人類がうまれた秘密をあかす(Vol.3)

第1章 人類誕生の理由

人類は目的があって誕生した!

人間に生まれないという選択肢はあるか

なぜ自分は生まれたのだろう。どうして人類は誕生したのだろう。

そんな疑問を持ったことはないだろうか。おそらく誰でも、一度は考えたことがあるはずだ。

自分が現にここに存在していることは分かっても、それが「なぜ」なのかは分からない。親に聞いても、友達に聞いても分からない。

自分にも親にも表現できない何かしらのいきさつがあって、その結果生まれてきているのだろうとは思うけれど、それが「な「ぜ」なのかは分からない。

そもそも、「生まれない」という選択肢はなかったのだろうか。

芥川龍之介の河童』という作品で、「ボクはこんなところに生まれるのは嫌だ」と、

パッとお腹の中で消えてしまうくだりがある。それは、生命という存在の、ごく根本的なところでの疑問だ。

そもそも我々が生まれる前に、「生まれる、生まれないを選ぶ権利」はあったのだろうか。

たいていの人は、そういうことに疑問を持ったり、また悩んでみたりするのだが、中にはまるで無頓着に人生を過ごす人もいる。

電車でたまたま隣あわせになった女の子の住所や電話番号に興味を持つのも、喫茶店で向かいの席に座った女の子たちのきれいな脚線が気になるのもいいだろう。これはこれで大切なことだ。

しかし、なぜ自分が生まれたのか、自分が生まれた目的は何なのか、そもそも人類はなぜ誕生したのか―その理由がわからなくては、自分の人生をどう生きていけばいいのかさえもわからないのではないだろうか。

いったん考え始めると際限なく続くこれらの疑問について、これから解き明かしていきたいと思う。

限りなく広がり発展する「天地の法則」

人類誕生の理由-最初にひとことで言いきっておこう。人類は「生成化育、進歩発展のプロセスの中で誕生した」のである。

それはいったいどういう意味なのか?おそらく大半の人は、これだけでは分からないだろう。そこでまず、人間の願望や欲望というところから話を始めよう。

人間はどんな願いを持つのだろうか。たとえば会社を経営する人間というのは、どんな願望を持っているのだろう。

「僕は、会社をどんどん小さくするのが目標だ」

「会社を小さくしていって、あるのかないのか分からないくらいにしたい」

そんな馬鹿なことを言う経営者はいない。経営者というのは、百パーセント会社を発展させていきたいと考えている。

そういう思いがあるからこそ、会社を創業するのであり、また先代の後を継いで社長に就任するのだ。

あるいは絵を勉強している人は、より素晴らしい絵を描くために、感性を磨き、技術を高める努力をしているはずである。

「どんどん下手になりたい」「前よりももっとまずい絵を描けたらいいな」

そう考えて、わざと下手に描いて、そこに喜びを感じるという人がいるだろうか。そんな人間がいるはずはない。誰にだって向上心はあるのだ。

F3のドライバーなら、もっとドライビングテクニックを磨いてF1ドライバーに昇格したいと思うだろうし、政治家なら総理大臣の椅子に憧れるはずだ。

それを権力欲と呼んで眉をひそめる人もいるだろう。だが、私たちの心の中には明らかに、「広く発展したい」「大きくなりたい」「理想を成就したい」という気持ちが存在する。疑問を差しはさむ余地はない。

