自分流があってこそ、人生は価値がある
私自身は、常々、「平凡な人生を送るぐらいなら死んだほうがましだ」と思っている。
道も真っ直ぐに歩くようなことはしない。左か右に寄って歩く。そういう人生を生きている。
カレーライスでも、普通のカレーライスを作って食べるのは誰でもする。だが、そこに何らかのオリジナリティがあり、食べた人が何か感心し、「生きててよかった」と思えるようなカレーライスは、簡単につくることはできない。たかがカレーライスでさえそうだ。
御魂の活動というのも同じ。平凡なことを平凡にして、平凡に終わってしまったのでは能がない。もちろん平凡にもいろいろあって、天才から見れば平凡だということもあるが、研鑽して自分なりのオリジナリティを出す努力が大切だ。
若いのに、努力を放棄し諦めている人がいる。若いうちから「平凡な人生でいい」などといっていては、下の下の人生しか送れない。平凡にもなれない。
もっと高い目標を持て
人はよく「高望み」というが、若いうちは目標・望みは高く持ったほうがいい。
「最高・究極の天才の道を進むんだ。自分は天才なのだ」と思って、他人の何倍も努力する。それでも、四十五十歳になってみたら平凡な人生かもしれない。
大天才のミケランジェロや弘法大師などと比べたら平凡かも知れない。でも、普通の人よりは多少は秀でた人間にはなれる。
六〇歳の人が「平々凡々の人生でもいい」というのとは、訳が違う。
彼らは過去に非凡な人生経験をしているかも知れないからだ。研究一筋に生きてきた大学の教授であるとか、幾つもの会社を経営しているとか、女性と七百人ぐらいお付き合いして全部振られたとか…?そういう歴史は、その人の個性なのだ。
二十代の時には、平凡なやり方は一切しない。ずば抜けたことに挑戦していく。それだけの根性を持ち、努力に傾注することだ。
「平凡な人生を送るぐらいなら死んだほうがましだ」
それぐらいの気概・気迫を持ってもらいたい。
個性もさほどなく、ごく普通であったなら、その人の人生の価値はいったいどこにあろうか。そう自分の心にいい聞かせてほしいものだ。
十代、二十代、三十代、四十代、そして五十代はこう生きよう
それでは、神霊界の法則からみた、人の一生(各年代)のペース配分をここに述べてみよう。
まず、十代後半から二十代にかけては、一生懸命にやったことが、それ以後の人生のベースになる。才能の根幹を形成するわけだ。
三十代以後は、それにさらに磨きをかけて、世の中に問う時期。三十代では二十代で学んだことをどう表現していくか。
同時に人間性や人間としての深みも試されることになる。
脂が乗ってくるのが四十代。この時期には、自分の才能が社会に認められるかどうかが次第に明らかになる。
そして脂が乗り切るのが五十代。
そういう長いタイムスパーンで考えることが大切だ。
原則は、二十代と三十代でこれをつくって、四十代に円熟させる。さらに、四十代、五十代で社会の表現が完成していく。
つまり、四十代が完成期であり、しかも未だ修正がきく時期でもある。二十代で四十代のことを考えて行動できるのは、相当に立派な人だといっていい。
君は若い内に自慢できるものを持ったか
二十代は始まりの時期である。この時期に「これ」といったものがない人間は、三十代でも自信が持てない。二十代、三十代がそうなら、四十代にも当然期待はできない。まあまあの人生でしかない。
その意味では、四十歳を過ぎても頭角を現さない人間は、大したことはない。論語にも「後生畏る可し」とある。
「後輩は恐るべきものである」という意味で、次々若い人が台頭し、自分を超えるような新しい力が出てくる。
その為にはいかに二十代の過ごし方が重要かということだ。「平凡な人生を送るぐらいなら死んだうほがましだ」と、ギンギラギンに燃えたらいい。
平凡だから死にましたというのは最低。自殺者は、霊界で唐丸籠へ入れられたりして、ぴぴしとしごかれる。自分で自分の命を殺めたわけで、己の行ないの罪だからだ。寿命がある間は、御魂を磨かなければならない。
それを放棄するのは最低の行為である。もし今、腹の底と胸の奥にかぁっと燃え上がるものがあるなら、それは御魂の発動だ。
その大和魂を奮い起こす時に、神様はその人の心に宿られる(合一して来られる)のである。だから熱く燃え上がるという訳だ。
往復三時間もかけて、一杯を楽しむ
先日忙しい合間を縫って、日頃よくガンバっているスタッフの何人かを京都の甘味店に連れていった。
口々に、「おいしいです!先生」というから、私はいった。
「そうだろう。日々、一生懸命に生きていたから、この宇治金時が食えるんだ」
これは世界一の宇治金時である。宇治金時は日本にしかないのだから、日本一なら世界一だ。この世界一の宇治金時を食べるために、わざわざ往復三時間も時間を取ったのだ。
食べ終わったら、「ご苦労さん」と一言いって解散した。
「何だ、たかが宇治金時か」と思う人が多いかも知れない。しかし、スタッフは本当に喜んでいた。
一期一会(いちごいちえ)
私は時々、お茶席(ふれ愛の茶席)を開く。私のセミナーなどに来られた方々の中から、抽選で毎月40名程の方を無料でご招待するというものだ。
その時に、私はこられたお客様にこう申し上げる。
「皆さん、一杯のお茶を飲む為だけにこの伊豆まで、北海道や九州からようこそおいで下さいました。今の世の中に、これ程の贅沢はないと私は思います。
