神界からの神通力(Vol.5)

第五章 詳説 生霊の実体

恋の破局にご注意。生霊が憑く!

近ごろでは、離婚は決して珍しいことではなくなった。ひと昔前までは、世間体が気になって、離婚などなかなかできなかったものだが、今では世間体などおかまいなし。

ちょっと好きになっただけですぐに結婚し、ちょっと仲が悪くなるとすぐ別れてしまう。それをマスコミがとりあげ、「○分に一組の割合で結婚し、〇分に一組の割合で離婚している」と、毎年報じている。

信じられないような時代になってしまったものだ。が、私はここで離婚問題を語ろうというのではない。夫婦の仲たがいには、生霊が関与していることが多いので、それをお話ししようと思うのである。

生霊。どなたでも一度や二度は耳にしたことがあると思うが、この言葉は、死んでしまった人の霊ではなく、現在生きている人の怨み、怒り、慕情などの念が霊となってい状態を意味する。

文字どおり、生きている人間の霊である。

よく丑の刻参り”といって、ワラ人形に五寸クギを打ち込み、怨む相手を殺すという話があるが、これなど、生霊の代表例といえるだろう。

生霊は、家代々怨み抜く怨念霊と同様多くの人に憑いていて、その人の人生に多大な影響を与えている。

この生霊で最も多く、そして最も強烈なのが、恋愛関係のもつれから生じるもの。しばらく前のことになるが、四〇歳前後の男性にこんなことがあった。

この男性、妻子があるにもかかわらず、二六歳になる女性と恋愛関係に入った。つまり浮気である。

やがて二人は熱く燃え上がり、一時は正妻と離婚して一緒になる寸前というところまでになった。

ところが、ここまできておきながら、急に世間体でも気になったのであろう。男のほうが思いとどまり、元の鞘におさまることにあいなった。

すると、二ヶ月も経たぬうち、彼の奥さんが子宮外妊娠で入院。続いて彼も右足に腫れものができて歩けなくなり、会社を二週間も欠勤するハメに。

夫婦仲も次第に悪くなり、ちょっとしたことで口論が絶えなくなった。

そんな折、彼が私のところに相談に来たのだが、私は一目見るなり、別れた女性の生霊のしわざであることがわかった。

「あなたは最近、女性とトラブルを起こしたことがありますね」

「ええ?まあ、その、ええ、言われてみればないことは・・・・・・」

女性とのトラブルなど、男として決して誇れたものではない。彼は、いかにもバツの悪そうな顔をしていた。

「その女性の生霊ですよ。奥さんが子宮外妊娠したのも、あなたの足に腫れものができたのも。もちろん、夫婦仲が悪くなったのも」

「えっ、生霊?そんなものが本当にあるのですか」

「もちろんです」

「でも、生霊っていうのは、人に怨まれている場合でしょ。彼女が私を怨んでいるなんて思えないがなあ……」

この男、無邪気といえば無邪気、たいへんな自信家といえば自信家。困ったものである。一人のウラ若き女性をさんざん引きずり回しておいて、罪の意識のカケラもない。

まあ、それはともかく、一般に、生霊は悪いことをして人に怨まれている場合にのみ憑くものと信じられているようだが、実はそればかりではない。恋愛のときも危ないのだ。否、恋愛のときこそ最も危ないのである。恋愛が成就すれば問題ないが、死ぬほど好きであったのに別れたり、相手の男性に妻子があって成さぬ仲であったり、というような場合はほとんど例外なく生霊にやられてしまう。

つまり、怨みの想いも好きだという強烈でやりきれない慕情も、思いどおりにならない腹立たしさにしても、つまるところは執着心なのであって、このマイナス波動の執着心が当人から独立して、生霊と化 すわけである。

