神仏のことがわかる本(Vol.5)

【第四章】神と人とを遠ざけるもの

面倒くさいという心が神仏を遠ざける

前章では、実在の神の動かし方、神霊界のパワーの現実界への活用の仕方を分かりやすく説明するために、ビジネスを引き合いにしながら話を進めたが、お分かりいただけたろうか。

神仏に手を合わせても金運に恵まれない理由は、人の三倍努力するんだという意欲と努力に欠けること。

これが一番大きな理由である。神仏の導きや守護を実感できない最大の理由はこの努力不足、言い換えれば怠りにある。

まあ食事や睡眠を怠る人はまずいないが、仕事を怠ったり勉強を怠ったり連絡を怠ったりと、何かにつけてサボる人、あるいは怠けグセがびっしりと身についている人は少なくない。

ところで、人はなぜ怠けるのだろうか。

怠ける理由も何もあるものか、怠け者は生まれつき怠け者と決まっているんだ、そんな声が聞こえてきそうだが、怠けグセが生まれつきかどうかは別として、何かにつけてすぐにサボる人には共通の心理がある。

それはすなわち、面倒くさいという思い。これが怠けという行動を引き起こすのだ。

営業に出なければいけないんだけれど、雨が降っているから外に出るのが面倒くさい。礼状を書かなければいけないんだけれど、文面を考えるのが面倒くさい。

電話をかけて謝らなければいけないんだけれど、面倒くさくて電話一本かける気がしない……………。

この面倒くさいという思いがあるかぎり、どんなに祈っても神仏の加護はまず受けられない。

もっとも、何をやるにも面倒くさい人が神仏に祈ることなど、実際にはほとんどないだろうが、とにもかくにも面倒くさいという心を捨てないかぎり、神仏の導きを受けたお蔭をいただくことはできない。

いや、神仏の導きを云々する以前の話であって、そんな人間は会社でも家庭でもみんなから疎んじられているに違いない。

例えば、あなたの部下に、命令や指示を出すとすぐに不貞腐れた顔をする人間、面倒くさそうな態度をとる人間がいたとしよう。

その場合、そんな性格の屈曲した部下でも出世ができるように、待遇が良くなるようにと、何くれとなく引き立ててやろうという気持ちになるだろうか。

まれには、そういう面倒見のいい上司もいるだろう。

だが、そんなに仕事が嫌いならサッサと辞めたらどうなんだ、という気持ちになるのが人情というものではないだろうか。

神仏もそれと全く同じなのである。もちろん、怠け者、無精者だからといって、慈悲深い神仏が蹴落としたり不幸に陥れたりすることはない。

かといって積極的に守護されることもない。一刻も早く本人が自分の欠点に気づいて自ら立ち直ることを願いながら、黙って見守られるだけなのだ。

だから、神仏を身近に感じるようになるには、何はともあれ面倒くさいという心を払拭すること。ここをクリアーしないかぎり、神仏の守護も得られなければ功徳もいただけない。そう断言していい。

下魂から脱却するには

もうかなり昔のことだが、かつて日本の最北端・稚内の施設を借りて「栄光への脱出セミナー」と題するセミナーを、参加費用一五〇〇円で開催したことがある。

「自分自身を下魂、すなわち人間的に最低のレベルにあると自認する人よ集え」ということで開催したのだが、そのときの案内状には、「鳴かず飛ばずの人生から、鳴く声も麗しく、天高らかに飛翔する人生へと、御魂の大転換を求める会員に告ぐ。来る〇月〇日、徹夜の御神業、『栄光への脱出セミナー」を開催します。

