大除霊(Vol.6)

病気の苦しみも因縁解消の一手段

三番目の苦しみは病気である。

生まれながらに身体の不自由な人、先天的な病気を抱えている人、長い間にわたって闘病生活を送っている人、絶えずどこか体の不調に悩まされている人・・・・・・。

こういう人の苦しみも、因縁の解消のためなのである。自分の不摂生からくる病気に関しては、この限りではない。

風邪や骨折などの一過性のものなら別に悩むほどのことではないが、不治の病ともなれば、本人はもとより家族全員が地獄の苦しみを味わうことになる。

ときには、苦しみに耐えかねて、自らの生命を絶つことさえある。

したがってこの病気の苦しみは、そのレベルによっては二番目のお金の苦しみと順位が入れ替わることも多い。

比較的軽度な病気であるならば、お金の苦しみの方がつらいだろうし、重度の病気であるならば、お金で苦労する方がまだましだ、ということになろう。

いずれにせよ、死の苦しみ、お金の苦しみ、病気の苦しみの三つが、因縁の深さにおいてワースト3であるし、反対に因縁解消の手っ取り早さという点ではベスト3なので ある。

人間関係で葛藤して因縁解消

四番目は、人間関係の葛藤で苦しむことである。

先にあげた三つの苦しみを逆さにすれば、「長寿をまっとう」できて「経済的にも豊か」で「健康に恵まれている」ということになる。

こういう人生は、まずまず幸せな人生だといえるだろう。

だが、それだけでは不十分であり、必ずしも幸福になれるとは限らない。

たとえば、職場の上司にいつもいじめられていたらどうだろう。最悪の奥さんをもらってしまい、常に悩まされていたらどうだろう。

殴る、蹴る、いたぶる、浮気する、まったく、男としても人間としても尊敬できない鬼のような夫をもっていたらどうだろう。

決して、幸せとはいえないはずだ。人間関係で激しい葛藤がある場合も、人は苦しみま深刻に悩むのである。

中でも特に、夫婦関係での葛藤は深刻である。働かずに酒ばっかり飲んでいる夫に苦しめられ、やっと別れて再婚したら、前よりももっとひどい夫だった。

妻が浮気ばかりしていて、家の中がまっ暗だ……………こんな家庭も少なくない。その苦しみは第三者が想像する以上のものであろう。

そのことは、家庭や夫婦関係を苦にして自殺する人が少なくないのを見ても明らかだ。お金にも健康にも恵まれているのに、嫁姑、小姑、夫婦関係を苦にして、自らの尊い生命を絶つ。

それほど、人間関係の葛藤から起きる苦しみも、またつらいものなのである

仕事に恵まれないのも因縁の解消

長寿をまっとうして、健康にもお金にも恵まれ、人間関係にも恵まれている。これはかなり幸せな人生である。

だが、それでもなお、ときとして苦しむことがある。どんなときかといえば、自分に向いていない職業に就いている場合である。

自らの能力や才能や夢が、思うように発揮されていない苦しみといってもよい。女性の場合は、永久就職である縁談、結婚運の良し悪しだろう。

つまり、自分を大切にはしてくれるが、決して自分の好みに合った夫ではなく、また、自分の能力を家庭や社会で十分に発揮できるようリードしたり、引き出してくれることのない夫。

つまり、決して人間関係としては悪くはないが、一生涯鳴かず飛ばずで終わってしまう相手であること。これが、女性の就職運であろう。幸せな人生としては、足りないところとなっているはずである。

ところで、自分に向いていない仕事、いやな商売といっても、本人が努力もせずにそう考えている場合は別である。

これは本人が悪い。しかし、努力をしても努力をしても、どうしてもいやな仕事に就かざるを得ないというのであれば、それは、因縁が原因となっているのである。

「俺はもっとやりたいことがあるのに、家業を継がなければならないので、いやいやながら毎日毎日同じ仕事をやっている」

こういう場合は、因縁解消のためにやらされていると考えるべきであろう。

しかし、仕事で苦しむのは最も軽い因縁であり、死ぬことやお金の苦労、病気の悩み、人間関係の葛藤から比べれば、はるかに楽であることはいうまでもあるまい。

だから、総じていえることだが、自分はたいへんだたいへんだと日ごろ思っている方は、自分の業のレベルをこの五段階のレベルにあてはめてみることだ。

必ずや上のレベルがあるに違いない。だから、そのことをしみじみと思えば、業の軽さもわかり、おのずから感謝の情も湧いてこようというもの。

よく、「己の業を悟れ」などというが、何も、たいへんだ、たいへんだ、業が深いのだと悟ることが悟りなのではない。

逆に、「まだ私は業が軽いのだ」ということを悟って、先祖や神様に対して感謝の念を抱き、積極的に、明るく元気に生きていくことの方が、よほどすばらしい立派な業の悟りではないかと確信する次第である。

霊は取れても宿業は取れない

すでに述べたように、業の抹消として一番の近道は死ぬことであった。大黒柱が若くして倒れる。

子供たちが次々と死んでいく。これが、最も手っ取り早い神様から見た業の抹消法なのであり、それだけ、早死にの家系、家族が次々に死ぬ家系というのは、因縁が深いわけなのである。

そして、その家伝の因縁に相応する御魂のもち主が、その家に生まれ出ることとなる。

「早死にの家系がここにあります。あなたに合っているのはここのおうちですから…」という具合に、生まれ変わるわけだ。これを相応の理という。

代々早死にする家系には、目に見えない宿業があるわけだが、それが表面に現れてくるときには、霊障と不運という形をとる。

たとえば、先祖に殺されて子々孫々を恨んでいる霊があれば、そのたたりによって早死にするという具合だ。

だから、こういった人に対して除霊を行うと、早死にの家系が改善されたり、病気が即座に治ったりすることもある。

しかし、たとえ怨念霊が取れたとしても、あくまでも宿業が真の原因であるかぎり、霊障ではない別の形で、悪運は傾向として残存していくこととなる。

つまり、除霊をすれば霊は取れるが、宿業は取れないのだ。

むろん、わずかな額でも神様に誠で捧げた玉串や、自覚と反省とによって捧げた誠の分だけは、必ず神様が、宿業を軽減するための功徳としてくださっていることは間違いない。

だからこそ、除霊を契機として人生が好転していく人が多いのである。

それでは、宿業や因縁にどのように立ち向かったらよいのだろうか。

苦しみながら徳を積むのが一番

私たちは、死の苦しみ、貧乏の苦しみ、病気の苦しみ、人間関係の苦しみ、職業の苦しみの五段階の苦しみを経て、少しずつ宿業を抹消しているわけだが、これとは別に宿業を抹消する方法がもうひとつある。

