第五章 背後霊 最上級偏→悪因縁を乗り越える
守護霊と悪霊は陰陽の関係
ここまで本書をお読みいただき、自分の運勢を切り拓いていくにはどうすればいいか、だいたいのところはご理解いただけたと思います。
あとは実践あるのみ、といいたいところですが、実はまだ大事なポイントが幾つか残っています。
本書の最初に、霊にはプラスとマイナス両方の存在があり、私たちは誰でもプラスの霊的存在である守護霊・背後霊に守られていると述べました。
それは間違いないところですが、私たちは守護霊・背後霊に守られていると同時に、マイナスの霊的存在である邪霊、悪霊にも強い影響を受けているのです。
ありていにいえば、誰にも悪霊がついているわけで、それが悪運へと私たちを引っ張ろうとしているわけです。
その悪霊の数も一体や二体ではありません。ふつうの人で三十~五十体、多い場合になると百体以上、あるいは何千体もついている人もいます。
非常に大まかないい方をすれば、その人についている守護霊・背後霊と悪霊とどちらの数が多いかによって運不運が決まる、といっても決して過言ではありません。
もちろん、そう単純に割りきれるものではありませんが、善霊と悪霊、両者の闘いの舞台となっているのがほかならぬ、あなた自身の霊界なのです。
霊界とは想いの世界であり、その存在を意識すればするほど、そのパワーと影響は大きくなる、というのが霊界法則です。
無論、悪霊も霊界の存在ですから、悪霊に意識を向ければ向けるほど悪霊のパワーが強大になり、受ける影響もまた大きくなります。
日々を落ち込んだ暗い気持ちで送り、「ウチは因縁が深いから」などというマイナスの想念で生きていると悪霊パワーが一段と大きくなってくるわけです。
したがって、悪霊のことは一切考えずに、守護霊・背後霊に守られていることを強く信じ、祈り、行動すること。
これが運を切り拓き、実り多き人生を送るための大原則となります。
常に明るく前向きに日々を送り、大きな志を立てて、自分を磨きつづければ、守護霊パワーがどんどん強くなるわけですから、悪霊のことは考えない、意識を向けないほうがベターということになります。
さりとて、悪霊とは何なのか、悪霊の手口はどういうものなのか、ということに最低限の知識を持っていなければ、相手の思うつぼにはまり込むことにもなりかねません。
何といっても、善霊と悪霊の闘いの場は私たち自身の霊界なのですから、「われ関せず」という態度を貫くわけにもいかないのです。
そこで以下、悪霊に関するごくごく基礎的なことをお話しいたします。さらに詳しいことを知りたい方は、「神界からの神通力」などをお読みください。
よい先祖・悪い先祖・思い違いをしている先祖
それにしても、なぜ私たちには頼もしい守護霊だけでなく、迷惑な悪霊もついているのでしょうか。
そもそも人の体に霊がつくことは、守護霊のように特別な認可をいただいた場合を除いては厳しく禁じられているはずです。
にもかかわらず、なぜ悪霊が人間の体につくのか、不思議に思う向きもあるでしょうが、社会のルールや規則を破る者がいるように、霊界法則を破る霊もいるのです。それが悪霊という存在なのです。
悪霊には実はいろいろな種類があります。詳しくは拙著「大除霊』(たちばな出版刊)等を参照していただくとして、ここでは私たちの運命に大きな影響を与える先祖霊と怨念霊のことについて話を進めていきます。
まずは、先祖霊から…。
何度も述べてきたように、守護霊には先祖の霊がなるケースがほとんどです。
霊格の高いご先祖様が魂の教育係として私たちを守護してくださっているわけですが、残念なことに、先祖霊のすべてがすべて霊格の高い先祖ばかりとはかぎりません。
なかには、生前の行ないがあまり芳しくない先祖、あるいは悪事を働き、地獄に落ちた先祖が必ずいます。
こうした先祖が苦しい霊界修行に耐えかねて地獄を抜け出し、助けを求めて子孫にすがりついてくることがあります。これがいわゆる「地獄に落ちた先祖霊」で、私たちに大変な悪影響をもたらすのです。
この地獄に落ちた先祖霊、誰にでもついていると考えて間違いありません。先祖というのは何代か遡っていけば実に膨大な数にのぼります。
そのなかにはよい先祖もいれば地獄に落ちた先祖も当然のことながら存在するはずです。
ついでに申し上げれば、思い違いをしている先祖霊もいます。よくいまわの際に、「私が死んだら霊界からお前たちをずっと守ってあげるからね」と言って亡くなる方もいますが、これは霊界の法則に違反しています。
前述したように、現実界に善なる影響を及ぼす守護霊のような役割を命じられるためには、霊界で段階を踏んだ修行を積まなければなりません。
大前提として、自分が守護する人間よりも上のレベルでなければ守護できないのはいうまでもないでしょう。ですから、守護霊になるにはライセンスが必要なのです。
ところが、正式なライセンスを受けずに、子孫を守護しようとする霊もまた存在するのが大きな問題なのですが、こうした、いわばモグリの守護霊は祖父や祖母、あるいは亡くなって間もない父親や母親の霊である場合がほとんどです。
まだ自分自身の修行ができていないのは無論のこと、過去・現在・未来を見通す能力もない。
それゆえ、高い見地から導くのではなく、ひたすら肉親の情で守ろうとする。これが、モグリの守護霊に共通する特徴であるといえるでしょう。
