守護霊を動かせ!(Vol.3)

第二章 守護霊の力を引き出す方法平成八年二月十一日の講演より

守護霊の力を引き出す逸話 その1

こういう有名な話がございます。

何かのときにお話ししたと思いますが、ある地方に霊能者のおばあさんがいました。

そのおばあさんに一度ご祈祷していただくと、ものすごい霊験が現れて、どんな病もたちどころによくなるというので、大変な評判になっておりました。

それを聞きつけたある真言密教のお坊さんが興味を持ち、それじゃあちょっと自分もご祈祷していただこうと思い、そのおばあさんのところへ行ったところ、おばあさんのあげる真言がちょっと変だった。

何とかという、大日如来か何かの真言をあげているのですが、どうやらそのおばあさん、間違って覚えているらしい。というので、お坊さんが言いました。

「おばあさん。あなた間違って覚えてますよ。本当の真言は、これこれこうですよ」

これを聞いたおばあさんは、いままでありがたい真言だと信じて、一生懸命にあげてきたけれど、「間違っていたのか。それにしても、間違った真言でもなぜ効いたんだろうか」と疑問に思った。

そして、正しい真言に直してお祈りしたら、たちまちのうちに神通力が消滅し、病を治すという評判の法力は、二度と戻ってこなかったというのです。間違って覚えていた方が、法力が出ていたのです。

どこまで本当の話なのかよくわかりませんが、この話には、法力というものの真髄が示されているような気がいたします。

もちろん、真言というのは間違っていようが何だろうが、ただ信じてあげればそれでいい、というものではないでしょうが、基本はやはり「信じる力」です。

このおばあさんの場合も、一字一句間違いなく、正確に真言をあげていたから法力が働いていたのではなく、一心不乱に信じていたからです。

仏様の方も、何かちょっと違うんじゃないかと思っていたのでしょうが、まあ何となく似たようなものだし、それに何より一生懸命に信じているのだから、ということで動いていたのではないかと思います。

たとえば、方言にもいろいろありますけれど、新潟弁では「い」と「え」の区別がはっきりせず、「いきません」が「えけません」になりますよね。

和歌山に行くと、「お膳を片づけなきゃ、全然きれいにならない」というのが、「おでんを片づけなきゃ、でんでんきれいにならない」となります(笑)。

「ぜ」が「で」になる。ですから、「全然ダメ」というのは「でんでんダメ」になるし、「全然無視する」というのは「でんでんむしする」になる(笑)。

それでも、何となくそれっぽいから、通じないことはありません。

仏様も同じで、ちょっと訛があるなと思いながらも、これが仏様を動かす真言だと確信して、一生懸命に祈っているからというので、動いてくださる。やはり、絶対的に信じて捧げる祈りには法力が働くわけです。

ところが、それまであげていた真言が間違いだとわかった途端、きっと自信をなくしてしまったのでしょう。

「絶対そうなんだ」という信じる力が弱くなって、結局、法力が消えてしまったのです。

法力の原則は、「そうなんだと信じる力」であって、言葉が少しぐらい違っても問題はないのです。

法力の本質がわからない人の中には、真言の一字一句にこだわる人がいるかもしれませんが、大切なのは法力を信じる力なのです。

このおばあさんの場合も、「ちょっと違うけれど、まあ東北弁かな、和歌山弁かなと思う程度だから、それでいいんですよ。

信じる力に仏様が動いたんだから、間違っているとか間違っていないとか、そんなことは全然気にせず、ますます信じて頑張ってください」と言えば、ああそうかいなと思って、まだまだ霊験が現れ続けていたはずです。

守護霊の力を引き出す逸話その2

中国の古典に「列子」というのがあります。私の好きな古典の一つですけれど、老荘思想や神仙道に関する逸話が載っている、とても面白い本です。興味のある人はぜひ読んでみてください。

その『列子』の中に、ある農家の主についての話があります。

あるとき、その農家の主のところに二人の食客が来ました。

食客というのは、政治はこうあるべきだとか、哲学はこうだとかいっては遊説して回る、いわゆる思想家です。

孔子も孟子もそうやって遊説していたわけですが、諸子百家というのはだいたい食客で、いろいろな封建領主のところへ行っては、軍事とか財政とか政治はこうあるべきだ、というようなことを提言していたわけです。

