第4章 ス神は全知全能の御親なり
宇宙創造神「ス神」とは
現実界は人が担当する
ここまで、人類誕生の理由から成長のプロセス、その背後に秘められた神様の大御心について解説してきた。神様の「仕組」がいかに遠大なスケールで周到に準備されたものであるか、またいかに慈愛に満ちたものであるか、よくお分かりいただけたことと思う。
その中に、次元界の構造についてほんの少しだけ触れたくだりがある。
実際、高い次元へ連なる神霊界の構造を、三次元の常識的な言葉で言い表すのは本当に難しい。私たちの「思い」の世界である霊界についてさえ、時間・空間を超越したイメージというのは、なかなか捉え難いものだ。
死んであの世に行ってみると、三次元的思考の枷が外れて、誰でもスッと理解できるのだが……。
しかし、こうしたことを生きている間に知ることが重要なのだ。今生きている人間こそ、三次元で実際に神様の意を受けて仕組をしていくことができる人々だからだ。
いかに素晴らしい聖者や預言者でも、死んでしまえば、現実界で仕組をしていくことはできない。もちろん霊界から盛り立てることはできるが、それを受けて実際に現実界を良くしていくのは、あくまでも私たち人間なのである。
だからこそ神様は、本当の神界の様子や神仕組のこと、神様の大御心などについて、ひとりでも多くの人に真実を知ってほしいと願っているのだ。
私も、及ばずながらそのお手伝いをさせて頂くべく、この本を通して読者の方々に説明してきたわけである。
だが、それでも伝えきれないものがたくさん残っている。とくに、最高神の概念と、全知全能という概念について触れないわけにはいかないだろう。
この章ではそのことについて解説を試みたいと思うが、みなさんがご存知の常識とは違った、この宇宙の実際を書くことになるので、脳細胞をフル活動させて、脳のシナプスを精いっぱい発達させて読んでいただきたい。
読後、神様がぐんと身近に感じられるだろう。
全知全能の神様を生んだのは誰か
無限絶対無始無終のス(主)の神様とは、「
」の神様と書く(以後
の神様と記す)。大石凝真澄翁や、大本教、岡本天明氏、真光文明教団でも、
とか「ス」ということを言っている。
たんに主神といえば、キリスト教にも主神と出ているし、自分自身の肉体にも主神はある。
また、国家にも主はある。これは、ある次元での「最高の極」という意味に過ぎない。しかしこの「
」というのは、あらゆる次元の主であって、大宇宙創造の絶対神である。
今から十数年前の、ある冬のことである。
植松先生が私たち弟子を集め、こうたずねられた。
「
の神様って、どういう神様か知ってる?」
私たちは考えあぐねて、「うーん……」
「それは大愛の、大慈大悲の……」と、口々に言った。しかし、そうではない。植松先生はどうおっしゃったか。
「
の神様というのは、全知全能の神様の、御親の神様ですよ」
全知全能の神ではなく、その神を生んだ親神様だとおっしゃるのだ。
昔から、最高神といわれる神様は、次元界ごとに、あるいは神界ごとにいらっしゃる。
たとえば、古事記でいえば天之御中主神様、日本書記では国常立神様、ヨーロッパ神界ではエホバの神、ヤーベの神、ゼウスの神。
また、中国神界では天帝、北極神界では至聖先天老祖など、それぞれに最高神、主神がある。
密教なら、大日如来、毘盧遮那法性仏がそうだ。毘盧遮那とはピカピカ光っているという意味であるが、そうした仏様が三千大世界を統率されている。
このように、それぞれの次元界や神界に、最高神といわれる存在があるのである。それが、その世界での主の神様なのである。
その主の神様の概念もいろいろあるのだが、とくに聖書に出てくる全知全能の神様像、つまりヨーロッパ系の全知全能の神様というのが代表格だろうか。
すべての知恵とすべての能力がある、といわれてきた神様である。
そのような意味での全知全能の神様というのは私もよく聞くし、お会いすることもある。
しかし、全知全能の神様の御親、全知全能の神様を生んだ神様とは・・・・・・、簡単な事ではあるが、私はそのときに初めて聞いた。
その神様こそが全知全能の神や人格神を生んだ根源なのだ。神、別名御親元素大御神様」と申し上げる。
第一章でも簡単に触れたが、の根源は「・」の神である。点には、質量もなく、重量もなく、長さも面積も体積もない。しかし、「ある」。存在するのである。
その「・」の神様が絶対権を持たれた状態が「
」である。