こんな低レベルの”守護霊〟では、”守られる”ほうこそいい迷惑というものです。
よかれと思っていろいろ導いているつもりでも、その方向は自分勝手な解釈で的外れなことが多く、本人の幸せや自主性よりも、霊自身の願うような道に進ませようとします。
その結果、かえって方向性が定まらなくなり、何かギクシャクとした運命をたどったり、分裂症気味になって体調を崩したり、ロクなことにはなりません。
何しろ、無免許運転なのですから、危なっかしいことこのうえありません。
ついている霊に悪意はなく、また地獄に落ちたわけでもないので、悪霊とまではいいきれませんが、〝守護される〟子孫にとってはマイナスの存在でしかありません。
先祖霊と家代々の因縁
このように、一口に先祖と言っても守護霊になるほど霊格の高い先祖から地獄に落ちている先祖まで実にさまざまなのですが、次に、怨念霊について簡単に触れておきましょう。
怨念霊とは文字どおり自らの怨念を晴らすべく祟っている霊のことです。
あなたに直接怨みがあるわけではなく、本当はあなたの先祖を怨んでいるのですが、その先祖はすでに死んでしまっているため、その怨みを晴らすために代わりに子孫に代々祟りつづけているのが怨念霊ということになります。
考えてみれば、怨念霊は被害者で、怨まれるようなことをしたあなたの先祖が悪いといえないこともありません。
あなたが霊格の高い先祖、すなわち守護霊・背後霊団に守られているのも家代々の因縁ならば、あなたが地獄に落ちた先祖に頼られるのも家代々の因縁、罪を犯した先祖の代わりに怨念霊に祟られるというのも家代々の因縁というものなのです。
そんな因縁、御免こうむりたいと誰もが思うところですが、誰一人としてそこから逃れることはできません。
先ほど、前向きな姿勢で明るく生きていけば悪霊の影響は少ないと述べましたが、影響が少ないだけであって、先祖霊や怨念霊が離れていくわけでは決してありません(浮遊霊や地縛霊はある程度離れていく)。
では、どうすればいいのでしょうか。
先祖霊に関して言えば、供養はある程度、必要です。とくに三十三回忌までの回忌供養、お盆やお彼岸などのときの供養はきちんとしたほうがよいでしょう。
ただし、供養というのはあくまで霊を慰める行為であって、地獄に落ちた先祖霊まで救済することはできません。
また、供養をやりすぎるとかえって因縁が引き出されてしまう場合があるので注意が必要です。「もっと供養してくれ。もっと供養してくれ」と、地獄からどんどん先祖霊を呼び寄せてしまうのです。
そのことについては「強運』や『大除霊」などでくどいぐらいに述べてきましたので、読まれていない方には一読をお勧めします。
一方、怨念霊に関してはどうかといえば、供養は一切通用しません。そこで、念力や気合で霊を祓い除く、いわゆるお祓いや除霊というものを多くの霊能者がやっていますが、これによって怨念霊が本当に離れていくのかどうか、大いに疑問です。
というのも、こうした方法で一時的に霊が祓われたとしても、念力や気合で祓われた霊は本心から改心していませんし、納得もしていないからです。
そのため、しばらくするとまた戻ってきて、元の人間についてしまうのです。これでは問題の根本解決にならないのはいうまでもありません。
奇跡の神法「救霊」とは
怨念霊を本当の意味で祓う〟には、何よりもまず霊が抱いている怨念を解かなければなりません。
そのためには、怨念霊がいま現在味わっている地獄の苦しみから解放し、幸せの境地に導かなければなりません。そのために神様から降ろされたのが、私が行なっている救霊という神法なのです。
救霊とは文字どおり、迷える霊を救済することです。
先祖が犯した罪によって祟っている怨念霊や、地獄で苦しみ呻吟している先祖霊、また、霊界の法則も知らずに迷っている不成仏の霊たちに、前世の因縁因果や神霊界の法則を説き、神仏の御力によって、その霊たちの苦しみや痛みをことごとく癒し、迷いや葛藤をすべて解き、新たなる悟りの霊明・霊位を与え、しかるべき霊界へと導くこと。これが救霊の真意なのです。
これまで「神界からの神通力」や「神霊界」、「大除霊」など、私の一連の著作のなかでもご説明してきたとおり、パワーや光エネルギー、気合で霊を追い払うような方法は何の解決にもなりません。といってはいいすぎかもしれませんが、本質的解決にならないことは間違いありません。
霊たちに、神霊世界の秩序や人を怨みつづけることの誤りなどを教え、霊たちが心か納得し、改心し、二度と人についたりしないように導くところまでしなければ、結局はまた戻ってきて、その人についてしまうのです。
そのため私は、霊の迷妄を晴らす力を持った神霊和歌を数十首、ときには数百首、ご神霊と一緒になって詠い聴かせることにより、憑依霊を心から改心させ、ご神霊の許しをいただき、本来いるべき霊界へと送るのです。
こうすることによってはじめて、霊自身の想念が転換でき、その結果霊層が上昇し、素晴らしい霊界へと帰っていくことができるのです。
ですから、戻ってきて再びつくというようなことは決してありません。そう断言していいでしょう。
救霊の効果はそれだけではありません。救霊を受けている本人も想念の転換ができるのです。
