五十すぎたら読む本(Vol.7)

第四章 一生青春で生きる秘訣とは

五十過ぎたら昔の友人知人に会うな!

これは、かなり厳しい言い方だが、五十歳を過ぎたら、昔の共通体験を持つ人とも、その話をしない方がいい。

青春時代は、懐かしいなあと思うんだけれども、実際、その時にもう一度返ってみたら、胸にとげ刺すことばかり。

それから迷っているばかり。もう、悶々として苦しい。「青春の「青」というのは未熟で青いわけだ。

一方、春は春期発動期の春だけども、もの憂い季節でもある。まさに青春時代はどろどろしていて、悶々としていて、悲しかったのだ。

私はそこにはまってしまったけれど、そんなものを一蹴して、「今が一番いいんだ」と言われたのが植松先生だ。

今が最高なんだ、若い人はご苦労さん、である。やがて天変地異があって、一番苦労するのはあなたの年代、私たちは先に行くもんねえという感じである。今は気楽ないい時代よと。

自分たちは戦争時代を過ごしているから、ものに感謝する心が湧いてくるのよ。

あなたたち若者はぜいたく盛りだから、やがて神様に戒められるもんねえというように、今が一番いいという以外には、絶対に考えないようにしないといけない。そうしないと、どうなるか。

お互いに追憶があって、また胸からうわーっと突き上げるようなものがあって、懐かしいねえと話をしたがる。

「私はああだったの」「そう、私はそうじゃなかったからねえ、うらやましいわぁ」と言っても、もう済んでしまったことだ。

人がこんな華やかな人生を送りましたよ、こんなぜいたくな体験があったよというと、自分はもう母の面倒ばかり見ていたし、子供がちょっと不自由だったし、それから夫が甲斐性なしだったから家庭だけの人生だった、と落ち込む。

「あなたはいいわねえ」と言いながら、また、ツーンと涙が出てきたり。返ってこないことだし、忘れていることなのに、人の話を聞くと、私はああだったわ、失った青春のときは返ってこないと後悔するだけ。

こうして過去の霊界に浸っていると、それに類するような浮遊霊、地縛霊がぱっと憑霊する。

ご先祖の中にもそんな霊がいるから、ぱっとお出ましになる。自殺霊、浮遊霊もぞろぞろくる。

そういう境地にぶわっと入ったら、自分でもおかしいおかしい、何か暗いなと思ったとしても、どおーんと落ち込んでしまった自分の気持ちがなかなか回復できないのである。

これは、自分の作った魔窟ヶ原にプラスして、浮遊霊、地縛霊が合体し、魔窟ヶ原から出られないように引っ張っているからだ。

暗いブツブツ老人は魔窟ヶ原の住人

そうなったら、まずは憑いている自殺霊、浮遊霊を除霊してから、自分の未来ヘビジョンを向けてコスモを上げていって、その魔窟ヶ原から出ることだ。いつまでもどおーんと沈んだ、元気のない老人というのはこういう状態に陥っている人が多い。

元気のない老人、ブツブツプツプツ悔やみの多い老人、文句が多い老人、それから姑、嫁をいじめる老人。

まあ中にはいじめたくなるような嫁もいるが、大体は、自分は厳しくやられたのに嫁はいいなあというやっかみだ。

私たちの娘の頃は奴隷みたいだったのに、うらやましいなあという心境だ。いびりたければいびってもいいが、そのかわりに生霊をもらうことになる。

そういうふうに老人や、五十歳以上の熟年者たちは、魔窟ヶ原ができるような友人同士の話とかにひきずられて、それから悪霊状態が続いていて抜け出せない人が多い。

年とってだんだん沈んでいく原因の一つだ。自殺霊を中心とする浮遊霊、地縛霊、及びご先祖さんの霊に絡みつかれているのだ。

特に先祖供養が好きな人は、先祖供養しながらそれ(追憶)をやるもんだから、そういう自殺したご先祖さんが決定的に居ついてしまっていたりする。

するとそのおじいさん、おばあさんはきょうもまたブツブツが始まる。いびりが始まる。文句が始まる。

私たちの時代はああだったという話から、今の若い者はうらやましい、あるいはなっとらんという話になる。

まさに年寄りくさい年寄りのパターンだ。

追憶霊界に入ったな、と思ったら、パッ!

