観音様の真の姿はの神様だ
ところで、なにかしら重大な問題があるという人は、特に観音様に発願することをお勧めする。
観音様は、実は宇宙創造の神(宇宙創造のの神様)の化身なのである。
なるほど密教では、大日如来が胎蔵界・金剛界を統率する主神とされている。いわば、3
会社でいう代表取締役は大日如来であり、観音様はそのそばにおわすに過ぎないとされる。あるいはまた、西方阿弥陀浄土の場合も、勢至菩薩と観音様が脇侍にいらっしゃって、阿弥陀如来が主である。これらの詳細と理由については、拙著「大天運」(たちばな出版刊)に書いてあるが、ここでもう一度整理してみよう。
まず、大日如来様も阿弥陀如来様も、その世界、その霊界における代表取締役的存在であることは間違いない。そして、本当は◎神である観音様の立場は、いわば創業者の会長さんが会社のそばでお掃除をしている、というようなものだ。例えば、「おじさん、受付はどこですか」
「ああ、あのあたりに受付があるんじゃなかろうかな」と。そこで会社に来て、
「あの、前のお掃除のおじさんに聞いて来たんですけど、ここが受付ですか」
「あの方は会長さんですよ」という、ありそうな、なさそうな、話のパターンだ。
創業者の会長は代表取締役社長を息子さんに譲ったが、会社のことを心配して、入口でそういうふうにお掃除をしながら、お客の応対をどうしているのか見ている。それで、息子の社長を後で呼んで、「おまえな、おトイレはもっときれいにしないとイカンぞ。会社というものは、そういうところで見られるんだからな」と説教する。こういう立場におられるのが観音様だ。
水戸ご老公が諸国漫遊に行くのも同じだ。なぜ「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」に人気があるかと言えば、例えば将軍様であり、あるいは副将軍である人が身を変えて、末端の庶民のところまで来て、悩みや苦しみをじかに解決してくださる、というところに感動するわけだ。
また、「遠山の金さん」も、お奉行が、普段は「てやんでえ!」なんて言いながら、女の子にめっぽう甘い、遊び人の金さんを演じている。それでいて肝心なところでは、最高裁判所長官として現われてズバッと悪を裁く。そこに見る人はみな胸のすくような思いを味わい、末端の人情の機微をくんだお裁きに感動するのである。
観音様と水戸黄門、人気の秘密はひとつ
こうした人気時代劇のあり方は、まさに観音様の姿そのものだ。日本の仏様の中でも、観音様が一番人気があるのはなぜか。三十三相に化身されるから、という理屈で好きになるわけではあるまい。昔から、何だか観音様が好きだという人が多いが、実は、観音様が◎の神様だということを、皆が魂の奥底で知っているからだと私は思う。
の神様だからこそ、どんな姿にも化身できるし、最高に偉い方だからこそ、へりくだることができる。代表取締役を天照大御神様にお譲りになり、あるいは大日如来にお譲りになって、自分はその下に下って人々を救済しているという、神霊界の水戸黄門のものだ。
西方浄土では阿弥陀如来様が代表取締役だが、本当は観音様が一番偉い。偉いがゆえに、へりくだることができる。ここを読み取らないと、観音様の本質がわからないわけである。
阿弥陀如来よりも、大日如来よりも、みんな観音様が好きだというのは私たちの魂の奥で、あれが◎の神様のお姿だということがわかっているからに他ならない。
代表権は譲っていて、ご隠居できるお立場にもかかわらず、一番下にまで
の神は私たち人間を、一番愛する者として創造なさった。かわいい神の子、神の宮と思し召して、どうしているだろうかと心配のあまり、巷に降りて、人々の具体的な悩み事に答えてくださっているのだ。一番偉いがゆえに、一番下まで下がって生きることができる。
浅草の観音様にしても、神々しく高い山の上にはいない。ああいう繁華なところにあって、庶民の一番下のところに救いの手を差し伸べておられるお姿がよくわかる。最高の神だからこそ、へりくだることができるという素晴らしさを、我々は知らなければならない。