先にも少しふれた、徳を積んでいくという方法がそれである。

宿業の深い人、因縁の深い家に生まれた人は、体施、物施、法施を通じて、どんどん徳を積む努力を続けていくことだ。

そうすれば、少しずつは宿業は相殺される形となって抹消されていくのである。

こう書くと、「それじゃあ、苦しむのはいやだから、徳積みの方で宿業を抹消させて「もらおう」と考える人もいるだろうが、それは考えが甘い。

宿業がある限り、苦しみは避けて通れないのだ。どんなに徳を積む努力をしようと、業がある限り、何らかの形で苦しまなければならないのである。

この大原則に基づいて、徳を積むことによって得られる神仏のご加護や天地のお計らいというものは、大難を小難に縮小してくださる慈悲となり、老年期より青年期にその難をふり替えてくださる大悲となり、苦しみを感じさせないだけの体力、気力、胆力、精神力を与えてくださる大祐となり、困難を進歩、発展、成功のための糧とするように導いてくれる、善き師や友などとの巡り会いとなるのである。

そこで、もっとも優れた宿業の解消法とはどんなものかといえば、苦しみながら同時に徳を積んでいく、という方法である。

言葉を換えていえば、苦しみを単なる苦しみとして終わらせるのではなく、徳を積むための苦しみに変えるのである。苦しみを喜んで受けながら、それを起爆剤として同時に徳積みをする。

いわば、カルマという思いに絶対に負けていないで、徳積みに大和魂ギラギラ輝かせて立ち向っていくやり方だ。

苦を恐れないで、自らその苦の火中に飛び込めば、心頭おのずから滅却されて火もまた涼しくなるという、前向きに苦を忘れる良策だ。

人として生まれて、それから逃げる道がなければ、たとえ、あちらこちらが切りきざまれるように痛く、辛く、悩ましくとも、涙をポロポロ流していてもいいから、勇猛果敢に突き進んでいくべきなのだ。

それでも、地獄界で苦しんでいたときよりは因縁のどんなに深い家に生まれてこようとも、どんなにカルマに悩まされていようとも、何百倍も何千倍も楽なひととき、ひとときの連続であるはずなのだ。

肉体をもって業の苦を払うというのは、地獄界に何百年もいる人たちにとっては、誠にうらやましい限りの慶事である。肉体の衣がある分だけ、地獄界よりは随分楽にカルマの苦を払えているからだ。

特に、現代で、しかも日本という国に生まれている私たちは、衣、食、住はある程度恵まれ、自由というものにも恵まれている。

これが、インドやバングラデシュの下層民だったらどうだろう。パレスチナゲリラの息子として生まれていたらどうだろう。

ほとんど、地獄界のあり様と変わりがないはずだ。このことを思えば、私たちはまだまだ幸福である。

苦といってもまだまだ楽なものであり、たとえ苦しんでも、徳積みをするチャンスのある国と時代に生まれてきているのだから。

徳積みのチャンスを開く除霊

しかし、「言うは易く、行うは難し」というのが人間の偽らざる姿である。自らを磨くことから始めて、世のため人のために精一杯の精進努力をしようと思っても、ついつい惰性に流されて徳積みができなくなってしまうものだ。

おそらく、本書を読まれている方の中にも、身に覚えのある人がいることと思う。

どうしてそうなってしまうのかといえば、徳積みのチャンスに巡り会う最初の徳がないからなのだ。

その徳を蔽っているのが、ほかならぬ霊障である。霊障があるうちは、いかに本人が徳積みしたい、精進努力をしたいと願っていても、悪霊が邪魔をしているから、なかなか実践に移せないものだ。

仮に一念発起してやろうと思っても、病気であったり、家庭がゴタゴタしていたりで、それどころではなくなってしまう。

それを乗り越えるには、相当な覚悟と意志の力を要するわけである。

したがって、一般の人が積極的に徳積みをしようと思うならば、まず最初に、その霊障を取り除く必要がある。それがほかならぬ除霊なのだ。

除霊をすると、病気などの目前の障りごとが一挙に消えることが多い。仮に一挙に消えなくとも、少しずつ解消されていく。

その限りでは「除霊とはすなわち病気治しみたいなもの」と思われても仕方ない。が、しかしそうかといって、すべての人の運までが、一挙によくなるわけではない。

単によき健常人に戻るだけであって、除霊をしたおかげで、頭のよくない市会議員が突然総理大臣になるとか、シェア最下位のビール会社が、三ヶ月で業界のトップに立てるほどの天運に恵まれるわけではない。

当たり前のことだ。しかし、人によっては神様や霊界の取り次ぎ者に対して、これに近い期待をもって来る人も多い。

たとえば、「三千万円のお布施をお出ししますので、ひとつ先生、農作物倍増の秘策として、太陽をもうひとつ大空につくっていただけませんか。聞くところによると、先生は全智全能の宇宙神からメッセージや大超能力をさずかっているとお聞きいたしました。全智全能の神がついておられるのなら、それぐらいのことはおできになると存じまして。いかなる病いもすぐに治せるのなら、ついでに太陽をもうひとつつくってください」。

少しばかりの霊能力や超能力を鼻にかけて、自慢たらしく傲慢な態度で人に接する人がいるから、つい意地の悪い人はこうもいってみたくなるのだろう。

モーゼでも出口王仁三郎でも、狭い海を真二つに割ったり、巨大な隕石を坂の下から 逆あがりさせてみたりする程度で、お月さんを五、六個に増やしたり、金星を細長くしたり、地球を平行四辺形にすることはできなかった。

宇宙創造の主神ならばできるのである。このように、人間の取り次ぐ霊能力や超能力といっても、大したことはないのである。

だから、われわれはもっと謙虚に天地の法と自然の理を学び、人々とともに造物主の御心に立ち返る姿勢が大切なのである。

そして、天地自然の道に前向きで素直に従いつつ、努力する誠を失ってはならない。

それゆえ、本当の霊能者や超能力者となるには、その霊能や超能力は、神様の示すお力の千兆分の一にも満たないものであることを深く自覚して、能力にたよらず、能力を自慢せず、能力にふり回されず、天地順応の誠の道に志すべきなのである。

それではじめて、そのわずかばかりの人にない能力が善へと働く。神様からも、人々からも好かれて、地上における善行の道がまっとうされるわけである。

これこそが宇宙創造の主神、全智全能の神が、天与の霊的資質をもっている人々に対して懇願するメッセージなのである。

また横道にそれてしまった。除霊の話に戻そう。

さて、除霊をして霊はきれいになった。先述したように宿業はまだ残っているが、それでも、病気が治ることによって人生はガラッと百八十度変わるはずである。

なぜなら、徳積みのチャンスが大きく開け、運気が変わり始めるからだ。もう少し厳密にいえば、運気が変わるためのあらゆる環境が整うのである。

今までは、世のため人のために役に立ちたいと心の中では願っていても、仕事の関係、あるいは対人関係などで実現できなかっったものが、ある日突然、そうした障害が解消して、世のために働けるようなチャンスや巡り合わせと出会うようになる。

その結果、運気が大きく変わりはじめ、ちょうど、雲が切れて太陽の光が射すように心が晴れ渡るようになり、先祖代々の宿業や自分自身の因縁が消えていく登山道の入口が見えてくるのである。

