第五章 悪因縁はこれで斬れる!
霊障は天の警告
ここまでの章では、幸せになるための方法を、歴史上の人物などの例を取り上げながら様々な角度から検討してきた。
その考え方と哲学を深く咀嚼し、明るく前向きな姿勢で日常生活をすごしていけば、あなたはもう「どうしよう」と思い悩んで、迷い道に入りこむこともなくなるだろう。
そして、これからの人生を自分の目標に向かって真っ直ぐに歩んで行くことができるはずである。
しかし、どんなに努力しても、何か物事がうまく進まない、身の回りで不可抗力と思われるような事故が勃発し続けるというような場合、あなたの幸せを妨げようとする別の力が働いていると思ったほうがいいだろう。
結論から言ってしまえば、それは霊の仕業(霊障)なのである。
この本のテーマは「幸せ」ということだが、誰にとっても一番の願いである幸せを、積極的に妨害しようとしているのが悪霊なのだ。
霊については拙著『我輩は霊である」基本的な心得を一通り説明したが、ここでは、少し角度を変えて、その積極的な防衛法を中心にお話ししようと思う。
これを参考に、あなたの「これから」をさらに充実したものにしていただければ幸いである。
霊界の法則については3章で簡単に説明したが、人間は死んで肉体を失えば、誰でも霊界へ行って一定期間の修業を積まなくてはならない。
しかし、中には肉体を失ってもその法則に従わずにこの世をうろついている霊もいる。これが、邪霊とか悪霊と呼ばれる低級霊である。
たとえば、誰かに強い恨みを残して死んだとしよう。するとその霊は、自らの怨念の思いに縛られて霊界へと旅立つことができず、この世にとどまることになる。
そして、その怨念を晴らすため、恨みを持つ人間やその子孫に憑依して、その運命を狂わせていくのだ。これが、「祟り霊」と言われているものである。
また死んだことに無自覚な霊や、自分の行くべき霊界がわからない霊は、「浮遊霊」となってよく街中をさまよっている。
浮遊霊は気力に乏しく、自分の置かれている状況を理解できずに不安感をつのらせているので、誰かに頼ろうとする傾向がある。
そんなとき、たまたま近くを通りかかった人間が、浮遊霊と同じような不安感を持っていたり、目的もなく、無気力であったりすると、霊体の波長が同調して、その人間に憑依する。
また、土地や建物に強い執着を持っていたり、自殺した霊は、「地縛霊」となって、その場所にとどまっている。地縛霊は、近くを通りかかった人間に災いをもたらすが、波長が合えば人に憑依することもある。
憑依された人間は、病気になったり、事故に遭ったり、仕事などでミスしたりとろくなことがない。
ところで、私たちは、一日二十四時間、一年三百六十五日、守護霊様、守護神様に見守られている。それでも霊に憑依されてしまうというのは、守護のご神霊がその人を守護できない状態にあるからだ。
守護のご神霊は、魂の教育係である。
私たちが生まれてきた目的は、御魂を磨いて向上させ、一歩でも神様に近づいていくことだ。神様はそのために私たち人間に自由意志というものを与えてくださった。
自らの意志で精進努力し、様々な体験と、それを乗り越える過程において、御魂は磨かれ、光輝いていくのである。そういう進歩、発展、向上しようとする人には、ご神霊は喜ん守護してくださる。
しかし、守護のご神霊は、本人が努力せずに堕落していく場合、あるいは自分の過ちや欠点に気付かずにいる場合など、その人が悪霊に支配されても決して手を貸そうとはされない。
霊障(邪霊、悪霊にやられていること)とは、守護のご神霊に見放された状態なのである。
いつも神様に守られるように祈り、神様のほうへ自分を向け、神様に喜ばれるような生活態度で生きていれば、強くご神霊に導かれ守護される。
強いエネルギーをいただけるので、悪霊の入りこむ余地などない。霊障にやられるということは、常日頃の生活態度や想念のあり方がどこか間違っているからなのだ。つまり霊障は、天の警告なのである。
だから、霊に憑かれたと思われるような場合は、すぐに自分の日頃のあり方を反省してみる必要がある。
我と慢心はなかったか。精進努力に怠りはなかったか。狎れはなかったか。誰かを妬んだり憎んだりしていなかったか。