時代劇の研究と観音様のお姿と、どこで結びつくのかわからないが、神霊世界の一つの実相は、こんなところにも現われる。私たちもそのお姿、生きざまを見習って、そこから勉強すべき要素を見出すべきであろう。
神様の役回りの違いを知って祈ろう
ここまでをまとめれば、観音様は
の神様だということだが、神霊世界の直接の窓口は守護神、守護霊だ。さらに毎日、産土様にお願いすると、生活、家庭全部を守って下さるパワーがいただける。
問題点があるときは、それらの神様に具体的に霊的な悩み事をお願いするとよい。そして、因縁が重いと自覚する人は観音様にお願いするといい。こういうふうに、神霊界の神々へのお祈り(お願い)を使い分けるのが大切なのである。
それぞれの神仏には違った役割があるので、私たちもうまく使い分けをして、日常生活のバランスをとればいい。これは神道の精神をベースに置いた、自由自在で、一番便利というと失礼だが、ただいまの幸福に最も密着した、とらわれのない、有効なお願いのしかたといえるのではないかと思う。
神々様のお名前をたくさん知っているからといって、飼っている猫が逃げたから探してください、とか、虫歯が痛いのを何とかしてくださいとか、八百萬の神々様ひとりひとりにお願いしても、何百倍も御利益があるというわけではない。神様それぞれの役回りを知って、それぞれの守備範囲に従ってお祈りするのが効果抜群であり、礼儀にも則っているというものだ。
交番のお巡りさんは、財布を落としたとか空巣に入られたという時は、親身になって相談に乗ってくれる。電気を使いすぎてヒューズが切れたからなんとかしてくれ、と言ったらお巡りさんは困ってあきれるか怒るだろう。
それと同じことで、あまりトンチンカンなお願いをされたら、神様もあきれて(?)、叶う願いも叶わないこともあるということだ。
とりあえずは、身のまわりのことにおける、産土様、守護神、守護霊、観音様、この神仏のお役割を正しく知って、お願いしていただきたい。
守護霊は守護霊を紹介し、神様は神様を紹介される
それではここで、目に見えない神霊世界では、神仏が実際どのように働かれているのかを紹介しよう。
皆さんが少々努力すれば出来ることではなく、相当努力せねば叶わぬ目標に発願して向かうとしよう。
例えば、「司法試験に合格するぞ!」と決心したとする。その決心に、守護霊は大喜びされるだろう。守護霊は人が魂が向上することで情熱を燃やしている(御魂が発動している)時に、喜んで応援をしてくれるのだ。
ところで、あまり知られていないことだが、守護霊にも得手不得手がある。
「よし!それならば応援してやろう。でもワシは政治や法律はニガ手なんじゃ商いなら得意なんじゃが・・・・・・」という場合に守護霊はどうするか。先祖の守護霊団の中から、生前、村長だったり、法律学者だったような、法律が得意な守護霊や指導霊を捜し出し、「なんとかこの子を司法試験に受かるようにしてやっておくんなまし」とか言って応援を頼むのである。
そうすると、途端に守護霊パワーの後押し(追い風を受けるような感じ)が起こり、勉強に没頭でき、無意識に試験に出そうな勉強をさせてくれたり、勉強せざるをえないような環境をつくってくれる。とまあ、そのように専門の守護霊の紹介がある。
これは、神々同士でも同様である。私が神社などに行ってお願いごとをすると、「その願いなら、熊野の神の所へいくがよい」とか、「その願いならば、箱根の神の所へ行きなさい」などと直接教えて下さる。
やはり神々同士も分担制をとって、紹介システムを行なっておられるのである。こうした、どの神様がどんな願いに抜群のお力を発揮されるかについては、いくら書いても書き足りないし頁も足りない。「神社で奇跡の開運」「全国の開運神社案内」(ともにたちばな出版刊)という本に詳しく著したので、そちらを参照されたい。恐らく、祈願の正しい行いかたの秘伝統に、目からウロコがポロポロ落ちる思いがすることと思う。
