はじめに
私が原作をしたコミック(タチバナコミックシリーズ、たちばな出版刊)などで私のことがマンガ風に紹介される時は、白いひげのおじいさんだったりする。
だから、世間では私のことを、相当年寄りだと思っておられる人もいるようだ。
先日も、そういう若い方が見えて、たまたまいた本人をつかまえて「あの、お兄さん、深見先生は今日お見えになりますか?」と尋ねたので、大笑いになった。
実際の私は髪は黒々、目はパッチリで若々しい。嘘だと思ったら、私が主宰するワールドメイトという団体のセミナーなどに来て、自分の眼で見てもらいたい。
それではマンガとかビデオで、白髪白ひげで描かれるのが嫌かというと、そうでもない。
外見は別として、内面は十分に老けているし、老いることが悪いことではないとも思っているからだ。
大体、このごろの若い人は、何かと言うと「オジン」「オバン」とか言って、熟年者やお年寄りを馬鹿にしたがる。
いま若い人も、いずれ嫌でも「オジン」「オバン」になるというのに……………。
まあ、若者が年寄りを悪く言うのは昔からのことで珍しくもないが、さらに良くないのは言われたオジン、オバンが本気で自分を卑下することだ。
年をとって、体力や持久力が弱るのは自然の道理だ。しかし、五十以上のオジン、オバン、ジジイ、ババアは、若い者が絶対に持てない良い点を、たくさん持っている。
そのことを、私はこの本で山ほど数え上げていくつもりだ。五十以上の方は、「そうだ、その通りだ!」と膝をたたいて賛同なさるはずだ。
その意気、その意気である。若い人は「エーッ、信じられなーい!五十過ぎの人がステキなわけなーい!」と言うかも知れない。
でも、熟年やお年寄りだけが持てる内面の素晴らしさを、若いあなたが身につける努力をすれば、あなたの人間的な魅力は何倍にもなる。
きっと、若い方が読んでも、得るものは大きいことと思う。
深見東州
第一章 五十代はこんなに素晴らしい
若者よ、急に老けられるか?
若者には若々しさが利点としてあり、老人には良き老いがある。などと言っても、今の老人にはちっとも救いにならないはずだ。
私はそんな半端なことは言わない。
若い人よ、悔しかったら急に老けてみなさい、と言うのだ。どんなに頑張っても、年齢の差だけは超えられない。これはもう若い人間が逆立ちしても駄目なのである。
もう一つ、究極の救いの論理がある。若い人がいくら意気がっても所詮、彼も前世では老人だった、ということだ。
そう言われてみれば反論できないだろう。たかが、今世生まれてからの時間を比べてみて、それがどうだというのだ。今世で若い人も年をとった人も、前世や前々世から通算で比べてみれば大差ない。
だから、今世で「若さの魅力で、私の勝ちね」などと、若い者が舞い上がるのはインチキなのだ。一皮向けば、前世はばあさんなのだから。
それよりも、今世でいえば年齢を経た老人の方がいいことはいくらもあるのだ。
中国では「老」「老人」は尊敬語
中国映画を見ていると、会話の中で、年がそう違わない同志に対して「○○老人」と呼びかけるシーンがある。極端な時は、年が多い人が若い相手に「○○老人」とやる。
これは、別に「おい、深見のジジイ!」と馬鹿にしているのではないのだ。中国では、「老」とは尊いことを表わすのである。
反対に小姐とか小児とか言われたら、相手は侮っているのだ。だから「若く見られた!」なんて喜んでちゃいけない。
老酒もそうだ。何年も寝かせて古いということもあるが、それよりも貴重で尊い酒という意味が込められている。中国に行くと、「老」は良い意味なのだ。
中国に端を発する団体で、「道院紅卍会」という社団法人があるが、この団体では
「至聖先天老祖」という神様をお祭りしている。この神は北極星の神様で別名「北極老人」とも言われる神である。
しかし、この北極老人も、年をとってるから「老人」なのではない。老祖というのは尊い祖ということだ。
年とった祖じゃないのである。至聖先天老祖の御名には、北極星の神様を、至聖(聖なるものの極まり)の先天の神として、尊崇している気持が入っているのだ。
若々しい年寄りこそ最高だ!
