人づきあいで人を動かす(Vol.4)

第二章 部下とのコミュニケーション

中小企業における部下指導の心得

会社をつくって事業を立ち上げるとなると、いろいろな能力が求められる。大きく分けるとまず販売管理。

つまり、商品なりサービスなりをいかに売って売って売りまくるか、である。売り上げを上げないことにはやっていけないのだから、この販売管理が一番。

次に大切なのが財務管理、要するにお金の遣り繰りだ。以下、資金調達、税金対策、労務管理といったところになるだろう。

この章のテーマ「部下とのコミュニケーション」は、労務管理の一部という位置づけができるだろうが、ここでは、中小企業における部下の育て方に焦点を当てて語ってみたい。

大企業における部下の指導法についても触れたいところだが、名の通った大企業に集まる人材はもともと優秀で、放っておいても自ら育っていくもの。改めて指導法を語る必要はないだろう。

ということで、中小企業における部下の指導法に焦点を当てて語ろうと思うのだが、そのポイントを上げると、次の四つに要約できる。

一、忍耐
二、愛情
三、理解
四、諦め

「人を使うは苦を使う」と言うが、実際、仕事でも何でも、自分一人でやったほうが楽。

たとえ一人であろうと二人であろうと、従業員を雇うとなると、いろいろな苦労がつきまとうものである。

夫婦にしたって、結婚式で偕老同穴を誓い合った二人がその後、死ぬまで連れ添うというのは至難の技。離婚率が年々高まっていることを考えても、別々の環境、別々の価値観で育ってきた男女二人が最後まで連れ添うのがいかに大変かが分かろうというものである。

価値観も違えば好みも違う。そんな二人が一緒に生活するには、ともに妥協し歩み寄るしか方法がないのだが、これが当人たちには思いのほか苦しくて、ついには離婚にまで行き着いてしまうわけだ。

中小企業に集まる人材の特色

企業を経営する場合も全く同じで、まさしく「人を使えば苦を使う」である。

しかし、中小企業に限って言えば、「苦を使う」のはむしろ従業員のほうである、と言ってもいいかもしれない。

中小企業ではだいたい、オーナー経営者が絶大な権力を持っていて、経営者の意向が会社の隅々まで行き渡っているのが普通だ。

その経営者が、人格高邁にしてきめ細やかな愛情の持ち主、それでいて能力抜群というなら最高だが、そんな人など中小企業の経営者には滅多にいない。

抜群の職能力を持った経営者ならいくらでもいるだろう。だが、人格的にも高邁で、性格も穏やかで愛情豊かな経営者という話になると、そんなのいるわけがない。

「中小企業を経営しています」という人に出会ったら、「風変わりな人かもしれない」と思っていいだろう。

そもそもまともな人なら、まともな会社でまともに勤めて、まともに出世している。

そのまとも路線に乗れない人、あるいは乗ろうとしない人、それが自営業者であり中小企業の経営者である、と言ったら言いすぎかもしれないが、独立して何か事業をやっている人には、組織やコミュニティーに順応していけない性質の人が多いのは否定できない。言わば半端者。

変わり者。我の強い人。自己主張の強い人。風変わりな人。その分、根性と忍耐力があって、精進努力を惜しむところがない。

だからこそ独立しても成功するのだろうが、やはり客観的に見たら、変な人が多い。

そういう意味で、中小企業の社長ほど個性的で面白い人はいない。

それに対して、大企業の社長には面白い人が少ない。何百人、何千人、何万人というライバルたちとの出世競争に勝ち残ってきたのだから、それなりに優秀なのだろうが、会社の看板がなかったら何もできない。

そのくせ、プライドだけは異常なほどに高く、何かにつけて会社の看板と自分の地位をちらつかせる。

まあ、大企業でトップにまで登り詰めたのだから、優秀には違いないのだろうが、あくまでも看板を利用した優秀さである。

そこが、中小企業の社長の優秀さとの違いである。優秀には違いないが、種類が違うわけだ。中小企業の社長はおおかた、看板も後ろ楯もないところから事業を立ち上げた、独立独歩型である。

その分、個性的で、風変わりで、人間として歪んだ人が多く、そういう人が一人でも二人でも従業員を抱えるというのは、ものすごく苦痛のはず。

もともと組織の中で唯々諾々としていられず、飛び出して来た人なのだから、人使いが苦手であって当然である。

しかも、中小企業にやって来る人材はといえば、一般的に性格がどこか屈曲している。素直な人は、親の言うことを素直に守ってよく勉強するし、社会に出ても素直に順応するから、オーソドックスな道を進むことができる。

対して、中小企業にやって来る人は、そのほとんどが素直ではない。もちろん例外はある。中小企業のほうが能力を発揮しやすいだろうということで、あえて中小企業を選ぶ人もあるだろうし、親が経営している会社だから、親戚が経営している会社だからという理由で入社するケースもあるだろう。

だが、一般論として言えば、素直じゃない人が多い。素直さがなく、どこか屈曲していて、普通の人が行くオーソドックスな道に行けない人。

そういうタイプが中小企業に集まる、というふうに理解していいだろう。

それを迎え入れる社長も変わっていて、歪んでいて、屈曲していて、ユニークで個性 1 的。しかし、エネルギー、馬力、迫力、根性では誰にも負けない。

そこへ、まともに生きられない、はぐれ雲みたいな人間がやって来るのだから、中小企業の社長と従業員というのは怪しい関係にならざるを得ないし、お互いに苦しいはずなのだ。

まともじゃな人間とまともじゃない人間のぶつかり合いなのだから。

言わば、化け物と化け物、ナマコとウツボが一つの水槽の中にいるようなものだ。

水槽の中ならまだいい。タコ壺の中だったら大変、喧嘩が始まってしまう。ウツボのような経営者はナマコのような従業員にパクッと食いつこうとするだろうが、相手がナマコだけに、噛んでも噛んでもコリコリと硬いだけで、食うに食えない。

「お前、石なのか、魚なのか、どっちなんだ。味があるのかないのか」「私はナマコです。石なのか魚なのか、自分でもわかりません」

まあ、中にはナマコが好きだという人もいて、あれを酢醤油で食べたら美味しいらしい。逆に、あんなものを食うなんて、と顔をしかめる人もいるが、中小企業の経営者は少なくとも、ナマコが食えるぐらいでなければいけない。それぐらいの気持ちがなければ、部下なんて絶対に育てられるものではないのである。

忍耐力がなければ人を使えない

だから、中小企業の経営者にとって何が一番大事なのかというと、忍耐である。

最初に言ったように「人を使うは苦を使う」であって、その苦を乗り越えていくには忍耐しかないのである。

特に中小企業の社長の場合は、バイタリティとエネルギーと根性だけが異常なくらいに強い反面、性格が屈曲していて風変わりの自分の下に、はぐれ雲みたいな、わけのわからない従業員がやって来るというケースが多いわけだから、より一層忍耐が必要になる。大企業の経営者の三倍といったところだろう。

まあ三倍から五倍。中には三〇倍という人もいるが、屈曲度合いによって三倍から三〇倍の忍耐力が要るのが普通だ。

一般的に言って、忍耐力のない人は人を使えない。そういう人は部下なんか持たずに、フリーで一人でやっていた方がいい。

フリーのライターとか弁護士、弁理士、税理士、公認会計士、それからデザイナー、通訳。

そういう仕事をフリーランスとかエキスパートとしてやっていく分には、忍耐力もあまり要らないし、実際、そういう職業に就いている人には忍耐力に欠けることが多い。

自分の職能力を向上させるとか、責任を持って仕事に向かうということに関しては忍耐できるものの、人と人のやりとりの中で忍耐していくとか、自分の我や思いを抑えるということでは、会社の経営者や組織の中で生きている人間と比べて、絶対的に弱い。

だから、フリーでやっていた人、フリーアルバイターで職を転々としてきた人が入社したら、忍耐が足りない人間だと判断してまず間違いない。

人間関係において耐えることを知らない人、グッと我慢することを知らない人なんだと見ていい。

フラフラ、フラフラいくつも会社を巡ってきた人は、忍耐が足りないのだ。

そういう人は、組織に入ろうとか、人を雇ってやっていこうなどと考えず、一人でやっていった方がいいし、一人でやれる仕事なら十二分に能力を発揮できるだろう。

ところが、人を一人でも雇うとなると一八〇度、世界が違っている。部下を一人でも持つと、自分自身の職能力が試される以上に、対人関係における忍耐力というものが試されるのである。

したがって、いかにすれば部下を上手に使えるのか、部下を生かせるのか、どうしたら部下を思いのままに動かせるのかというテーマに対する回答は、どれだけ忍耐ができるのか、に尽きるわけだ。

いかにすれば部下が動くのか、いかにすれば部下を生かすことができるのか、ではない。いかほど部下に対して忍耐できるのか、なのだ。

忍耐から愛情へ

では、ただただ忍耐すればいいのか、と言うとそうではない。忍耐だけでは部下を指導できない。忍耐の次に必要なものがあるのだ。

それは何かと言えば愛情であり、体か滲み出てくる愛念である。つまり、思い通りに働いてくれない従業員を耐え忍ぶという消極的な情感から、愛情を持って包み込んでいくという積極的な情感に変えていくこが、経営者には求められるわけだ。

そのように、忍耐を愛情に変えていくと、会社全体が温かい家族的雰囲気に満ちてくる。すると、家族的雰囲気に包まれた職場は居心地がいいから、あちこちの職場を巡ってきた、能力のない半端な従業員も居ついて、一生懸命働くようになる。

それに対して、才能があって賢い人はすぐに仕事を覚え、とりたてて指示を出さなくても、社長の考えを理解して、率先して動いてくれるだろう。

その分、経営者は楽ができるが、優秀な部下は有能なだけに野心を持っているのが普通で、いっときは居ついても、やがて会社を乗っ取ったり、社員を連れて独立したり、挙句の果てはお客さんを横取りしたりする。

それを思えば、優秀でない社員ほど素晴らしい社員はないことに気付くはずである。家庭的な温かい雰囲気をつくって、居心地さえよくすれば居ついてくれるのだから、最高の人材と言っていい。

じゃあ、職能力はどうなんだ、仕事はどうやって覚えさせるんだ、と心配する向きもあるかもしれない。

しかし、一〇年間、一つのことをずっとやっていれば、どんなに出来の悪い人間でも仕事を覚えるもの。複雑な仕事は難しいかもしれないが、ちょっとした仕事なら簡単にできるようになるから、心配する必要はない。

たとえば、イトーヨーカドーの取締役には、中卒、高卒の人が多いという。大卒でも、名もない大学の二部を出ているとか、学歴だけを見たら決して誇れるものではない。

というのも、イトーヨーカドーは小さな洋品店から始まったからだが、社業が発展するにしたがって彼らも勉強し、経験を重ね、ついには取締役に名を連ねるようになったわけだ。