そして、自分の非を悟り、「よし、ここを直そう」と、すみやかに反省して改めて、一層の精進努力をしていけば、守護のご神霊は、「よくぞ気がついた」と再び守護の手を差し延べてくださるのである。
そして、その瞬間に憑依していた霊はスッと離れていく。
もし、それが強い悪霊であれば、もっと強いご神霊が加勢してくださる。不動明王、スサノオの神様、金神様etc……、正神界にはいくらでも強い神仏がいらっしゃる。
天変地異を起こすパワーを持った神様もいらっしゃるし、どんな邪神も太刀打ちできな全知全能の神様も控えておられるのだ。
ただ、ここで注意しなければならないのは、神様の神力をあてにして、自分自身の最善の努力を怠ると、邪神にやられてしまうということである。楽をしても力を貸してくれるのは正神界のご神霊ではない。
神力をあてにしての神頼みは、邪神のえじきにされて、間違った方向に導かれてしまう危険があるということを、心得ておいていただきたい。
悪霊にやられない3つの方法
悪霊に取り憑かれないための<第一条〉―マイナスの想念を出すな
簡単にいえば、霊とは、心である。生きているときの思いが結晶化して、肉体を失った後もこの世にとどまっているものである。
明るい思い、前向きな思いを持っていれば、素直に霊界へと羽ばたいていくのだから、この世にとどまる霊の思いとは、その反対のものに限られる。
つまり、憎しみ、恨み、妬み、怒り、悲しみ、執着、恐怖、などのマイナス想念である。
私達が、そうしたマイナス想念を心にいだくと、その思いが同調現象を起こして、同じ思いを持ってこの世をさまよっている霊に憑依されることになる。
平たく言えば、霊が、「あっ、お友達だ」と思って取り憑いてしまうのである。
すると、自分の性格の中にあるマイナス部分がますます増幅されて、その結果、だんだんと不幸な方向へと人生が引きずられていってしまう。
あるいは、「もう死にたい」などという強度のマイナスの思いを持って、たまたま自殺した地縛霊のいるところなどを通ると、スッと取り憑かれて、そのまま死にたくなり、発作的にビルから飛び下りて、本当に死んでしまうことだってある。
そういうわけで、悪霊に取り憑かれないための第一条は、そうしたマイナスの感情を抱かないように、自分自身をコントロールしていくことである。
悪霊に取り憑かれないための〈第二条〉―恐れない、気にしない、同情しない
では、ソコソコほがらかでノンビリと生きているような人は、霊に取り憑かれることはないのだろうか。これが実は案外危ないのである。
不合理だと思われるかも知れないが、善人にも悪霊は憑くのだ。特に優しくていい人というのは、霊に頼られる傾向が強
優しくていい人というのは、何でもすぐに可哀相と思って同情してしまう。確かにある意味で、成仏できていない霊は幸せではない。可哀想である。
しかし、安易な気持ちで興味を持たない方がよい。霊は思いの存在だから、思いを向ければ寄って来るからだ。
たとえば、お墓参りに行って、家の墓だけならまだしも、無縁仏にまで手を合わせてしまうような人は、自分で浮遊霊を呼び込んでいるようなものだ。
いかなる感情であれ、思いを向けること自体が、霊につけいる隙を与えることになる。
そういう意味では、近頃流行りの超能力志向の人とか、霊界マニアの人というのも危ない。また、逆に必要以上に霊を怖がるのも、心の中ではかえって強く意識していることになるので同じことだ。
というわけで、悪霊に取り憑かれないための第二条は「恐れない、気にしない、同情しない」の三原則を守ることである。
悪霊に取り憑かれないための〈第三条〉目標を持って、情熱的に生きる
悪霊は「心ここにあらず」といった状態を好むものだ。隙間だらけの心なら、どこかでも入っていくことができるからである。
だから、積極的に悪霊の侵入を防ぐためには、常に何かで心を満たしているような状態をつくることだ。
そのためには、短期、中期、長期の自分の目標を設定し、常にそれに向かって邁進していくようにするのが一番いいだろう。これは、同時に自分の人生を切り開いていくためにも大切なことだ。
2章で説明した白隠禅師のように、死ぬまで情熱的に生き続ければ、一生悪霊のつけいる隙などないのだ。だから、悪霊に取り憑かれないための第三条は、このように忙しく、目標を持って情熱的に生きること、なのである。
