神界からの神通力(Vol.2)

第一章 六大神通力の正体

はじめに

霊界ものや神霊関係の書物が氾濫する昨今、真に道を求め、探求したいと思う方々が増えてきている。

そして、どの本を読んでも飽きたらない、または、いろいろな疑問に対して、もっと明解に答えてくれる本はないものかと書物や雑誌をあさり、いろいろな霊能者や宗教団体を尋ね歩く人たちも、最近増えつつある。

そこで、霊界や霊障の実際をなるべく詳しく解説し、また、神通力や霊能力の正邪を明確に示して、本来、霊能力や神通力はいかにあるべきかを示唆したのが本書である。

もちろん私も霊能者である。しかし、単なる霊能者ではない。おおらかで偏りなく、

しかも奥深い「日本神界に基づく神人合一の道」を歩む者なのである。

「日本神界」の立場からいえば、「おおらかな惟神の道」に基づき、神道、仏教、キリスト教、儒教、道教、神智学等、私たちの生活と人生に役立つことは自由自在に説き、かつ実践できるのである。

しかも学者たちのように理論や知識に偏ることなく、また、一般の霊能者のように体験主義と独善に陥ることなく、幅広く道・学・神通力が一体となって研究を進めることができる。

「中庸」でいう、「中」に居て観自在なのである。

また、「神界からの神通力」と銘打った本書は、なるべく難しいこともわかりやすく説き、実際の神界、霊界、神通力を正しく判断する基準にしていただくことを主眼としている。

一種の霊能者破りの本である。しかし、どの章にも世界初公開の事柄があり、かなり勉強された方や真実を探求したいプロの霊能者の方々にも、興味尽きない内容であると思う。

「霊の巨大化理論」「霊の合体化理論」「霊の化身理論」「霊界基本法則」など、霊界と神霊の実態を知る上で、是非知らねばならない基本となる法則を随所に散りばめておいた。

入門書でもあり、紙面の都合上、かなりレベルと内容を限定せざるを得なかったことをお許しいただきたい。このように本書は、「日本神界」という立場から書かれた本であり、読者諸氏が、無限なる神徳と霊界実相を正しく理解するための意義ある一助たらんことを望むものである。

深見東州

六大神通力とは

霊能力の種類についてお話しよう。

一般的に霊能者、霊能力といわれているが、神通力を霊能力あるいは超能力と考えたらいいだろう。

神通力には天眼通力、仁天耳通力、自他通力、四運命通力、宿命通力、帰尽通力がある。これらがいわゆる六大神通力といわれるものである(仏教では、四運命通力を神足通力という場合もある)。

天眼通力とは、天眼、霊眼で見えること。たとえば、相手が何をしているか、将来はどうなるか、それらを神様が霊眼で見せてくれることをいう。

天耳通力は、耳で神の意図がキャッチでき、人の聞こえないものが聞こえるというものだ。たとえば神様の声が聞こえ、神様の言うことがわかり、神霊とお話ができる。ま天のメロディーが聞こえるというのもこれ。

自他通力は、読心術のことであり、相手の思っていることがすぐ読めるという通力。

「黙ってすわれば、ピタリとあたる」という易者がいるが、これと同じように、相手の心を写すことができるのである。

運命通力は、運命を予知する力で、以前にはこういうことがあったでしょうとか、この頃にはこういう運命になるということをあてる能力である。

宿命通力は、その人がどういう天命をもって生まれてきたのか、前世とどういう因縁があって、なぜこういう運命になったのかという、前世、今世、来世のことがわかることだ。

そして、漏尽通力とは、人の悩み、苦しみ、さまざまな問題を解決する能力のことをいう。

これらを一般に六大神通力と呼んでいる。その他にも、霊言、自動書記、物品引き寄せ等の霊能力がある。

正神と邪神の見分けが大切

このように、霊能力にもいろいろあるわけだが、まず正(正神界)と邪(邪神界)の霊能力を区別して考えなければならない。

この二種類を区別しないで、摩訶不思議なことをやるからすばらしいと信じたり、あこがれたりすると知らず知らずのうちに大きな=4 過ちを犯してしまう。

ここが一番大事なところである。霊的なことをする人は、必ず霊的なことで魔が入り、現実的な世界で生きる人は現実的な世界で過ちを起こす。

理論でいく人には、理論の魔が入るのである。このようにひとつの世界に偏すると、そこに魔が入って人を誤らせるものになるのである。

したがって、この霊能力が正神界から来たものか、邪神界から来たものかを判別することは非常に重要なことだといえる。

この正邪の区別をすることを、審神という。

審神とは、読んで字の如く、神をつまびらかにするという意味である。その起源は、『古事記』に出ている武内宿禰という人が、神功皇后に神がかりがあり、朝鮮征伐に行けとの神旨があったとき、それを沙庭で正邪の判別をしたという故事に由来している。

明治のころ、本田親徳の霊学派の人たちや長沢雄循、その弟子の出口王仁三郎といった人たちが行った鎮魂法帰神術というのも、たましずめと神がかりの法であったし、宮地水位という人は日本最後の仙人といわれ、生きながらにして神仙界に出たり入ったりしていた人である。

