「気水の枯れ」は、こうして起こる
では、神人合一を目指す上でマイナスとなる、人が陥りやすい意欲減退の理由を、私が神様に直接伺ったご神示でここに紹介してみよう。
自分を高めるにせよ、人々を救うにせよ、気力が低下してやる気が起きない時がある。いわゆるスランプだ。これを、古く中国の聖人は「気木の枯れ」による、とした。そういう時には、どうしたら良いか。
まずは、気木の枯れの原因を検討してみよう。大きく分けて九つある。
気水の枯れベスト九
気木の枯れは、雑安の念、これ一位、
不休の体耗、これ二位、
駄弁の浪費、これ三位、
性交過剰、これ四位、
食欲乱過、これ五位、
気熱消耗、これ六位、
知解低下、これ七位、
意念衰耗、これ八位、
業行衰微、これ九位なり
とある。
人生が何か虚しく感じる。誰にも覚えのあることと思うが、なぜそう思うかというと、気の水気、すなわち気水が枯れていることによる。
「気水」とは人間の気力そのもののことである。人は気力が尽きて疲れると、横になってよく休もうとする。これは、まさに気水を補給する方法の一つなのだ。特に、夜の十一時ぐらいから一時ぐらいは子の刻であり、水気の発動する時間帯となる。それゆえ、十一時から一時の間によく寝た人は、水気が補給できて、朝、元気になるのである。逆に二日三日と徹夜を重ねると、気水が枯れてきて、お肌もパサパサになる。
ところで私が神業の際に、夜遅くまでよく起き続けている理由は、子の刻には、みずみずしく満ちあふれる水気の媒介によって、神様からいろいろな叡智が降りてくるからである。子の刻は最も元気を回復できる時間であり、また神様との交流が行いやすいご神業タイムでもあるのだ。
こう書くと、「子の刻に起き続けて神様と交流していると、そのうち元気が枯れてゲッソリやつれてしまうのでは・・・・・・」と心配される向きがあるかも知れない。しかし、これはむしろ逆である。私などがご神業で徹夜する場合には、神気を受けて、神気の気水を補給しているから、寝なくてもみずみずしい顔をしていられるのである。話が少しそれたが、では一般に、気木の枯れとはどこから起きるのかを詳述したい。
その一 雑念妄想が疲れの第一原因
人が気力を失い、疲れてしまう第一原因は、雑念妄想を描くことにある。何かを行なう前から心配し考え疲れてしまう人がいるが、これなど、雑念妄想の典型例といえる。ああだろうか、こうだろうか。私はいつになったら結婚できるんだろうか。んー三十五歳で高齢出産のリミットだから、その十ヶ月前には仕込みがなきゃいけない。仕込みがあるから三十四歳には……。その前には交際が、最低半年はなくちゃ。三十三の真ん中というと、あと◯年・・・・・・。これはやばいわ、焦らなきゃだめだ・・・・・・。
とまあ、ちょっと悪ノリしたが、実際こんなふうに思い煩う人は多い。こうしてクヨクヨ悩みを抱えるうちに、気水はどんどん枯れ続け、お肌もパサパサになっていく。そしてさらに婚期を遠ざけるという、笑えない事態にもなりかねない。一体どうすればよいのか。
何も悩まず、三十五歳を過ぎたら帝王切開したらいいのだ。四十を過ぎても、十字に切ったら子供は産める。事故にでも遭って開腹手術することを思えば、帝王切開の一つや二つ、どうってことないわよ・・・・・・と、覚悟だけは決めておく。そんな女性には悠然とした余裕が現われ、男性の方からつられてくるものである。
それなのに、「ああ、ダメだわもう私……」と、伏目がちで暗く沈んだ女性には、男の方も、声さえかける気が起こらない。そして本人の心配通り、そのまま独身街道を走り続けることになる。
まだ起こりもしないことを、ああだろうか、こうだろうか、と思い煩えば人はくたびれるものだ。一番気水が枯れるのは、この「取り越し苦労」の雑念妄想なのである。気水を保つには、これをまず自戒することである。
もう一つ、取り越し苦労と同じぐらいのマイナスが「持ち越し苦労」というものだ。もう済んでしまった事への後悔や心配。これなども、神経をムダ使いする代表的なものだ。