つまり、世のため人のためにと願っているだけではまだ足りない。

その願いを実現させるべく、除霊を契機に環境を整える努力を重ねることこそが大切であり、そこから、悪運を強運や天運に切り換えるチャンスが広がっていくのである。

再生転生の回数が多ければ才能豊か

では、今生きている人間はいったいどれくらい再生転生を重ねているのであろうか。私が、人々の前世鑑定をして前世をドンドン辿っていくと、誰でもだいたい十五万八千年ぐらい前に突き当たる。

そのころは、日本では何々の尊と呼ばれる人たちが活躍していたと思われる時代、いわゆる神代の時代であろう。

おそらく、古代文明の栄えていたムー大陸があり、目に見えない神界と目に見える現実界の両方を人々がよく認識して、神人合一していた時代だと思われる。

最奥御魂の世界の歴史からいえば、おおよそ六億年前から再生の歴史ははじまっているのだが、一番新しい元津御魂の歴史からいえば、そのころから人間は再生転生をくり返してきている。

その回数は、だいたい平均四十七回から五十回くらいである。むろん、中には七十回、百回という人もいる。

だが、百回を越える人は、文明国の都会で五十人に一人ぐらいの割合である。近現代では、生まれ変わりの期間は平均三百年ぐらいであるが、古代になればなるほど、ゆっくりのペースで為されていることがわかる。

では、その再生転生をくり返していく間に、人間は何をしているのだろうか。

才能と徳分を積み重ねているのである。では、才能とは何か、それは「大天運」でも述べたように、学問と芸術と信仰心の素養である。

生まれながらに学問の素養のある人、芸術のセンスのある人、信仰心の篤い人がいるが、彼らは前世においてそれだけの御魂磨きをしているのである。

また、一般的に再生転生の回数が多ければ多いほど、才能が豊かであるといえる。

それは特に声に表れる。低音高音は別として、非常に声のいい人、響きのある声のもち主は再生転生の回数が多いのである。

だが、これはあくまでも一般論であり、再生転生が少なくても、一回一回の再生転生を密度濃く生きている人は才能豊かだし、絶えず中途半端で再生転生をつまづきながらやっている御魂の人は、何回再生してもあまり進歩がないわけである。

だから、数さえ多ければいいというものではないのだが、一般的にいって、再生転生の回数が多い人ほど才能に恵まれているということができるだろう。

とはいえ、仮に才能が豊かであっても、運がいいとは限らない。

よく、「彼は才能はあるのだけれど、イマイチ、社会的に成功しない」といわれる人がいるが、才能に恵まれていても、運の悪い人も決して少なくない。

では、なぜ運が悪いのか。それは、徳分がないからなのである。

社会で現実的に成功するには、才能や努力もさることながら、何にもまして徳分のあることが必須条件なのである。

たとえば、才能はあまりなくても、徳分があればアレヨアレヨで成功することがある。

たいして上手とは思えない画家の作品が、「どこかムードがある」などといった表現で高い評価を受けたりすることがあるが、それもひとつの実例である。また、歌手やタレントなら一層その傾向が大である。

人間にとって一番望ましいのは、努力、才能、徳分の三つを兼ね備えていることだが、そういう人は一般的に再生転生の回数が多く、その都度、その都度、人や社会に善を施してきた人である。

つまり、それだけ御魂に刻み込まれた前世の記憶、潜在意識、徳功が豊かであるということなのだ。

先祖霊が子孫について苦しめる本当の理由

さて、話が少し横道にそれた。再びカルマ、宿業の話に戻ろう。

私はこれまで、人間は自分自身のカルマに見合った家に生まれ、その家と自分の因縁に合った苦しみを受けること…。

たとえば家代々を恨んでいるたたり霊に憑依されたり、地獄に堕ちている先祖霊に憑依される等々によって、前世からの業の贖いをさせられると述べた。

このことについては、ほとんどの方には理解していただけたことと思う。だが、中には次のような疑問を抱いている方がいるかもしれない。

「たたり霊に子供が恨まれるのはわかる。しかし、地獄に堕ちている先祖霊が子孫に憑依して、これを苦しめるというのは理解できない。

いやしくも先祖であるなら、子孫を守るのが当たり前。自分が苦しいからといって、子孫に憑依して苦しめるなんてとんでもない。いったいどうなっているんだ」

お説ごもっとも。まったくそのとおりである。

だから私もときどき、先祖霊を前にして大演説をするのだ。

「あなたたちは、自分のことしか考えていない。今苦しいのはすべてあなた方が悪いのであって、子孫に憑依して救いを求めるなんて、筋違いもはなはだしい。子孫に頼らず、あなた方は霊界で自ら改心し、神仏に加護を乞い願い、その道にかなうように修業しなさい。しからば、どんなに地獄界で苦しくとも、その切なる祈りによって、神仏は光明をお与えになり、苦しみを軽減してくださるはずである」と。

しかし、どんなに私が大演説をしても、地獄の先祖霊はなかなか改心しない。もっとも、すぐに改心できるようなら、もともと地獄になんぞに堕ちることはないはずだ。

そこで、地獄の先祖霊が子孫に憑依する理由を説明しよう。

これは、先に、カルマの抹消プロセスと先祖霊の改心のプロセスが連動していて、ほとんど同じようになされていると述べたが、このカルマ抹消のプロセスを、霊界というフィルターから見るときに見えてくる、人間改心のドラマであると思っていただきたい。

それでははじめよう。その理由のひとつとは、子孫が祖霊の苦しみとともに苦しむことを通じて、本人の前世の贖いを苦によってするためである。

もうひとつは、神様のご計画として、憑依され本人の御魂がその苦しみとともに魂に焼きつけた研鑽なり、労苦なり、悲しみなりを、後になって果たさねばならない今世の使命のための肥料となすためである。

つまり、これらの御魂の焼き入れ焼き直しによって、重厚で立派な人間形成をすることができるからである。

こうして、神様はその人を社会に大いに役立つ人にしようとしておられるわけである。

いわば、これが天の試練だということができるだろう。そして三番目は、こうして子孫と先祖霊がともに苦しむことで、家代々の因縁を清算されようとされるためである。

このように、神様とは常に一石三鳥を狙っておられるのである。ところで、神様がなさる一石三鳥の方向性がおわかりになったら、次は血と先祖というテーマについてお話ししよう。

血と先祖って、私の先祖は代々A型が多い、というような意味ではない。実は、B型なのだ。これも冗談。本当のことをいえば、私たちの先祖代々の素質や霊は、すべてこの血の中に内包されているということなのだ。これは、恩師植松愛子先生が私におっしやったことである。

「私たちは、皆、先祖の代表としてこの世に出されているのです。いわば、背中に位牌を背負っているようなものです。そして、私たちの血の中にこそ、先祖代々行ってきたいいことも悪いことも、また、才能や素質も全部ねむっているのです。

だから、日常生活の中でいい想念をもち、正神界の神様からのいい波動や気をいただいていると、自然に血が清められて、先祖伝来のいい血が蘇ってくるのです。

それで、いい才能やいい素質も開花するわけです。<いのち〉っていうでしょう。<い〉は意であり、〈の〉は納であり、〈ち〉は血なのです。 先祖や神様のご意志や思いが、私たちの血の中に納まっていて、刻々に息づいているものが<いのち〉ということになります。また、〈ち〉は<智>でもあって、いろいろな叡智が血液の中から出されてくるという意味でもあります。