交通費を往復五万も六万もかけて、それも平日の忙しい中を、たった十分足らずの一時の為にやっていらっしゃる。このせわしない世の中にあって、なんとイキな人生ではありませんか」と。
私たちの方も、せっかくいらして下さる方々の為に、朝六時頃から畳をふき清め、お掃除も徹底し、いろいろな準備をして、精一杯のおもてなしをしてお待ちする訳である。
そして私も、私の師匠である植松先生(旧称、橘カオル先生)も、せっかくいらした方々に少しでも喜んで頂きたいと思い、お話をさせて頂く。話といってもざっくばらんな自然のままである。
もちろん、それも無料。それが私にとって実に楽しい一時なのである。このように人生のワビサビを解し、真の贅沢のわかる人達ばかりと一緒にいられるのは楽しい。
一期一会人生の只今にこそ真髄があるのである。
素晴らしい食べ物を通して、その「心」を知る
ところで先程の話に戻るが、今回はちょうど京都に来たから、関西の支部である芦屋からスタッフを呼んだ。突然のことだったが、別に特別な用事もない。
宇治金時や抹茶アイスクリームを食べるためだけに呼んだのである。
もう一つは、これが本来の目的なのだが、この宇治金時の味を覚えて、そこに込められている「心」を感じて欲しいということだった。
そして、人が訪ねてきた時などには、これと同じように「心」を込めてお茶を出して欲しい。そういう大切な「心」を知って欲しかった。それを味覚で覚えておくのである。
カレーライスでもそうだ。自分の舌の感覚で、例えば究極のカレーライスを覚える。それが大切なのだ。
経験の少ない人にとっては「こんなものか」と思うことでも、自分でいろいろと経験して、本当においしいものを食べている人には、例えば「何が足りないか」が分かる。足りなければ自分で足していけばいい。
それができるようになるわけだ。
だから、「心」を込めてお茶を出しなさいというのも、頭で覚えるより感覚として体で覚えておけば、どんなことをすればお客様に喜んでいただけるかが、自ずから分かるだろう、という意味だ。
今までやっていたことに何か足りないものはないか?足りなければ足す。私はそこに気付いてほしかったのである。
笹川良一氏にみる、幸運を呼び込む法
人間、何でもいいから一つ調子がいいときは、次々調子よくいくのだが、一つ、二つ失敗すると、だめじゃないかと自信をなくしがちである。
そこから、がたがたとだめになっていったりもする。そこを克服できれば、こんなに心強いことはない。
そこで、一つ話をしてみよう。
笹川良一さんという人は、それ(心を奮い立たせる事の達人である。以前、笹川良一さんに会った時、いきなり、「君、僕のことを悪くいうやつは、これは全部ソ連の手先だ、スパイだ」という。
「はあーっ」
第一声がこれだから、唖然とする。
「中国に行ったとき鄧小平に会って、君、ソ連と仲よくするよりもアメリカと仲よくしたほうがいいと僕はいったんだ。それから、アメリカと中国は仲よくなり始めたんだ」
「はあー」
その次、「この前(ロサンゼルスで)オリンピックがあっただろう。そのときに、ソ連とか東欧諸国は全部ボイコットしたけれども、わしはそんなことに負けるなといって、ポケットマネーで花火を三千発寄付したんだ――ロサンゼルスのオリンピックの花火をばあっとあれで収支決算してみたら、ロサンゼルス・オリンピックは、最高に黒字だったんだ。あれは、わしの花火をばあっと上げたから黒字になったんだ」
「はあー」
「いっとくけど、わしのことを悪くいうやつは、全部ソ連の手先だからな」といって、アハハと笑っている。なんと、当時八十六歳。
あれだけの方だから恐らく、あっちこっちからそれはいろいろ言われるだろうし、時には失敗もするだろう。
しかし、この人はこう言いながら、ぱっと心を切りかえて、絶えず自分を最高のコンディションに持っていくように、自らを鼓舞しているんだなと感じた。
一つ失敗したら、「ああじゃないか、どうだろうか……」とか、次も不安になるものだ。普通、失敗が一つあったら、人間の気持ちというのは下り坂にいくものなのだが、それを笹川さんは、周囲が唖然とするような大きな事を、次々に平然という。そう言いながら、自分というものを奮い立たせているわけだ。
お会いした時に、笹川さんの守護霊が私にそう言っていたのだ。
「こういいながら彼は、自分を鼓舞しているのです」
笹川さんもハハハッと笑っているんだが、同時に私と守護霊の間で、そんな交信がかわされているのである。
心外悟道無し
その笹川良一さんの好きな言葉が、「心外悟道無し」。「悟りの道は心の外になし」であり、実はそういう心の切りかえがばっと出来るということは、その実践に他ならないのだ。
若い間に調子よくいっている人は、一つか二つ失敗したり、自信をなくすようなことがあると、だめだと思い、世間は甘くないんだと思ってがたがたといく。
ところが、失敗の一つや二つ来ても、成功するまで同じことを二十回ぐらいやる人がいる。そのうちにヒットが出て、やっぱり成功したというふうになるまでやる。粘着性があって、悪くいえばあきらめの悪い人間、その精神力がある人は最後には成功する。実は、ここで能力の優劣が決まってくる。
誰でも、調子のいいときは強いものだが、ちょっと失敗があったり、不幸が続くと、そういう消極的、マイナス観念的状態になって本当にだめになっていく。
ところが成功者を見ると、失敗の経験を何度もしているのだけれども、すぐに立ち上がっている。
心の切り替えの天才になろう!