になると、どうなるかといえば、あらゆる気の根源の、さらに根源の最初の気の働きの主神となる。
では、最も根源にある気の働きとは何か。神は決してパワーを振りかざすような神ではない。
すべてのふるさとの神である
神は「安心の気」そのものの神様なのだ。植松愛子先生のお言葉によれば、「鳥の巣、蜂の巣、住まいのス」の働きの神である。
鳥はその安心の気を求めて巣作りを始め、巣ができてはじめて交尾(陰陽合体)をし、卵を産む。まさに先天の炁胞も卵の形である。この「巣」とは安心の気そのものの働きであり、
の神様の働きを端的に現しているといえるだろう。
次元界スライドシステム
そうは言っても根源の神様というイメージはなかなか掴みづらいだろうと思う。というのも、人間には不可知の領域の話だからだ。
たとえば、光明の神様、輝きの神様とか、物凄いパワーとエネルギーの神様というのは、五次元の神様(神社の神様レベル)か、その神様が化身して四次元まで降りてきた、権現様や仏様などの場合が多い。
前にも述べたように、八次元や九次元といった上のほうの次元界に行くと、そこにはもう光とかエネルギーすらない。
輝くばかりの光が出てくる世界というのは、実は私たち人間が分かりやすいように、次元が降りてきている世界なのだ。
だから光り眩い神様というのは、次元極からいうと、かなり下のほうに降りてきた神様である。私たちが眩しいと感じることができるというのは、すなわちそれは不可知の領域ではないということだ。
つまり、人間に感知できるところまで降りてこられた神様なのである。
の神がどういう神様なのか、もう少し実感として知りたければ観音様をイメージすればいい。観音様とは、
の神がお姿を顕現されたときの状態を総称していう。
つまり、の神の直系の化身の姿ということである。具体的には、六次元神界においては正観音として現れ、五次元においては聖観音となり、四次元に降りてきたときは観世音菩薩となって現れる。
同じご神霊が、次元界をスライドして降りてくるのだ。私はこれを、次元界スライドシステムと呼んでいる。
神仏は次元が高ければいいというものでもない。むしろ私たちの生活に密着して、目前の悩みや苦しみを救ってくれるのは、肉体次元に近いところまで降りてきた神仏であることが多いのだ。
肉体の次元に近いところまで降りて悩める衆生を救済する、そのときの相が四次元界の観世音菩薩様なのである。
これに対して、ひとつ上の次元からより内的な問題を扱うのが、五次元の聖観音様である。六次元の正観音様になると、さらに高貴で繊細、微かな存在であり、未来を見据えた大きな角度で動かれる。
このように守護の必要や角度に応じて、神様はその姿を次元界によって使い分けているのである。
同様に、銀河系宇宙の主宰神に坐す菊理姫大神は、この度の神仕組の中心神であるのだが、九次元から四次元にまでスライドしてお働きになる。
六次元においては天母様、五次元では白山姫(白山比咩)様として現れ出でる(石川県一ノ宮の白山比咩神社のご祭神である)。
四次元においては、権現相では白山妙理権現、仏としては弥勒菩薩、神仙界では西王母、そしてヨーロッパ神界では聖母マリアと姿を変えてお出ましになる。
余談ながら、世界各地の教会で、マリア像が涙を流すという現象が起きたりすることがあるが、これは、時代が菊理姫様の仕組の時代となり、菊理姫様がそれぞれの次元に現れてお働きになっていることを写しているのだ。
そうした働きは、玄妙にして複雑多岐にわたる大御働きなのであるが、ここでは詳述を避ける。
そして、この菊理姫様が九次元神界に現れ出たときの御名を、スメラアイス(皇愛主)と申し上げるのだ。
なお、地球神界の主宰神に坐す国常立大神の場合は、六次元では萬創主(よろずつくりぬし)、九次元においてはスメラアサヒ(皇旭)と申し上げる。
国常立大神というのは地球神霊界の主なる働きの一部を指した呼び名で、天変地異や経済の行き詰まりを通じて人類を追い込み、新しいエデンの園をつくっていく現場監督のような役割を担う神様である。
これに対して、先天のうちに災いを強化されるのが北極神界の主宰神である北極老人、すなわち北辰の老祖様の救済方法なのだ。
つまり二つの方向性があるわけだが、どちらも
の神直系の神であり、
の神の化身なのである。
根源的な教えを広めて御魂を覚醒させるという老祖様の救済方法と、政治や経済など神霊的な角度から現実に動かすという国常立大神の救済方法。この両面から神様は人類を救おうとされているわけだ。