つまり、生活の智恵ともいえる本当の生きた叡智とは、いくら本を読んだって、人から話を聞いたって、決して出てくるものではありません。

やはり、実際に身体を動かして、全身の血をグルグル巡らしてはじめて湧きあがってくるものです。

だから、何でも体で覚えなさい、体で表現しなさいっていうのです。それでないと、頭ばっかりよくったって、実生活では何の役にも立たない人間になりますよ。

大学で勉強したことが、実社会でどれだけ役立ちますか。

本当の叡智を出したかったら、体当たりでいくしかありません。体当たりでいきなさい、深見さん。ちょっと深見さん。聞いてるのですか」

深見:は、はい、はい。聞いてます。聞いてます。体当たり、タイがアタれば食中毒。植松そんな、次元の低いことをいっているのではありません。

深見:次元界、座り過ぎたら痔限界。

深見:嫌われて……。

植松:んまあー。そんな下品なことをいっていたら、神様に嫌われますよ。

植松:まだやるのですか。

深見:二の句が告げず、師匠かな。

植松:まだいってる。今、叡智の話をしているのですよ。

深見:はい。ですから、私も今、叡智を出す練習をしていたのです。

植松:あなたのは、ダジャレでしょう。

深見:和歌の訓練で、同音異義の練習なのです。それで、先生の今おっしゃったように、壁に体当たりをしながら頭をこすりつけて、ようやく出てきたのが、今のギャグです。

植松:意味が違うわよ。

深見:それにしても、すばらしいお話でしたね。

植松:そう?

深見:そうですとも。われわれお弟子は、まったくはじめての先祖という考え方に感激いたしました。

植松:感激しているようには思えないけど。

深見:感激すると、私はこうなるのです。

植松:へえー。

深見:今日、ようやくわかりました。人間は、たとえ中年肥りになってお腹が出ても、背中だけは割合まっすぐなわけが。

植松:えっ?

深見:先祖の代表として、背中に位牌を背負わなければならないからです。

植松:またー。あれはたとえでしょう。

深見:たとえようもないぐらい、いいたとえでした。

植松:そんなくだらないことばかりいったり書いたりして、大切な本のページをさいてもいいのですか。

深見:私もそう思って、最初から息を抜かず、密度を濃く書いてきたのですが、何せ、内容が内容だけに。

つまり、やれ先祖の因縁だ、地獄界の苦しみだ、それは霊障が・・・・・・、などという、暗くて、重くて、深刻な単語と内容が続出してしまったものですから。

読者も相当読み疲れしていると思いまして、それで明るさのきまる植松先生にご登場願ったわけです。

植松:確かに、この本は少し重いわね。いつもの深見さんが講演でなさるように、明るく、面白く、ときとして真剣でシリアスな方が、私は好きですね。

深見:そのとおりです、植松先生。ほくも、その方が楽しくてやりやすい。次の本は、明るさの極致のような本ですから、ご安心ください。

しかし、こうやって、霊的に中休みしながら、次に水子供養のことについて詳しく書かねばなりません。暗くても、重くても、どうしても読者に知っていただかなくてはならないことがたくさんありますから。

もともと明るくて、何の問題もない人が、この本を読み進むうち、だんだん肩が重くなってきているのを承知のうえで、ここまで書いてきたのです。

霊にまどわされて、本当のことがわからなくなっている人や、自分は因縁が深くてたいへんだと思っている人や、諸々の悩みがあってふっ切れない人。

そう思いながら死んで、読者の肩に乗っかって、すがるように救いを求めている祖霊や諸々霊たちに、書物の言葉のしらべによっていって聞かせ、読者によって、読者のご本霊とともに、それらを大救霊し、大除霊をも為し遂げようと思っているからなのです。

というわけで、再びもとの世界に戻して語り始めよう。

今、植松先生が語っておられたように、血の中にすべての先祖の因縁のつながりなりエキスなりがあるのであるが、その血はどこから出てくるかといえば、脊髄からなのである。

私は、以前、こういうのを神様から天眼で見せてもらったことがある。

ある人の第一頸椎か第二頸椎のあたりから、尾骨、仙骨のあたりまで、なにやら黒ゴマのようなものが縦にビッシリと詰まって並んでいるのだ。何だろう?と思って凝視していたら、それが徐々に拡大されて大きく見えてきた。

よく見ると、裃を着たり、神主のかっこうをしたり、僧侶の衣装を着たり、十二単衣を着たりしている、悲喜こもごもの表現の先祖霊たちの群れだったのである。

まるで蟻の行列のようであった。「なるほど、こうやって脊髄にビッシリと煮染まったように先祖霊はくっついているのかあ」ということが、そのときはじめて知らされたのである。

まさに、植松先生がおっしゃったように私たちは、脊髄を「○○家先祖代々之霊位」と書いてある位牌のようにして、先祖霊たちをすべて背負っているのである。

植松先生のおっしゃったことは正しかった。

しかし、これは常時表に浮き出ているというわけではない。生ける子孫と祖霊とのつながりをつける、あくまで霊的なパイプロになっているのである。このことがわかれば、脊椎カリエスという病気が、先祖の強い業障からきていることがおわかりになるだろう。

人工中絶は天の法に引っかかる

最後に、水子霊について詳しく述べてみよう。

水子霊に関しては第一章で簡単にふれておいたし、『神界からの神通力」でも詳説しておいたので、それらを読めばよく理解していただけると思う。が、相変わらず水子霊に関する質問があとを絶たないので、さらに詳しく述べてみることにする。

その前に、まずいっておきたいことがある。それは、水子霊は間違いなく存在する、ということである。

世の中には、「水子霊なんて存在するはずがない」と信じて疑わない人が結構たくさんいる。しかし、それは誤りなのだ。

なぜそう断言できるのか、といわれると実のところ困ってしまう。だが、霊的に見れば水子霊は間違いなくいるのである。

だいたい、妊娠して二ヶ月半から三ヶ月ほど経過すると、胎児にはもう霊が宿っているのだ。

もちろん、それはまだ意識体というぐらいの霊であり、人として最も大切な神性である神魂や奇魂といわれるものは、だいたい八ヶ月から九ヶ月ぐらいで宿る場合が多い。

そして、はじめに霊が宿ってから出産までの間に堕胎、流産を行った胎児の霊だけが、この世に恨みを抱いて水子霊となるわけだ。

ただし、結果は同じことであっても、流産と掻爬とは根本的に意味するものが違う。流産した場合も水子の霊にはなるが、それが決して神様より見た罪とはならないのである。

これに対して、掻爬は問題である。

掻爬とは、産もうと思えば産めたのに人工的に堕ろすことであるから、要するに殺人であり、神様の目から見たら犯罪となるのだ。

この世の法律では裁かれなくても、天法では裁きの対象となる。むろん、軽罪ではあるが。

では、なぜそうなのかといえば、子供を産むという母親の能力とは、もともと天地自然からいただいたものである。

それを、「自分が産んだのだから、自分の子供だ」とよくいう。その気持ちはわかるが、よくよく考えてみれば、その考え方は明らかに間違っている。

天地自然、別のいい方をすれば、天地自然を司っている神、主神からさずかっているのが出産能力というものである。だから、まさしく〝子は天からのさずかりもの”なのだ。

その天地自然に反逆して、人工的に胎児の命をあやめたということで、神様の目から見たら罪となるのである。

したがって、子供を掻爬した経験のある人は、死後そのことについてそれなりの軽度裁きを受けることになる。

中絶すると胎霊が曇る

次に、胎児を堕ろした場合に、霊的にはどのような影響が出てくるかについて考えてみよう。

結論からいえば、胎児を堕ろすと胎霊が曇る。胎霊とは子宮の周辺をおおう霊体とその霊界のことをいうのだが、堕胎するとこの胎霊が曇ってしまうのだ。

霊的に見れば、一人堕ろした場合は淡いベージュ。二人堕ろすと濃いベージュ、三人、四人と増えるにしたがって、こげ茶から薄黒い感じになってくる。これが第一の影響である。

