人類がうまれた秘密をあかす(Vol.5)

第3章 弥勒の世の実現に向けて

困難な時代のあとにバラ色の未来がやってくる

明治維新の背景にあった外圧

「エデンの園が戻ってくる。神人合一の時代がやってくる。世界連邦政府が樹立される」

そうは言っても、にわかには信じられないかも知れない。確かに現在の世界情勢を見れば、常識的に考えて世界連邦政府なんて夢のまた夢、とても実現できないと考えるのが普通だと思う。

しかし、世界連邦政府は必ず近い将来樹立されるのである。

神様の大きなご意思について理解を深めるために、その雛型である明治維新をもう少詳しく見ていくことにしよう。

明治維新によって、黒船来襲からわずか一六年間の間に日本は近代国家への脱皮を遂げたわけだが、特筆すべきはほとんど血を流すことなくこの大変革が実現したことだ。

もちろん、西南戦争をはじめ、水戸や会津などで一部では悲劇的な流血事件もあったが、全体としてはいわゆる無血革命に近い形でなされたのである。

これは世界的に見ても極めて珍しいケースだ。ロシア革命や中国革命では何百万人もの血が流れたし、ベトナムの統一でもおびただしい人が殺された。

それにひきかえ、明治維新ではごくわずかの血を流すだけで、抜本的に国の体制を変革することに成功したわけである。

これを見ただけでも、明治維新がいかに奇跡的なことかおわかりになるだろう。

では、どうしてあのような「無血革命」が成功したのだろうか。ひとつには、当時の人たちの努力のたまものであることは間違いない。

勝海舟や坂本龍馬をはじめとする歴史的な人物が陸続として輩出し、命を擲って国のために東奔西走した。

しかし、もっと重要な要素があったことを忘れてはならない。それは当時の日本を取り巻く国際情勢である。

これこそが明治維新を平和裡のうちに成就させた決定的な要因だったのだ。具体的なエポックとしては明治維新の成功は江戸無血開城にあずかるところが大きい。

慶応四年(一八六八年)、薩長連合からなる官軍は倒幕の最終決着をはかるべく、江戸に迫っていた。

これを迎え撃つべく幕府軍も万全の軍備を敷いて、今や遅しと官軍の攻撃を待ち構えていた。まさに一触即発の危機、いつ戦闘が始まってもおかしくない状況だったのである。

このとき、二人の男が歴史的な平和会談を行う。官軍側からは薩長連合代表の西郷隆盛。幕府側からは将軍徳川慶喜の意を受けて勝海舟が会談に臨む。

咸臨丸でアメリカに渡ったことのある勝海舟は、インターナショナルな感覚を持つ人物であり、世界情勢に長けていた。

一方、薩長連合はそもそも尊皇攘夷であったものの、西郷隆盛始めその指導部は、日本という国が置かれている状況をよく把握しており、きわめて現実的な、そしてまた優れた政治感覚を有していた。

会談では、日本の国を守らんがため戦を回避することで意見の一致を得た。二人の間では、おそらく次のような会話が交わされたことだろう。

「もし我々がここで戦をすると、必ずや江戸は焼け野原になってしまうだろう」

「うむ。そうなればその混乱に乗じて、帝国主義列強国が押し寄せてくるに違いない」

「その通り。清国のように我が国を占領するだろう」

「祖国存亡のきわめて重要な時期ではないか」

当時のアジアは、イギリス、フランス、ロシア、アメリカなどの列強による植民地支配を受けていた。

世はまさに帝国主義の時代である。明治維新の二十数年前には、清とイギリスの間でアヘン戦争が勃発し、戦いに敗れた清は香港の割譲、五港開港といった屈辱的な南京条約を結ばされていた。

このままでは隣国と同様の運命をたどり、日本も占領されて列強の植民地となってしまう。

こうした認識が西郷と勝の双方にあったからこそ江戸決戦は回避され、平和裡のうちに政権の移行が成功したのだ。

その意味ではこの二人は国際的な感覚を身につけた大政治家ということができる。

だが、もう一人忘れてはならない人物がいる。それは勝に全権を委ねて会談させた十五代将軍徳川慶喜である。

慶喜がもし凡庸な為政者であったならば、将軍という地位に固執するあまり日本国中を内乱の火の海にしていたに違いない。

そして、その隙をつかれる形で欧米列強に日本の国土は犯されていたことは確実である。

戦おうと思えば薩長連合を迎え撃つには十分な軍事力を備えていたにもかかわらず、将軍自ら戦いを放棄したのだ。というのも、勝海舟や西郷隆盛に勝るとも劣らない国際感覚を徳川慶喜が身につけていたからに他ならない。