そして現実界において、人々を救い仕組みを担う人間を育成するために、植松愛子先生のもとに初めて神人合一の神法が降ろされ、いよいよ神仕組みは大詰めの段階を迎えているのである。
生き神様はいるか
話は急に次元が下るが、人間は誰でも、一生のうちに何度か病気をする。
それが風邪ともなると、毎年三回も四回もひく人が出てくる。かくいう私も、神霊家とはいえ、風邪をひくことはある。
ただ私の場合は、おおむね半日で治してしまうのが普通で、風邪をひいた状態が一日以上続くということはほとんどない。せいぜい丸一日である。
「必殺ウイルス退治の秘法」というのがあるからなのだが、これについては別の機会に紹介しよう。
たたり霊や地縛霊を退治することを思えば、ウイルスくらいどうということもないだろうと思って開発した技で、たいていの風邪ならばこれで治る。
ところが、たくさんの人が集まるところでは、次々と風邪のウイルスが飛んでくる。殺しても殺しても、次々に飛んでくる。ついには防ぎきれずに、ひどい風邪になってしまうこともときにはあるのだ。
また最近は、神様が私の内臓や体調を整えるために、微熱を出して休息させることもある。こういう時は普通の病気と少し違うので、神様がよしとおっしゃるまでは回復しないのだが。
その他に、人様の霊障(霊のさわりや病気)が私に移ってくる場合もある。とくに、たくさんの人が集まるところでは必ずといっていいほど、それぞれの人の思いや霊障が凝結している。
現実的な集会ならまだいいほうだが、私が主宰するワールドメイトのセミナーなどでは、高次元のご神霊が降りて来られたり、今までの誤まった観念がバーンと破れたりして、その分、参加した方々の霊層(霊的ランク)が上がる。
すると、今までその人についていた低いランクの霊、地縛霊や先祖霊、動物霊などの一部が、眩しくてたまらずに離れていく。
それが私のところに襲って来るので、非常に苦しくなる。体調が悪い時などは、私の師匠、植松愛子先生に半分くらい持っていただいたりすることがある。
ワールドメイトのセミナーなどに出たことで、現実的な知識とか勉強ということ以外に、なにやら体がスーッとした、元気になった、霊的にすっきりした、というのはこのためだ。
いわば私が神様のお取次ぎをして、参加した方々にご神気を取り次ぐと同時に、その人たちの霊障の一部を肩代わりしているのである。
これとは少し違うが、PL教団では「お振替(親方さんに肩代わりをしていただく)」と言うことがある。病気は親方さんへ、というわけだ。
これは、PL教団の元である徳光教から、PL教初代おしえおやの御木徳一氏が受け継いだ考え方で、「神の警告である人々の病気をわが身に振り替える」ことを神に願い出て許されたというものであった。
ヨガのマスターなども、同じような考え方だ。人を媒介として宇宙のエネルギーをもらおうというのである。
したがって、その取次役となるような超能力者にそれを依頼し、お願いするということになる。
ところが困ったことに、そうした媒介や肩代わりを願い、実現した人々は、その霊能力者や超能力者のことを、まるで生き神様のように感じてしまうのである。これは大きな間違いである。
人の病気を治したり、人を幸せにしたりするのは、そういった霊能力者や超能力者自身ではない。
ワールドメイトでいえば、植松愛子先生や私ではないのだ。人の真心と努力と、それに感応する神様の力なのである。
霊能力者や超能力者はそのお手伝いをしているだけで、彼ら自身は神様でも何でもない。ただの人間である。そこを勘違いしてはいけない。
ある有名なフュージョン系バンドのメンバーが、霊障で死にそうになり、私のところへ来たことがある。
「深見先生、助けて、助けて」と、あまりにも苦しそうだったので、その場ですぐに除霊して、原因となっていたたたり霊を取り去ったところ、本人も驚くほどすみやかに回復したのである。
ところがその後、私のことをまるで生きている、肉体を持った守護霊様といった感じで頼ってくる。
それはそれでありがたい気持ちはあるが、やはりそれは間違っている。回復の手助けをしてくださったのは、あくまでも神様で、私という人間ではないからである。
こういうのを「人間信仰の誤り」という。信仰の対象はあくまでも神様であるべきなのだ。人間という存在を通じて、神様が何がしかなさることはあっても、人間は神様ではない。