雑妄の「妄」とは亡き女と書くが、死んだ女性のことをいつまでも思い続けるような気持ちかも知れない。文学の世界ならば美しいが、現実には神様は、死んだ者よりも生きている私達をこそ最も大切に思っていらっしゃるのだ。死んだものや過ぎたもの、あるいは先のことにとらわれて、気水を枯らし、今すべきことが出来なかったら何にもならないのである。気を変えて、気水を保つべく、「取り越し苦労」も「持ち越し苦労」も断ち切るべきである。
その二 体と気の使い過ぎが消耗の因
次に、不休の体耗。
先に書いたように、主に子の刻に体を横たえることで、人は水気を吸収し、疲れを癒す。休まず眠らず、ずっとやり続ければ誰でもくたびれる。当たり前のようだが、しかこの「不休の体耗」はあくまでも、気木の枯れの第二原因である。体がくたびれるよりも、気のくたびれ、雑念によるくたびれの方が先なのだ。俗に「病は気から」と言うが、まさに真理をついている。気の消耗が先にあって、体の消耗を招くのである。
その三 駄弁は気力を枯らす
第三は駄弁の浪費である。
べらべらペチャクチャ、四六時中しゃべり続けたら、それはもうくたびれる。しかし、それでは私の講演はどうだろうか。セミナーでも神法悟得会でも、二時間三時間は当たり前の世界である。時には九時間、十時間も講義を続けることすらある。
なぜ果てしなく話せるのか。一つには言霊の神様が合一しておられるからである。もう一つは、父祖伝来、ご先祖にこういうふうな人が多いからである。しかし冗談でなく、これには秘密がある。
私はステージに出て行く前は、一時間も二時間も一言も話さない。黙って座ったままじっと瞑黙している。そのうちカッと目を見開き、やおら立ち上がったかと思うと、トイレである。しかしトイレに入っても、そのままじっと祈りを続けて、何時間も出てこないこともあるのだ。お付きの者も、慣れてはいるけれど、時折、私が入ったはずのトイレから物音一つしない時には、「先生は死んでいるのでは」と思ってしまうというほどである。
これは、出番の前に気を溜めて凝結させるために、誰とも一言も話さないのだ。
話をすると気水が枯れていく。だから、エネルギーを凝結させるために、祈祷会などここ一番の前には、だれとも会わず、だれとも話をせずに静かに集中している。そしてひとたび神がかれば、奔流のように言霊が流れ出てくる。
このように、ここ一番大事な時、集中しなければならない時には、あまり話してはいけない。
受験生も休憩時間にぺらぺらと、「あの問題、できた」なんてしゃべっていると、その子は、次の時間の試験になって初めの十分くらい集中できない。話すことによって、気水が枯れてしまうからだ。休憩時間は黙って何かを読んでいると、開始の鐘がカーンと鳴った途端にグッと集中できる。
だから受験生は、勉強の合間や休憩時間に話さないで黙っていることだ。それが気水を保ち集中する、三番目のコツである。
その四 セックスのやり過ぎはヘバる元
性交過剰、これが気木を枯らす第四の原因だという。もっとも、中にはこれが第一の人もいるかもしれないが……。
「精気・神」の三つを後天の三宝と呼ぶ。精力が凝結して、そこに気水をもたらし、その「気」に神が宿る。だから、あまり若くして結婚して、あまり性交が度重なると、精が凝結しないから気が凝結しない。だから、神が宿らない。何か締まりなくボーッとしてしまう人も多い。若くして結婚すると、十人中九人までが伸び悩むという。原因はさまざまだろうが、この「精」が凝結しないことと、決して無関係ではあるまい。
ある程度、性的にハングリーな状態を持続しておかないと、そこに気が凝結せず、神が宿らない。このことを肝に銘じ、精・気・神という後天の三宝、後天的にいただいた三つの宝物を大切にすべきである。
ところで、気水がすり減っていくと、人は老化していく。例えば雑安の心で悩みすぎて、途端に老けこんだりする人がいる。若くして白髪が出てきたり、しわが増えたりもする。逆に、気水が枯れるようなことをあまりしない人は、年をとっても若々しい感じでいられるわけである。
だから、男性にとって(女性も同じだが)、節欲は気水を枯らすことなく、若々しいエネルギーを凝結させていくコツの一つなのだ。
その五 寝だめ食いだめで氣水の枯れにチャレンジ!
