大除霊(Vol.4)

第二章 これだけは知っておきたい「悪霊に勝つ法」

集中すれば悩みは消える

なぜ悪霊にとりつかれるのか。その原因がわかれば、防御策も立てやすい。前章では、これをくどいほどに申し述べてきたつもりだ。

しかし、頭でわかるのと、深く確実に実感するのとは違う。それで、この章ではもっと綿密に、幅広く、面白くこれを展開していきたいと思う。

ところで悪霊は、「心ここにあらず」といった状態を好む場合が多い。それならば、心の中を常に満たすようにすればいいのである。

たとえば、日常生活の中で、何でもいいから絶えず目標をもち続けるのが、最も効果的な手段のひとつであるといえるだろう。

その日一日、一週間、一ヶ月、さらには一年、一生、自分自身がどう生きるか、あるいは、どのように仕事を処理するかという目標を設定し、到達するために努力をすれば、悪霊はとりつく隙を見出すことができず、退散してしまうはずである。前章で述べたとおりである。

「小人閑居して不善をなす」という言葉がある。暇をもてあますとロクなことはない、また、暇の中に身を置いても、善をなすことができない人間は、大した者ではないという意味だが、これを霊的に見れば、善からぬことを行うのは、心の隙間に悪霊が入り込むからなのである。

一方、日々、自分の意志で明確な目標を設けて、それに向けて邁進する人は、心に隙がないだけでなく、魂そのものがギラギラと輝いている。

もちろん、人間の目からは、その輝きを直接的に確認することはできないが、霊の世界に生きる存在、つまり善霊や悪霊、そして本当の霊能者といわれる人たちから見れば、それは、はっきりと見えるものなのである。

一般の人でも、その気になれば間接的にはわかるはずだ。何となく、心と魂の窓である目が輝いている、言葉がはずんで生き生きとしている、全身から何かしらエネルギーが発散しているように感じとれる、などである。

実は、この輝きはローソクの灯に対して、守護霊が最大限のバックアップをしてくれている証でもある。

守護ローソクの輝きが加わるのである。ご本霊の輝きと守護霊の輝きとがひとつとなって、その人は一層大きく輝いた存在となる。

この大いなる輝きに対して、低級霊や悪霊は、近寄ることができない。近寄ろうとしても、あまりのまぶしさに、たちくらむばかりだ。

しかも、ガードしている守護霊から川は、「向こうへ行け」と厳しく追い払われるので、逃げ出すほかはないのである。

ところで、ある禅のお坊さんにひとりの女性が尋ねた。

「いろいろと悩みごとや心配ごと、心の葛藤が多くて、仕事が全然手につきません。どうしたら、仕事が手につくようになるのでしょうか」

すると、そのお坊さんはこう答えた。

「うーん、そうか。それは困ったことじゃのう。だが、心配することはない。いろいろと悩んだり葛藤をする暇がないくらいに仕事をすればいいのじゃ。そうすれば、すべてが解決するじゃろう」

人間は誰しも、悩みごとや葛藤があるから仕事ができないと思っている。しかし、そうではない。この世の中で、悩みごとや葛藤がない人間などいないのだ。

だが、皆、それぞれ前向きに処理して、具体的に解決していくしか方法がないので、普通は意欲的に立ち向かっているはずである。

その悩みごとや葛藤こそが、人間を進歩させる糧となっているものである。

ところが、仕事が暇な人は、悩んだり葛藤することで、自分を見失ってしまうのだ。

いろいろ考える暇があるからこそ、悩みごとや心配ごとが余計起きてくるし、また、わざわざ問題を自分でつくり出してしまったりするのである。

たとえば、不眠症であると訴える人がいる。「寝ようと思って布団に入っても目がさえちゃって」と嘆くが、病的に明らかな原因がある場合をのぞけば、眠りたくなるほどに疲れていないだけのことなのだ。

子どものころをふり返ってみれば、ハタと気づくと思うが、遊び疲れて、食事中に寝てしまうことが多々あったはずである。

何かのことに三日ぐらい徹夜で仕事をすれば、四日目には、死んだようになって寝ているはずである。ともあれ、この世に生ある間は、ひとつのことに熱中し、忙しくして動き回るべきなのだ。

そうすれば、解決策はことを進めているとき、歩いているとき、パッパッパッと出てくるはずである。そうすれば休養をとっても、真に楽しいひとときが過ごせるはずだ。

一般の職業人ではない主婦の場合は、掃除、洗濯、何でもいいから全力を傾注する。心と体をひとつのことに集中していけば、守護霊が次から次へと回答を出してくれるようになっているのである。

これが問題解決の秘策というべきものだ。

その結果、悩みや葛藤は自然に消えていくはずだ。

また、こういった努力を心がける人物は、自分で回答を見出し、自分で切り開いていく方法を知らず知らずのうちに身につけていくので、ますます守護霊の援助を受け、葛藤がなくなる。

仮に不安や葛藤があったとしても、逆にそれをバネとして乗り越えていくことができるのである。

ある人が希望という字を「喜」と置き換えたが、現在、ただ今に全力を尽くしてさえいれば、おのずから今為すべき最善の道が明確になるのであって、これが、いい霊を呼び、いい運を切り開いていく方法なのである。

簡単で、あたり前のことだが、体得して実行するのはなかなか容易なことではない。

楠木正成が教える大悟の道

今、このとき、つまり「ただ今」をできるかぎり前向きの姿勢で生きようとすれば、つまらぬことにあれこれ悩む暇などなくなる。

悩みがなくなれば迷いの雲、不安の雲は、ものの見事にかき消されてしまうものなのだ。このことに関する歴史上の実話エピソードについて述べてみよう。

南北朝時代の英雄、楠木正成公が湊川の戦に赴く際の話である。

「神界からの神通力」でも書いたが、彼はすぐれた霊能力のもち主だったといわれる。足利尊氏が大挙して都に押し寄せてくる。

そこで、後醍醐天皇以下、南朝の幕僚たちが軍議を開くこととなった。

そこで彼は、足利尊氏の軍勢をいったん都に呼び込んで、安心して敵の将兵が油断したところを一気呵成に攻撃した方がよい旨、申し出た。

「帝はいったん比叡山にお隠れあそばしてください。われらは淀川の方から登っていき、敵軍の指揮がゆるみきって油断しているところをたたきます。そうすれば、必ずや勝てることでしょう」

ところが、これを聞いた後醍醐天皇の側近たちは、即座に異議を唱えた。

「いやしくも帝たる者は、逃げ隠れしてはならない。堂々と迎え討って、敵と戦うべきである」

「いや、それでは必ず敗けます」

正成公も反論した。だが、軍議の決定は正成公の建議に反するものであった。

しかし、帝の決めたことに喜んで従うことが臣下としての道であると自覚して、それ以上争うことはなかった。

正成公は、負けることを承知しながら、軍議の決定に従い、従容とし出陣していった。

戦は正成公の予想したとおり、南朝側の敗北となり、一代の英雄・戦略家もこの世を去ったのである。

その後、新田義貞は正成公が申し出た作戦を採用して、後に、見事な勝利を収めたのだから、もし正成公が思うとおりの闘いを実行していれば、日本の歴史も変わっていたかもしれない。

それはともかく、後醍醐天皇とその側近がメンツにこだわったために、大事な忠臣を失うことになってしまったわけだが、湊川へ赴く決意を固めるまでの正成公の心境は、非常に複雑なものだった。

というのも、先にも述べたように、正成公は戦に負け、自分が死ぬことが客観的にも霊的にも、あらかじめよくわかっていたからである。

さしもの正成公も、死を目前にして迷い、割りきれない葛藤のために心中おだやかではなかった。

臣下としては道と義を貫かなくてはならない。

だが、はじめから勝てる戦ではない。どのみち負けて、死ぬことがわかっていながら、戦に赴かねばならないのは、武将としての無念のきわみである。

正成公は己の心の中に生じた、さまざまな思いをなかなか断ち切ることができなかった。

そこで、湊川の戦いに行く道すがら、当時、その地方で名を馳せていた禅僧、明極楚俊のところに立ち寄った。そして問う。

「そもさんか、生死の境」

このとき、明極楚俊は何と答えたか。

「両頭截断せば、一剣天によりて寒じ」といったのである。両頭生きるか死ぬか、生か死かと迷っている二つの頭をバシーッと一刀のもとに截断してみよ。

その気概をもって振り降ろした覚醒の剣は、「天によりてすさまじい」。つまり、ただ天命のまにまに死なら死があるだけ、生なら生があるだけで、ただ黙々として雄々しく天の試練に立ち向かっていくことが、本当のわが生くべき真実の道なのだ、というわけである。

この後、正成公も明極楚俊に禅境で切り返す。「落所は如何」つまり、その両頭はどこに落ちるのか、と切り返したのである。

そこで、明極楚俊は一喝する。「カアーッ」と。「ここだ、おまえ自身のすべてにだ。分別と迷いを飛び越えて、己自身に真を得よ!」ということを、この「カアーッ」が暗黙のうちに語っているのであった。

そのとき、楠木正成公、鎧をつけたままハッとして立ちあがった。そうして、直立したまま何度も何度も頭を下げ、しばらくしておもむろにいった。

「和尚、まことに有難うござった。正成、今日ここで和尚に巡り会って、ご指導をいただけなかったなら、一生涯つむぎ、編んできた自分の信念と信仰と求道の糸が、最後の最後に、きれいに結びきれなかったところでござる。誠に有難うござった」。