そこを勘違いして、ひとりの人間を生き神様のように思って崇め出すから、某教団によって行われたような、危険極まりないことが起きてしまったりするのだ。
だから、願いごとは神様にしなくてはいけない。
「植松先生にお願いして」
「深見先生にお願いして」というのは、ずれている。神様にお願いするのが正しい。植松先生や私は、神様のお取次をするだけなのだ。
現に、私自身は神様にお願いをする。
そして神様が私を使いやすいように、身も心も清らかに、至誠を持って、たくましく生きていこうとしている。神様にひたすら純な心で向き合い、いつでも神様に使っていただけるように、常に己をなくした状態を保つ努力をしている。
神人合一とは、神様か人間か、人間か神様か分からないような状態であるが、しかし私は人間であって、神様ではない。
私を通じて何ごとかなさるのは、
の神様であり、それぞれの働きの神々様がなさることである。
偉いのは神様であって、霊能者が偉いわけでも、宗教団体が偉いわけでもない。信仰の対象は、いつも神様でなければならないのであり、ここを多くの宗教家や霊能者は間違えてしまうのだ。
生活の中に真の修業がある
宗教家や霊能者がたとえ本当に生き神様のような人物であっても、事実はその人を通して神様が動かれている。どのような奇蹟も、人間に成し得ることはできない。神様のなせる技である。 人間は神様のお取次ぎをするが、霊界のエンゼルや高級霊たちもまた、神様のお取次ぎをされているのだ。 高級霊界のほうに行けば行くほど、「すべて神様のお取次ぎ。私がするのではない」という心が共通している。 これは、天国界の住人たちに共通する性質である。上に行けば行くほど、「自分ではないのだ。私は神様のお取次ぎをさせていただいているのです」と、あくまでも謙虚でいらっしゃる。 そして、そう思えば思うほど、神力は強くなる。 逆に、「私が、私が」と言えばいうほど、神力は弱くなるのである。 私の場合は、神人合一して神様のお力を拝借する。これがつまり神力だ。これに対し霊力、つまり霊能力や超能力というのは、自分の念の力であったり、背後の霊の力であったりする。 これが霊力と神力の違いである。霊力でも、正しい霊がかかって行われるものならいいが、それでも神様のお力を借りる神力とのレベルの違いは否めない。 したがって、人はなるべく高級な神霊に使っていただくようにするのが大切である。 高級な神霊と共にあるような生活、これが神人合一のひとつの基礎だ。そのためには、さらにその基礎である日常生活をきれいにすることから始めなくてはいけない。 住まいの整理整頓、服装や身なり、言葉遣いなど、形をきれいにしなければならない。 昔の信仰は、その内容や心さえよければいいと、ボロボロの身なりで信仰や修行をしていた。 だがそれは、人類がまだ成熟しておらず、現実的な発展や豊かさが伴っていなかった頃の教えである。現実的な豊かさを求め得なかった時代には、救うのは内面しかなかったのである。 現代においては状況も様変わりし、神様の願いもまた違ったものになってきている。 実際、高級神霊界では、内面と外形の両方が完備されているのだ。素晴らしい神様は、その姿もやはり麗しいのである。現世である現実界においても同じことがいえる。 美し心、美しい姿、美しい場所、美しい生き方に、素晴らしい神様が宿るのである。 また、そうした神様をお迎えするに相応しい人間であるべく、身なりや振る舞い、環境などを整えていくべきなのだ。 ここのところが、心や精神といった内面性ばかりを説く宗教の足りなかったところなのである。 もちろん、内面が主、外面が従なのだが、その両方がバランスよく整って進歩発展していくことが神様の願いなのだ。 幸いにも植松先生がそこのところを、主婦であったがゆえに難しい教理教論ではなくポイントを、神様から授かって私たちに教えてくださった。 それは、以下のようなことである。 「すべては足元の、生活の中にある。生活は足元。生かして活かすと書くのが生活ですよ」 自分が現実に暮らしている住まい、身なり、振るまい、言葉の使い方等々、つまり足元の生活にあたる部分からきちんとできない人間が、いくら最高のス(主)神のお名前を呼んでみても、決していい神様がやってくるはずがないということである。 それは、素晴らしい言葉で飾ろうが、世界平和を唱えて一生懸命祈りを捧げようが同じで、やっぱりいい神様はこないのだ。 