棋士でもプロゴルファーでも、心の切り替えの力こそが、強者・達人となる必要不可欠の要素なのである。
こういう人こそが、本当に運のいい人だといえる。そういう心のバネを持つことである。では、心のバネは何でできているのか?
心のバネは、本人の前世の修行と信仰力と、見えないが背後でシッカリ守っている守護霊の、頑張れ、やるんだという心の支えなのだ。
あなたも、そういう気持ちで、何度も自分自身を鼓舞して、はっきりと意図的に、自分の気持ちを元気づける努力を怠らないことである。
ただそれだけのことで、運勢は天・地に振り分けられるのだから。
神仏からいっぱい功徳を引き出す法
「愛想よく人と接するのと同じ分を神仏に向けるべし」
皆さんは人様には、例えば、
「ようこそいらっしゃいました。お久しぶりです。お元気でいらっしゃいますか」
「まぁー、久しぶりで。その節はお世話になりまして」などの挨拶をいうだろうが、神仏に対しても同様に、「ようこそこの神棚に来ていただきまして、ありがとうございます。その節はお世話になりました。その後、お元気でいらっしゃいますか。今日は、こういうお願いをしようと思っていますが、どうかお聞き届けください。お聞き届けいただければ、主人も母もどんなにか喜ぶか知れません」
というような言葉をかけ、接触しなくてはいけない。
人間相手には愛想よくしているのだから、神仏に対しても、祝詞をあげ、お祈りし、お願いするだけでなく、もう少し言葉を足して愛想よくすることだ。そうすることで神仏も気持ちよくなる。例えば、
「そんなに丁寧に言ってもらうと、何かもっと守護してやらねば……」という気持ちが生じてくる。
だから神仏も発動され、いっぱい良いことが起こるわけだ。
要するに、人様に向けるのと同じだけの心配りを神仏にも向けること。
それによって、神仏は、あなたの「目に見えない世界と目に見えている世界」とをバランスよく守護し、協力してくださるわけだ。
センスのいい人に選んでもらう
センスは、人の魅力をグンと高める大切なものである。
洋服のセンスや髪型のセンス、そして持ち物のセンスなどは、その人そのものでもある、といってもいいだろう。
また、若い男女でも、センスのいい人と悪い人とでは、圧倒的にセンスのいい人がモテているのである。
では、センスが良くなりたいと思ったら、どうすればいいか。
決して難しいことではない。センスの良い店員さんがいる店にいき、洋服なら洋服の、十パターンぐらいの組み合わせを聞いて覚えておけばいい。
そうすると、店員さんたちが同じパターンを繰り返しているのが分かるはずだ。
まずは十種類ぐらいのレパートリーを覚える。そして、最初は教えられた通りにする。つまり、センスがいい人が選んだものや組み合わせを、そのまま身につけるわけだ。
そうすると、見た人は皆が皆、「あっ、センスが良い人だな」と思う。
服装は似合っていれば良いのであり、それが「実は、売子さんに選んでもらった」などというのは関係ないことである。
そういうことには触れずに、黙っていればいい。これなら、洋服のセンスを良くするのは、一日でできる。後は、それを基本にして少しずつ自分の個性を出していく。それが、アッ!という間にセンスが良くなる必殺技である。
器や家具のセンスは難しい。だからそのままセットで……
また、器のセンスの場合も、店なんかに「センスいいな」という取り合わせが展示してあるから、それをそのままセットで買えばいい。器だけでなく、それに付属して展示されているテーブルやイスなど、専門家がディスプレーしたものを、そのまま家に持ち込むわけだ。
器と家具をどう組み合わせ、どう飾るかというのは、かなり難しい。何しろ、ディスプレーの専門家がいるくらいだから。
そこでプロのセンスをそっくりそのまま真似するわけだ。これなら一日でできる。簡単なことだ。
ファッションにしても、家具や器にしても、まずセンスのいい人のものを真似することから始める。
センスが悪いのは、関係する情報のインプット量が少ないためで、だから選択の幅が狭い。結果的にセンスが悪くなる。だから、人真似をすることでいい情報量を増やし、選択の幅を広げる作業が必要になるのだ。
実際、センスのいい人というのは、例えば、お父さんやお母さんがセンスがよくて小さいころからセンスのいい選び方を見ている。
つまり、たくさんの情報が頭の中に入っているわけだ。だから、センスがいい。
デザインもセンスを必要とする。しかし、デザインも一日でセンスを良くすることができるのだ。私が出版する本の表紙は、その出版社がデザイン事務所を何軒も使って、幾つかのデザイン案を出させたものから、私が選定している。
例えば、印刷で出すのが難しい色は赤とブルーだし、金に合う色の組み合わせは赤と金・緑に金・黒に金という具合に、一番いい取り合わせがあるわけだ。
だから、大体はそれを選んでいる。そのパターンが頭に入っているわけだ。
要するに、赤に金を使って「いいな」と思ったら、「赤に金がいい」と頭に入れる。緑に金もいい。黒に金もいい。
そういう具合に、幾つかの組み合わせパターンを頭にインプットする。この三つの取り合わせ以外は、高度な色彩の取り合わせが必要で、なかなか難しいセンスが要求される。
そういうインプット作業があって、その取り合わせを次回、次々回に応用していく。センスというのは、そのようにして磨かれていく。
どこかで「いい取り合わせ」を見たら、それを覚えている。だから、一日でできるわけだ。
誰でも一流に、一日でなれる!!!