次は食欲乱過。あんまりドカ食いすると良くないということだ。
ところで、かく言う私も時には大食いをする。
いっぺんに四食五食分、まとめて食べる。そのかわり、私には一つのテーマがあるのだ。
「寝だめ、食べだめはできないわ」と、私の師匠・植松愛子先生(上品な婦人である)がおっしゃるので、それに挑戦しようということで食べ続けの修業を行なっているのである(あまり大したテーマではないが)。
三日は寝ないで、その後二十時間寝たままであるとか、二日間何も食べないで飲み水だけで過ごし、そして三日目に、抜いた六食分を大食いする。胃腸にとってはまさに難行苦行であろう。
この辛く苦しい修業の結果、私は寝だめと食いだめを体得した。しかし、一体何かの役に立つのだろうか。自分でも首をかしげていたが、実は一つ役に立ったことがあった。
食事のリズムにこだわらなくなり、空腹も平気で耐えられるようになったため、一度 に十数時間以上も一事に集中することが可能になったのである。例えば著作の原稿書きや祈祷会で、先に述べたように気を溜めて集中している時は、食事も取りたくない程集中している。
そして終わった後は、「ああ、ほっとした。ちょっと待てよ。三日間、ろくなもの食べていないな」と、我に返って、四食分、五食分をいっぺんに食べるのだ。しかし決して食べ過ぎない。なぜなら、
「もういいか」と聞くと、お腹が、「もう十分だ…・・・」と言うからだ。
これは神通力の中の体神通というもので、胃の意識と会話をする神通力である。それはともかく、この特技のおかげで最近は、私もお腹が少し出てきてしまった。
しかし、一生涯とか一ヵ月のトータルからすれば、これで普通である。ちゃんとバランスをとっている。しかし、読者に勧めようとは思っていない。
その六 気負い過ぎると必ず疲れる
六位の気熱消耗。気熱とは簡単に言えば、「やるぞ!」という、やる気のことだ。「やるぞ」と思うと気がグーッと増す。しかしあんまりやる気を持ち続けていると、反動が来る。「やるぞ」という気を負ってしまうから気負いになる。何だか分からないがグッタリとくたびれてしまう。それは「やるぞ、やるぞ」という、自らの思いで、何もやっていないのにくたびれてしまうのだ。
そもそも人間は、半分、守護霊にもたれかかりながら生きるのがいい。
神様や守護霊様に寄りかかりながら歩いたほうが、神仏から見れば可愛いくて愛される。神仏に、いつも半分寄りかかるぐらいで、「この人、私たちがいなければどうなる「んだろう」と、神仏をハラハラドキドキさせる人は、結局沢山の守護と功徳がいただける。一人で堂々と「私は一人で生きるのよ」などとうそぶく人には、神仏も「それなら一人でどうぞ」ということになる。これでは、物事は成就しない。
一生懸命うち込むことと、一人で何でもやれるように思うこととは別物であると知らなくてはならない。それよりも、どこかか弱く、どこか心配なところを残している方が、守護霊様も愛して下さるのだ。
「不撓不屈の精神で頑張っていて、絶対安全だ、あの人は」という人は、かえって可哀想である。一人で出来るだろうと皆が思うから、だれも守ってくれない。
私の場合も、修業であまり頑張りすぎたためか、「先生はほとんど不死身だから」などと言われる。それがときどき病気をすると、「あっ、先生も、やっぱり……」とみんな驚いてくれる。この分では、もしも病院に入ったときには、皆相当驚いてお見舞いに来てくれるかなと楽しみにしている。だから最近は、ほんの少し具合いが悪くても、お弟子の前ではなるべく大げさに言うことにした。
「足がイタイ〜ッ!」とか、大して痛くなくても騒ぐと、「大丈夫ですか、大丈夫ですか」とお弟子に心配される。何かにこっと、うれしい。
こうやって行くのが、お弟子に大事にされるコツだということを、私もだんだん学んできたわけである。だから当然、守護霊もそうだろうと思うわけだ。
話は戻るが、このように、何でも自分一人でやろうと思えば「気熱消耗」する。「味然として進まば先の陽を損なう恐れあり」という言葉があるが、味然とは、目が見えなくなってしまうことだ。曖昧の「味」である。「やるぞ!」という気負いが過ぎて、そのうち前も足元も見えなくなってしまう。その反動で、虚無感が起きることが、「先の腸を扱う」ことである。