このように、禅師の言葉を受けて「そうか!」と悟った瞬間、正成公の迷いの雲は瞬時のうちに晴れ、一点の曇りもない心で戦いに赴いたのである。

生きるか死ぬかなどは関係ない。ここまできたら、ただ天の命ずるままに従って、堂々と最期まで戦いきるのみだ。

湊川に赴いた正成公は、十三か所にも及ぶ太刀傷を受けても、決してめげることなく、最後の最後まで戦い、見事に最期を自決でしめくくった。

この正成公の精神と生き様は、その息子正行公にも引き継がれ、さらには、その後連綿と続く南朝側の人々にも継承されて、「臣は帝の忠のためにある」という南朝の精神的土壌にも大きく影響を与えた。

「太平記」などに著わされたことによって、その当時の人々はもとより、それ以後の人々の胸をも強く打ったからにほかならない。

天下の副将軍水戸光圀公もそのひとりで、彼は『大日本史』の中で、正成公の勇気と忠誠心を讃え、公を顕彰して、「ああ忠臣、楠氏の墓よ」と銘を刻んだ墓を建立し、楠木正成公の智仁勇兼備してよく忠、よく孝、よく誠なるところのすばらしさを人々に示している。

その場所が、現在、神戸にある湊川神社となっている。

また幕末の志士吉田松陰も、正成公の像を壁に掲げ、「これを見習うべし」と松下村塾の門下生に檄を飛ばしていた。

この「両頭截断すれば、一剣天によりて寒じ」という言葉は、楠木正成公を尊敬する、歴代の一流人物たちの精神的支柱ともなっている。

人間は誰しも、常に迷い、葛藤するものだが、それらの一流の人物たちは、この言葉によってさまざまな迷いを一瞬のうちに払拭し、ただただ自分の天命に前向きに立ち向い、全力を出し尽くしてきたのであった。

人に相談する前に自分で考えよ

ある主婦からの相談である。それほど忙しいわけでもないが、「これができない、あれもだめ、ああでもない、こうでもないと、いつも悩んでいる」というのだ。

「ただ今」、目前のことに全力を尽くして努力していれば、迷いも葛藤も吹き飛ぶし、霊障も吹き飛んでしまうのだが、そのことがわからないから、ひたすら悩み続け、絶えず人に相談することとなる。

四柱推命、姓名判断、手相、星占い…。

巷には実にさまざまな占いがあるが、こうした占い師のもとへ足繁く通うのは、たいていは暇な人である。占い師に相談することは、決して悪いことではない。

しかし、何度も何度も悩みがあったらすぐ通うのは、決して好ましいことではない。

主体的な人生について思いを馳せることがなく他人の言葉に頼りきってしまうからだ。

これでは、それを試し、勇気をふりしぼる小難関のチャンスが消えてしまう。あまり運命を見すぎない方が、開運にはかえっていいというのはそのためである。

かくいう私も、人様の相談を受けているわけで、漏尽通力などの秘力を駆使して、運命鑑定なども行っている。だが私は、一回か二回大きな答えを出すだけで、それ以上の相談についてはなるべく答えないようにしている。

ある程度自分で考え、ぎりぎりのところまできわめた上で相談に来る人は歓迎する。

しかし、何か悩みが生じたらすぐに「先生」と、頼ってくることはあまり感心できない。人の助けばかりを求めていると、結局は、自分自身がいつまでたっても人を助けるようにはなれないからだ。

商売として考えるならば、リピートオーダーは安定収益の基盤となるので、実にありがたいことであるに違いない。

しかし私は、商売でやっているつもりは毛頭ない。ひたすらその人の将来が「よくあれかし」と思ってやっているだけなのである。

もし、どうしても悩みが解消できないのなら、人を頼る前に、自分自身の守護神、守護霊に赤誠をもって切々と祈り、相談することである。

そうすれば、必ずや誰かの口を通したり、証があったり、ヒラメキがあったりして、正しい解答がいただけるはずだ。

しかし、くれぐれも申しあげておくが、守護霊による直接の霊示をいただこうとすることだけは、厳に慎んでいただきたい。

第一章で詳しく述べたごとく、霊示のヒラメキやお告げの審神ほど、簡単そうで難しいものはない。

一つか二つ当たっても、必ず三つめ、四つめに魔が入り、大恥をかき、大失敗をやらかすことは百パーセント間違いないのだ。

特に、読者同士が、「守護霊さんがこういっていた。ああいっていた」などと、一言でもそれを他人にそう口にしたら、三言めまでの間に百パーセント魔が入って、守護霊ではないものがもっともらしく語る言葉に、必ずや翻弄されることだろう。

それだけは約束しておこう。だから、くれぐれもご注意願いたいのだ。

ところで最近、若い霊的に敏感なサラリーマンに見られる現象だが、仕事をしようとすると体調がおかしくなると訴える人があると聞く。

上司からすれば、「何たる軟弱さか」と怒りたくなるだろうが、それでは、事態の改善とはならない。

そこで、そんな場合にはデスクワークをしばらく止め、体を動かす仕事をするようにアドバイスをしている。

その際には、気分が悪くても、吐いたりしても気にしないことだ。気分が悪ければ悪いまま、吐いたら吐いたままにしておいて、体を忙しく動かすことである。

間違っても、「あ、気分が悪くなった。何か霊が来ているな」などと思わないように覚悟を決めておくこと。

そんな想いに一瞬でもとらわれると、その瞬間に霊に占領されてしまう。

どうしても吐き気や頭痛で苦しかったら、鎮痛剤や胃腸薬を飲む。それは、要は体に原因があるのであって、決して霊界に原因があるのではないということを、自分の意識に強くわからせるためである。

こうして、何でも現実のこととして考えるという努力をしていると、自然に虚弱霊媒体質が去って、悪霊よりも守護霊に守られるようになる。前にも書いたとおり守護霊は、人間が努力しているときに限って背後から援助してくれるのであるから、まず、こういう現実的な努力こそが大切なのである。

悪霊や諸霊の干渉から自分で離れようとするには、とにかく、心を転ずる、気を転ずるという工夫が必須不可欠なものとなる。

それは、霊界に合わされていたチャンネルを現実界に切り換える、チャンネル切り換えの極意であるといえよう。ところで、サラリーマン生活には次のようなシーンがよくある。

自分の部下に非常にタチの悪い社員がいて、他の真面目で立派に働いている部下のことを思えば、何とか辞めさせたいと思っているとしよう。

この場合、一つひとつ問題点をあげて、彼を批判してもあまり効果がない。

「君は勤務態度も悪いし、実績もあまりあげていないから……」

「そういうあなただって、たいして実績をあげていないじゃないか」と抵抗されるに違いない。

「たしかにそうかもしれないが、君は遅刻が多いし……」

「遅刻といえば、部長も先週遅刻したではないですか」となって、収拾がつかなくなる。そもそも、タチの悪い社員というものは、口で少々小言をいったくらいではわからないものである。だから、タチが悪いのである。

では、どうしたらいいのか。

本当に辞めさせるなら、彼の会社における存在価値を無視すればいいのである。

「君はよく頑張ってくれているので、君のために席を用意したよ。今までの席は日当たりがよくないから、今日からこの窓際の席で頑張ってくれたまえ。

それから、君のやっていた仕事は私がやるから、君は郵便切手貼りに精を出してくれ」

こんな具合に仕事を奪って無視するのだ。もし、彼が、「部長、これをちょっと……」と相談にきても、

「今、ちょっと忙しいから、後にしてほしい」とか、「ぼくにはわかりかねるから、適当に処理してよ」と、取り合わないようにする。

そのうち、彼の方から辞表を提出してくるに決まっている。一般的にタチの悪い社員とは、理屈ばかりこねて行動が伴わないという人のことだが、こういう人に理論を説いても時間の無駄なのである。

不祥事を起こすとか、勤務態度が著しく就業規則に反するとかの場合には、即刻解雇もできるが、仕事はそれなりにやるが、全体としてはマイナス的な存在であるという社員の場合、大かたの経営者が頭を悩めるところであろう。ほとんどの経営者は、今、私が申し述べたようにしておられると聞く。

とにかく、何があろうと、相手の存在を無視することが第一で、無視された人は、理屈で相手をやり込める楽しみがなくなり、反抗したり、かき乱す喜びがなくなるので、その場にいる意義を失ってしまうのだ。

悪霊を追い払うのもこれと同じことである。

霊といっても、本来は人間であるのだから、当然、人間らしい感情をもち合わせていて、他人に無視されることに対する思いも、人間と異なるところはない。

悪霊に、人にとりついて困らせるという仕事をさせないようにすれば、悄然として立ち去ることになるのである。

ところで、新聞の社会面、テレビのニュースでさまざまな事件が報道される。

その中には、精神異常が原因とされる悲惨な事件も少なくない。

何の拘りあいもない人間に、突然襲いかかって死に至らしめる通り魔殺人事件などの場合、犯人の自供内容をみると「あいつが、おまえを殺そうとしているから先にやっつけろ」といった声が聞こえたために行動したといったケースが少なくない。

精神医学者にいわせると、「自分の中に別の自分がいると思い込む精神分裂症の典型」ということになるが、私たち、霊能者から見れば、この声は悪霊のささやき以外の何ものでもないのである。

つまり、悪霊がとりつき、喜々として悪霊ビジネスを展開しているというわけだ。

この悪霊ビジネスをさせない方法としてはさきほどと同じように、たとえはじめはありありと自覚できても、それ以上に悪霊の存在やささやきや、霊的不快感を無視し続ければいいのである。

目前のことに全力を集中せよ

だが、悪霊を無視するのは実際のところ、そんなに簡単なことではない。人間であれば存在を目で確認できるが、霊は目に見えないために、気づかぬうちにいつの間にやらとりつかれてしまっていることが多いからだ。