その食客が二人、旅の途中に、「ちょっと休憩させていただきたい。おトイレを貸していただきたい」ということで、一軒の農家に立ち寄った。

「列子」には、おトイレを借りるために農家に立ち寄った、とは書いてありませんが(笑)、私は多分、おトイレを借りたのではないかと。

私自身、ときどきコンビニエンスストアでおトイレを借りるからそう思っているのですが、とにかく食客が二人、農家に泊めてもらったわけです。

そして、二人が話して言うことには、「いやあ、何とか街の何とかというお大尽様は、いまをときめくお方で、飛ぶ鳥も落とす勢いじゃ。あの人にお願いして「うん」と言ったら、何でも叶う。世の中で叶わないものは何もない。

あれほどすごい権力と実力を持っている人はほかにはいない」ということだった。

その話を傍らで聞いていたお百姓、「ほー、飛ぶ鳥を落とすっていうのはすごいな。それに、その人が「よし」と言ったら叶わぬものはないというのは驚きだ。

どんなことでも実現するのかあ。その人のそばにいれば、何でもものが叶う。

だったら、私もぜひその人に会って、できたら食客として置いてもらい、仕官への口ききをしてもらいたいものだ」と思って、都に出てきたわけです。

そして、その人のところへ行って言いました。「お聞きしたところによると、あなた様が「よし」と言ったら、叶わぬものはなく、どんなことでも必ず叶う、ということでございますが、ぜひ、食客として置いていただきたいのですが……」

すると、そのお大尽様は尋ねました。

「おまえは何ができるんだ?」

「うーん」

「いやあ、何ができると言われましても、大したことはできません。人様に自慢できることは何もありません」

このとき、二人の会話を聞いていた先輩の食客が数人いて、彼らはこう相談します。

「こいつは、どこかで噂を聞きつけてやってきた田舎者に違いない。何の取り柄もないのに食客に取り立ててくれなんて、ふてぶてしいにもほどがある。ちょっとからかってやれ」

そして、農家の主が一人になったところを見計らって、そっと話しかけます。

「ここの主様は、あんたの言うように、飛ぶ鳥を落とすほどの権勢を極めた方で、主様が「よし」と言って叶わぬものはない。

その主様が言っていたけれど、ここの食客になって何か仕官の口を求めたいのであれば、あの高い塔から飛び降りて、それでケガ一つしなければ食客にしてやると、そう言っていたぞ。

それをやれる人が好きで、貴いと言っていたぞ」

まさか、本当に飛び降りるとは誰一人考えていなかったのですが、この話を聞いた農家の主、

「あっ、そうですか。叶わぬものは何一つないといわれるほどの人が言うことだから、やれるんじゃないか。きっとできるでしょう」と言って、本当に飛び降りてしまった。しかも、本当に傷一つない。

これを見た先輩の食客たちは驚いた。

「すごいやつだ、あいつは。あの高い塔から飛び降りて、ケガ一つしないなんて、ひょっとして、神仙道を究めた人かもしれない。見た目は普通の姿をしているけれど、ものすごい術を身につけた、この世の人ではないような神秘の仙人かもしれない」

「いやあ、たまたまっていうこともあるからねえ」

「じゃあ、もう一度試してみよう」ということで、農家の主に、再度、囁きかけます。

「あそこに流れている大きな川の底には、金銀財宝が沈んでいるといわれているんだよ。その金銀財宝を拾い上げてきた者には、仕官の口もきいてやるし、どのようなものにも取り立ててやると主様はおっしゃっているよ」

「うん、そうおっしゃっている。前にもあそこに飛び込んで、財宝を引き上げた男がいて、すぐに仕官の道にありつけたんだったよな。でも、あの激流だからな、俺たちにはとても真似できないよ」

まったくのインチキ話だったのですが、これを聞いた農家の主、

「あ、そうですか。たしかに激流だけど、叶わぬものは何一つないといわれている方がおっしゃることだから、できるんじゃないですか」と、言われた通り、本当に激流の中に飛び込んでいった。

「本当に入っちゃったぞ!」

すると、からかい半分で適当に嘘を言ったのに、本当に金銀財宝を川から引き上げてきた。

「あっ、本当にあったんだ。すごいやつだ、あいつは。ああ見えても、きっと仙人に違いない。高い塔から飛び降りても傷一つないし、あの激流に飛び込んでも無事に上がってきた。