これは人間の本質的な願望であって、誇りに思いこそすれ何ら恥ずべき理由はないのだ。

親子の関係であっても同じである。親は子に対して、どういうことを望むだろうか。

「子供など面倒なだけだ。大きくなってほしくない」

「子供はどんどん小さくなって、地面にのめり込むぐらいになってほしい」

こんなことを願う親はいるはずもない。親というのは、一センチでも一ミリでもいい、少しでも子供が大きくなってほしいと願うものだ。

這えば立て、立てば歩め、歩めば小遣いを……と、そういう親の気持ちの中で子供は育ち、大きくなっていくものだ。そこに何らかの見返りを求める心はない。

親が子供に大きくなってほしいと願うのは、人間の気持ちとしてごく本能的なものである。それは欲望というものではない。天地自然の法則であり、神様の御心の一部なのだ。

そしてこれは、私たち人間だけが持つ本能でもない。犬や猫、鳥でも同じなのだ。「子供ができては、面倒を見るのが大変だ」

そう考えて、春がきてサカリがついても、一匹じっとガマンしている犬など見たことがない。

猫でも猿でも鳥でも魚でも、あるいは小さな虫に至るまで、すべての生きとし生けるものは、子供を増やしていくという本能を持っている。

植物も同様に、芽を吹き、花を咲かせ、種を増やしていく。タンポポなどが分かりやすい例だろう。できるだけ種をたくさん飛ばして、繁殖しようと頑張っている。

そもそも、大自然の働きがそうなっているのである。生成化育、進歩発展の中で自然は営まれているのだ。

宇宙もしかり。果てしなく広く、ますます広がっているというのが天文学的な常識である。

宇宙は限りなく広がり続け、植物も広がり続け、森羅万象が広がり続ける…………この自然の摂理が、すなわち天地の法則なのである。

これを朱子学では「然るべきときに、然るべきものが、然るようになる」という。つまり「理」の法則性である。

もうひとつの要素が「気」である。天地は、陰と陽の「気」でできていると主張した。これを「理気二元説」といい、儒教の宋学の統一見解となっている。

この儒教的見解に対しては、老子は「道」というものを主張している。天地の法則の中心に「道」を据えているのである。

日本のインテリや政治家、経営者には、儒教や「論語」の好きな人が多い。揮毫を求められると、その一節をしたためるのが、功なり名を遂げた人間の知性の証になっているくらいだ。

中国では昔から、外では儒教の教えに従って行動し、家に帰ってひとり老子を紐解くのが知識層のたしなみとされている。

確かにどちらも素晴らしい教えであり、自己の研鑽のため読まれることをぜひお勧めする。

しかし、こと「天地の法則」のとらえ方については、儒教や老荘思想にも欠けている点があるといわざるを得ない。

すなわちこの考え方には、「神様のご意思」という要素がないのだ。神様のご意思があって初めて、「理」や「気」、あるいは「道」がある。

「すべてが「気」や「理」であるとするのは一面的すぎる。「理」を極めたのが科学、つまり化学や物理学であり、中国の漢方や風水学などは「気」の世界といえるだろう。

だが、天地自然というのは「理」と「気」だけで成立しているのではない。そこに神なる「意思」が働いているのである。

一方、キリスト教やユダヤ教では、儒教や老荘思想とは逆に、神様の意思だとか、人格神の部分が多く説かれているが、「理」や「気」というものが説かれていない。これも一面的なものの見方だ。

「理」「気」「意思」、それぞれが神様の一部なのである。

だからいうなれば、「理気意「三元説」というのが正しい。神様のご意志によって、「理」や「気」というものもある。

神人合一とは何か

それほど、神様のご意思は人間の智恵をはるかに超えたものなのだ。

神仙道や老荘思想的な考えが強すぎる人、あるいは理気二元説をとる人は、私たち人間と同じような人格を持った「人格神」の意思を感じる、という考え方がない。

そのため、神様と人間の間にあるべき親子のような対話がない。

これに対して、日本の神道、つまり惟神の道にはそういうところがあり、神と人が近いのである。神と人が仲良くやっているのだ。

そうした教えに関しては、たとえば天理教のほうが儒教よりも優れている。

天理教では、「この教えは、子供がハイハイしながらお母さんの膝に上がるような、そんなつもりでなければできない」と説いている。

神様というお母さんの膝に、子供になって上がるつもりでいくのである。

ここが分からずに、神とは何かを科学的に解明しようとしたり、理論的に究明していこうとしても、永遠に神を知ることはできない。

なぜなら、いくら人間の叡智を結集し、人智の限りを尽くしても、神様の能力にたどり着くことはおろか、その全貌をうかがい知ることさえできないからだ。

たとえば、人間にダリアの種が作れるだろうか。

ダリアの種は、一定量の水と光と土壌を与えられ、一定の時間が経過することで芽を吹く。やがて花を咲かせ、再び種が作られる。作られた種は、同じような条件のもとで成長を繰り返していく。

そのように神様がお作りになったわけである。

それと同じものを人間が作れるかといえば、まず無理だろう。いくらバイオテクノロジーが発達したとしても、それは自然界にあるものを部分的にいじくりまわしているに過ぎない。

どんなに科学が発達しても、人間が生命そのものを作り出すことはおよそ不可能だろう。

人工的に作った卵に一定の時間と温度を与えると、コケコッコーとニワトリが生まれる…そんなものは作れないのだ。

人間の知恵など、しょせんその程度のものである。

だから、科学的解釈だけで神を知る、理解するなどというのは、どだい無理なのだ。

人間というのは、せいぜい神様が作ったものの一部を活用させていただきながら、幸せを感じている程度のものなのだ。そこをよくわきまえなければ、本当の意味で科学や学問を追求していくことはできない。

偉大なる科学者はみな、人間を超える大いなる存在… 神様や自然に対して謙虚な姿勢を持っているものだ。

神様への道は、天理教でいうように“赤ちゃんがハイハイしながらお母さんの膝に上がるような素直な気持ちでのぞむのが正しい。

お母さんの膝で乳を飲ませてもらい、赤ちゃんはだんだん大きくなる。それが神様と人間との関係なのだ。

まさに親子の関係で、私の『大創運』(たちばな出版刊)を読んだ方ならすぐご理解いただけるだろう。

この本にも、「神様に甘えながら行くのがいい」と書いた。

惟神の道では、素直が一番なのである。素直の素」という字は「素=主+糸」と分解できる。

つまり、主から糸が垂れている。これは、主なるものにもとづいているということだ。主とは、自らの中の「主」であり、「宇宙創造の主神」という意味でもある。

あるいは、「守護神」「守護霊」もそうだ。主なるものからスーと真っ直ぐに垂れてくる糸をそのまま受け止めること。それが素直な心であり、生きていくうえにおいてこれほど明快なものはない。