即席中国語講座風にやってみると、「你是我的老師」(ニー・シー・ウォー・デー・ラオシー)
これは「あなたは私の先生です」という意味になる。「老師」は先生だ。だから、大学を出たての二十二才のお嬢さんでも「老師」になる。婆さん扱いされてるんじゃない。
「老」とは、尊いということなのだ。
けれども、ただ年をとっているだけというのはありがたみに欠ける。それだったら高齢化社会の日本など、それだけで社会全体が尊敬に値するのか?ということになる。
先天の魂の世界から言うと、若々しいということは、神気に満ちているということだ。妙気に満ちている。神気みなぎっている人というのは若々しいのだ。
だから、肉体年齢は年を取っても、中味は若々しいというのが、もう最高なのである。若々しい老人こそが理想に近いということだ。
白ひげは悟りのしるし、はげは知恵のしるし
ここで少々、神霊界の様子についてお話をしておこう。
私は少年の頃から人一倍「霊的能力」と言われるものが強く、今では修業のかいあって、様々な神様と交流したり、天眼でお顔を拝したりすることができるようになった。
面白いことに、神霊界の神様のお姿で、ひげが生えて年をとっているというのは、深い悟りを得ているというしるしなのだ。
深い悟りの知恵を持っておられると、大体、お年寄りのお姿で出ましになる。
また、若々しい顔で出てくる神様もおられる。少名彦神などがそうだが、大体十六歳から十三歳ぐらいの間の、童顔で出てくるのだ。こちらは大体、発想の神様である。発想、閃きの神様というのは全部、若々しい顔をしておられる。逆に深い咀嚼力とか悟りの叡智の神様というのは、年をとった神様で、ひげが生えて、枯れた感じになる。
また、はげた神様というのは知恵の神様だ。悟りだけではなく、先の先まで見通しているとか、神の経綸(計画)や人生の方向性、天命などを司られる。
先の北極老人もその一柱だ。そういう神様は、はげている。知恵は知恵でも、情感が枯れた悟りというの ではなく、この北極老人のように、宇宙のコンピュータの如く、あらゆるものを悟っている頭脳ははげた姿で表される。
要するに、髪というのは霊界では情感を表すものだ。現実的にも、髪を切るとさっぱりして、あまりクヨクヨと感情で思い悩むことがなくなる。
坊主になって出家するのは、散髪代がかからないということもあるけれど、結局、この世の思いを絶つということなのだ。
俗界、世俗の思いを絶つ。そのために、世俗の思いとか感情などを表す髪を断ってその意志を果そうとするのである。
髪の毛が白くなっていくということは、すなわち、それだけ、人間的に枯れることであり、原点に返っていくことだ。本来の人間のあり方や原点をわかってくるという意味に考えていい。
養分がなくなるから白くなっていくという生物的な理論もあるが、その奥にある神霊的な理はそういう意味になる。
髪がなくなるということは、感情とか情感を乗り越えた知恵を表す。だから怜悧な、クールな知恵を持つ神様ははげている。
裁きの神様などもやっぱりはげている。
以前イスラエルに行った時、天眼で拝見した恐い神様(和名で言えば、真正の国常立大神様)も、やはりはげていた。それでいて面白いことに、目の下とか、頬のあたりに白いひげが生えているのだ。
それにも意味はあるのだが、変わってるなと思う。
発想、閃きは若者が有利
さて、悔しいことだが、若ければ若いほど有利という分野も確かにある。それは発想、閃きだ。
私は恩師、植松愛子先生に、二十五歳のときに師事するようになったが、その時私達弟子は若者ばかりだった。
そのとき、植松先生が私達に最初に教えて下さったことは、このことだった。
若い時にしかできなくて、年寄りがどうしても真似できないものは、御神業(神様事)の世界では、発想と閃きだ、ということだ。植松先生はこうおっしゃった。