私は水子除霊も行うが、これは、まず神様に胎児をあやめた罪をお詫びして、次に胎霊の曇り、汚れを霊的に禊ぎ祓い清めて、白色の水晶のようなもとの清らかな状態へと戻すことからはじめる。

ところで、胎霊は堕胎したときだけ曇るのかというと、必ずしもそうではない。歪んだ動機によるセックスをした場合にも曇るのである。

純粋な愛情によって男女が交わった場合には、胎霊も輝いているものだが、金銭や計算ずくの欲心のみで交わると、胎霊はまっ黒になるのである。

純粋な愛情で交われば、たとえそれ以前に複数の男性経験があったとしても、悪い霊界に行くとは限らない。

つまり性行為の回数ではなく、そのとき、どんな気持ちで交わったかが霊界では問題にされるのである。純な気持ちさえあれば、昔からいわれているような倫理観念にそれほどしばられることはないのだ。

では、「純粋でありさえすれば、何人もの人と、何回そういうことがあってもいいのか」――と思う人もいるだろう。

たしかに、両者が処女と童貞であって、さらに純粋な気持ちで交わってできた子供は、清純度の最も高い御魂の子供が生まれる。

それは事実だ。というのも、本人は相手が変わっても、毎回純粋な気持ちでいるかもしれないが、やはり、過去を隠しているという心のひけめと、それを知られると相手にいやがられるので、黙っているという打算が働くものである。だから、どうしてもその分、純粋度は落ちてしまうことになる。

自分の恋しいという思いに素直である、というだけでは、決して純粋であるとはいわない。それは、毎回、情熱的で一生懸命恋愛に取り組んでいるというのである。

しかし、ここで考えねばならないのは、御魂の低い者同士がいくら純度の高い御魂をさずかっても、それほど大した御魂がさずかるわけではない、ということだ。

カエルの子はカエルなのだ。それに比べて、もともと抜群に高い霊格をもつ御魂の女性が、少しぐらい純粋度が落ちたとしても、すばらしい御魂をさずかることには変わりはない。

ところで、それでは、そもそも胎霊が曇ることによって生まれる、清純度の高くない御魂の子とはどんな子なのか。

結論からいうと、反抗的で屈曲した性情の子供なのだ。子は天からの授かりものといわれるように、おなかに宿る子供の御魂は、霊界か降りてくるのであるが、その御魂とは胎霊の格と質と純度に相応した霊が宿ることになっている。

したがって、胎霊が曇っている場合には、前述したような悪しき子が宿ることになる。

逆に、清らかで、水晶のように澄みきった胎霊には、いい御魂の子が宿る。いい御魂の子とは、きわめて性質が素直で、ものごとを正直に考えることができる子供として自然に育つ。

悪しき御魂の子は、前述したごとくこれとは反対になる。前者は、生まれついてのいい子であるから、両親から深い愛情をそそがれるし、みんなからもかわいがられる。

もちろん守護神、守護霊様からも温かい目で見守られるのである。守護神、守護霊様は、素直で正直である子供を最も喜ばれるからである。

その結果として、清らかな胎霊に宿ったいい子は、運のいい人生を送ることとなる。

一方、胎霊が曇れば曇るほど、曇った御魂をもった子が宿ることになる。

頑固で強情で、反抗的で破壊的で、ものごとを何でもマイナスの方向に考える性悪な御魂の子供が宿るようになってしまうのだ。

「上のお兄ちゃんは素直でいい子なのに、どうして下の子はこんなに反抗的なのかしら」

こんな母親の嘆きをよく聞くが、それは、子供が宿ったときの夫婦の内面世界が反映されているからである。

どんな環境や気持ちのときに交わってできた子かという、夫婦の精神性や、内面性に合わせて天から品が定められてさずかるのが、子供の御魂というものなのである。

それは、何人も堕胎した場合も同じことなのである。むろん、子供の良し悪しや性質の素直、正直は、胎霊だけの要素では推し計れないものもある。

生まれ出てからの教育の方が、より一層重要な要素となるからである。

しかし、よき胎霊に宿ったよき御魂の子供は、生まれ出てからの教育が大変やりやすい。逆に、胎霊を曇らせて宿ってしまっ悪しき御魂の子は、両親が教育するのに大変骨を折ることになる。

結局、その苦労の分だけ、罪を贖なっているのだといえるだろう。

したがって、水子除霊をするときには、まず神様にお許しをいただいて胎霊の曇り、汚れをきれいにするのである。

水子霊のもつ二つの感情

第二の影響は、母親や兄弟たちが霊障を受けることである。といっても、水子霊の霊障は世にいわれるほど深刻なものではない。

かつて私の知り合いに、「五十六歳で死んだ自分の夫は、水子霊に殺されたのだ」と信じて疑わない婦人がいた。というのも、彼女には二人の水子霊がいたからなのだが、ハッキリいってそんなことは絶対にあり得ない。

水子霊には人を殺すほどの霊力はないのである。

世の中には、「水子霊がいると死に至るほどの重い病気になることがある」などとさかんに喧伝している霊能者が多い。

だが、決してそのようなことはないのだ。そのあたりを、くれぐれも誤解されないようにお願いしたい。

水子霊による霊障は、母親と兄弟たちが心身に軽く影響を受ける、といった程度にすぎないのである。そのことを詳しく述べる前に、ここで水子霊自身の気持ちについて考えてみよう。

一般に水子霊は、二つの感情を抱いているといえる。

一つは両親に対する恨みだ。「どうして僕をつくっておきながら、自分たちの都合だけで殺したんだ」という恨みである。

いま一つは、兄弟たちへの妬みだ。「お兄ちゃんや弟はあんなにかわいがられているのに、自分だけ忘れ去られて、いつもひとりぼっち。ああ、お兄ちゃんはいいなあ、弟がうらやましいな」というのがこの妬みである。