素直に神様と交流を持ったほうが、人間は幸せなのである。

神様の御心から見れば、儒教や老荘思想に欠けている部分が浮き彫りになる。

お父さん、お母さんと接するように、神様と対話ができなければ、正しい神様の迎え方や咀嚼の仕方は分からない。

素直な気持ちで神様と交流することは神人合一の第一歩でもある。神と一体となり神の御心や法則に則って生きていけば、自らを幸せにし周囲の人を幸せにしていくことができるのである。

神様から見れば人間は子供のようなもの。無限の愛のぬくもりを放ちながら、私たちを大きく包んでくれる。だから人も、神様には気持ちで甘えながら行けばいいのだ。

親子のような関係であってほしいというのが、神様の御心である。

もちろん、素直であれば知性などなくてもいいとか、性格の良し悪しは関係ない、という意味ではない。まず、神様との素直な対話や関係があってはじめて、知性も性格も生きることになるのだ。

この一点、この一厘が分からなければ、いくら研鑽を積んで道を求めたところで、永遠にさまようばかりで、真理に近づいていくことはできない。

求めれば求めるほどかえって混乱し、ただただ、「わからない」で終わってしまう。

もうひとつ加えておきたい。

「われ仁を欲すれば、斯に仁至る」

これは『論語』の一節である。儒教において「仁」とは永遠のテーマだが、一言でいえば、”愛”のことと考えてよい。

この一節は、「仁に志そうと思ったら、そう思った瞬間からすでに仁の中の一部にある」という意味だ(この一節と「仁」については後にもう一度述べる)。

これを念頭に置き、先ほどの「神人合一の道」、神と人が一つになる境地について考えてみるとどうなるか。

「神人合に志せば、斯に神人合一至る」

神人合一といっても、その範囲や強さ、レベルにおいて違いがある。しかしいずれにせよ、神人合一を志し、お父さんやお母さんに語りかけるように、素直な気持ちで神様に向き合おうとすれば、その瞬間から神人合一の道の一部にあるということなのである。

字義ではなく、その精神を読み取れ!

太古、神と人が一緒にいた時代には、まさに神と人は親子のような関係だった。聖書に出てくるエデンの園などにも、そのように記されている。

ただし、聖書の中に出てくるエデンの園とは”たとえ”であり、そのまま文字どおりに解釈すると混乱してしまう。

その行間から出ているニュアンスを読み取り、神様の真のご意思がどこにあるのかを読み解かないと、間違った解釈をほどこしてしまうことになる。

世の中にはいろんな宗教があるが、どの宗教にもファンダメンタリストはいる。教典や教祖の言葉を、文字通りそのまま実践しようという動きがそれである。

近年ではイスラム原理主義が有名だが、キリスト教にもファンダメンタリズムというものがあり、たとえば「ものみの塔」などがその典型だ。

聖書に書かれていることを字義通りに解釈し、たとえば、献血はもちろん、たとえ手術で輸血が必要な場合であっても、それらの行いは禁じられている。

ものみの塔が、輸血に適用している聖書の箇所は、食事と捧げものに関する律法から取られている。

旧約聖書では、ノアと彼の子孫が、「ただし、その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」(創世記九章四節)と命令されていた。

イスラエルの民は、「あなた方は脂肪も血もいっさい食べてはならない」(レビ記三章一七節)と教えられていた。彼らがささげた動物犠牲の全部は、神のために差し出されたものだからというのがその理由である。

レーガン元大統領も、こうした原理主義に少し近いといわれている。

日本でいえば、日蓮上人あたりが仏教のファンダメンタリストといえるかも知れない。

もちろん日蓮上人の教えは素晴らしいのだが、方法論としてはやや教条主義的なところがあり、仏典をその言葉通りに理解していった。しかし、本来、そのような解釈をするのは、小乗仏教の流れである。