しかし、こうした霊能力を行うと、魔物が入ってくる度合いも高くなり、正神界か邪神界かを見分けないと、邪神霊がかかったりするので、審神ということが非常に大切になってくるわけである。

審神の方法には二つあって、まず直接、霊感によって、審神する方法。それから霊が言ってくる内容を理論、言調、文字の気などで冷静に検討して審神していく方法がある。

これらの審神におけるポイントを頭に入れておかないと、ある程度の霊能力が備わってくると、魔物にねらわれて、正しい御神霊かどうか判別できず、結局、魔物に騙されて、誤った方向に行ってしまうことが多いのである。これは、一人で行う場合に特に間違いを起こしやすい。

その点、私の場合は、私と恩師・植松愛子先生がお互いに審神し合って行うので、間違いが起きないですんでいる。

魔は巧みであり、神様の姿に化けたり話しかけたりするので、よほど注意しないと騙されてしまう。

私のやっていることは植松先生が審神して、植松先生のやっていることは、私が常に気をつけるようにしているのである。

天眼で常時、何かが見えるのはおかしい

それでは、天眼通力というものが、どんなものあるのか解説しよう。

ここでも、正と邪の天眼通力を区別しなければならない。

まず、正神界の天眼通力というのは、かすかに、イメージの中でわかるというものであり、必要な時、必要なものだけ見えるというものである。常時見えているというものではない。

これに対して邪神界の天眼通力は、常時見えている。毎日霊眼で見える、しかもカラーではっきり見えるというのが特徴だ。

少し話が前後するが、すべての神通力についていえる大切な点をお話ししたい。

それは、どの通力も漏尽通力に帰結しなければ意味がないということである。

たとえば、いくら天眼が見えて「あなたは○月○日事故で死ぬのが見えます」と教えてあげても、それを聞いた人は救われるであろうか。

「一週間たったら、仕事で失敗しますよ」と言って、「それでは、どうしたらいいですか?」と聞かれても、「さあ、それはわかりませんね。よく注意してください」と答えるだけでは、なんのために天眼が開けたのかわからない。

仕事の失敗を予言して、それを聞いた本人がそれを苦にし、仕事ができなくなるというのでは意味がない。

相手の気持ちがわかり、相手の運命、宿命がわかり、天眼が見え、天耳が聞こえたとしても、その人の幸せにつながらなければ、何の意味もないということになるのである。

そう考えると、正神界から来る天眼通力が必要最小限のものだという理由がわかってくる。

わけもなく常時見えていると、それにとらわれて「何故見えたんだろう?」と考え、日常生活がおろそかになる。

したがって、神様はやたらに見せるようなことはしない。必要なとき、必要な分だけ見せてくださるのである。

また、神様は人間の努力と精進を重んずるので、天眼通力が本人の精進努力に障るときは、お見せにならないのが本当だ。私も、除霊や特別なとき以外は一切天眼は開かない。

どんなに美しい景色を見ても、絶えず地縛霊の気味悪い顔が見えるとなると、決して幸せな人生であるとはいえないからだ。

邪神界の天眼はキツネが見せている

次に、天眼通力はなにが見せているかということについてお話ししよう。

正神界では、守護神とかいろんな神様が見せてくださる。一方、邪神界のほうは、ほとんどキツネが見せているのである。

その中でも、千里眼の能力を持った人というのは大体が稲荷ギツネだ。稲荷ギツネが憑いている人というのは、千里眼が利く人なのである。

どこどこでなにをしているのが見える、あなたの過去はこうこう、こうだったといっ透視するわけだ。その見せ方は、目の網膜のところに後頭部からフィルターのように稲荷ギツネがかかって見せるのである。

キツネには野ギツネをはじめ、金毛九尾、金毛八尾、銀毛八尾、銀毛七尾というようにいて、尻尾の数が多いほど化け方が巧みであり、智恵もある。

最高は九本だが、この金毛九尾というのは一見、正しい人のように、また、神様のように見せるのを得意とするキツネはもともと頭の良い動物で、非常に巧みに神様らしく見せたりする。

よく「われこそは○○の神なり!」という霊能者・宗教家がいるが、正神界の神様は、本人みずから名前を語りたがらない。「われこそは○○なり」というのは、ほとんど邪神である。

この三次元の世界でも、教養の高い人ほど、誇らしげに「私は○○です」と、これみよがしに名乗ったりはしない。

高貴な人は、紹介されても名乗らないでいいときは名乗らないものである。神霊界でも守護神、守護霊のような高級神霊のあり方はこれと似ている。

もう一つ天眼で多いのはヘビだ。ヘビが憑くと、キツネほどではないがカラーではっきり見える。

よくボーッと白日夢のように見えたり、夢のお告げで見るというのはこれだ。

たとえば、熱心な日蓮宗系の人たちには白ヘビが憑いている場合が多く、その場合、夢のお告げや霊視を見せることが多い。

これは正神界の白蛇もあり、その人の志と姿勢によって正邪を判別するしかない。

また、守護神とか守護霊とか先祖だと名乗ってそれらしく夢で見せる。常時、夢のお告げを受けているというのは、ほとんどはヘビが憑いていると考えてよい。

ある瞬間パッと見えたというのではなく、常時、見えているといって霊能力を誇っている人には「ああ、この人にはキツネが憑いているな」とか、「この人は、ヘビが憑いている」と審神できるのである。