そう考えたら、「センスってなかなか身につかない」、なんて思うことはない。
まず、センスのいい人の選んだ取り合わせを、そのまま真似る。そっくり買えばいいのだし、買えなければ、そのパターンを頭にインプットして覚えておく。それから、要素を変革して応用していけばいいのだから。
たったそれだけのことだ。だから、「センスがない」「洗練されない」などで悩んでないで、今いったような方法をやってみることだ。でなければ、永遠にセンスはよくならない。
「大変だ」「難しい」と頭から思うからダメなのであり、やれば一日でできる。
このように、「神人合一」は一日でできる。芸術家には一日でなれる。何でも一日でできると強く念じて、後はそれから考えたらいい。
その道で、既に一流になっている人にお願いする。あるいは、その人の真似をする。それでいいのだ。
今までの人生観とか、固いものの考え方が、ぐちゃぐちゃズタズタに寸断された気がするのではなかろうか?
そういうやり方をドシドシ利用していかないと、センスの悪い、平々凡々の人生で終わることになる。
読者の皆さん、センスは一日でできる。同じように頭を柔軟にすれば、トップセールスマンにも一日でなれる。
ちなみに、販売会社は、トップセールスマンがなぜ一番なのかという根源を探り当てたら勝ちだ。
あるいは、そういう人に一人きてもらったら、すぐにその会社は一番になれる。頭の使い方は幾らでもあるわけだ。
知恵を磨いて感情をコントロールせよ!
「お医者さんでも治らぬ病、恋及び悩みに気をつけるべし。深い知を学び、研鑽する精進が足りぬ」
これは、ある男性に夢中になっているが、片想いの為、何も手につかなくなっている女性の守護霊が、その女性へのメッセージとして語って来たものである。解説してみよう。
気持ちの憂いとか、浮ついた気持ちというのは誰にでもあるし、恋も悩みもロマン 16 である。
私自身も文学的・ロマンチストというか、繊細なる感性に生きている人間であり、絶えず神に恋をし、いろいろなものに恋をしている。ただ、異性を恋する心が起きたら、神様世界とのパイプが弱くなるのは否めない。
そういう場合にどうするかというと、そのような「感情」や「思い・情感」を鎮静化させるには知恵しかない。
知を磨くというのはクールになることだから、知によって感情の熱を冷ますわけだ。ただし、あまり知ばかり磨き過ぎると情が薄くなる。情感に乏しく、愛が浅くなることになる。
愛情と情感。その溢れる思いが悩みや葛藤の原因である場合は、脇目もふらず知恵を磨く。研鑽・勉強をする。
そうすることで、自分の体内に静かに清々しく涼やかなるものクールな霊気)が流れ出てきて、身悶えするような思いとか、恋心が鎮静化する。清々しく、やさしい、穏やかなものに変わっていく。
情を消し、鎮静化させるのは知恵である。知恵の研鑽に没入し集中することで、過熱した情が、より高度なものに昇華していくわけだ。
逆にいえば、その研鑽が不足している場合には、己を苦しめている情や思いなどはお祈りしたって治らない。
だから、知を磨くこと。知恵の研鑽に努力することが、第一に大切なのだ。
株の真髄を会得する法
「株をやって株を離れ、株を見て見ぬ人であれ。株がわかり、霊層も上がる」
*これは株にとらわれているある男性に、私がアドバイスとして色紙に書いた言葉である。
人は一つのものだけをやっていくと、次第にそこに没入し固執するようになる。そうして執着心が起きて思い入れだけが強くなる。
ある種の客観性を保てなくなるわけだ。それが酷い場合を「妄執」と呼ぶが、そうなったら向上も何もない。
無限の暗闇にいるようなものだ。その中に、何か閃きのようなものが浮かぶこともあるだろうが、そんな精神状態では、閃きを捕まえるのも難しい。
例えば、寝ている時には自分が株券の上に寝ている夢を見たり、目をつぶると株価の推移が出てきたり、折れ線グラフを見たら全部ダウ平均の推移に見えてしまったり、数値を見たらすぐ株価を連想してしまう。
物事に没入していくと、概して、入口から真中あたりにかけてはそういう状態に陥りやすい。
しかし、ずば抜けて株の神様になろうと思ったら、「株をやって株を離れた」境地になることだ。株を見ていて株を見ず、もっと別なものを見ている状態である。
「木を見て森を見ない」ということがいわれるが、「木を見て同時に森も見る」「森を見て同時に木も見る」ということ。
これが分かり、この境地に立てれば、本当に株が分かる。霊層も上がってくるはずだ。
株の浮沈がそのまま自分の心の中に入ってしまうと、それによって心がかき乱されて霊層が落ちてしまう。
その状態を一歩突き抜けた境地を目指す。それを超えられたら、株も分かるし境地も高くなる。これが株の真髄である。
自力ばかり、他力ばかりじゃいつか行き詰まる
巷では、瞑想が自己能力の開発法として大いに関心を呼んでいるようである。あるとき、日本で瞑想の教師をやっている人が、私の本を読んで、セミナーに参加してきた。そして、毎回くるようになり、とうとう瞑想団体を辞めてしまった。
その後も、次々にそういう方が来ては、次々に瞑想を辞めていく。その原因が、みな、私の本と講演、そしてセミナーだったのだ。どうやら、私の話を一度聞くと、そのまま瞑想教師を続けていくことに疑問を感じるらしい。
なぜだろうか?