小乗仏教に対して、お釈迦様が本当に言いたかったことは何か、その本当の意味を理解し、かつまた実践しようとするところから興ったのが大乗仏教の流れである。

だから日蓮上人のように、大乗仏教の中で仏典を言葉通りに解釈していくというのは、少々矛盾しているともいえる(日蓮上人の出身は天台宗。つまり大乗天台教学である)。

話が少しそれたが、聖書の中のエデンの園はあくまでたとえであり、それを文字通りに解釈しようとすると、わけがわからなくなってしまう。

「人間は泥をこねてできた」

「え?おたく様は泥でできましたか。つまり泥人形のようなものですね」

「女というのは男の肋骨から出たものです」

「はぁ、神戸を歩く女性は肋骨の出身ですか。どうりでロッコツサンがあるわけだ」「それを言うなら六甲山………」

ともあれ、クリスチャンの中には、女は男の肋骨から作られたのだと真剣に信じている人もいる。

そのようなファンダメンタリストに聞いてみたいものである。いったいどうやって人間が泥からできたのか、どのようなプロセスで肋骨が女に変化したのか。おそらく、

「とにかくそうなんです。だって聖書に書いてあるんですから」の一点張りであろう。

そんなことが説明できるわけがない。一般的にファンダメンタリストというのは、自分に実践できるところは文字通りの実践するのだが、そうでないところは説明できない場合が多い。

これを断章取義という。

文章や言葉の、自分の都合のいいところだけを切り取っていくわけだ。

これは、週刊誌のゴシップ記事の作り方に似ている。全部がそうだとは言わないが、ある種の週刊誌では、取材相手のコメントを、都合のいいところだけツギハギして記事をまとめてしまう。

ひどい場合には、最初から用意してある結論に導くために、都合のいい部分だけを抜き出して、コメントした当人の意図とはまるで違う方向へ話を持っていかれてしまうのだ。

断章取義とはこういうものである。

週刊誌のゴシップ記事を文字どおりに信じ込むのはご愛嬌だが、週刊誌ならぬ聖書を断章取義的な読み方をしてよいはずがない。

たとえとして語られている字句にこだわるのではなく、聖書全体に流れている大きな精神の流れを汲み取っていかなければ、正し聖書を理解したことにはならないのである。

聖書だけに限らない。大乗仏教の教典を読むときにも同じことがいえる。お釈迦様の考えや、仏教精神の大きな流れを読み取らなければ断章取義に陥ってしまう。

古事記でも、あるいはコーランでも、すべてその根幹となる精神の大きな流れを読み取らなくては、正しく理解できたとはいえない。

その宗教の根本を流れる精神を見なければ、いくら教典の字句を追っても正しい理解は得られない。そこに気づかないから、いくら求めても矛盾が出てきて、納得することができないのだ。

それでも矛盾に悩んでいるならまだいい。矛盾を矛盾として認識することさえ放棄してしまい、曖昧なままで納得しようとする。

あくまで矛盾を覆い隠そうとするなら狂信者になるほかはない。こうして、狂信者と狂信者、教えと教えの戦いになって行くのだ。

儒教でも、漢の時代に盛んだった訓詁学では、『論語』の文字を一字一句厳密に解釈することに力を注いでいた。

これに対し、宋の時代に、字句にとらわれずにもっと論語の本質を理解しようという動きが新たに興きてきた。

これが宋学の流れで、代表的な人物として、周敦頤(周濂渓)、程顥(程明道)、程頤(程伊川)兄弟、張載(張横渠)といった人たちがいる。ちなみに、宋学は別名、道学とか理学・性理学ともいう。

そして、それらの学説を要約してまとめたものが、かの朱熹(朱子)であり、それが朱子学となっていく。

その宋学が日本に入って、南北朝の時代には大義名分論となって出てきた。

大義名分論は五経のうち『春秋』に基づく主張であるが、楠木正成、新田義貞らは教養を深める中でその精神を読み取り、南北朝の動乱期に自らの生きざまを貫いてきた。

人類誕生の真相

こうして歴史を検証してみると、字句つまり形を見るだけでなく「教え」の本質に戻らなくてはいけないという運動が、それぞれの宗教にあったことがわかる。

現代は、社会主義共産主義の実験が失敗し、また近代合理主義も破綻しつつあるようだ。思想的には不毛の時代であると言われている。

それらを克服していこうとする運動はさまざまにあるが、いずれも決め手と精彩を欠き、今は原点に戻ろうという時代になっている。

私たちも、目に見えるものだけでなく、目に見えないその奥にあるものを見なければならない。大きな流れを見なくてはならないのだ。

後に詳しく説明するが、そのすべては、ある一点に向けて「プログラムどおりに」進んでいる。

人類誕生に到るプロセス、それは長い長い歴史以前にまで話は遡る。神様は人間を生み出す前にいくつもの、それこそ無数のテストパターンをお創りになった。

いうなれば、試作品である。試作品としていろんな動物をお創りになった。ライオン、エリマキトカゲ、ラッコ、みなそうだ。

その中には、人間がとうてい考えつけない造形もある。たとえば、ラクダなど、あの不可思議な形の動物を神様はよくぞ思いつき、お創りになったものだと感心するばかりだ。

まさに神様はデザイナーであり、大変な芸術家でいらっしゃる。

その大芸術家が、最終的に人間を生み出すまでの長い長いプロセスで、泥から一つひとつ創ってこられたのが動物である。

それが今では、人間の食糧や鑑賞用として存在しているのだ。泥から創ったというのは、何億年という長い歳月をかけて、この地球の大自然の中に生物が生まれてきたプロセスを、たとえているのである。