「明日の方がもっと楽しいぞ!」

それは、どこから始まったかというと、恐怖の青春時代の追憶からなのである。過去の霊界の中に自分が入ってしまう。

そういう心境を短歌に詠んで、悲しみを芸術に昇華させるのもいいが、それでも過去の霊界に行き過ぎてはだめだ。

人はあくまで御魂磨きのために、魂を向上するために生まれてきたのだ。今日と明日のことばかり考えて、過去を一切振り返らない。

そういう「心外悟道無し」の気持ちの切り替え方で過去の霊界からパッと抜け出す。明るい未来の霊界に入るんだと思って、神様に語りかけるように祈るのだ。

未来はああして、来週はああして、再来週はお稽古事をしましょうねとか。

何でもいい。未来のこと、未来の心が浮き浮きわくわくするようなところへ、想念を向けて祈っていると、コスモが、びゅ~と飛び上がり、未来の霊界に光が差しては次々広がっていく。

これは五十才であろうが百才であろうが同じだ。では、亡くなるときはどうだろうか。ご臨終のときは、死後の明るい霊界のことだけ考えたらいい。

輝くばかりの死後の世界!と考える。しばらく地獄にいたとしても、イメージだけは天国界に向けながら、鬼に蹴られていたらいいのである。

死後、確実に良い世界へ行ける方法は、「死ぬ十五分前に読む本」(たちばな出版刊)という本に記しておいたので、ぜひお読みいただきたい。

もう一つ付け加えておくと、生前「思い出の魔窟ヶ原」に入り浸っていると、死んでからもそこに直行してしまうのだ。そうして永遠にジメジメ泣いているしかない。

本当に神霊界のことがわかっている人からすると、すごく怖いものだ。生きている間に霊界の法則を知っていれば、入り込んでしまったりしない。

皆さまには入らないでいただきたいから、こうやって私は書いているのだ。

この神霊界の法則をわかっておかないと、年を取ったら愚痴っぽくなったり、消極的になったりする。それは、過去の追憶の霊界に浸るところから始まる。

「あっ、やばい、恐怖の青春時代の思い出、追憶霊界に浸ったな」と思ったら、ぱっと切り替えて、前途洋々たる未来の霊界に自分がいると思えば良い。

これが幸せの方程式だと思って、切り替えをしていけば、すうっと抜けられるものである。わかっちゃいるけど気持ちが沈む、わかっちゃいるけど物悲しい、わかっちゃいるけど愚痴っぽいという、その「わかっちゃいるけど」は何なのか。

浮遊霊や地縛霊たちの手招きだと知って、「思い通りになってたまるか」と、断ち切っていくべきだ。無理矢理にでも、輝かしい未来をイメージすることだ。

臨終のときは、霊界と来世のことだけ思って、今世何があったかということを一切想念に浮かべないで、「お世話になりました。ご苦労!」と言って、ばっと死んでいったらいいのである。

昔の友と会った時は、今のことだけ話せ!

そうは言っても、昔の友達と会わなければならないことはあるものだ。市会議員にでもなろうとか思う人は、必ずやらなきゃいけない。

「やあ○○君、三十年ぶりだねえ。ずいぶん太ったねえ。ところで、今度の選挙だけど・・・」というわけで、現実世界では大事な人脈だったりするものだ。

五十を過ぎてから同窓会とかで高校時代の友人に会ったとしたら、どうするか?

やっぱり昔のことは懐かしまない。そうではなくて、今自分がどれだけ仕事に夢中かを話す。

相手がビジネスに成功していたら、そのポイントを聞く。

まわりがエネルギッシュな同年輩だと、これはすごく良い機会で、お互いに良い刺激になる。いつまでもライバルでいようぜ、というわけだ。間違っても、泣きながら『高校三年生』なんか歌ったら駄目なのは、言うまでもないだろう。

昔の友と会っても、過去の追憶に同調しないことだ。

「いろいろ良かったね、良かったね」

「うん、でも、私は今が一番幸せよ」と、必ず宣り直す。

本当は今が一番悲しかったとしても、しかし、これは輝かしい将来のための雌伏の修業の時だと思い、こうして一日一日カルマを抹消できているんだ、そうやって守護霊が導いているんだと思えばいい。