その他、天眼に関していえば、たまには天狗や龍神が見せることもあるが、シェアは、圧倒的にキツネとヘビが多いのである。

人間性でみると、これみよがしに誇るというのは稲荷ギツネの性質である。

動物霊編で詳しく後述するが、気分がコロコロ変わる、ヒステリー気味で気性が激しい、プライドが高い、平気でウソをつくようなのも、稲荷ギツネの性格である。

霊視の利く霊能者で、こういう性質の人は、間違いなくキツネ憑きの霊能者であるといえよう。

天耳通力はひそかに聞こえてくる

さて次は、天耳通力についてであるが、本当の天耳通力とは、正神界の天耳通力のことをいう。

それは、静かに聞こえるとも聞こえないともいえないような感じで、御神霊の声がかすかに感得されるものなのである。

自分の心の中で、ひそかに、おのずから彷彿としてわかるもので、それが常時聞こえてくるというのはやはり異常である。

人間は肉体という形を持っている。三次元の肉体を持って生まれている。

三次元の法則とは、自然界の法則のことだ。自然界の法則を造られたのは神様であり、人間が自然の状態で生活するのが神様の御心でありましょう。

したがって神様は、あまり不自然なものを好まれない。もちろん、ここぞという時は知らせてくださるが、そうでない場合は、なるべく自然なかたちを尊重されるのである。

「正法に不思議なし」というが、異常なくらい聞こえるというのは、やはり魔物が憑いている証拠である。

特に天耳通力(正神界)の場合は、かすかに聞こえてパッとわかる、必要最小限のものである。神様はなぜ必要最小限のものしか言われないかといえば、先に述べたように、あまり多くを言い過ぎると人間が努力しなくなるからである。

人としての進歩発展は、いろいろな苦労、失敗、経験を通してなされていくものであり、それがなんでもお告げで動く、見えてから行うということになれば、人としての努力をしなくなってしまうからだ。

だから神様は、人の進むべき道の概要をパッとお知らせになるだけで、全部をお教えにならないのである。人に考えさせる、努力させる、こういうのが、正神界のごく自然なあり方なのだ。

だから、常時見えている、聞こえているというのは、神様のご意志に反することになるので間違っているというわけだ。

特に、一部の日蓮宗系の宗教団体などでは「みんなの気持ちが霊感でよくわかる」とか「耳元で神様がささやかれる」といって誇らしげにしている人がいるが、これは、ほとんどがキツネのしわざである(タヌキやヘビの場合もある)。

また、普通の人でも、精神的なストレスが高じて耳もとで声が聞こえるようになることがあり、その声に振りまわされてひどいノイローゼになってしまうということがあるが、これもほとんどキツネがやらせている。

一見、天耳通力のようだが、はっきりした声で生々しく聞こえるというのは、現実に近い次元であり、本来、神様はかすかな存在であって、神霊の声とはかすかに聞こえてくるものなのである。

しかし、金毛九尾ギツネはいかにも神様のごとく思わせて、正神界の神様を装いながらくる場合もあるから、気をつけなければならない。そういうのを「妖言過言に騙される」という。

妖言とは、「これから先、天変地異が起こる」「お前は騙されているんだ」「これからの未来はこうなる」などと、おどかしたりすることである。

過言とは、「一年たったら、あなたは天下を取る」とか「○月○日にはこうなる」というように、言い過ぎることである。

たとえば、何年か前、大阪の予言者が「いついつに大地震が起きる。もし起こらなかったら切腹する」と大見栄を切ったがついに地震は起こらず、その人は切腹未遂をしたということがあった。

こんな予言も、妖言過言のたぐいである。

予言は天耳通力で聞くわけだが、それが神様の言葉らしく語られてきたり、かすかに語ってきていかにも神様らしく思えたら「ああ、神様の言葉だな」と騙されてしまうのである。

時には、声を低くおとして神様のムードを漂わせ「神のお告げなり」と厳粛っぽく言ってくる場合もある。

次元の低い動物霊は、耳もとでポチョポチョ話しかけてくるので、すぐ動物霊だとわかるが、かすかに語りかけてくると、神様らしく思えて騙されやすい。

多くの宗教家は、最初はいいのだが、何年かしてくると、妖言過言に騙されて過大な予言をし始めてくるのである。

生活修業のできている人に高級神霊がかかる

それでは、どういう形で邪神のやり口を見破ることができるのかお話ししよう。それには二つある。

一つは妖言過言の内容を分析して、そこに愛と真心があるかどうかを調べるのである。

これみよがしに、ありのままの霊告を伝えてくれても、そこに真心がなければ正神界のものではない。

二つめは、前向きに話してくれるかどうかだ。たとえば、「○月○日に死んでしまう」というお告げを受けたとする。

そういうマイナス的なことを言うのは邪神である場合が多い。たとえ、それが真実の神様からのものであろうと、人たるものはそれをそのまま伝えるべきではない。

どうぞそうならないように、どうしてもそうなるようだったら、大難を小難に、小難を無難にまつり変えてやってほしい、というように願うのが本当である。

そういう場合、逆にこちらからは真心でもって言い返していくのである。「神がこう言っていました」と、そのまま告げる人は正神を取り次ぐ人としては信じられない。

「ケガをする」と出ても、「なんとか健康に注意してください」というように、常に愛と真心でもって、前向きに言わなければ本当ではない。

歴史上の話として、奈良時代の弓削道鏡が神仏のお告げであると偽って皇位を望んだ時、和気清麻呂という廷臣が宇佐八幡宮の正しいご神勅を天皇にお伝えしたために、道鏡の怒りを買ったけれども、皇位は無事に守られたと伝えられている。