前世のたたり霊が、今世たたっているというのはウソだ
しばらく悪霊を追っぱらう話から脱線して、「神仏への願いごとのしかた」について述べたので、少し話を戻そう。
ここで、たたり霊について少しふれておこうと思う。たたり霊とは何か。例えばAさんがBさんに、強烈にひどいことをしたとしよう。毒を盛るとか、失脚させるとか、B さんが女性なら騙したあげく売ってしまうとか……。 Bさんは死んだ後々まで、この時の怨みを強く持ち続ける。そして、Aさんの家の子々孫々に至るまで、「あの時の私の痛みを思い知れ!」とばかりにたたり続けるのだ。これがたたり霊というものである。
こう言っては何だが、どこの家にも一人二人は憑いている。特に古い家や、庄屋や金貸しだった家、殿様の家系などで、不幸が続く家などは要注意である。
ところで、「たたり霊は、なぜ子孫にたたるのですか。ひどいことをした本人には、死後も霊界まで追いかけていってたたらないのですか」という質問について考えてみよう。
実はたたり霊は、恨む相手に直接たたることもあるのだ。たとえば恨む側の霊が、「こんちくしょう、あの野郎」と思って死に、たたり霊とか怨霊になる。そして、恨まれた方がこの世にいる場合には、もちろん直接たたる。また両者ともに死んでいても、同じレベルの低い霊層にいる場合、霊と霊とは凄まじい戦いをする。とは言っても、およそ汚らしい戦いっぷりだから、あまり想像しない方が良い。
また、怨んでいた者と怨まれている者の両方が死んで、両者とも土地因縁の地縛霊や浮遊霊になった場合にも、「こんちくしょう」とばかりに霊と霊が闘っているのだ。
ところが、恨まれている方の霊が、地縛霊、浮遊霊屋敷因縁霊などになっていない場合(霊界へ行ってしまっている場合)、どうなるだろうか。その場合、恨まれている者は、本人の内面性や霊層に合った霊界にそのまま行くことになる。恨んでいる者が、念力だけで憎い相手の所まで行けるんだったら、「ソレッ!」と思って追うのだが、例えば「こんちくしょう」という一念で天国にまで追っかけていけるのか、というと、そうはいかない。地獄の世界へなら追って行けるかも知れないが、天国に行ったり上の霊界には行けない。
まとめると、死んでから霊界のはっきり違うところ(霊層)に行ってしまうと、海外に行ってしまって音信不通というのと同じく、全くコンタクトが取れないのでスッカリあきらめるしかなくなる。だから、その子孫にたたるしかないのだ。
よく、「あなたは前世にこういう悪いことをして、その時苦しめた霊が今世たたっている」などという霊能者がいるが、そういうことはほとんどない。私が見る限り、九分九厘までない。たたりというのはほとんどが、家代々を怨んでいる霊か、先祖の霊か、土地因縁の霊だ。
前世から今世までその人自身を恨み続けている霊など、現実にはない。恨まれた本人が霊界に行っている期間は、たたり霊は前述のように、追いかけていけないのだから、たまたまその家に生まれた子孫にたたるのだ。
もっとも、その怨まれている本人が、生まれ変わってくる場合がある。そんな時、家をずっと恨み続けてきた霊で、「あっ、わしが、前世、二百数十年前に恨み続けておったやつが生まれてきやがったな」と霊的にある程度わかる者なら、再び怨む場合もあるが、そういうことは一万件に一つあるかないかで、ほとんどないと考えていい。
前世を恨んでいた霊が今世も恨んでいるとか、よく霊能者の手記で書いているが、霊界の法則から考えてあり得ないことなので心配はいらない。
以上で浮遊霊や憑依霊への対処法、たたり霊の実相などについてある程度ご理解いただけたことと思う。その他の霊の除き方や、正しい先祖供養などについては、3章、4章で詳述することとしよう。
第二章 吾輩は霊能者である-正しい霊能力の会得法
神人と凡人はここが違う!