■ 参加資格
1、浮上したいと激しく御魂が希求してやまない方

2、あなたの御魂を救おうとする深見先生の強烈な言霊のパワーに耐える覚悟を参加前にできた方

3、手術のときに患者が医師にすべてをゆだねるように、御魂の医師である深見先生にいっさいをお任せできる方」

と、何とも過激な案内文と開催日時、および会場の所在地を記しただけで、会場までの交通機関などはいっさい示さなかった。

つまり「参加したい人は勝手に来なさい。自分で道順を考えて現地に集合しなさい」という、実に不親切というか、突き放した案内の仕方をしたわけだ。

これで果たして何人集まるだろうか。日本の最北端・稚内なんて不便な所へわざわざ休暇を取ってやってくる人がいるのだろうか。

正直なところ、かなり不安であった。しかし、参加人数が問題ではない、たとえ五人、十人しか来なくてもいい、開催することに意義がある。

そう思って開催に踏み切ったのだが、蓋を開けたらびっくり仰天、募集定員一五〇人のところに千人以上の参加希望者が殺到したのである。

こういうときは早いもの勝ち。定員になった時点で受け付けストップ。その後の千人近い申し込み者に対しては丁寧にお断りするしかなかった。

そして開催当日。会場には老若男女、さまざまな会員が続々と集まってきたが、その多くが関東や関西からの参加者であった。

中には、交通費を節約するために列車を乗り継いで、丸々二日かけてやってきた九州の学生もいた。

そうやって、幾つものハードルを乗り越えて集まった会員を前に、私は大略、こう語った。

「皆さん、日本列島の最北端にようこそ。このセミナーは下魂の人を対象にしたものですが、ここに集まった皆さんはもう下魂ではありません。

ここまでやってきたという事実、それだけで下魂は脱出している。下魂の人はここに来ることさえできないんです。

下魂の人のためと思ってこれだけのセミナーの準備をしましたけれど、それでも来られない人、これが本当の下魂です。

『栄光への脱出セミナーかあ。でも、徹夜で講義を聴なんて、大変だろうなあ。場所は北海道かあ。どうやって行くんだろう。参加費用もバカにならないし、交通費はその何倍もかかる。休みを取るのも大変だし……..。参加したい気持ちもあるけど、面倒くさいからやめておこう」

この面倒くさいという心が前に出てくる人は下魂なんです。と言うより”タヌキ魂”と言ったほうがいいかもしれません。面倒くさいという心が絶えず前に出てくる人は永遠に下魂から脱却できないでしょう。

けれど、皆さんは面倒くさいという心を乗り越えてここに集まってきている。だからもう、下魂ではありません」

参加費用一五〇〇円のセミナーに参加するために五万円、十万円という交通費をかけてやってくるなんて、考えてみればこれほどナンセンスなことはない。

参加する側にとってもナンセンスだが、大赤字を承知のうえでやる主催者側にしてみれば、もっとナンセンスだ。

けれど、「日本の最北端でやるセミナー、しかも『栄光への脱出セミナー」なんて、どこかユーモアがあって面白そうだ、何か意義がありそうだ。

どんな講義が聴けるのか分からないが、面白そうだから行ってみようじゃないか」と、わざわざ上司を説得し、大切なお金と時間を使って遠路はるばるやってくる人。

そういう人はすでにして面倒くさいという心、バカバカしいと思う心を越えている。少なくとも下魂を脱出しているわけだ。

それに対して、何か面白そうだけど時間をつくるのが面倒くさい、お金を工面するのが面倒くさい、上司を説得するのが面倒くさい、それでいて功徳だけ欲しい、運だけは良くなりたいという人は、永遠に下魂から脱却できない。神様事であれ仕事であれ、頭で考えているだけで実践するのを面倒くさがっているかぎり、いい結果を残すことはできないし、運が良くなることも絶対にあり得ない。

下魂から中魂、中魂から上魂へ

いずれにせよ、面倒くさいという思いが神と人とを遠ざける一番の障害であるのだが、この思いを捨て去るには身をもって体験するしかない。

例えば、先の『栄光への脱出セミナー』にしても、これを実施するとなると会場の確保から始まって、会場の下見・確認、当日の食事の準備、各種機材の運搬と、クリアーしなければならない問題は山ほどある。

とりわけ頭を悩ませるのが食事の準備で、参加人数が確定していた『栄光への脱出セミナー』のケースは別として、そうでないときには、何人分の食事を用意したらいいのか見当もつかない。

とりあえず二百人分用意するとして、もし四、五十人しか来なかったらどうするのか。逆に四百人も五百人も来たら、不足分を現地で調達できるのかどうか。そう考えただけでも頭が混乱してくる。