普通なら流されてしまうし、あれだけの時間もぐっていたら窒息する。でも、あいつは平気でやってのけた。やっぱり普通の人じゃない」

「しかし、どこからどう見ても、道を究めた人には見えないけどねえ」などと言っている間に、主様のお屋敷から火の手が上がった。

屋敷の蔵には絹の織物が何反も入っている。これを燃やしてしまうようなことがあったら一大事。

誰か火の中に飛び込んでいって、反物を運び出してくれるやつはいないのか。みんなが互いの顔を見合わせて、「お前、行け」と言い合っているとき、お大尽が言った。

「あいつに頼んだらやってくれるかもしれない。

あの高い塔から飛び降りても無傷だったし、たまたま冗談で言ったのに、本当に川の中から金銀を持って帰ってきたから、あいつならできる」というので、そのお大尽が農家の主に直々に頼んだ。

「おい、あの蔵の中には絹の反物がいっぱいあるんだ。火事で燃えてしまう。何と運び出してくれ。な、頼むよ。お前ならできる」

「私にできるでしょうか」

「絶対やれる。お前なら大丈夫だ」

「そうですか。主様がそうおっしゃるなら、きっとできるでしょう」と言うや否や、火の中へ飛び込んでいって、絹の反物を一つ残らず運び出してきた。しかも、火傷一つない。

「信じる力」が神通力を引き起こす

これを見た主や食客たちの驚きといったらなく、彼の前に土下座して言った。

「まことにお見それいたしました。さぞかし、神仙の道を究めた、この世ならざる 達人に違いありますまい。これまではまことに失礼いたしました」

さんざんからかってきた食客たちも、「いや、最初は田舎から出てきた、ただの百姓で、何の取り柄もないやつだと思っておりましたので、主がああおっしゃっている、こうおっしゃっていると、からか半分で申し上げまして、まことに失礼いたしました。

しかし、からかい半分で適当に嘘を言ったにもかかわらず、塔から飛び降りてもケガ一つせず、適当に言った激流の底からも、金銀財宝を拾い上げてもケガ一つない。

今度は、火の海の中に飛び込んで、火傷一つせずに反物をすべて運び出してこられた。これはもう驚くばかりの神通力でございます。

さぞや、その道の達人とお見うけしますが、どこで修業をなさったのでしょうか。

一つ、お名を明かしていただきまして、私どものために、またその素晴らしい神通力をご発揮願いますでしょうか。まことにご無礼つかまつりました。ははー」と、誰もがみな、地面に顔をすりつけんばかりにお辞儀をする。

それを見た農家の主は、しばらくきょとんとしていたが、やおら口を開いたかと思うと、こう言った。

「はあ、そうだったんですか。私は何の取り柄もない人間でございます。別に達人でもないし、修業もしてないし、神仙の道も知らないし、神人でもないし、何もやっていません。普通の百姓です。

ただ、私の家にお泊まりになった食客さんから、ここの主様はいまをときめく大尽で、飛ぶ鳥を落とす勢いで、この方が「よし』と言えば叶わぬものは何もないと聞いたものですから、ここで食客になって、何かお引き立てをいただければと思ってやってきただけです。

そして、あの塔の上から飛び降りて、無傷だったら取り立ててやろうというお話、それから、激流の川の底から財宝を拾い上げてきたら、取り立ててやろうというお話を、そのまま素直に信じてやっただけでございます。

ここの主様のおっしゃったことは、必ずそのとおりになると聞いておりましたから、全然、不安はありませんでした。

そしてまた、火の中へ飛び込んでいったのも、「お前なら大丈夫だ」と言われたからでして、ただ信じて、夢中でやっただけのことでございます。

何の修業もしておりません。ただ、すごいお方だと思って、そのまま信じて一生懸命やっただけな「んです」

「えっ、本当に?いや、そんなはずはない。その道の達人でなければ、あんなすごいことができるはずはない」

「いえ、本当に、ただの百姓なんです。修業なんて何一つやっておりません」

「もしそうだとするならば、それでもいいから、これからも頑張ってやってください。もし、何の修業もしてなかったとしても、これだけのことができるんだから、これからも当家の食客として、すごい力を発揮してくださいよ」

「いや、もうそれはできません。私は、いまをときめく方で、飛ぶ鳥を落とす方で、できないことは何もないという方の言うことだからと思って、ただただ素直に信じてきたがゆえに、塔から飛び降りても無傷だったし、あの激流の中に飛び込んだら、たまたま、なんか光っているものがあったので拾い上げてきただけです。

そして、「お前なら大丈夫だ」とおっしゃったから、それをひたすら信じて火の中に飛び込み、主様がおっしゃったとおり火傷一つしなかった。ただそれだけのところが、私のことを田舎者だと思って、からかって言ったということがわかった途端、私の心の中から絶対的に信じる力がなくなってしまいました。