この二つの感情を水子霊はもっているのだが、それでも霊界があることを知っていれば、恨みや妬みを忘れて霊界へ帰ることもできなくはない。

だが、霊界があることも、水子霊の行く天国界があることも、水子霊は知らないのである。

そこで、かたときも母親のそばを離れず、何かにつけて「お母さん、お母さん」と呼びかけることになる。

「おなかがすいたよ、何か食べさせてちょうだい」

「お兄ちゃんと同じおもちゃを僕にもちょうだい」

しかし、返事はまったくない。一生懸命呼びかけても、答えがないのである。水子の霊は、いつも「アーン、アーン」と泣きながら、自分の存在をアピールし続けているのである。

この水子霊の感情は、犬や猫を飼った経験のある人ならば、容易に理解できるはずである。犬でも猫でも、大切にかわいがると人間の言葉を理解するようになる。

そして、どこかへ外出しようとすれば、すかさず察知してジャーッとおしっこをして、自分の方に関心を向けさせたり、ご飯をもらえなかったときにはワンワン、ニャーニャーと鳴いてアピールする。

また、人間の赤ちゃんをかわいがれば、これに嫉妬して、主に身をすり寄せてきたり、爪でひっかいたりする。

犬や猫でさえこうなのだから、高度な霊的生きものである水子霊においてはなおのこと、敏感に反応して当然といえよう。

ただし、水子霊には肉体がないために、話しかけたり、泣いてアピールすることができない。

そこで、言葉を念波に変えて絶えず母親や兄弟たちに自己の存在をアピールするのである。

その波こそが霊障となって表れるのだ。

霊障の表れ方にはいろいろとあるが、その第一が、精神、情緒に不安定をきたすことである。水子霊がいると、母親がやたらとヒステリックになったり、あるいは突然気分が落ち込んだりと、精神や情緒に動揺をもたらす。

第二に、こめかみがズキズキする、腰がだるい、肩がこる、目がかすむ、といった肉体的症状である。

先に私は、水子の霊は絶えず母親のそばを離れないといったが、具体的に後頭部や首、胸、腰についているため、その部位に障害が出るのである。

三番目は、子供が反抗的になること。先に述べたように、水子霊は両親を恨んでいるし、兄弟を妬んでいる。

そこで、兄弟たちを反抗的にさせることによって、お母さんに復讐するわけだ。

特に女の子は男の子と比べて情緒的であるから、水子霊の影響を受けやすい。

もし、親に反抗ばかりしている女の子がいたら、母親は、自分が水子をつくった経験がないかどうかを考えてみる必要がある。

また、水子霊は親に反抗させるだけではなく、兄弟げんかをさせることも多い。兄弟仲たがいさせて、嫉妬心を満たしているのである。

私が主宰するワールドメイトでは、こんなことがよくある。事務所に顔を出すと、スタッフの女性同士がいがみ合って泣いている。

いったいどうしたのかと尋ねると、たいした理由ではない。実にささいなことでけんかをしているのだ。

当人たちも、なんの意味もなく泣いているのを自覚しながらなのである。そこで、審神をしてみると水子の霊が何体も見える。

「この二、三日、水子霊の救済供養の申し込みが多いんじゃないの?」

「はい、五、六十人の方から申し込まれています」

「そうだろうね。君たちがいがみ合っている原因は、水子霊だよ」

だいたい、こんなパターンが多い。要するに、一刻も早く救済供養をしてほしいので、水子霊がスタッフたちに念波を送って急がせているのである。

とまれ、水子霊は兄弟同士、人間同士を仲たがいさせたり、軽度にいがみ合わせたりすることを知っておく必要がある。

四番目の障害は、兄弟たちが集中力をなくして、ボーッとなってしまうこと。その結果、学校の成績も悪くなる。

水子霊が一体ぐらいでは、このようなことにはならない。が、三体、四体ともなると、どうしても集中力のない子供になりやすいのだ。

なぜなら、妬みの念をもった水子霊が常に漂いながら、入れ替わり立ち替わり、「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と念波を送ってくるからである。

そのため、勉強しているときには一応理解した気になるのだが、翌日になると、すっかり覚えたことを忘れてしまうことがよくある。

「きのう勉強したことを書いてごらんなさい」

「エッ、何だったかな?」と、ボーッとしているばかり。そのときはわかっても、しばらくするとできなくなってしまうのだ。

勉強していても、ただ何となくしているだけで、しっかりと集中できていないのである。

水子霊が父親につかないのはなぜか

水子霊のもたらす霊障がどのようなものであるか、だいたいのところは理解していただけたと思う。

母親と子供たちが心身両面にわたって軽度の影響を受けるのが、水子霊による霊障なのであった。しかし、男親には水子の霊はあまりつかない。

「父親にだって責任があるのだから、何らかの影響を受けて当然じゃないか」と疑問に思う人もいるだろう。

もっともな疑問である。だが、答えはノー。父親が影響を受けることはほとんどなく、九割がた、母親の方に霊障が表れる。

なぜか。父親は水子霊に対して、ほとんど情が向かないからである。

一般的にいって、父親は「申しわけないことをした」という思いを、母親ほど強くはもたない。

もったとしても、わずかな期間である。ところが女性は、自分自身が堕ろしたのだから、その思いが強烈に残っている。男性には、そういった長く尾を引く悔恨の情はほとんどないといっていい。

つまり、男性の場合は水子が送り出す念波と波長が合わない。だから、霊障を受けないのである。

こう記すと、ときには霊界の知識を少しもっていて、絶えず、

「ああ、ボクは水子をあやめてしまった。ごめんね、ごめんね」などと、クヨクヨしている情の深い優しい男性がいるが、そういう人物は、特別にチャンネルが合うので霊障を受けやすくなる。

「じゃあ、母親でも、あまりクヨクヨしなければ霊障を受けないのだろうか。むしろ、忘れてしまったほうがいいのではないか」と思う人がいるだろう。実はそのとおりなのである。第一章でも書いたように、意志の力を強くもって、あまり気にしなければ霊障を受けないですむのだ。

