたら生涯離れないというものではないのである。ある意味で、日々自分との戦いでもあるわけだ。

特に人の上に立っている人間、何かを指導する立場にある人は、自分のことだけではなく、下の者の育成にも気を配らなければいけない。

秘書病にならないように陰に陽に導いていかなければならない。それも教養だ。

だから、私は地方の講演に行ったときは、できたらホテルには泊まらず、支部に泊まるようにしている。徹夜で神業をすることも珍しくない。そうして身を以てスタッフに教育をしているのである。

上に立つ人間が増長してふんぞり返っていたら、当然、下の人間もそれを見習ってしまう。上も下も鼻持ちならない、心の教養のない組織や集団は、そのうち世間から相手にされなくなっていくだろう。

資金の行き詰まり、事業の行き詰まり、仕事の行き詰まり、これらがどこから来るかというと、いつもそれなのである。

君子の一声というものは、遠くの方まで響き渡る。それだけの影響力があると『論語」にもある。

だから、人の上に立つ者は下の者へのお手本のつもりで、傲慢にはくれぐも注意しなくてはならない。

道が深くなれば、それだけ人間の中身の教養というものの厚みが出てこなければ、それはまやかしに過ぎないのである。

神仏も重要視する心の教養

守護霊や守護神から見ても、一番尊いのが、この心の教養を持っている人だ。たとえ学歴がなくても、知識が足りなくても別に構わない。

学歴があって、勉強をして、本を読んでいても、心の教養がなければカスでしかないのである。

それができるというのは、前世に本当の学問と信仰を積んでいる証拠だ。

今生、肉体を持って私たちは勉強しているが、魂の奥で正しい真の学問と、真の芸術の探究と、信仰を持っている人間は、心の教養に置き換えることができなければ嘘なのである。

それはもう、人間同士ではわからなくても、神様や守護霊がいちばん尊重して見ておられる箇所だから、時が経つうちにやがて人にも自然に伝わる。

体全体から醸し出すその人の生きざま、足跡、心の響き、書く文章から出てくる温かさや威厳など、その人が表現する言葉や、文字や絵や服装やフィーリングから、皆、感じられるものだ。

心の教養は、正直に素直に滲み出てくるものだ。だから、人の目というのはごまかせない。やはり、ほんとうに素晴らしい人、立派な人は、ワールドメイトの会員であろうとなかろうと、それができている。

心の教養というものをいかに考えていくか。それが、人間のレベルを今より上げていく上で最も大事なポイントなのである。

このように、人間としてのレベルを上げて、上げて、上げて、どこまで上げればいいのか。

もちろん、神様と同じき心になるまで、そして、神人合一の道を極めるまでである。

すべてがそのための一厘、というわけだ。

その途中で超能力や霊能力を得ることもあるかもしれない。しかし、それは神様が人間の本義を実現させるために与えてくださったものだということを、決して忘れてはならない。

修業を積んで、また心の教養を身につけていけば、邪霊・悪霊も寄りつかず、神様や守護霊さまが味方してくださるから、当然開運する。

しかし、それは同時に、誘惑が多くなることでもある。その時に再び、絶対なる孤独の心境にまで立ち戻れるかどうか、常に試されているのである。

そういうわけで、昨日よりも今日、今日より明日と、一歩でも神様に近づくための努力を続けていただきたいものである。