ご神魂のこもった和歌、長歌を聴くことにより、霊界の法則や人生の意義を悟ると同時に、本人の御魂を覚醒することができるからです。
さらにもう一つ、救霊の効果を挙げるとすれば、本人ばかりでなく家族全体の運勢が向上すること。
これも無視できない大きな効果といえます。
なぜそうなるのかといえば、救霊を行なっている最中は、ご先祖の霊も大勢一緒に聞いて納得し、浄化されるため、これら大勢の先祖霊の霊層が上昇し、前にも増して子孫への守護が強化されるようになるからです。
いずれにしても、救霊を受けると、それまで霊障によって閉ざされていたプラス的な想念が自然と湧いてくるようになります。
明るく前向きで、より建設的な発想が自然に湧いてくるようになるのです。そうなると守護神・守護霊がストレートに働けるようになるのは、これまで再三述べてきたとおりです。
それはちょうど、陽光を遮っていた黒雲が風に吹き払われて、太陽が燦然と輝くのに似ています。
遮断していた霊障を取り払ったのですから、いつ、どこででも、守護神・守護霊に大きく動いていただけます。
そうやって多くの人が、正しい守護神・守護霊の加護を受け、天が与えたそれぞれの才能を開花させ、この世に生まれた使命をまっとうされることを願ってやみません。
現在では、千四百名を超える私の直弟子が、救霊師として神様から許可を得て、全国各地で救霊のお取り次ぎをしています。
どうもわが家は因縁が深いようだと思われるようでしたら、ぜひ一度、救霊を受けられてみてはいかがでしょうか。必ずや、想像できないほど運勢が向上するに違いありません。
不動明王を呼び出して守護霊軍団を三倍パワーアップする
ここでもう一つ、守護霊軍団をさらにパワーアップして悪霊たちの攻撃から守っていただく方法を紹介することにしましょう。
これは、日常的にできる簡単な方法なので、積極的に活用されたらいいでしょう。
さて、たいていの悪霊は、「強運」で紹介した守護霊合体パワーコールでその働きを封じ込めることができます。
しかし、悪霊が軍団を組んで強いパワーで襲ってきたときは、守護霊軍団も応戦に苦しむことになります。そんなときは神霊界からの強力な助っ人が必要です。
心がくじけそうになったとき、SOSでご登場願うのが不動明王です。
不動明王というのは仏教を守護する神で、大日如来の化身と言われていますが、本当は地球の祖神・国常立之尊の化身、これが不動明王の本当の姿です。
不動とは「悪を許さぬ不動の信念」を意味します。右手に降魔の剣を持ち、邪気・邪霊などを打ち祓い、気力が萎えているときなどは活力を分けていただける。
恐ろしい形相をしてはいますが、心根は優しいので全幅の信頼を置くことができます。
この不動明王が登場すると守護霊合体パワーは三倍強化されますので、降魔調伏にこれほど心強い存在はありません。
では、不動明王に登場願うにはどうしたらいいのでしょうか。実はいたって簡単、次のパワーコールを口にすればいいのです。
「ノーマクサーマンダバーザラダンセンダマカロシャーダソワタヤウンタラタカンマン」
長くて覚えきれないという人には、短く言う方法もあります。
「ノーマクサマンダバザラダンカン」
この不動明王パワーをより確実なものにするためには、イメージイラストを描き、それを見ながらパワーコールをすることです。
中央に不動の信念を表す不動明王、それを囲むように守護霊軍団の顔を描く。この場合、全体が顔の形になるようにするのがポイントです。
このパワーコールを唱える際にも大切なのは、確信することです。
そもそも、不動の信念を持つ不動明王にお出ましいただくのに「効果があるかもしれない」などとあやふやな気持ちでやったのでは失礼というものでしょう。
「絶対大丈夫!必ず不動明王が来てくださるんだ!」と自分に言い聞かせ、確信を持って「ノーマクサマンダバザラダンカン」と唱えれば、不動明王が現れ、守護霊合体パワーは三倍強化されます。
そして、これを心から信じることです。
あなたはどんな悪霊にも負けない強いパワーで守られています。勇気を持って強く生きていきましょう。
二つの因縁の持つ意味
悪霊退散したところで、もう少し、因縁について説明しておきたいと思います。実をいえば、私たちは決して平等な条件で生まれてくるわけではないのです。それはどういうことなのか。
人は誰でも守護霊に守られていますが、生まれつき強力な守護霊に守られている人もいれば、それなりのレベルの守護霊という人もいます。
また、先祖は代々、中有霊界より上の霊界に行っていて、祟られることの少ない家に生まれる人もいれば、地獄に落ち先祖がたくさんいて、おびただしい数の怨念霊に祟られている家に生まれる人もいます。
現実界レベルの話をすれば、裕福な家に生まれて一生何不自由なく暮らす人もいれば、赤貧洗うがごとく貧しい家に生まれ落ちる人もいます。
いったいこの差は何で決まるのか。端的にいえば、一人ひとりの前世からの因縁の違いなのです。
霊的な問題を語るとき、「家代々の因縁」と「前世の因縁」の二つを避けて通ることはできません。というのも、前世の行ないによって、今世どんな環境に置かれるかが決まるからです。
そして、その結果として、家代々の因縁を背負わなければなりません。
つまり、各家々にそれぞれの因縁があるように、個人にもそれぞれの因縁があるわけです。