よく、七月、八月に勉強した受験生が、九月にしばらく虚脱状態になる。商売で言えば、夏の商戦の後、九月に売り上げが落ちる。年末商戦の後、一月二月は売り上げが落ちる。
連休の後も同じである。一旦過熱した後、気熱消耗状態に陥り、マーケットが冷えてしまうのだ。ゴルフ場でも九月が一番すいているといわれる。気熱がぐっと高まった後には、必ず消耗が来るのである。
しかし、消耗し続けるわけではない。しばらくすればまた気熱が吸収され、枯れてきたものが充満してくる。だから焦らないで、頑張り過ぎたなという虚無感があったら、しばらくしてまた回復するようにセルフコントロールすればいいのだ。そして、最終的に長続きしていればいい。
書道でも、茶道でも、何でも一道を成就した人は、皆そう心掛けている。
そういう気熱の満ち干きの波を乗り越え、三年、五年、十年と続けて、皆、最終的に一道を成就しているのだ。いかに一時集中して燃えたとしても、消耗した時に、もう嫌だとか面倒臭いとか湧き出ずる虚無感に負けて、志半ばにして道を失ったら何にもならない。やる気を出したり、またやる気がなくなったりということを繰り返しても良い。そういうものを越えた目、自分を冷静に客観的に見ている目を持ち、セルフコントロールをうまく行なうことで、やがて必ず道を成就できる。
神様事も同じだ。続けなければ意味がないのだから。
その七 ボケるくらいなら何でも頭を使え
第七の知解低下というのは、頭がどんどんボケていくことである。
頭が悪い人間は気水も枯れている。要するに、知恵をもっと使ったほうがいい。神様事をする人の中には、「観念をつけない方がいいから」と、世に出ている学術書や経済の本、学問の本を全く読まない人がいる。しかし、それで頭を鈍くしたら意味がない。例えば、観念はなく柔軟ないい頭脳を持っているがボケているのと、観念ガチガチで元気というのだったら、観念ガチガチで元気の方がずっといい。
「あっ、名前、何でしたっけね。あっ、山田さんか。そういえば、そうだったかな、グワーッ……(居眠り)」
「大丈夫なんですか」
「うん、大丈夫……、テレビ見てたから……..」
「一日何時間寝ているんですか」
「えーっと、たぶん十時間ぐらいかな気水は十分に補給してるから……」
この場合、補給する以上に漏れているのである。
本も読めなくなったら、気水が枯れ切っていると思って良い。知性が働いていて、ずっと頭を使っている人は、魂全体が「やるぞっ!」と張りがあり、息吹があって若々しい。
財界の長老と言われる方々は、人並外れてストレスが多いはずなのに、皆、長寿でいる。そしてボケていない。忙しく活動される中で、いつも頭を使っていることによって、自分の脳細胞というものが回復するからだ。意識の力と忙しく集中することによって、神なるものと気水を呼び込み、頭脳を回復させているのだ。
若者は勿論だが、年を取れば取るほど本を読み続け、勉強し続けることである。気水を枯らさず、気力が充実していれば、決してボケることはない。
その八 自分を鼓舞してやる気をかき立てよ
第八は意念衰耗。要するに、やる気がない状態のことを指す。
やる気も何もない、なるようになれという状態の時は、魂のボルテージがグングン落ちているから、体力も落ちてくる。やる気をなくして自堕落になるから、守護霊も離れる。神なるものが遠くなる。気水も枯れていく。その結果、ますますやる気が出なくなるという悪循環である。
こんな時は、何でもいいから、自分を鼓舞し「やるんだ、やるんだ、やるんだ!」と、己に言って聞かせてみる。無理矢理口に出して自分を鼓舞しているうちに、やがて意がビシッと立ち始める。そこですぐさま、本も読んでみよう、勉強もしてみよう、節欲をして頑張ってみよう、と、気水を回復できるような何かに打ち込むことだ。それが、意が低下した時に、また気水が回復できる最高策といえる。
その九 退職したら何でもいいから生きがいを作れ
最後の業行衰微とは、実践や行動をしなくなった状態のことだ。