また、霊に対して敏感に反応する霊媒体質の人にとって、霊を無視するのはことのほか難しいことであるらしい。

たとえば、こういうケースがある。

「あっ、これはキツネだな。人霊ギツネか稲荷ギツネの、さてどっちだろう。

そういえば、おじいさんが稲荷信仰していたから、人霊合体稲荷ギツネに違いない。クソッ、負けるもんか。稲荷をやっつけるには、何々経だ」

一生懸命お経をあげて払いのける努力をする人がいるが、これは逆効果である。払いのけようとすればするほど悪霊を気にして意識し、心と霊がそれに結びつけられてしまっているので、かえって悪霊は喜々としてとりついて戦ってくる。

悪霊のするちょつかいにまんまと乗っかっていることになる。

また、本書を読んだ人の中には、次のようなことを試みようとする人もいるだろう。

「あっ、霊が来た。でも、影響なんか受けないぞ。気になんかするもんか。無視するんだ」

だが、これもミイラ取りがミイラになるケースである。気にしないぞといいつつ、思いきり存在を気にしていることになるからだ。

霊と闘うぞ、霊を無視するぞという心になれば、霊と同じき世界、同じ土俵に生きて相撲を取っていることになることを知らねばならない。

ではどうすればいいのか。すでに述べたようにまったく違う世界、たとえば仕事や芸術などの現実界のことに集中することである。現実界という次元に没入没頭すれば、おのずから四次元界のことは忘れているはずである。

この「四次元霊界のことを忘れている」という意識こそが、最も大切なことなのである。

こうなれば、悪霊の住む世界とはまったく違った土俵に立つことができて、変なものにもつけ入られずにすむのである。

これこそが気を転ずる、存在を無視するということの真義である。

かくいう私も、超過敏な霊媒体質の人間である。誰よりも霊を受けやすいタイプといってよいだろう。

そのため、四六時中悪霊に襲われて、吐き気をもよおしたり、目が血走ったり、筆舌に尽くし難いほどの苦しみを味わっているが、そんなときは、著作にふけったり、書道に打ち込んだり、絵を描いたり、笛を吹いたり、焼ソバをドカ食いしたり、とにかく、目前のさまざまな仕事に精一杯集中することにしている。

私の場合は、特にいちいちそれらを除霊していたら、毎日毎日際限もなく除霊し続け人生となるからである。

まあ、こうすることによって、霊界のことを忘れることができて、しかもその努力を神様や守護霊たちが高く評価してくださるから、

強烈なお力を刻々に与えてくださるのである。その結果、悪霊の毒牙にかかることなく日々がすごせるのである。

そして、こうして悪霊に打ち勝つプロセスの中で、人間としても進歩向上し、社会的にも高く評価される能力ある人間へと成長することができるのだ。

霊能者の悲しい宿命

霊媒体質の人の話が出たので、霊との交流ができる霊能者についても簡単にふれておこう。

絶えず、霊と闘おう、闘おうと考えたがるのが中途半端に霊能の開けた人、または霊能力を多少身につけた霊能者の悲しい運命である。

霊能力とは、もちろん、神力あるいは現実界の実力を身につけていれば、神や常識に知らされて、正しく霊に対する向かい方もわかってくるものだが、何事も中途半端な人間は、いったん霊がわかりだすと、そこから抜けきるのが難しくなる。

しかし、これはある意味では無理のないことなのだ。なにしろ、霊が見えたり霊の声が聞こえたりするのだから、霊を払いのけようと試みるのは、当然なのである。

だが、ここで注意しなくてはならないことがある。それは、あらゆる機会に美しいものを見、美しい世界を想い浮かべることを忘れてはならないことだ。

霊能者は、いうまでもなく霊との闘いの日々に明け暮れている。地獄界を這いずり回低級霊たちを相手に、毎日毎日闘っているのである。

その低級霊たちの姿かたちがどのようなものであるか、想像していただきたい。二目と見られぬ…………という程度のものではない。

目が飛び出し、鼻がつぶれているのはまだましな方で、両手両足が存在しないにもかかわらず、元気にはね回ってみせる恐るべき力、奇怪な声や汚ならしい化け物の姿や衣に、ゲジゲジや百足やウジ虫やクモなどが、ウヨウヨとこびりついている。

さらには、人間の姿をとどめず、大蛇の姿となり、ツノを生やして体中から異様な臭気を発散させる。

醜悪そのものといった姿であり、とても正視に耐えるものではない。ウルトラマンに出てくる怪獣の方が、よほど美男、美女であるという気がする。

そんな気持ち悪い姿を、毎日毎日見ていたらどうなるか。誰だって目つきが悪くなるのに決まっている。

実はこれが、霊能者の目つきや人相の悪い理由なのである。霊能者は、よくサングラスをかけているが、霊能者で目もとが涼しく、人相がすがすがしいという人をあまり見たことがない。

いるとするならば、深見東州ぐらいだ。これはいいすぎだ。謙虚さがない。

だから、たとえ慈悲の心で救いを求める人たちと対応していても、たえず地獄のあり様を見ていると、どうしても目つきや人相が悪くなるのである。

それは、警察官には目つきや人相のよくない人が多いという理由と同じである。

警察官の仕事はいうまでもなく、犯罪者を取り締まることである。その犯罪者がたとえば必死で逃げていく。

その後を警察官が追いかける。そのときの警察官は、犯罪者とほとんど同じく血走って、実に怖い目つきをしている。それを、笑いながら、追いかけている人はまずいない。

もちろん、警察官は善なる人であるのだが、扱っている仕事上、どうしてもそういう目つきにならざるを得ないのだ。ごくろうさまですと、申しあげるほかはない。

しかし、目つきや人相が悪くなるだけならまだたいした問題ではない。他人にあまりいい印象を与えないというだけだ。それより大きな問題は、想念までが悪くなってしまうことなのである。

醜いもの、汚ないものをいつも見ていると、いつしか心まで醜くなるのが人間の常である。低級霊たちの姿を毎日見ている霊能者の心に、必ずゆがみが生じてくるのももっともな話だ。

この点が霊界だけしか見えない霊能者の落とし穴なのである。

神界の入口にも入り、現実界でも立派に生きようとするのなら、まず、その霊視、霊眼、天眼というものが、出したり、ひっこめたりできて、いつでも霊界が見えているという状態をなくせるようにしなければならない。

そうでなければ、それは霊能力にふり回されているのであり、霊能力を使うのではなくて、使われているということになる。

霊能力が一切なくなってもぜんぜん平気で、普通の現実界の人としても、人々が尊敬できるような立派な行いと人間性をもつことができて、はじめて、神界とともに生きる人となることができるのだ。

では、この霊界を見すぎる目をどうすればいいのか。

それから逃れるには、美しい自然を見、美しい音楽を聴き、美しいこの世の景色をたっぷりと鑑賞するしかない。

つまり、なるべく天国界の美しい様相を見ることなのである。

それが、悪霊を見た目の毒を相殺することになる。簡単なことなのだが、実践している人は少ない。

それから、私のところには女優さんやモデルさんがときどき訪ねてくるが、そんな美しい人を見ることは目を清めるためにはいい。

その人の霊界を見れば、吐気をもよおすことがときどきあるが……。

また、美しい自然の風景を見たり、それを凝視して絵を描いたり、書道をしたりするのも効果があるといえよう。

「ふとした感覚」

「楽天主義と悲観主義を研究・分析した結果、楽天主義のほうが正しいようなので、自分は楽天主義の立場に立とう」という人はいないはずである。

一見、そのように思えたとしても、研究・分析する前に自分の情念や好みによる「ふとした感覚」があって、それが結局、楽天主義を選ぶか悲観主義を選ぶかのすべての理由となっているはずである。

信仰もこれと同じである。「神様のことを研究した結果、どうやら神様は本当にいるらしいので信じることにした」、などという人は絶対にいないはずである。

神様を信じるか否かは、要するに神様を信じることが好きか嫌いか、興味があってなんとなくそう思うかそう思わないかの問題であり、神の存在云々の前の理屈は後からついてくるはずなのだ。

だから、神様が好きな人はことさら説明や説得をしなくても、素直に信じるし、嫌いな人はどんなに言葉を尽くしても、たとえ、すごい証があったとしても全部の人が信じるわけではないのだ。

読書傾向についても同じことがいえる。悲しみに満ちた本、人生の挫折を述べた本ばかり読んで、「ああ、まったくそのとおりだ。

人生なんて悲しくて空しいのだ」と考えている人がいるが、彼らは本を読んだ結果そう思ったのではなく、もともとその人の中に、「人生は所詮、空しく、悲しいものなのだ」という想念があるので、それに感応す本ばかりを選んで読んでいるのである。

もちろん、それに感動するとか共鳴するというのは、そういう部分に感応しているからなのである。

その結果、徐々にマイナスの概念が構築されて、その人の認識の基礎ができていくのである。

このような認識や思想が主義となり、たとえば虚無思想や悲観主義と呼ばれたりするのだ。

哲学者のショーペンハウエルは次のように述べている。「人間の認識は、本を読んだり人の話を聞くことで吸収した概念によってできあがる。

その概念はどこから来るかといえば直感だ。つまり直感、概念、認識という順で構築されるのだ」と。

では、その直感、言葉を換えていうならば「ふとした感覚」は、どこから生まれてくるのだろうか。

結論をいえば、自分の人生にプラスとなる「ふとした感覚」は守護霊。マイナスとなる感覚は地縛霊、浮遊霊、たたり霊等の霊。これら諸々霊たちの念波を受けて生まれてくるのである。