高級な人格に高級霊が合一する
私の行うご神業のひとつとして、書を書く、という神業がある。自慢するつもりはないが、これはなかなか大変な作業である。
たとえば、「不二」という字を書く。これは数年前にカレンダーに使ったから、見てくださった読者もあると思う。
あの「不二」という会心の一字が完成するまでに、実に四百枚も五百枚も書きつぶしをした。そのうちに、基本がピチッと頭に入り、手に入り、体が覚えたことを感じ出す。それでも、一緒におられる書の先生が「よし」と言うまで、これならよろしいという作品が出るまで、何時間でも書き続ける。
いつもおおよそ二十時間、早い時でも休みなしで十五時間は書き続ける。休憩なしでずっと書き続けていると、最後には朦朧となってくる。四百枚も、五百枚も、これでどうだ、ということを繰り返す。その間、手を抜いたものは一枚も書かない。それでは自分の修業にならないし、進歩が止まってしまうからだ。私は滝に打たれたりする修業はしないが、ここまで来ると書も難行苦行の域と言えるかも知れない。
これでどうだ、これでどうだ・・・・・・。飽くことなく繰り返すうちに、ついには意識も朧としてくる。そして、それでも繰り返すうち、ある時突然、全ての神経がプチーンと切れるような感覚に陥る。これをプッチーニの境地と言うかどうかは知らないが、この時初めて自分ではない何かがフワッとおかかりになる。これが神がかりだ。何の努力も精進もないところに高級霊の神がかりはない。
高級霊能者と低級霊能者ショパンの霊?それがどうした!
分野によっては、私にも初めから神がかられることもある。しかし書の場合は、最初から神様がお力添え下さっては、この世的な私自身の書道の実力が上がらないから、神様はそうはなさらない。
しかし、これは大変に辛いことである。とりわけ、忙しい時や、なかなか神がかりがない時にはこれほど辛いことはない。しかし、第一章でも触れた通り、高級霊ほど人の御魂の成長を第一義にお考え下さるものである。自らの実力も向上させつつ、高級神霊との交流も行われる、一石二鳥の「神示の創作」でなければ、それは単なる霊媒による自動書記の域を出ない。
「神示の創作」とは、神が人の体を使ってストレートに作品を創るのではなく、神がかり状態に、自分のオリジナリティーが加味されて創り出される、神と人との共同作業、共同作品ということだ。それでこそ、神と人との他力と自力が片寄らず一つに組み合わされた、正しき神人合一なのだ。
こんな話がある。音楽のオの字も知らず、音符もまったく読めず、ピアノを弾いたこともない一人の女性にショパンの霊がかかって、見事にショパンのピアノ曲を弾きこなし、ショパンの生前未完成の曲を完成させたという。しかし、私にいわせれば、「それがどうした」ということになる。
その霊媒体質の女性は、ただ単にショパンの霊とやらに100%使われただけの人生で終わってしまうからだ。その女性は、そのピアノ弾きの霊が来ない時は無能な人間である。
なによりも、人として、せっかく授かったこの貴重な人生を、他の霊に貸してしまったのだから、実にもったいないことだといえる。
一個人として、今世、自分の魂や芸術性の向上や、世の中への貢献がどれだけ出来たかというのが、人間がこの世に生まれてきた第一の目的ではないか。それを考えると、霊に使われただけで満足してしまっているというのは、実に愚かな生き方だと言わざるをえないのである。
もう一度言うが、霊媒というのは、その人間に霊が操って言わせている(やらせている)だけであり、神人合一にはほど遠い。人間が神のごとくになり、神が人間のごとくに出ているというのが神人合一である。そこには神と人との区別はもはやなくなる。
霊媒が神人合一ではない理由は簡単だ。神人合一の場合、神霊と自分が一体になりつつも、最終的には、神の応援を得た自分がする。それが霊に使われている霊媒と、神人合一の決定的な差である。