日常の清浄なる生活修業をきちんとして、御魂を磨いていた当時の宇佐八幡宮の巫女に、和気清麻呂公の至誠に感心した御神霊が、正しいご神示を、巫女の天耳通力を通して下されたのである。

私たちの日常生活も同じであって、誠心誠意、真心で神にお仕えしていると高級神霊が神がかるのだが、食物に強度の偏りがあるとか、生活態度が変だとか、生きざまが不自然でアンバランスであると、いくら神様をお呼びしても邪気が寄ってくるのである。

高級神霊が神がかる人は、信仰が生活に即実践されていて、しかも芸術性を帯びている。また人としての内面も高貴で美しいという人である。

和気清麻呂も至誠まったき人だったので、正しいご神勅を伝えることができたのである。

私たちも、妖言過言のご神示、天耳通力にごまかされないように注意しなければならない。

内容面からみても、言葉の格調からみても、言霊の真意からみても、これは正神界の神様から来たものといえるとき、初めてご神示として受けとることができるのである。

神様らしき言葉が聞こえてきても、それにとらわれないという気持ちが大切である。それは正しい真心によって、只今、只今を真剣に生き尽くす努力が必要なのである。

人の幸福、世の安寧を祈り、神様の大御心がますます栄え増さんことを念願しつつ、人の道にかなった謙虚な姿勢で人生を送っていくならば、いくら間違った予言がきても、妖言過言がきても、それに動じないで誠の道一筋に生きていくことができるのである。

そういう人には、邪霊も、金毛九尾もつけいることができない。

正しい誠の真心一点、これが正神界に感応するか邪神界に感応するかの決定的な相違なのである。

そういう生きかたこそが、正神界の神様と常に共にいて、邪神から身を守る唯一の方法なのである。

真心の光は、邪神もこれを犯すことができない。このことをよく肝に銘じておいてほしいのである。これが正法の一厘であるからだ。

真心で相手の気持ちを読みとる自他通力

自他通力(他心通力)とは、相手の気持ちや境地がわかる能力のことだ。

わかるといっても、正神界の自他通力はしょっちゅう人の気持ちがわかるというものではない。必要なときにパッとわかって、パッと心が読めるというものである。

やたら日常生活で人の気持ちが全部読めたら、うるさくてしょうがない。必要なときに相手の気持ちがわかるというだけで十分なのである。

ところで、邪神界、魔物の自他通力というのは、しょっちゅう、わかり過ぎるくらいわかるというものである。実は、これはタヌキが憑いてやっているのだ。

タヌキは、相手の気持ちを読むのがうまい動物だ。たとえば、大阪の商売人などの中に、お腹がテップリして、「あなたは今、こういうふうに困っているだろう。わかるよ、アッハッハ!」というようなタイプがそれである。

タヌキの特色は、よく眠る、パクパクよく食べる、ペラペラよく喋る、言っていることが支離滅裂で堂々めぐりが多い、いばりたがる、偏食が多いなどである。

これも動物霊編で詳しく後述する。一般にその神通力は、近い未来の予知能力や、失せ物の発見能力、腹で見抜く能力などである。

だから、人の気持ちがよくわかるのである。天眼はキツネほどではない。

それに比べて、正神界の自他通力を持つ人は澄みきった目をし、水晶のような気持ちと真心があり、無欲なので、相手の気持ちが全部写るのである。

こういう、澄みきった心の持ち主になることが、自他通力の基礎なのだ。

これが、強い人欲から発するとタヌキの自他通力になってしまう。

「俺は他心通ができるのだ」と威張る霊能者がいるが驚くことはない。そういう人が死ぬとどういうことになるかといえば、畜生道や、行者霊界、魔界に落ちて人霊ダヌキというものになる。これも、後で詳説しよう。

キツネの天眼通力を信奉してどこまでも神様だと信じて死んだ人は、人霊ギツネになるのである。

そういう人は、生前、霊能力という能力に自分の気持ちと魂を売ってしまっているのである。

能力は得られるけれども、本当の人の道を成就できていないので、死んだら絶対に正常な霊界には行けない。

至誠と善徳以外は、いくら霊界に通じ霊能があっても、正道をまっとうしてすばらしき霊界に行けることとはならないのである。

運命通力…こわい情勢判断の誤り

昔、中国のある王様が、戦の勝ち目について霊能者に尋ねた。その霊能者は「天眼通力でみれば、閣下の兵が敵兵を、水際に追いつめている姿が見えます。これは勝ち戦ですから、どんどん兵を進めなさい」と進言した。