むろん、その人のご本霊が住んでいる霊界が、すべての「ふとした感覚」の基礎となっている。

その人から常に湧きあがってくる「ふとした感覚」が明るい人は、ご本霊が生きながらにいい霊界に住んでいる人だといえるだろう。

この、ご本霊が居る霊界を表す「ふとした感覚」の基礎の上に、良き「ふとした感覚」や悪しき「ふとした感覚」が行き乱れ、行き交うのである。

たとえば、地縛霊や救われない先祖霊がウヨウヨしている屋敷に住んでいれば、どうしても、それらの霊からくるマイナス念波を受けるので、ふと、もの悲しい思いに襲われて、「人生は空しい。悲しみでいっぱいだ」となりやすい。

逆に、プラスの念波から生まれた「ふとした感覚」については、次のような実例がある。

皆さんは、「雪印のスライスチーズ」とか、「ピカピカの一年生」とか、「カットビ!」といった、ちょっと昔のCMをお聞きになったことがあるだろう。

この声の主は、声優佐藤ナナコさんなのだが、彼女は、まことにユニークな女性である。

肩書きを並べれば、声優、レコード五枚を出したシンガーソングライター、そして、先般世界カレンダーコンテストで優勝したカメラマンと実に多才である。

さらには、現在パリに住んでビデオや映画の監督兼シナリオライターもめざしているとか。

どうしてこれだけの才能に恵まれているのか。本人は、親がオリンピックに出すんだといって、体操をやらせられたのね。ところが、平均台の上で回転をやってたとき、落っこちて頭を打っちゃったの。どうやら、そのときから頭がおかしくなっちゃってといっているが、これは冗談だろう。

彼女の口ぐせは、「ワー、何となーくすばらしいわぁ」である。

ふつうの調子と違うこの声を聞くと、その場にいる人たちが、皆なごやかな心地になる。そして、カメラを扱いはじめた動機を聞くと、「カメラって何となーくすばらしい」と思って、いつもカメラをぶらさげていたところ、その道の大家が「本格的にやってみたら」と声をかけてきたという。

おそらく、歌や映画の世界に首を突っ込んだのも「何となくすばらしいわぁ」という 「ふとした感覚」が生まれてきたためであろう。

常に、どんな対象に対しても、「何となーくすばらしい」「何となーくすばらしい」の連発で日々を送っている彼女だから、彼女の中の霊界は、「すべてをすばらしいものに変える。ますます、すばらしいものに出会える。結局、すばらしいものとして成功してしまう」というものができあがっているのである。

それだから、いつもフレッシュで素朴で、積極的なのだ。

これが、彼女の内にあった才能をフルに開花させたのだといえる。ところが、そんな彼女にも悪霊がつくことがあった。

はじめてお会いしたときは、やたらと憂うつなお話をしておられた。

それで、どうしたのだろうかと訊いてみたところ、「今、私、お墓の写真に凝ってるんです。

日本のお墓は何かおどろおどろしいけど、ヨローッパのお墓って、いつもお花が咲いてて、何となーくすばらしいでしょう」

それはいいのだが、お墓を撮りまくっているうちに、西洋の浮遊霊が山ほど彼女についてしまい、彼女自身の顔までが幽霊のようになってしまったのである。

そこで彼女が除霊を受けに来たのである。

「わあ、頭がすっきりした。何となーくすばらしい気分」と、すっかり元気を取り戻したのである。

このときの彼女は、マイナスの念波とプラスの念波が鉢合わせになったケースだったといえよう。

ともあれ、「ふとした感覚」が人生を決めてしまうことが少なくないのであるから、決してないがしろにしてはならないのだ。いい「ふとした感覚」をいつももつように心がけよう。

過去から現在に至るまで、多くの哲学者や思想家たちが、実存哲学だの、唯物哲学だのとさまざまな自説を標榜してきたが、それらの大本になっているものは、その人を取り巻く時代背景と自己霊を含む霊界からのさまざまな霊たちの出す念波だと考えていい。

たとえばマルクスの資本論の本質は、霊界風に説明すれば、彼の抱く強烈な社会に対する怨念であり、そこに取り巻く執念霊が生み出す、智恵の砦なのである。

自分のもつ怨念と同じ怨念に満ちた執念霊が、マルクスに資本家に対する怨念に満ちた資本論を書かせたのである。

だが、実はこの背景にはもっと奥深い主神の経綸が隠されている。

本当をいえば、マルクスは悪神の使者ではないのである。鬼神の使者という方がいいかもしれない。こんなことをいうと、キリスト教系の方は、大反発をされるかもしれないが、本当なのだ。

やがて、社会主義陣営や共産主義陣営が、温和な協調を尊ぶ社会主義的ブロック、自由経済陣営に変貌した暁には、自由主義陣営も、社会主義的な国の統制や強力な国家指導によって、世界経済をまとめあげようとする時代になっているのである。

そして、国の内外ともに、協調体制を抜きにしては、いかなる国の経済も語れないようになっている。

そうして、どちらの陣営も、だいたい同じような経済構造と経済方針をもって進まねば、両方とも成り立っていかなくなってきたときに、世界連邦政府樹立の足がかりができあがるのである。

大きく分けて、世界の経済は三つの大きな経済ブロックと一つの小規模な経済ブロックとに分かれる。

すなわち、計四つの経済ブロックによって世界経済の骨組ができあがることになっているのだ。

日本は、最初は最も大きな経済ブロックの総幹事国となっていくが、あることがあって、一転して、一番小さな経済ブロックの長となる。

文化、芸術、宗教、学術、教育、科学の研究センター及びすべてのエッセンスを集めた高度で独自な文化経済国となって、 GNPは世界で四十番~四十五、六番ぐらいになる予定である。

そのころ、GNPがトップになっているのはカナダであり、ずいぶん、世界も変わっていることになる。決して、この三十年ぐらいのことではない。

もっと先ではあるが、そんなに先すぎないというほどの未来のことである。そのころになったら、マルクスが、善神が鬼となって世界の根幹を変えようとしていたときの神使だったことに気づくだろう。

「宗教はアヘン」といったり、「宗教も神も認めない」と主張しているから、宗教家にとっては、まさに悪魔かもしれない。

しかし、天地創造の主神とは、宗教だけをつくったわけではない。政治、経済、学問、芸術もすべて創造主がおつくりになったものなのである。宗教はそのうちのひとつにすぎない。

そこで、政治、経済、宗教、学問などを大きく包括する主の大神の働きから見れば、マルクスも、大きな意味でこの神様の使者であり、決して悪のための悪なのではない。

ほとんど悪と似てそっくりだが、国祖、国常立之尊様の分身で、赤黒龍蛇となって、究極の善に立ち帰るその日まで、鬼の立場を貫いておられるのである。

「ああ、マルクスは自由主義陣営からは悪魔、鬼と呼ばれたが、世界の経済も改良に次ぐ改良によって、ほどよく調うようになった今日、両方がうまくやれるようになってはじめて、マルクスの世界史に対するあの鬼の鉄拳があったればこそ、今日の繁栄と平和の体制があるのだということがわかる。やはり、鬼神と恐れられた地球神霊界の主宰神国常立尊様の奇魂の御働きだったのだ」というふうに、誰にでもはっきりとわかるときがくるのである。

よい「ふとした感覚」を生むには

それはさておくとして、先に述べたように、直感、概念、認識という順で、人の人生観が決まってしまうのだが、このことを理解すれば、哲学などというものが、いかに役に立たないものかが容易に理解できるだろう。

すべての原因が「ふとした感覚」にあるのだから、哲学・思想などを深く研究しても、自分自身の解決策を見つけられるはずがないのである。

哲学・思想、あるいは教養というものは、表面的な形にすぎないのであって、「ふとした感覚」の世界を認識せずにこれを取り込んでも、かえって泥沼と迷路にはまり込むだけである。

理想は、良き「ふとした感覚」を絶えず積極的に見い出して、それを不動のものにするために、哲学する心、思想する心、倫理する心、教養を学ぶ心を従えて、霊覚が、完全に知性というものの牙城を統率しているようにすることだ。こうして、はじめて両者が真に生きることになるのである。

では、この良き「ふとした感覚」を生むためにはどうしたらいいのだろうか。明るく発展的な感覚にし、自分自身のご本霊を発動させるにはどうしたらいいのだろうか。

まず第一が、少しでもいい土地に住むことである。

第二に少しでもいい人間とつきあうことである。第三に少しでもいい自然の景色と気にふれることである。第四に少しでもいい神気にふれることである。

第五に、少しでも人生を明るく前向きにする言霊の宿る、いい本を読むことである。第六に少しでも美意識を高める芸術にふれることである。

第七に少しでもいい心と感覚を呼び起こす、色彩とムードのあるインテリアを選ぶことである。第八に少しでも明るく前向きですがすがしい感覚になれるファッションを選ぶことである。

第九に少しでも日あたりのいい家と部屋に住むことである。第十に少しでもいい念と感覚が出てくるよう、いい思いを湧かせる祈りを習慣化させることである。

第十一に少しでもいい感覚を人に与えるような態度、言葉、礼を行い、相手がそう思う感覚を自分にはね返らせることである。

このようにして自分を豊かに明るくし、意欲的で、発展的で、美しく、すばらしい世界を大切にしている人間は、ますますいい感覚といい人、いい認識、いい運気に恵まれるようになるのである。

できるかぎりいい環境に自分を置くことが大切なのだが、現実的には、不本意ながら悪い環境に身を置かざるを得ない人も多いだろう。

そのような人はどうしたらいいのだろうか。

これに関しては、臨済宗の祖・臨済禅師がこのようなことをいっている。

「随所において主たらしめば、立所悉くこれ真なり」

随所随所において自分が主体となって、環境に影響されず、かえって環境に影響を与えるようになれば、そこに真がある。

つまり、何をやっても自分自身の本質的な御魂の発露から為され、われではない、自己の本質的霊性が赫々と露呈していることとなる、という意味なのであるが、これをもっと平たくいえば、どんなに苦しくても悲しくても、人間関係などの環境に影響されず、逆に環境に影響を与えるような自分となれば、そこに本来の自分がいて、何の迷いも悪いもない、真実の自己実現ができているこれがだいたいの意味である。