瞑想というのは自分自身の潜在意識を磨く。もちろん、それは大事なことだ。ところが瞑想は潜在意識ばかり磨くのだ。いくら潜在意識を磨いても、これは大きな意味での自力を出すだけのことなのである。
本当の正しい道というのは、自力本願と他力本願が十字に組まなくてはいけない。人間が努力するのに合わせて、他力(神力、霊力)が動いていく。自分の魂も成長する。そうして他力と自力がピタッと十字に(どちらにも偏り過ぎず、バランスよく)組むのが、本当の道なのだ。
これは、植松先生がおっしゃるところの「惟神の道」、「神人合一」であり、神様と人とが一つになっていることなのだ。
自力ばかり出すイメージコントロール(想念術)の反対に、「南無阿弥陀仏」の信仰がある。それは何でも神仏(阿弥陀如来)にすがっていく百%の他力信仰である。
私は、法然上人や親鸞上人のあり方に異を唱えるものではないが、どうも後世その真意を誤解して、祈りばかりで努力をしない人々が出てきてしまったように思う。それもまた努力不足で、魂の進歩がない。
逆に努力ばかりならばどうかと。人間の努力で何でも出来ると思うのは、人の勝手な思いこみであり、傲慢なことだ。
すぐ行き詰まるものだし、限度がある。しかも、努力してだめだったら、反動で絶望に至ってしまうこともある。信念で生きる人間は、挫折すると絶望してしまうものなのだ。
確かに、挫折や失敗は絶望を呼ぶ。しかし、信仰に生きる人間にとっては、絶望は信仰の糧。試練なのだ。神様に目覚めた人・信仰を持っている人(他力本願をとり入れている人)と、信念で生きる人(自力ばかりに頼る人)とはそこが違う。
例えば、信仰の人はやられればやられるほど、ぶつかればぶつかるほど伸びていく。ところが、信念のみの人は、どんなに強い信念を持っていたとしても、それだけで最後まで全うできるのは、それこそ一万人に一人ぐらいのものなのだ。
「努力、努力」でやっても、必ず行き詰まりがある。結局は、神様を心のよりどころとして寄りかかっていく、斜め歩きをするのがいいのだ。
大本教の筆先(神示)にも、「神様に寄っかかって生きなされ」とある。
あまりにも自力が強すぎれば我が出てしまう。
逆に、あまりにも他力でやり過ぎると依頼心が強くなって進歩しない。
だから、他力に寄り過ぎたり、自力に寄り過ぎたりするのはよくない。
正しい道は、「自力の中に他力あり、他力の中に自力あり」―自分と神様とが半分半分、どちらが神で、どちらが自分かもわからない状態なのである。すなわちこれが「神人一体」、「神人合一」なのである。
だからこそ、人間の努力以上のものが出せる。努力ももちろんするわけだが、努力以上の結果が出る。十年かかるところを一年。一年のところが一カ月でできるわけだ。
マルチ的天才が、これからの理想的人間像
「神人合一」と言い「神仏か人かわからないような人」と言うと、例えば、伝教大師やイエスキリスト、お釈迦様が思い浮かぶ。しかし、こういう聖者のような人たちは、宗教的な聖者ではあっても、神様がおっしゃる「これからのあり方」というのとは違う。では、どういう人間像がこれからの時代の最先端であろうか。それについて少し述べてみたいと思う。
「これからのあり方(時代をリードする最高の人物像)」というのは、いわば弘法大師やレオナルド・ダ・ヴィンチ的タイプ。
宗教的なベースを持ちながら、仕事もでき、芸術もでき、何でもやりこなして、本人も素晴らしいうえに、社会もよくなっている。そういうあり方なのだ。
私の考えでは、弘法大師や大本教の出口王仁三郎は、これからの「神人合一」の像を表す一つの雛形だといえる。
我々はそういう像に目覚めて、今世が実業家だったら来世は学者、その次は宗教家、さらにその次は芸術家というように、三十三相に化身する観音様のように、多面的な要素でやっていかなくてはならない。これが生まれ変わりを通して進化することの意味なのだ。
これを、魂の進歩、向上という。少し具体的に、会社のことを例にあげて解説してみよう。
会社の人間にも、下は平社員から、上は代表取締役社長までいろいろな立場の人間がいる。そして、それぞれの地位で役割が違う。例えば、経理の平社員は伝票だけをやる。それが課長になると、伝票整理の他に人事考課をして報告書を上げたり、いくつもの仕事をこなさなければならなくなる。
部長になったら経理と販売全部を知らなければならない。事業部長ともなると、オールラウンドかつオールマイティーに掌握する必要がある。社長はというと、これはもう、財務管理・労務管理・資金調達・税務処理・販売・商品管理と、相当の自在性を持って様々な分野に熟達していなければならない。しかも、そういったことを全て知った上で、普段は各部署に仕事を任せて、自分はあまり動かない。
霊界も、上位の霊ほど自在性が高い
これは仏様の世界と同じなのだ。
大日如来様というのは何もなさらないで、中心で車軸みたいにしておられて、周囲がグルグル回っていく。周囲というのは、例えば不動明王や文殊菩薩、薬師如来などの存在だ。しかし、不動明王も他の仏様も、その実は大日如来の化身なのである。大日如来のある一面を体現し、お役割を分掌しておられるのが、各々の仏様だと言えるのである。だから大日如来というのは、頂点にもなるし化身して下にもなれるのだが、普段は代表取締役と同じで動かない。権力だけで働きは委ねている。命令を発するだけである。