いつも、「でも、私は今が一番幸せよ」「でも、僕は今が一番幸せなんだ」と終わることだ。

昔の友は懐かしいし、気心が知れているし、自分の人生の思い出が全部あるから、「いやあ、あの頃は……」となってしまう。

多少はそれがあっていいのだが、しかし、過去の追憶の中に居過ぎてはいけないんで、しばらく居たら、すぐ戻る。必ずその昔の友の御魂返し(自分たちは年を取った、という観念を外す)をしてあげるつもりでこっちから話していく。

「でも、私は今が一番幸せよ。あなたは来年どうするつもりなの?再来年どうするつもりなの?」と、やるのである。

昔のことばっかり話していても、「もう済んだ昔のことを話さないで、明日のことを話そうよ。来年はどんな目標で行くの?再来年は?」というふうにお話を持っていって、話題をそっちへ向ける。

自分がそう言うと相手もそう思う。相手が思うから、自分も過去に半分行きかかっていた気持ちが戻ってきて、未来に向かう。会話はそういうふうにしていかないと、つい過去に引き込まれてしまう。

五十代で青春を生きるべきだ

こうして会話を進めると、煙ったがられることがあるかも知れない。昔の話に浸るのが心地良いという、魔窟ヶ原の住人になりきった人も多いからだ。でも、かなりの人はあなたのことを、

「素晴らしい人生を送っているな」と思うはずだ。それに比べて自分はどうもだめだな、年とったな・・・と反省し、あなたのことを「あの人はまだ青春時代だよ」と言うだろう。

なぜなら、青春時代というのは、未来のビジョンばかりの時代だからだ。不安で、どうなのかなと迷っているにしても、未来のビジョンばかりだ。

「私、幼稚園の頃が幸せだったわ。ああ、もう幼稚園の頃は返って来ないんだわ」

なんて言う高校生はいない。

高校生で、そんなこと言ってたら、なに年寄りくさいことを言っているの、と言われる。友達とお話しするのでも話題はみんな未来のことだ。

「進路どうするの?」「どこの学校に行くの?」「就職するの?」「どんな人と結婚するの?」「どんな人が理想?」「えっ、来週デートなの?」と、話題はほとんど未来のことだからだ。

第一章の始まりに「若々しい年寄りこそ最高」と書いたが、こういう人のことなのである。決して珍しくはない。

もう亡くなったが、先の笹川良一さんにしろ、新聞の一面に出てくる政界、財界のトップの人は、年齢的にはみんなじいさんだ。

けれども、この人達の考えること、話すことは、みんな現在と将来をどうするかばかりだ。青春時代の追憶に浸っているなんてことはまずない。

「○○界の第一人者」というような人は、五十代でも八十代でも、百歳になっても、みんな青春時代を現在生きているのだ。だから若々しいのである。

老人クラブには喝を入れに行け!

だから、老人クラブに行くのはお勧めしない。老人クラブでは繰り言ばかりだからだ。

植松先生のお父さんも九十二で亡くなられたが、生前には老人クラブなんか行くものかとおっしゃっていた。

将棋指しには行っても、あんな老人たちと一緒にいると悔やみ事ばかりで嫌だと言っていた。

そしてご近所のおばさん相手に、「社会党は間違っとる」などと政治談義をやっていたのである。本当に元気澄刺たるものだった。

だから、老人クラブには行かない方がいい。もし行くならば、「あ、そんな昔の話はやめましょう。Jリーグの話をしよう」とやった方がいい。

このように、霊界の法則がわかっている人は話題の調節ができるのだが、世間一般の人はそういうことがわからないから、ただの昔話になってきて、ズルズルと魔窟ヶ原へ行ってしまう。

類は友を呼ぶで、同じようなのが集まっている。

もし、そういう場面に出会ったら、すかさず喝を入れてやる。向こうが目覚めたら、自分も頑張るぞと再び自分に喝を入れる。

「心外悟道無し」。五十歳以上になったらそういう技術を持たないと、一生青春といういい状態が維持できなくなる。

十才以上年下の人と話そう

よくお孫さんができてから、すごく若返るということがある。「私も、とうとうおばあちゃんになったのよ!困っちゃう」とか言っているわりには、顔はニコニコ、お肌も以前よりツヤツヤしている。

孫の顔を見たら老けこんだ、という人はまずいない。去年まではブツクサ文句ばかりいってた干し柿みたいなじいさんが、孫をつかまえて、「ヨッちん、タッチ上手でちゅね。ベロベロバァー!」とか、見てる方が恥ずかしいほどになる。

