仏壇とお墓の役割お墓霊界は子孫に影響する
仏壇とお墓には、どういう意味があるのかもこの際ご説明しよう。
これまで説明してきたように、真ん中から以下の霊が寄るところとして、仏壇は七〇%ぐらいの役割、お墓は三〇%というのがバランスだ。とすれば、仏壇とお墓を比べれば、仏壇のほうが大事ということになる。
だから仏壇は、なるべく日常生活と接触するようにしていくのがよい。
では、お墓はどうでもいいのかというと、そうもいかない。よくこういうことがあるものだ。
「私は死んで、この墓の中に入るから、おまえは守ってくれよ」と、お父さんが生前言っていたようなケースだ。
お父さんは死んだ後、本当にお墓の中に入ろうとしているわけだ。ところが、お墓というのは御影石とかでできていて、死んだ人の霊体では通り抜けてしまうので、これはおかしい。墓の中に入るのは骨だけなのだ。人間は死んで墓に入るわけではない。
仏壇の位牌についても、同様の誤解がある。前に、ご主人を失った後妻さんから聞かされたことがある。
「うちの主人と先妻の二人セットのお墓があって、死んだ後、この中に入っていくのは、本当に気が引けるんですよね。新しく位牌をつくったほうがいいでしょうか」と。
私は、
「こんな狭い中にお入りにならなくてもいいでしょう。死んで位牌の中に行くんじゃないんです。人間は死んで墓石の中に入るのでも、位牌の中に割って入るのでもありません。霊界に行くんです。だからそういう心配はご無用です」と答えてさしあげたのだが、多くの人がこれを誤解している。
では、お墓は意味がないのか。ないならば、なぜ墓相学というのがあんなに当たるのか?
墓相学について、私は、意識神通という超能力を使って、お墓に直接聞いてみた。物にも人間や生物と同じく意識があるので、会話が出来るのだ。すると、こういう結論が出てきたのだ。
拙著「神界からの神通力」で、私は「イワシの頭も信心から」について説明したが、それと同じだということである。例えば、神社もお寺も何もないところで、「イワシの頭様、本日もありがとうございますだ。おらの家でもイワシ様のおかげで、大勢の人が功徳を賜ったちゅうことを、聞いておりますで……」と拝んでいると、真心と崇敬する思いというのがイワシの頭霊界をつくって、そこに石清水八幡宮?か何かわからないが、やって来る。そしてそこは知らない間に、ご神体のようになってしまう。人間の思いによって霊界ができるわけだ。
イワシの頭でもありがたがれば霊界ができるくらいだ。お墓についても霊界ができないはずがない。
お墓の中に入るんだ。お墓がなければ・・・・・・、子孫が大事にしてくれないと・・・・・・、皆がお墓が大事だ、お墓は大事だと思い、歌い続けて受け継がれていく。その、お墓は大事だと尊敬する思いに、お墓の霊界ができるのだ。これを墓霊界という。墓石を中心にし霊界ができるわけだ。
イワシの頭に神霊が来るように、お墓の中にも霊界ができる。こうして、一つの家族という霊界の働きの中に、お墓という位置ができるわけだ。そういうわけで、本来ほとんど意味がないはずのお墓が、霊的な意味を持つようになっているわけなのだ。お墓の生成の歴史から分析すると、これが実相である。
では、その墓霊界というものは、家族に対してどんな意味をもたらすのだろうか。
古い墓ほど因縁パワーが強い!