しかし、とりあえず何を目標にしていいか分からないという人もいるだろう。
そういう人は、とにかく暇な時間をつくらないことだ。そして、とりあえず今、目の前にあることに全力を尽くすこと。仕事でも家事でも勉強でも、目前のことに全力を傾注することだ。
すると、心に隙間ができないだけではなく、御魂が発動して輝きはじめる。御魂が発動すれば、守護のご神霊が導きの手を差しのべてくださる。
すると、悪霊が寄り付けないし、憑かれていた人も悪霊が離れていくだけでなく、次に自分がなすべきことも明確になっていくのだ。
つまり、もっとも積極的な悪霊退散法とは、自分自身が人生を切り開き、幸せになっていく努力を始めることなのである。
愛と真心で霊障をはね除ける
どんなときに悪霊に憑かれてしまうのか、もう少し具体的に考えてみよう。
仕事を一日やったり、長い時間あれこれと想いを廻らせていると、誰でも疲れる。そこで、一休みということになるのだが、実はこの時が悪霊にとっては、人に取り憑く一つのチャンスなのだ。
「やれやれ、これで一休みだ」と思うと気持ちがダラ~ッとなる。
このダラ~ッとした気分が長く続くと、スッと悪霊が入りこむ。すると、ダラダラし気分が元に戻らなくなる。
精一杯何かをやった後なら、霊光が身体を包み込んでいるので悪霊や邪霊は近寄れない。また、休んでもその後に、積極的に向かおうとする次の目標があり、その活動の為に体を休ませるというのなら大丈夫だ。
精神のどこかの部分がピッと立っているから心配ない。しかし、次なる仕事をイヤだナ・・・・・・と思っていて、ヤル気も充実感も目標もないまま、消極的な心のまま仕事に向かう時が問題だ。
「仕事をやらなくては・・・・・・」と思うには思うのだが、全然気分が乗ってこない。こういう時は危ない。いつの間に霊が入り込んで、居座っていることが多い。
何故邪霊が来て、なかなか離れないのかというと、仕事をせねばならないという義務感や責任感が先に出てしまって、肝心の神様の御心にかなう誠意や真心が先に立っていないからだ。
また、「ああしたらいい、こうしたらいい」という知恵が先に立っても、神様は喜ばれないから助けて下さらない。
それから、うまくいくとか、失敗するかも知れないという感覚が先に立っても駄目なのである。
では、どうすれば悪霊をはね除け、ご神霊の応援を得ることができるのか、本の出版という仕事を例にとって考えてみよう。
まずCレベルの人は、自分はこんな本をつくりたい、という自己顕示欲が先にあって、これで売ってやろうという気持ちで本を出そうとする。これでは神様は動いてくださらない。
Bレベルの人は、今売れているのはどんな本なのか、今の時流にあったテーマは何なのかということを研究し、考えて出版しようとする。
これはたしかに、多少の努力がみられるので前者よりはいい。ところが、これでもまだ、神様はあまり力を貸そうとは思われない。
では、Aレベルの人はどう考えるのか。
ただただ読者の皆さんに大いに喜んでいただけるような本、読んだ人にとって少しでも多くプラスになるような本ができればいい。
その為に、いい本を作ろうと精一杯出来る限りの努力、研究して頑張る、というのがAレベルである。
売れるとか売れないとか、自分を知ってほしいとかいうことは念頭から消して、読者の喜びを自分の喜びとする。つまり、誠意と真心が先に立っているのである。
このような気持ちで仕事をすれば、気負いや我も欲もなく、知恵も先行していないので、霊障にやられることもなく、神様も喜んで応援してくださる。
そう(Aレベルの人のように)お考えなのが神様だから、まさに、よくぞ我が意を得たり!とA氏を応援されないわけがないのである。
そして、神と一緒(一体)となって行動したご褒美として、歓喜とエネルギーをいただくことができる。すると、苦しいことも楽しくなってくる。魂の奥底から充実感と喜びが湧き上がってくるのだ。
そして、出版に携わった本人にも、その周りの人にも読者にとってもよい方向で、すべてが自然に形が整っていく。すなわち本が売れ、名が上がり、富を得るという結果となる。
霊媒体質改善法
そのように幸せというのは、神様の御心にあったことをしたときに、結果として、神 1986 様からいただくご褒美なのである。