だから、現実において出来る限りの努力を続け、あるレベル以上まで越えないと、神様も神がからないで待っておられる。いつも神がかっているということは、神の目から見て「よし」というまでのこの世的な努力をいつも行っている人である。この状態において、正しくいつも神がかっている。これが高級な神がかりであり、真の神人合一である。低級な神がかりは、霊のほうからやって来て、ああだこうだとすぐに何でも教えたがる。霊が主導権を持っていて、人を使っているだけだ。
高級霊は人間の魂の育成と自由なる意志を尊重しているので、その人間がぎりぎりまで努力した後でないと絶対にお出ましにならない。いつでもホイホイと出現し、手とり足とり教えすぎることは、その人の魂の育成にならないし、正神界の法則にも反するからである。
だから「吾輩はショパンの霊だ」とか、「ワシは釈迦だ、イエスだ」と自ら名のり出で、ベラベラとしゃべるような霊はろくな霊ではない。高級霊は無闇に名のることはされないし、自分と同レベルまで才能や知識を必死に磨き上げて来た人間にしか決してかかって(合一して)はいけないという霊界法則を、厳しく守っておられるものである。
努力し、十分練ったものでなくては答えない
私も神霊界のあり方に学び、お弟子がいろいろ私の意見を聞きに来ても、「どうしましょうか?」という漠然とした質問にはいっさい答えないことにしている。一方、自分たちで十分考えて、やるだけやって練り出した案を、「これでどうでしょうか?」と持って来た場合は、即座に右か左かの意見を出すのである。
これも高級霊が私たちに指導されるやり方と同じであり、努力もしない者に最初から答を教えて怠け者にしたくないという教育からである。
もちろん何も努力していない者には、神仏も私に口を閉ざして何も教えてくださらないので、私自身にいい発想が出てこない、ということでもある。
神仏がこうされるのも、やはり人としての進歩を願ってのことである。それは書に限ったことではない。絵画でも、短歌でも、仕事に関しても同じだ。何事においても、習作の労を惜しむ人間には、高級霊が神がかって神人合一の創作を行なうことは決してできない。
巷の霊能者の中には、「世のため人のためになればと思い、霊能力を磨きました」と喧伝する人物が少なくない。だが、その人物の顔をじっと見てみるとよい。霊能力や超能力を得たいという背景に、もしも「先がわかれば便利だ、人の心がわかれば便利だ」という無精な動物心が見え隠れしていたならば、まるで理の如きお顔をなさっているだろう。
人としての努力の輝き、魂が発動した輝きがあれば、高級霊は喜んで降臨され、叡智も神力も惜しみなく与えて下さるはずである。しかし楽をしたい、無精をしたいという動物心には、その心通りの動物霊が憑くばかり。だから狸っぽい顔なのである。
習作惜しむなかれ
習作を繰り返して大作ができ上がる。
私が書く書の作品一つにしてみても、何百枚も書きつぶした中の、いい作品を一つだけ書の先生に選んでいただいたものだ。幾つもの中から選んだものを、さらにもう一回推敲し、それからまた推敲し、そして書く。印刷に出して返ってきても、さらにもう一回推敲することすらある。労を惜しむ心根は、神心から離れることに他ならないと、自ら戒めているのだ。
短歌を作る場合も同じだ。
言っている意味は同じでも、調べや言霊の響きの妙にこそ、神なるものの息吹が宿るのである。しかし、あまり言霊の響きに凝りすぎて、意味が伝わりにくくなってもいけない。そのように、俳句でも短歌でも、推敲の労を惜しまない。
音楽でも日本画でも、油絵でも、そして編み物でも同じである。最後の最後まで精魂こめて煮詰め、やり抜くことを嫌う無精な精神では、神なるものは絶対に動かない。だから、短歌でも絵でも色紙一枚の書でも、秀れた作品ができるまで何度でも何度でも習作を繰り返さなければならない。習作が秀作を呼ぶのだ。そうして、初めて大作ができ上がるものなのだ。