それくらいの勉強と経験を積み重ねているので、イトーヨーカドーの取締役は誰もが知識、能力、人間性を兼ね備えた素晴らしい人ばかりである。

だから、入社時に出来が悪くても心配無用。一〇年間、一つのことをコツコツとやっていたら、どんな人間だって一つ二つ三つの仕事が任せられるまでになる。

それより心配しなければならないのが、いかに出来の悪さを忍耐し、その忍耐を愛情に変えていって、温かい家族的な雰囲気をつくるか、である。それさえできれば、一〇年後には揺るぎない番頭さんになっているはずだ。

中途半端に優秀な人間なんか来ない方がいい。そういう人間は仕事を覚えるのは早いかもしれないが、ちょっと慣れるとすぐに野心を抱くからだ。人も羨むような素晴らし能力、才能に恵まれながら野心がなく、忠誠心でもって主人に仕えていくという、楠木正成とか諸葛孔明のような人物なんて滅多にいるはずがない。

何千万人に一人か、何 13 百万人に一人だろう。中途半端に能力と才能のある人は一〇〇人が一〇〇人、野心があって、あれがやりたいこれがやりたいという気持ちを持っている。

有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」の主人公もそういう人間の一人で、家業を継いで仕事をしているんだけど、本人は絵が描きたくてたまらない。

なまじっか絵の才能があるものだから、あれがやりたい、これがやりたいという生まれ出づる悩みで悩むわけである。

では、中小企業経営者の「生まれ出づる悩み」は何か。これはもう人材難と昔から相場が決まっている。

中小企業の社長に尋ねてみればわかるが、一〇人が一〇人、一〇〇人が一〇〇人、「なぜ、能力、才能のある従業員に恵まれないのか」「もっと優秀な人がうちに来てくれたら助かるんだがなあ」と悩んでいる。

その悩み、わからないではないが、では優秀な人材がやって来たらどうなるのか。

その優秀な人材を使いこなせるほど、社長のあなたは優秀なのか。その優秀な人はきっと、会社の仕事に物足りなさを感じるだろうし、社長の方針に批判的になるかもしれない。

やがて社長をバカにして、社員を連れて出ていくことだってある。当の社長自身、そうやって組織から抜け出てきたわけだから、同じ行動を取ることは十二分に予想される。

そう考えたらやはり、なまじ優秀な人なんか来ないほうがいいし、それを期待すべきではない。

それより屈曲した社員を愛する。はぐれ雲を愛する。はぐれ雲ではあるかもしれないけれど、一〇年先を見つめてじっと耐え、決して嘆かない。

一〇年忍耐をして、一〇年愛情で包んでいくと、この分野なら任せられるという人が育つ。

イトーヨーカドの取締役のように、社業が発展するにしたがって能力を磨きながら社長と運命をともにするという、本当の意味での優秀な部下が育っていくのだ。

日本語で言えば忠誠心、英語で言えばロイヤリティ。それが、日本の企業では一番大事だとされている。

だから、部下に求めるべき資質のナンバーワンは何かというと、能力や才能ではなくて忠誠心。会社に対する忠誠心、社長に対する忠誠心があるのが、一番優秀な部下なのだ。

能力や才能があっても、仕事を覚えたらお客さんを奪ってさっさと出ていく。社員を連れて逃げていく。

社長をバカにして乗っ取る。アンチ社長派を作ったりする。それがいいのか悪いのか。じっくり考える必要があるだろう。

従業員をやる気にさせるジョブ・ディスクリプション

いずれにしても、野心を抱きやすい優秀な人材に、ロイヤリティ、つまり忠誠心を求めるのは難しいものだが、よくよく考えれば、優秀、愚鈍を問わず、男は誰でも野心を抱く傾向が少なからずある。

その心情を理解して、ある程度、野心を満たしてやるために、その人間のやりたい仕事を与えてやるというのも、部下を育てる上で必要にして不可欠なことである。

一般に女子社員は、感情が満たされることに喜びを感じる。感情というのはエモーション。給料がよくて休みが多く、なおかつ居心地がいいと感情が満たされるわけだ。

対して男性社員は、自分の才能、能力が認められ、会社の中で生かされることに幸せを感じる。

男は感情よりももちろん、感情的にも満たされたいという思いはあるが――やっぱり能力や才能。社会性を持っているから、社会の中で自己実現ができないと、腐ってくるし歪んでくる。やがて謀叛という形で飛び出してゆく。

まあ、女でも男でも、同じ仕事を五年間ずっとやっていると、「一生、この仕事をやりつづけなければいけないんじゃないか」と思って、辞めてしまいたくなる傾向がある。

どんなに忍耐力のある部下でも、一つのことをやりつづけていれば、やはり仕事に飽き、腰が折れる。それを避けるためには、二年ごとに担当部署を変えてやるといいだろう。

つまり、二年たったらその都度、給料を上げるとか役職を上げるとか、何らかの形で評価してやるわけだ。五年も一〇年も同じポジションだったら、途中で腰が折れるから、長くとも三年。

できたら二年ごとに評価してやる。給料なり役職なりを上げてやるのもいいだろうし、何かの名目をつけて一週間ヨーロッパに行かせてやるとか、社長が仲人をして家庭を持たせるとか、努力してきたことを何らかの形に表してやらないと、なかなか続かない。

また、男性社員の場合はジョブ・ディスクリプションというのを考える必要もある。

私の知り合いにフィリップ・ドュブローというベルギー人がいる。私の本を仏訳してくれた男だが、本業は経済学者、それもM&A(企業の合併・吸収)の研究である。

その男がかつて、オムロンのヨーロッパ現地法人のヨーロッパ立石電機の調査をした。

その結果、ヨーロッパ立石電機では、ある時、外国人社員が全部辞めたことがあったらしい。

全員、仕事をボイコットして会社を辞めてしまった。なぜ辞めたのか。一番の理由はジョブ・ディスクリプションがないからだというのである。

ジョブ・ディスクリプションというのは何か。簡単に言えば、仕事の説明である。君の仕事はこれとこれとこれなんだ、君の役割はこれこれこうなんだと、よく説明してやるということ。

それをしないと、外国人の従業員は意欲をなくしてしまう訳だ。ところが、日本型の企業は往々にして、ジョブ・ディスクリプションを無視する傾向にある。

「仕事は理屈でやるものじゃない。体で覚えるものだ。だから黙って俺についてこい。ごちゃごちゃ理屈を言うんじゃない」

とにかく、おれの言うことを聞いていればいいんだ、ああせい、こうせい、こうやればいいんだという、いわゆる実践派。そういうタイプが中小企業の社長には多い。

「お前はまだ新入りなんだから、まずは体で仕事を覚えろ。理屈なんか言わずに黙ってやれ」というわけだが、それでは外国人には通じないし、最近では日本人にも通じにくくなってきている。

これがジョブ・ディスクリプションなのだが、さらに言えば、従業員一人ひとりの将来の方向性を示してやること。

これも、部下を育てていく上で大事なポイントである。「君、向こう二年間は支店の営業で頑張りなさい。

そしたら、次は本店の営業に引き上げてあげるから、営業全体を把握しなさい。そこで三年から四年ぐらい頑張ったなら、今度は管理部門の仕事をさせてあげるけど、七、八年やったら次にまた営業部門へ行きなさい。

営業部門だけにいても管理部門だけにいても、仕事の流れ、業界の動向はつかめないからね。君は将来性があるんだから、とにかく一〇年は辛抱しなさい。

そうすれば、部長にもしてやるし、さらにあと三年頑張ったら取締役にして上げよう。株も持たせてあげるし、給料だって今の一〇倍ぐらいにはなるよ」

といった具合に、将来の方向性をきちんと指し示してやる。これもジョブ・ディスクリプションであり、こういうようなことがヨーロッパ立石電機でよくなされていなかったものだから、外国人スタッフは辞めてしまったということらしい。

このことに関してもう一つ指摘すると、外人スタッフはどんなに頑張ってもボード・メンバー、つまり重役にはなれないんだ、ここにいても将来性がないんだ、という意識が、外国人スタッフ総辞職劇の一因になっていたことも考える必要があるだろう。

かつて、大前研一さんがテレビでこんなことを言っていた。あるアメリカの企業の社長に、日本人が就任した。その日本人社長は着任早々、アメリカ人の重役達を前にこう訓示を垂れた。

「あなた達はよく頑張っている。おかげで業績が上がっているが、業績が上がったときこそ締めるところは締めなきゃいかん。封筒を無駄に使っていないか、鉛筆も消しゴムも最後まで使い切っているか、しっかり確認して余計な経費を削減しなきゃいけない」

いかにも日本人の言いそうなことだが、それを朝礼で発表したわけだ。そしたらどうなったかと言うと、翌日、すべてのアメリカ人スタッフ、重役とか部長が辞職願いを出したそうだ。

なぜか。やたらと細かいことを言う人間が社長に就いている会社には将来性がないからだ、と。

欧米人の社員というのは、一般的に、将来性がないと思ったらすぐに辞める。というのも、欧米人は野心の塊で、何事に対しても自分を主に考える性格であるからだ。

優秀というほど優秀ではないのだが、野心ギラギラ、いつも自己中心。欧米では誰もがそう

だから、何でも契約、契約、契約。契約以外のことは絶対にしようとはしないし、契約期間が切れれば、サッと辞めていってしまう。

そこが、ロイヤリティを尽くして会社のために最後まで頑張るという、日本型とは決定的に異なる点である。

私の海外法人でも、長くて三年。五年以上いたことがない。だから、外国人を雇う場合は三年いてくれたらいいと考えて、契約内容、契約期限、契約金をきちんと提示する。

すると、その契約は守る。契約が切れるまでは割ときちんと働くし、勤務態度もいたっ真面目。ところが、契約期限が切れると、何事もなかったかのごとくサーッと消えていく。

まあ、欧米の場合はそれでいいんだろう。いろいろな企業を巡りながらキャリアを積み、実力を伸ばしていく人間が認められる社会。

それが欧米社会だから、優秀な人ほど企業を転々とする。また、企業の方も企業の方で、即戦力になる人材を一年契約とか二年契約、長くて三年契約で採用し、その都度その都度、ベストのチームを組んで事業を推進していくといった感じで、未熟な人材を育てていくという姿勢はあまり見られない。

育てたところで、やっと戦力になったと思ったときにはパッと辞めてしまうから、はじ

めから育てようという感覚など持っていないわけだ。

ところが、終身雇用制度の日本の場合は、一から社員を育てていく。もちろん、終身雇用制の問題点もあるにはあるが、終身雇用制だからこそ社員を育てられるし、社員も育っていく。その結果、五年、一〇年、二〇年という長期にわたる会社のプランも可能になるわけだ。