実はお墓には「子孫」という意味がある。だから、代々女の子しか出ないとか、男の子しか生まれないとか、子供がどこか調子が悪いとか、ノイローゼだとかいう場合は、お墓に問題がある場合が多いのだ。
自然石を使っていたり、入り口にタケチャンマンの人形を飾ったり、いろんな飾り物の人形を置いていたり、掛けていたりとか、最近のお墓もいろいろだ。あまり大き過ぎてもご先祖が恥ずかしがるし、小さ過ぎてもいけない。オーソドックスでシンプルなお墓が一番いい。それは墓相学のいうとおりだ。
しかしお墓に、本人のあずかり知らない間に子孫に影響するようなことが出てくるということは、そういう代々のカルマというものが、自然にお墓という形で表現されているからだ。だから、子孫の問題があるときには、一度お墓の形を見てもらうといい。
古いお墓ほど、強く霊力が宿っている。だから、全く新しい、いいところに変わって(嫁いでいったりして)名前が変わったときには、心機一転して、いいお墓をつくった方がいい。ここが先祖代々の墓だと強い念を込めたら、強い霊力が出てくる。
いいものは信じ、悪いところはあまり信じないという具合に思っていけばいい。こちらの心の調節次第で、その霊力(影響力)に大小が出てくるのである。
お墓と墓相学について、霊界法則をもって説明すると、こういうことになる。
仏壇に依る霊は江戸時代以降の先祖だ
仏壇に話を戻そう。
仏壇にいらっしゃるのはご先祖だと皆思っているが、先祖は先祖でも封建時代の古い先祖がほとんどである。ごく新しい昭和三十年代のご先祖というのはあまりいない。昭和五十年代のご先祖はまずいない(当然である)。若くて大体、大正時代。明治、江戸時代に生まれた人が今、お墓や仏壇にかかるご先祖になっている。
これらのご先祖たちの考え方は、封建時代の考え方だ。親は親たらずとも子は子たれという考え方で、親のエゴイズムを利用して、自分が姑に尽くしたように我々にも尽くしてほしいと霊界から欲求してくる。気持ちはわからないでもないが、「ご先祖さん、私たちは戦後に生まれた人間で、あんたの言ってることはよくわかりません」と言ってやることも大切だ。
人々は決して、先祖供養のために生まれて来た訳ではないのである。
彼らの奉じるのは儒教だが、イスラム教にはもっと別な法則がある。インドでも中国でも違う。もっと徹底して言えば、ネアンデルタール人やクロマニヨン人、ピテカントロブスペキネンシス、明石原人、ジャワ原人、三ヶ日原人などの古い方々。彼らは先祖を崇拝していたか。三十三回忌をしていたのか。していない。たまたま明治、江戸の封建時代に育った霊たちが、自分たちの習慣を主張しているに過ぎない。
「ご先祖様がいくら、親は親たらずとも子は子たれと言いましても、私の先祖はクロマニヨン人だと思っています」と言うと、先祖はシューンとする。
「あなた方は霊界で修業してください。別に、途中で生まれて来た江戸時代の先祖だけがご先祖というわけじゃない。もっともっと遠いご先祖、クロマニヨン人を尊敬しなさい。彼らは先祖供養なんて要求しませんよ」と言うと、仏壇にいるご先祖は小さくなって、もう先祖顔して威張ったりはしなくなるに違いない。
仏壇を祀るべきケースと、祀るべきではないケースがある
このように先祖の霊は、子孫に交渉し、要求してくる。祀ってくれ、祀ってくれ、という具合に。
そこで、仏壇を祀るべきか祀らないべきかの結論になるが、ほとんどが真ん中以上のいいご先祖ばかり持つ人には、先祖はあまり要求してこない。だから、仏壇がなくても全然平気で、普通の生活をしているものだ。
取りたてて災いもなく、家族みんなが幸せに暮らしているのに、仏壇を祀らなければならないからと祀り始めた途端に、家庭がおかしくなったりする。ようするに、ごく普通に幸せに暮らしているのだったら、もうそれでいいわけだ。
せっかく分家の方で幸せでいるのに、仏壇を祀りだしたとたんに、本家かどこかにいた低い先祖霊が訪ねて来て、家がガチャガチャしたりするのだ。
絶えず「助けて助けて」と言う先祖を引っ張り込むことになってしまう。そういう場合は、仏壇を祀らないほうがいい、と私は断言する。今、あなたが幸せならば、それ以上祀る必要はない。
逆に仏壇を祀ったほうがいい場合も、もちろんある。例えばこういう場合だ。
家族関係が始終ゴタゴタして、うまくいかない家がある。長男はいるけれど、何もしない。そういう家では、次男がご先祖の生まれ変わりである場合が多いのだが、その次男が、家を面倒みなければいけないような運気を持っているものだ。