「習作の労を惜しむなかれ」という短い言葉の中には、それだけの神なる教えが入っている。一厘のエッセンスであるが故に、何にでも自在に応用可能な神言なのである。プロポーズでも、何回か習作の労で失敗して初めて、一番すばらしく感動的なプロポーズの方法を会得し、いつか「これは」という人と結婚できるものだ。プロポーズといえど、やはり練習が要る。その練習ができていない人は、ここ一番でチャンスを逃してしまうことにもなる。
私の弟子で、練習で女性にプロポーズをする、という部分だけ聞きかじって実行し、周囲からひんしゅくをかった者があるが、そのあたりは読者の皆さん、自分で責任はとってほしい。
ともあれ、プロポーズにまであてはまる真理である。かのピカソも、描いて描いて描きまくった。その圧倒的な量の中から、人々の心に永遠に残るような珠玉の名作が生まれたのだ。ピカソほどの天才でさえ、あの名作群のには、その何倍もの描き損ねと習作の労があったのである。素人ほど、そこを見誤って最初からいい作品を描こうとして気負い、結局一枚も描けぬまま挫折したりする。
最初からいい作品を仕上げたいなどと気負えば、描く絵の絶対量が少なくなるのは当たり前である。ピカソに限らず、大画家、大作曲家というのは圧倒的な量の習作を行う。その為の労力と時間、これを惜しむ人は、大作は永遠に仕上がらないのだ。私の場合、二晩や三晩で一枚の絵を仕上げるから、短期間で仕上げているように見えるかも知れないが、短期間のうちに膨大な数の練習をしている。最小限の知恵は神様からいただいているが、絵を描くことの労を惜しまない。書でも絵でも短歌でも音楽でも、何度も何度も練習して、書きつぶし、やりつぶしということを、人の何倍もの量でこなしている。
私が開発した一つ一つの祈祷会(現在、三百種類以上ある)も、神法悟得会(神人合一の法伝授の会)の神法でも、何の苦労もなくすらすらできたものはない。幾つも幾つも試行錯誤を経て、しかる後に初めて、これは間違いない、というものだけを祈祷会や、悟得会として皆さんに発表しているのだ。
私の作曲の中では、伊勢の楽曲が一番よくできたと言われるが、それまでには、やはり、「剣の舞」、「炎の舞」、「白山」、それから「鹿島」、「箱根」、「伊勢」と、幾つも幾つ習作を重ねてきた。これを称して、「どんどんやればやるほどに、だんだんよくなる法華の太鼓」方式という。
習作を繰り返して初めて大作は仕上がる。
習作の労を惜しむなかれ。
高級な神霊は高級な人格に合体してくるが、その高級な人格とは、より低いレベルから、より日常的な努力のたゆまぬ繰り返しによって次第に作られるのである。
高い理論体系を得るには、作者の生きざまを知れ
正しい神がかりのことについて、もう少し詳しく述べてみよう。
歴史上の非常に高い人格の霊と合体・合一することは、自分を高める上で最良のやり方のひとつだ。神人合一ならぬ霊人合一というべきか。
たとえばトマス・アクィナス。この人は中世ヨーロッパにおいて、「神学大全』を著し、キリスト教精神の体系を基礎づけた偉人中の偉人である。この、トマス・アクィナスの境地境涯に近づくには、どうすればよいと思うだろうか。
「神学大全」を読めば良い、と考えた方がいると思う。きっとあなたは、「神学大全」を読めば、彼の理論体系を頭で理解できることだろう。しかし、トマス・アクィナスがどういう日々を送ったかまではわからない。「神学大全」は、トマス・アクィナスが生涯かけてキリスト教一筋に打ち込み、没入し、その末に体系づけた、いわば理論的模範解答の塊のような本である。しかし、答えが書いてある本を読めば自分も同じ答えを出せるわけではない。答え(体系)だけを知りたければ、「キリスト教概論」を見れば足ることだ。
トマス・アクィナスの言わんとすること、その体系の奥にある境地境涯を知ろうと思ったら、その人の生きざまをつかむことが大切なのである。