欧米の場合は、おしなべてサイクルが短い。一年か半年で会社の収益が上がらなければ、社長はすぐさまクビ。部長もクビ。恐ろしいばかりにはっきりしている。

実は、欧米企業がアジアに進出すると市場が荒廃するのは、そこに原因がある。

すぐに結果が出なければいけないものだから、従業員だってすぐクビにするし、取引先ともすぐに関係を断つ。現地に根づいて人を育てよう、産業を興そうという考えは初めからないわけだ。

その点、日本の企業はまるで違う。終身雇用制で長期的な展望のもと、現地の人も産業も育てようという姿勢がある。

だから、日本の企業が進出するところ、産業が育ち、社会も繁栄するわけだ。

私も、外国に会社をつくるまでは、そういう日本の企業と欧米の企業の違いがわからなかった。

しかし、いろいろ試行錯誤を繰り返してその違いが理解できた今、外国人を雇う場合には頭を切り換えてやっている。

まあ、欧米流のやり方にも長所もあるが、どう考えても日本流のほうがいい。優秀な社員が育つし、会社として存続していくのだから。

「黙ってついてこい」式の指導法はもはや通用しない

ここで整理すると、従業員に対してはまず忍耐。次に、その忍耐を愛情に変えて、温かい雰囲気をつくること。

これが重要なのだが、その次は何かと言うと理解。一人ひとりの社員の性格をきちんと理解する、ということである。そして四番目は何かといえば、諦めである。

例えば、ある従業員の長所と短所を理解したとする。その場合、短所についてはもう諦めるしかない。短所は諦めて、いかに長所を伸ばしていくか。

過度な期待をかけず、いかに少しずつ伸ばしていくか、ということがポイントなのだが、それにはまず、いまの若者にはどういうタイプが多いのか、それをきちんと理解しておく必要がある。

では、いまの若者はどうなのかと言うと、いわゆる新人類。その新人類とは、欧米の社員の根性がなくなった奴、これが新人類だと思って間違いない。

野心を持っていると言っても大したことがないし、自己主張と言っても大したことがない。

さりとて、日本的な忠誠心を貫くかと言うとそうでもない。言うなれば、欧米の社員から根性と迫力を取り除いた根なし草。これが新人類と考えていい。

野心があって自己主張もするんだけれど、欧米人ほど根性と迫力がないものだから、何をやってもやり遂げられない。

そういう新人類を相手にする場合には、忍耐と愛情プラス「こいつは新人類なんだあ」という理解と諦め。

これが必要だ。手っとり早く言えば、褒めて讃えて持ち上げる。そうでもしない限り居つかないし、育たない。今はそういう時代なのだ。

厳しいお父さん、お母さんに育てられ、逆境を雄々しく乗り越えていくだけの強い精神力と根性を身に付けている若者はあまりいない。時にはいるかもしれないけれど、それは宝物のような人で、ごくごくわずかでしかない。

豊かな時代、根性のない時代、それが現代という時代であり、中途半端に欧米化された中に日本の古来のものが残っているのが、今の日本社会である。

日本古来のよさが薄まってしまい、欧米のよくないところがこれまた薄まって入ってきて、いいところもあるんだけど日本に徹しきれず、欧米にも徹しきれてないという現代社会。

その中で育ってきたのが新人類なのだ。

それでも、魂の奥には日本の精神が息づいている。だから、ゆっくり時間をかけて育てていけばわかってくるのだが、昔流の「黙ってついてこい」式のやり方では新人類は育てられない。

褒めて讃えて、野心と自己主張を認めてやって、前述したジョブ・ディスクリプションを示してやらなければいけない。

「君の役割はこうでね、こういう仕事をしていくんだ。

これを一年か二年やったら、次はこんな仕事があるからね、見たところ、君にはこういう長所があるみたいだし、将来性があると思うから二年間、これを辛抱しなさいね」

「五年辛抱したら係長か課長代理か課長になるから、そうしたらいまの給料がこれくらいになって、部下が何人ぐらいつくようになるからね。海外にも行けるしね」

「部下は、上司や目上に対してこういう態度で接しなければいけないよ。二年たったら君にも後輩ができるはずだ。

そのときのためにも今、部下の育て方を勉強しなければいかんよねえ」

「重要なポジションの人間は管理部門と営業部門、両方の仕事を把握してなければいけないんだ。

両方きちんとできたら取締役になるんだよ。それにはだいたい一〇年ぐらいはかかるよ。ウチも会社が大きいわけではないから、君のような優秀な人が一〇年やったら、きっと取締役になれるよ」

そのように、ジョブ・ディスクリプションをはっきり示して、夢と希望を与えつづける必要がある。それをやらなかったら、

「何のためにこんな会社にいるんだろうか、何のためにやっているんだろうか、こんな会社にいたって将来がないんじゃないか」

「何で忍耐しなければいけないんだ。こんな仕事に何の意味があるんだろうか」と、仕事に対する興味とか意義を見出せなくなる。

すると意欲を失って、すぐに辞めちゃうわけだ。さっきも言ったように、ヨーロッパ立石電機の外人社員が辞めていった

一番の原因は、ジョブ・ディスクリプションがないということ。頑張ったところでボード・メンバーになれない、将来性がないからという理由で辞めていった。

今の新人類のやめていく理由も同じである。ジョブ・ディスクリプション。なぜこんなことをやらなければいけないのか、その意味がわからない。

興味が湧いてこない、将来性がないと思う。この三つの理由で辞めていくのだ。

だから、「黙ってついてこい」とか「おれの言う通りにやればいいんだ」というのは、もはや絶対に通用しない。

中小企業にやって来る若者は、単なる新人類ではないのだ。新人類プラス屈曲型。そういうのが中小企業に来るのだから、旧来型の指導法はこの際、あっさり捨てたほうがいい。

これほどまでの時代の変化。それが読み取れない中小企業の社長は、どんな人も使えない。中卒とか高卒とか大学の中退で、裸一貫でやってきた社長は、ジョブ・ディスクリプションの論理と説明の仕方を勉強しなければいけない。

相手のレベルに合わせて「なるほどそうなのか」と納得できるようにわかりやすく、かつ忍耐と愛情をもって説明ができるように自分を磨かなければいけない。

それができなかったら、それはもう社長自身の能力的限界としか言いようがない。では、どうしたらいいのか。くどいようだが、ジョブ・ディスクリプションを明確に提示するしかないのだ。

欧米型雇用システムと日本型雇用システム

住友商事の人に聞いた話だが、住友商事でも住友繊維でも、「新入社員が入ってきたらまず鼻をへし折れ」というのが新人教育の基本的な指針なのだそうだ。

新入社員は社会人としては一年生だけど、その前はといえば大学の四年生で、言わば代表取締役社長といったような存在だった。

とくに体育系のクラブにおいては権力絶大で、命令一つで後輩は何でもやってくれる。

そういう、ついさっきまで社長然としていた人間は天狗の鼻になっているから、何はともあれその鼻をへし折れ、と。それが、住友グループの約束事になっているというのである。

そういうことは住友グループだけでなく、けっこうどこでもやっているらしいが、まあ、昔はそれでもよかったかもしれない。

ところが、最近の新人類を相手にそんなことをしようものなら、翌日から出社拒否。天狗の鼻もへし折れるけれども、同時にやる気も奪ってしまうわけだ。

そんなことぐらいで、なぜやる気をなくしてしまうのか。その理由がわからないものだから、

「せっかく一流企業に入ったのに、なぜすぐに辞めてしまうのか、どうもよくわからない。どう扱ったらいいんだろうか」

と、課長や部長が首を傾げるわけ。でも、欧米の社員を雇っていたら、そんなのすぐにわかる。新人類は、欧米人の社員から根性を取り去った人たちなのだ。

だから、ジョブ・ディスクリプションをバカがつくほど丁寧に示してやらなければいけない。

自分は今何をしなければならないのか、何のためにこの仕事をやっているのか。何年やったら次にどういう仕事が待っているのか。

それらを手取り足取り教えてやらなければ、仕事の意義が理解できないし、興味が湧かない。興味が湧かないから、すぐに辞めてしまうのだ。

この傾向にますます拍車がかかることはあっても、元に戻ることは絶対にないだろう。

とくに都会では、恐ろしいばかりに欧米化が進んでいくはずだ。それに伴って中途採用が増えつづけ、何年契約という欧米型の雇用システムが広まることも容易に想像される。

というより、すでに急速に広まりつつある。

私個人の意見を言えば、欧米型の雇用システムより、日本型雇用システムのほうが日本企業には適しているし、また、そのほうが強さを発揮できると思うのだが、時代の趨勢としては明らかに欧米型に向かいつつある。

したがって、中小企業の社長も、あるいは大企業の社長も頭をスイッチする必要に迫られているといえるだろう。

逆に言うと、欧米型の契約社員として優秀な人間が入ってきた場合、旧来の体質と合わない部分が生じる可能性がある。

それでも、経営者の頭が柔らかかったら使いこなせるだろうが、頭が堅かったらどうしていいかわからないし、部下を使いこなすことができなくなるだろう。

そのように、部下の指導法といっても、時代と共に大きく変化しつつあるわけだ。若者の気質も欧米化している。

それに外国人の部下を持つことだってあり得る。いま現在、外国人を雇っている中小企業は少なくない。あるいはまた、外国に子会社をつくったら、現地スタッフを雇うわけだから、現地スタッフの雇い方も考えなければいけない。紙数に余裕があれば、外国人の雇い方についてもっと詳しく述べたいところだが、それはまた別の機会を見つけて語ってみたい。

ますます必要になる帰国子女対策

そのように、一口に部下と言っても、昔気質の古いタイプの部下もいれば、欧米人か根性を抜いたような新人類、それから情緒的な女子社員と、いろいろなタイプがいる。

それらすべてに対応しなければならないのだから、能力的に優れているだけでなく、人間的にも大きくならなければ、経営者はとても務まらないというのが偽らざるところだが、実はこれらに加えてもう一つ、別のタイプがある。それは何かというと、外国で幼年期、少年期を過ごした、いわゆる帰国子女である。

私の経営する予備校でも、最近目立って帰国子女が増えてきたが、彼らに共通しているのが、相手が目上だろうが友達だろうが、態度が全然変わらないこと。校長先生であろうと先生であろうと先輩であろうと関係ない。

「先生、この問題のここのところ、よくわかんないから、教えてよ」
   
「ええっ?」

「ねえ、教えて」

「あなた、もしかしたら帰国子女?」

「はい、そうですけど」

日本人の生徒なら、

「先生、お忙しいところ申しわけないんですけど」

と、目上に対する礼儀とか、自分の立場をわきまえてモノを言うんだけれど、帰国子女はそんなの一切お構いなし。

相手が誰であろうと、いつも同じ立場、同じ目線でモノを言う。外国人の場合も、無論そういう傾向はある。だが、彼らは一応、ボスに対する礼儀を構えている。

それに、顔つきも体型も、育った文化も日本人とまったく違うから、彼らが無礼なことを言ったとしても、「まあ、仕方ないか」で済ますことができる。

ところが、帰国子女は外見上、日本人と全く同じ。

そのため、ついつい日本人従業員を見るのと同じ目線で彼らを見つめ「なんて生意気な奴なんだ。礼儀知らずで傲慢なんだ」と腹の一つも立てたくなるが、それではダメ。彼らは別段、生意気でも無礼でも傲慢でモノを言っているつもりでもないのだ。それが彼らにとっては自然体なのである。