こうなると、相手の男性もしくは女性は、既婚者なら夫婦関係がまずくなる。また独身者なら、次に恋愛しても、ちょっとした感情の行き違いでことがうまく運ばなくなる。

さらには、生霊の強さの度合いにもよるが、男女関係だけにとどまらず、広く人間関係全般にわたって影響が出てくる。

会社での上下関係にしこりができたり、取引先と折り合わなくなったり、親友との仲が急に気まずくなったりする。

もちろん、仕事や勉強にも影響する。やる気が起こらない。集中できない。トラブルが増える等々。とにかく、何かにつけて運勢が下がりがちになる。

これらはすべて生霊が硬化し、悪霊化しているからなのである。

そこで除霊をする必要が生じるわけだが、この除霊は少々手こずる。なにしろ、生霊は生体エネルギーを持っているので、普通の死霊の怨念や執着心と比べて、はるかに強烈なことが多いのである。

好きで好きでたまらないのに思うようにならないという激しい執着心、あるいは「コノヤロー!絶対許さん」という凄まじい怨念をなだめ、諭さなければならない。

この苦労をお考えになれば、生霊除霊の難しさがおわかりいただけると思う。尋常な霊能力ではまず無理。

だいいち、霊視をしただけでは、生霊であることさえ見抜けないであろう。これを見抜き見事に除霊できる人は、おそらく、そんなにいないはずである。

さて、先ほどの男性であるが、彼の除霊も少しばかり手こずった。相手の女性の想念エネルギーが凶悪な蛇と化し、なかなか離れようとしないのである。

最終的には、私が彼女の想念界およびその奥にある深層意識、さらにまたその奥にある神魂の宿る超深層意識まで飛んでいって、彼女の意識を改革することで、除霊したのであった。

霊力やエネルギーで除霊しようと思えばできないことではなかったが、心か悟らせ、意識を改革して除霊したほうが、彼女にとっても幸せにつながるのである。

しかし、考えてみれば、こういう男性は自業自得、苦しんで当然なのかもしれない。

それはともかく、恋愛するときには細心の注意が必要。特に、別れるときは、双方とも心情のしこりを残すことなく別れるようにしたいもの。

何らかのしこりを残すような別れ方をした場合には、生霊にやられることがあり得るのである。これをしっかり覚え、決して後悔することのないようにしていただきたい。

これまで私が見てきたなかで、最もたくさんの生霊を憑けていた人は、美人の奥さんで、その数十八人、いろいろな男性とのお付き合いがあったものと想像されるが、生霊のことを思うと、美男美女も考えものといえよう。

生霊による障害は、かく現れる

ここで、生霊が憑くとどうなるのか、その症状を簡単に整理しておこう。

恋愛の生霊の場合には、まず夫婦関係、男女関係をはじめとする人間関係が全面的に悪くなる、ということはすでに述べた。

このほかでは、いい縁談がちょっとしたことで破談になる人も多い。また、その人のそばにいると、理由もないのにイライラしたり腹立たしくなったりする場合もある。

生霊の持つマイナスの想念波が、その人物のまわりをしっかりとおおっているからである。

肉体面では腎臓や子宮をやられることがある。また、肩がこったり、神経がピリピリする、背が張るということもある。

さらには、ちょっとしたことで疲れやすくなったり、ときとして手や肘が動かなくなったりすることもあるようだ。

一般的な怨念の生霊が憑いた場合も、同じように体が悪くなり、事故に遭いやすくなる。特に、男性から強烈に怨まれている女性が妊娠すると、流産につながることが多い。

この場合、怨んでいる男性が欧米人であればその可能性は一層高くなる。

なぜなら、一般に欧米人は日本人に比べて確執が強く、それだけ、怨念生霊が強烈だからである。

しかし、これはあくまでも一般論。比較的淡泊な日本人のなかにも、欧米人なみに確執の強い人がいないわけではなく、そのようなタイプの人に怨まれると、霊障も強くなるのである。