前世で人に喜ばれるような善徳を積んでいれば、積善の家に生まれ、前世で人を苦しめるような不善をしていれば、それだけ悪因縁の深い家に生まれる。これを「相応の理」といいます。
繰り返しになりますが、因縁にはプラス・マイナス両方があります。
ゆえに「易経」に届く、「積善の家には必ず余慶あり、不義の家には必ず余殃あり」と。
プラスの因縁を徳分といいます。よく「天の蔵に徳を積む」といいますが、人に益する行為を行なうとプラスのエネルギーが蓄えられるわけです。
これに対して、悪しき行ないによって蓄えられるマイナスのエネルギーは劫と呼ばれています。
人それぞれ前世の徳分と劫を持ち、また、家代々の徳分と劫も引き受けています。これが私たちの運勢に大きく影響してくるわけです。
ただし、貧しい家に生まれたからといって、必ずしも前世の徳分が少ないというわけではありません。
また、徳分も多いがも多いという人もいます。このあたりは、神様の深い配慮あってのことであり、人智では窺い知れない部分も少なくありません。
徳分の量が運を決める
ところで、徳分とは人生にどう影響するのでしょうか。まず、プラスの要素から考えていくと―――。
徳分というのは、別のいい方をすれば天に積まれた無形の宝ということになりますが、これが、地位、富、名誉など現実的な形で現れたとき、その人は「運の強い人」「幸運な「人」と評されることになります。
つまり、徳が化して福となるわけです。これがうまく運ばれている状態を「運がよい」と言うのです。
世の中には、「あの人は才能はあるけれど、今ひとつパッとしない」という人がいます。
たとえば、素晴らしい演技力を持っているのになかなか役がつかない俳優、誰が聞いても文句のつけようがないほど歌がうまいのに売れない歌手、といった人がその典型といえると思いますが、実は才能を開花させていくためには努力だけではなく、この徳分というものが必要にして不可欠な要素になるのです。
そして、これを霊界から支えて、「運」という形で導いてくれているのが、ほかならぬ守護霊なのです。
したがって、徳分の蓄えが少ない人は、どんなに守護霊が必死に頑張っても、そこそこのところまでしか行くことができません。
たとえば、車を走らせようにもガソリンが入っていなければ、せっかく名ドライバーの守護霊がついていても思うように車を運ぶことができないでしょう。
つまり、あと一歩のところで目標に到達できないのは、文字どおり「不徳のいたすところ」なのです。
では、前世の行ないが芳しくなく、徳分が少ない人は今世、幸せになることはできないのかというと、決してそんなことはありません。
いまからでもどんどんガソリンを補給する、つまり、進んで徳を積んでいけばいいのです。
逆に前世で少々徳分の蓄えがあったとしても、使ってしまえばガソリンは減っていきます。
何かよいことがあって「ラッキー」と思ったら、それは一つ徳分を減らしたと考えたほうがいいかもしれません。宝くじに当たったりしたら、むしろ注意が必要でしょう。
いずれにしても、どんどん徳分は補給していかなければなりません。そうしなければ、いまはどんなに調子がよくても、ある時期からガクンと勢いが落ちてしまいます。
落ちるだけならまだしも、ガソリンが尽きてしまったらまさしく運のツキとなってしまいますので、徳積みだけはくれぐれも忘れないようにしたいものです。
では、ガソリンを補給する、すなわち徳分を積むとは、具体的にはどういうことをいうのでしょうか。簡単にいえば「人に益する行ないをすること」です。
この場合、他人の目に見える形で人に益することを「陽徳」、他人の目につかない形で益することを「陰徳」といいますが、ともあれ人のためにプラスになること、人に益することを進んで行なえば、それが徳を積んだことになり、結果、運勢の好転に結びつくのです。
では、どうすることが人に益することになるのか。簡単なようですが、実は落とし穴もありますから注意が必要です。
とりわけ気をつけなければならないのは、「独善」「偽善」「小善」の三つです。
独善というのはいうまでもなく、自分は善意のつもりでやったことが結果的に他人の迷惑になるケースのことをいいます。
「小さな親切大きなお世話」という類で、つまりは独りよがりのことです。
二番目の偽善というのは、形ばかりで心のこもっていない善行です。
自分が幸せになることばかり考えて徳を積もうとすると、ついつい形式的になります。本当に徳を積んでいくためには、その心底に真心がなければなりません。
換言すれば、人に益することが自らの喜びと感じられるようになる、これが本当の徳分というものです。
三つ目の小善というのは少し難しいですが、あえていえば、人のためによかれと思ってやった行為でも、より大きな見地からすると善とはいえない行為、ということになるでしょうか。
こう考えていくと、「人に益する行ない」とは何か、よくわからなくなってしまうかもしれませんが、あまり深刻にならず、基本的には自分なりの判断で「世のため人のため」という気持ちで、どんどん善を積んでいけばいいのです。自分のやろうとしていることは独善かもしれない。
小善かもしれない。叡智も足りないかもしれない。しかし、そんなことは守護神・守護霊は全部ご存じなのですから、自分としては精一杯の誠を尽くしていくしかありません。
そう思って、「世のため人のため」になると信じることを積極的に行なっていくべきです。