つまり、その人の内面性と行いに相応した神様しかこないということである。これは、神霊界の法則である。 だから、基礎の基礎たる生活をしっかり調えてきれいにすること。修業とはなにも、滝に打たれたり山にこもったりすることではない。 こうした生活そのものが修業の場となりうるのだ。これは「生活修業」といって、神人合一の道の重要な第一歩となる。これについては、私の「宇宙からの強運」やその他の著書に詳しい。 そうして素晴らしい神様に来ていただける自分となり、神様をお取次ぎさせていただく。 人間信仰をしない、組織信仰をしない。私たちの信仰すべきは、無限絶対、無始無終のの神様なのである。 ただ、神様は次元が高ければいいという、そんな単純なものではない。 この最高の神様の神様というのは、あまりにも大きい。とてつもなく大きすぎて、これは拙書『大金運」にも書いたことだが、このときほどの神様にがっかりしたことはないということがあった。 今思えば随分失礼な話だが、そのときの私にとって宇宙創造の神というものは、いかにも大きすぎた。 なにしろ会社をスタートさせたばかりの頃で、月末に五百万のお金がいる、来月には三百万必要だと、資金繰りに苦しんでいたときのことである。 「いくら宇宙の神だといったって、目前の五百万円がなければ、ご神業も皆の生活も立ち行きません。 私は強欲で言ってるんじゃない。真剣に努力して、皆も必死で頑張っているのです。私には社員を養う責任があり、取引先への信用と義務があるのです。いわば愛です、誠です。 宇宙の神様なら、宇宙空間からポッとお金が出てくるくらいの奇蹟をどうそ起こしたまえ!」 などと、必死に◎神に祈ったものだ。あたりまえのことだが、空間からお金が出てきたりはしなかった。 そのとき初めて、神様は大きければいいというものではない、次元が高ければいいというものでもない、ということを知ったのだ。 そういった現実的な願いには、もっと人間界に近い次元界の、パワーとエネルギーが強い神様がその役割を担っておられるのだ。 このときの財政危機は、三宝荒神様や蔵王権現様などパワーあふれる神々様のお力と、現実的な努力によって解決したのだが、私にとっては大きな教訓となった。 一体の神様が全知全能の神ということではないのだ。上から下まで八百萬の神様がすべて動かれて、初めて全知全能といえるのだ。 また、この三次元の形ある社会にあっては、神様は全知全能ではない。 たとえば、大西洋にバミューダトライアングルというのがある。戦艦・戦闘機をはじめ、たくさんの戦艦や飛行機がパッと消えてしまうという謎の海域だ。 考えてみれば、こんな便利なものはない。バミューダトライアングルがロシアや中国、アメリカなどの核保有国をぐるりと巡回して、パッと核兵器を消してしまえないか。 神様が全知全能であれば、簡単にできそうなことではないか。 あるいは、パッと病気が治る、パッと世界平和ができる・・・・・・全知全能だったらやってみろ、くやしかったらやってみろ、神様、などと、実は一度本当に言ったことがある。 見事にスッテンコロリンと転んで、守護霊に叱られたが、本気でそう思ったものだ。 では、全知全能とはいったい何だろうか。それを知る、あるいはそれを実現するポイントが、神人合一なのである。 この三次元の社会、現実界は、神様がお創りになった。私たちの肉体をはじめとして、自然にあるものはすべて神様がお創りになったわけだ。 だからこの現実界においては、私たちの肉体とこの自然に神様の表現が施されているのであり、すなわち神様の一部なのである。 したがってこの三次元においては、神様と私たち人間が合一して初めて、「妙」と呼ばれる善なる不思議な動きが出てきて、それでよき働きができるのだ。 もっと簡単にいえば、神様が「いい人材」を御用にお使いになり、神人合一されて初めて、神様はこの現実界で全知全能の働きができるのである。 「いい人材」とはすなわち、才能があり、人格がよくて、運もいいという人物である。こういう人が、よき御魂である。 人と人が付き合う場合でも同じだ。 運はいいけれど人格最悪というのは、付き合っていて疲れてしまうし、傷ついてしまう。 「あの人はいい人で、運もいいんですよね」と言われる人でも、才能がなければ、楽しかったというだけで付き合っても得るものはない。やはり何か、お互いに学び合うものがなくてはいけない。 それにだいたい、人生というものは時間が決まっているのだ。 