また西方阿弥陀浄土においては、中心であり最高のお立場におられるのが阿弥陀仏である。この阿弥陀如来様は、何度も発願を持って修行して、阿弥陀浄土の盟主になられた。初めから阿弥陀如来だったのではなく、何万年も修行した結果、阿弥陀如来様になったわけで、いわば阿弥陀浄土の代表取締役なのである。
会社でも、上のほうにいけばいくほど、自在性=多様性が必要になってくる。幾つもの分野を経験し、オールマイティーだということが、上に立つ人の条件になってくるのだ。
人間の進歩、向上もそう。霊的な覚醒が伸びて徳を積むと同時に、今世は学者、次は事業家、次は宗教家、さらに次は芸術家と幾つもの要素を経験させられて、弘法大師か観音様のようになっていく。前世の積み重ねがあるから、芸術をしていても実業のことが分かる。事業家であっても芸術が分かる。そのように過去努力して経験を重ねた人は、今世その積み重ねを全て活用でき、どの分野にいってもオールマイティーに頭角を現すことになるのだ。
これからの時代、つまり、私がもっと老人になるころには、オールマイティーで、多様性に富み、何でもできる、多面的な要素を持つ、という人が最も偉いという価値観の時代を迎えるだろう。
以前、箱根でセミナーを開いた際に植松先生が、
「自在性がなくてはいけません。自在性があればあるほど尊く、偉いのです」
とおっしゃっていた。逆にいえば、
「ワンパターンであるほど偉くない」
ということである。だから私たちは、無駄なことは世の中に一つもないのだと悟って、
あらゆる要素を勉強すべきなのである。
人生を長いスパンでとらえよう
だから、私たちが人生の上で大切にすべきことは、臨終のその日まで勉強し続けよう、という意識と気迫である。
「もうこの年だから」などといってはならない。ゼロ歳から見れば七十年間生きたかもしれないが、臨終の日から見ればあと十年ある。そういう見方をするのだ。
それに、例えば修行途中で死んでしまっても、心配ご無用。臨終の後には霊界があって、そこでも修行が続けられる。さらにまた来世があるわけだから(私の著書「大金運」では二万年計画と書いているが)、最低五、六百年ぐらいの計画で努力することが大切である。そう考えると、物事の習得に意欲が出てくるのではないだろうか。
死の前日まで、七〇の手習い、八〇の手習い、九〇の手始めをやっていくのが、人生の正しい理解だと言える。
ところで、また別の機会で紹介してみたいと思うが、あのお釈迦様でさえ、発願してから十数回生まれ変わって、遂に悟りを開かれたことを私は知っている。読者の皆さんも、すぐに弘法大師やダ・ヴィンチというわけにはいかないかも知れないが、少しずつ 1/6 でもいい、向上していくということを忘れてはいけない。昨日より今日、今日より明日が素晴らしければ、あなたの魂は本当に喜んでいるのだ。私たちはなぜ生まれてきたのか。それは向上するためであるということを忘れないことである。これは、天地開闢以来、変わらないことなのだから。
ところで、もしあなたが経営をなさっている方なら、是非、以下のことを知っておいて頂きたい。
経営者というのは、本当に大変な仕事である。ほほオールマイティーの能力を、常に要求される立場である。計数に明るくなくては話にならないが、計数ばかりではダメで、人徳がいる。といって、甘きに過ぎてもダメ、厳し過ぎてもダメだ。一言で言えば、中庸のツボに入らないと、永続的に利益を上げていくことはできない。
例えば決算期には、前年度比何%の売り上げ増だとか、決算期に徹しなければいけないが、決算期ではない時に決算のことばかり考えていてはならない。中庸の中とは、強い時は強く、弱い時は弱く、どうでもいい時は何もしない、ということである。達人の経営者は、決算期には徹底的に決算に徹して、済んだ後はパッと忘れてしまう。
それを十年、二十年、三十年と続けるのは大変なことだ。大変だが、しかし、それをその人に、神様が要求されているのではないかと思う。「霊的覚醒」魂の向上と進歩、徳を磨き、霊的に進歩するに直結しているのが会社経営であることが、お分かりいただけると思う。すなわち、あらゆる面から自分を磨いていくための一つの媒体が、会社経営なのだ。
そして、会社を見事に舵取りして、荒波を乗り越えていくということをくり返し錬磨した経営者は、普通の人よりもはるかに神人合一の修行が進んでいるのである。
そして実は、これは経営者のみならず、あらゆる分野、あらゆることに通ずる真理なので、あえて経営者の例えをもってここに紹介したものである。
- 自分流があってこそ、人生は価値がある
- もっと高い目標を持て
- 十代、二十代、三十代、四十代、そして五十代はこう生きよう
- 君は若い内に自慢できるものを持ったか
- 往復三時間もかけて、一杯を楽しむ
- 一期一会(いちごいちえ)
- 素晴らしい食べ物を通して、その「心」を知る
- 笹川良一氏にみる、幸運を呼び込む法
- 心外悟道無し
- 心の切り替えの天才になろう!