元々、バイブルや「論語」などは言行録であって、体系づけてまとめられたものではない。また、お釈迦様の場合も、言行の全てがキチッと法則性を持って体系づけられているというわけではない。しかし、だからと言って「釈迦の教えもバイブルも、体系だっていないから尊くない」と言う人はいない。かえって、古来名著と呼ばれるものは、全く体系的でないものの方が多い。なぜか。
それは、仏典やバイブルの中味が、全て高い境地境涯からほとばしり出た言葉だから
お釈迦様の言葉も、ほとばしり出た言葉である。そして、そのほとばしり出た言葉を勉強して、ほとばしり出る前のお釈迦様の境地を推し量り、味わい、感じることが重要なのだ。
孔子「論語」も、愛弟子たちとの対話の中からほとばしり出た言葉そのものだから、一→二→三と、理論的に書いてはいない。コーランもそうだ。コーランはご神示そのもので、ガブリエル天使からほとばしり出たものである。ほとばしり出た言葉とは、すなわち言霊であり、命が宿っている。そのほとばしり出たものを勉強しながら、ほとばしり出た息吹を吸収して、ほとばしり出る前のものを体得する。これが御魂の恩頼を得る読書術である。無論そのためには、「神学大全」などの体系を重視して理論づけられた本よりも、その人の生き様自体がほとばしり出ているような、御魂をゆり動かす感動がある本を選ぶのがよいだろう。
やはり何百年、何千年も人々の批判の目を乗り越えてきた名著というのは、それはすばらしい輝きがあるものである。生きざまがすばらしかった人の著書には、命が宿っているのだ。
近世の日本人では、大塩中斎(平八郎)の「洗心洞箚記」が、陽明学ではすばらしい。佐藤一斎の「言志四録」もいいが、少し理屈が勝ち過ぎているきらいがあるようだ。やはり大塩中斎は、生きざまがすばらしかっただけに、思いの丈を記した著書も光っている。これが西郷隆盛となると、思想はすばらしいのだが、どうも少々血なまぐさい匂いがぬぐい切れない。日本の陽明学では、大塩中斎の「洗心洞箚記」が抜群に素晴らしいので、ぜひお読みいただきたい。
さらに時代を遡り、日蓮上人の御遺文だったら、やはり「開目鈔」だろう。
日蓮上人の代表的著作には「開目鈔」と「本尊鈔」があるが、とりわけ「開目鈔」は現代語訳でもいいから読んでほしいものだ。日蓮上人の気迫と情熱が一文一句からほとばしり出てくるのを感じるだろう。それは、命懸けで法を求め、あらゆる弾圧にも屈することなく仏法を広め続けた日蓮上人の生きざまそのものであるのだ。
こうした名著を一心に読んでいる時は、実は書物に宿る著者の霊と感応している時なのだ。だからよき知恵が次々と浮かんでくる。生きざまがすばらしかった人の、ほとばしり出た言霊を集めた本は、名著であると同時に、次元の違う本だとさえいえる。こうした本を一冊でも多く読み、魂の畑をせっせと耕し続けることを、読者の皆さんに「神霊界に感応する読書法」としてお勧めしたい。
天と日常から学べ
「次元の違う本を読め。むだな駄本は不要なり」
実はこの言葉は、私が何か気になった本を読んでいた際に、「おまえ、そんな本を読んでいたら、時間が無駄だ」と神様から言われたことなのだ。
「次元の違う本を読め。むだな駄本は不要なり。天と日常から学べ」
逆説的に聞こえるかも知れないが、本を読んで得た叡智とは、本から学んだものではないのである。良著に宿る息吹を受けさせていただくつもりで本に向かう。するとその息吹に触れることで、「あっ、そうか」とばかりに、天来の叡智がハッと降り来たるのである。これが天から学ぶ読書法である。
それに対し、日常から学ぶことというのは、本や活字ではないところの、体験や実践から編み出したノウハウであり、ポイントであり、コツである。これらは生活の中に散在する、生ける智そのものである。
一厘が大切、ということを、講義等で私はよく話してきた。