以上が、生霊にとり憑かれたときに起こり得る症状の主だったところだが、ここでその具体例を一つ二つご紹介しよう。

婚約破棄の友人をおそった突然の事故死

まずは、私の学生時代の親友の話から。

彼は、郷里の高校を卒業後、慶応大学へ進学した。それまで、特定の女性と親しく交際したことなどただの一度もないほど純情だった彼は、この慶応大学時代に一人の女性とおつきあいするようになった。

その女性は彼より二、三歳年上でなかなかの美人。クラブ歌手をしていた。

学生の目から見れば、クラブなどという社交場はまぶしいくらい大人の雰囲気にあふれているところ。そこで歌っている彼女が、彼の目には光り輝いて映ったのであろう。

それに、彼にとって彼女は生まれて初めての女性でもあった。日ごとに熱をあげていったのは無理もないことであった。

「俺の彼女だぜ。どうだい、きれいだろう」

仲間と会うたびに、自慢していた。

大学四年になり、ある大手の損保会社に就職が内定した彼は、結婚を決意した。結納、式の日どり、親戚・友人への通知など、準備万端整えて、あとは挙式の日が来るのを待つだけ。

ところが、結婚式まであとわずかというときになって、彼の心に信じられないほどの大きな変化が起きた。

慶応の後輩の女の子に、心が移ったのである。以前からこの結婚に関しては、両親や親戚の人たちが、相手の女性が年上で、しかもクラブ歌手をしていたことを理由に反対していたのだが、それに多少なりとも影響されたのかどうか。

彼の心は急速に冷えていったのであった。そして同時に、後輩の女の子に心が傾いていったのである。

恋というものは、燃え上がるときは燎原の火の如く、そのとどまるところを知らないかわり、冷めるときも、また恐ろしく早いものらしい。

「この結婚やめた」

彼は恐ろしい決断をした。相手の女性の悲しみはいかばかりか。女性のご両親の憤りはいかばかりか。長い間恋慕い、なにくれとなく面倒をみてきた男に、結婚式寸前になって一方的に捨てられたのである。

ご両親は当然のことながら、激しく怒った。

しかし、いろいろもめた揚げ句、正式に婚約破棄となった。

「こんな勝手なことが許されるはずがない。何か悪いことがなければいいがなあ」と、そうした一連のやりとりの一部始終を見ていた私は、心中秘かに彼の身の上を案じていた。

この不安は、不幸にも的中してしまった。その年の冬、スキーに行った彼は立木に正面衝突をして膝を骨折、四ヶ月ほど入院するはめになったのである。

「ああ、これくらいで済んでよかった」

私はほっと胸をなでおろした。

ところがである。やはり、その程度のことでは済まなかったのだ。次の夏、親戚の子供たちと海水浴を楽しんでいた彼は、溺れそうになった親戚の子を助けようとして自分が溺れ、死んでしまったのである。

今でも彼のことを想うと、なんとか防げなかったものかと胸つまるものがある。

この話は、かなり強烈な生霊が憑いたケースであるが、それも当然かもしれない。

男の身勝手があまりにも過ぎたのである。彼に生霊の知識があったなら、もう少し別なやり方があったのではないか、また、私もはっきり忠告すべきではなかったかと、悔やまれてならない。