たとえば、情緒が不安定であったり、こめかみが痛かったり、腰が重かったりしたとしよう。

こんな場合、「あっ、水子霊のせいかしら」などと思わず、「最近疲れているからね」「単なる更年期障害なんだ」と考えれば、霊障に強くやられることはないわけだ。

とはいえ、水子霊が離れたわけではないので、たとえ母親が影響を受けなくとも、子供たちが霊障を受けることになる。それよりも何よりも、水子霊がかわいそうである。

そのことを考え、私は水子霊の救済供養をしているのである。

水子霊がく火星霊界

私の水子霊救済供養は先述したとおり、まず、胎児をあやめた罪を神様にお詫びしてお許しをいただき、胎霊の曇りを浄化することからはじまる。

流産した場合は、仕方なくそうなったのであるし、胎霊もさほど曇っていないので、神様にお許しを乞うことはしない。

次に、水子霊が抱いている二つの感情をいやし、水子霊を水子霊の帰るべき幸福な神霊界へと送る。

これが、私の水子霊救済供養のやり方である。

ところで、水子霊はもともと何の罪も犯していないので、無条件に天国界に入ることができる。

もちろん、この世での修業ができていないので、最高の天国界というわけではないが、ともかくどの水子霊も無条件で天国界に入ることができるのだ。

ただ、そういう天国界があるということも、そこへ行くということも水子霊自身は知らないから、いつまでも母親について離れないだけである。

これをなんとか諭して、天国界へ連れていくのがほかならぬ水子霊救済供養というわけである。

では、どのようにそこへ連れていくのか。

それについては、「神界からの神通力」にも述べたのでそちらを参考にしていただくとして、ここでは、水子霊の天国界とはどのようなところなのかについて述べてみたい。

その前に、霊界の構造についてふれておかねばなるまい。

人間は死んで肉体の衣を脱ぐと、誰しも霊界へと旅立つのだが、皆同じ霊界へ行くわけではない。

生きていたときの意志と想念、および功徳と(罪のようなもの)の相殺決算にしたがって、それぞれに適合した霊界へと行く。

死後三十年間は天之八衢、あるいは幽界、精霊界、中有界などという異なった呼び名はあるが、皆、意味するものは同じである。ここを経た後に本当の霊界へと旅立つわけだ。

その霊界とは、大別して天国界、中有霊界(中有界とは違う)、地獄界の三つに分けられるが、さらに天国界は第一天国、第二天国、第三天国といった具合に、中有霊界、地獄界も上中下に細かく分けられ、さらに、その上中下も細分化されている。そして、これらの霊界はすべて、星霊界にあるのである。

すなわち、天国界は木星、金星、太陽、北極星にあり、中有霊界の中段から上段まで水星霊界、中段から下段までが月霊界や火星霊界、そして、地獄界が土星霊界と海王星霊界の一部にあるのである。

ちなみに、土星は試練の星であって、ここに入った者は霊的にも大きな試練、苦難を味わわなければならない。だから、地獄なのだ。

また、水星は真理を探求した人、科学や芸術で一生懸命頑張った人が行く世界である。

ここからさらに、もっと徳を積んで明るく朗らか、楽天的でいい人生を歩んだ人は、木星の天国界に入ることができる。

木星は天国界であるから、木星へ行くと、幸福感と発展気運の充満した世界が広がっている。その意味で、木星は吉星なのである。

さらに、人生をもっとすばらしく高貴に生きた人たちは、金星へと行くことになる。

さらに、その高貴さと明るさに、デラックスさが加味されることによって太陽神霊界、それに、もっとすべてが細緻を尽くした智と理と美が加味されると北極神霊界と、行く先のレベルに差が出てくるわけである。

一方、ごく普通に生きた人、そんなに悪いこともしなかったかわりに、たいして良いこともしなかったという人はお月さま、月霊界へと行く。

ここはあまり明るくもなければ、暗くもない。要するに中有霊界のまん中なのである。

これとは別に、非常に勝気で競争的な人生を送った人はだいたい、中有霊界のまん中より下にある火星霊界へと行くのである。

さて、水子霊の話に戻そう。

水子霊の天国界とは火星霊界にある。なぜなら、赤子は火のように泣きさけび、ものすごいエネルギーを発するからである。

ここには水子霊の教育係がいて、水子霊をわが子同然に大切に育てている。もちろん、おもちゃもミルクもある。いってみれば保育所のようなところである。

しばらくここで育てられて、ある程度成長すると今度は水星霊界へと移っていく。水星霊界には、幼児の住む天国界があるのである。

霊界においても、人間は絶えず成長している。体も知識も進歩向上しているのである。だから、最初水子霊の天国界へ行ったあと、心身ともにある程度成長を遂げると、一、二歳の幼児がいる水星霊界へと移っていくのだ。

このようにして、百年から二百年、早い場合は五十~六十年ほど霊界で修業したあと、再び生まれ変わってくるわけだ。

長くても、二百年以上も霊界にいることは皆無といってよい。ところで、ここで断っておかねばならないことがある。

それは、本来の魂姿に成人している幽魂(奇魂+和魂)が、すでに霊体の中心に宿っている場合は、たとえば、死産してすぐに幽魂が老人の僧侶の姿となって、霊界へ帰っていくということもあり得るということである。

あくまでも、前記の天国とはまだ幽魂(和魂+奇魂)が完成せぬままの胎児の霊体が行く所であるとお考えいただきたい。

ところで、今述べたことは、あくまでも水子霊自身が納得して火星霊界にある天国界へ行った場合のことである。

そうでなければ、いつまでも母親についたままで、永遠に「お母さん、お母さん」と泣き叫び続けるのである。

だからこそ、水子霊の救済供養が必要なのだ。

これが本当の水子霊救済供養だ

それでは、世間一般で行われている、いわゆる水子供養がそこまでの内容をもっているかというと、残念ながら否といわざるを得ない。

真の水子霊救済供養を行っているところは、きわめて少ないのである。ほとんどゼロといっていいぐらいだろう。一番やさしそうな除霊が、一番難しいのである。

そもそも、今まで見てきたところ、水子供養を承っている宗教団体や霊能者で「水子霊が行く水子霊天国界があること」、そして「どうすればそこへ送れるのか」などについての正しい知識をもっている人はほとんどいないといってよい。

残念なことではあるが、皆無に等しいのではないだろうか。

私も、生きながらにして霊界を少し探訪しておくと、死後の傾向と対策が立てやすい、さらに、いい霊界を垣間見ておくと、死後、もっといい霊界があるはずだという自覚ができるので、死後霊界の壁を乗り越える精進を本人が志すようになる、ということを考えてワールドメイトで星霊界ツアーを何度となくやってきたのである。

その際、ありとあらゆる星の霊界を、まるで、サンテグジュペリの「星の王子様」のように詳細に実見してきたのである。

それで、ようやく水子霊天国界があるということを詳しく知ったわけである。そういうことでもない限り、そこのあり様を詳しく知っている人はいないだろうと思う。私が知らないだけで、いらっしゃるかもしれないが。

そんなわけで、「神界からの神通力』で書いたような、まったく考えられないような水子供養が現実には横行しているのである。

一例をあげてみよう。かつて水子霊救済供養をしたときのことだ。天眼通力で見ると、水子が五人、何とてるてる坊主のような紐でつるされていたのである。

さらに、その紐の先を見ると水子地蔵に縛りつけられている。そして、その五体の水子霊はまるで犬のように、その水子地蔵の周りをぐるぐると回っているのである。

「いったいどうしたんだ」

私は理解に苦しんだが、すぐに理由がわかった。その人が以前水子供養を依頼した霊能者が、いたずらをしないようにとの一念で、念力縛りをして因縁供養をしていたのである。

たしかに、水子地蔵に縛りつけておけば、水子霊はいたずらできない。しかし、それではあまりにもかわいそうではないか。

水子供養の真の意味を理解せずに供養すると、とかくこうなりやすいのである。

「いたずらをしてはいけない」「母親から離れてどこかへ行きなさい」。このように水子霊を払いのける念で供養しても、水子霊は決して救われないのである。

特に、私が過去最もあきれた水子霊供養についてお話ししよう。当事者の女性から直接聞いた話なのであるが、彼女は○○○易断なんとか鑑定というところに行ったらしい。

というのは、彼女は縁談のことが気になっていたので、料金も安かったので、気軽に相談に行った。

ところがである。簡単に占いをした後、突如「あなたには水子霊がいま 「せんか」といわれた。彼女は、以前から前の彼氏との間にできた水子霊のことが気になっていたので、ドキッとした。「ええ……………。実は……」と答えた。