最もお勧めできるのは「自分としては人のためと思ってやっているんですが、間違っていたら教えてください」と守護霊によくお祈りすることです。そうすれば必ず教えていただけます。何といっても、あなたが進んで徳を積んでいくことを誰よりも応援しているのが守護霊だからです。
人徳・地徳・天徳
一口に徳といいますが、実は、徳は三つに分類されます。人徳・地徳・天徳がその三つです。人のために益する行為はこのうちの地徳に入ります。また、前世で積んだ善行も地徳として積み上げられています。
人徳というのは、自己を修養することで得られる霊光で、主に性格面に現れます。性格の性という文字を分解すると、「忄」と「生」になります。「忄」は心を表しますから、性とはすなわち「生まれながらの心」ということを意味します。
一方、「格」は「いたる」と読みます。したがって性格とは、「生まれながらの心がその後の変遷によって至ったもの」ということになります。
世の中には、性格は絶対に変わらないと思っている人がたくさんいます。しかし、そんなことはありません。
己を磨くことで性格改善を図ることは決して不可能なことではないのです。そして、それが実は非常に大切な徳積みの一つであり、さらには開運の要になることを知っていただきたいと思います。
しかし、性格がよくて「あの人は人徳があるね」といわれる人が必ずしも成功するとはかぎりません。
人徳、地徳とも十分であっても、真の開運にはまだまだ不十分なのです。では、何が足りないのかというと、三つ目の天徳がそれです。
この天の徳は、根源的な信仰心を持ち、神仏の道に生きようとしている人が授けられるものです。
天の正しき道を貫き、また、多くの人を救済してきた人に備わる、永遠に失われることのない宝物ということができます。
世の中で大きく活躍している人物というのは、たいていこの三つの徳を兼ね備えています。
ビジネスで成功した経営者の多くが篤い信仰心を持っていることは、よく知られていますが、そのように、世のため人のために善行を積んで地徳を増やし、内面的な修養に努めて人徳を高めると同時に、信仰心を培って誠の祈りを捧げ、総合的に徳を積んでいくことが最も望まれるところです。
つまり、人・地・天、三つの徳がそろってはじめて、完璧になるのです。もちろん、人間誰しも完璧ではありませんが、少なくとも努力の方向性はおわかりいただけたと思います。
天徳を授かるまでの信仰心を持つのは難しいと思うかもしれません。しかし、誠で祈れば誰でも、天徳の一部の神徳というものを授かることができます。さらに厳密にいえば、神徳も神霊の徳と霊徳に分類されます。
目標を定めて発願し、誠の心で祈りを捧げ、その実現に向けて努力を続ければ、神霊界からの援軍が大きく動き出します。
その援軍こそが、守護霊、背後霊団であり、その働きが霊徳といわれるものなのです。
ところで、なぜ守護霊は、私たちを守護してくださるのでしょうか。それは無論、神様から与えられた役目ではあるのですが、実は、私たちを守護することが即、守護霊自身が徳を積むことになるからです。
つまり、守護霊として活躍することで徳を積む修行をしているわけです。そして、その成果に功候が授かり、神霊界のランクが上がっていくその意味で、守護霊と私たちは「持ちつ持たれつ」の関係にあるわけです。
あなたが徳を積むことで、守護霊も徳を積むことになる。だからこそ、進んで徳を積んでいこうとするときこそ、守護霊は最大限の力を発揮してくださるのです。
守護霊の本当の思い
守護霊に任ぜられるほどの霊は当然のことながら生前、大きな徳を積んでいます。
そして死後、天国界に行き、さらに修行を積んで神様から守護霊に任命されているわけですが、それに甘んじることなく、もっと上を目指して頑張っていらっしゃいます。
ひとときも休むことなく働いているのはそのためですし、疲れたからちょっと休もうとか、休暇を取って命の洗濯などということはまず考えません。
しかし、別にアクセクしているわけではなく、レベルが高くなればなるほど、むしろゆったりとしているようです。
駘蕩としたなかにも二十四時間、常にアンテナを張り巡らして私たち人間の情報を正確にキャッチすべく努めていらっしゃる。つまり、休むことなく刻々と傾ける進歩向上の情熱が自然体となっているのが守護霊なのです。
さて、こうした守護霊は、私たちをどう見ているのでしょうか。細かく見ていけばキリがありませんが、総じて”もどかしさ”を感じている守護霊が多いようです。たいていの守護霊は、
「自分たちが肉体があってやっていたときのほうが、よほど早かったんだがなあ」と嘆いておられるのです。
霊というのは、現実界に直接働きかけることはできません。
人々を救済するにしても、直接手を貸すことができないので、「もっと、こうすればいいのに」「ああすればいいのに」と非常にもどかしく感じておられるわけです。
つまり、この三次元、現実世界に生きている私たちのほうが、はるかに徳積みのチャンスに恵まれているのです。
このことはとくに覚えておいていただきたいのですが、あの世での修行よりもこの世での修行のほうが、はるかに効率がいいのです。
守護霊は守護する人間を通じてしか、現実界に働きかけることができません。