誠に残念というほかないのである。

女性三人の生霊に憑かれた男

もうひとつ、生霊にとり憑かれた人のお話をしよう。

四〇歳くらいの男性が深刻な顔をして相談に来た。

「実は、妻が別れてくれと言うんです。もうこれ以上辛抱できないって言うんです。どうしたらいいんでしょう。先生」

いきなり、どうしたらいいんでしょうと言われても困ってしまうが、聞けばこの男性、日頃から奥さんのことをできた女房と感謝しているのだという。

「それなのに、どうして離婚話などに?」

「私が悪いんです。普段は心から感謝しているのに、ちょっと何かあると、すぐカーッとなって、激しくなじったり、ときにはメチャクチャに殴ったり……」

「普段は愛しているのに、どうして殴ったりするんです?」

「言い出しにくい?」

「それが、自分でもよくわからないんです。カーッとなると、何が何だかわからなくなってしまうんです」

「なるほど、そうですか。それで、もう別れてくださいって?」

「そうなんです。ですが、女房が別れてくれっていう理由はもう一つあるんです。それは、自分の口からは言い出しにくいんですが…」

「ええ、まあ、その、はっきり言えば、私がブラブラして働かないからなんです。なにをやっても長続きしないんです。すぐに飽きちゃうんです。

でも、弁解がましく聞こえるかもしれませんが、自分ではまじめに働かなくっちゃと思っているんです。

けれど、どういうわけかダメなんですよね。長続きせず、すぐ飽きてしまうんです。若いころは、こんなじゃなかったんですけどね」

「生霊ですか?」

「なるほど、それでは奥さんが別れてくれって言うのも無理ないですね」

ですから、先生にどうにかしていただけないかと思って……」

こうしたやりとりをしている間にも、私の目は、強烈なマイナスの念波を送り出す凶悪な蛇の姿をキャッチしていた。それは、三人の女性の生霊であった。

「あなたは、奥さんと結婚される前、そうですね、十八歳のときと二四歳のときと二六歳のときだと思いますが、三人の女性とかなり親しくおつきあいしたことがありますね」

「十八歳と二四歳と二六歳のときですか?アッ、はい、確かに女性と深くつきあっておりました」

「その三人の女性の生霊が憑いているんですよ」

彼の話によると、若いころ、女性関係が相当派手だったらしい。特に二四歳のときにつきあった女性とは深い関係になり、その女性の部屋で同棲を始めたという。

ところが、元来移り気の激しい彼は、別の女性に心を奪われ始めた。

そしてある日突然、彼女に何も告げず新しい女性のもとへ走った。

残された女性こそ哀れである。その後、しばらく空にしていた自分のアパートの部屋代を支払うため、大家さんのところへ行った折、大家さんの奥さんから次のような話を聞かされたという。

「いったい、あなたはどこへ行ってたのですか。あなたの行き先を知らないかって、若い女性が毎日のように来たのよ。

なんだかとても元気がない様子で、かわいそうでならなかったわ。でも、教えてあげようにも、どこへ行ったのか私にはわからないし……。女の人を泣かすようなことをしちゃだめよ」

プレイボーイを気取って、女性遍歴を重ねることが男の勲章でもあるかのように考えている人が多いが、とんでもない考え違いである。

そんなことをしては、相手の女性を傷つけるばかりでなく、自分自身の御魂をも傷つけてしまうのである。

そのことを、世の中の人はあまりにも知らなすぎる。悲しむべきことである。

彼の場合は除霊後、急に勤務意欲が湧いてきて、奥様とも仲直りができたらしい。再びくり返さないでほしいと願ってやまない次第である。

生霊対処は”愛”でしめくくり

生霊は、約三ヶ月から一年くらい強烈に想い続けると、想念が完全に本人から独立して、相手に憑くようになる。また、今は想っていなくても、過去、強烈に想ったことがあれば、生霊となって憑いている場合が多い。

「恋しい、恋しい」とか「コノヤロー!」という想念が当人から独立して生霊と化しているわけだ。この場合、想っている当人が相手の幸せを真心から祈っていれば、その生霊は女神、男神の姿となって相手を守る。

反対に、捨てられたり心情的にしこりを残すような別れをした場合、あるいは激しく怨んでいる場合には、先の例のように邪悪な蛇の姿となり、相手を不幸に陥れるのである。

つまり、生霊には、良い生霊と悪い生霊の二通りあるのである。

多くの人々に感謝されている人の運勢がますます向上し、たくさんの敵をつくっている人の運勢が衰退するのは、生霊の働きによる、という見方もできるわけだ。

だから、人に怨まれるような悪事を働いたり、異性を苦しめるようなことは、なるべく行わないようにしたいもの。常日頃から、人として誠意を尽くし、相手の気持ちを考えるよう努力を惜しまないことである。

