第四章 宇宙、天地自然と私
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荘子は、天地一体となる、その真の意味は??と言っている。
「天地と一体とはなるけれど、自らの主体性、個我というものは絶対に失ってはいけない。己れの主体性というものがあって、はじめて自然との調和がはかれる」
それまでは、天地と一体となるといった考え方が修業というものの中心だったが、あまりに天地と一体になることを求めてばかりいて、天地と一体になってしまったら、自分というものがなくなって、死者と同じになってしまうから、自らの主体性を持たなければいけない、ということだ。
天地と一体となっていても、自らの主体性を失わない、というのが本当の神人合一なのであって、荘子の教えるところも同じだ。
口を酸っぱくしていうのだが、今の若い人の間ではやっている霊界話は、これとはまったく違う。
ヨガとか瞑想というのは、いつも宇宙との一体感、天地と一つになることを言っているが、宇宙・天地と一体になるといっても、そこに自分の主体性がないと、自分という存在が失くなってしまう。
自己存在を失くしてしまうのが霊媒師だ。
霊媒というのは、自分というもの、主体性がないから、霊の言う通りに口うつしに伝えるし、自分に乗り移ってくる霊に意見をするということもない。
あくまでも相手の言うがままだ。ヨガの瞑想とか、トランス状態に入って霊がかりになって、メッセージをそのまま伝えるのが霊媒師だ。
よく知られている恐山の巫女(イタコ)のように、霊がかりをして予言するのは、自分という主体がないために憑霊するのであって、これはレベルの低いものだ。
そこには、自分の個我を持ったままで神様と一つになることも、人格と人格との対話もない。
単に憑霊してきたものを写すとか、お告げをやるというだけだ。
ヨーロッパやアメリカの霊能者といわれる人たちとも何人も会ったが、自分の主体性、個我といったものを失くしている場合が多く、全体としてやはりレベルは低い。
こうしたレベルの低い人たちの場合、精神錯乱になったり、ノイローゼになって自分が精神病院に入ってしまった、といった人も多い。
お清めなんかをしていたら、ウワー と霊が出てきて、とまらなくなって自分がそのまま病院に入ってしまった、というこ とだ。
霊能マンガなどというのもずいぶん子供達に読まれているようだが、まだ自己形成ができない子供がヨガにせよコックリさんにせよ、こういうものに夢中になるのは、いよいよ危険だ。
大人よりも疑うことを知らないから、あっさり変な霊にひっかかってしまう。知人のお子さんとか、自分のまわりにそういう子供がいたら、冗談話にしないで正しく導いてあげていただきたいものだ。
こういう正しい霊能については、拙著「この世とあの世」(たちばな出版刊)で詳しいので、それで勉強して頂きたい。
神界と魔界
宇宙を〝気と理〟の二種類で分けたのが朱子学だ。
天地は全て気でできている。そして、その気がおのずから、しからしむべきように動いていく、その法則性を、理だという。山は山としてあり、人間は人間として出てくる気があるんだ、というわけだ。
大変すっきりした思想だが、これでは神様の一面しか捉えていない気と意志を持っているのが神様だ。気と意志があって、そこにおのずから法則性があるのを理というのだ。
気の中に意志の力があるのは、神様も同じだ。
だから人間が神様に近づこうと思ったら、はっきり「私はこう思う」「このように生きたいんだ、間違っていたら反省する」という人格のあり方、意志の存在性がなければいけない。
法則性を司っているのは意志の力で、それが全て神様であり神界のことでもある。だから、宇宙は全部気でできているというのは間違っている。理・気・意三元説が本当だと私は思う。
高級な霊というのは、魂の主体性を大切にされる。