本人の想念の問題とは別に、体質的な問題として霊的なものに敏感な人間と、そうでない人というのがいる。
前章で、霊媒のことについて触れたが、かく言う私も、実は異常な程の霊媒体質人間なのである。
学生時代は、本を読んでいても著者の念が伝わってきて、目がシバシバしてしまう有り様だった。特別に霊的な本を読んでいたわけではない。
普通の経済の本でも教科書でも、五分も読んでいると気分が悪くなってくるのだ。五分本を読んでは二時間寝込んでしまうくらい、霊的に敏感だったのである。
もちろん、人と話すのでも、気の明るい人といる時は大丈夫なのだが、重苦しい気分の人が側に来ると、すぐにフニャフニャになって、思考能力が完全にストップしてしまう。これでは勉強も手につかない。
電車の中で本を読んでいる人を見て、「うらやまし~。ああ、普通に本が読めたらなあ」と何度思ったことだろう。
このままでは、学校も卒業できない。神様は私に知性のいらない人生をお与えになったのだろうか、と真剣に悩んだ。自殺して生まれ変りたいとさえ思った程である。
後に霊界の様子をつぶさに見て、このとき自殺しなくて本当によかったと思っている。
自殺した人の霊界というのは、本人の周りが薄明るいだけで、あとは真っ暗なのだ。これは本人の心の状態が作った霊界である。
そんな苦しい状態が何百年も続くのだから、とてもバカらしくて自殺などする気にはなれないのである。
そんなギリギリのところまで来て、わたしは神様に祈願をした。
「神様、普通に本が読めるようになれますように」と毎日三時間、欠かさずに祈り続けたのである。
そうして一週間もたった頃、ふと本が読めそうな気がして手元にあった本を開いてみた。すると、突然、後頭部がカーッと熱くなってきた。
そして、読みはじめると、本の著者からくるよりも強い光が目から出てきて、スラスラと読むことができたのだ。こ
のときの感動というものは、はじめから普通に本が読めるノーマルな人には、ちょっと理解できないだろう。
そうしてわたしは、生まれてはじめて集中して本を読むことができた。ところが、読み終わってみると何が書いてあったのかサッパリ思い出せないのだ。
読んだそばから忘れてしまい、頭には何も残らない。これは一体どうしたことだろう、と再びわたしは思い悩んでしまった。
しかし、意外に早くこの問題は解決した。本を読んだ後には、すっかりその内容を忘れてしまうのだが、必要なときになると、必要な箇所がパッと出てくることに気がついたのだ。
読んだ知識を血液の中に入れる
普通の人の読書というのは、知識が脳神経の中に詰め込まれる。そして、頭の中で色々な念とゴチャゴチャになって、大事なときに必要なことがなかなか出てこない。
ところが、わたしの場合、知識が血液の中に入るのだ。これをわたしは「御魂の恩頼読書」と呼んでいるのだが、魂霊体というのは、物質化すると血液になるのである。
そして、必要なときに必要な箇所が必要なだけ出てくる。こうして血液となった知識は、十年たっても二十年たっても、決して忘れることはないのである。
御魂の恩頼とは、簡単にいえば魂の栄養ということだ。
その本が役に立つか役に立たないか、有意義か有意義でないかは、その場の判断ではわからない。今すぐには必要でなくても、ずっと後になって、その知識が生きる場合もあるだろう。
これは読書に限ったことではない。一見無駄と思えるような単純作業でも「御魂の恩頼にならしめたまえ」という気持ちでやっていると、それが全部魂の栄養になるのだ。
世の中のどんな事でも無駄な事というのはない。つまらない掃除でも、つまらない電話の取次ぎでも、こんなもの何になるのかと思えるようなことでも、一生懸命にやればすべて御魂の恩頼となる。
そして、今までしてきたことのすべてが、必ずあとで活かされていくのである。
話を元に戻すが、霊媒体質を改善するには、神様に向かって真剣に強い意志で祈り続けて、霊障をはね除けるような神気をいただくほかはない。
そうすれば、私のように体質をプラスに活かすことができる。
しかし、そのためには、「絶対にこの体質を乗り越えるんだ!」という継続した、強い気迫と深い求道心がなければ、とてもクリアーできないだろう。
それができるまでは、常に只今只今を真剣に生きて、悪霊に寄りつくスキを与えないことだ。霊媒体質の人は特にこの心がけが大切である。