ですから、守護する人間にはぜひとも徳を積んで欲しいと常に願っているのですが、守護霊としての規則があるため、相手の肉体を支配して勝手に活動することはできません。
魂の教育係としては、あくまで本人の自主性を尊重したうえで、本人が魂を発動させ、自発的に動きはじめるのを待つしかないのです。
肉体を持たないということが、いかにもどかしいことか想像できるでしょう。だからこそ、この世に生きて活動している人間に期待をしているわけです。
体施・物施・法施
前項で述べたように、手もなく足もなく口もない守護霊は、どんなに世の中をよくしたいと思っていても、私たち人間を通じてしか現実界に働きかけることはできません。
そういう守護霊に少しでも恩返ししたいと思うのでしたら、進んで徳を積むこと、これしかありません。
それは同時に、守護霊の力をパワーアップさせ、自分が幸せになっていくことでもあり、守護霊と私たちの目標は完全に一致しているのですから、ガッチリ手を組んで頑張っていきたいものです。
さて、徳を積むということですが、前述したように、あまり堅苦しく考える必要はありません。人の幸せになると思ったことはどんどんやっていく。
どんな小さなことからでもかまいませんから、少しずつ積み重ねていくことが肝心です。考えるよりもまず行動して、間違いがあれば正していけばいいのです。
原罪という厳格なまでの罪意識を植え込むキリスト教と違って、日本の神道では間違ったら宣り直し、すなわち反省をすれば許されると教えています。
ですから、必要以上に深刻になることはないのです。それよりも、消極的になって徳積みのできないことを恐れるべきです。
ただ、「人に益する行ない」といっても、何をしたらいいのかわからないという人もいらっしゃると思いますので、原則を述べておきますと、「人に益する行ない」とは具体的には体施・物施・法施の三つをいいます。
体施というのは、体を使って人々に奉仕をしていくこと。たとえば、ボランティア活動に参加したり、神社の境内、駅や公園など公共の場所の掃除をしたりするのが体施です。
いきなりそうした行動に出るのが難しいのでしたら、自分の家の前を掃くとき、一緒に近所のゴミも綺麗にするということから始めてもいいでしょう。
とにかく、何かにつけて奉仕の精神で体を使っていけば、それが体施の徳につながるのです。
二番目の物施は、自分の物やお金を人々の幸せのために捧げること。わずかなお小遣いのなかからでも、被災地に義援金を送ったり、共同募金に協力したりすることが、この物施に相当します。
その際、金額の大小はあまり問題ではありません。寺社に捧げる御布施や御玉串もそうですが、これは気持ちを形に現したもの。
同じ一万円でも、月給百万円の人が出す一万円と、貧しい学生が一生懸命にアルバイトしてようやく稼いだ十万円のなかから出す一万円とでは自ずと重みが違います。
神仏に向けたその篤い心が徳分となって積まれていくわけです。
そして、三つ目の法施というのは、人の幸せにつながるような話をしていくこと。あるいは手紙に書く。メールで送る。
方法はいろいろあるでしょうが、その人の幸せにつながるような内容を伝えていけばいいわけです。この本を二冊買って、一冊は友達にプレゼントするというのも法施の功徳になります。
何が相手の幸せにつながるか。これも厳密に考え出すと難しい問題かもしれませんが、たとえば、悩んでいる友達の相談に乗ってあげるだけでも法施の徳になります。
その際、力不足で、よい解決策を見つけてあげられず、「ごめんね。何の力にもなれなくて」と自分の非力を申しわけなく思ったりするかもしれません。
しかし、悩みを聞いてもらったということで相手の心は以前よりもかなりスッキリしているはずです。
それも立派な人に益する行為なのです。もちろん、解決のために方向を示してあげることができれば申し分ありませんが、勇気づけてあげるだけでも天から見れば立派な法施の功徳になります。
体施であれ物施であれ法施であれ、とにかく、できることから始めることです。
そうすればどんどん徳が積み上げられていきます。いっぺんに大きく世の中に貢献するような徳は積めないかもしれませんが、「塵も積もれば山となる」という格言にもあるように、小さいことからでも始めることが肝要です。
徳積みは銀行預金に似ています。銀行に預けたお金がある程度貯まると、利子が利子を生んで元本が増えてくる。
つまり開運していくわけですが、そうやって増えた元本を全部自分の満足のために使うのではなく、世の中に還元していくことが徳積みのコツです。これがまた投資にもなるからです。
ともかく、最初は小さなことしかできなくても、地道に徳積みに励んでいくべきです。
そうして徳分の量が増えていけば、やがては世の中に認められて、もっと大きく社会に貢献できるようになっていくはずです。
学問と教養の必要性
体施物施・法施の徳を積極的に積んでいくと同時に、もう一つ心がけなければならないものがあります。
それは何かといえば、学問を身につけ、教養を深めることです。徳を積むだけでは、何となく幸せな人生で終わってしまうでしょう。
やはり、自分自身を大きく成長させ、社会的にも成功するためには、学問と教養は不可欠な要素といえます。
その道に必要な技術や知識を身につけることは当たり前のことで、ここでいう学問とはそうしたものではなく、もっと内面に向かうものです。