機材の運搬も難問だ。一口に機材と言ってもトラック二台分もあるから、東京から稚内まで飛行機で運んだのでは経費がかかりすぎる。

では、時間がかかっても陸路トラックを走らせるという手はどうか。だがそのときは折悪しく、前々日の夜にほかのセミナーがあり、丸二日かかる陸路での搬送は最初から無理と分かっていた。

はて、どうしたらいいのか…………。

結果的に東京―室蘭を結ぶフェリーを活用することでぎりぎりクリアーできたが、こういうやっかいな問題に直面すると必ずと言っていいほどこういう声がお弟子たちの間から出てくる。

「こんなに面倒くさいこと、なんでやらなきゃいけないんだ」

「何もわざわざ稚内なんかでやることないじゃないか。東京でやればいいだろう、東京で」

これが下魂である。こんな心構えでいるかぎり、永遠に自分の壁は打ち破れないし、神仏に祈ったところで加護や導きを受けられるわけがない。

似たようなことはビジネスシーンでもよくある。

例えば、自分が立案した企画を通すためには膨大なデータを集め、同僚や上司を説得する必要があるが、このとき、「こんな面倒くさいこと、もうやめよう」と思うような人は下魂。まず出世は見込めない。

そうではなく、できてもできなくてもあきらめずに、最後の最後までチャレンジしていく

気迫と根性。そして実行力。それを持っている人こそが中魂、もしくは上魂であって、下魂から中魂へと脱皮するには、面倒くさいという心を克服してチャレンジするんだという気迫で立ち向かい、やり遂げたという体験と思い出を残す以外にないのである。

氷をバーンと割るように、気合もろとも面倒くさいという心の壁をぶち割っていく。結果を考えず、捨て身になって目前の障害に体当たりしていく。

そういう体験を積んで、深い感動を覚えたり神仏の導きを実感すると、次からは軽々と乗り越えられる。

一瞬、面倒くさいという思いがよぎることがあっても、即座に気分を切り換えられるのだ。

神仏が戒める、狎れ、侮り、油断、怠り………

こうやって最初の一歩をクリアーすると、その分、神仏との距離も縮まる。それまで遠くにしか感じられなかった神仏の息吹が、身近に感じられるようになる。

もちろん、功徳も授けられる。お蔭も出るようになる。

だが、これで安心してはいけない。面倒くさいという心を克服することを何度か体験すると、すぐまた第二のバリアーに前をふさがれることが多いのだ。

そのバリアーとは 16 何かというと、気の緩み。

これは信仰を持つ者にとって大きな問題で、私の師匠・植松先生は気の緩みを「なれ」とおっしゃっている。いわゆる「慣れ」ではなく「狎れ」である。

この人の性格はだいたい見抜いた、付き合い方も分かった、こうやって接しているかぎり問題ないだろう。

ああ、今回のテーマも前回のとだいたい同じ、やり方が分かっているから心配ない、きっとうまくいくだろう…一度うまくいったという体験を持つと誰しも、人に対しても物事に対しても狎れ狎れしくなりがちなのだが、これは面倒くさいという心の次に神仏の嫌われること。

狎れが出てきた途端、せっかく縮まった神仏の距離も再び遠のくのである。

そればかりか、狎れが出てくると油断、侮りが生じてくる。その結果、再び怠りが出てきたら振り出しに戻りかねない。

あの人の仕事の進め方、ずいぶん杜撰になってきたね。新入社員のころはもっと真剣になっていたのに・・・・・・という話はよく耳にするところだが、こういう場合、たいてい、狎れ+油断+侮り+怠りというプロセスを経ていると考えて間違いない。