また、長男、次男がいるにも関わらず、どういうわけか三男のところばかりに先祖霊が来て、家の業を背負っているというケースだ。三男にして見れば、何とかしたくなるのが当然だ。
こういう人は、仏壇をお祀りした方がいい。新しく買ってもいいし、長男がいらないと言うならもらってきて、きれいに掃除してもいい。そうすると苦しがっていた霊はそこにおさまる。そうしないと、苦しいものだから背中に憑いたり、子孫に憑いたりするからだ。
「とりあえず、ここに納まりましょう」と言ってやると、安らかになる。それでトラブルもなくなる。
本当は、三十年以上地上にウロウロしていることは霊界法則に反している。だが、子孫が先祖に対して供養しようという気持ちを、ある程度神様が酌まれて、お供えをしたら食べ物の精気が霊界へ飛んでいくようにして下さっている。先祖はその食べ物の精気を食べられるわけだ。そういう先祖祀りをすることによって、今、問題がある人は少しでも良くなるのだから、こうした方は祀った方が良い。
真ん中以下のご先祖が多い場合は、せめて仏壇だけでも祀ることで、少しでも自分に来る災いを緩和していこうという、このための仏壇だったら意味もあるのである。
豊かな家に住んでいて、幸せに過ごしているのに、仏壇が要ると聞いて、信心深い性質の人というのは仏壇を持ち、祀る。結果、かえって災いになる。だから、そういう人は無理に祀らなくてもいい。お祀りするのだったら、中途半端ではなくきちっとお祀りしたほうがいい。
また植松先生は、祀らないんだったら祀らないでもいいとおっしゃる。
なぜなら、先祖は全て子孫の血液の中に入っているからである。血液が位牌のようなものだとおっしゃる。しかし、もしお祀りするんだったら、霊界のある程度の方式にの 16 っとったお祀りの仕方を、ちゃんとしたほうがいい。これが仏壇に対する考え方の結論だ。
酒飲みの霊には、お酒を供える
面白いといったら本人には失礼だが、わかりやすい例だから紹介しておこう。
あるご夫婦なのだが、結婚してから、二人ともものすごく酒を飲むようになって、一日に一升瓶を一本も二本も空けてしまうという。不経済でかなわない上に、こうなるとアル中だからいろいろ差し支えも出てくる。
どうしてこうなったかというと、夫の家の先祖の中に大酒飲みの霊がいて、酒が飲みたくてしょうがない。それで何かの拍子に、この夫婦にヒョイとかかってしまっていたのだ。結婚式の三三九度を見るか何かで、うらやましかったのかもしれない。それで、このご夫婦にガバガバ飲ませることで、憑いている霊もいっしょに飲み、憂さばらしをしていた、というわけだ。私はこのご夫婦に、仏壇にお酒を一合お供えするように勧めた。
すると翌日から夫婦の大酒がピタッとやんで、元の酒量に戻ったそうだ。これは理屈にかなったことなのだ。
「どうぞ、お飲みください」と。
もらった酒飲み霊は大喜びで、人にかかるのをやめて酒にかかるようになるのだ。実際には一合でも「どうぞ一升飲んでください」と言えば一升になる。
霊界では一合のお酒が大きくなるから得をする。このようにお酒が好きな先祖霊がいる場合、お酒をお供えしてあげてもいい。そうすると酒癖の悪い人の霊がそっちへ行くから、酒で苦しむ事はなくなる。
しかしもちろん、問題がない家だったら、無理してお酒を供えたりして祀ることはない。
どうすることもできない困ったときの方法として、仏壇を祀ったりお酒を供えたりすることによって、大きな効果を発揮する場合が多いということだ。
仏壇のお供え物十倍化法則
さて、お祀りするんだったら、一日一回、お食事を真心を込めて、小さなご飯でもいいので、お供えするのがよい。
お供え物というのは、見たところは少ない量だけれど、祝詞の中では、「海川山野のくさぐさものを横山のごとく置きたらわし―」と言う。
実際お供え物は、海とか川とか山のものがあるとよい。スルメというのは海の物。川魚とかは川。山といえば栗や木の実などで、野菜や果物は野である。これらが海川山野のくさぐさものである。
海のもの、川のもの、山のもの、野のものというのを横山のごとく置く。横たえるぐらいにという想念で差し上げる。実際はお金も大してかけないで、海川山野のくさぐさものみりん干しが一切れ、お大根の葉っぱが一切れ、お葱が一個、あとはちりめんじゃこが五切れしかお供えしなかったとしても、「海川山野のくさぐさものを横山のごとく」というと、霊界ではグーンと大きくなる。