王様は、勇気を得て戦に臨み、その予言どおり敵兵を追いつめた。

王様は、「まさに予言がピッタリ当たったなァ、これは勝利だ」と感心し、喜んだ。

そこで欲張って、残兵を一人も逃がすなと命令し、どんどん川べりへ追いつめて行ったら、しばらくして敵の遊軍が大挙して攻め寄せ、とうとう王様の軍隊は全滅してしまった。

この物語は一体どういうことを意味しているのであろうか。その霊能者は、敵兵を追いつめたということを霊眼で見た。つまり未来予知をしたのだが、それだけでは、勝ち戦になるかどうかという最も大切な勝敗決定の判断にはならない、ということだ。(これが運命通力なのだが)もっと客観情勢を冷静に判断したならわかったはずである。

兵法の観点からいえば、緒戦で有利に闘っていても、ひょっとして敵に遊軍が隠れているかもしれない、というときは残兵をあまり深追いしてはならない。危険なことはするな、というのが常識だ。

ところが、この王様は予言で勝ち戦だと言われていたので油断し、増長してしまった。どこまでも敵兵を追いかけさせ、全滅させようとしたため、冷静な判断ができずに敵のワナにはまってしまったのである。

天眼で見たものを、次にどう判断するかが大切だということを教えているのが、この話なのである。

このように、前もって見たものを判断し、処理しても(それが最終的には、漏尽通力につながっていくべきものだが)、人の幸せということにつなげて考えてみるところまでいかない能力を半可通力という。

ある程度霊眼で見え、運命が予測できても、それをどのようにアドバイスして、正しい道を教えていくのか。

正智に基づく的確な判断力が、いかに大切であるかということもこのお話は物語っている。

このように、いくら神通力があっても、最終的には人の道、情勢判断などを総合して、霊能力を冷静にみていく正しい眼が必要なのである。

王様の戦の例でも、霊能者としてはあまり「勝ち戦だから大丈夫だ」とは言わないで、「勝ち戦に見えますけれども、深追いは禁物ですよ」と謙虚に申し上げておけばよかった。

あまり太鼓判を押したので、つい調子に乗り過ぎて足もとを抄われたということだ。こういう点が、天眼通力・運命通力をあわせて非常に危険なところである。

手相・人相・姓名判断・四柱推命など、いろいろ運命を予測する方法はあるが、たとえば予知能力を働かせてこの人はこういう運命だなと、わかったとしても、悪い運命の方向に行かないように、どうしたら運命が良くなるのかを漏尽通力を働かせ、前向きに生きていける助言をしていくべきだ。

災いの道を避けて、幸せの道に行けるような方法を説く努力をなすべきである。

「運命がこうこう、このように出た」ということを、そのまま正直に言うか、それとも言うべき時期、また相手の性格を考えて言い方を変えるか。

うまく状況判断をしていくことが必要とされる。

運命が予測できたとき、人によって言ったほうが良い場合と、言わないほうが良い場合とがある。

それをどう判断するか。その判断の基準は相手への真心、思いやり以外にはない。

そのとおり話してショックを受けるような人だったら、「運命はこういうように出てい大したことはないから気にしなくても大丈夫ですよ」などと、逆に励ましてあげることが神様の道にかなうものであろう。

たとえば、易学とか気学等の場合、運命判断をする立場からいえば、人の運命をズバリ当てるのがよいのだろうが、的中率だけを誇るのは、本当の占いの道ではない。

また気学・易学等をやる人は、なんでもそういう観点から判断してゆく思考次元の偏りがある。

それで、そういう想念が凝結してできた易占霊界という世界に陥るのである。

気学等をみる場合、自分が幸せになるため、人が幸せになるためにはどうしたらよいか、という観点から咀嚼し、情勢判断しなければ、運命そのものに囚われてしまう。

だから、易なら、易そのものに囚われないことだ。易に囚われないということは、易を無視することでも、易を盲信することでもない。

必要なものは使うけれども、マイナスのものにはあまり固執しないという態度だ。これが運命学に対する私の態度でもある。

運命通力の大切なところは、相手の性格を考えて、その人の運命について話してあげるというようにしなければならないことである。

人の悩み苦しみを解決し、幸せにつなげてあげる運命通力でなかったら、魔の世界に入ってしまう。

相手の幸せを第一とする考え方、真心の一点が、正神界の運命通力と邪神界の運命通力の分かれ道だからだ。

このことをよく銘記して、占いをしたり、受けたりということ真に意義あるものにしてほしいと願う次第である。

宿命通力…宿命を教えて努力を悟らせる

次に、宿命通力である。この通力の代表的なものはお釈迦さまだ。

法華経などでは、「あなたは前世、こういう名前の人であり、その時に出会いがあって今、私と再び会ってこの法を聞いているのだよ」というようなことを言っておられる。

また、「お前は、来世○○という者に生まれ変わって、この教えを人々に説いていくであろう」「末法の時代には、こういうふうに生まれ変わるであろう」というように、前世、今世、来世のことまで予言している。

しかし、単に宿命だけを言い切ることでいいかというと、そうではない。法の道を説きながらも、その人への慈愛の心を持って、「だから、しっかりがんばりなさいよ」と本人に悟りを得させて、来世への希望を持たせて話してあげることだ。