「随所において主たらしめば」という主体的意志をもって、ふとした何げない世界を、強引にでもいい方へもって行けるような自分をつくることができたら、環境を支配する人間、そして、環境を自分でどんどんつくっていける人間になれる。

さらにいえば、自分が生まれてきた家、親、国、人種、親の財力・・・・・・など、どんな環境にあっても、これを一切眼中に置かず、かえってバネとすれば、人は一切の愚痴、不足がなくなって、た成長と進歩があるのみである。

そういう、一切の環境を踏み越えて、自分を見失わな真人、哲人、至人を主というのである。

「汝らも、そうなれ、そうなれ、バカモノ」という、強烈な迫力で押しせまってくるのが臨済禅師の霊である。私も、何度かこっぴどこの霊にしごかれている。

たとえば、人間関係での葛藤の多い職場で働いているとする。

この場合、職場の環境がどうのこうのという前に、自分自身が積極的に明るく発展的な存在となって、人間関係を改善していけばいいのだ。

もちろん、どうすることもできない人は無視するか、けんかすべきときはあっさりと見事にけんかして、勝っても負けても悠然として仕事を楽しんでいたらいいのだ。

そうすると、相手の方が気を使うようになる。胆力の差だ。そうすれば、職場の同僚は生きるし、先輩は改心するし、自分も図太く生かすことができるだろう。

こう書くと、いい場所に住め、いい環境に身を置けというさきほどの話と矛盾するように思われるかもしれないが、決して矛盾しているわけではないのだ。

いい環境に身を置くのが何よりも第一番だが、それが許されないのなら、それを天の試練と受けとめて、環境に影響されるのではなく、かえって環境に影響を与えるよう、勇敢な開き直り人間となるべきだ、ということなのである。

実際のところは、ある事柄に関してはいい環境だが、別の事柄に関しては最悪だ、というふうに、入り交じっているはずだ。

だから、最悪の事柄に関しては、勇敢な開き直りで立ち向かえばいいのである。

また、こう考えてもよい。良い環境、悪い環境といっても、所詮主観的な問題である。客観的には環境に恵まれていても、不満ばかりいう人もいるし、恵まれなくても満足している人もいる。

つまり、良い環境であるか否かは本人の尺度いかんなのであり、良い環境にしてしまうのも悪い環境にしてしまうのも、すべては本人の意思と努力ととらえ方にかかっているのである。

だから、社会的な客観的基準からして、すべての環境が劣悪だと判断したら、こうして、本人の尺度を柔軟にパッと変えてみることだ。

「幸せないい感覚」を失うことがないよう自分自身を救済するために。

こうして、常に環境に対して主体性をもち、「ふとした感覚」を大切にする人は、常に善霊を呼び込むことができるし、いかなる場合にも、強運に恵まれる人となることができるのである。

第三章 瞬間に開運する大除霊

なぜ除霊が必要なのか

ここまで私は、霊という存在について、「霊とは何か」「霊はどのような形で人間に影響を与えるか」「どんな人が霊にやられやすいか」「どんな場所が危いか」「霊に対してどのような姿勢をとるべきか」というテーマで書き進めてきたが、だいたいのところは理解いただけたことと思う。

私がこの本で述べようとしていることは、必要以上に霊に関心を向けず、しっかりと正しい学問を積み、その学問に基づいて正しい信仰力を身につけることが大切なのだということ。

そして、日々の平凡な生活の中で、進歩、発展、調和をめざして常に努力し、目前のただ今ただ今を一生懸命生きることである。

そうすれば、その努力する心と姿勢に守護霊も感動して大きく働き、悪霊を追い払ってくれるのだ。

そのような人は知らず知らずのうちに除霊ができていて、ますます進歩、発展、向上し、神様の願う人物になれる、というわけなのである。

言われてみれば、ごく当たり前のことだ。どこに目新しいことがあるのか、と思われることであろう。

実は、そのとおりなのだ。私がいっていることはごく平凡で、ごく当たり前のことなのである。

しかし、人生の真理というものは、そうしたごく平凡で当たり前のことの中にこそある。難解な哲学書や宗教書の中に真理が眠っていると考えている人が多いだろうが、決してそうではない。

日常生活のごく平凡な一瞬一瞬に、永遠の真理が隠されているのだ。そして、それを発見して実践している人が、達人と呼ぶに値する人なのである。

が、悲しいことに、そうした達人を世に見い出すことはまれである。難解な書物の中に真理を見い出そうとして、かえって泥沼の中にはまり込み、混沌の世界に魂を迷わせている人がほとんどなのだ。

観念を固めてしまうこうした学問のため、ますます御魂を曇らせ、悪霊のとりつく隙をつくってしまっているのが現実である。

しかし、まだ真理を探求しようという姿勢のある人はいい。真理なんかどうでもいい、愛や誠なんてどうだっていい、今が楽しければそれで十分だ。

こう考えている人がほとんどなのである。だからこそ、意志の中に中心支柱が定まらないで、悪霊にやられ霊障に苦しむこととなるのである。

ところで、神道の大祓祝詞の中に、「下つ岩根に宮桂太しき建て・・・・・・」という言葉があるが、これは、単に固い岩盤の上に宮柱を建てて建築をするという浅い意味ではない。

「しっかりとした精神のもち方の上に、よしやるぞ、という大いなる意志の力と信念の柱を打ち立てれば、それこそが、神様がお降りになる宮柱となり、私たち一人ひとりが神を宿す神の宮となるのだ」という、深い意味が込められている。こうなれば、悪霊にやられないどころか、ご神霊をも宿すようになるのである。

だがしかし、前述のような生活を長く続けてきた人は、なかなか想念とその生き様は変えられない。自力で一切を転換するのは、もはや不可能に近い。

ちょっとやそっとの努力では、進歩、向上、発展を求め、自分をギリギリまで高めようとする姿勢は生まれてこない。

なぜなら、長年の習慣の中に悪霊がすでに巣をつくり、御魂を何重にも取り巻いているからである。

実は、私はそんな人のために除霊をしている。御魂を取り巻く悪霊の雲を断ち切るために除霊をしているのである。

だから、除霊を受けると少しの努力でも想念を容易に変えられるようになる。

マイナスの方向にしか考えられなかった人が、ちょっとした努力でプラスの方向にものを考えられるようになるのだ。

そして、そのようなプラスのものの考え方、プラスの人格面を維持していると、自然に雑多な悪霊も寄せつけなくなる。

「大天運」でも書いたように、その人とその人の家のもつ本来の劫の大小があるので、除霊をしたからといって必ずしもすべての人が即座に病気が治ったり、性格が変わったり、人生が好転するわけではないが、それでも、医師や友人や家族がびっくりするほどの奇跡的な回復と変化をきたすケースも少なくないのである。

そこで第三章では、除霊の実際について述べてみたいと思う。

その具体的な方法や霊障の分類など、霊界の実相についてのより詳しい解説は、『神界からの神通力」に示しておいたので、興味のある方は、そちらを読んでいただくことにして、ここでは具体的実例をひとつあげて別な角度から述べてみたい。

そのため、本書では実際に私が除霊してさしあげた山本和子さん(仮名)と私、そして私の知人の高山さんとの鼎談を、そのまま再録することにした。

除霊について、大いなる参考になれば幸いである。

除霊を受けて、奇跡が起きた!

深見:先日除霊を受けたお友達は、その後どうなりましたか。

山本:はい。無事に元気な赤ちゃんを産んで、退院しました。

深見:へえーっ、赤ちゃん産んだんですか。それはよかった。たしか、胎盤に異常があったんでしたよね。

山本:はい。お医者さんも出産は絶対に無理だって。だから、奇跡としか考えられない、といってました。

深見:写真除霊でしたね。

山本:はい。それから一週間後に、超音波診断で検査したら、元に戻っていて……。高山それからというのは、除霊を受けてからですか。

山本:はい。回受けたのですが、そのときはあまり効果がなくて、西谷先生(私の弟子の西谷泰人救霊師)も、しつっこい霊障なのでまだ取りきれないからといって、写真でもう一度やってくださったんです。そしたら一週間後に胎盤が元に戻ってお医者様も、医学的根拠がないのでまったく信じられないって。

高山:その写真除霊とは、どのようにやるのですか。まだ教わっていないのですが……。

深見:本人がどうしても来れない場合にやるんです。写真を見ながらそこに本人がいると思ってやるんですが、要するに、相手の霊をこっちに呼び寄せたり、自分の霊が飛んでいったりして除霊をするわけです。遠隔除霊ですよ。

高山:山本さんの友人の場合、どんな霊がついていたのですか。

深見:写真に霊がついているのではありません。写真を見ていれば、その人の因縁がだいたいわかる。霊も審神できる。その霊を呼んだり追いかけたりして除霊するんです。

山本:それで、彼女の場合は色情霊が…..。

深見:そう、色情霊。婦人病はだいたい色情霊、女の恨みの霊です。それと、結核も女の恨みの霊であることが多い。同じ胸の病気でも、喘息はご先祖様が戒告しているケースが多いです。

高山:そうですか。ご先祖様の戒告ですか。

婦人病の原因となる木霊のたたり

深見:婦人病には、樹木の霊が原因となっているものもあります。

高山:木霊のたたりですか。

深見:そう、木霊のたたり、木を伐ったたたりです。特に、桜とか椿、柿、林檎の木などの花や実をつける木を伐ると、女性にたたって婦人病や腰、膝へきます。ところが不思議なことに、杉、松、ポプラ、ブナ、樫の木を伐ると男性にくるんですね。

高山:では、女性が杉や松を伐った場合はどうなんですか。

深見:女性が伐っても男性にきます。特に長男にきます。代々脳溢血でご主人が死ぬという家は、たいていご先祖が木を伐り倒している。それも、ご神木とはいかないまでも、大きな松や杉を伐り倒しています。脳溢血のほかでは、脳梗塞もそうですが。まあ、脳溢血が多いですね。

高山:女性にたたる場合は?