これを霊的に見るとどうか。孫とおじいちゃん、おばあちゃんというのは、大変うまい具合に補完し合うのである。

孫がいると可愛いというだけではない。幼い子は先天の気を膨大に放出している。体温も高いのだが、気をあんまり放出するので自分も暑苦しい。

ところがおじいちゃん、おばあちゃんの傍にいると、お年寄りは気を吸収してくれるから孫も気持ちがいいのだ。だから、赤ちゃんはお年寄りに良くなつくのである。

年を取った人は、孫の気を吸収するし、元気をもらうから、とても気持ちがいい。

だから、おじいちゃんと孫が一緒とか、おばあちゃんと孫が一緒にいると、両方が気持ち良くいられるのだ。

お母さんやお父さんには、子供が暑苦しくて、まめったいし、息苦しいと感じる場合もあるが、おばあちゃん、おじいちゃんにはいい。初めて子育てをす若い夫婦で、おじいちゃん、おばあちゃんが近くにいて助かるという人が多いのは、こういうわけなのである。

お年寄りと赤ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんの関係は、一般法則として成り立つ。この法則を五十代の人にあてはめると、「なるべく十歳以上年下の人と話すべきだ」となる。

大体、若い人というのはエネルギッシュで暑苦しい。自分が、自分が、と自己主張が強いが、そうやって、赤ちゃんほどではないけれど気を発散する。

だから十歳以上年下の人と話をすると、その人が放出する気を吸収できるのである。

五十代の人はなるべく四十代以下、三十代か二十代の人と。六十代の人は五十以下の人と話をしていると、自分よりも若い年代の話を吸収できる。

だいたい、若い人から吸収していこう、若い人に入っていこうとする心が、やっぱり若いわけである。

共通項の話題がないから、お互い「ああ、懐かしいねえ、ああだねえ」などと同調することもない。

例えば、五十代の人が「高校三年生」を話題にしようとしても、四十代の人は吉田拓郎とか陽水、三十代の人はユーミンやサザン、二十代の人はミスチルのことしか話そうとしないから、同調しようがないのである。

すると話題は、必ずいかなる時代にも通用する普遍的な話になってくる。青春時代に触れないで、普遍的な未来と現在の話をするのがいい。例えばこうだ。

僕の年代になったら、こうだからねと言うと、相手も、その年代になればそうなのか…と思って、未来を思う。

そこで、こちらも相手の「未来を思う」という感覚を受けられるのだ。

二十代、三十代の人には、「君たち将来どうなるつもりだ」と、なるべく話をさせる。

「私たちは、ああしてこうして」と未来を思うという話になるから、それを吸収すると、自分もその人たちと話した後、「未来を思う私」というのができる。

それなのに過去の繰り言を言い始めると、元気のある人でも、私もそう言えば過去がどうのこうのと、繰り言霊界へ引っ張り込まれてしまう。

十歳以上年が離れた人と話をすると、自分よりも若々しい気と、若々しい想念と、未来に発する思いを受けやすいから、自分もそういう世界に感応できて、ますます若くなるのである。

手相家西谷さんが若い秘密

もちろん二十歳下でも三十歳下でもいいわけだが、年代がそれだけ以上離れた人と、なるべく会って話す努力をすることによって、自分も自分の年齢を忘れる。

私の弟子で、大手相家の西谷泰人さんなど、自分の年齢をお忘れじゃないかと時々思ってしまう。

もう、四十一なのにどう見てもそうは見えない。

今だに「学生さんですか?」と言われるというからすごい。その秘密は、いつも二十代を中心とした多くの若者の手相を見ているからなのだ。

もうこんな年になって、というお客さんでさえ、三十代前半であり、五十代のお客さんのパーセンテージは少ない。

いつも西谷さんは二十代の中盤から後半のそういう人の手相を見て会話をかわし、未来の話をしているから若いわけである。

彼は歌手でもあるから、セミナーなどで歌ったりするのだが、その歌も「ねえ、ダーリン私の…」なんて、十代の人が歌う歌ばかりだから、本人は自分の年齢を全く忘れているのだ。