だから、そういうシーンに遭遇したら、「あっ、帰国子女なんだ。半分外人なんだ」と思わなければいけない。

同じ目線、同じ位置に立って、フリーに討論できる雰囲気をつくった上で、まずは相手の意見をよく聞く。それから、社長としての自分の意見を言うくらいの覚悟がなければ、帰国子女なんかとても扱えない。

「ふーん、なるほどね。社長の意見もわからないじゃないけどねえ」

「うん、社長の気持ちもわかるよ」

「わかってくれてありがとう」

一事が万事、こんな調子なのだ。情けないことかもしれないが、こうしなかったら帰国子女は居つかないし、外国人なんか使えない。

職場環境にも配慮を

それから、居心地がいいかどうか、これも彼らを雇う時に注意しなければならない点である。この場合の居心地とは、精神的な意味より物理的な意味合いのほうが強い。

つまり、快適な職場環境、快適な住環境がなければ、なかなか居つかないのだ。

一般的な傾向として、エアコンがよくなかったら、外国人従業員はすぐに辞めていく。事務所の空調はもちろん、社宅のアパート、マンションの空調。それから机に椅子。

どうしてそこまで、と言いたくなるほど、彼らは職場環境、住環境に凝るし、大事にするのである。

日本人の場合は一般的に、職場環境なんてあまり気にしないし、住環境に目いっぱい凝る人は少ない。むしろ、やたらと狭くて汚くて、薄暗い赤提灯が一つ、やけに寂しげにぶら下がっている屋台のおでん屋なんかで、酒を酌み交わしながらボソボソと語り合うのがいい、なんていう人が多い。

ところが、外国人にはそういう日本人のメンタリティーが理解できない。全部が全部とは限らないが、快適な環境でなければ辛抱できないのだ。

それともう一つ大事なのが、先にも述べたように、「この人と一緒に仕事をやったら楽しそうだな、面白そうだな」という印象を与えること。

そのために、一緒に遊ぶ。釣りに行くとかゴルフをするとか、あるいは食事に行くとか映画を見に行くとか、そういうことをやらない限り心を開いてくれないし、仕事をやってもパートナーとして動いてくれない。「何だか、面白くない奴だ。こんな社長の下ではやっていけない」と、彼らは思うのだ。

遊びの空間を活用して社内の活性化を

欧米の人間がそうだということは、新人類もそういうタイプだ、ということである。だから、新人類が入社してきたら、時には一緒に遊ぶ。

すると、「話がわかるな、ウチの社長は」「話がわかるな、この部長は」ということで、やる気になったりする。

ところが、「おい、仕事をしろ、仕事を。お前、会社を何だと思っているんだ。会社はサロンじゃないんだぞ、遊園地じゃないんだぞ」

「それが目上に対する言葉遣いか。そんなことじゃあ会社勤めなんかできないぞ」

なんて言ったら最後、「あっ、そうか。自分には会社勤めができないんだ」と思って、それっきり会社に来なくなってしまう。楽しいか楽しくないか、彼らにとってはそれが全てだから、厳しいことを言ったらまずやる気をなくす。やる気にさせようと思うなら、たまには一緒に遊んでやるのがいい。

「おい、今度の休み、ディズニーランドへ行こうや」
などと誘ってやると、そのときだけはえらくやる気に燃えるから、燃えている瞬間を捉えて、

「仕事というものはこういうもんだからね」と、同じ立場に立って、ジョブ・ディスクリプションを示してやる。そこまでやって、やっと聞く耳を持ってくれるのが新人類なのである。

昔の人間は、「黙ってついてこい」だの「そんなことでやっていけると思っているのか」だの、少々厳しい言葉を浴びせられても、「はい、やっていけるように努力します」と言って、ますます努力したものだが、今の若者は、「やっていけると思っているのか」などと叱られると、「ああ、やっぱりやっていけない」と思って辞めてしまうのである。

そこに、フリーアルバイターが増えてくる理由がある。彼らは自由気儘に生きたいのだ。自由気儘に生きたいということは、遊びの空間がほしいわけだ。

そのへんの気持ちを理解してくれる上司についたら、「いいなあ、居心地いいな、話がわかるな、将来性があるな、興味が持てるな、やる気がするな」ということで居つくわけだ。

そういうふうに、昔型の頭を捨てて、今の若者の気質ということをよく考えてやっていかない限り、経営者としての責務は果たせない。そう覚悟すべきである。

部下に多くを望むな

ということで、これからの従業員教育を考えた場合、まず忍耐しながら、それを愛情に変え、理解を深めていく。

あるいは、一人ひとりの従業員を理解し、理解にもとづいて忍耐を先に立て、それを愛情に変えていく。今の若者はそういうものなんだと理解すれば忍耐もできるだろうし、それを愛情に変えることも可能なはずだ。

そのパターンは外国へ行った時も同じで、まず外国人というものの理解から始まる。イギリス人もオーストラリア人もアメリカ人も、日本人にとっては同じ外国人ではあるが、それぞれの気質は微妙に異なるし、イタリア人となると、これまた大きく違ってくる。

イタリア人を使う時には必ず昼寝の時間を与えなければいけない。それも一日四回というのだから驚きだ。何といってもイタリアは、恋と歌と食べ物の国だから、「仕事!仕事!仕事!」という姿勢で向かったら、一〇〇パーセント反発される。しかも、何か問題が生じても、「アラ?」で終わり。仕事に対する責任感なんて、まるでない。

初めてイタリアで事業を立ち上げたとき、こんなに働かず無責任な民族があったのかと、私は心底びっくりしたが、とにかく、仕事のパートナーとしてイタリア人ほどやりにくい相手はいない。

イタリア人で思い浮かぶのは、彼らの喧嘩の方法である。彼らの喧嘩は、どちらが正しいとか間違っているとか、理屈なんか全然関係ない。ただただ言葉数が多いほうの勝ち。

言葉数で勝たないと使えないのがイタリア人なのだ。

そのように、外国人といっても、それぞれ気質が違う訳だから、まずその気質を理解する。新人類の場合は、外国人から根性がスーッと抜けた人たち、それが新人類だと考えて諦めるわけだ。

自分の思うようには世の中はいかないのだ。自分の思うようには人は動かないんだ、でも長所は一応あるんだからと諦めて、順応しなければとてもやっていけないだろう。

それを「こうあるべきなのに」「こうするのが本当なのに」と思うから、腹が立つ。

そして、「ああ、ロクな社員しかいない」と嘆くわけだ。しかし、初めからそんな社員しか来ないのが中小企業の宿命なのだから、これはもう諦めるしかない。忍耐、愛情、理解ができたら、次に諦めることを考えなければいけないのだ。とにかく諦める。その諦めができないから腹が立つし、嘆くし、悔やむわけ。諦めたらストレスなんか溜まらない。

「ええ、しょうがないんです。最初から諦めています。そこからのスタートだと観念して頑張っていくしかありません」

そのように、諦めのいい経営者なら、自ずから努力の方向性が見えてくるだろうし、出来の悪い部下でも育てられるはず。

反対に、諦めの悪い経営者には部下は使えない。そう思って、多くは望まないことだ。

どんなに望んでも相手は自分とは別々の環境、別々の価値観、別々の時代に生きているわけだから。それをいかに早く悟るかが、経営者としての賢さ、理解力、咀嚼力、順応性であるのではないだろうか。

第三章 接客、接待術の極意

接待のときの店選びはこうやる

相手を十二分に満足させ、心から喜ばせる接客、接待とはどういうものなのか。

この章ではそれをテーマに書き進めたいと思うが、これから述べる接客術はあくまでも私の体験に基づいたもの。

これが接客、接待術の全てというわけではない。が、以下に述べることだけでも体得すれば、かなりのレベルの接客術を身につけることができるのではないかと思う。

さて、接客といえば一般的に、料亭なりレストランなりを使うのが普通である。厳密に言えば、それは接客というよりむしろ接待と言うべきかもしれないが、とりあえずは料亭やレストランを使った接客術について語ってみたい。

さて、料亭やレストランでVIPをお持てなしする時、あなただったらどうするだろうか。知らない店、行ったこともない店に予約を入れるだろうか。

あるいは、馴染みの店を使うだろうか。まあ、そんなこと、尋ねるまでもあるまい。

誰だって知り合いの店、1 馴染みの店を使うに決まっている。私だってそうだ。どんな料理を出してくれるのか、

どの程度のサービスをしてくれるのか、それもわからなければ、とても怖くてVIPをご招待することなど、できる相談ではない。

その程度のことは誰だってわきまえているものだが、では、その馴染みの店ではどの程度楽しめるのか、どの程度感動できるのか、どの程度嬉しいのか、というところまで徹頭徹尾調べ上げているのか、

いないのか。想像するに「まあ、名の通った店だから大丈夫だろう」「料金的にも高級な店だから、文句は言われないだろう」などと、名前や料金を判断材料にして店の選定をしている人が大半ではないだろうか。それでは甘い甘い。とても接客の達人とはいえない。

例えば、目当ての店にはキリンビールしか置いていないのだけれど、招待するVIP は大のスーパードライ党で、それ以外は飲まないという人だったらどうだろう。

あるいはまた、カラオケ大好き人間なんだけどカラオケの設備がないとか、鰻が嫌いなんだけ料理中心の店だったとか、そういう場合、どうなるだろう。例え口には出さなくても、心のどこかに不満が残るはずで、少なくとも、心から満足し、心から感動し、心か喜んでもらうことはできないだろう。

たとえ有名な店であろうと高級な店であろうと、必ずしも最上の接客ができるわけではないのだ。

では、どうやったら心から満足し、心から感動し、心から喜んでもらえる接客ができるのだろうか。

それには、上司・目上に対する時と同様、相手の性格を見抜き、趣味、趣向、特技を知悉することである。相手は何が好きなのか。

魚なのか肉なのか。ビール党なのかウイスキー党なのか。あるいは日本酒党なのか。日本酒党だったら、隠れた銘酒を探し歩くのが好きなのか。

あるいは、静かな店が好きなのか、女の子のいる店でわいわい騒ぐのが好きなのか。

そこまで徹底的に調べ上げ、相手の趣味趣向に合った店選びをすれば、最高の接客ができるだろうが、それを怠って、店の名前や料金だけを頼りに店選びをしていたら、まあまあの接客しかできない。

たかが接客、そこまでやる必要があるのか、と言う向きもあるかもしれない。だが、たかが接客などとタカをくくっていてはいけない。

相手の急所を突いた接客をすれば、「おっ、こいつ、なかなかやるな。仕事をやらせても、きっと優秀な奴に違いない」と思わせることだって可能だし、逆に、ありきたりの接客をしたら、