深見:さっきもいったとおり、花を咲かせたり果実をつける木を伐ると婦人病になります。ですから、子宮筋腫などの婦人病の場合には、生霊、死霊の女の恨みの霊と木霊のたたり。この二つの原因が考えられます。もちろん、色情地獄に堕ちてい先祖霊がついていることも多々あります。

高山:木霊についてほかに何か?

深見:そういえば、こんなことがありました。以前、代々きこりをやってきたという人が除霊を受けにみえたんですが、その人、書痙という病気で字が書けないと悩んでいたんです。それで、きこりだから木霊だろうと頭で考えたんですけれど、除霊をしたらそうじゃないんですよ。木霊のたたりじゃなかったんです。

高山:でも、先祖代々、木を伐ってきたわけでしょう。

深見:木を伐ってきたけれど、木霊はきこりのところへは行ってないんです。高山では、どこへ?

実は、山林のもち主のところへ行っていたんです。木を伐るよう命じた山林のもち主がたたられるんですよ。きこりは、ただ命令されて伐っているわけですから、必ずしもたたられるとは限らないんですね。

高山:なるほど。では、その人の書痙とかいう病気の原因は何だったんですか。

深見:両手のないご先祖です。その先祖霊が地獄に堕ちていて、救われようとして彼に ついていたわけです。そういうご先祖がつくと、本人も同じように苦しむことになります。もちろん、その本人もそれだけの業があったから、兄弟親戚数ある中で、子供のころから彼にのみついていたわけです。

上半身の病気は先祖の戒告

高山:山本さんの友人の場合も、そういう霊が……。

深見:そう、色情霊。色情問題で地獄に堕ちているご先祖と、怨念霊が合体して、彼女についていたんです。ちょっと特殊なケースですね。さっきもいったように、女の恨みの霊の場合は婦人病とか結核、これが最も多い。同じ胸の病気でも喘息の場合は先祖霊が戒告していることが多いです。

山本:ご先祖様が戒告する場合、病気にさせることもあるのですか。

深見:あります。遊んでばかりいないで、しっかりせい、しっかり先祖供養をしてくれ、お墓を調えてくれ、獄界から出してくれ等々の理由で病気にさせるんですね。この場合は、さっきいった喘息、それに蓄膿、難聴なんかも、戒告であることが多い。

山本:戒告であるか、怨念であるか、見分ける方法はありますか。

深見:だいたい首から上の病気は、ご先祖様の戒告である場合が多いですね。反対に、胸から下の病気は、地獄に堕ちているご先祖様。まあ、あくまでも一般論ですけどね。

高山:それで、除霊してもらって彼女はよくなったんですか。

山本:ええ、すっかりよくなって、ダメだといわれてた赤ちゃんまでも産んだんです。深見いや、心配してたのです、どうしただろうかと。

色情霊を背後であやつるたたり霊
山本:本当によくなりました。最初は、色情霊だとかいわれて少しショックだったようですけどね……。

それで私も考えたんです。彼女は私と似たところがあるんで、私も色情霊じゃないか、と。そのことを彼女に話したら、それじゃあ絶対にここに来るべきだ、といわれて….。

深見:そう。そういう理由だったのですか。

山本:ええ。それで、この前先生にみていただいたとき、やっぱりそういうことをいわれたんですよね。私の先祖にかなり女の人を泣かせた人がいて、泣かされた女の人の恨みが私についているって。そして、私が相手の人とうまくいきそうになる必ずダメになるのは、そういう女の人の恨みがついているからだ

深見:そうでしたね。

山本:私って、うまくいきそうで絶対いかないんです。自分でもわからないんですけれど、どうもうまくいきそうもない人ばかりに目がいって、うまくいきそうな人には目がいかないんです。

深見:ところで、お母さんのご実家の姓は?

山本:加藤。

深見:加藤家のご先祖様は水軍ですね。おそらく熊野水軍だと思います。河野水軍、村上水軍、毛利水軍、熊野水軍ってあるんですけど、織田信長に協力した熊野水軍ですね。

山本:私の母方の先祖が?

深見:そう。それで、敵を水へ追い込んで水死させているわけです。直覚審神で観ると三百十九人かな。その三百十九人の恨みの霊が合体して合体霊というんですけど二十メートルぐらいの大蛇になっているんです。これに、自殺した霊や地獄に堕ちているご先祖の霊がついているわけです。

山本:じゃあ、色情霊ではないんですか。

深見:色情霊もありますよ。でも、色情霊をうしろからあと押ししている霊があるんです。それが、人の霊が合体した二十メートルくらいの大蛇。

山本:その人たちが加藤家の先祖なのですか。

深見:いや、加藤家のご先祖様に殺された人たちです。三百十九人の。ご先祖様が殺したから復讐するために子孫のあなたについているんです。その人たちが合体して、二十メートルくらいの大蛇になっている。頭にツノが生えていて、ウロコが全部人間の顔をした大蛇。蛇の体中、顔、顔、顔ですよ。

山本:それがついているうちは、なかなか幸せになれないんですか。

深見:そうね、恨みが強烈だからね。普通に殺されたのなら、地縛霊となってその土地、たとえば古戦場などに残っているんですが、裏切られたとか、ペテンにかけられて殺された場合は、「おのれ、クソーッ!」と、しつこく恨み続けるんです。

一般的に、恨みの霊はここ一番というときにワッ!と出てきます。十代、二十代でやったんでは面白くない。

だから三十年、四十年もじっと待っていて、もう少しで総理大臣とか社長になるというときになると、復讐するんです。

ガンにしたり、心不全にしたりといった具合に。そうすると本人は「ああ、私が営々として築いてきた四十年の人生は何だったんだろう」と、本当に失意の底に沈んでいきます。これを観て、「ヤッター!」と喜んでるわけです。とにかくはじめからやらないで、もう少しというところでやるんですね、頭のいいたたり霊、怨念霊は。

山本:私の場合、先生のいうとおりです。

深見:そうでしょう。なにしろ三百十九人ですからね。しかも全部武士。頭いいですよ。

だから、普段は自分たちではやらない。ほかの色情霊なんかを前に押し出してやるわけです。

高山:だから、霊視だけで審神する霊能者は、色情霊と間違えちゃう。

深見:そのとおりです。霊視だけで判断する霊能者は、完全にごまかされてしまいますね。見るだけ、聞くだけではダメなんです。見ても信じない、聞いても信じない。

一度否定しておいて、それが正しいかどうか、正しい霊的知識に基づいて直覚的に判断して、それでも間違いなかったらはじめて正しいとする。こういう姿勢が必要です。

だから霊能者でも、いや霊能者であればこそ、真実の学問と教養に裏づけられた高い霊覚が必要なのです。

高山:なるほど、そのとおりですね。ところで、先のたたり霊ですが、どれくらいの期間たたるのですか。

深見:だいたい六代か七代は続きますね。本家が消えて姓名が変わるとか、跡取りがいなくなったりすると、もうこのあたりでいいだろう、ということになるんですが、それでも、たたり霊自身には怨念が残っていますから、霊界には行かないんですね。

高山:どうすれば霊界に帰るのですか。

これがたたり霊除霊の極意だ

深見:たたり霊というのは、自分が苦しめられたから恨んでいるのであって、この恨みがあるからこそ霊界に帰れないのです。だから、これを晴らしてやれば、いいのです。

高山:具体的にはどうするんですか。

深見:私はプロレスラー必殺の逆襲秘法”と呼んでいるのですが、要するに自分自身が身代わりになって、ある程度恨みを晴らさせてやるんです。

たとえばプロレスを見ていますと、最初は必ず善玉が一方的にやられ、最後の最後のところでドンデン返しにして悪玉に勝ちますね。

猪木なんか、相手の反則技で血まみれになって、もうダメかというときになると必ず、卍固めでやっつけますよね、あれですよ。

高山:だから深見先生は、除霊の前はいつも顔面蒼白になって倒れるのですね。

深見:そうです。だいたい、最初に少しやらせてあげないと、たたり霊だって満足しませんよ。そうして、やられているときに完全な審神をやり終え、ここぞというときまで我慢していて、そのときがきたら反撃するんです。

高山:なるほど、よくわかります。

深見:もちろん、その痛みがある程度わからないと、おのずから出てくる慈悲心というものが湧かないということもあります。

しかしその気になれば、いつでもマイク・タイソンのように、一ラウンド二十秒ぐらいであっさりと除霊もできるのですが、そうすれば、救霊のお客様が、先祖代々の怨念霊に対して簡単に考えてしまう傾向があるのです。

自分を不幸にした原因である怨念霊がいかにすさまじいものであるかを知って、その先祖の犯した罪の深さを知っていただき、その子孫として生まれてきた自分は、本来どれだけ業が深いものであるかを悟ってほしいからなのです。だから、許せる限りの苦しい道をたどって救霊することにしています。