- 神仏からいっぱい功徳を引き出す法
- センスのいい人に選んでもらう
- 器や家具のセンスは難しい。だからそのままセットで……
- 誰でも一流に、一日でなれる!!!
- 知恵を磨いて感情をコントロールせよ!
- 株の真髄を会得する法
- 自力ばかり、他力ばかりじゃいつか行き詰まる
- マルチ的天才が、これからの理想的人間像
- 霊界も、上位の霊ほど自在性が高い
- 人生を長いスパンでとらえよう
- 第五章 人生を強くする法
第五章 人生を強くする法
若返りの法
老け込んできたのですが・・・・・・という悩みを持った人から相談の手紙が来ることがよくある。これについてお話ししてみよう。
人間、齢を重ねると、精神が緩むことより、若さが衰えることのほうが恐い。だから人は、年を取る程に、若返るためのあらゆる努力をするべきだ。
中には「精神が緩んじゃいかん、精神が緩んじゃいかん」と思って、気を入れて引き締めて頑張る人もいる。それももちろん尊いが、とにかく、若々しくなるあらゆることをすることだ。
洋服も、出かける場所も、考えることも、読む本も、まず「若さを保つ」ことを第一義に選ぶこと。心身ともに若々しくなるようにと考えて、全て行動することだ。
例えば、息子と一緒にゴルフへいく。息子は嫌がるかも知れない。それでも、「一緒にいこうよ」と誘う。そのうちゴルフが楽しくなる。肉体のトレーニングにもなる。まっ黒に日焼けして自信も湧いてくる。それなのに、年を取ったからといって逆に、家に閉じこもっていたのでは、年齢以上に老け込んでしまう。それよりは、若い人と一緒にゴルフにでも出かけることだ。そして、自分も楽しむこと。これが若さを保つ秘訣である。
「ねばならない」とするのではなく、楽しいから、面白いからやる。そういう瑞々しい心や気持ちを保つ。それが重要だ。
女性なら、お化粧や洋服など、ファッションをちょっと変えるだけでも、別人になったような気持ちになったり、心がはずんだことを経験しているはずである。何でもいいから、あらゆることに挑戦することだ。
今からロッククライミング?腰が続くかどうか分からないけれど、やれると思うなら、とにかくやってみることが大切だ。
仮に、ロッククライミングは無理だとしても、若い人たちがいっぱい集まるようなところに出かけるのがいいだろう。そうして、彼らと話をする。話題は何でもいい。霊界の話をしたっていい。とにかく、若い人たちと話をして、若々しい気を吸収する。二十代前半から中盤にかけての男の子、女の子には、旺盛な若々しい気が満ちているから、それを吸収することで若さに転化するのである。
逆に、年寄りが集まっているところにいくと、何もしなくとも年寄りの気を受けてしまう。ただし、奥さんと会わないわけにはいかないから、奥さんと一緒の時には、奥さんと一緒に若々しくなる努力をし、一緒でない時には、できるだけ若い人たちと会って若々しい気を吸収する。そうすることで、奥さんのほうも若々しく蘇るのだ。
あなたが若々しくなれば、奥さんも必ず感化されていく。気持ちが緩むということ、精神が緩むということよりも、若々しさが衰えることのほうが恐ろしいから、そこに気をつけて行動を起こすことである。
開運するには明るくなること…その方法は!