「あなたたち若い人は、若い時にしかできないものをまず磨きなさい。お年寄りがどうしても真似できないものは何かと言うと、もちろん体力もありますけれども、御神業の世界で言うと、発想と閃きです。
発想や閃きというのは若ければ若いほど柔軟で、経験がない分だけ無から有を生む力があります。若い人がお年寄りに勝つのは、発想の世界、閃きの世界なのです。
発想と閃きがない若い人というのは、若い値打ちがありません。ただ体力が元気だというだけ。
言うならば、犬でも猫でも猿でも蛇でも、若い犬、若い猫、若い猿、若い蛇は元気に違いない。動物と同じであって、どうということはない。
しかし、発想と閃きが豊かな猫とか、ものすごくアイデアに満ちた犬とか、独自なやり方を編み出した蛇とかというのはいません。
人間の若者なればこそのポイントが、この発想と閃きなのですよ」と。
これはもう、若い人が年寄りに勝つ圧倒的に有利な部分である。
そのかわり、お年を召した人はどこで若い人に勝つかというと、やっぱり経験がある分だけの経験的な知識の面だ。
それから、時間をかけて築いてきた社会の信用。また、時間をかけて育ててきた人脈。二十歳の人よりも、六十歳のほうが知り合いが多いのは当然だ。
だから、人脈の広さ、量、それから築き上げてきた社会的な信用、積み重ねてきた知恵、これはもう若い人に圧倒的に勝てるところだ。
知識もなく人脈もなく信用もないというお年寄りは、年齢というもののメリットを活かしていないことになる。
もしも、知識人脈・信用という財産にプラスして、若々しく豊かな発想と閃きを持っているお年寄りがいたら、もう人類最高ということになる。向かうところ敵なしである。
年齢なりに長所を活かした修業を!
若い人は若い人にしかできない長所である、発想や閃きを生かせばいい。体力があるから、もちろん体力を生かした仕事も良い。
お年を召した人は、信用と人脈と、それから経験、知識というものを前に立てて、発想、閃きという足りないところを若い人たちから吸収したらいいのだ。
若い人の方は、発想、閃きはあるけれども、社会的信用と人脈と知恵、知識は足りない。そこをお年寄りに、礼節をもって知識を伺い、人脈を紹介していただき、引き立てを受ける。
それから社会的信用をベースにしたもので動いていただければ、若い人の足りない部分を足してもらえる。
そのかわり、発想、閃きのアイデアと、それから体力が元気な分だけ、体力が要るところ、労力が要るところをこまめに動けばいい。そういうふうに己の分を知ってやれば、うまくいく。
これは、仕事でも生活一般でも、何にでも通用する真理だ。
神霊界のあり様が、全くそのようになっている。神様も若々しい顔をしている方は発想、閃きがあって、動きもやっぱり活発だ。
反対にお年を召した神様で、パパパパッと動いてるとか、ものすごい活動力を持つひげの生えた神様というのはあんまりいない。
こういう方はやっぱり、落ちついて、穏やかに、もの静かにしていらっしゃる。
ものすごいエネルギーや活動力を持っている神霊というのは、龍のような猛々しい顔をしながら飛んでいるのであって、もの静かに飛んでる龍神なんてあんまりいない。やっぱり龍の顔というのは、炎をウワーッと吐くとか、火が燃え立つみたいな、激しい顔だ。こういう役を若い人がやればいい。
そういうことがわかって、ベストな二十代、ベストな三十代、ベストな四十代、ベス五十代を送ってきた人が六十、七十になったときは、もうベストな老人になる。
これは本当に尊い。お年寄りの持ってるところと足りないところをよく自覚して、その年代なりにいい人生を送ればよろしい、ということだ。
良き五十代をどう送るか?