また、江戸無血開城の陰には山岡鉄舟の働きがあった。

このように神の守護篤き日本は、必要なときに一流の役者が揃って、それぞれの役を見事に演じきって歴史を塗り替えていく。

これが神仕組みの進み方なのだが、もうひとつ大事なのは役者に先立つ舞台設定である。

明治維新が実現したのは、欧米列強の外圧という日本を取り巻く環境があったからに他ならない。

つまり、神様がそういう形で日本の国を追い込んでいったわけだ。雛型である明治維新の背景は、実にそういうことであった。

天変地異は神様の「追い込み作戦」

ひるがえって、来たるべき世界連邦政府について考えてみよう。

世の中の誰しも、もし世界連邦政府を作ることができれば、政治、経済、宗教などによる対立もなくなり、すべてうまくいくだろうと考えている。

そんなことは十分過ぎるほどに分かっているのだが、それぞれの国や企業の自己主張がぶつかり、実現にはほど遠い。

先進国の人間は、自分たちの生活レベルを下げてまで、南北格差を縮めようという気持ちはない。反対に発展途上国は、かけがえのない自然を犠牲にしてでも工業化を進めることに必死だ。

すでに工業化を成し遂げ、その過程で先進的に環境破壊をしてきた国々にとやかく言われる筋合はないという理屈である。

東西冷戦の終結と共に軍縮が叫ばれて久しいが、核保有国は核を放棄するつもりなど毛頭ないし、フランスや中国にしても、国際世論の非難をいくら浴びようが、平然と核実験を繰り返してきた。

こうした政治状況を見る限り、世界の国々がそれぞれの国益よりも相互の調和を重視し、互いに軍備を放棄して仲良く手を結ぶというようなことは想像しにくい。

経済にしてもしかり。どう考えてもその可能性はないように思える。

つまり、各国が本当に協力し合うようになるためには条件が必要なのだ。

それは、明治維新のときに「外圧」という危機があったのと同じように、各国に利害が共通した大問題が起ること以外には考えられない。

もっとハッキリいえば、人類存亡の危機に関わるような問題が起こらなければ、世界の国々が仲良くなって世界連邦政府樹立に向かうことはないのだ。

そこで神様が、人間のために準備している外圧こそが実は天変地変なのである。

「このまま人類を放置していても、世界連邦政府樹立というところまでいくのは難しいだろう。人間の目を覚ますために、少し手を打とう。海、山が割れ、溶岩が流れる、そんな地震をあちらこちらで起こしてみようか」と。

本来なら、大国の指導者たちはいつまでも自己主張している場合ではないのだ。

政治、経済、環境問題など何を取っても、すでに人類は相当に追い込まれていることは明白であろう。

だが、目前に差し迫る共通の危機意識や問題点がないと、世界の各国、人々が手を結ぶなどということはまずありえない。

残念ながら人類はまだそこまで成熟していないのである。だからこそ神様が、天変地変を準備されているのだ。

天変地変だけならまだしも、実際には、私にも表現できない言葉にできないような凄いものも用意されている。

これが黙示録で予言されているところの、第一のラッパ、第二のラッパ、第三のラッパといわれるものなのである。

もちろん神様は、ただ破壊的にやろうとしているのではない。

あくまでも、人類に共通の目標を持ってほしい、気づいてほしいという強い思いから「追い込み作戦」として、天変地異という道具を用意されているのだ。

だから、それぞれの国の代表がいち早く改心し、世界平和のために心から手を取り合えばいいのだ。そうすれば天変地変など起こらない。起こす必要がなくなるからだ。

なぜ世紀末予言が流行ったのか

二十世紀末、巷では「一九九九年に終末がやってくる」「ハルマゲドンで人類が滅ぶ」などという人類滅亡のウワサが乱れ飛んだことは、まだ記憶に残っていることと思う。

人々の恐怖感を煽り立てていたのが、予言者や一部の宗教だったが、もとより神の御心はそんなところにはない。

神様が自分の子供である人類を滅亡させようなどと考えるわけもないのだ。

未来にはバラ色の理想社会が待っており、しいていえば、その前に陣痛や生みの苦しみがあるというだけのことだ。

その神の御心を知らず、天変地異のイメージだけを中途半端にキャッチした霊能者が、予言や宗教という形で流布し、人々の恐怖心を煽っていたに過ぎない。

これについて私は当時「宇宙からの強運」(たちばな出版)を始めいくつかの著書で警告を発しておいた。

すなわち、終末歴史観は、まるで歳末大売出しのようなものだと。

「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。本日は大晦日。今年も今日で最後でございます。はい、いらっしゃいませ。現品限りでございますよ。そこのお兄さん迷っている場合じゃない。人類も今日で最後、本日限りなんだから、悪因縁を払っておかなくちゃ、あの世へ行っても浮かばれないよ」