その西谷さんと同じように、「それは面白い、やろう!」なんて言う私も、全く年齢を忘れているのだけれど。だから五十代の人はもっとそうすべきなのである。

老人クラブに行くくらいだったら、私の若者たちの教育塾に入ってみるのもいいだろう。体力が足りない分は、自分のペースでやればいい。

そういうところにドンドン積極的に出入りする努力をしていかないと、外的環境に影響されて、誰だって老ける。

やっぱり「心外悟道無し」を助長するような環境づくりを自分で作ること。それだけで随分違ってくる。

ワールドメイトの会員さんであり、ジャパニーズ・ブラインドゴルフ協会(盲人の方のためのゴルフ協会、現・日本盲人ゴルフ振興協会)の専務理事であった河合氏を見てもわかるが、なるべくお年を召した人の傍にいたがらない。

ご本人は七十四だが、五十代にさえみえる若々しい方で、七十四にはとうてい見えない。五十代以上の方には、素敵なお手本でいらっしゃる。

気のいい場所に出入りせよ

それともう一つ、気のいい場所に出入りするということが大切だ。想念とか、思いとか、霊界について書いてきたが、想念とか思いの前に気の世界がある。

明るく前向きで発展的で、意欲に満ちた伸びやかないい気という場所に行くと、いい想念が助長される。

反対に、暗くてじめじめして冷たいような気の場所に行くと、暗い想念が引っ張り出されてくる。

気というのは、目には見えないが本当に大きく影響するものだ。たとえば、高級ないい気を発する霊が来ると、自分の過去の思い出からいい部分ばかりが抽出されて、ものすごく幸運で素晴らしい人生を送ってきた感じがして、今の自分も元気になってくる。

このように、人は目に見えない世界の気に、実は大きく影響を受けている。だから、若々しい気をドンドン受けるべきなのである。

逆に、暗くて、寒くて、頽廃的な低級霊が来ると、自分の過去の記憶の中の辛かったこと、暗かったこと、重かったこと、悲しかったことの思い出だけを、記憶の中からその霊が抽出するのだ。

だから、私は駄目なんだとか、未来は大変だから自殺しようとか、だんなを殴ろうかと考えるようになる。

「嫁さんが最低なんだ、こいつと結婚したために、わしの人生がぼろぼろになったあ」と思ったり言ったりすると、奥さんが、「私こそ、あなたと一緒になったために、ひどいことになったのよ。あのとき、マルオさんがいたし、ヒサオさんもいたのに、マルオさんとヒサオさん、どっちかと結婚すれば良かったわ」とくる。すると、

「僕にだって、ハナコさんとミドリさんがいたんだ」とか言いながら、お互いが争い始めることになる。

どこが発端かというと、そのマイナスの霊が来たときだ。マイナスの気を受けるようなところに行くと、夫婦で喧嘩したときの思い出ばっかり出てきて、おまえとは喧嘩ばかりだったという気持ちになる。

実際は楽しいときもいっぱいあったとしても、おまえとは喧嘩ばかりだったと思ってしまうのだ。

いい気を受けて、いい霊が来たときには、「おまえとも楽しい日々が続いて、いろいろといい思い出があったよね」というふうに、過去の辛いことも多かったとしても、その思い出だけが出てくるのである。

神社の近くには住まない方がいい

そのように、いい気に触れるときにはいい記憶の部分が抽出され、悪い気に触れると悪い記憶の部分が抽出されるという法則がある。だから、なるべく、気のいい場所に出入りすべきだ。

特に神社に行くといい。それも、稲荷神社はさける。また、神社でも何となく暗かったり、みずみずしさがなかったり、汚かったりする場所、歓楽街のど真ん中などにある神社は避けた方がいい。

気の良い神社の見分け方は、『神社で奇跡の開運」(たちばな出版刊)という本に詳しく触れておいた。

また、いくら気のいい神社でも、長く居過ぎるとまずいこともある。気のいいところに行こうと思って、死んだ霊も集まってうろうろするからだ。だから、神社のすぐ傍に住むというのはなるべくやめたほうがいい。

気のいい人と会おう

なるべく気のいいところに出入りして、それから気のいい人と会う。「強運」で書いたのと原則は同じである。

なるべく気のいい場所、気のいい人と会うことだ。そうすると、やはりよかった思い出が浮かんでくるから、未来もいいんじゃないかと思う。

年下と会うことを勧めてきたが、しかし年上の人であっても、前途洋々たる未来を話すような年上だったらいいのだ。あの年であんなに未来のことを思っているんだから、私も頑張らなきゃと思うようになる。