さて、ある程度の年齢になってくると、世の中に何かを残したいという気持が強くなるようだ。とはいえ、何でもかんでも残せばいいというものではない。
「虎は死して皮を残す」と言うが、「あの人は死んで、借金ばっかり残したねー」なんて言われないようにしたい。
私の場合は神霊家だから、世の中に神なる道や真実なるものを残すにはどうしたらいいかと考えたことがあった。
すると、四十歳になった年の四月八日、お釈迦様の霊がいらっしゃって御神示をくださった。
どうすれば真実の道が広まるか、どうすれば世の中に残っていくんだろうか、どうすれば神の御心に合ったものを残せるか…。
そんなことはあんまり考えなくてよろしいと。真実なるものを深く追求した分だけ長く残るのだ、と。
真実なるものを広く咀嚼した分だけ、世の中に広く広まる。だから、おまえはただ真実なるものを深く広く求め続け、探求し続ける日々を送ってさえいればいい。
どういう努力の方向性が要るのか、どういうふうに広まっていくのかということは神様がいちい指示をされる、とこういうことだった。
確かに、真実を深く悟っていない人間の言ったことが、長く残るわけがない。真実を浅くしか咀嚼していない人間や、狭くしかわかっていない人間の説いたことが、そんなに広まるわけもない。
広いということは、真実なるものをあるゆる角度から、あらゆる意味で咀嚼することだ。その咀嚼があり、神の御守護があってはじめて、深く長く広く伝わるんだ、と。
それができない人間に正しい神様がおかかりになって、長く広く道が伝わるわけがない、と。
私の場合には、植松先生、私と二代に渡って出されてきた神の道、神の御心、御神示や神業の足跡があるわけで、中身がないのに世の中に残るわけがない。
そう、お釈迦様は私に教えてくださった。それは大自然の裁きに従え、ということだ。
大自然をお創りになったのが天界の神様だから、物の良し悪しは大自然が裁く。自然の法則が裁く。そして淘汰されて本当にいいものは残っていく。
本当につまらないものは、化けの皮がはがれていくし、メッキははげていく。
時間が裁くのが自然の裁きなのだ。時間とともに、素晴らしき良きものは残っていって、時間とともに、素晴らしき良きものは広がっていくのだ。これが大原則である。
その原則を踏まえないのに、いっときワーッと広がっても、またワーッと収縮するだけのこと。一時のブームに終わってしまってはいけないのだということだ。
どこかの教祖とお釈迦様の夢とは?
ところで、お釈迦様の話が出たので、余談ながら触れておこう。
この頃では、どこかの教祖が、「お釈迦様が夢に出て来て、先生に弁護を頼めと言ったので、弁護して下さい」と言ったとかいう。そのうえ、弁護士に弁護を拒否されたという。
霊界の法則からして、こんなことはありえない。お釈迦様がこういう現われ方をなさるはずがないのだ。
なぜ、そう断言できるのか?お釈迦様が本当にそうなさりたければ、教祖の夢枕にでなく、その弁護士の先生の夢枕に立つとか、あるいは他のすごく影響力のある人にかかられて説得なさるだろう。
そうすれば、弁護を断られることなどありえない。教祖の夢に出たくらいで、弁護士が引き受けてくれるかどうか、高級霊ならわかりそうなものだ。お釈迦様は、そんな愚かな方ではない。
深く広く、正しく悟った人なら、こんな愚かなことを言うはずがない。また真の仏教者であれば、お釈迦様の面子をつぶすようなことを言うはずもない。
お釈迦様が本当にそう望まれたなら、弁護を断わられるはずがないではないか。
もし本当に、その教祖がそういう夢を見たのであれば、それは何か別の邪霊がお釈迦様を騙って出たのであって、教祖が見破れなかったのだ。情けないことだ。
これは私が他の本でも、またお弟子の西谷さんが自分の本でも何度も書いて警告していることだが、観音様とかお釈迦様とか、高級神霊が夢に出てきて、ダービーの当たり馬券を教えるとかはなさらない。
そういう安直な「お告げ」があったら、何か低級霊があなたを騙しに来たのだから、身を謹んだほうがいい。
その他にも、幾つか審神(御神霊の正邪や高低を正しく見極めること)の秘伝はあるのだが、ここでは説明を省く。
こうしたものに興味のある方は、拙著『神界からの神通力」(たちばな出版刊)などをご覧いただきたい。
よその教祖の批判をくどくどする気はないが、みなさんが真なるものと偽なるものを見分ける良い材料だと思うので、触れておいた。
矜燥偏急を戒めよ
人のことはさておいて、話を進めよう。
さて、若い人の中にも、世に何かを出したい、何かを残したいという大志を抱く人がいるだろう。だがそのためには、必ず心掛けておくべき点がある。
それはこういうことだ。私は二十五歳の時に、北極老人老祖様)からこのように教わった。
矜燥偏急を戒めよ、という教えだ。
ほんとうの真実なる道を勉強する人間は、「矜」「煉」「偏」「急」の四つを戒めなければいけない、と言う。
それはどういう意味か?