「ええっ。じゃあ買わなきゃ!」

まるで、こんな感じであった。

そういう予言を信じて自暴自棄になる人や、近い将来に人類は滅ぶから山にこもるという人まで出てきた。

また、だからこそ信者を増やさなければいけないとか、ハルマゲドンに自分たちだけ助かろうといった宗教まであった。

しかし、考えてもいただきたい。「やがてハルマゲドンが来て、人類は滅ぶ。しかし、わが宗派だけは助かる」などという宗教が信じるに値するだろうか。

たとえハルマゲドンで人類が滅ぶなどというお告げがあったとしても、「なんとかそれを最小限にしてください。なんとか皆を救ってください」と祈るのが、宗教者としての努めではないか。

真に高貴な精神を持つ者ならば当然のことだろう。天変地変が来たとしてもそうだ。我が身かまわず他人を助けようと思うのが、真に愛に溢れた精神といえるのではないだろうか。

自分だけ助かろうと山にこもったり、我が宗派だけ助かろうなどというのは、どこか神心からずれた考えといわざるを得ない。

ともあれ、こうした予言のすべてが全くのウソだったかといえば、かならずしもそうは言い切れない。

一部には確かに神様の仕組みをキャッチしているものもあるからだ。しかし、彼らには最も大切な一厘がない。

すなわち、神様の御心がわかってないのだ。地震にしろ火山の噴火にしろ、いわゆる天変地変はすべて神様が起こされるものである。神様のご意志によらざるものは一つとしてこの世にない。

ならばなぜ、神様は天変地変を起こされるのか。しかも、人類の存亡に関わるような天変地変を。この一点がわからなければダメなのだ。

人間の目からではなく、神の目から見たらどうなのかという視点がなくては、どんな予言もすべて中途半端で無意味なものとなる。

では、神様の目から見た天変地変の意味とは何なのか。それは人間を追い込んでいくことなのだが、一言でいえば、それは神様の大愛なのだ。

本来は天変地変など起こしたくはない。しかし、このままではいつまでたっても人間は理想社会に向かっていこうとはしない。

一日も早く恒久の幸せが人類に訪れることを願う神様の御心なのである。

人類の厄年を乗り越えろ!

実は二十世紀末は本当に最大の危機のときであったのだが、幸いにも巷の予言はことごとく外れ、人類は見事に世紀末を乗り越えることができた。

なぜ、天変地変が起こらなかったのかということについては、後ほど説明するが、ここでもう一つ別の角度から人類に降りかかる災厄という問題を考えてみたい。

実は、神様が天変地変を起こすのも、あくまで天地の法則に基づいて行うのである。というのも、人類は今、長年に渡って積み重ねてきた刧業)を抹消しなければならない時期なのだ。

個々人の男女には、それぞれ厄年がある。

女性は一九歳、三三歳。

男性は二五歳、四二歳、六〇歳というように、それぞれの「業」や「劫」(霊的に深い部分にある業のこと)が吹き出す時期があるわけだが、人間の集合体である国家や人類も同じことなのだ。

これは仏教では「供」と呼ばれるものである。

女性三三歳、男性四二歳にあたる「大厄」。人類の大きな刧の吹き出す時期が、ほぼ西暦二〇〇〇年に当たっている。

もう少し詳しくいえば、平成元年からの一〇年間が、前厄一〇〇年の締めくくりの一〇年。本厄の西暦二〇〇〇年を経て、その後一〇年間が、後厄一〇〇年間の始まりの一〇年間に当たるのである。

「でも、神様だったら、万能の力で厄災を払って、さっさと理想社会を作ってしまえばいいんじゃないの?」と考える方もいるかも知れない。

しかし、この大宇宙には絶対法則がある。それが因果律(因果応報の法則)だ。善因善果、悪因悪果というが、物事にはすべて原因と結果があって、縁で結ばれている。

これは現実界のみならず宇宙全体を貫く絶対法則であり、宇宙を創造した主神といえども自ら定めたこの法則を無視することはできない。

そんなことをすれば万物の秩序が破壊されてしまうからだ。

そこで神様は、いずれ人類が抹消しなければならない刧というものを活用して、人間理想社会に導くための契機となるよう天変地変を準備されているわけである。

すなわち、どんな災いが降りかかろうと、元はといえばそれは人間が自ら蒔いた種なのである。

しかし、ただ苦しむために苦しむのではなく、その後に素晴らしいものを準備してくださっている。

そこに神様の大いなる愛を感じずにはいられない。本厄は終わったとはいえ、現在はまだ「後厄」の渦中にいる。古いものが壊れ、新しいものが創造される産みの苦しみの時期だといえるだろう。