四柱推命などでは、「宿命は、こうこうだよ」と運命・宿命がわかるけれども、本人にとっては、自分がこういう生まれ方をしてきたという宿命だけを聞いて、それがどうなるのかということだ。

そういう生まれ方をしてきたけれども、これからどうなるのか、何故そういう星のもとに生まれさせられたのか、という根本の理由も教えてもらわなければ、むしろ宿命を聞かないほうがよかったということもある。

宿命通力も、あくまで漏尽通力に帰結して、はじめて意義があるのである。

宿命を知ることによって、前向きに人生を歩んでいくきっかけにし、そういう宿命ではあっても、自分の努力で陰徳(人に知られない善行)を積むことによって、前世の因縁、災いが消され、幸せの方向へと進んでいくことができるということを説かねばならない。

お釈迦さまの本意は、大慈大悲の心で宿命を説くことによって、宿命を知った当人が、ますます、生命ある限り進歩向上の方向へと向かって努力するべく、善導することにある。

四柱推命の場合でも、「前世、こういう因縁の人は、こういう努力をしていくと、こういうふうに生まれ変わりますよ」と具体的に教えてあげられる人ならば、占いの達人の域に達するのだが、現実のところは、占いが当たるとか、当たらないとかに拘る人が多いのが実情である。天の道から見ても、その人の将来は絶対に一〇〇%決まっているということはない。

たとえ九〇%決まっていたとしても、人間の努力や陰徳を積む布施とか神徳を授かる信仰実践によって、宿命の命式というのは、変えることができるのである。

印鑑占い姓名判断にしても、ある程度は当たっている。しかしそれが本質ではない。本質の神霊界、神様の道から見ると、それらもひとつの方向性であって、ある真実は告げているが、絶対的な神様の御心、尺度というわけではない。

ところが、神霊家は神霊万能主義に陥る傾向がある。考えてみれば、天の法則や星の運行も神の一部である。

神霊だけを神とするのは独善であり、心と方法さえよければ易占いもまた善なのである。そして易占いは、絶対視することなく、参考にするというくらいの姿勢が大切だ。

このように、運命学・宿命学というものは、絶対者の神の意図を相対的にうかがい知って、進歩向上の糧とすべきものが本来の姿であるといえよう。

最後は漏尽通力である。

漏尽とは、漏れなく尽くすという意味である。漏尽通力は、人の問題点、苦しみを漏れなく尽くして解決し、幸せに導く能力をいうのである。

ひとつの例をあげてみよう。

お金で苦労している人がいるとする。その人を天眼通力で見ると、どうなっているかというと、苦しんでいる様子が見えるのである。

天耳通力で聞くと、その人が苦しんでいる状態を説明する天の声が聞こえる。自他通力では、苦しいという声が瞬間的にパッと写ったり瞬間的にその人の気持ちがわかるのである。

宿命通力・運命通力では、「こういう星の下に生まれているのは、前世にこういうことがあったからです。苦しいでしょう」と言ったりする。

苦しんでいる人に対して、それぞれの通力である程度の状態はわかる。

しかし漏尽通力の場合は、苦しんでいるという事実を当てるというだけではなく、具体的にそれらの苦しみを解決することができるのである。

勇気を持って乗り越える。あるいは、慰めや叡智をもって乗り越えるべく、具体的な救済力を発揮して苦しみと煩悩を解決することができるのである。

漏尽通力とは、こういう能力のことをいう。

ここが、他の通力と違うところである。

若い時に辛酸をなめ、人の道で艱難辛苦を通過してきた人は、同じ苦しみのある人に対して、その気持ちを誰よりもよく理解することができる。

本当にその人の苦しみが、ビンビン響いてわかる。その人の痛みがわかる。その人の心の痛みを我が痛みのごとく感じるというわけである。

こういう、人の道で苦労して辛酸をなめた人でなかったら、本当にこの世の人たちを幸せに導くことはできない。

どの宗派でも、宗祖は天から人生百般における艱難辛苦を強いられているのはそのためである。皆、漏尽通力の訓練なのである。

天眼が見えなくても、天耳が聞けなくとも、運命・宿命がわからなくても、同じ苦しみ、苦労を通して心の痛みを同じくすることができる人は、中途半端な霊能力を持つ人よりも、よほど素晴らしい。

例えば、下から積み上げてきた苦労人の社長は、下の社員の苦しみ、悩みがよくわかる。

苦労人の豊臣秀吉もそうだった。秀吉は若い時、苦労を重ねて人情の機微がよくわかるようになったのである。

それで戦をするときも征服した人の気持ち、敗軍の将の気持ちを汲むことができたので諜報説得活動が成功し、相手を戦う前に屈服させることができたといわれている。

つまり、戦わずして勝つという戦の神髄を行うことができたのである。

そのため無益な殺生はなるべくしなかったという。これが秀吉の素晴らしかったところだ。秀吉のそうした面に関していえば、漏尽通力の達人だったともいえる。

このように、世の中の辛酸をなめ、かつそれを正しく善なるものへと咀嚼していく人は、たとえ天眼が見えなくても、天耳が聞こえなくとも、人の悩みがわかり漏尽通力を発揮することができるのである。