一厘とは何かというと、法則、原理原則のこと。体系とか論理ではないのだ。体系、論理というのは人間が頭でつくったものだが、一厘はそうはいかない。
たとえば「コーヒーは、ブルーマウンテンが八でモカマタリが二の割合が一番うまい」というようなポイントが一厘である。私は神霊研究家であるが、またコーヒー研究家でもある。その私があらゆるコーヒーを試してみた結果、ブルーマウンテン八、モカマタリニで、ミネラルウォーターを使って、炭火焼きにしたものが最もおいしいというのが、私が得た結論である。これは体系ではない。私の体験からにじみ出た、コーヒーをおいしくいただくためのオリジナルなコツである。
こういうコツやノウハウは、万事日常から学ぶことだ。いかに本を読み、机上で勉強を重ねても、まず実際に作らずして最高の妙味は得られない。禅の極意、茶道の極意、およそ道の真髄は皆同じである。日常の中で体験し、実践して、天と日常からあますところなく学ぶのだ。そういう日々を送り続ける人が、偉才、聖人、道はじめの人となる。創業した人、ものをつくった人というのは、皆自然に、そういう学びと研鑽をしている。まずは人類の叡智を結集したものを勉強する(良著の息吹に触れる)。そして、さらに超えた叡智を天から受ける。その上に、自分が日常から得た工夫をつけ加える。それがオリジナルなものをつくる法則である。
少なくとも、「最もおいしいコーヒーの入れ方は」と、本で仕入れた知識を得意気に語るレベルの人は、絶対にオリジナルにはなれないだろう。まずは実践あるのみである。
聖人賢人・凡人の違い
「人知を集むるなかれ」が聖人の境地である。
偉才、聖人、道はじめの人というのは、昔「人知を集むるなかれ」と言っている。人税の頭で考えたものをいろいろ勉強し、頭にいっぱい入れている。その知識で山ほど本を書き、話をする。そんな人知の組み合わせだけの人は、二級賢者でしかないということだ。無論、人知も集めることができない人は、三級賢者か四級賢者ということになる。ともあれ、人知を集めただけのレベルでは、賢いことは賢いが二級賢者である。一級賢者、すなわち本当に賢い賢者は、知識でことをなすのではない。
「聖は天を希い、賢は聖を希い、士は賢を希う」という言葉が「近思録」にある。
聖者というものは天を慕い願う。天というものになりたい。天はいかに思っているのか、いつも慕い願っている。そういう人が聖者である。
次の賢者というものは、孔子のような、すばらしい聖者を仰ぎ、ああなりたいものよと思う。志は尊いが、しかし人を目標にして頑張っているのが賢者だ。
その下の士とは、武士や、教養ある階級の人間のことである。その者たちは賢者を見習って、ああいう賢い人間になりたいと思って勉強しているものだ。
「聖は天を希い、賢は聖を希い、士は賢を希う」
この言葉はそれぞれの霊層の違いをも表わしている。次元が徐々に、一級、一級、三級、四級と、落ちてくるのがわかる。一級の人物は聖人。天を慕い願うというのは、日々天と日常から学んでいることを示しているのだ。
あなたは今、聖人は天を慕い願うものだと知った。「聖人」というと大仰だが、何も難しいことはない。天を慕い願い続ければ、あなたも聖人になれる。大切なのは、この行ないと学びを誠を尽くして続けることである。一つの誠を貫くということは、不退転の精神状態を持つということであり、人に不動の精神状態を培う。
そして、不動の精神で天と日常から謙虚に学び続けることで、真実の知ということが、やがて体得できる。頭ではなく、天と日常から学び続けるという自分の精進を、貫き通して誠を尽くせということなのだ。そうした足跡があってこそ、真実の知を解することができる。真実の知というものを解することができたら、天来の神なるものを受けることができるのだ。やや難しい話になったが、これが神人合一の叡智を授かる法なのである。