霊界は想念の世界で大きくも小さくもなるので、せっかく、山盛りに並べても「ほら「よ」とかガサツにしてやると、大きなニンジンもマッチ棒ほどに小さくなる。葉っぱもしおれてしまって、神様も受け取られない。だから、仏壇でお供えする時には、どんなささやかなご飯でも、
「どうぞ、横山のごとく」と言うと、仏壇に入りきらないくらいの量になる。同じ供えるなら、そうしたほうがいい。
そして、あまり長い間置いていると、関係のない浮遊霊が食べに来る。そこで、「二十分間お供えしますので、その間に、横山のごとくなるご飯をお召し上がりください」と言って、二十分たったらパッとさげる。
「ああ、もうちょっと食べたかったんだけど・・・・・・」
「もう二十分たちました。だめです」
こうすれば、わりとご先祖に優越感を持てる。こういうふうに食事はお供えしたら良い。
新婚家庭の位牌・仏壇の祀り方
では、結婚して先祖を祀りたい時に、どうしたらいいかということを述べておこう。夫婦とも信心深いと、仏壇も一つに両家の分、位牌も共同で使う、というように一軒の家の中に仏壇を通して先祖が同居、ということが起こってしまう。
あるいは一つの仏壇の中に、夫と妻の「○○家先祖代々」と「××家先祖代々」の位牌が並んで立つことがある。
結論から言うが、こういうことはしないほうがいい。家の中が非常に混乱することになるからだ。
どういうわけか、夫婦の仲とか、親子の間がガチャガチャして居心地がよくないということになる場合が多い。
なぜそうなるかというと、こう考えると分かりやすい。
例えば、八畳のお部屋に、ご主人がいる、奥様がいるというのはわかる。子供がいる。それまでは良い。ところがそこに、ご主人のおじいさんとおばあさんとおじさんがいて、さらに、奥様のお父さんとお母さんとおじさんがやってきて、同じ八畳の一部屋に住んでいるという場合はどうだろうか。
大体、奥さんの方のおじいさん、おばあさんというのは大正、明治、江戸の方だから「どうも、娘がお世話になっておりまして」
「いやあ、狭いところで、もう本当に……」
「どうぞ、お互い親戚ですので、どうぞどうぞ」
「いやあ、本当に、お世話になりまして」
「どうぞどうぞ。わしらも嫁の立場でございますので」ということになる。
八畳でも六畳でも同じだが、一部屋の中に奥様のご実家の親戚がいると、この人たちは非常に気を使うことになる。そう、一度現実にやってみればすぐにわかることである。例えばここに、ご主人の奥さんのおばさんなどが住み始めたら、もう遠慮して遠慮しどうしようもない。さらにおじさん同士となれば、お互いに遠慮しすぎて気まずいことになる。
位牌は小さいから、生きている人から見れば二つ並んでいてもどうということはないが、霊的関係としては、このような状態が起こってしまうことになるのだ。
こうしたご先祖様の霊同士の感情が、やはり子孫に影響して、何か居心地が悪くて、しっくりこないということになる。それは、家庭運の背景になる先祖の霊が、居心地が悪い思いをしているからだ。
「お前、何とかしてくれよ。申し訳ないし」ということで、居心地が悪いのを奥さんの先祖は奥さんの方に知らせる。ご主人の先祖も、ご主人に「おまえ、これ何とかしろよ」
なんて言う。
ご先祖様の居心地が悪いという感情が現世の人々に伝わって、なんかしっくりこない……と、こういう関係になってしまう。
はっきり言うが、結婚したら、こういうことは絶対にしないほうがいい。家族もうまくいかないし、ご先祖様も非常にやりづらい。
結婚したら夫の方の先祖だけ祀れ
本来、結婚したら、ご主人の方のご先祖様代々だけをお祀りするべきなのだ。例えば、ご主人が次男だったら、長男がきちっと祀っていたらそれでいい。そうではない場合には、次男であっても祀ってあげればいい。仏壇は何箇所にあっても構わないのだ。
また位牌を置くことによって、先祖霊を人の体につかせない効果が得られる。これは先祖に罪つくりをさせない功徳でもあるし、ご長男がいたとしても、位牌は次男が祀ってもいい。どこへつくかはご先祖の自由だから、来る余地を残してあげたほうがいい。そして、夫の直系だけをお祀りして、奥様のほうはお祀りしないというのが原則だ。それでも奥さんの実家の方が、他に誰もお祀りする人がいないという場合は、どうしたらいいか。
そういう場合は、仏壇を別にして、やや小さめの仏壇の方に奥様の実家を置く。できたら別のお部屋に、小さめの仏壇を置いておく。奥様の方なので、小さめにして控えめに設けると、まあまあ落ちつくのである。
男女平等が通用しない先祖の霊界の悪影響妻の家系だけしか祀らないと…..