言い換えれば、己を磨き、人徳を高めるための学問ということができますが、そうした学問を磨き、心の教養を身につけることができれば、それだけ視野も広くなり、結果的に独善、小善からわが身を守ることもできます。
その意味でも、先人の遺した功績と叡智を学び、たゆまず学問を積んでいく姿勢を欠かしてはなりません。
そのために読まなければならない本はたくさんありますが、まずは『古事記』『日本書紀』をはじめとする、古今東西の名著とされる古典を読まれることをぜひともお勧めいたします。
慣れないうちは敷居が高く感じられるかもしれませんが、最初は現代語訳でもいいし、拾い読みでもいいですから、とにかく書物をひもとき、実際に読んで自分なりに何かを学びとり、感じとることです。
そうやって古典を読むことに喜びを感じられるようになったらしめたもの。心の教養が高まりつつあると思って間違いありません。
本当の信仰心とは何か。ここでは多くを述べませんが、神様を信じて拝み、守護霊と親しむことだけが信仰ではありません。
正しい信仰心を養うためには、真の学問と心の教養を深めることが不可欠であることを忘れないでいただきたいと思います。
徳分では相殺されない
因縁について、これまではプラスの徳分について述べてきましたが、次にマイナスの因縁である劫について少し触れることにしましょう。
すでにお察しのとおり、劫というのはあなたの目標実現をさまたげるマイナスのエネルギーです。
そして、人は誰でも前世の劫と家代々の劫を引き受けていることは、先にお話ししたとおりです。
ところで、劫は徳を積むことで消すことができると考えている人がいるようですが、決してそんなことはありません。
劫と徳は、プラス・マイナスで相殺されるものではなく、いくら徳積みをしても、それで劫が消えてなくなるわけではないのです。
では劫を抹消するにはどうすればいいのか。結論から言えば苦しむほかありません。
その苦しみを重い順から並べると、死の苦しみ、貧乏の苦しみ、病気の苦しみ、人間関係の苦しみ、嫌いな職業に就くことから生まれる苦しみ(女性は縁談の苦しみ)の五つに分類されます。
死は本人にとっても家族にとっても最大の苦しみであり悲しみでありますが、それはとりもなおさず、最大の劫を払っていることを意味します。
二番目の貧乏の苦しみと三番目の病気の苦しみは、その軽重によって順位が入れ替わることもあります。
また、五番目の嫌いな職業に就くことから生まれる苦しみは、劫の払い方としてはかなりレベルの低いものです。
いずれの方法であれ、人は劫を持っているかぎり、苦しんで払わなければなりません。
どんなに徳が高く運のいい人でも、何かしらの苦しみを味わわなければならないのは、劫があるからにほかなりません。くどいようですが、徳分とは同一次元で扱える問題ではないのです。
因縁因果はこの世にいるかぎりついて回ります。そればかりではなく、前世から持ち越し、また来世に引き継いでいかなければなりません。
善因善果・悪因悪果はこの宇宙の絶対法則です。泣いても笑っても、自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければなりません。
どんなに不運であろうと不幸であろうと、それはかつて自分がつくった原因によるものなのですから、いっそのこと腹を括って覚悟を決めることです。
ならば、なるべく若くて体力があるうちに少々苦しんでも、劫を刈り取ったほうがいい。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」というのは、そういう意味でもあるのです。
「不味因果」という言葉があります。読み下せば「因果を昧まさず」となりますが、因縁因果というのはどうあがいても変わりはしないのですから、因果は因果として納得し、それによって不幸を感じないような境地を大事にしろ、というのがこの「不昧因果」という言葉の意味するところです。
このことに関しては「大天運」(たちばな出版刊)に詳しく説明していますので、ぜひご一読ください。
たしかに、どんな因果に対しても泰然自若としていられれば最高です。
しかし、そうはいっても、誰にとっても苦しむのは辛いし、嫌なことに決まっています。
「不昧因果」の境地に立つのは、なかなかに難しいことであるに違いありません。そこで頼りにしたいのが守護霊です。
楽しみながら劫を抹消する方法
ここでお断りしておきますが、守護霊もまた因果の法則のルールに則っている存在であります。
したがって、どんなに祈っても、守護霊が因縁をなかったものとして劫を消し去ってくださることはありません。
守護霊は、私たちが苦しんでいるのを見ながら、「どうやってそれを乗り越えていくのだろうか」とハラハラしながら見守っているのです。
必死で祈ればギリギリのところで手を差し伸べてはくださいますが、それまでは、葛藤し、苦悶しながら自分で乗り越える努力を続けていかなくてはなりません。
ここは守護霊としても苦しいところであるに違いありません。
しかし、考え方の工夫次第で「苦」を「楽」に変えていくことはできるはずです。
たとえば貧乏の苦しみというのは、先にも述べたように、死の次に深い悪因縁ではありますが、たとえお金がなくても、気持ちの持ち方次第で明るく生きていくことは十分、可能です。