「まあ、こんなものだろう。能力的には凡庸だな」という評価を下されてしまうかしれない。人物評価というのは、意外とこんなところでなされることが多いものなのだ。決して安いとはいえない料金、決して短いとはいえない時間を使いながら、「あいつはダメ」「あいつは使えない」なんて評価されたら、それこそ泣きっ面に蜂。これほどつまらないことはない。

だったら、たかが接客などとタカをくくっていないで、最上の接客ができるよう、しっかりとポイントを学びたいものである。

接客、接待には普段からの観察力が不可欠

それにはやはり、上司・目上とのコミュニケーションと同様、相手の性格を見抜き、趣味趣向、特技を知悉すること。これが不可欠である。

ところが、じゃあどうやったら性格や趣味を知ることができるのか、という話になると、これが案外難しい。メモを片手に刑事よろしく、

「失礼ですけれど、どのような性格をされていますか。温厚なほうですか、怒りっぽいほうですか。趣味は何ですか。

ゴルフですか、マージャンですか、それとも釣りですか。

特技は何かありますか。えっ、ソロバン三級に車の運転ですか」

と聞き歩けば教えてもらえるだろうが、まさか、そんなことできるわけがない。まあ、時と場合によってはそれも許されるかもしれないが、そんなことをしただけで、非常識な奴、仕事のできない奴との烙印を押されてしまうのが普通だ。

では、どうしたらいいのか。結論から言えば、普段から相手の行動をよく観察すること。これ以外に、性格や趣味を見抜く方法はない。

日頃の何気ない行動、表情、言葉遣いを注意深く観察していれば、ああ、この人はこういうことで喜ぶんだな、こんな言い方をすると怒るんだな、こんなところで寂しく感じるんだなと、だいたい察しがつくものである。

その観察力を普段から磨いている人は、仕事をやらせても抜群だし、接客をやらせても最高の接客ができるはず。

反対に、いつもボーッとしているだけで、何を見ても何を聞いても感じない人、鈍感な人、いちいち言われなければわからない人、気配りのできない人。こういう人はもう、仕事をやらせても最低だし、ましてや接客などハナからできるわけがない。

船場の後継者教育に学ぶ接客の極意

だから、接客をするにしても仕事をするにしても、普段の観察力、気配りがモノを言うのだが、それを徹底的に鍛える伝統を残しているのが大阪の船場である。

大阪の船場といえば、全国的にも有名な繊維の問屋街である。その船場の老舗では昔、跡継ぎになる子供には厳しい教育を施していた。

それは無論、由緒ある暖簾を守るためなのだが、どんな教育をやっていたのかといえば、シジミ売りである。後継者と目した子供が小学校の一年生か二年生になったら、シジミを売って歩かせるわけだ。

「シジミー、いかがすか。シジミー、いかがすかあ」と、一軒一軒、声を掛けながら売って歩くのだが、シジミなんかそうそう売れるものではない。

「シジミなんか要らん。帰れ帰れ」と、取りつく島もなく追い返されることもあれば、「おう、坊や、感心やなあ。ほな、買うてやろ」と、温かく迎えられることもある。

かと思えば、「少し負けときな。そんなら買うてやる」と、値切られそうになることもある。

追い返す客、感心だと言って買ってくれる客、子供相手に値切ろうとする客そういう様々な客に接することで、人はどういうことを言うと怒るのか、どういうことを言うと喜ぶのか、といった人間の喜怒哀楽を肌を通して学ばせ、値切ろうとする客にはどう対応したらいいのか、という商売のコツを身につけさせるために、子供の小さいうちから苦労させるわけである。

そうした訓練を受けて育った人はやはり、相手の表情をパッと見た瞬間、胸の内まで見通してしまうほどの観察力を身に付けているものである。

無論、人使いはうまいし、取引先の気を損ねることがないので、跡継ぎになってもますます店が繁盛する。

ところが、厳しく鍛えられることなく、わがまま放題、自由気儘に育てられた人間が跡を継いだら、これは悲惨。店が傾くこと必定である。

店主がわがままで、気配りができなければ、手代さんや丁稚さん、あるいは仕入れ先など周囲の人間が、店主のご機嫌を損ねないように気を使う。

と当然、お客さまの気持ちを逃がしてしまい、その分、注文も減っていく。そればかりか、有能な手代、丁稚も逃げ出すことだってある。こうして、歴史と暖簾を誇る老舗の大店も、次第に傾いていくのである。

それを恐れるから、船場商人にしても近江商人にしても、あるいは伊勢商人にしても、後継者たる自分の子供が我儘な人間にならないよう、小さい頃から厳しくしつけてきたわけだ。

では、我儘に育てないということはどういうことなのか。人はどういう時に喜び、どういう時に感激し、どういう時に腹を立て、どういう時に寂しいのか、それを自らの体験を通して知悉し、自分が嫌だなと思うことはなるべくしない、自分が嬉しかったなと思うことは人にしてあげる。

そういう人間に育てることが、わがままに育てない、ということである。

そのためには、人並み以上に辛い体験も必要だろう。あるいはまた、無上の喜びを体験する一瞬も必要だろう。

子供から少年、少年から青年、青年から大人へと成長していくプロセスのどこかで、そういう体験を積み、喜怒哀楽の機微に精通した人間は、やは接客上手である。

接客術とか接客の極意はどこでどのように学ぶのかといったら、それしかない。とにかく、喜怒哀楽の機微、人情の機微に精通すること。接客術の極意とはそういうことである。

人情の機微に通じるためには

こんな話をすると、必ずと言っていいほど、こう言ってくる人がいる。

「喜怒哀楽の機微に通じろと言われたって、甘やかされて育ったおれに今さらできるわけがない」

そんな気分になるのもわからないではないが、諦めるのはまだ早い。上司・目上を相手にトレーニングをすれば、誰だって人間の喜怒哀楽を敏感に察知できるようになるのだ。

一口に上司と言っても、気の短い上司、やさしい上司、マイペースな上司といった具合にいろいろなタイプがあるし、一日のうちでも朝と昼とでは気分が違うし、晩になればまた変わってくる。

そのように上司を絶えず観察していて、どうしたら喜んでもらえるのか。それを研究すればいいわけだ。

その結果、ああ、こうすれば上司は満足し、喜んでくれるんだなとわかったら、それをそのまま接客に応用すればいいだけの話である。

上司に接するが如くに接し、上司にお仕えするが如くにお仕えし、上司とともに楽しむが如くに楽しんでいけば、それがそのまま接客術になるわけだ。

だから、自分を生かしながら上司・目上も生かし、上司・目上を生かしながら自分も生かすということが日頃からできている人は、何をやってもうまくいくし、自ずから接客もできているはずで、逆に、接客が不得意だという人は、上司・目上との付き合いも不得意に違いない。

断言はできないが、上司・目上から疎んじられることはあっても、可愛がられたり、認められることは少ないのではないだろうか。

いずれにしても、接客がうまくなりたかったら、上司・目上にお仕えするという訓練を積み重ね、人の喜怒哀楽人情の機微に精通する自分自身をつくっていくこと。これが基本である。

植松先生から学んだ女性の接待

自分で言うのも何だが、私はいま、「接客?私に任せなさい!」と言えるくらい、接客に自信を持っている。達人の域に達しているかどうか。

それは他人が判断することなので、自分の口からは言えないが、接客にかけてはそんじょそこらの人間には絶対に負けない。それくらいの自信がある。

そんな私でも、女性を接待するという話になると、これにはあまり自信が持てなかった。

女性を接待した体験がなかったからである。ところが幸いにも、二〇代の半ばに、植松先生という女性の恩師に出会うことができた。以来、上司に接するがごとく、目上に接するがごとく植松先生にお仕えしてきたのだが、実は、その中で女性を接待するときのツボを学んだのである。

植松先生がお住まいになっていたのは山の手の高級住宅街。無論、近所にはいわゆる山の手婦人がたくさん住んでいて、交わされる会話も、当然のことながら上流社会のそれだった。

「まあ、いいわね、オガワケンへいらっしゃったの。あそこは味がお上品で、何をいただいても美味しいですものね」

えっ、オガワケン?ラーメン屋だろうか。でも、ラーメンの味が上品なんて、何か変だな。尋ねてみると、オガワケンというのは小川軒と書く高級料亭なんだとか。

「じゃあ、今度、その小川軒に行きませんか」

ということで、植松先生と一緒に小川軒に行ったのだが、私は店にいる間、ただボーッとしてはいない。女性はどんなものを好むのか、それを知るために植松先生の言動を注意深く観察することを忘れなかった。

あるときまた、植松先生はこうおっしゃった。「ねえ、深見さん、私も一度、マキシムに行ってみたいわ」

きっと、ご近所の奥様から話を聞いて行ってみたくなったのだろうが、突然マキシムと言われたって、私にはチンプンカンプン、何のことかわけがわからない。

マキシムって何だろう。宝石のお店だろうか、それともファッション関係のお店だろうか。

「先生、マキシムって何ですか」

「あら、マキシムも知らないの。銀座のレストランよ。お昼は八〇〇〇円ぐらいらしいわよ。ねえ、行きましょうよ、行きましょうよ」

そこまで言われたらお断りするわけにはいかない。さっそく、車で銀座へ向かうと植松先生、こうおっしゃる。

「ああ、久しぶりの銀座だわ。やっぱり銀座って華やかでいいわね」

(ははーん。女性は銀座のような華やかな場所が好きなんだな)

マキシムに着くと、

「雰囲気が素敵ね。インテリアがいいわねえ」

(ははーん。女性は雰囲気を大切にするんだな。インテリアなんかも、けっこうよく観察するんだな)

そこにボーイがやって来る。

「ボーイさんたち、マナーがとってもいいわねえ」

(ははーん。ボーイのマナーがいいと喜ぶんだな)

続いて料理が運ばれてくる。

「このお皿、とっても素敵。これ、何かしら。あらボンチャイナだわ。

(ははーん。女性は料理よりもまずお皿に目が行くんだな)

そうやって女性特有の喜怒哀楽の機微女性はどんなことに興味を持つのか、どういう雰囲気を喜ぶのか、どんなことに怒るのか、ということを学んできたから、女性の接待にも自信を持てるようになったのである。植松先生を実験材料と言ったら失礼だが、植松先生の言動を観察して覚えていったわけだ。

男性の接待は酒飲みの父から

男性を接待するときのツボは父から学んだ。といっても、手取り足取り教えてもらったわけではない。父を接待しながら、自力で覚えていったのである。

何度も言うように、私の父は大酒飲みの出鱈目な男だった。それが、子供の私には嫌で嫌で、どうにか直してもらいたいといつも願っていた。

それくらいだから、私自身、酒はあまり好きではなかったし、タバコは一度も吸ったことがない。また、歓楽街の女性たちとワイワイ騒ぐのもあまり好きではなく、それより本を読んで勉強してたり、あるいは歌を歌ったり、芸術的な世界に興味を持っていた。だから、