ですから、もうできません。再びああいうことはできないです。

主様のおっしゃった言葉をただそのとおりに、バカ正直に一点の疑いもなく信じたからできたことであって、疑いの心が起きてきた私には、二度と再び、ああいうことはできません」

と言い残して、そのお百姓のおじさんは田舎へ帰っていった。

そして、彼をからかった食客たちは、二度と再び人をからかったり、田舎者だからといってバカにしなくなり、態度も謙虚になった、という話が「列子」に載っています。

これも、最初にお話ししたおばあさんと同じです。

「これは、霊験あらたかな真言なんで、これをあげれば間違いなく病気が治るんだ」と信じて、間違った真言であっても夢中であげていたから、次々に病気が治っていった。

ところが、「いや、正しい真言はこうですよ。あなたのは間違っていますよ」と教えられて、「えっ、間違ってたのか……」と思った途端、確信する力がなくなって法力が消えてしまった。

一方、「列子」に載っている物語はどうかというと、お大尽様の言うことは間違いないと信じているときには、高い塔から飛び降りてもケガ一つなく、川へ飛び込んでも溺れず、火の中に飛び込んでも大丈夫だったけれど、それが嘘だとわかった途端、同じことは再びできなくなった。同じでしょう?「列子』は、物語を通して教えているわけです。

神通力とか、摩訶不可思議な力というものは、バカ正直に「そうだ」と信じたときに現れ出てくるものであって、疑いの心を持ったりがっかりしたりして、絶対的に信じることができなくなった時点において、摩訶不可思議なことはできなくなってしまう、ということを教えているのです。

絶対的に信じる力が守護霊を動かす

何が言いたいかというと、守護霊がいるんだと信じれば信じるほど、本当に守護霊が来てくれるし、守護霊が守ってくれるんだと一点の曇りもなく信じて向かえば、守護霊は大いに力を発揮してくれるのです。

「守護霊はいるとは思うけれど、本当に守ってくれているのかなあ。

私のような者は、守ってくれないんじゃないかしら」などと疑ってかかったら、守護霊も面白くないでしょう。

半信半疑で、「いるかいないか、わからないから、証を出してほしい」とか、「本当はどうかわからないけど、いるという話だから、一応、祈ってみます」という態度で祈っても、動いてくれます。

愛と真心があって、一生懸命にお祈りすれば守護霊は動いてくれます。

しかし、自分は神様と守護霊様に守られているから、どんなことがあっても絶対に大丈夫なんだと、一点の疑いもなく信じていれば、守護霊との間に、一枚岩のごとき強い信頼関係ができ、どんな危機が起きても守ってもらえる。

そういう体験をいくつか経て、揺るぎない自信、確信が生まれるから、法力や神力というものが確立するわけです。

お蔭が出なかったとしても、「神仏が悪いのではない。己の誠が足りなかった、愛が足りなかったからだ」と思って、次に徹底してやってみると、また必ず証が出てきます。

すぐに証が出る場合と、少し時間を待たなければならない場合と、いろいろありますが、やれば必ず出てきます。

徹底的に証が出るまでやることです。そういう体験を、私は何千回となく積み重ねてきております。だから、神仏に対する信仰が、体験を通して揺るぎないものになっているわけです。

我が出たとき、執着心が出たとき、愛と誠が究まらなかったとき、怠りがあったとき、そういうときに守護霊や神仏が動いても、それは本物ではない。

しかし、「何かあったら必ず神様が助けてくれる。最後に愛は勝つんだ」と信じている人間は、そのように守られ、そのようになっていくのです。

その絶対的に信じるという一点。これを見忘れたら、法力はなくなってしまう。

ああ、いままであげていた真言は間違っていたのかと、確信して祈れなくなった途端、法力が落ちる。騙されていたのか、からかわれていたのかと思った途端、もうできなくなる。

しかし、心の底から信じきって一生懸命やっているとき、人間はこの世離れした力を発揮する。それが法力、超能力、神通力というものなのです。

もちろん、愛と真心が究まってなければダメですし、愛と真心がなければ正神界の神が動きませんが、愛と真心だけあってもダメなのです。

際立った奇跡とか、証とか神力というものに対する揺るぎない確信。一点の曇りもないくらい信じきっている心。

そういう自分自身になったら、法力がブワーッと出てくるのです。守護霊の存在もそうなのです。

守護霊が交替したら、前の守護霊はどうなる?