因縁の糸をたどる霊
私たちは誰でも自分自身の前世の因縁と、家代々の因縁を背負って生まれてくるのだが、霊の中には、家代々の因縁の糸をたどって、その家の子孫に取り憑くものもいる。
それは低い霊層に行った先祖霊と、その家の先祖に強い恨みを持つ祟り霊である。先祖の霊が、なぜ子孫に憑依するのか不思議に思うかも知れない。
もとより、霊界で真面目に修業をしているご先祖様の霊(中間より上の霊層へ行った先祖霊)は、この世に迷い出たりはしない。
では、どんな先祖が霊界の法則を破って、この世にやって来るのか。それは地獄に堕ちて、その苦しみから逃れようと抜け出してきた霊たちである。
生きている人間の世界では、「遠くの親戚より近くの他人」などというが、自分が苦しい立場になって本当に困ったときには、親戚でも友人でも、どんなに遠くても助けてくれる人のところに行くものである。
まして霊は思いそのものの存在だから、物理的な距離など全く関係ないのだ。そして時間、空間も霊界にはない。だから想えば一瞬にしてやって来る。
話は戻るが、何代も前の先祖の霊が、この世に知り合いがいるわけもない。助けを求めるのは、当然血縁をたどった子孫ということになる。
ところで、世の中には殊勝な人もいて、子孫として、苦しんでいるご先祖様を救うのは当然と考えている方が、少なからずいるらしい。
そういう方は、毎日、一生懸命先祖供養をしているようだ。しかし、ちょっと考えていただきたい。
何故、その先祖は地獄に墜ちたのだろうか。
彼らはこの世に生きているときに悪業を積んで人々を苦しめ、地獄でその贖いを課せられているのである。
その先祖を恨んでいる霊も多いだろう。家代々のカルマをつくり、彼らを恨む祟り霊に子孫が苦しめられているのも、元はといえば、彼らの責任なのだ。
もちろん、そうした地獄に落ちた先祖のいる因縁の家に生まれるというのは、自分自身の前世の業ではある。
しかし、だからといって霊界法則もよく知らずに、やみくもに悪霊を助けようとするということは、やめた方がいい。
彼らに意識を向け、同情した分だけ、よけいに取り憑かれて、結果、運が悪くなるし、病気にもなるからである。
その先祖霊は、結局、自分が救われたいという自分のことしか考えない者たちだからである。そんな先祖の霊に比べれば、まだ祟り霊のほうが同情の余地はある。
何代にも渡って祟り続けるからには、それなりの理由があるのだ。
あなたの先祖に、それ相当のひどい仕打ちを受けたのである。しかし、これは親が悪いことをしたからといって、その子供をいじめるようなものだから、やはり筋違いといえるだろう。
祟り霊は普通、自分がされたのと同じことを取り憑いた人間にしようとする。
自分が肉体を持っていたときと同じ苦しみ、死ぬときにいだいた同じ悲しく悔しい思いを、因縁のある人の運命に反復させようとするのだ。
たとえば、男女の葛藤に苦しめられた霊ならば、その人間の異性関係をことごとく壊すことで恨みを晴らそうとする。
騙し打ちにあった霊なら、謀略をめぐらして罠にはめたり、事故にあわせようとするし、自殺した霊は、取り憑いた人間を自殺させようとする。
また、頭のいい霊は、自分の祟る力が弱いと思えば何でも利用して、取り憑いた人間を不幸に追い込もうとする。
他の霊を呼び寄せて背後から操ったり、木を切らせたり井戸を埋めさせたりさせて(木霊の祟り、井戸霊の祟りによって)、運命を狂わせようとすることもある。
こうなると巷の霊能者では、とても霊の正体を見破ることなどできないだろう。
(※先祖供養が全ていけないというわけではない。正しい先祖供養の方法については、拙著『この世とあの世」(たちばな出版刊)で詳しく述べたので、ご参照いただきたい)
運気のスキを悪霊が狙う
本人が想念を正しく持ち、常に前向きな姿勢で明るく生きていれば、浮遊霊や自縛霊に取り憑かれるということは、あまり心配しなくてもよいだろう。
しかし、因縁をたどってくる祟り霊の場合は、本人の想念など無関係に一生懸命祟りにくる。
それでも、元気に明るくすごしている間はあまり霊障は出ないものだが、人間誰でも嫌なことがあれば、どうしても気持ちが暗くなるものだ。