そこでその先生、「水子霊がいるとね、一生たたりますよ。特に縁談なんかはね、邪魔されてね、いい結婚は絶対にできませんよ。

この縁談も、水子霊によってこわされることが大いに予想されます」と、毅然とした態度になって顔をにらんだらしい。

「せ、先生。私も前から気になっていましたので、是非、水子の供養をお願いしたいのですが」

「ふむ。まあ、その方がよろしいでしょうなあ」

「どれぐらいかかるものなのですか」「そんなに高くはないですよ」

「じゃあ、お願いします」

「一日わずか二千円で、私の弟子が毎日ご供養させていただきます」

「そうですか。どうもありがとうございます」

「それでは、一年分の供養料として一括で納めていただきます」

「えっ、一年分……………。ということは……」

「三百六十五日×二千円ですから、七十三万円ですな」、ということで、彼女は七十三万円を後納入したのである。縁談をこわしたくないばっかりに。

私が水子霊をその場できれいに救済してあげた際、体から霊が抜けていくのがわかり、涙がとめどなく流れ出てきて、彼女は大変感激されたのである。結局、その縁談もだめになっていたので、水子霊も取れてなくて、彼女にしてみれば、踏んだり蹴ったりの思いだったのに違いない。

しかし、その先生も、別に救済供養して水子霊を霊界に送りますとはいっていないので、単に供養するだけの一日二千円の供養料だから、「丁寧に供養して、水子霊をお慰め申しあげました」といわれれば、それ以上いいようがない。女心の弱味につけ込んだ、まことにあくどい、巧妙なやり方であるといわざるを得ない。

ところで話は元へ戻って、これもくり返しになるが、水子の霊は二つの感情をもっている。だから、供養するときにはまずこの二つの感情をいやす必要があるのだ。

そのために、ミルクを飲ませたりベビー服を着せたりすることもしなくてはならない。

もちろん、形あるミルクやお菓子をいくら与えても何にもならない。霊界人となっている水子霊がおいしく、楽しくいただけるように、霊界具象力を発揮して水子霊に渡してやらねばならないのだ。

こうして、満たされない心を十二分に満足させたうえで、本来行くべき水子霊天国界があることを教え、そこへ瞬間霊送しなければ、真の供養救済にはなっていないのである。

そうしなければ、たとえ、毎月供養してもあまり意味がないのだ。

「ごめんね、ごめんね。お母さんを許してね」

「お姉ちゃんや妹を妬まないでね」

こう祈れば、水子の感情も和らぐに違いない。しかし、それも一時のことで、時間がたてば、

「でも、生きている人は、やっぱり羨ましいな」と思うようになるのである。

犬や猫に毎日諭しても、いざ、もう一匹の方がかわいがられている現場に遭遇したら、やっぱり必死でやきもちを焼くのと同じだし、毎日論されても、恋人がほかの美人女性のことを目尻を下げながら話しているのに遭遇したら、どんな女性でも、心中穏やかでないのと同じであろう。

水子霊を犬や猫にたとえて申しわけないのであるが、水子霊たちは、事実同じような原始的ともいえる感情の世界に生きているのである。

非常に難しい水子霊救済供養

水子霊に限らず、たたり霊であろうと先祖霊であろうと、除霊をするときにはすべて救霊であり、霊を払いのけるのではなく、心から納得させる必要があるわけだが、それにはどうすればいいか。

相手の気持ちになりきることである。それが、思いやりと真心の第一歩であるといえるのだ。

「ああ、あなたの恨む気持ちはよくわかる。さぞかしくやしかったでしょう。苦しかったでしょう」と、本当に相手の気持ちを理解し、同情してはじめて、「私の気持ちをわかってくれてありがとう。それでは、あなたのいうことに耳を傾けよう」となるわけである。

だから、除霊をするには何よりもまず、相手の霊の心を理解しなければならないのだ。

だが、一見簡単そうに見えるこの水子霊の供養救済も、実際に完全に救いきるには、そんなに簡単なものではない。

簡単そうでいて、最も難しいのである。なぜなら、水子霊の気持ちに完全になりきれないからである。

いったい、水子霊の気持ちを理解できる人が何人いるだろうか。

水子霊は二つの感情をもっているとわかっても、実際にピンとくる人はほとんどいないはずである。

それを考えただけでも、水子霊の救済供養がいかに難しいか、理解していただけるだろう。

また、大人の霊のように霊界に行く自覚や、自分の足で行こうとする覚悟がないから、増々やっかいなのだ。一から十まで、手とり足とり、なだめたりすかしたりしながら、完全に水子霊天国界に直々に連れていってやらねばならないからである。

豊臣秀吉が天下を統一した後、自分の人生の中で何が最も難しかったのかと尋ねられて、「それは、子供のころにやらされた赤ちゃんの子守だ。あれほど難しいものはなかった」と述懐している。

私も同感の思いである。先に、世間で行われている水子供養のほとんどが正しくないと書いたのは、このような意味を含んでのことだったのである。

ただ単に位牌をつくったり、像を彫ったりするだけでは、真には救えないことを知っていただきたい。

ところで、この「真には救えない」とはどういうことか、前述した「完全に救いきるには」とはどういうことかを詳しく説明すると、「水子霊が完全に納得して水子霊天国界に行ってしまい、二度と再びその両親家族のところには帰ってこないという状況」のことである。

だから、そうなると、生涯再びその水子霊のことも思い出さない、命日にも供養することはない、あわれんだり、なつかしんだりすることもしないということを、両親家族は徹底しなければならないのである。なぜなら、こちらから思いの糸を出せば、せっかく新しい人生をスタートして幸せに暮らしている水子霊を、再びその両親の思いの糸によって、この世に引っ張りもどすことになるからである。水子霊がかわいそうであろう。

そんなわけで、水子救霊のたいへんさがおわかりになったら、水子霊の気持ちを一番よくおわかりになるのは、当のお母さんでありましょうから、巷の霊能者やお寺さんに任せきることなく、本書を参考にされて、土地の鎮守様(産土神)によくご祈願されて、真心を込めて水子霊に語り、産土の神様に罪をおわびして、その神様に水子霊天国界に霊送していただくようにねんごろにお願い申しあげることをおすすめいたします。

最後に、読者の皆様のお便りに、一つひとつお返事は出せないけれども、お寄せいただいたすべてのお手紙には、一応すべて目をとおしています。

今後の出版のための参考にしたり、著書でその疑問にもお答えしたいと思っています。ですから、ドシドシお便りをお寄せください。お待ちしております。

また、私の主宰するワールドメイトの活動に興味のある方は、ご連絡ください案内資料を無料で郵送させていただきます。

それでは、次のご本でお会いするか、そうそう、私が原作と監修をしたアニメ「神だのみ入門」シリーズ、「おしゃべり太郎」の巻などでお会いいたしましょう。では、 So long!

深見東州