そうやって怠りが出てきても、普通は上司に叱られたり同僚に注意されたりと、何らかの形で頭を叩かれるもの。

そこで反省すれば再び神仏の守護が得られるようになるのだが、ときとして頭を叩かれることなく、そのままスイスイと物事がうまく運んでいくことがある。

そうなるとどうしても、増長慢、傲慢、不遜、といったものが出やすくなる。

「矜」とは平たく言えば傲慢であるが、内的な無形の世界にかすかに出る心奢りであって、態度や言動に明確に表れる、外的な傲慢とは区別される。

それはともかく、神仏は「狎れ、油断、侮り、怠り」そして「増長慢、傲慢、不遜、矜」といったものを戒められるわけだが、前者の「狎れ、油断、侮り、怠り」を陰の戒めとすると、後者の「増長慢、傲慢、不遜、矜」は陽の戒めと言うことができる。

この陰と陽、神仏はどちらをより戒められるかというと、陰の「狎れ」や「油断」「怠り」。中でも最も「怠り」を戒められる。

神仏の目から見たら、怠りの罪が最も深いのだ。理由は簡単。油断したり怠ってばかりいたら何一つ魂に記憶が残らないからである。

それに対して陽の戒め、すなわち「増長慢」「傲慢」は少し趣が異なる。確かに「増長慢」や「傲慢」は神仏が戒めるところではあるが、人間、わけもなく増長慢になったり傲慢になったりはしない。

中には何の根拠もないのにやたらと尊大な態度を取る人もいるにはいるが、自信の裏付けとなる何らかの実績があるときに天狗の鼻が高くなるのが普通で、その実績を積むまでの苦労と努力は魂の記憶に残る。それが尊いのである。

なぜなら、たとえ一時的に増長慢になったとしても、反省して姿勢を正せば、その記憶が一八〇度転換されて、世のため人のため、そして本人のために役立つようになるからである。

要するに、増長慢や傲慢というのはちょっと方向性がずれているだけで、基本的には大きな誤りではない。

ちょっと傲慢になってきたな、慢心が働いているなと思ったら、傲慢にならないようにと心を調節していけばいいのだ。その調節はどのようにやるかというと、これはもう謙虚の徳を磨くしかない。

例えば、宋学の周渓先生の下にいた程明道、程伊川の両先生は一年間、「謙」というものばかりを研究していたらしい。

それまでなかなか修道が極まらなかったのが、その一年間、「謙」の一字の修養をやって見違えるように変わった、という話が『近思録」に出ているが、程明道、程伊川先生に見習って、「あっ、増長しているな」と思ったら謙を心がけたらいい。

増長慢、傲慢は褒められたことではない。

だが、反省すれば、それまで積み上げてきた実績、悟りといったものが一八〇度転換されて、世のため人のために役立てられるのだ。

褒められたことではないけれど、それほど悲観するものでもない。

ところが、狎れ、油断、侮り、怠りがあって、何をするのも面倒くさいという心を持っている人が反省した場合、何が魂の記憶に残るかというと、全くのゼロ。

何も残っていない。だから、怠け者や無精者が何らかのきっかけで反省して、「おれは、これから一生懸命勉強するぞ」と志を立てたとしても、一から始めるしかない。

それまでの人生はすべてムダになってしまうのだ。だから、遊惰安逸に流されて、怠りと油断の日々を過ごすのは、神霊的にも現実的にも最も重い罪なのである。

ちなみに、この怠りの罪の極致が自殺である。

借金苦で生きていくのがつらい、身内を失い生きていても楽しくない、病気でこんなにつらい思いをするくらいなら、いっそのこと死んでしまいたい…。

自殺する人にはそれぞれ理由があるのだろうが、要するに、苦しみを越えていくのが面倒くさいから自殺するわけだ。

だから、怠りの罪の極致は自殺なのであって、逆に言うと、怠っている人は毎日毎日、自殺行為を繰り返しているようなものと言うことができる。

タヌキとキツネ、どちらが偉い?