一日二十四時間、一年三百六十五日、九十年も生きればいいほうだろう。三十歳を越えた人はよく分かるだろうが、時間の過ぎ去る速さというのは、年をとるごとに早まっていく。 この限られた時間の中で、人格がよくて才能があり、運もいい、という人と縁が結ばれるにはどうしたらいいか。 そのような人と一緒に切磋琢磨していくには、まず自分がそのようにならなくては、叶うものも叶わないのだ。 相手にも選ぶ権利があるのだから、せっかくいい人がきても素通りしてしまい、実りの少ない人生になってしまうだろう。 具体的な方法については、私の他の著書に記したとおりである。 世の中をよくする人というのは、そのような才能があり、人格も優れ、運もいい人である。もし仮に、才能がなく、人格にも問題があり、運からも見放された人が、「神様、お役に立ちたいのです」とお祈りしたところで、 「もう一度、出直してきなさい。来世にその祈りを聞こう」となるのがオチだ。 まあ、そこまで冷たいことはおっしゃらないだろうが、少なくとも大きなお役は回ってこないだろう。 三次元社会において全知全能でない神様が、この三次元の中をよくしていこうとお考えになった場合、まずいい人材を選ばれる。 いい人材とは、前述したように才能があって人格も優れ、運のいい人である。運がいいというのは天徳を積んでいる証拠であり、そのような人材であれば、神様も御用に使うことができるのだ。 そしてその分だけ、世の中をよくすることができる。 かくして初めて、この三次元の現実界において、神様は全知全能になられる。 つまり神様は、この三次元の現実界においては全知全能ではなく、「全知全能の可能性を持っていらっしゃる」のである。 私たち人間が努力して神人合一することによって、そこで初めて神様は、この現実界で全知全能になられるということなのだ。 だから、自分が神様に使っていただけるようになろうと思ったら、その大御心をよく理解して、才能と人格を磨き、運もよくなるよう努力して、そして信仰心溢れる人間になることである。 しかし、信仰心だけあってもだめなのである。どんなに深い信仰心があっても、才能や人格、運という他の要素が薄い人では、神様も大きな御用に使うことができないのだ。 ときとして、そのような人が私のところへ来ることがある。 「先生、先生のお役に立ちたいと思います」 「それは非常にありがたい。しかし、別に私の役に立っていただかなくてもよろしいから、神様の役に立ってください」 「分かりました。神様の役に立ちます」という会話になるのだが、たとえば人格は最悪、才能もなく、何をやってもだめという人は、人間だってこれを避けていく。 そういう人を、どうして神様がお使いになるだろうか。 そうはいっても、確かに真心はある。信仰心もある。 そこで私は、神様にご相談申し上げたのだ。 「この真心をお受け取りくださいますならば、神様、この人の悪しき血統を変えることはできませんか。生まれながらの星を変えることはできませんか。天中殺を変えることはできませんか。 一生懸命やってきた真心を、神様も私も感じることができます。 何とか運勢をガラリと変え、その血統を変え、星も変える方法はないでしょうか。あなたが全知全能の親神様であったら、できなくはないでしょう」と申し上げたところ、神様は「それもそうだな」と、おっしゃった。 それで、現在私がお取次ぎしているような、いろいろな秘法が出てきたわけである。 ともあれ、信仰心がいくらあっても、才能・人格・運を向上させるべく己を磨かなければ、神様もお使いになれない。 己を磨けとは、どの宗教でも、儒教でも、どこの修養団体でも言っていることだ。 また、どのような道徳律、教育でも言っている。しかしそれは、磨かんがために磨くというのではない。神様に使っていただくという、明白な理由があるから磨かねばならないのである。 人類の歴史始まって以来の大変化期、神様の大きな仕組の中に、私たち人間はいる。 しかも神様は、現実界では、人間を通して初めてこの世の中をよくすることができるわけであり、そのための人材を探していらっしゃる。 人材というのは、繰り返すが、まず信仰力があって、神様のお役に立ちたいという気持ちがあること。 次に、その人格と才能を磨き、そして運をよくするための努力を怠らない人間であること。 そうした努力を重ねることで、ようやく神様のお役に立つことができるのだ。