そのように、何億年という目の眩むような時間を経て、苦労の末に神様がお創りになった最高傑作は何か…………男性諸君はがっかりされるかもしれないが、それは「女性」である。

女性こそは神様の創られた最高傑作であり、その次が男性なのである。

そして、さらに馬と続く。ここに挙げた生物はいずれも霊的な生き物であって、中でも女性が一番神様に近いといえる。

長生きするのも当然、女性。これは男女の平均寿命を見れば明らかだろう。

男性が女性に勝てるのは知性と腕力だけである。と言いたいところだが、最近では、その知性と腕力すら女性にかなわない男性が増えているようだ……。

人為的に作られたこの男性優社会にあってさえ女性にかなわない男性というのは、いったい何ものであろうか……。男性の中には、

「しかし先生、聖書によれば女性は男性の肋骨から創られたはずですよね。肋骨という一部分から創られたものが、果たして最高傑作と言えるのでしょうか。

むしろ男性の一部に過ぎないのではないでしょうか」といった疑問を持つ人もいるだろう。

ここでも、単に字句を追うのではなく、きちんと読解をしなければならない。男性の肋骨から女性を創ったという「創世記」の記述は、あくまで「たとえ」なのである。

先に述べたように、神様は無数の試作品をお創りになって最後に人間を創ったわけだが、その中でも、先に男を創り、後で女を創ったのだ。

つまり、生成化育、進歩発展の究極に、女性にたどりついたのである。創造が後になればなるほど、より神に近い存在、完成度の高い作品ができあがったというわけだ。

たとえば電化製品でも、後から出てきたもののほうが、ずっと優れているのはあたり前だろう。

東芝や日立が開発した製品の「肋骨」を取って、改良をほどこし、はるかに便利で使いやすい製品に仕上げ、大量生産して安く消費者に提供することで業績を伸ばしたのが松下電器である。

口さがない連中は「まねした電器」などと悪口をいうが、庶民にとっては安くて便利で品質がいいものがいいに決まっている。

かくして松下電器は今日も売り上げトップを行く。冷蔵庫でも洗濯機でもテレビでも、後になればなるほど、商品としての完成度が上がることはいうまでもない。

そう考えれば、女性という存在が見えてくるのではないだろうか。

一般に女性は情感が豊かで感受性が強い。悪くいえば感情にムラがあるということになるのだが、感性のレベルでストレートに神なるものをキャッチすることができるのだ。

神界というのは、理屈ではなく感性の世界だからである。女性は理屈抜きで神なるものの歓喜を受けとめることができる。

これに対して男性は、なまじ知性や腕力があるものだから、頭で考えすぎたり、力づくで物事を解決しようするから、ストレートに受けとめることができない。

その分、神なる世界に通じにくく、理屈抜きの歓喜が湧いてこないのである。

昔は「女子と小人は養いがたし」と言ったが、これは封建時代に作られた歪められた女性像だ。

叱ればすねる、おだてれば調子に乗る。悪く言えば感情の浮き沈みが激しいのが女性だが、それは情感や感性が豊かな証拠。女性は本質的に、天界に通じるものを持っているのだ。

女性のことを「ひめ」というのも、そのためである。お姫様というのは、日本の言霊にある呼称で、「ひめ」とは秘める、妙なるもの、神なるものを深く秘めているという意味なのである。

これらは『恋の守護霊」(たちばな出版刊)にも詳しく記しておいたので、ご参照いただきたい。

次元界の構造に秘められた謎

このように、人類は生成化育、進歩発展するプロセスの中で誕生してきたのだが、これまで述べてきたことは、形あるところから発展してきた「現実界」での話であり、いうなれば横のプロセスである。

全体像をつかむためには、もう一つ、縦のプロセスというものを見ていかねばならない。

これは、「次元界」での生成化育、進歩発展ということであり、これを理解して初めて全体が見えてくる。

少し難しくなるかもしれないが、大事なところなので、ぜひ理解していただきたい。最初、宇宙というのは「」(チョン)から出発した。

つまり、宇宙創造の主の神様の、その一番奥のところは点なのである。点には質量や体積、波動、神姿はないが、無ではなく有の始まりである。無限の極から一歩降りたところから始まるのである。

「・」の神様が動き始め、絶対権を持った状態が(ス)である。

の神様については第四章で詳述するが、この神を別名「御親元素大御神」と申し上げる。

の神が出現すると、次に「広がり」が出てくる。

これがすなわち、「炁(き)」である。炁は先天のものであり、これが後天先界に現れ出ると「気」になるのだが、最初は「炁」である。こうした「炁」が集まって卵状態(炁胞)となり、そこからずっと次元界が降りてきているのが、宇宙の姿なのだ。