たとえば、「もっと貧乏な人もいるのだから自分は恵まれているほうだ」と考えてもいいですし、あるいは節約を生き甲斐のようにして、そこに楽しみを見出すという方法もあるでしょう。
また、交通事故など不慮の事故に見舞われたら、入院を機会に小説でも書いて懸賞に応募するというのも一つの手です。
嫌な人間と巡り合わせたら、心の修養だと思ってその人と仲良くすることを考えたり、とにかく客観的に見て不運な状況にあっても、プラス思考で乗り越えていくことはできるものです。
こうした明るい想念をつくると、守護霊も動きやすくなるのはこれまで述べてきたとおりです。
さらに守護霊にとって手を貸しやすいのは、劫の抹消を徳積みと同時にやっていく方法です。
どういうことかというと、世のため人のために善行を積んでいくために進んで苦労を買って出るのです。たとえば、病弱で体を動かすのが最も辛く苦手な人がボランティアで汗を流す、というのがこれに相当します。
あるいは、世の中に役立つ資格を取得するために、本来は遊び好きな人間が遊ぶ時間を削って、大嫌いな勉強に充てる、というのも同じことです。
このように、苦しみながら徳を積んでいくというのが最も手っとり早い劫の払い方であり、守護霊の応援を受けやすい方法なのです。
いや、苦しみながら徳を積んでいくというのは誤りです。苦しみながらも徳を積めるというのは本来、喜びのはずですから、楽しみながら劫を抹消していくといい換えるべきでしょう。
指導霊と合体して司導霊となる
劫を刈り取り、徳を積んでいく。実はこれが私たちに与えられた修行のテーマなのです。つまりは人生の本義なのです。
これに関して、仏教では因縁の解消という考え方をしますが、神道では「御魂磨き」といいます。そして、魂の教育係である守護霊の本当の役目とは、この御魂磨きがスムーズに進んでいくように手助けすることなのです。
私たちは皆、因縁のレールの上に乗っています。この絶対的な天地の法則のレール上をいかに走るか。
その走り方に応じて守護霊は手助けしてくださるわけです。もちろん、どんな走り方をするかはあなたの自由意志にゆだねられていますが、たとえどんな状態に陥ったとしても、守護霊があなたを見放すようなことは決してありません。
信頼していた取引先に裏切られるようなことはあっても、あるいはまた銀行から見放されることはあっても、守護霊は最後まであなたの味方なのです。
守護霊は高い霊界にいる存在ですから、過去も未来も見通せます。どうすれば成功するかもわかっています。
しかし、それが私利私欲のために望むものだったら、大きくお働きにはなりません。なぜなら、本来の修行のテーマからズレてしまうからです。
したがって、守護霊の力を最大限に引き出すには、自分の望む成功へのプロセスを御魂磨きと重ねて考えることがポイントになります。
すなわち、世の中に大きく貢献するという高い志を持ち、進んで徳を積み、ひるまず劫を抹消しながら目標に向かって進んでいくんだという志。これを忘れてはなりません。
そうすれば、守護霊はどんどん先に立って道を指し示してくださるでしょう。指導霊となってあなたを幸せへと導いてくれるのです。
その導きがあれば、道半ばでどんな試練があろうとも、必ず乗り越えることができます。それが劫を抹消することであり、同時にその経験が人生の糧にもなっていくのです。
この世での成功は一過性のものであり、決して最終目標ではありません。生まれ変わり死に変わりを繰り返している私たちの魂にとって、そのすべての行程が御魂磨きの旅なのです。
この世も修行の場。あの世も修行の場。守護霊となって子孫を見守り、その人生を大きく拓いていくためにバックアップするのも、守護霊自身に与えられた御魂磨きの修行のテーマなのです。
私たちはたまたまいま、現実界に生き、この世の修行に励んでいます。
しかし、いつかは霊界に行って別の形の修行を積むことになります。あるいは、子孫について守護する役目に任じられることがあるかもしれません。
そのときになれば、守護霊の気持ちもわかるかもしれません。
いずれにしろ、あなたも守護霊も同じ目的で修行を続ける同志なのです。
そして、神様の深い配慮の縁によって、いままさに一つの人生をともに築き上げるという大テーマに取り組んでいるパートナーなのです。そう考えると、あなたと守護霊にどれほどの違いがあるのでしょうか。
あなたの人生は自分一人だけのものではない。あなたと守護霊が完全に目的を一致させて進んでいけば、恐れるものは何もありません。
自力と他力がガッチリと組んで、互いの力を完全に合わせることができれば、そのパワーは何十倍にもなります。自力の中他力があり、他力の中に自力が発揮されるわけです。
この状態を霊的に見れば、あなたと指導霊が一体化しています。完全に一体化して、どっちが自分でどっちが指導霊かわからなくなったような状態。これを司導霊といいます。
そうなると、守護霊の持つすべての才能、教養、思考、技術が完全にあなたの一部となり、逆に、あなた自身が守護霊の一部となります。
かくして、素晴らしいオーラを発し、スーパースターのような人間への一歩が印されるのです。
実は、これが神人合一の基礎段階といえるもの。このレベルに達したら、守護霊免許皆伝ということができます。