努力の分だけ神人合一できれば、神力、霊力、叡智といった素晴らしい力が発揮できるのである。 そして、そこで初めて具体的に世の中をよくすることができるのだ。 それを実践しているのが、私が主宰するワールドメイトである。 これが、神様が植松先生に「神人合一の道」を降ろされた理由であり、私たち人間が神人合一を成し遂げなければならない理由である。 そのように今、神様は欲していらっしゃるわけだ。拙書『強運』で、今が明治維新にも匹敵する大変動期であり、神霊界は志の高い若者たちの出現を待ち望んでいる、と書いたが、それは以上のような意味だったのである。 数年前からアンティークがブームになっているが、神人合一の道も実はアンティークなのである。 スーパー・ウルトラ・メルヘン・アンティークと言ってもいい。今を去ること数百万年前、人類が出てきた初発の頃には、人間は生まれながらに神人合一していた。 その頃の人類は、神様に言われるまでもなく、神様と同じことを瞬時に考えていた。 形を見ても、見えるのは形ではない。形の奥の霊的な意義だとか、霊的なニュアンスといったものを、魂で瞬時に感じ、感じたところですぐに行動していた。 目に見えない世界をまず第一とし、形あるものを活用し、応用していた。 神の如き人々。神様と同じような心、同じような姿、同じような生き方を無意識のうちに自然にしていたというのが、太古の神人合一の時代の人々である。 エデンの園以降はそれが失われ、今日まで物質文明が続いてきたわけだが、今ふたたび神人合一の時代が訪れようとしているのだ。 戦後、神霊界の構造が変化し、精神文明を主として物質文明を従とする「霊主体従の「法則」に則った太古の人のありかた、陰極と陽極が陰陽合一して出てくるという太古の人のありかたが、ふたたび現実界に現れる、その準備がされつつある。 これらを、真光文明教団などは「天意の転換」と言っている。 世界救世教がいうところの「夜昼の転換」も同じ意味であり、また天理教でも「世の中が変わる、時代が変わる」と言っている。多くの霊能者や予言者も同様のことを言う。 しかし、いずれも「こういう時代だ」と予言するだけのことである。では、どうすればいいのか。 その時代に、我々は何をすべきなのか。私たちは立ち上がらなければならない。しかし、どう立ち上がることができるのか。 それは、神人合一の努力をして、それぞれの立場で、才能で、職業で、世の中をよくしていくことなのだ。 宗教家は宗教家で神人合一して、素晴らしい宗教団体を作ればいい。 政治家も神人合一して、最高の政治をすればいい。 教育家は素晴らしい教育をすればいい。 「妙」すなわち、目に見えない世界と、目に見える世界との絶妙なバランスをとりながらやっていくことのできる人材が必要なのだ。 古代の人々のように、霊主体従、先のことも瞬時にパッと分かってしまう人材である。 王陽明先生の言った「知行合一」というのも、禅宗でいうところの「自己本来の面目」も、はたまた潜在意識や超能力を出すというのも、すべてこの方向性をキャッチして、同じ方向を説いたものである。 植松先生は、これを「超能力をはるかに超えた、超々能力」だとおっしゃった。 私は思わず「ひらひら飛ぶのですか?」と申し上げたところ、「蝶々ではありません」と言われたが、これはその方向性を説いているのだ。 読者の皆さんには、この本で述べてきた、神様の目から見た正しい時代認識のしかたというのを、これらの根底において理解していただきたいと思う。 そのために、いかに運を上昇させるか、いかに人格をよくするか、いかに才能を磨くか、そして信仰をいかに正しく掌握していくか……。 これらについて、宗門宗派を乗り越えて普遍的な道を説くために、私はワールドメイトの活動を続けている。それが、植松先生を通して神様が降ろされたことなのである。 素晴らしき良き時代、神人合一の高度な時代がやがて来る。そのためにはまず皆さんご自身が、人柄がよく、運もますます上がり、才能に恵まれた人となっていただくことである。 そして、自分の才能と職業と立場に見合ったかたちで、少しでも世の中をよくしようという気持ちを持ち続けていただきたい。 一日でも早く、神人合一の世が来るよう願って、私も皆様と一緒に活動を続けていくつもりである。現実界での全知全能の働き
の神はすべてをご存知ではあるが、その次元、次元の神様に適った役割を与え、それぞれ実務を任せておられるのである。神様が求める人材とは
神人合一の道