「おい、たまには酒を飲みに行こう。カラオケでも歌おうや」と父から誘われても、

「嫌だ。お酒なんか飲みたくない」と、突っぱねてばかりいた。ところが、ある時、ふとしたことから、私のほうから飲みに誘うことになったのだが、そのときの父の驚きようといったらなかった。

「お父さん、飲みに行こう」

「えっ、お前、いま何て言った?」

「飲みに行こうと言ったじゃないか」

「えっ、本当か」

「本当だよ」

「本当に本当か」

「本当だと言ったら本当だ」

ということで、生まれてはじめて父と一緒に飲みに行ったのだが、その店はかつて、会社の接待で使ったことのある店で、父には馴染みがなかった。

「わしは知らん店は嫌じゃ。わしの知っている店へ行こう」

「いいじゃないか。今日はぼくが連れて行くんだから」

「嫌じゃと言ったら嫌なんじゃ。それともお前、わしに無理強いするつもりなのか」

他人には無理強いする、無理強いの固まりのような男のくせに、自分の事となると「無理強いするな」だから、本当に嫌になってしまったが、それでもどうにかこうにか、目指す店にたどり着くと、さっきまでの機嫌の悪さはどこへやら。隣の女性とワイワイギャーギャーの大騒ぎ。私をつかまえては、

「お前もどんどん飲め。それに歌を歌え。おれに遠慮するな」である。私は元来、お酒が飲めるクチではないのだが、こうなったら毒を食らわば皿までだとばかりに、慣れないウイスキーを舐めながら、隣の姉ちゃんをダシに――と言ったら言葉が悪いがクダまいて騒いでいると、

「おっ、お前、話がわかるようになったじゃないか」

話がわかるようになったんじゃない、バカ親父に合わせているだけなんだーよほど言ってやろうかと思ったが、そんなことを言ったら、そこらじゅうの皿だのコップだのが飛んでくる。

自分の家ならまだしも、知り合いの店でそんな大立ち回りを演じられた日には、連れて来たこっちの立つ瀬がない。ここは忍の一字とばかり、何事もなかったかのごとく、飲んだり歌ったりしていると、今度は、

「おい、お前、そんなに飲んで、体、大丈夫なのか」と、私の体を心配する。

(人のことより、自分のほうこそ大丈夫なのか)

それも口に出さないでひたすら酒を舐めつづけ、歌いつづける。文学性とか芸術性なんてまるでないが、まあ、こんなバカ騒ぎをするのもたまにはいいんじゃないか。そんな思いがよぎった刹那、仲間と一緒にワイワイ騒ぎながら酒を飲んでは、意気投合することに喜びを感じる父の心情が理解できたような気分になった。

お酒のつき合いでも何でもやれるようになったのは、それ以来である。

「接待の本質とは己を殺すことである」

そのように、酒席の接待については父親を実験材料にしながら”独学”で覚えていったのだが、一つだけ父から教わったことがある。父はもともと政治家で、選挙参謀もやったことがあるので、接待については一家言を持っていたのだろう。ある日、父が私にこう言ってきた。

「晴久よ、お前に接待の本質を教えてやろう」

一体、何を言うのかと素直に耳を傾けたら、なかなか鋭いことを言うので驚いた。「接待とはな、己を殺すことなんだ。だから、接待しようと思ったら、まず己を殺さなければいけない。

だが、己を殺しただけじゃダメなんじゃ。己を殺して接待しているということが相手に伝わったら、向こうも気を使うだろう。

向こうも接待上手だったら、「ああ、己を殺して一所懸命、自分のために接待してくれているな」と思うよな。

それじゃあ、相手をもてなしたうちに入らない。本当の接待、接待の極意というのはな、己を殺すんだけれども、相手に感づかれないようにいかに己を殺すか。これなんだ。これが接待というものの本質なんだ。わかったか」

なかなかに的を射た言葉ではある。だが、今にして思えば、父の言う接待の極意だでもまだまだ足りない。

その後、体験を通じて私なりに体得した接待の極意について整理すると、おおむね次のようになる。

まず第一に、接待をしなければいけないから接待をするんだ、という姿勢ではダメ。これは最低レベルの接待である。

なぜかと言うに、「ねばならない」という気持ちで向かっていたら、まず自分自身にストレスが溜まる。

ストレスが溜まったら、「もう接待はやりたくない」という気持ちになり、接待を避けるようになり、接待の回数が減る。すると、ますます不得意になる。

不得意になるとさらに接待が嫌いになるという具合に悪循環に陥るし、接待される側にも「ねばならない」という意識が伝わるので、接待の場が気を使わせる場になりかねない。だからまず「ねばならない」という意識をなくすこと、これが第一。

では、どうしたら「ねばならない」という意識をなくすことができるのか。これが第 7 二のポイントだが、結論から先に言えば、自分も半分楽しむこと、である。というのも、接客とか接待というものは、「ねばならない」からやるものではなくて、自ずから自然にしてしまったという感覚。これが最も大事であるからだ。

例えて言えば、「この女性、素敵だなあ。結婚したいなあ」と思ったら、気付いた時には既に子供ができてしまっていたという、あの感覚。あの感覚なんて言ってはみたものの、独身で子供もいない私には、実はよくわからないのだが、「この人と結婚したい。それには毎日電話をしなきゃ。

最低でも週に一回はラブレターを書かなくちゃ」というふうに、ねばならないと思ってやるのではなく、気が付いたら受話器を握っていた、ラブレターを書いていた、というのでなければいけない。

それには自分も半分楽しむこと。接待していることまで忘れて、自分が主役になってドンチャン騒ぎをしてはいけないが、半分、相手と一緒になって楽しんでしまえば、「ねばならない」という意識をなくすことができるはずだ。

この二つのポイントをマスターできたら、接客の達人になった、接客の極意を体得したということである。

人と会うのが好きだ。人とお話をするのが好きだ。人と接し、人もてなし、お接待することが自然にできて、自分もどこか楽しんでいる。そして、気が付いたらまた接待していた、というのが接待の達人である。

「ねばならない」から接待するというのは、接待の修行者である。剣道でも、気が付いたら撃ち込んでいた、というのが最上とされる。

撃つぞ、撃つぞと全身全霊を込めて立ち向かうのではなく、気が付いたらもう撃っていた、無意識のうちに相手を斬っていた、と。それが剣道の達人である。

茶道でも、お茶を立てて上手におもてなししなければ、というのではなく、気が付いたら自然にお茶を立てていた、おもてなししていた、というのがお茶の達人。「ねばならない」から接待するという次元では、接待をマスターしたことにならない訳だ。

自分も半分楽しむ、これが接待の極意

いつだったか、もうかなり昔の話だが、父の仕事関係の人を接待することになった。そのとき父は何を思ったのか、私に接待を命じた。

「晴久、お前、行ってこい。いいか、接待というのは前にも言ったように、己を殺すことなんだぞ。それを忘れるな」

父の知り合いなんだから、父が接待すべきじゃないか。なぜ、自分で接待しないのだろうか。不思議に思いながら、行きたくもない接待に出かけたのだが、件の人物は恐ろしいばかりの大酒飲みだった。

まず一軒目は赤坂のクラブ。彼は大阪の人である。ところが、赤坂に行ったことがないので、「赤坂に行こう、赤坂に行こう」とせがまれる。

そこで、私の知人から紹介された馴染みの店が何軒かあって、その時行った先もそのうちの一つで、何という店だったか名前はもう忘れたが、外人のホステスがいることで有名なクラブであった。

席に着くや否や、彼はぐいぐい飲みはじめる。高級外人クラブなんていう場所に足を踏み入れたことのなかった彼は、もう大喜び。私は彼の飲みっぷりにただただ唖然とするばかりであった。そんな私が気になるのか、
「兄いも飲めや。な、飲めや。ここの外人さん、べっぴん揃いやな。とにかく、兄いも飲めや。な、兄い」

と、「兄い、兄い」をやたらと連呼しながら、盛んに酒を勧める。

「アニーよ銃を取れ”じゃないんだから、兄い、兄いだけはやめてくださいよ」と言っても、まるでお構いなし、相も変わらず「兄い、飲め」である。

自分は自分でウイスキーをガブ飲みしながら、その合間に下品なギャグを連発しては、ギャハハハハとバカ笑い。で、両隣のホステスはと見れば、ポカーンとしているだけで反応なし。

それもそのはず、外国人相手に関西弁で早口でギャグを言ったところで通じるわけもない。私が英訳してやってはじめてアハハハと声を上げて笑うのだが、英訳したギャグは全然違うギャグ。

それも知らず「どや、面白いギャグやろ。な、面白いやろ」

なんて言いながら一緒になってギャハハハハと笑っているのだから、無邪気といえば無邪気ではある。

だが、彼の下品な言葉、下品な態度はたまらなく不快で、とても私の体質に合うものではなかった。接待だから仕方ないけど、そうでなかったら絶対におつき合いしたくないタイプの人である。

それでも、「接待とは己を殺すこと、殺していることを感づかれてもいけないんだ」と自分に言い聞かせ、その場はどうにかやり過ごすことができた。

「兄い、次、行こ」

そして、いよいよお開きの時間。やっと終わった、これで家に帰れる。そう思ってホッと胸をなで下ろしたのも束の間、と、二次会へ行くのは常識なんだと言わんばかりの顔で言う。

結局、その日の接待は二次会、三次会はおろか、何と五次会まで延々と続くことになったのである。

まあ、二軒目ぐらいまではそこそこ体力、気力ともまだ余裕が残っているものの、三軒目ぐらいになるともういけない。

ボトル一本とまではいかないまでも、すでに相当量を飲んでいるので足元がおぼつかず、二人して肩を組みながら、夜の赤坂の街をあっちへフラフラこっちへフラフラと歩いていく。その道すがら、彼は突然、軍歌を歌いはじめる。

「徐州、徐州と人馬は進む、徐州居よいか住みよいか……」

まさに放歌高吟。一〇〇メートル先にも聞こえるようなバカでかい声で歌うものだから、こっちは恥ずかしくてしょうがない。と、そのうち涙ぐんできて、

「なあ兄い、軍歌はええやろ。兄いも一緒に歌え」と、強要する。ああ、父と同じタイプの人なんだ。この世代の人は皆軍歌が好きなんだ。そう思いながら、

「はい、いいですね、軍歌は」

なんて、適当な相槌を打っていると、今度は戦争中の話を持ち出して、やたらと説教を始める。

「いやあ、あの時はほんまに大変やった」

「ええ、大変でしたね」

「君は、戦争を体験したのか」

「いえ、体験してはおりませんけれど、漏れ承るところによりますと、たいそう大変だったそうで。父から聞いております」

「そうやろ。若い兄いが戦争を知ってるはずないわな。兄いら戦争を知らん世代は根性がなっておらん。そう思わんか、兄い」

そんな話を聞かされながら、どうにか四軒目にたどり着いたのだが、そのころになるとさすがに気力、体力とも底をついて、「これだけ飲んだんだから、もういい、十分だろう。

いい加減にしてくれ、勘弁してくれ」という気分になってくる。そのとき、ハッと気がついた。

そうか、酒にかけては百戦錬磨の父も、この人の接待には音を上げていたんだ。だから、私に接待を命じたんだ。そのくせ、「いいか、接待とは己を殺すことなんだぞ」なんて、よく言うよとは思ったものの、接待が己を殺すことであるのは間違いないし、気を使っていることを感づかれてもいけない。