何から何まで人間を、思い通りに動かそうとはしない。無人格に、どんどん人に要求してくるというのは、本当の神様ではない。
それは、人の肉体を利用して、その霊が何かをしたいと思っているのであって、人の魂に対して愛とか真心とかを持って接しているわけではない。
高級神霊でも人に神がかることがあるが、時間をかけてその本人の個我を大切にして導き育てる。
ところが低級霊は、人の主体性や個我といったものは無視して、自分が何かやりたいことのために人の肉体を利用する、ということだ。
だから、こうした低級霊に憑かれた霊媒師たちは、死んだらどこへ行くかといえば、魔界に行ってしまう。
自分はこう思う、こうあるべきだ、というハッキリした自分の意志があり、愛のなかったことを反省し、我の出すぎたことを反省し、自分自身の魂、意志のかたまりとしての己を磨いていないから、神様に裁かれるのである。
「天上天下唯我独尊」はこうして生まれた
「天上天下唯我独尊」というと、ほとんどの人が聞いたことがある有名な言葉だ。
しかし、お釈迦様が生まれてきた時いきなり左右の人差指を天と地に向けてそう言った、とか教わっている。
あるいは、思い上がって人の言葉に耳を貸さない人に、「あの人は「天上天下唯我独尊」だからなあ……」とか、使われる。まったく誤って理解している人が多い。ここで正しておくことも意味あることかも知れない。
お釈迦様は、本当の自分、本当の人生とはどこにあるのか。本当の生命、本当の自己 16 は、どうしたら本当の道というのが究められるのか。
本当のものは一体どこにあるんだということで、六年間の断食修業をなさった。これも有名なお話で、知っている人は多いはずだ。
粟粒ひと粒食べないような状態で修業を続けているうち、さる仙人をたずねて、こう質問をした。
「一体どこに本当の道があるんでしょうか」
「何も思わない。思わないということすら何も思わない、ということにおいて人間は真実の状態になるんだ」
仙人は無の境地のことを言ったわけである。
しかし本当の無〟というのは、自分の魂を自分なりに表現しているが、それには己れの欲望とか、気負いとか、悪念が無いという状態のことであって、中味がまるでないガラン洞のスッカラカンということではない。
普通の人なら、よく意味がわからなくても、”無”と言われると、何だかわかったような気持ちになってしまう。
なるほど無の境地か何も思わない。何も思わないということすら思わないぐらいに、何もないところに真実があり、絶対空間があるのかと納得するものだ。
大体、何も考えないなら、考えるより楽でいいや、と思ってしまう人もいたりする。しかし、お釈迦様は納得しなかった。
「何もない。思わないということすら、思わないぐらい何もない時に、はたして私というのがいるのかいないのか。自我というのはあるのかないのか。どっちなんですか」
お釈迦様のこの問いかけに、仙人は答えられなかったという有名な逸話である。
本当のこの私というのは何なのだ。真実の道というのはどこにあるのだろう。難行苦行をしても、その答えは得られない。かといって、悠然と安逸な人生を送っていては、絶対に極められるものでもない。
そこで、もっと本質的なものを見なければいけないと思い立ち、菩提樹の下で静かに端座したのであった。
座っていると、夜になり満天に星が降るように花咲く。その中でも、宵の明星、金星の輝きがひときわ鮮やかに輝き出した時に、突然悟りを開いたのだ。
それが、”天上天下唯我独尊”という言葉になったのである。
天が上にも、天が下にも、ただ我こそが一人貴い。天が上にも、天が下にも、私一人こそがただ貴い。
本当の何もない時に、私はあるのかという迷いの中で、悟りを開いただけに、その時にお釈迦様の心から湧き出してきた歓喜は、純粋で爆発的なものがあった。
絶対的な自分というものの意識。これが自分の中の本当の自分なのだ、といった歓喜が満ちる。
これが”涅槃寂静”の境地だ。
涅槃寂静を間違えるな!