先の河合さんもそういう人だ。とにかく、発する気のいい人のそばにいると、自分にも、そういう部分が出てくる。

これは、「心外悟道「無し」の切り替えのエネルギーも要らない。切り替えする努力も要らない。

ただ、気のいい場所に出入りする努力をして、気のいい人と接触するだけで、自然にいいほうへ向かっていくから、年をとってきたら一番ありがたい方法だ。

こうした他力を活用して、環境を整えていくと、最小限度の労力で運が開くし、未来が明るくなる。近くに気の良い場所が見当たらなければ、ワールドメイトのセミナーに参加するのもいい。

若者が多いし、移動する神社のようなもので、気が回復する。

方位や家相でも気を良くすることができる。いい家相の家にはいい気が集まり、良い霊が集まる。いつもきれいにお掃除をして、よい神霊をお迎えするつもりで清めれば、ますます良くなる。

そうすると、想念もいいほうへ行くし、若々しい気持ちも返ってくる。若々しいということは、いい気に満ちていることでもあるのだ。

先天の気を衰えさせるな

ところで、なんといっても先天の気に満ちているのが、赤ちゃんだ。

十月十日、赤ちゃんがお腹の中にいる間呼吸はしていない。それでもおでこから先天の気を吸収しており、これを胎息という。

十月十日の間、先天の気を胎息によって蓄えているから、可愛いし、元気だ。エネルギッシュというのは、気のもとが凝結しているから元気なのだ。

年をとってくると、その赤ちゃんの頃のような先天の気が、徐々に使ってしまって少なくなってくる。

仙人の修行というのは、赤ちゃんの頃のような先天の気を体中にめぐらす。小周天、大周天と言って、体中にその先天の気をめぐらすことによって、真の仙人は赤ちゃんのような顔をしている。

私は、ガブリエル天使とミカエル天使に拝顔したことがあるが、赤ちゃんのような顔をしているのだ。

人は気が減衰することによって老化する。物の考え方も、成熟してくるならいいが、衰退になってはいけない。

だから、絶えず気のいい場所である神社とか、気のいい人とか、いい家相の家とかを選ぶと良い。旅行も、吉方位を使って行くとよい。手っ取り早くいい気を吸収する方法なのだ。

花や観葉植物で邪気払いインテリア

年をとったら、お花を植えて咲かせるのも良い。

お花の妖精、フェアリーというのはいい気を発するから、家の中をいつもきれいにしてお花をいつも飾っておくことだ。

それから、樹木の気というものがあるから、森林浴とかもいい。観葉植物もいい。これは家相の先生に聞いてなるほどと思ったのだが、観葉植物というのは偉大な働きをしてくれる。

例えば、運の弱い店というのは、衰運の気を持っている。すなわち先天のいい気が乏しいから、運が悪いわけだ。

そうすると、運が悪い人が集まってきて、ますます運が衰退してくる。運が悪い人というのは、マイナスの低い気を持っているから、私もそういう人としばらく会っていると、吸い取られてしまってどっとくたびれる。

私の場合、また神様から補給するのだが、観葉植物を使う手もある。葉の大きいもので、一・五メートル以上の観葉植物を部屋の真ん中に置くと、そこからオーラが出て、邪気を払っていい気を与えてくれる。

こういうのをお部屋に置くだけでいい気を維持できて、悪い気を払ってくれるからやってみられるといい。

詳しくは、拙著「グリーンインテリア観葉植物の伝説』(たちばな出版刊)をご参考されたい。

霊的に最高の居住環境を!

同じ神社でも、樹木のない、森のない神社というのは、邪気が凝結して神がいない。

神社にはあれだけたくさんの人が参拝するから、われよしのお祈りや執着心を放出する人もいる。

それでも邪気がない神社、すがすがしいという所には必ず森がある。ただし森も、花咲くような花園ではなくて、花が咲かないような、マツとかスギなどが良い。

また、葉が大きくて、樹木の木霊が生い茂っているものというのがいい。それらは神気をたたえて、邪気を自然に払ってくれるパワーが強いからである。

そういう森の多いところの家、森の傍の家に住むことが良い気をもらえる秘訣だ。

でなければ、観葉植物をいっぱい置いて、樹木の気を受けることによって、いい気を維持できるようにするのがいいだろう。

家に樹木があれば、邪気を払い、いい気を蓄えてくれる。

そういう家に住み、そういう部屋に住む努力をすることによって、いい気が維持できる。

その「気」をおろそかにしてはならない。ここまで述べてきたように、そのいい気を保つことこそ、若々しい人生を生み出す秘訣の一つなのである。