最初の状態は、たとえて「無極」ともいわれる。しかしゼロではない。「点」があり、そこから炁胞が広がっていき、さらに九次元、八次元……と下りながら広がってゆく。

「完全な「無」を仮に十次元と呼べば、そこに「点」が現れ、有が始まって、の神がお出ましになったプロセスは、十次元と九次元の間の世界の話といえる。

ここから次元はだんだん下りながら広がっていくわけだが、九次元、八次元というのは、これはもう波動の世界である。波動といっても九次元は、チカチカッという、極微繊細な世界だ。

しかしそこにも、神なる意思と存在はある。この次元を、別名「元素「神界」とか「極微神界」という。

八次元では波動に色がつき、あらゆる種類の波動がある。七次元はきれいな映像のもとになっており、いろんな色が出てくる色魂(色玉、色霊)の世界である。

この七次元から上の世界は、別名「かくれみの神界」という。

人間には知覚できない繊細な世界だ。六次元、つまり第六神界から、テレビ映像のような姿形が出てくる。

ここは創造・芸術・文化の源であり、人が知覚できる上限の世界である。

そして、五次元となると、姿形に光とエネルギー・力が出てくる。八幡様や西宮戎さん、住吉大神、三輪の神様など、神社の神様や産土様というのは、みんな五次元神界の存在なのだ。

その五次元の下位に位置するのが、四次元である。四次元とは霊界であり、心の世界となる。

仏教でいう菩薩様、如来様などは、皆この世界にいらっしゃる。龍神、天狗など、神のご眷属もこの次元の存在だ。

そのまた下位の三次元が、肉体の世界、現実界である。最奥極微の神界から現実界まで、次元界は以上のようになっているのである。

霊界とは「思い」の世界

こうした「次元界」の構造について、具体的なイメージを持つことはなかなか難しい。しかし、実は人間にとって「次元界」とは、外的にも内的にも同時に存在するものなのだ。

たとえば、私たちの体を霊的に輪切りにすると、卵や地層のように何層にも分かれていると考えてほしい。

大きく分ければ、肉体、霊魂の三層である。一番外側が肉体であり、これは三次元の存在だ。その内側に霊があり、これが四次元となる。

そのまた内側にあるのが魂であり、五次元、六次元、七次元・・・・・・と、奥へ奥へと続いている。

九次元ともなると人が最も神様に近かった三五万年~六億年前の御魂の記憶の世界だ。もちろん、ここでいう外側、内側とは、三次元的な内外ではなく、より次元が高まっていく度合を示している。

「次元界」とは、人の内的にはそのような構造になっているのだ。次元界というものを理解するために、最も現実界に近いところから、四次元とはどういう世界なのか考えてみたい。

三次元世界と違い、四次元世界では時間と空間を超越している。三次元の現実界では、タイムマシンにでも乗らない限り、時間を越えることはできない。

移動手段を使わない限り、距離を越えることもできない。ところが四次元では、すべてが同時に存在しえるのである。

それは、たとえばこういうことだ。

人は時々、ふと昔のことを思い出すことがあるだろう。

「ねぇ、結婚してから、いつの間にかもう二十年も経ったのね。二十年前、ハワイで結婚式を挙げた時のことを覚えてる?思い出しちゃったわ。懐かしい……」

「二十年前か… 懐かしいな。そういえば、お前もあの頃は若かったね。シワもなければシミもなかった。髪もツヤツヤして、今みたいなザンバラ髪じゃなかった。それにあの頃は、僕に嫌味も言わなかったし……..」

「あなたもね。あの頃のあなたは若くてたくましく、髪もふさふさしていたわ。お腹も出てなかったし。優しくて、夢があったわね。ああ、懐かしい・・・・・・」

あなたの家庭でも、これに似たような会話が交わされることがあるだろう。

隣にいる奥さんに面と向かって、老けたなぁ、とも言えず、ご主人は頭の中で密かに昔を懐かしんでいる。

そのとき、ご主人の思い出の中では、隣の変わりはてた容貌の奥さんは二十年前と同じく初々しい乙女であり、純粋で、目がキラキラと輝いているのだ。「あなた、二人で一緒に素晴らしい家庭を築きましょうね」

「うん。理想の家庭を築こうね」

このような甘い会話も交わされたことだろう。

そのとき、ご主人と奥さんは、二十年前の思い出の中に帰っている。二人の脳裏には同じように、二十年前のハワイの光景が浮かんでいるのだ。

「ハワイで食べたパイナップル、うまかったなぁ」

「ワイキキの浜辺で見た夕陽がきれいだったわ」

そこには、二十年の時間を超越して、思い出の中味が写し出されている。また、日本とハワイといった距離をも超越して、日本にいながら二十年前のハワイの情景がありありと浮かんでいる。