仕事柄、接待をする側に回ることもある彼のことだから、酔っぱらいながらも、私がどのように接待するのか、ちゃんと見ているだろう。それに、いくら何でもこの店で終わりだろうから、最後まで手を抜かず、きちんと接待しなければ……。

そう気を取り直して酒につき合ったのだが、四次会が終わるころになるともういけない。頭はクラクラするわ、胸はムカムカするわで、気分最悪。トイレで鏡を見れば顔面蒼白である。

「兄い、どうしたんや、大丈夫か?」と心配してくれるのだが、本人はまだまだ元気。そして、店を出た途端、何と、

「さあ、次行こ。夜はこれからや!」

と、夜空に向かって叫んだのだ。その時である、私の心の中に彼を裁く思いがふつふつと湧いてきたのは。

(まだ飲み足りないと言うのか、この大酒飲みが。五次会まで行こうなんて、そのお金は一体、誰が払うと思っているんだ。こっちじゃないか。自分は一銭も払わないくせに。このたかり屋め。言うことは下品でくだらないギャグばかりで、まるで知性というものがないじゃないか、知性が)

と、倫理、道徳で裁こうとする気持ちが湧き上がってきたのだ。

だが、それではいけない。裁く思いで相手を見た瞬間、心の内を見透かされてしまう。どんなに隠そうとしても、目や顔の表情、態度に表れるから、そこを読み取られてしまう。

だから、倫理道徳で裁いてはいけないんだ、裁く心を捨てなきゃいけないんだと一生懸命思い込もうとするのだが、如何せん、精神的にも肉体的にももはや限界である。

知らず知らずのうちに、「この大酒飲みが、このたかり屋が」という思いが湧き上がってくる。

二人で肩を組み、またまた軍歌なんかを歌いながら、意気投合したかのように装いながら真夜中の街を歩いていくのだが、やはりどこかぎこちない。

さて、どうしたものか。そのときふと思い付いたのが、一緒に楽しんでしまえばいいんだ、ということだった。

それまで私は、「己を殺さなきゃいけない。殺していることを察知されてはならない」と自分に言い聞かせ、精一杯、接待していたつもりであった。

しかし、そういう「ねばならない」という気持ちだけでは、結局ストレスが溜まるし、疲れ果ててしまう。

だから、己を殺すだけではダメなんだ。自分も半分楽しまなければ、とても接待なんてやっていられないのだ。

接待しているその一瞬一瞬は、自分にとっても人生の大事な一コマなんだから、たとえ相手が大酒飲みであろうと、女極道であろうと、博打好きであろうと、たかり屋であろうと、下品な人間であろうと、半分、一緒になって楽しまなければ…。

そう思った瞬間、気分がスーッと楽になったばかりか、理屈を越えた和気満々とした雰囲気が感じられたのだから不思議だ。

父の言った「接待の極意とは己を殺すことなんだ。しかも、それを相手に感づかれないようにすることなんだ」というのも正論である。

だが、それだけでは足りなかった。それに一厘加えて、「自分も一緒になって半分楽しむ」。これが接待の極意なのだ、ということが、その時はじめてわかったわけである。

倫理、道徳で裁いてはいけない

どんな時でも、どんな人が相手でも接待ができるようになったのは、それ以来である。

もちろん、接待ができたなら、接客も当然できるようになる。接客とはお酒とか飲食が伴わない接待だから、お客さんの心の中にパッと飛び込んでいけるわけだ。

ところで、接待の基本は「己を殺す」ことだが、それができる人は少なくない。また、相手に感づかれないように己を殺せる人もいくらでもいる。

だが、自分も一緒になって半分楽しむとなると、これがなかなかに難しい。もちろん、気心の通じている人、気の合う人となら楽しむことができるだろう。

というより、気が付いたら一緒に楽しんでいた、というケースのほうが多いだろう。

だが、嫌いな相手、体質的に合わない相手を接待するとなったら、これは非常に難しい。信じられないくらいに酒好きだったり、救いようもないほど助平だったり。

金に汚なかったり、たかり屋だったり、あるいは二枚舌だったりゴマすり人間だったり。そういった自分が嫌いなタイプ、性格的に合わないタイプの人が相手だったら、とても楽しむことはできないし、自然、態度もぎこちなくなる。

そういう場合、どうしたらいいのかといえば、前にも述べたように、倫理、道徳で裁かないことである。人間はかくあるべし、なんていう倫理観なり道徳観なりを持っていれば、必ず目の奥と心の奥で裁いてしまう。

だから、少なくとも接待のときには倫理観、道徳観はいったん脇に置いて、相手の人格の全てを容認することである。

ありクセの多い人だけど、とにかく人間として地上に生きていて、税金を納めていたら立派な国民だ、こんな人間でも、心配している親がいるんだ、バカであればあるほど親が哀れに思うはずだ。

酒飲み、大いにけっこう。人類を救い、世のため人のために役に立つ理想の性質、それは酒飲み!酒こそ人生の母、酒飲みにはバッカスの神が守護しているんだあそう思っていると、心がウワーッと広がって、それが向こうにも自然伝わる。

「今日は実に楽しい。こんなにやってもらって、本当にありがとう」

これが接待、接客の極意であり、そういう内面性というか、心の技術をマスターすれば、ゴルフであろうとマージャンであろうと、あるいはスキーであろうと酒であろうとダンスであろうと、何にでも応用がきくようになる。もちろん、上司・目上に対する時だって同じである。

上司・目上には誰だって気を遣うものだが、気を遣っているだけではどこか腰が引けて相手の懐に飛び込んでいくことはできない。

ましてや、上司・目上とはこうあるべきだ、何か問題が生じた時には責任を負うべきだ、などと倫理観、道徳観を先に立てれば、間違いなく裁きの心が生まれるし、その分、上司・目上から敬遠される。

上司・目上から見れば、自分の懐の中にポーンと入ってくる部下、これがやはり可愛いいし、引き立ててやろうと思う。

そう思わせるには、気を使いながらも、上司・目上と一緒にいるひとときを楽しむ。

すると上司も、自分の懐の中にポーンと入ってくるハトや手乗り文鳥、あるいは犬や猫みたいに、可愛い奴だとハートで感じるもの。

いわゆる、「窮鳥、懐に入れば猟師も殺さず」というやつで、ここに接待や接客の重要なポイントがあるのだ。

求められる和光同塵の精神

私の会社と取り引きしている香港の輸出業者の一人に、リーさんという人がいる。

彼は、私が最初に香港に進出した時に知り合った業者で、かれこれ一七年来の付き合いになる。そのリーさんから聞いた話だが、日本の輸入業者が彼のところへやって来てまず最初に言うのは、

「おい、酒を飲みに連れて行け」なのだそうだ。そして、酒に連れて行くと、次は決まって、「おい、いい女を紹介しろ」と、女の話になるんだとか。さぞやリーさんも大変だろうと思って聞いてみると、悠揚迫らぬ態度でこう言う。

「なかなかいい女性がいなくてねえ。努力して探しているんですけどねえ」

この台詞を聞いて、皆さんはどう思うだろうか。酒を飲ませろ、女を紹介しろとしつこく迫る業者は少なくないから、決して他人事ではないはずだが、あなたがもし倫理観、道徳観の強い人、あるいは宗教心のある人だったら、きっと眉をひそめてこう思うに違いない。

「酒だの女だのと、何と不道徳な。ましてや、取引先のために女を探すなんてとんでもない。さっさと断るべきだ」

そんな気持ちはわからないではない。だが、それを前面に押し立てていたら、ビジネスはやっていけない。

宗教的理念に生きて、宗教的な真実を追求し、宗教的な善を広めるというのならもちろん、不道徳な求めに応じるわけにはいかないだろうが、ビジネスの世界は別。酒ばっかり飲んでいては体を悪くする、女だなんて不道徳だ、博打なんてヤクザ者のすることだ、というふうに考えていたら、接待や接客など、絶対と言っていいほどできやしない。

要は、そういう不道徳、非倫理的な世界に身を置いていても、自分まで染まらないこと。朱に交われば赤くなると言うが、朱に交わっても自分が赤く染まらなかったらいいわけだ。

それがまさに和光同塵和らげ塵と同じくするという、仏様が衆生済度するときの和光同塵なんだと考えて、酒を飲みに連れていけとか、女を紹介しろと言われても、先のリーさんのように鷹揚に構えることである。

全てが全てとは言わないが、世の中の人間の多くは魑魅魍魎がスーツを着て歩いているようなものである。酒飲み、女好き、博打狂い…。

そんな魑魅魍魎に向かって、倫理、道徳を説いたところで、残念ながら意味はない。それより、塵と同じくし、光を和らげるのが仏様の衆生済度する時の姿勢なんだと自分なりに納得し、割り切ってその魍魎たちを愛する。

自分まで魍魎になってはいけないが、少なくとも裁かない。その姿勢を忘れないようにしたい。

倫理、道徳で、「この酒飲みが」「この助平が」「この博打好きが」「このたかり屋が」「この下品なオッサンが」と思ったら、必ず相手に通じる。

だから、「お酒はいいなあ」「女性は人生の華だなあ」「博打は男らしさの象徴じゃあ」「たかりはいい。鷲より強そうだから、人からたかろう」。

そういう和光同塵の気持ちで相手に向かえば、そのオッサンも好きになってくれる。「また行こう、また行こう」と、たびたび来られても困るが、少なくとも相手は好きになってくれる。

深い人間理解がなければ接待は難しい

私が接客上手になったのは、その大酒飲みの人を接待してからだったが、後になって父からこう聞かされた。

「おい、お前、彼が言っていたぞ。「いやあ、あなたの息子さんは若いのになかなかしっかりしてる。辛抱して最後まで大事に接待してくれたけど、本人は、さぞ大変だったと思うよって」

「そりゃ大変でしたよ。五次会まで行ってね、酔っぱらって左右に蛇行しながら歩くのを支えたりしたんですから」と、思わず言い返してしまったが、彼もちゃんとわかっていたわけだ。自分自身が接待する側に回ることがあるから、上手な接待か下手な接待か、すべてお見通しなのだ。