例えば、ご主人が次男で、奥様が一人っ子で、他に兄弟がいない、という場合を考えてみよう。実際に時々ある。
そのような場合に、ご主人の仏壇を全然祀らないで、奥様のだけをお祀しているという場合である。
結論を言えば、これは完璧に奥様上位で、旦那様が全然ふがいなくなってしまって、いるのかいないのか分からないような夫になってしまう。
奥様方のご先祖は、お部屋の中に山ほどいるが、ご主人の方は、何とか守護霊だけでもっているという感じになる。それで元々か弱いご主人が、家では、
「あの、おみそ汁・・・・・・、あの、なくてもいいです」で、社員食堂で何とか食いつないでいるといった感じになってしまう。これでは仕事もうまくいかない。奥様だけがすごく頑張っている、という家は、大抵こうなっている。「ひょっとして、仏壇は奥様の仏壇だけで、ご主人のは……」
「ええ、私は、もう昔から母が信心深いものですから、仏壇はちゃんとお祀りしています」「ご主人は?」
「主人は次男ですから、ございません」
やっぱりなあ。
やはり今のようなケースなら、ご主人が次男であっても、男性(主人)のご先祖様をちゃんとお祀りするのがいい。そして、奥様の方も、跡をとる人がいなくて絶家になるよりはましであるから、小さめの仏壇にする方がいいのである。
男女平等に反すると思う方もあるだろうが、大体ご先祖様というのは封建時代にいた方々。その、ご先祖様の感情が現世に生きる子孫を、特に仏壇を祀っている人々の心を左右するのだから、逆らわずに小さめの仏壇にし、お部屋を別にする。こうすると、頼りがいのあるご主人にもどってくれる。
小さめといっても、ほんの少し小さいだけでいいのだから、不平等が好きなご先祖様たちだな、しょうがないな、とあきらめて、生きている夫婦は平等に仲良くしていればいいのである。
仏壇は明るく、お地蔵さんのお供えも二〇分がいい
仏壇は暗い方がいいか、明るい方がいいか?