では、このさき人類をどのような運命が待っているのか。刧を抹消するにも幾つかの方法がある。被害を最小限にとどめ希望を持って前向きに乗り越えていくにはどうしたらいいか。

今こそ人間は自ら深くそれを考えていかなくてはならない。それこそが神様が望んでいらっしゃることなのである。

正月を迎えるように、新たな素晴らしい時代への期待に胸を膨らませながら、この時代を雄々しく乗り越えていくのが、神様のご計画に対する私たちのあるべき姿なのである。

災いを強化する祈りの力

それではやはり天変地変はやってくるのか、ということになるのだが、それはあくまで人間が改心しなかったときの話だ。

早く改心すれば天変地異を避けることはできる。ただし、積み重ねた刧がある限りまったくの無傷とはいかないことは確かだ。

やはり一部でも神様の御心を知った限り「天変地変が起こりませんように。一日も早く世界が一つになって、明治維新よりももっと小さな犠牲で世界連邦政府ができますように。弥勒の世が来ますように」と、日々祈りを捧げるべきであろう。そうすることが愛と誠のある証だ。

著書『大天運』(たちばな出版刊)の中で私は、この世の幸せの種はすでに先天の世界、目に見えない世界に無形の宝としてあって、それが「化する働き」によって現実の幸福になる、と書いたが、実は、不運、不幸も同じことなのだ。

それが先ほどから述べているというものである。それまで積み上げてきた刧が形となって現れると、不運、不幸ということになるわけだが、形となってから対処するのでは遅すぎるのだ。

形に出る前に災いの種を消す―――これを「強化する」という。皆さんはすでに天地の法則の一端を知ったわけだから、「先天のうちに、無形のうちに強化してください」と神様に祈っていただきたい。これは非常に大切なことだ。

実は世紀末の危機を乗越えることができたのも、多くの人々が誠の祈りを結集させることにより、大神力を動かし人類の刧を強化していただくことができたからなのだ。

祈りというのは、それほど大きな力を持っている。

先ほど申し上げたように幕末期日本は、列強に侵略される寸前まで追い込まれたが、自力で大改革を成し遂げ、柔軟に新しい文明を受け入れながら、見事に明治維新を成功させた。

そこには明確に神様のご意思が働いていたわけだが、実はそれだけではない。

この時期、如来、天理、黒住、金光、そして大本教という神道系の新宗教が次々に産声をあげている。

これらの教団こそ、当時の神仕組を担っていた人々であり、その祈りによって日本は正しい道に導かれていったのだ。

近世において日本が国家存亡の危機に追い込まれたことは、もう一回ある。二度目は終戦直後のことだ。

敗戦の焼け野原から、大きな痛みをともないながらも経済復興を成し遂げ、世界第二の経済大国にまで成長するという「世界の奇跡」をやり遂げた。

戦後の日本が立ち直ったのは、戦時中に大弾圧をものともせず、出口王仁三郎と大本教の先達たちが日本の国のことを祈り続けたことで、神が動いたからに他ならない。

幕末や戦後、仕組を担って日本を救った使命ある人々・・・・・・、決して歴史に名を残すような英雄ではないが、その人々の功は、今も神霊界で光り輝いてる。

その人々に負けずに、今この時代を生きる私たちは、一人でも多くの誠を結集させて、この危機を乗り切っていかなければならない。

祈りの誠を結集すれば、神々は必ず大きく動いてくださる。人々が救われ、人間が神々に近づいていくことは神様にとっても嬉しいことなのである。

世界連邦政府はどこに作られる

神様は私たちに素晴らしい未来を用意してくださっている。しかし、それを実現していくのはあくまで人間なのだ。

もちろん、主神のご意思を実現すべくさまざまな働きの神々や神人たちが総力をあげて仕組みをバックアップしてくださっているわけだが、肉体を持たないご神霊は、先の先まで見えていながら、現実に祈って誠を結集させてくれる人がいないと、手をこまねいて見ているしかないのだ。