彼が私の接待を褒めたのには、もう一つ理由がある。

これは父から教わったことだが、クラブだとかバーに行った時には、必ずチップを渡すこと。これも酒席での接待では欠かせぬ重要なポイントだと思う。

「お前な、五〇〇〇円札か一万円札を三センチ四方ぐらいに小さく畳んでな、親指の間に挟んでおくんじゃ。で、ホステスと握手をするときに、「これ、大事なお客さんだからよろしくね」って、それとなく渡すんじゃ。わかったか」

接待する相手がまあまあの人だったら五〇〇〇円札、VIPだったら一万円札。もちろん店の格にもよるが、それ相応のお金を握手をする時にソッと渡せば、何も言わなくても向こうも感触でわかる。そのとき、

「これ、チップです。よろしくね」

なんて言ってはいけない。それとなく、

「お願いします、大事なお客さんですから」

と言うだけで十分通じる。そうやってチップを弾んでおけば、他にお客さんがいても、自分が連れて行ったお客さんを大事にしてくれるし、次の店に行くときも、そのホステスが付き合ってくれることもある。

「あの女、わしのこと気に入ってるみたいやで」

そんなことあるわけがない。助平でたかり屋のオッサンを気に入るホステスなど、どこの世界にいるというんだ。と言いたくなるが、そこはグッと堪えて、「いや、気があるんじゃないんですか。目の光り方が違っていましたよ」

「そうか、兄いもそう思うか」

「目がピクピクしていましたよ。あの目が真実の愛を物語ってましたよ」

「そうやろ。絶対、わしに気があるで」

こんな下らない話を何時間もしては、また次の店に行く。そして、行く先々で「お願「いしますね」とチップを渡す。すると、「昔、どこでもわしのこと大事にしてくれるなあ」と、大事にしてくれたという温かい気持ちが残るわけだ。

最初の接待の時は、吐きそうで吐きそうで死ぬほど苦しかった。それでも彼は大阪からやって来る。で、三回目から私も悟ったわけだ。

接待の極意は、結局、相手を倫理道徳で裁かないという一点にあるわけで、その壁を越えられれば自分も楽しめる。楽しめないのは、人間は本来こうあるべきだ、彼はおかしい、間違っていると、目の奥で裁いているからである。

それでは人間理解が浅い。仏様のように和光同塵の精神で向かうのが本当なんだと自分に言い聞かせたら、その思いが波動となって相手に伝わるから、本当に素晴らしい接待ができるのである。

勝海舟の説く明鏡止水の境地、その効用と限界

ところで、「氷川清話」という本をご存じだろうか。あれは勝海舟が書いたものだが、彼はその中で、自分は未だかつて一度も外交交渉で失敗した例がない、なぜなら、つねに明鏡止水の境地で臨んでいたからだ、というようなことを書いている。非常に面白い内容なので、以下、その部分を紹介しよう。

「おれはこれまでずいぶん外交の難局に当たったが、しかし幸い一度も失敗はしなかったよ。外交については一つの秘訣があるのだ。

心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかった。こういうふうに応接して、こういうふうに切り抜けようなど、予め見込みを建てて置くのが世間のふうだけれども、これが一番悪いよ。

俺など、何も考えたり、目論んだりすることはせぬ。ただ一切の思慮を捨ててしまっ妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。

即ちいわゆる明鏡止水のように、心を磨き澄ましておくばかりだ。こうしておくと、機に臨み変に応じて事に処する方策の浮かび出ること、あたかも影の形に従い、響の声に応ずるがごとくなるものだ。

それだから、外交に臨んでも、他人の意見を聞くなどは、ただただ迷いの種になるばかりだ。甲の人の説を聞くと、それが暴いように思われ、またこの人の説を聞くと、それも暴いように思われ、こういうふうになって、遂には自分の定見がなくなってしまう。

結局、自分の意見があればこそ、自分の腕を運用して力があるのだが、人の知恵で働こうとすれば、食い違いのできるのはあたりまえさ」

私の知っている限りでは、勝海舟はまさに接客の達人だった。その勝海舟は、ここで明言している通り、外交交渉において一度たりとも失敗しなかった、ということだが、その理由は明鏡止水、即ち鏡のごとく波立たない水のような境地で外交交渉に臨んでいたからだという。

相手がどう出るかわからない。だから、会う時には何も考えず、何も準備せず、明鏡止水の境地で臨機応変に対応する。そうすれば一度も失敗しないんだ、というわけである。

さすがは勝海舟、言うことが非常に深い。だがしかし、私から言わせれば、これでもまだ甘いし、浅い。剣と禅を極めた人だったから、剣禅一如のようなこういう言葉を残したのだろうが、彼の言う明鏡止水だけでは足りない。これに私が付け足すとしたら、

一、温かい好意と思いやりの波動を足す

二、他力を加える。つまり、相手の背後霊。自分の背後霊、出雲の大国主の応援をたのむ

まず第一は、明鏡止水にプラス、温かい好意をもって相手を見て、相手のことを思い遣ってやるということ。こうやって温かい波動を向けると、当然、相手も好感を抱くはずである。

例えば、サービス業の人なら誰でも体験していると思うが、時折、第一印象の頗る悪い客がやって来ることがある。

目つきが異様に鋭くて、身に付けている服も普通ではなく、見るからにヤクザっぽい男とか、あるいは、やたらとケバケバしい身なりでものすごい厚化粧の女性とか、店に入ってくるなり、「何だろう、この男は?一体、何をしに来たんだろうか」「ななな何なの、このおばさんは?とっても不気味だわ」と、思わず身構えてしまいたくなる客がいるものである。

すると、相手はどういうふうに感じるか。「何なのよ、何なのよ、この店は」と、同じように身構えるはずである。

男だったら、「何なんだ、この店は?接客態度が悪すぎるじゃないか」と文句を言ってくることがあるかもしれない。

それはやはり、こちらが悪い念を出すからである。人相や服装や態度で判断せず、マイナスのイメージを抱かなければ、相手だって悪い念を持たないはずなのだ。

だから、明鏡止水の境地で臨むだけでなく、絶えず温かい思いやりの心で相手を見ていくこと。これが大事なのだ。人相が悪く、やたらと色黒の人が来たら、

「ああ、きっとゴルフ焼けなんだ。美しいな、ゴルフ焼けするほどゴルフができるなんて」

と、ウソを承知で思い込み、ケバケバしい女性が来たら、無理やりを承知で、

「どこかの深窓の令嬢かもしれない」

と、思い込むようにすると、向こうも、会った瞬間に良い感じを受ける。接客というのは、会う一瞬が大切なのだ。その時、相手にどういう第一印象を与えることができるのか。

それは、すべて自分の念で決まる。だから、どんな人であろうと、どんな時であろうと、常に温かい好意と思いやりをもって相手に対する。

それができれば、接客術としてはあらかた成功の部類に入るといえるだろう。

これが第一。第二に、そこからさらに他力を加える。

つまり、お祈りをするわけだ。という話になると、抵抗を感じる人がいるかもしれないが、そういう人は、以下の話を無視していただいて結構関心のある人だけ読んでいただきたい。

さて、お祈りといっても、四六時中お祈りをしていたら、これはもうどこかの病院に入れられてしまう。

接客、接待で大切なのは、ポイントごとにタイミングを捉えてお祈りすること。例えば、接客業なら、会社の始まる前に、

「今日いらっしゃるすべてのお客様の守護神さん、守護霊さん、御魂様が心から喜んでいただけますように」

と、お祈りする。あるいはまた、重要なお客様が来る前に、ちょっとおトイレに行くか、物陰に行くかして、そこで数分間お祈りをする。すると、会った瞬間、相手の人はなぜかわからないけれどウキウキしてきて、

「このお店、とっても雰囲気がいいわねえ」

「何か、今日は気分がウキウキして、みんな買っちゃったわ」

ということになる。だから、人と会う前には必ずお祈りするようにしたいものだが、朝起きたときに祈ればさらにいい

。布団の上でもどこでもいいから、朝目が醒めたら、「今日いらっしゃるすべてのお客さんの守護神さま、守護霊さま、御魂様が心から喜び、感激していただけますように」

というお祈りをして、愛念を仕込んでおくのだ。この愛念の朝仕込みをしておくと、

その日に接触する人へ愛念の波動が伝わるから、接客、接待が必ずうまくいく。ただし、愛念の朝仕込みも、そのまま放置していたのでは、時間とともにエネルギーが弱くなっていく。だから、人が来るときにはもう一度、バッテリーチャージが必要になる。そこでもう一回、

「守護神様、守護霊様、御魂様、心から喜び、感激していただきますように」と、数分間プツプツプツプツとリピートして、気持ちをピッと立て直す。

毎回、心新たに祈り直す。これを仕切り直しと言うが、毎回、心新たに仕切り直し、祈り直す。そうすると、自分の心の努力に他力がプラスされて、エネルギーが強化される。

その結果、何か知らないうちに接客がうまく運ぶ、という不思議な体験をすることが多い。この、知らないうちにうまくいくというのが、本当の接客、接待のあり方なのであり、それができる人を接待の達人と呼ぶのである。

それともう一つ忘れてならないのは、自分の守護神、守護霊にもお祈りすること。「私の守護神様、守護霊様、御魂様、宜しく喜んでいただけますように」

そういうふうに祈ると、自分の魂から波動が出てくる。また、自分の背後霊が相手にかかるので、相手の守護神、守護霊のみに祈るケースより数倍の効果が期待される。

さらに、出雲の大国主の大神様に祈ると、最大と言っていいほどの効果が表れる。とくに大事なVIPを接待する場合は、出雲大社の鳥居と巨大なしめ縄を思い浮かべて、祝詞を上げながら何回もお願いしたらよい。

すると、何か知らないけれど、お互いがウキウキウキウキとして、双方にとって最高の結果をもたらす。

ただし、どんなに他力にお祈りし、どんなに温かい好意をもって相手に対しても、原則はあくまでも明鏡止水の境地である。こう出てきたらこう言ってやろう、こういう時にはこう言ってやろうと頭で考えていると、考えた分だけ体が硬くなる。

ゴルフでも、あっちへ飛ばすぞこっちへ飛ばすぞ、何ヤード飛ばすぞと思うと筋肉が硬直し、チョロしたりスライスしたりする。

それと同じである。だから、勝海舟も言っているように、予め対策を決めておかずに、後は会ってからのこと、なるようになるさ、ぐらいの気持ちで向かうこと。

見合いの時でもそう。見合いはしたことはないが、こういうふうに聞かれたらこう答えてなどと事前に考えていても、実際に会ったら何も言葉は出てこない。

そのように、事前に考えるのではなく、臨機応変に対応すること。これが基本中の基本、原則中の原則である。

まあ、守護神だの守護霊だのという話は信じられないかもしれないが、最後に述べたことはすべて私の体験に基づくものである。騙されたと思って、ぜひとも一度、お試しあれ。