交霊実験では暗闇のほうがよく霊が出るというから、ご先祖が出やすくするために仏壇を暗くしている、なんていう人が過去にいて驚いたことがある。
オカルトごっこをやりたい人なら別だが、暗くしたら浮遊霊や邪気しか来ない。ご先祖様を喜ばせたければ、うんと明るくしてあげるといい。
また、よくお地蔵様にお供え物を供える人がいるが、ほとんど供えっぱなしにしているようだ。
大体、お地蔵様におにぎりを出して、二十分で下げたという人は見たことがない。だから、いろんな浮遊霊が次々に来る。それだけではなく霊眼でみてみると、動物の浮遊霊とか、死んだ犬の霊などがお地蔵さんの周りでうようよしている。そんな場所とは知らず、敬虔な人が「お地蔵さん、お地蔵さん」とお願いすると、その人に浮遊霊たちが憑く。これがお地蔵さんの石像による浮遊霊の付着方式だ。どこからお地蔵さんに霊が集まってくることになったかといったら、お供え物をそのままに置いていることから、
邪霊集合霊界が出来上がったのだ。
こういうお供えも、善意でしたことでも結果は良くないということである。仏壇のお供えと同じで、二十分で下げるのが鉄則ということだ。
これが、どちらも浮遊霊や邪気を呼びこまないための方法であるし、ご先祖やお地蔵様へのマナーでもある。
先祖霊はパッケージを食べるんじゃない
それから、故人がバタープリッツが好きだったというので(ビスコでもいいが)、お供えする人の場合。
それも、ちゃんとビニールに包んであったり、バターブリッツだと箱詰めだったり、あるいは銀紙で包んだりしている。桃などの場合、包装紙に包まれているのをそのままお供えしたりする。
見た人は、きれいな感じで箱に入っている方が満足するだろうが、ご先祖様は箱を食べるわけではない。果物も皮を全部むいて、すぐ食べられるという状態にしてお供えするほうがいいのだ。バターブリッツも、箱をとって、銀紙をとってまとめて置くか、生け花のようにして立てるか、お線香のように立てるかして、すぐ食べられる状態にして供えてあげると、ご先祖様はその精気を食べることが出来る。
果物とかご飯、特に箱入りのお菓子の場合など、全部むいて出してあげたい。その方がご先祖様は喜ぶ。ちょっとしたことだが、随分違うものなのだ。
せっかく供養をするのなら、その程度の手間は惜しまないことだ。
お盆に禁酒を守り通す法
酒好きな先祖の話は前にふれたが、大体、人の禁酒の誓いが破れるのはお盆か、ある人の命日の前後だ。
酒好きの霊が現世に接近して、これはと思う人間に飲まそうとするのだ(酒好きの霊が、人に酒を誘いかけると、飲みたくて飲みたくてしょうがなくなる)。しかし、この法則がわかると対応策も立つ。
もうそろそろ霊が来るなと思ったら、対応策で、越の寒梅大吟醸、石川県は菊姫大吟醸といった特級品で、防腐剤が入っていない、地酒を並べてお供えする。やってきた霊が恍惚として供えたお酒を飲んでいるので、こちらはお酒を飲まなくて済む。
こうすることによって禁酒も守れるし(本当に守りたければの話だが)、霊にも喜んでいただける。
禁煙を成功させる法
同様に、禁煙している人は、仏壇のヘビースモーカーの先祖にタバコに火をつけてお供えしてあげるとよい。
こうすることで、どうしてもやめられなかったヘビースモーカーの人もピタッ!タバコの欲求がおさまるのだ。
タバコをどうしてもやめたいという人は、是非一度やってみられるとよい。
お盆、命日の供養は中有界以下の霊に効果
ご先祖でお酒の好きな人は、お供え物をしてあげると非常に喜ぶわけだが、これも低いランクの霊に対してのこと。というのは、霊界のいいランクにいる霊、例えば、中有界の上部とか天国界に行っている霊だと、お酒がほしいなと思ったら、「はい」と、お酒がバッと出てくる。果物がほしいなと思うと、「はい、果物」と出て来る。ほしいものは即実現するという幸せな霊界に住んでいるからだ。要するにお供え物など全く必要ないのである。
で、反対に、低い霊界にいる、例えば餓鬼道にいる霊などは、目前にお供えしたものがあっても、「あっ、果物だ」と、食べようと思ったら、パッと消えてしまう。「あっ、「おにぎりだ」と思って手を伸ばすと、パッと消えてしまう。だから余計に苦しい。目の前まで来てなくなるのだから。
こういう餓鬼霊が憑いている人の現実の生活は、もう入金が近いと思っても、入る直前に何かのトラブルでお金が入らなくなるとか、目の前にいい仕事があるのだけれど、パッと消えてまた仕事が駄目になったというようなことになる。