怠りの罪を犯した人が死んで霊界に行くとどうなるかというと、だいたいタヌキの姿になっていることが多い。

これまでの著作で何度も書いたことだが、タヌキというのは、高い、尊い、高天原の「た」で始まる言葉の要素)が抜けている。

だからタヌキと言うわけで、タヌキタイプの人はいつもボケーとしているだけで、知性も教養もない。では、タヌキの姿になって何をしているのか。

私も何度か霊界で見たが、大方が単純労働をやらされていた。中でも最も多いのが石臼回し。

石臼の把手を握ってグルグルグルグル一人で回す。ただそれだけのことなのだが、そんな意味のないことを三百年、四百年という長い年月やらされるのである。

キリスト教霊界に行くと煉獄というのがある。そこで人々は何をしているのかといえば、石転がし。

煉獄の獄卒に鞭打たれながら、大きな石を坂道の上まで転がしていき、頂上まで運んだかと思うと、「ご苦労さん」と石をガラガラと落とされる。そしてまた下から転がしていく。

これが三百年、四百年と続くのだから、やらされるほうはたまったものではない。

だが、それもこれも因果応報。この世にいる間、怠けていた当人が悪い。

そういう煉獄に落ちるのは、親からもらった財産があるとか、それなりに裕福な人が多い。その意味で、収入も身分も保証されている職業、たとえて言うなら公務員はよほど気をつけなければいけない。

公務員という職業はかぎりなく怠りに近いからだ。公務員のすべてが怠っているとは言わないが、かといって精進しているとも言えない。

もっと磨けば光るものを、磨かないで終わってしまう人が多いのではないだろうか。これを神道では天津罪と言う。

ご存じの向きも多いだろうが、神道では罪を天津罪と国津罪の二種類に分けている。

国津罪というのは、殴る、蹴る、盗む、殺すといった、人々に迷惑をかける罪。これに対して、人に直接迷惑はかけないものの、己の才能、徳分を磨かないこと、すなわち怠りの罪を天津罪と言う。

その国津罪と天津罪、どちらがより重いかと問われたら、皆さんはどう答えるだろうか。おそらく、国津罪のほうが重いと答える人が多いのではないかと思う。

そう考えるのも当然かもしれないが、実は、神霊世界から見ると天津罪のほうがはるかに重い。

怠りの罪は前述したように、反省しても何も残らないからだ。

無論、どちらも良くないことなのだが、反省すればそれまで積み上げてきた実力、実績を世のため人のために役立てられる陽の罪、すなわち増長慢や尊大、傲慢のほうがよりベターなのだ。

何が罪深いかといって、怠りの罪ほど恐ろしいものはない。今生、怠けてばかりいて己を磨かなかった人は煉獄行きが待っており、ひとたび煉獄に入ったら三百年も四百年もムダなこと、何の益にもならないことを延々とやらされるのだから、これほど無意味でつらいことはない。

とにかく、何をやるのも面倒くさく、怠りの罪を犯している人は霊的にはタヌキの姿になっていると思って間違いない。

面倒くさいという心。それこそがタヌキそのものなのだ。いつもグズグズしていて何もしない。酒を飲んだり遊んでばかりいて、努力や精進という言葉とはまるで縁がない。

それに頭が悪く思考も堂々巡りを繰り返す。自らの怠りと頭の悪さを笑いと踊りでごまかしているだけ。

もちろん神様の眷属(けらい)なんかになれるわけがない。だから、タヌキタイプの人は本当に救いがたい。どこの職場にもタヌキタイプはいるものだが、そういう人はたいてい人畜無害。

いてもいなくてもまるで関係なく、周囲に敵をつくることさえできないのが普通だ。

それに比べたら、キツネのほうがずっといい。キツネはプライドが高く気分屋で、ヒステリーだけれども、ものすごく精進する。それに狡猾なほど頭がいい。

性格的に問題があるにしても、精進努力することを知っていて頑張り屋だから、方向性を正せば世のため人のために大いに役立つ。だから、神様の眷属になれるわけである。

私たちはまず、面倒くさいという心と怠り、侮り、油断を取り去って、さらに伸びていかなければいけない。神仏はタヌキもキツネも戒めているが、最も戒めているのはタヌキ。

何をするのも面倒くさいという怠け者。侮りと油断の固まりのような人は下魂中の下魂なのである。

その下魂から脱出し、神仏の守護を受けられる自分自身になるには、とにもかくにも面倒くさいという心を捨て去ること。

これがすべての始まりであるということをもう一度、しっかりと確認したい。