神様の目的は、人を幸せにすることである。したがって、この漏尽通力によってはじめて神様の意図される働きができるのだ。

これが一番高級な神通力であるというのは、そういう訳だからである。

最後に、天眼が見える、天耳が聞こえるとついその霊能力を誇りたくなるものであるが、よく考えてみると、いったいそういう能力は、何のために与えられたものだろうか。

それができたからといって何がよいのだろうか。人を幸せに導くという行いができてはじめて、霊能力も神通力も意味を持ってくるものなのである。

「人を幸せにする」これが神様の御心であることを知れば、あらゆる通力とはそのための方便であることがわかる。

最近騒がれている神通力や霊能力、また霊界現象などに徒らに心を奪われることなく、正しい、本当の神の心や人としての道に心を向けて、幸せになる道を是非、極めてほしいと思うのである。

第二章 言霊除霊と怨念霊

苦しみ続く家系の背後に群れなす大蛇の憑依霊

私は今日まで、数えきれない人々を除霊してきた。水子霊の憑いた人、動物霊の憑い人生霊の憑いた人、あるいは動物霊と生霊が合体して憑いた人と、いろいろなケースを見てきたが、そのなかでも際立って特異なものがあるので、それをご紹介しよう。

十数年前の夏だったと思う。かつて除霊をしてあげた女性が、別の女性を連れてきた。

「先日は除霊をしていただき、本当にありがとうございました。お蔭様で、心身ともにすっかり軽くなり、このとおり元気になりました。

ところで今日は、ひとつ先生にお願いがあって参りました。この女性を見ていただきたいのです」

連れられてきた女性は、見たところ三〇歳を少し出たところであろうか、顔つき、声は普通の人と変わらない。

だが私はひと目見るなり、「ああ、かわいそうに、たいへんな因縁を背負っている。並の因縁とはわけが違うぞ」と直感した。案の定、彼女は小さいころから足が少し不自由で、立ったり座ったりにたいへん難儀しているとのこと。

すでに霊障にやられていたのだ。そして、これは除霊が終わったあと聞かされた話だが、なんでも彼女の家系には血友病が遺伝しているのだとか。いよいよもって、たいへんな悪因縁霊が憑いているようだ。

早速、除霊を開始した。そのとき、時計の針は午後九時を指していた。私の除霊は、愛念とご神霊とが宿った和歌や長歌を数首、数十首と連続して詠うことにより、憑依霊を悟らせ、浄化し、そしてご神霊に許しをいただき、本来居るべき霊界へと送るものだが、このときは、数首も詠わないうちに霊が姿を現した。

大蛇である。五メートルはあろうかと思われる大蛇である。

それも一匹ではなく、十匹ほどの大蛇がからみ合っているのである。

生臭い。強烈に生臭い。除霊をしている部屋の中の机という机、椅子という椅子、食器という食器のすべてが生臭くなると思われるほど、ヘビの臭いが部屋の中に充満した。私の脇で一緒に手を合わせていた助手など、いたたまれずに部屋から飛び出して行ってしまった。それほど生臭い。

霊界には、ヘビやキツネ、タヌキなどの動物霊が存在する。これらは人霊が化身して動物の姿になっていることもあるが、本物の動物霊の場合もある。

私の目の前にいる大蛇たちは人霊が化身したものなのか、それとも本当の動物霊なのか。どうやら人霊らしい。

しかも、相当深い怨みを抱いた霊らしい。怨みの想念が霊波となってピンピン響いているのだ。

天眼通力(霊眼で見抜く力)で見ると、果たせるかな人霊であった。それも、うら若き乙女たちばかりである。

あまりにも長い間、激しく怨み続けていたために姿がヘビとなってしまっていたのだ。一条の光も届かぬ地獄で苦しんできたその顔は、見る影もないほど変わり果ててしまっている。

髪は茫茫、皮膚は傷だらけ、着ているものもボロボロで、まさしく幽鬼そのものである。が、この世に命ありしときは皆、美しいお嬢さんたちであったと想像される。

数えてみると全部で十一人。そのうちの一人は、御仏に仕える尼さんであった。ボロボロに朽ち果てた着物を身にまとい、怨みに満ちた眼光ばかりをいたずらに炯と輝かせ、暗闇の中に悄然として立ちすくむ。

その姿はまことに哀れを誘うものがある。

鬼気迫る犯され殺された娘の怨念

「いったいどうしたのですか」

寂として声がない。

「いったいどうしたのですか」

再び尋ねた。

「私たちは長い間、地獄で苦しんでおりましたが、今初めて、私たちに光を当て、私たちの気持ちを聞いてくれる方が現れました」と、そのうちの一人が涙ながらに語り始めた。

「私たちは全員、ここに座っている女の先祖である男に犯され、そして殺されたのです。娘盛りの一番楽しいときに犯されたのです。だから、その男の家系を代々怨み通し、子々孫々苦しめているのです」