「矜」は、心おごり。矜驕の矜。大漢和辞典には出ているが、普通の国語辞典などにはあまり載ってない字だ。
「煉」は、あせり。焦というのは、いわゆる心のあせりだが、燥は霊的な部分でのあせを意味する。
「偏」は、偏り。「急」は急ぐ。これはわかると思う。
知らないうちに人間というのは傲慢になっていく。知らないうちに、とにかくあせって、ものをやろうとする。また偏ってしまう。ものの考えとか進め方が、偏っていてはならない。
さらに、急いで良くしよう。急いで道を得たい。急いでいいものを会得したい。急いで道を広めたいと思う。若い人はどうしても急いでしまう。
素晴らしいものを広めたいと思うのは良いが、矜燥偏急に陥ってはいけない。これを、特に若い人間は気を付けなければいけないのだ。もちろん、年をとっても気を付けるべきなのだが。
私は、この年になるまであまり本を出さなかった。そのわけは、この矜燥偏急を戒めよ、という教えに忠実たらんとしてのことである。
二十五の頃から御神示を受けたりはできるようになっていたけれど、その戒めを胸に秘めて、もっともっと勉強しなければいけない、実践しなければいけないということで、さらに学ぶと同時に、社会に出て経営などを通じ、神の道を現実界に活かすことをテーマに実践した。
その間も、出版の話はいろいろあったが、十年、三十五まで待って三十五から本を出した。
書きたい内容は山ほどあった。しかし、実際に組織力や社会における表現が十分でないうちに、どんどん出す気にはならなかった。
神様の出そうとしておられる御心を、社会的にどう表現していけばいいのか、それには、未熟なままじゃいけないということで、もう十年、四十五までに何とかできれば、と思ってきた。
それゆえに、昨年までは出版も最小限度でとどめておいたのだ。
今年からは、もう良かろうというお許しを神様からいただいて、少々ペースを早めて本を出しているが、自分の気持としては、まだまだ追求、探求していこうということで、あまり大げさに世の中に宣伝したりはしないのである。(編註:平成七年当時)
どんなに素晴らしい神霊界の教えであっても、やっぱり急いじゃいけない。本当のものを自分が体得し実践していかなければいけない、ということだ。
神様は優しいだけじゃない
ところで、一口に神様といっても、今までの宗教で出てきたような、お優しい救いの面と、
「天地に仁無し。万物を以て芻狗となす。君子に仁無し、百姓を以て芻狗となす」という面とがある。
この言葉は、天地に仁なんてない。万物をわら人形のように扱うんだという老子の言葉だ。君子に仁なんてないんだ。
よろずの民(百姓)をわら人形のように扱い、血も涙もないように見えるところがあるんだ。大自然の掟とはそうなんだ、という教えだ。
逆説に聞こえるが、本当の天地や君子は、こうした大自然の掟に従って、時には非情とも見えることをされるのだ。
つまり、優勝劣敗、弱肉強食。ライオンが生きていくためには、カモシカやシマウマは殺されて食われる。
それに負けまいと思って、シマウマは“早い足”を得、カモシカは角を持つにいたる。大自然を見てみたら、このように優勝劣敗、優れたものが勝ち、劣ったものが負けていき、弱肉強食の原理に貫かれている。
人間は文化があるから、動物ほどあからさまには表れないが、やはりそういう自然の掟の中にあって、いいものが残っていって、悪いものが滅んでいく。強いものが残っていって、弱いものが滅んでいく。
強さというものには、もちろん先天と後天があって、この世的に強いというものと、目に見えない部分が強く輝いているというものとがある。
つまり陰と陽の強さだ。神様のお働きというのは、その両方がそろっている。
神様の働きというのは鬼と神だ。物事が、素晴らしき良きものとして広がっていくという働きが神。これがまた枯れていって、お花が枯れるように散っていくのを鬼と言うのだ。
鬼に点がない。熊野神社の九鬼宮司の鬼の字と同じだ。これを鬼神の働きという。神様は優しいだけではないのだ。