普通、涅槃寂静の境地といえば、とても静かで澄みきった世界、といったものを考えがちだが、これも誤解だ。
お釈迦さんが悟りを開いた涅槃寂静の境地というものは、理屈も文学も乗り越えて、身体全体が心の底から爆発するように次々と湧き上ってくる歓喜を、手を振り足の舞うところを知らないといった、ダイナミックな心境なのである。
自分にとっては、どれほどの地位や名誉、財産や喜びよりも、今のこの歓喜を越えられるものはない。それほどにこの”天上天下唯我独尊〟という、究極の悟りは大きなものだった。
お釈迦様にとっては、六年を越える難行苦行の末に得た悟りである。なまじの人に話をしても、とてもわかってはもらえないだろうから、人に話すのはやめようと真剣に思ったほどだったのだ。
しかしその時、梵天・帝釈天が現われて、お前の今悟った幸せを、まだ本当の道がわからない人たちのために布教しなさい、と話された。
「私のこの気持ちは、極め難い難解難入のものですから、人に説いてみてもわからないと思います。説いてみても無駄なように思われますが」
「いや、それでもいいから、話しなさい。そして苦しんでいる人を少しでも助けなさい」ということで、お釈迦様は布教されることを決心したのであった。
不可能を知りつつも、少しでもそこに近づくようにということで努力を続けた。「天上天下唯我独尊」という言葉には、そのようにして悟りを開いたお釈迦様の努力がある。
くれぐれも「世界中で自分ひとり偉い」などと誤用しないでほしい。
芸術がわからないと神様はわからない
自分を探求し続けることで悟りの境地に到達し、歓喜に満ちた本当の自分に目覚める。それが永遠の自己なのだ。
その境地においては、自分を失っているのではなく、自分の個我というものがしっかりと確立されている。
自分のなかにある神様や仏様の部分が、はっきりとした人格、意志の力として主体性を持っているわけである。
それは、ヨガの言うようにエネルギーとか気によって、宇宙と一体となるといったものではない。
例えば、霊をうつしてそれをそのまま伝えるなどという霊能者がいるが、本人がそれどこまで主体的に、消化吸収して自分のものとして出しているのか。それでその霊能のレベルがわかる。
神霊というのは完全であり究極的に美しい。そういう美とか感覚というものを、自分の魂でよく噛みくだいて、主体的な自分として表現するというのは、現世では芸術の分野に近い。
音楽にしろ、絵画や書道にしても、自分なりの魂で何か受けたものを表現する。神様に近づく道は、この芸術と大変似ている。
美の世界を、自分の魂を通じて、魂の美によって表現するところに芸術の本当の意味がある。もちろん、美のなかには、頽廃の美というものもあるが、これは地獄の霊たちが喜ぶ美でしかない。
美にもランクがあって、それなりに人を幸せにし、感動を与えるものが芸術としての神様というのは、大科学者であると同時に大芸術家でもあるから、芸術的要素を踏まえないと、本当の神様はわからない。
すぐれた芸術家は、本当に美しいものをとらえて、自己を介して本当に美しいもの(作品)として創作する。単なるコピーではないし、実際、行なっていることは神様に近い。
だから、自分のことを神様だと自称しているような人で、すごく絵が下手だとか、すごく字が汚いとか、歌を歌うと近所のヌカ味噌が腐るというような人は、神様であるわけがないということになる。
もっとも、芸術で高度な美を表現するには熟練がいる。だから神がかるような人でも、今はまだ芸術の才能はあっても表現し切れない場合もあるだろう。
要は、その人が芸術に素質があり、センスがあり、開眼している、真髄を得ているなど、芸術を解する人であることが、神の美や、神そのものを、何かで素晴らしく表現できる神人合一出来る人である、といえるのである。
もし、その芸術才(素質やセンス)を持ち合わせていないなら、その人は偽者である。そんな人に高級神霊が神がかるわけがない。
神の素晴らしさや美しさの万分の一もキャッチできないし、ましてや表現し得るわけがない。
そういう人の話を聞くくらいなら、美術館やコンサートに行って素晴らしい芸術作品に接する方が、よほど神様に近づけるのである。