なかったらなかったであきらめがつくのだが、もう少しで手に入るというところで、何故かいつもパッと消えていく、という悔しい思いをする人は、やはり餓鬼道のシステムがそのまま現実界に出ているからである。
但し、お盆の時に、地獄の方から一時許されて帰ってきた霊に対して、神仏にちゃんとことわけて(特別に申し上げて)お供え物を供えると、食べられる。
また中有霊界の上のほうに行く人は、お供え物をしても、「ありがとう」と、お供えする真心と果物の精気をパッと自由に食べられるが、霊層が低くて苦しんでいる霊たちは、例えばお酒を供養しても、霊界で飲む事ができないのでそのままではおあずけになってしまう可能性もある。そこでお盆の時などは、
「神様、仏様、どうか霊界で苦しむ先祖霊や、食べたり飲んだりできない祖霊たちに、今回は、お供え物をどうぞ与えてあげて下さい、お願いします!」と、ことわけて(特別に申し上げて)お供えをすれば、霊はお供え物をお腹いっぱい食べられるので、非常に喜ぶわけだ。
だから、お酒が好きなおじいさんで、女遊びもよくやっていたな、死んだ時に、あんまり幸せという死に方じゃなかったな……多分中有霊界の真ん中以下だろうなと、ある程度、予想が立つような人の命日には、ことわけてお酒をお供えした方がいいのである。
神棚は上に、仏壇は下に置く
信心深い方は神棚と仏壇の両方お祀りしておられる。
そういう場合、例えば、神棚が横にあって、仏壇がそばというケースがある。また、文化住宅なので、仏壇が上で、神棚が下にあるという場合がある。これは良くない。
そういう場合、順序が違うので、ご先祖様は非常に苦しくて、子孫が病気をしたりすることになる。
「先生、ちゃんとお祀りしているんですけれども」
「どういうふうにお祀りしているの」
「神棚も規定通りに、ちゃんと正式にお祀りしているんですけど…… 子供が病弱で …… J
よく聞いてみたら、神棚が下で、仏壇が上だったというのだ。これでは順序が違う。
神霊の光がまぶしいからなんとかしてくれ、とご先祖様が非常に苦しんで訴えていた、ということがあった。
そんな場合は、神棚はどこか別な部屋にして高いところに置き、仏壇はやや低めに置くというのが順序だ。
神道も日蓮宗も浄土真宗も位牌は祀るべきだ
ところで最後に、宗派によっては仏壇や位牌を祀らないところもあるが、それは神霊的にみてどうか、ということについて述べてみたいと思う。
日蓮宗も日蓮上人はすばらしいし、阿弥陀如来様もすばらしい。浄土真宗の親鸞上人もすばらしいのだが、それぞれの死者に対しての考え方、やり方があってわかりづらい。実際の霊界の実相を見ていると、日蓮宗のほうは曼陀羅があって、位牌がない。
それから、「南無阿弥陀仏」を唱える浄土宗、浄土真宗のほうも、阿弥陀如来様があって、過去帳があるだけで、位牌がない。中には位牌がある人もいるが、一般的な方式は、浄土宗、浄土真宗は位牌がない。阿弥陀如来様と過去帳だけだ。
だからお盆には、浄土宗や浄土真宗を信仰している家の先祖は、霊の受け入れ器がないのでかかりづらい。死んだ人が、まさに阿弥陀浄土に完璧に阿弥陀信仰を持って行っている場合はいいが、そうではない親戚の霊がお祀りされると、どこへ行って良いかわからないわけだ。当然である。正しい阿弥陀信仰がないのだから。
同様に、日蓮宗の人も、浄土宗、浄土真宗の人も、生前、全部が熱心な信者だったわけではないということで、位牌を設けて、基本的な仏壇にしておく方が霊界はきれいに納まるのではないか、というのが私の結論である。
つまり、神道、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗それぞれがすばらしい教えであることを重々承知した上で、悟りもなく下の方でブラブラしているような先祖霊を何とか供養してあげるためには、やはり位牌は置いてあった方が良い。それがお祀りの基礎中の基礎だ、ということを理解して、実践していただきたいと思う。
おわりに
霊界は、よく知らないまま面白半分で手をつけると危ないものである反面、正しい知識と活用法を知れば、信じられないぐらいの大成功や繁栄、そして幸運を得られるものである。
神仏は、あなたに存在を気付いてほしいと思っているし、大いにあなたを幸せにしたいと願っている。世の中の何%の人が、十分にその神霊の力を活用しているだろうか。神霊から神徳を引き出し、願わくば、それを世の為に大いに役立ててほしいと私は願っている。
読者の皆様が、本書から、幾つもの人生のヒントを掴み取って下されば著者としてこれに勝る幸せはない。皆様の幸運を心から祈って本書を終了したい。