高山:それは…。また大変な道を……。早く反撃なされば楽なのに。

深見:風邪をひいているときなどは早くしますが、いつも早いと救霊が一丁あがりの作業のようになってしまうので、真心がこもらないし、打たれ強さの訓練にもならない。

高山:けっこう楽しんでいらっしゃるのですね。

深見:化かすのを見破ったり、法術をかけられるのをはずしたり、痛めつけられるのを攻め返すのは、まあ、プロレスの醍醐味のような楽しさではありますね。

高山:やっぱり……。

深見:でも、反撃といっても、決してパワーでやるわけではありませんよ。絶対に、愛と真心でやらなければなりません。霊界とは意志と想念の世界ですから、どんなにわれわれが頑張っても、死んだ霊には勝てない。何といっても、むこうは長年死者をやっているんですから。

高山:長年死者をね……。

深見:それに比べて、こっちは半分肉体なんです。霊界については死者ほど詳しくない。だから、どんなに頑張ったって勝てっこないですよ。

霊能者になりたい人に教えます。今すぐ死になさい、と。

死んだら誰でも霊能者ですからね。それはともかく、霊には、こちらがどんな気持ちで除霊をしようとしているのか、本当に愛と真心でやっているのか、それとも自分をどこかに閉じ込めよう、払いのけようとしているのか、一発でわかるのです。

だから、行者さんとか念力パワーで除霊する人の場合、特に天狗とか龍、あるいは稲荷の強烈なのがその行者さんについていれば、怨念霊のほうから逃げ出しますよ、怖いから。

高山:恐怖心から。

深見:そう、恐怖心で。むこうのほうが強いと思えば、たたり霊だって裸で逃げ出します。けれど、すぐに戻ってきます。本当に改心していれば二度と帰ってきませんが、改心してないものですから、何度除霊しても戻ってきます。しかも、戻ってくるたびに恨みを深めて・・・・・・。

高山:だから愛と真心が大切なのですね。

深見:そうです。あくまでも愛と真心、この一点において自分の心をきわめなくてはなりません。しかし、じゃあ愛と真心さえあれば誰でも除霊ができるかというと、そういうわけでもないのです。恨みを完全に解決するには、それなりの方法があるのです。

高山:その方法とはどんなものですか。

深見:その前にこんな話をしましょう。人間って、説得されて改心できると思いますか。

「君、ここが間違っているから改めたほうがいいよ」といわれて、すぐに改心できる人はどれくらいいるでしょうか。立派な人物はすぐに改心できるでしょうけれど、普通の人間にはなかなかできません。

頭ではわかっていても、心がついていかないのです。普通の人でさえこうなのです。

ましてや、長年恨んできた霊が説得されたぐらいで改心するはずがないのです。「恨むのはいい加減にやめにして、霊界に帰りなさい。改心しないと、永遠に地獄の苦しみを味わい続けることになりますよ」といっても、「それはわかる、だが、あんなに苦しめられたのに、これが許せるか。たとえ無間地獄に堕ちたって構わない。あいつの家だけは許せないんだ」といってくるんですね。

高山:だから説得してもあまり効果はないと。では、どうするんですか。

深見:これは『神界からの神通力』でも書いたんですけど、本当に改心させるには、前世からの因果を教えてやらなければならないんです。

人間はわけもなく苦しんだりひどいめに遭ったりしません。必ず原因があります。特に、殺されたり自殺しなければならないほどの苦しみを味わった場合には、前世からの因縁としか考えられない。

高山:前世からの因縁?

深見:そう、前世からの因縁。たとえば、ここにいる山本さんだって、冷静に考えたら、誠心誠意を尽くしてまじめに生きているのに、なぜこんなめに遭うのか、最初はわからなかったはずです。

それを、「ご先祖に騙し討ちにされた三百十九人の恨みが原因ですよ」、といわれて、彼女ははじめて納得できたのです。

高山:なるほど、そのとおりですね。

深見:しかし、それでもまだ不十分なのです。なぜなら、納得はしても改心していないからです。ご先祖が悪いのはわかった。

でもなぜ、それを自分が償わなければならないのかって。おそらく彼女も、そういう気持ちだと思いますよ。

山本:そうですね。では、どうすれば改心できるのですか。

深見:それには、さっきもいったとおり前世の因縁、カルマを正確に教えるしかありません。

なぜ自分はそういう家に生まれてきたのか。悪いご先祖のところに生まれてきたのか。それは、そういう家に生まれなければならない理由があったからです。

前世で自分が、それだけの種を蒔いていたからで、これが前世の因縁なのです。これを教えればあなただって、「ああ、そうだったのか」と改心できますよ。

高山:それと同じことを、恨んでいる霊たちにするわけですね。

深見:そのとおりです。

山本:私のおうちを代々恨んできた、その三百十九人の霊の前世は何なのですか。

深見:南北朝ですね。北朝の水軍ですね。彼らは、自分たちが山本家のご先祖からやられたのと同じようなことをしています。今度は毒殺です。和睦をしようといいながら、毒殺したんですよ。食べ物に毒を盛って、苦しんでいるところを夜襲をかけて殺したという感じですね。

高山:その因果が巡って、今度は自分たちが、というわけですか。

深見:そのとおりです。

高山:そういうことを霊にいうのですか。

深見:そう、いって聞かせます。正確な宿命通力と言霊で前世の因果を語るとき、その霊の本性が知っていますから、いわれたとたん、霊はハッとして瞬間に覚醒するものです。

それでも、数が多い場合は、いちいち言霊で語ることは不可能です。そこであらたに決定打を打つんです。

高山:何ですか。その決定打というのは?

深見:見せるんですよ、そのシーンを。毒を盛って夜襲をかけ、一族郎党すべてを殺したシーンをハッキリ見せてやるんです。そのときの顔は自分の顔と同じだから、「ああ、本当にそうだったのか。これでは無理もないな」と悟って、改心するわけです。

高山:見せること、できるんですか。

深見:できますよ。その方法についてはまだ明かせませんけれどね……。

神様が直々に動かれてはじめて可能なことなので、神様がお許しになった救霊師にしか、絶対に許さないんですよ。

たとえ、もしその方法を知り得たとしても、ご神霊が直接動かなければ何の効能もないわけです。

そのように愛と真心をきわめて、前世の因果関係を教えてあげれば、どんな悪霊だって改心しますね。

とにかく、人間はわけもなく不幸にならないし、事故にも遭わないし、運もよくなりません。運のいい人というのは、前世で人を幸せにするか、喜ばせたか、徳を積むかしていますし、今世でもいいことをしています。

善因善果の法則は絶対変わりませんからね。それがわかってはじめて、納得して悟りが開き、改心できるのです。そうしないで霊を追い払っても、絶対にまた帰ってきますよ。

高山:おっしゃるとおりですね。

深見:けれど、改心しただけでは、まだ不十分なんですよ。

高山:えっ、まだダメなんですか。

深見:そう、まだ足りない。というのも、どんなに悟っても、殺されたときの断末魔の苦しみが残っているから。「自分が悪かったのはわかった。けれど、この苦しみと痛みは耐えられない。この苦しみの原因は何だ。そうだ、俺はやっぱり山本家の先祖に殺られたんだ。コンチキショー」と、恨みが再燃するわけです。

高山:では、どうするんですか。

深見:傷があれば傷をいやし、食べたいものがあれば食べさせ、服が破れていればきれいな服を着せてあげるんです。

カレーライスが食べたいといえば瞬間につくって食べさせてやり、傷だらけで痛い痛いといえば、霊体をきれいにしてあげるんです。

そうすれば、「気持ちいいな。いろいろあったけど、そんなのどうでもいいじゃないの、なあ、みんな」といって、霊界に帰っていくんです。

快楽と安堵という気を神霊界から直接転送して、神霊漏神通力を駆使する。こうして断末魔の苦しみを取ってあげ、食べ物を与え、衣装も替えてあげ、女性だったら口紅もさしてあげる(私がやるときだけ)。そうしてから、霊界にスーッと送るんです。

高山:そうすれば霊界へ帰るんですか。

深見:帰ります。もっとも、霊界といっても、霊界を知らない霊もいるんですよ。笑い話ではありませんが、「霊界へ帰りなさい」というと、「レイカイ?何だそりゃ月例会のことか」なんてこともあるんです。

怨念だけで生きている霊は、周りの世界なんか眼中にないから、霊界があることさえ知らないんです。

そこで、生きていたときと同じように山があり、川があり、家があり、職業もある世界があるんだよ、ということを教えなくてはなりません。そこまでしてあげてはじめて除霊が終了するんです。

山本:除霊って、たいへんなんですね。

家代々の因縁と入籍問題

山本:ところで、恨みというのは、ついている人数というか霊数というか、そういうもので強さが違うのですか。

深見:そう、数が多ければ多いほど、怨念パワーも強い。

山本:じゃあ、私の場合は三百十九人だから、かなり……。

深見:ものすごいです。しかも、全部武士だから、根性の入り方が違いますね。要するに、野球のオールスター・ゲームのようなものです。一番から九番まで三割打者がずらっと。まあ、ふつうじゃないですね。

山本:私だけじゃなくて、親から親戚まで、本当にみんな不幸なんです。

深見:そうでしょうね。加藤家はそれだけのことをやってきた、ということですね。山本母は加藤家から嫁いできたんですけど、母は山本家の恨みの中にも巻き込まれちゃうわけですか。

深見:そう。山本の姓を名乗ったら、その中に巻き込まれます。だから、結婚する前は幸せだったんですけれど、結婚したら急に不幸になったり病気になったりすることがあるんです。

だいたい、入籍した瞬間に変わりますね。しかし、あなたの場合は逆です。結婚して、お父さんの方が悪因縁を多く背負ったことになります。山本逆に戸籍から出たらどうですか。