そんなときには、ここぞとばかりに祟り霊は色々なことを仕掛けてくるし、他の悪霊もその期に乗じてスッと入り込むことがある。
そうなると、今まで上向きだった運命の歯車が微妙に狂いだし、思いもどんどん暗いほうへと引きずられていくようになる。
また、どんなに運の強い人でも、業が吹き出してくる時期というものがある。
因縁というのは、ある程度数値的に置き換えることができる。前世で積んだ徳分をプラス、業をマイナスとして計算すれば、今生で引受けなければならない因縁というものが算出されるのだ。
オギャアと生まれたその日から、だいたい何年何月頃に、どういう災いに合うかということは決められている。これを天の命数という。
この天の命数に従って、悪因縁が吹き出す時期を大殺界だとか、天中殺と呼んでいる人もいる。いわゆる凶運期(衰運期)だが、大殺界も天中殺も古くからある四柱推命の空亡のことである。
また、厄年などもその代表的な時期だ。
ただし、凶運期も人によって出方が異なる場合がある。それまでずっと調子の良かった人は一時的に運勢が停滞するが、今までずっと冴えなかった人の場合、凶運期を境にかえって運が上向きになることもある。
これは、その人が長い時間をかけて少しずつ因縁を解消していった結果なのだ。
また、大きな災い(死ぬような目にあうなど)を受けた後から、突然、運がよくなる人もいる。これは厄が払えたとか言うが、まさにその通りで、業が災難による苦しみで一度に消えてしまったからである。
いずれにしても、悪霊はこの業が吹き出す時期というのを見計らっている。霊はこの世の存在ではないから、その程度の予知は簡単にできるのだ。
そして、ことあるごとに様々な布石を打ちながら、どうやって苦しめるのか、ちゃんと計画を立てているのである。
不幸というものは、それが日常的な状態になるとあまり感じなくなるものだ。人間一番辛いのは、幸福の絶頂から真っ逆さまに突き落とされることである。
たとえば、恋愛をして何年も愛を育んで、周囲の人からも祝福されて、いざ結婚という段階になって、婚約解消とかで、ドーンと一気に奈落の底に突き落とす。
あるいは、仕事でも何年もかけて成果を積み上げ、信用を得て、いよいよ大きな取引がまとまりかけたというところでスコーンとぶち壊す。悪霊はそんなドラマを演出するのだ。
こうした計画を未然に防ぐためには、やはり今憑いている(かどうかは分からなくても)低級霊を一度、除霊によってきれいに除く、大掃除をしておかれることをお勧めする。
必ずどんな人でも、多かれ少なかれ家代々の悪因縁はきているので、曇り空が快晴になったような、心の中のすがすがしい変化に驚かれることだろう。
霊は祓えばいいというものではない
最近は雑誌などに、霊と交流したり、悪霊を祓うマニュアルのようなものが載っていることがしばしばあるようだ。
この際ハッキリ申し上げておくが、素人の方が遊び半分で霊の問題に直接かかわることは大変危険である。
絶対にやめた方がいい。特に相手が悪霊だとわかっていながら、ちょっかいを出すというようなことは、もう自殺行為と言ったほうがいいだろう。
では、いわゆる霊能者の先生にお願いすれば、大丈夫なのかというと一概にはそうとも言い切れない。
確かに、霊能者といわれている人はある程度霊が見えたり、霊の声が聞こえたりはしているようだ。しかし、そのほとんどは、キツネやヘビ、そして理などの低級霊か、邪神界の魔物が憑いてそうさせているのである。
つまり霊に使われているだけなのだ。
それでも念の弱い浮遊霊程度ならば、祓い落とすことはできる。しかし、祓われた霊はどこに行くのだろうか。
その霊能者に憑依してくれればまだいい。だが、多くの場合はまた本人に帰って来る。あるいは、近くにいる霊媒体質の人にすぐ憑いてしまうのである。これでは霊障のタライ回しだ。
このような霊視ができたり、お祓いをする霊能者は、物の考から逸脱している場合が多い。
口では愛と調和を説きながら、その行動がエゴイスティックであったり、他人に対する最低限の礼節さえ欠いているようならば、これは間違いなく低級霊の仕業だ。
その人の生き方や人格の基礎になっている性格が、低次元の霊界の波長と同調しているから、いくら修業をして霊能を開発しても、そのレベルの霊しか呼ぶことができないのである。