例えば、長年勤めた会社を定年退職したとしよう。趣味もなく、ただただ仕事に打ち込み続けて四十年。明日からポッカリと時間が空いて、何もすることが見当たらない ……。こんな人は、まさに業行衰徴に陥る可能性がある。
業行が衰徴すると、意念も消耗してくるし、知解も低下してくるし、気熱も消耗してくる。食欲は減退し、その前の精力もだめになり、毎日毎日愚痴ばかり。いつしか、体の無理がこたえるようになり、雑念、妄想も出っ放し……。
定年退職した人は注意が必要である。何でも良い、これをしなければという目標がないと、人間というものはあらゆるものが衰微してきて気水も枯れて)、老化して死んでいく。
長年、家を建てたいと努力を続け、やっと家を建てたら、すぐ死んでしまったという人は本当に多くいる。ようやく家が建ったということで、満足してしまうからだ。そのためにお金を貯めて、方角を見、地相も見、家族や親戚縁者に「どんな家がいいだろ「う」と何度も相談し、いよいよ家ができた途端、安心して死ぬのだ。まさに、業行が衰微したからである。
お気の毒ではあるが、これは目標の設定を誤ったことから生じたことだ。人は家を建てる為に生きるにあらず、である。当たり前のことだが、家が建った時に、人生の大目標が成ったかの如く心中でホッと一安心した方は、要注意といえる。
定年退職した方も同じだ。いや、まだまだわしのやることは残っているんだと、気合いと目標と生きがいを持って生きることが何より大事である。なければ無理にでも作る。 駅をお掃除して、親戚縁者の面倒を見て、お墓を磨いて、先祖霊のけじめもつけなきゃ 10 いかんし……。そうそう、今世は仕事一本で、どうも芸術性に欠けていた。毎日短歌を最低一首作ろう。百歳で歌集を世に残そう……等々、自分でどんどん目標をつくればいい。
悩みを打開する答えは、一歩前に出る時に来る
気木の枯れというのは、以上にあげたようなことから生じる。
皆様も業行、意念、知解・・・・・・という順に、下からチェックしつつ実践して上がっていくといい。神様が私にそう教えてくださった。気水が更に充実する筈である。
ところで、何故下からなのか。なぜ業行から実践すべきなのか。
参考までに、私の体験を話してみよう。
私にもたまには、「神様、やる気がまったく湧いて来ません。今日はやる気がない、もう何もかも嫌になった。どうしたらいいのか教えてくれーっ!」という心境の時がある。
しかし答えなどない。教えてくれなければ、もう書道の色紙を書くのも、神業をするのもやめた!とダダをこねたところで、答えはない。すねる、フテ腐れる、文句を言う……とあらゆる手で訴えても、やはり答えはない。かわりに戒めの守護霊が、「そんなことで良いと思っているのか」と叱りに来たりするくらいである。
しかし、文句を言うだけ言い尽くすと、そのうちに自分でも、「このままではいけな「いぞ」と思い始める。
「そうだ、こんなに辛いのは、きっと私だけじゃない。世の中には、こんな人は星の数ほどいるに違いない」等々、あれこれ呟きながら、次第にテンションを高めていく。そして、「よし、答えがなかろうと、守護霊が何と言おうと、しょうがない、やろう」と立ち上がる。苦しみや悩みには何の変わりもないが、しかしヤケクソに一歩踏み出して「やるぞっ」と思ったその時、「おまえがあのとき悩んでおった答えはだな、これこれこれだよ」と言って、神仏がお出ましになる。100%このパターンである。
悩んでいる時には神仏からの答えは来ないのだ。悩んでいることを越えようとして、苦しいけれど自分で一歩、二歩出たときに、「その悩みの答えは、君、こうなんだよ」と、答えが返ってきて、一気に後押しをして下さるのだ。
おわかりいただけたことと思うが、気木の枯れた状態で、あれこれ思い悩む時は、まず行動してみることである。その行動が正しいかどうかは、この際問題ではない。悩み事を解決するべく、一歩、二歩と努力をしたときに、自分自身に守護霊や神様が、何かの現象とか、ひらめきで答えを下さるのである。
それがわかり、そのコツを真に体得した人間は、どんな時でも挫折することがない。また、気水が枯れ切ってしまうこともないのである。