「嬉しいことを山ほどつくれ。工夫と陽の気が足りぬ」
嬉しいことって何だろう?読者の皆さん試しに「こうなったら嬉しいな」「こういう風なことがあれば嬉しいな」「こういう時間が持てたら嬉しい」「こういう人との出会いがあれば嬉しい」などなど、自分にとって嬉しいこと、それは何かなと考えてみてほしい。
アクセサリーでも洋服でも、食べることでも何でもいい、自分が一番うれしいなと感じることを列挙してみる。
次に「それを絶対にやろう」「つくってみよう」とか「手に入れよう」と思う。そう思うところに創意工夫が生まれる。そうすれば、その努力をするプロセスでまた嬉しいことが起きてくるし、「やろう」と思ったことも実現する。だからまた嬉しい。
嬉しい事が来るのを、ただボーッと待っているだけではダメだ。言われたことをただその通りにするだけでもダメ。自ら進んでやらなければ、己自身の魂のランクを上げて運を良くすることはできない。自分の中身をより素晴らしくすることにはつながらない。「ねばならないから~する」「いわれたから~する」だとか、あるいは「有意義だと思うから~する」では、心の陽の気、つまり明るさが足りない。
九州の人など、何もいわなくても嬉しいことばかり考えて、何もないのに嬉しがっている。これなどは、気候が暖かいからかも知れない。だから、「暗い」と人にいわれるような人は、九州に引越して明るい九州人の中で生活してみるのもいいし、九州のどこかに生まれ変わってきてもいい(ただし来世になるが……)。
要するに、嬉しいことを一生懸命つくること。あれも嬉しい、これも嬉しい。嬉しいことはたくさんあってもいい。何でもいいから自分でそれを考える。御魂が向上すると思ったら、苦しみも嬉しくなる。
極端な話、痛みや苦しみが嬉しいというマゾヒズムであってもいいのだ(ほどほどにしていただきたいが)。そして、嬉しくなるものに向かって努力をする。精一杯努力をする。そのプロセスや結果が自分の心に返ってきて、本当に嬉しくなれる。そうなった時の魂は、ぴかぴかに光輝いている。燦然とバラ色に輝いているのである。そういうものの考え方をしていくことが、開運し、幸せになる一つの方法なのである。
争いごとを避けるな
「当たりさわりなきこと申して、実のなきことを申し、恐いこと申さぬは卑怯なり。もっと実のあることを気を入れて申すべし」
ある男性が相談に来た。
その人の守護霊からのメッセージは、このようにいっている。
根底にあるのは「争いを避け穏やかにいこう」という思いだ。「争わないように」「穏やかになるように」「平和にいくように」と思う。だから当たり障りのない言動になるわけだ。
しかし、時には争ってもいい。争って勝つ必要もある。なぜなら、当たり障りのない言動に終始するのは、見方を変えれば、単に自分が「嫌な思いをしたくない」「争いたくない」「嫌に思われたくない」というだけのことで、卑怯なやり方である場合があるからだ。
別に争いを奨励しているわけではないが、人間が生きていく以上、従順に従うだけであってはならない。時には、たとえ上司や偉い人の意見であろうと、それに逆らい、堂々と自分の正しいと思う意見を主張しなければならない場合もある。それを自ら放棄してしまったのでは、「卑怯」と言われても仕方がないし、盲目的な従順は人間失格でもある。
時には争う。ただ、その場合の言動には工夫がいる。言い方を丁寧にするとか、「実 96 のあること」を意見として述べる。つまり、空虚な空論や現実無視の暴論ではなく、現実や事実に即した実際的な論。それが「実のあること」であり、それに気を入れて主張するのは意義のあること、しなければならないことである。それなら守護霊は味方をするし、自分の個性や存在感をはっきりさせることができる。恐れてはだめである。
争いを好むことはない。しかし、争いを避けようとするあまり、争いを恐れおののくような精神状態に陥り、結果として卑怯な生き方をしてはいかん、ということだ。そして、言い方次第で争いが平和になり、平和が争いにもなる。ものは言いようで、四角も三角。三角も丸になる。だから、言い方をよく考えること。その上で、自分の意見や有意義なことを積極的に発言していくことだ。
続けて、この男性に守護霊がこう語る。
「気合を入れて、人の顔と人の心を気にせずに生きるべし」
この、気合を入れてというのは、これは絶対に成功させようと思っても、
「しかし、あの人はこういうふうに思うかもしれないな」とか、
「あの人はどういう顔をするかな」
などと考え、いろいろと思い迷ってしまうと、折角のやる気がへなへなとなる。だから、気合いを入れて「よし、やろう」と思った時には、他人がどう思おうと、くよくよあまり考えないこと。でなければ、本当には気合いが入らない。
そのためには「見切り」が必要だ。
「見切り」とは武術の言葉で、相手の力量や出方を見極めたり、相手の太刀が届くぎりぎり寸前の間合いなどを測ること。だから、「ああだこうだ」と文句をつけるやりにくい人物がいたら、前もって見切り、作戦を立てる。つまり、「こういう人を通して意見を伝えれば素直に聞く」とか、「こういう言い方では歯向かってくるが、この言い方なら納得する」とか、相手の性向や癖、弱点などを見切った上で、有効な方法をとるわけだ。
どんな人間にも癖や弱点はある。ヘビは頭を押えれば捕まえることができるし、つるつる逃げるウナギも、ある箇所なら掴まえられる。人間関係においても、そういうコツがある。その見切りができれば、どんな人間でも思い通りに動かせる。ところが、最初から気合いで負けていると、その見切りが見えない。だから、負けてしまうのだ。
勝つにはやりようがある。何事にも、必ず勝つ道(方法)がある。それが分かれば、気合いも十分に入り、結果として勝つことができるわけだ。
他人の心や顔色を気にし過ぎるのは、思いやりがあり優しいからだろうが、それだけではダメだ。結果的に、自分の魂に気合いや根性が欠けてしまい、魂の輝きが薄れる。それでは、境地が高まらない。
思い当たる節のある方もあろう。あなたは、人がどういおうと、やるべきことはやること。それで、行き詰まっていた境地が一気に上がるだろう。