いや、むしろ、低級な人格のまま霊能開発(霊的に過敏になる)の修業をするので、すればする程、低級霊ばかりを強く呼び込んでしまう磁石のようになってしまうのである。
しかも、これは本人が自覚していない場合がほとんどだから、余計に始末が悪い。
「私は天照大御神です」とキツネが言っても、本人がそれを審神(霊を見分ける事)する知識も能力もないのだから、その声の主を本当の神様だと信じこんで、舞い上がってしまうのだ。
そして、あとはもうただキツネの言いなりである。
また、こうした低級霊は、お前はこうしなければならない、これをやれ、あれをしろとやたらに干渉的なことが多い。
悪霊は肉体を持たないことに苛立っているので、自分の思いを実現させることをあせって、色々と命令するのだ。
しかし、本当の高級霊や神様は、本人の自由意志を尊重し、時間をかけてじっくりと御魂の完成へ導いていくものなのである。
こうした低級霊や魔物に操られている霊能者も、除霊をするし、病気治しや予知のようなこともする。しかし、それは決して本人の幸せを願ってのことではない。
有り難がって通いつめているうちに、通う人の心は、霊能者に憑いている低級霊や魔物にどんどん侵されていく。
気がついたときにはもう、手遅れ、ということにもなりかねないので、くれぐれもご用心いただきたい。
悪霊を救済することの意味
あらためて申し上げるが、私も霊能者である。従って、当然、救霊(除霊)も行なっている。ただ、実際に霊を霊界へ連れていくのは正神界のご神霊であり、私はその「お取次ぎ」をさせていただいているのである。
これが霊力で霊を祓うのみの一般に行なわれる除霊と、人が愛と真心によって神霊を動かし、神霊のお力(神力)で霊を救う除霊(私たちが行なう救霊にあたる)の大きな違いである。
前者は、怨念霊が一時的に離れるが、また再びより強い怨みを持って帰ってくる。一方後者は、霊が改心し反省して人の体から離れていく(霊界に帰っていく)のである。
どちらがよいかはもういうまでもないだろう。
救霊の本義は文字通り、霊を救うことにある。つまり、霊障に苦しむ人々から霊を取外すだけではなく、霊の怨念をやわらげ、必ず改心までさせる。
霊界の法則を説いて、本来所属すべき霊界に戻るように説得して霊を救済するのである。
恨みの念が解けた霊は、霊格があがるので、多くは地獄から中有霊界下層あたりまで、神様に引き上げていただける。そこで本来の修業に努めることになるので、再びその霊が人間に憑依するということは滅多にない。
しかし、強い恨みや暗い想念を持つ霊は、いくら霊界の法則を説いてもなかなか納得しようとはしないものだ。
この時大切なのは、傷ついた霊の魂を心からいたわり、癒してあげることである。愛と真心をつくして霊の気持ちを受けとめ、霊の想念を転換させていくのだ。
これが本当の除霊であり、正しい救済法なのである。そうすると、除霊(救霊)を受けた人には、必ずなんらかの、よき運命の変化が起こってくる。
それも救霊は受けた本人のみならず、周囲までハッキリ気付く程、好調な運命に変わってしまうのである。
どんな人でも必ず、多かれ少なかれ家代々の悪因縁は受け継いでいる。それで本来な掴めるはずの幸せも、妨げられていることが多いのである。
だからあなたも一度は、あなたにまつわる不幸な霊たちの救済(除霊=救霊)を、受けたい、と思われた時に、受けておかれることをお勧めする次第である。
それにより、あなたの身の上に良きことが次々と訪れるに違いない。
本書をお読みになっていかがお感じになっただろう。
私達も死ねば霊界へ行くし、霊達もかつては肉体の衣を着て生きていた。
どちらが早く死んだかというだけで、本来、人も霊も全く同じ存在なのである。
生きている人間が幸せにならなければならないように、霊も幸せにならなければならない。
そのためには、自らの正すべきところは正し、御魂を磨き続け、完成させていくことである。そしてやがては神人合一することである。
私たちはこの世の中で、修業をし、霊達は霊界で修業しているだけのことだ。
そうして、それぞれ今いる世界は違っても、本来の目的は生きていても死んでからもずっと変わらないし、生まれ変わっても、また同じである。
だから、それぞれの只今を精一杯、精進努力していくこと。すべてはそれからである。