祈りを結集させ、災いを強化しながら、天変地変が起きずとも最小限の犠牲で弥勒の世が実現できるよう誠を尽くすこと。

それが仕組みを知り、この時代に生きる私たちの使命なのではないだろうか。

そして、何度か述べているように、そのターニングポイントは「世界連邦政府の樹立」である。

世界連邦政府ができれば、まず最初に軍備が撤廃される。つまり、人類史上初めて戦争のない世界、戦争の心配のない世界が実現するわけだ。

そうすれば、明治維新後の日本のように、人々が地域の利害でいがみあったり戦争で殺しあうことはなくなり、経済もどんどん発展していくのだ。

世界中がこれと同じようになっていく。仇敵であった鹿児島県人と東京都民と福島県人の優秀な頭脳が集まって、今では一緒になって研究しているのと同じように、今度は世界中から優秀な頭脳が集まって、政治、経済、学問、宗教、科学をより高度に進歩発展させていくことができるのだ。

こういうかつてなかったほどの超文明の幕開けのときが、すぐそこまで来ているのである。その神様の仕組を理解すればこそ、人間は前向きな気持ちになることができる。

悲観したり絶望する必要などどこにもない。ここでは公表できないが、神様はすでに、世界連邦政府を置く国やその場所まで決めておられるのだ。

もちろんそのためには、人間が知恵を出し合って踏んでいかなければならないプロセスがある。

これからさまざまなことがあって、その過程で世界中の人たちが意見を出し合い、やはりここに世界政府を置かなければと満場一致で決まる。

世界中の人間の心がひとつとなって、初めて世界連邦政府が成立するのだ。すでに、そういう未来ができている。

そのためのプロセスもすべて、すでに神様が仕組んでいらっしゃるのである。

最後には、ひとつの王で統治される

大本教、出口ナオの筆先(神示)にも、このことは書いてある。

「七王も八王も王があると、口舌が絶えんから、末でひとつの王で治める仕組みがしてあるぞ」と。

七つも八つも王がいると、口舌つまり戦争が絶えないから、最後はひとつの王で治めることになっている、という意味だ。ただし、「ひとつの王」というのは何も、たとえばイエス・キリストが再びこの世に降臨して「我こそはメシアなり」と世界を統治するといった類いのことではない。

「王」とは主権、国権のことである。地球上の国権が消滅して、世界連邦政府ひとつに収斂されるという意味なのだ。

国権がひとつに集約されれば、みなで会議をするのだから、世界の争いは収まる。たとえば、ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦がいい例である。

当初、その複雑な民族構成から、解決の糸口すらつかめなかった。 NATO軍の空爆を契機に、国連の調停でようやく和平協定調印にこぎつけることができたが、こうした紛争にしても初めから起こることはないのだ。

考えてみれば、チトー大統領のもと、ユーゴスラビアとして存在していたときには、すくなくとも民族紛争はなかったのである。

良し悪しはともかく、いくつかの民族がひとつの国家として統一されていたのは事実だ。

そして、当然のことながら通貨も統一される。

現在ヨーロッパでは、EU統合というヨーロッパの復権をかけた壮大な試みが行われようとしている。

二〇〇二年一月には、EU十五カ国のうち、政治的判断によって今回は統合への参加を見合わせた四ヵ国以外の十一ヵ国が、通貨統合に踏み切ることにした。

各国の通貨はユーロに切り替えられ、その六ヵ月後には廃止されるのである。

日本でも、明治維新によって明治政府が成立するまでは、それぞれの藩に藩札があったのに(わずか百三十年ほど前の話にすぎないのだ)、今では東京の千円札と鹿児島の千円札に何の違いもない。

軍備でもそうだ。それぞれの藩にはお城があり、自前の軍を揃えていたが、今や治安維持のための自治警察があるだけだ。

これらが世界規模で行われるには、政治、科学技術、情報の流通網や交通網など、あらゆる面で発達しなければできない。

そして、やがて世界から宗教的な対立も消えていくことになる。

宗教間の争いといっても、それぞれの宗教には案外共通する面も多い。聖書にしろコーランにしろ、基本的には同じようなことを言っているのである。

たとえば、殺戮が神の意思に合致しているなどということは、どの宗教の教典を見ても書いていない。

どれもみな、真剣に祈ることの大切さや思いやり、愛と平和等、似たようなことを説いている。

人類がまだ幼児の時代、つまり交通も発達しておらず、通信の手段も未熟な社会では、自分たちの宗教こそ最高であると、その宗教の優越性を誇示することもできただろう。

他の宗教についての情報がほとんどないところでは、自らの宗教を盲信し、排他的になるのも無理からぬことである。

だが人類が成長し、交通や通信網の発達で情報の密度が増してくると、宗教の同一性、または違いといったものが分かってくる。

では、現在よりも宗教界の交流が増えて互いの理解が深まるようになれば、宗教が一本化されるような事態がありうるだろうか。そういうことが神様の仕組に組み込まれているだろうか。