守護霊が替わると環境が厳しくなります。

厳しい環境と優しい環境、どちらがいいかといわれれば、私たちは優しい方を好みます。

だから、環境が厳しくなると、守護霊のことが好きになれなくなるかもしれません。

しかし、環境が厳しいと悲観するよりも、「厳しい環境でも乗り越えていける自分ができるんだ。より素晴らしくよくなるんだ」というふうに受け止めなければいけません。

どんなに環境が厳しくなったとしても、いい方へ、いい方へ考えるようにしないと、せっかく強力な守護霊に替わっても生かすことができません。

先日のセミナーで質問がありました。

「私は受験生ですが、いままで守って導いてくれていた守護霊様が受験用の守護霊様だったとすると、交替していなくなっちゃったら、入試は大丈夫でしょうか」と(笑)。

守護霊が交替すると、主になって導いてくれる霊が替わり、また、導いてくれる角度も変わります。

試験のときは試験のときで、それまで導いてくれていた守護霊が応援に来てくれますし、交替した守護霊が前の守護霊より頭が悪いということはありませんから(笑)、心配しなくて大丈夫です。

頭は自分のものですからね(笑)。

守護霊が交替したからといって、帰ってしまうわけではありません。責任の所在が変わるだけで、同じ社内にいると考えていいでしょう。

上司は交替したけれど、別の部署にいるし、いつでもいえば守ってくれるし、忙しいときは応援に来てくれる。

年末大売り出しのときには、前の上司も一緒に売り場に立つし、クリスマスセールのときには、全社員総動員で対応する。いってみればそういう感じです。

いつもクリスマスセールのような、守護霊が守護せざるを得ないような環境に自分自身を置けば、忙しくて霊界に帰っている暇なんかなくなります。

「たまにはケーキを手みやげに、嫁さんの待つ霊界の実家に帰りたいんだけど、一生懸命に精進しているものだから、帰るに帰れなくてねえ。交替したから帰れるかと思ったんですけれどね。

霊界の嫁さんに会う間もないですよー」

「じゃあ、ケーキを転送すれば?」

「ああ、そうですな」ということで、霊界ファクスでケーキを転送すると、向こうにボーンと届く。

そんなことができるんですかなどと、質問しないでください(笑)。たとえばの話です。霊界は、意思と想念の世界ですから。

そのように、一生懸命に精進努力していたら、前の守護霊様も応援に来てくれる。

必要なときには必ず来てくれるから、安心してください。

守護霊の存在を実感できる時とは?

それはともかく.「交替すればきっとよくなるんだ、素晴らしくなるんだ」と信じること。これが大事です。

交替しても、「新しい守護霊様、私のことなんか思ってくれないんじゃないかなあ」と思うと、「せっかく守ってやろうと思って来てるのに、お前、そんなに信じられないんなら守ってやらないぞ」と、守護霊様、怒りますよ(笑)。

守ってくれているのかなと、疑心暗鬼になる人もいるかもしれませんが、守護霊様は間違いなく守ってくれています。

守ってくれてはいるのですが、人間が一生懸命やっていないから顕現してこない。だから、守ってもらっているという実感がないだけのことなのです。

守っているかどうか試してみようとばかりに、高い塔から飛び降りたり、激流に飛び込んだり、火の中に飛び込んでいったりしてもダメですよ。

そんなことをするより、何でもいいから一生懸命にやることです。そうすれば、いままでとの違いを何か感じるはずです。

「どこか違うぞ。何かが応援しているんじゃないか」という気持ちになるはずです。はっきりいって、何か一生懸命にやっているときでないと、守護霊の動きを実感することはできないのです。

なぜなら、一生懸命にやっているとき以外、動いてはいけないという法則があるからです。

守護霊はあくまで守護する霊だから、人間を支配してはいけない。何かを発願し、志を持って本人の御魂が発動したときに守るのです。

守護する霊だから「守護霊」というわけです。

それが、先に立って道を案内してくれるのを「指導霊」といいます。しかし、精進努力しなかったら、指導霊も動きません。

指導霊よりもっとレベルが高くなると、守りながら指導しながら、本人と合体する。御本霊みたいなもので、これを「主に護る」で「主護霊」といいます。

本人と合体し、どちらがどちらか分からなくなります。一つの志を持ち、よき心を持って一生懸命に努力している人は、不即不離になってしまい、どちらがどちらか分からなくなってしまいます。