そうであったのか。私はさっそく、天眼通力でその現場を覗いてみた。

ときは江戸末期。一人の男が若い娘ばかり犯しては殺し、犯しては殺している姿が見える。その男の顔は邪鬼と化し、その行いは人間わざとは思えない。

男は思いを遂げたあと、息絶えるまで娘の首を締めあげる。娘たちの断末魔の叫び声が聞こえる。鬼気迫るとはまさにこのことで、まことに正視に耐えない。

「あなた方の怨む気持ちはよくわかった。しかし、人を怨むのはよくない。しかも、人間の肉体にとり憑いて苦しめるのは霊界の法則に反すること。決して許されません。人間の肉体に憑くことが許されているのは守護神と守護霊だけです。今すぐ離れなさい。だいいち、そんなに怨んでいては、あなた方自身を苦しめるだけです。もう許してあげなさい。そうして、本来居るべき霊界へ帰りなさい」

「ダメだ!どんなことがあろうと、こればかりは絶対許すわけにはいかないのだ!」説得しようとした刹那、娘たちは声を荒げ、激しく拒絶した。

無理もない。犯され、しかも殺されたのである。「もう許してあげなさい」と諭されて「はい、わかりました」と言うくらいなら、こんなにも長い間にわたって激しく怨み続けることはないだろう。

ご神霊と愛念の前に”怨み”が解けた

霊の怨みを解く方法は、現世での怨みを解く方法と何ら異なるところはない。すべて同じである。つまり、言霊すなわち言葉で説得すると同時に、愛と真心で尽くさねばならないのだ。

私は十一人の娘たち一人ひとりに、真心を込めて語った。

「あなたの悲しみ、嘆き、そして怨む気持ちは痛いほどよくわかる、しかし、あなたが若くして非業の死を遂げたのは、決して故なきことではない。ちゃんと理由があるのです。

つまり、あなたは前世で人を殺しているのです。その悪業を清算するためにあなたは生まれ変わり、そのとおりの道を歩んだ。すなわち、あなたは殺されることによって、前世での罪を清算したわけなのです」

これでも霊は納得しない。相変わらず恐ろしい形相で立ちすくんでいる。大蛇に姿を変えていたぐらいだから、その執念は凄まじい。

聞かせて納得しなければ見せるしかない。私は宿命通力(前世、今世、来世の宿命を見せる力)で、その娘の前世を映し出し、あたかもビデオフィルムでも見るように、殺人の現場を見せたのであった。

「これがあなたの前世なのですよ」

さすがに娘も感じるところがあったらしい。次第に表情を変えてきた。先程来の恐ろしい形相は消え去り、何か観念し悟ったような顔つきになった。そして、おもむろにこう語り始めた。

「わかりました。前世で人を殺したなんてにわかには信じられませんが、あなたがそれほどまで私のことを思って一生懸命語ってくれ、そのうえ、そのありさまを見せていただきましたので、信じることにします。

あなたのおっしゃるとおり、殺されるのが私の宿命であったのなら仕方ありません。もう怨むのはやめます。

私が間違っておりました」霊は悟ったようだ。こんなにうれしいことはない。私はすぐに全身の傷を癒し、きれいな霊服に着替えさせ、温かい食事を与えた。

するとどうであろう。先程まで恐ろしい形相をしていた娘が、実に美しい顔になっているではないか。

ああ、この顔こそが神様が与え給うた本来の顔なのだ。私は感動で震える思いがした。

どんなに強烈な怨みであろうと、ご神霊と愛念の前には朝霧のようなものでしかない。昇る朝陽に朝霧が自然に消えていくように、何十年何百年と積もり積もった怨みも、ご神霊と愛念の光を当てれば、すぐに消えてしまうのである。

このようにして、十一人の娘たち一人ひとりを悟らせ怨みを解いていくのである。

一人残らず悟り、浄化したとき、私は神様に許しをとりなし、天界より十一艘の舟を呼び、これに乗せて本来居るべき霊界へと送る。これで除霊は終わりである。

地獄で呻吟する先祖も救済

だが、大切なことが残っている。娘たちを苦しめた男、すなわち、私の目の前に座っている女性の先祖を地獄から救ってあげなくてはならないのだ。

そこまでしなければ、この女性が本当に解放されたことにはならないのである。

再び、天眼通力で罪が犯された時代を覗いてみた。娘たちを次々と殺した男はその後、官吏の手によって捕えられ、獄につながれていた。

両足をクサリで縛られ、身動きひとつできない。終日陽の差さぬ牢獄は湿気が多く、臭気がたちこめている。彼の右足は傷でもあったのだろうか、次第に腐りはじめ、刑場に送られる頃にはすっかり骨が露出していた。

今度は霊界を覗いてみた。娘たちの貞操を奪い、その命まで奪ったのだから、当然地獄にいるはず。男はいた。永遠に光の当たらない真っ暗な地獄の底で呻吟していた。

これをどうにか救わなくてはならない。

しかし、これは生半のことではない。なにしろ、犯している罪が罪である。それに、もう一五〇年近くも地獄にいるのだ。

これはたいへんである。地獄の底から引き上げることはできても、そのまま極楽浄土へ送ることはできない。いくら神様にお願い申し上げても、そこまでのお許しはいただけない。

霊層(『第六章』参照)を数十ランクアップするのが精一杯。あとは、霊界において本人が自覚し、精進し、そして子孫たちが美徳を積むことによって、少しずつ霊層を上げていくしかない。

とまれ、私は地獄から救いあげ、中有霊界まで引き上げたのであった。