たとえば、世界がすべてイスラム教一色で統一される。あるいはキリスト教かもしれないし、仏教かもしれない。はたしてそんなことがありえるだろうか。

宗教というのは、その民族の歴史や文化抜きでは考えられないものである。それほど深く民族性というものに根ざしているのだ。

そういったことを無視して、全世界をひとつの宗教で塗り変えるなどということは、まずもって無理な話である。少し考えれば誰でもわかることだ。

だから、各々の宗教を大事にしながら、他の宗教も尊重することが重要なのだ。宗教の違いといっても大同小異に過ぎず、それぞれが違いを認めながら、お互いの宗教を理解しあっていく。

そして風俗や習慣の違いを認めつつ、協調しながらやってゆけば、争いも自然と遠ざかる……政治がひとつになれば、宗教もこうなっていくのは難しいことではないはずだ。

政治がひとつになると、通貨はひとつになり、宗教はお互い尊重し合うことで、また教育も個性を重んじることで協調することができる、そんな時代が到来するのだ。

これが、神様の仕組んでおられる弥勒の世への仕組である。その仕組の中に私たちはいるのだ。

だから、この仕組の方向さえ見ていれば、世の中がどうなろうと、たとえばノストラダムス云々、天変地異云々と不安を煽られるようなことを言われても、心配する必要はないのである。

これは大本のお筆先を見ても分かる。お筆先には確かに、「人類三分になるところまで行くぞ」という言葉がある。

三分というのは三%だ。そこだけ読めば、九七%の人が死ぬということになる。

しかし、一部にそういう言葉が出ていても、お筆先全体に流れている神様の御心、精神の流れを理解できれば、神様はそうさせないために仕組をしているのだ、とおっしゃっていることに気づくはずだ。

その御心の流れを見たら、天変地変で人類が滅ぶなどという未来図などあり得ないことが分かるだろう。

この仕組はあくまでも、神様が人間を追い込んでいくやり方であって、何も神様が好き好んでやるわけではない。

これまで積み上げてきた刧を抹消しなければならないとしても、最小限の被害でとどめることはできる。

人間が努力して共通の意識を持ち、そしその行いが変化していくことで最終的に為政者がその道を選択するのであれば、天変地異もなしに世界連邦政府はできるのである。

大本教の筆先にもある。

「天変地変で人の心が変わるなら、いともたやすきことなれど、それができんから、神の長年の苦労であるぞよ」

神様は天変地変で追い込むだけで仕組みを進めてきたわけではない。それだけでは人

の心は変わらないから、聖者、メシア、賢人、聖人、科学者、教育者など使命のある人々を、あらゆる時代、あらゆる国の、あらゆる社会に送り出してきた。

イエスやマホメット、釈迦、聖徳太子といった類い稀なる個性と偉大な使命を持った偉人たちが、それぞれ時代の必要に応じて生まれてきたわけだが、もはや、ひとりのメシアが人々を導いていくという時代は終わった。

なぜなら、これら昔の偉人たちが次々と生まれ変わっているうえに、霊界で活躍するさまざまな霊や聖霊たちも多い。

だから人類が、神様の大御心を理解して、理想社会を実現しようと思えば、そうした霊的な加護と支持を得ることによって、事態は進んでいくのである。

すなわち、それは生成化育のプロセスのひとつであり、人類誕生以来の神様の大御心とご意思があって、今の時代へと移り変わってきているのだ。

地球規模のエデンの園とは

世界連邦政府ができ、科学もより高度に進んで、また宗教的な協調もできたら、この世はいったいどうなっているだろうか。

エデンの園で神様と仲よく暮らしていた人間は、禁断の実を食べたことで、そこを追放されてしまう。

しかしこれは、人間の世界でいえば一時の家出みたいなものだ。可愛い子には旅をさせよ、というのと同じ意味なのである。旅に出た子供が苦労を重ね、やがて成長した姿となって戻ってくるようなものだ。

人間は科学と共に進歩してきたわけだが、ここに世界連邦政府を作ることで弥勒の世が実現すれば、かつて人間が追放されたエデンの園よりも、もっとより素晴らしいエデンの園が実現してもおかしくない。

世界がひとつになった、大きな大きなエデンの園だ。地球すべてをエデンの園にしようというのが、神様の仕組なのである。

そこに実現されるエデンの園は、裸で暮らしていた頃のエデンの園とは違い、高度な科学技術と芸術性を併せ持ち、人類の叡智を結集して造られたような、より神様に近い世界なのである。