こういう状態が本当なのです。

何でも守護霊様のお蔭と思う

守護霊の存在を実感できない人、疑問に思っている人が、たくさんいらっしゃることと思います。

「守っているのかしら、守っていないのかしら。私が勝手に、守護霊様の働きだと思い込んでいるだけかしら。

いままで運に恵まれてきたのは、守護霊様の働きではなく、実は、お父さんとお母さんの徳分だったのかしら。最難関の入試に合格できたのは、守護霊様の導きではなく、たまたま答えを知っている問題が出たからなのかしら」

そんな変な理由で、守護霊の導きに疑問を抱いた途端、あの法力が消えたおばあさんみたいになってしまいます。

そうではなく、どこまでも守護霊のお蔭だと思い続けなければいけません。そうすれば、守護霊も動かざるを得ない。このあたりは、『強運』(たちばな出版刊)にも書きました。

何かいいことがあったら、「あっ、これは守護様のお蔭だ」と言っていたらいいのです。

「ああ、これもまた、守護霊様のお導きだ。守護霊様、本当にありがとうございます」

「えっ、いやいや、わし、何もしとらん。お茶漬け食べてただけだ」(笑)

本当にお茶漬けを食べていただけでも、心から感謝されれば、もっと守護しようという気になりますよね。

「この艱難辛苦を乗り越えるときに、守ってくれるのは守護霊様に違いない」と言うと、「えっ、艱難辛苦?あっ、そうだ、もっと守ってやらなきゃ」

こちらがいつも守護霊に意識を向けていれば、向こうももっと積極的に守護するようになります。

守護霊だけはありません。「宇宙創造の神様、仏様、守護神、守護霊の皆様」というふうに複数にしておけば、みんな巻き込めますね(笑)。

守護霊だけにお祈りしていたら、神様、仏様が遊んでしまいますからね(笑)。

いっぱい名前をあげてお祈りすれば、の神様をはじめとする神々様たち、忙しいですよ(笑)。

名指しで言われたら、神様も仏様もそばに来ざるを得ないでしょう。私はいつもそのようにしています。

守護霊様のお蔭、神様のお蔭、仏様のお蔭と信じていたら、向こうも動かざるを得ない。

これが法力、神通力の原則であり、不可思議なることが絶えずやれる人の方程式です。それを教えているのが「列子」の物語です。

失敗やショックがあっても、守護霊との一体感を失うな

神仏に祈願をして素晴らしい奇跡が続き、守護霊にもお祈りして奇跡が続いたのに、ある日突然、結果が出なくなることがあります。

「絶対に」と信じてやったのに、反対の結果が出たら、誰だってがっかりします。一生懸命祈ったのに、逆の結果が出たら、もう祈る元気もなくなります。

これが一番問題なのです。

ちょっとしたショック、ちょっとした不信感のために、やる気をなくしてしまうのは本当によくない。「前はうまくいったのに、なんでかな……」と。

霊界というのは複雑ですから、方程式どおりにいかないことが多々あります。だからこそ、謙虚にやらなければいけないのですが、結果がよくなかったら、やる気をなくしてしまいます。

そういうときには、「まあ、たまにはそういうこともあるんだ。きっと、どこかに我があったんだ」と考えて、それ以上深く悩まないことです。

一回でも二回でも、ちゃんとした素晴らしい結果があったのなら「それが本当なんだ。今回のことは、何か神様の尊いお計らいがあってのことに違いない」というふうに、深く考えずに、気にせずにやるべきです。

そしたらまた、パッと戻ってきます。

そのとき、「何だったんだろうか、あれは……」なんて思ってはいけません。思った途端、ガクンと落ちます。

守護霊様のお力によって、不思議な出会いとか証を得たのに、最近、証がない。

だからといって、「いままで証だと思っていたのは、証ではなく錯覚だったんじゃないかしら」とか、「たまたまそうだったのよ」などと思ってしまうと、守護霊との一体感がはずれていきます。

一回でも二回でもいいことがあったら、何でも守護霊様のお蔭だと思った方が得ですね。

自分は守られていると信じて生きている人間と、守られているのかな、守られていないのかなと心が揺れ動いている人間と、神仏の守護なんかないと考えている人間を比較したら、精神的な強さが全然違います。

先ほど申し上げた、「列子」と、法力をなくしたおばあさんの話。
この二つのことを頭に入れて、守護霊の存在を一点の迷いもなく確信するときに、驚くべき、体でウワーンと感じるような、すごいご守護を感じていただけると思います。