こうした「心の世界」では、時間や空間といったものが超えているのである。簡単にいえば、この心の世界こそが四次元なのだ。

三次元と四次元は表裏の関係

たとえば人間が、私たちの肉体は三次元、心は四次元。それぞれ別の次元に存在しているわけだが、ふだんの生活の中で、そんなふうに意識することは少ないと思う。

しかし、実は肉体は滅びても、心の世界では生きつづけているわけである。

「ああ、こんなにやり残したことがある」「残念だ……!」「無念だ」

と思いながら死ぬと、念が残る。その念が残っているのが四次元である。つまり、霊界とか幽界といわれる、霊の世界のことなのである。

あるいは逆に、「幸せだ」「私は満足だ。精いっぱい生きた」と思っていくのも、やはり四次元なのである。

霊界には天国も地獄も、その中間にある中有霊界も含まれる。さらにそれぞれが三段階に分かれ、細かく見ればもっといろんなランクがあるが、これらはすべて四次元の世界ということになる。

人霊が行く霊界の中でも最高のレベルが、兜卒天界と北極神仙界だが、これもあくまで四次元の上部ということであり、神界ではない。

私たちは皆、死ねば霊界に行くことになっているのだが、先ほども述べたように、霊界というのは、思いの世界だと理解したほうがいいだろう。

生きているときの思いそのものの世界に死後行くことになるのだ。私たちは三次元で肉体を持って暮らしているが、同時に心と念は四次元にいるのである。

つまり、三次元と四次元は表裏の関係にあるということだ。三次元、つまり現実界から見れば、四次元はその現実界の裏にあたる。

また、現実界にあるものはすべて、四次元つまり霊界にもあり、逆に霊界にあるものもすべて現実界にある。現実界のことを現世というが、まさに霊界を写しているのだ。

現実界で地獄を見たければ、インドやバングラディッシュの悲惨な地域に写し出されているし、反対に天国も地上のいくつかの場所に写し出されている。

わが師、植松愛子先生は、「霊界と現実界は表裏一体であり、神界はまったく別の世界にあります。

そして、現実界にあることはすべて霊界にあり、霊界にあることはすべ現実界にあります。霊界では苦しみもすべて、この世と同じ仕組みになっているのよ」とおっしゃったが、まさに次元界の構造とはこのような仕組みになっているのである。

つまり、三次元と四次元は表裏の関係であり、五次元以上になると一線が画されて神界となるのだ。

九次元までつながる日本神界

さて、五次元以上が神界であり、その名の通り神様が住んでおられるのは、この世界ということになる。人間にはなかなかうかがい知れない世界だ。

先ほど述べたように、五次元世界には、皆さんもよくご存知の神社の神様がいらっしゃる。神社の社は三次元の現実界にあるが、ご神霊のいる次元はまた別なのである。

そして五次元のさらに奥にあるのが六次元。六次元については後で詳しくのべるが、簡単にいえば五次元の神様の想念の中身である。

つまり五次元の神様が、素晴らしいものを創っていきたい、と考える創造芸術の世界、あるいは素晴らしいものを創作して生成化育、進歩発展させたい、という五次元の神様のイメージが、六次元だと考えればいい。

私たち三次元に住む人間の思いの世界が四次元にあるように、五次元に住む神様の思六次元で形成されるという関係だ。

さらに、そのうえには七次元、八次元・・・と神界が続いていくわけだが、その説明は別の機会に譲りたいと思う。

なお、著書『神社で奇跡の開運」(たちばな出版)でも触れたが、日本には日本の神界があるように、世界中それぞれの地域に、それぞれの神界がある。

ヨーロッパはヨーロッパ神界、アメリカはアメリカ神界と呼んでいるのだが、厳密には本当の意味での神界があるのは日本だけである。

日本の神界は、最奥極微の九次元神界まで奥深くつながっている。その他の国に出ている神界とは、実は四次元の最上部の霊層のことなのだ。

ヨーロッパ神界、インド神界、中国神仙界などすべて四次元であり、人霊が入ることのできる世界である。だから、本来ならヨーロッパ霊界とかインド霊界と呼んだほうが正しいのかもしれない。