車にたとえていえば、ダットサンブルーバードがモデルチェンジを重ねていくことで美しく洗練された高機能車へと変化していったのと同じで、エデンの園も発展を続けることで次第にその次元も高くなっていったわけだ。

これこそ神様の大御心なのである。こうして、最小限の被害は出たものの、世界連邦政府は樹立し、地球はエデンの園と化した。医学の驚異的な進歩によって人間の寿命は伸び、より長生きできる時代になっていく。

人類すべてが喜びと歓喜の中で幸せを謳歌できる状態になれば、それこそが神様究極の御心であるといえる。

人類が大きく成長するには、長い長い歴史的なプロセスが必要だった。聖者も現れたし、戦争もあった。

しかし、その困難な過程を経てきたからこそ、本当に素晴らしい世の中がこの地球上に現れ、霊主体従霊体一致の両方が実現するのである。それを考えれば、なに、たかだか数千年のことである。

「苦労も多かったが、人類もよくグレードアップして立派になったな。人間を創って本当によかった」

と、神様は心からお喜びになられるだろう。神様ご自身、そう思えるところまで、ご辛抱なさりながらも仕組を進めておられるのだ。

そうした神様のご心中の苦労を察し、また大御心の大きさを理解することで、私たちもその御心に従いながら、最良の人生を送りたいと願うのである。

神仕組の使命感に生きるとはそういうことなのだ。かく言う私も、実は二十歳の時にそうした使命感を持つに至り、自分の一生を神様に捧げようと決めた一人なのである。

神様の御心にそって生きるには

弥勒の世に到達するまでには、まだもう少しの時間を必要とする。

我々が今なすべきことは、神様の大御心の方向性が分かったところで、まず自分の家庭を弥勒の世にしていくことである。

自分の内面、あるいは自分自身を弥勒の世に変えていくことだ。我々自身がそうした気持ちになれたとき、そのとき初めて、神様の御心の方向性と今の時代の方向性とがぴたりと合致したことになる。

読者の中には、自分も神様の御心のままに生きたい、神様の志に素直に従って生きたい、では具体的にどうしたらいいのか……と思う方もいるだろう。そこで、先に紹介した論語の「われ仁を欲すれば、斯に仁至る」の精神に倣って言えばこうなる。

「志が分かり、その志に従おうと思えば、すなわち神のその志の中にある」

「仁」とは、人が二人と書く。すなわち、人が二人いたら必要な、思いやり、愛、慈悲などのことを指しているといえる。

しかし、いったいどうすればその境地になれるのか、難しいと思う方もいるだろう。論語によれば、漠然とした「仁」という徳目の習得も、少なくともその仁に志せば、すでに仁の中にあることになる。

すなわち、それ以後の修養とは、その仁の体得をより深く、より高く、より本物とするためのものとなるのである。

この「われ仁を欲すれば、斯に仁至る」を、神様の「志」にあてはめてみれば、「志が分かり、その志に従おうと思えば、すなわち神のその志の中にある」ということになる。

ご神意を胎せんと志せば、すなわちご神意の中にあるのである。神様の志すところとは、抽象的で難しく感じられるかもしれない。

また、よく分からないかもしれない。しかし、神の志に少しでも近づこうと意を決すれば、すでにその神の志の中にあるのだ。

そうすれば、あなたが経験するこの世のすべてのこと・・・・・・泣いたり笑ったりの日常はもちろんのこと、結婚したり、子供を産んだり、はたまた離婚したりという人生の大事に至るまで、あらゆるこの世のことがすべて神の志にかなう自分を作り上げるための修のプロセスとなるのだ。

では具体的にどのような日常を送ることが神の志にかなうことになるのか。

たとえば、先に挙げた儒教では、仁・義・礼・智・信を磨いていくことが五大眼目となる。その第一の眼目が「仁」である。

これをさらに深く見れば、仁の中に義があり、礼があり、智、信があると見ることもできる。

仁とは、五大眼目のトップにあるだけでなく、義・礼・智・信もすべて、大きな仁という営みの中にあると考えることができる。これらは、人間の徳目として、努力の指針となるものである。

こうして、人間として努力すべき徳目を心がけていくことによって、より本質に近づいていくことになる。

現実に即した形で、仁義礼智信に日常を照らし、人や社会とどう付き合っていくかということの、努力の指針と成せばいい。

そうして仁義礼智信に照らして生きていくことで、その人間性が練られていく。葛藤や努力の中で、そうあるべく生きるということが、すでに神の御心にかない、神の志の中にあるといえるのである。日常の生活に即していえば、思いやりと慈悲、そして愛を持って生きることである。第二の眼目は「義」である。