深見:すっきりします。籍を抜いたら急に病気が治った、という人も珍しくありません。

ただし、血を引いている子供の場合は別。籍を抜いても影響を受けます。因縁が血脈の中に残っていますからね。

でも、離婚して籍を抜いて違う姓を名乗ったら、もうやられません。子がない場合はあとまで追いかけてこないです。

山本:要するに、女性が結婚すると相手の背負っている霊的なものを受けちゃうわけですね。

深見:そうです。そして、その逆もまた真なりです。だから結婚は怖いんです。姿形だけで配偶者を決めると、とんでもないことにもなりかねないですね。

そこで私は、結婚を望んでいる男性、女性がいれば、こんなふうにアドバイスすることにしているんです。

まず三つの要素を考えなさい、と。一つは相手の家系を見て、夫婦が長く続いているかということ。両親、兄夫婦、弟夫婦はどうか。親戚縁者はどうか。

それを見て、ときどき別居してもまた元に戻ったというくらいなら合格。

普通の結婚をしているところは結婚運もいいんですよね。しかし、才能や財産はあるけれど、三回も四回も結婚と離婚をくり返しているとなると、結婚運はよくない。

山本:相手の両親や親戚の人たちが離婚ばかりしている場合ですね。

深見:そう、それといまひとつは、相手の男性の性格が明るいかどうかということ。もちろん明るければ合格です。

だいたい、性格がすごく明るくて因縁が深い、という人はあまりいませんね。また、性格が明るくて重いという人もいないし、性格が明るくて冷たいという人もいない。

性格が明るければたいてい、軽いし温かいですね。ということは、明るい人はいい霊界から来た人ということなんです。

少しばかり家のカルマを背負っていても、やがて切れていきますから、性格の明るい男性は結婚相手にふさわしいといえるわけです。

耐え忍ぶ心が最も大切

深見:あくまでも、ひとつの要素ですから、明るければ何でもいいというわけではありませんけどね……。

三つめは、相手の男性がひとつの仕事をだいたい十年以上続けているかどうかということ。そもそも男というのは飽きっぽいですよね。

たとえば恋愛にしたって、想い三年恋五年と昔からいうように、長続きしないのが普通です。それを、十年も同じ仕事を続けているということは、相当意志が強いということ。

いわば意志力、継続力が強いというわけです。そういう男性は、夫婦仲に飽きがきても、それを続かせるように努力しようとします。

そう簡単に奥さんを替えるようなことはしません。反対に、仕事や趣味をちょくちょく替える人は、奥さんもコロコロ替えることが多い。

だから、結婚相手としてはおすすめできませんね。仕事や趣味を十年続けているかどうか、これもひとつの基準になると思います。

高山:でも、一般的には二十代で結婚する人が多く、その場合には、ひとつの仕事を続けても十年に満たない人も多いと思いますけれど・・・…。

深見:そのときは、学生時代のサークル活動を参考にしたらいいでしょう。趣味でもいいですよ。とにかく、ひとつのことをずっと続けていたかどうかですね。

高山:たしかに、ひとつのことを長く続ける意志力がなければ、何をやっても実りませんからね。

深見:まったくそのとおりです。そのことは多くの人がいっています。人間は一霊四魂からできていますけれど、その中で何が一番大切かというと、平田篤胤は荒魂だと断言しました。

荒魂というのは表に出れば勇気、裏に出れば忍耐力です。ついでにいっておくと、荒魂のほかでは奇魂、和魂、幸魂というのがあって、奇魂は英知、和魂は協調、幸魂は愛情を意味します。

そのうち、荒魂、つまり忍耐力が一番大切だというんです。

たしかにそのとおりですね。どんなに知恵があっても、愛情があっても、協調心に富んでいても、それが一年しか続かなかったというのでは、何にもなりません。

人間は、肉体をもって生まれてきた以上、苦しいのは当然で、これをいかに忍耐して現実界に結実させるかにすべてがかかっているのです。

だから、結婚相手として男性を選ぶ場合、この勇気、忍耐、継続力となって表れる荒御魂が発達しているかどうかをよく観察しなければならないんです。

前世の因縁と結婚問題

山本:結婚しようとする場合、相手の男性は、先生がおっしゃった三つの要素をクリアしているのに、おうちのほうが、お母さんが何年も寝たきりで、弟さんがある日突然ポックリ病で亡くなっちゃったとか、不幸が続いているというときにはどうなんでしょう。結婚しても大丈夫なんでしょうか。

深見:そりゃ、少なくとも幸せとはいえませんね。でも、結婚運だけ見たら悪くありません。

仲のいい夫婦になれます。もちろん、健康で財産に恵まれて、加えて才能があったらいうことありません。

しかし、こと結婚ということに絞ったら、夫婦仲のいいのが一番です。どんなに財産があって健康でも、たえずご主人が浮気ばかりしていたら不幸ですね。

高山:そういう人って、たくさんいますね。

深見:でもね、結婚しようかどうしようか悩んでいる人は、まだ幸せなんです。

中には、そういうチャンスさえもない人もいるんですから。先日、こういう人がいました。「先生、色情因縁っていいですね。私、色情因縁がないから全然モテないの。たとえ不幸になってもいいから、どこかで色情因縁をつけてもらいたい」って。こういう人もいるんですね。

高山:それから見たら、あなた幸せじゃないの。

山本:いや、本人はそうでもないんです。もう安定したいの。波瀾に満ちすぎているから。

深見:それは、何度もいうように、山本家と加藤家の代々のたたり霊の仕業。

でも、おうちの因縁がそれほど深くても、今日までこれたのは守護霊のおかげです。あなたは二十五歳で守護霊が交替してますよ。二十五歳からガラリと変わったんじゃないですか。

山本:三年前、西谷先生に手相を観ていただいたときにも、二十五歳が転機だといわれました。実は、今二十五歳なんです。

今が転機といえば転機なのかもしれないけど、つらすぎるから、これが転機なのかな、と疑ってしまって。

深見:転機ですよ。これからきれいにしてあげますから。

山本:二十五歳は大幸運といわれたんですね。だから、今年は幸運なはずなんだけど

深見:幸運ですよ。運命が激変するようなこんないいお話ができて。

高山:この一瞬は大転機ですよ。

山本:そうですか?

深見:二十一歳のときに恋愛したでしょう。だいぶ傷ついていますよ。それからつまずきがはじまっているんです。いつも成就しない恋を追いかけているんですね。

山本:そうなんです。ど、どうしてそんなことがわかるんですか。

深見:それはあなたの潜在意識を読み取っているだけです。もちろん、守護霊に確認をしていますが。ところで、そうさせたのは霊障ですね。成就しかかったら潰すんですよ、二十メートルの大蛇が。

山本:今年こそしかかったんですけどね。でも、ダメみたい。

深見:来年の秋、二十六歳のときにきれいに整うでしょう。でも気をつけなければなりませんよ。

あなたが因縁の深い家に生まれてきたのはわけがあるんです。ハッキりいって、あなたの前世は武将です。しかも、お妾さんを五人もはべらせ、いつも競わせて喜んでいたんですから。

山本:あっ、そういう傾向すごくあります。本当に。

深見:男を競わせて喜んでいるという傾向ね。

山本ええ。いや、笑いごとではないんですけど、そういう傾向って本当にあるんです。どうしてわかるんですか。びっくりしちゃう。とにかく、そんなつもりではないのに、なぜかそうなってしまうんです。

深見:だから、それは前世がそうだから、五人の妾を互いに競わせていたんだけれど、やはり跡継ぎ問題で血で血を洗う争いに発展して、五人のうち二人が自殺してますね。そういう前世のカルマがあるので、今度は自分が男性で苦しむようになっているわけです。

山本:いつも苦しんでいます。

深見:そうして、最終的には「裏切られた。くやしい。私のことをやさしく思っていてくれているとばかり考えていたら、こんな結末になるなんて。もう、男なんか信じられない。でも、結婚もしなければ」と、不信感と恨みと葛藤に苦しみながら、それでも恋が交錯しているという状態に追い込まれて……。

山本:的確な表現……。

深見:でも、それは自分が悪いわけです。前世でそれだけのことをしてきたから、逆にやられるようなめに遭うんですね。その傾向は、三十五歳ぐらいまで残っています。だから注意しなければいけません。

山本:それは具体的に、どういう形で表れるんですか。

深見:たとえば、第二、第三の男性が現れて、適当に遊んではギリギリのところで逃げるといったような……。結婚して一年目の二十七歳のときが最初の危機。

山本:二十六歳で結婚できる可能性はかなりあるのですか。

深見:九分九厘間違いないでしょう。でも、二十七歳、二十九歳、三十三歳のときが危ないですよ。

いろいろな男性が現れ、自分では適当に楽しんでいるつもりでも、逆に相手にもてあそばれていたり・・・・・・。

たとえば妊娠してしまって男に逃げられ、「ああ、どうしよう。主人にバレたらたいへん。私って、どうしていつもこうなるんだろう」って悩むというような。

でも、それは自分が悪い。前世で女性に同じようなことをしたんで、自然にそうなってしまうんです。だから注意することです。前世のカルマだと思って、不倫のアバンチュールをピタリとやめるんですね。

山本:それは意志の力でできますか。

深見:できます。男性が近寄ってきたら、「実は私、危険な病気なの」とかいって、最初から距離を置くようにするのです。

そうすれば、それ以上近寄ってきませんから。だいたい三十三歳ぐらいまで、そういうことがありますから、意志の力で乗り越えなければなりませんね。

山本:それは霊の力じゃなくて、意志の力で抑えられるんですか。

深見:そう、意志の力で。でも、何度もいうように、前世のカルマでどうしてもそういう傾向に流れやすいから、相当強い意志をもたなければやられます。たとえば、三角関係の泥沼にはまり込んでしまうとか。