ヨーロッパ神界にお出ましになるエホバの神、ヤーベの神、ゼウスの神なども、その神力の実態を見れば、四次元界にますご神霊なのである。

ただし、元となるご神霊は五次元にいる。その神が必要あって四次元界に降り、ゼウスやヤーベに化身して顕現されているのだ。

聖書などを見ると、神様が大変厳しい立て分けをされる様子が描かれている。

まさに、四次元界という現実界に近いところまで降りた神霊だからこそ、それだけの大パワーを現実界に発揮できるのである。

これに対して日本の神社の神様というのは、みな五次元の存在である。

ところで、巷でよく耳にする〈八次元パワー〉だとか、〈七次元からの使者〉というものを審神すると、実際はすべて四次元界の一部を指していた。

本当の神界ではなく、四次元霊界のレベルであり、ここで私が述べている「次元界」とは定義が違っている。

そのような〈八次元〉〈七次元〉というのは、本当の神々の世界とはまったく違うものなのである。これは注意して区別していただきたい。

第六神界、宇宙空間に出現す

神霊界と現実界はさまざまに関連しているので、ときとして不思議なことが起こる。

たとえば、人にはそれぞれ守護神という神様がついているのだが、不思議なことに地方からきた人には、弥生時代のような格好をした守護神が現れる。神話に出てくる須佐之男命のように、なかなかおごそかなスタイルである。

ところが、都会育ちで洗練された人の守護神は、やはり先進的でファッショナブルなのだ。

東京生まれ東京育ちという方の場合、たとえば、木花咲耶姫という美しい女神様がキラキラのドレスで出てこられたりする。

大都会の中には、東京でも青山や六本木のように洗練された場所があるということは、つまり同じような場所が神霊界のどこかにあるということなのだ。

それが現実界に写っている。だから、同じ木花咲耶姫様が守護神でも、人によって古めかしいファッションの木花咲耶姫であったり、流行の最先端を行くファッションの木花咲耶姫であったりす

現実界が移り変わっているように、神霊界もどんどん移り変わっている。だから、その時代に相応しい洗練された都会的センスの神様が出てこられるのだ。

いうなれば車がモデルチェンジしてデビューするように、新しい時代のために現れたわけである。

そのように、五次元の神様がランクアップし、さらに素晴らしく、芸術的、創造的、文化的モデルチェンジして出ておられるのが六次元神界なのである。

私が植松愛子先生のもとへ弟子入りしたときのことだ。その折、植松先生は、この第六神界が宇宙空間に出てきたと、神様から教えられたことを明らかにされた。

植松先生は第六神界に何度も行かれ、その様子を仔細に御覧になっている。

私も時折り、第六神界を垣間見るのだが、それはまさに、うるわしい五次元神界をさらにグレードアップした高貴で雅やかな世界だ。

そういう高い次元の神界が、宇宙空間に開いたのだ。

そのような神界が開いたということは、現実界にもやがてそれが写し出されていくということである。

内面、外面ともに素晴らしい、高貴で雅やかな次元の高い超高文明の世界・・・・・・、やがて、この社会が、時代が、そういうふうに移り変わっていくのだ。

この高貴な世界、第六神界は、実は遥かなる太古の時代には開かれていた。

人が神様と一緒にいた「神人合一」の時代。それが聖書に記されているエデン園のたとえなのだが、そうした世界がもう一度帰ってきて、これから現実界に出てくるのである。

そこには大いなる神様のご意思が働いているのだが、これについては次章で詳しく述べていくこととする。

人類誕生の背景にあるものとは

話が三次元から六次元へと上がってきたが、そもそも、なぜ、最初の無極から次々と下の次元界ができていき、物質的で波動の荒い世界ができたのか。これが人類誕生の理由に大きく関わってくる。

先に述べたように、宇宙というのは「点」から出発した。つまり、もとは「点」の神様であったのが、やがて「炁」が集まって卵のような炁胞状態となり、そして極微の神界ができたのである。

主神は、最初に極微の神界をつくり、次いでいろいろな神様を生み出した。すなわち「働きの神様」である。

働きの神様は、主神の能力と役割を分掌し、それぞれの分野でお働きになる。主神の性質と意思を引き継ぎ、世界をつくり発展させておられるのだ。

こうして次元界は九次元、八次元、七次元広がっていった。次元が下がるにしたがって、波動は荒くなっているが、これは単に荒々しくなったということではなく、発展しているということなのだ。

それをご覧になって主神はお喜びになっている。

「よしよし、私の理想と心がますます広く大きく発展しているな。よかった、よかった」と。

なぜ三次元ができたのか。なぜ地球ができ、人類が生まれたのか。それは次元界が発展していった結果だ。

そして、次元界が発展していったのは「生成化育、進歩発展」することが、神様の喜びであるからだ。

そして、宇宙創造の主神は、たとえていえばこうお考えになった。

「私はこのような素晴らしいものを造った。私の子供たちも、私の意思を継いで大きく育ってほしい。

この世界を継承しながら、もっとより素晴らしいものへと発展させていってほしい。それをお前たちが楽しんでくれれば、私はとても嬉しいのだ」

人の親が考えるのと同じように、神さまもそうお考えになったのだ。

つまり、神様ご自身も、霊も、人も、共に素晴らしいものをつくって、喜びと幸せを分かち合いたい、という神様の大御心これこそが、人類誕生の理由なのだ。