義とは、私心や私欲を離れて節を貫くことである。信義や大義、神のためである神義、それらのためなら、たとえ火の中、水の中であろうが、損得など考えずにやり抜くことなのである。

それが、義に生きるということなのだ。

義という言葉は、義侠心とか義勇軍という言葉にも使われる。たとえばその義の心は、阪神大震災でのボランティア活動にも見て取れた。

読者の中にも、あの大震災の様子をテレビで見て、居ても立ってもいられずボランティア活動に駆けつけた方も多いはずだ。

それが義の心である。自分の利益や得に関係なくそうせずにはいられない、そうした内なる衝動が義である。

「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉があるが、まさにその義の心によって勇を奮い起こし、駆けつけた人々の行動が、形に現われた具体的な「義」である。

残念ながら、そういった行動をバカバカしいと考えたり、自分の得にならないことはしない、という風潮が蔓延しているのが現状である。

だが、若者たちに人気のあるコミックやアニメを見てほしい。その中で活躍する主人公は、まさに義によって生き、義によって戦っているではないか。

世の中でいったんは廃れたように見えても、昔の魂が共通して求めているものは昔も今も変わらない。

人気のアニメ「ドラゴンボール」や、大ヒットした「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」、他にも「機動戦士ガンダム』や『北斗の拳』もそうだ。

少年たちのヒーローは、義を貫いて生きていく姿を表現したものばかりだ。誰もが魂の奥底では、共通して、人生に義の要素を求めているのである。

第三の眼目、「礼」はどうか。

礼を現実世界でいえば、上下関係や社会との関係における麗しき秩序や節度、ということができる。天地自然と社会との美しき調和といってもいい。

たとえば結婚式を見てみよう。最近の若者の間では、儀式ばったものは嫌だとか、式など挙げる必要はないといった声もある。

しかし同じ祝うなら、やはりきちんと式を挙げ、親戚縁者や友人たちと広く喜びを分かち合いたいというのが、多くの人たちの願いであろう。これが礼の心のひとつである。

あるいはお葬式はどうか。死んだら骨を海に撒いてほしいとか、葬式などいらないという人もいる。

それはそれでよいが、正式に葬式をあげて、皆で故人を偲びつつ、僧侶にお経をあげてもらうほうが、死者を送り出す者としてはよりふさわしい。弔問客も家族も、故人への恩や慕わしさに思いをはせ、追悼の情を深めることができる。これも、礼の心なのである。

美しく喜び、美しく悲しむ。すべての儀式はそのためにある。一服のお茶を飲むにも、人が見て清々しさを感じ、麗しいと思えるような、それ相応の作法がある。

それが礼である。礼とは、いわば皆が気持ちよく生きていくための作法なのだ。

もちろんこれは、儀式のための儀式になってしまっては意味がない。あくまでも心が入った礼でなければ、本物の礼にならないことは言うまでもない。

また、秩序や調和という面から見ることもできる。目上にどう対するか、目下にどう対するか、社会にどう対するのか。

好き勝手に生きるという人もいるだろうが、周囲は迷惑するだろう。やはり、秩序を保ちながらまわりと調和していくことが、美しく生きていける道だといえる。

実際、神界においては、見事なくらいすべてに調和がとれ、何を見ても美ならざるものはない。

エンゼルは神様を敬い、神様はエンゼルたちを慈しむことで、良い意味での秩序が美しく保たれている。これを現実界に写したものが、先に述べたような礼節や礼の心なのである。

第四の眼目は「智」である。

智とは、単なる知恵ではなく、お互いを活かしあうための知恵である。どうしたらお互い幸せに暮らしていけるのかという、自分を生かし人を幸せにする知恵のことだ。

これが神なる知恵である。また、仁をまっとうするための智、義を貫くための智、礼を完成させるための智、信を保つための智ともいえる。

最後、第五の眼目は「信」。

信とは、信頼、信念、信仰である。信頼しあって生きていくこと、人を裏切らないこと約束したことを守ることなどが、信といえるだろう。

儒教的な五大眼目を日常生活に活かそうと思えば、以上のようになる。もちろん、これがすべてではないが、神様の志にかなうように生きたいと願う人には、ひとつの答えになったことと思う。

人類誕生の真のプロセスを知り、神様のご意志を理解して、さらに今いったような具体的な努力をしていけば、あなたの一生は本質を押さえたものとなり、神様の喜ぶ人生となるに違いない。

まずは、志すところから始まる。何よりも第一に、あなたが大御心の仕組に向かおうと思えば、神々様の「おかげ」もどんどん出てくる。

霊界にいる聖者たちや、素晴らしい聖霊たちも、あなたを後押ししてくれるはずである。