しかし、人間社会においては、ときとして、怨みを買うのを承知のうえで、義を貫き信をまっとうしなければならないことがある。『老子』のいうように、

「天地に仁なし、万物を以て芻狗となす。

聖人に仁なし、百姓を以て芻狗となす」(天地が優勝劣敗弱肉強食にて万物を自然のなりゆきにまかせることは不仁に見えるが、これこそ本当の仁である。

それと同じように、聖人や君子が人々を自然のなりゆきにまかせ、ときには、ワラで作った犬を焼き捨てるようなことをするのは不仁に見えるが、これこそ本当の仁である、という意味)という面も、指導的地位にある人には要求される場合があるのである。

生霊の実体、人間の想念エネルギーを知れば知るほど、対人関係に苦慮せざるを得なくなる。生霊を気にしすぎたら、思い切ったことや真実のことができなくなってしまう。

しかし、無視しすぎたら、悉く事が成就できなくなってしまう。怨みを買っても断行するか、それとも、和を優先して、事を成さざるか。

人間として悩み苦しむところである。さぞや、日蓮上人もこの生霊と戦いつつ、苦労辛酸を御身に甘受して、真実を伝える使命感と信念に燃え、諸天善神の加護を満身に仰いで命をまっとうされたことであろう。

また、織田信長にしても、いちいち生霊を気にしていては戦国の動乱期に、戦をすることも、城を守ることもできなかったであろう。

しかし信長は、人の怨みを買うことをあまり無視しすぎ、傲慢であったため、みずからの性格に異常性・凶暴性をきたし、陪臣に裏切られるはめとなった。大量の生霊と死霊の軍団が、彼を異常に走らせたに違いない。

しかし、よくよく見てみると、この信長の異常なまでの行動は天界の仕組みによるものなのである。

つまり、戦国時代を平定させるため、信長にすべての悪役をひき受けさせ、秀吉や家康に手柄を与えたようである。

このように考えてみると、人の念の作用というものをどのようにとらえ、どう接するかは、一人ひとりに委ねられているといわざるを得ない。

私としては、できる限りの誠意と愛念で接し、最後は大愛でしめくくるべきだと思っている。大愛とは単に慈悲深いだけではない。

私心のない大いなる愛であり、ときに大悲の戒め、厳しさとなって現れ、ときに大慈の思いやり、優しさとなって現れる。これが主神の大御心であり、真実の愛といえるのではないだろうか。

こうした態度が、「観音経」によってうかがえるところの観世音菩薩や主神と同態度であり、人としての理想の姿ではないかと思う。

また、生霊で忘れてはならないのが、生霊を出す当人に人霊が化身している狐や蛇が憑いている場合である。

このような場合には、稲荷狐や蛇が生霊と合体して、呪っている相手に強い祟りを引き起こさせることがあるのだ。

犬神の祟りがある人、あるいはまたヒステリーな狐憑きの人に怨まれて、生活が異常に変化するというのがこの例としてあげられる。

こうした場合には、生霊を除霊しただけでは解決できない。生霊救済と動物霊祓い、および動物化した人霊救済を同時に行わなければ、完全に生霊を解決したことにはならないのである。

生霊を出す側にも障害が

最後に、生霊を出している人はどうなるかについてお話ししよう。

まずいえることは、性格が荒々しく怒りっぽくなったり、とかく生活がすさびやすいことである。

それは、激昂している自分の姿を想像されれば容易におわかりになると思う。継続して激しい感情を持ち続けると、自分の霊体までが鬼のような姿になってしまうのである。

次にいえることは集中力がなくなり、ボーッとしてしまうことである。自分の御魂の一部が相手に移っているから、どうしても集中力がなくなってしまうのだ。

よく、”心ここにあらず”といった風情の失恋女性を見かけるが、これなど生霊を出すことによって、自分の御魂の一部を失っている好例である。

とにかく、生霊を出すと自分の御魂を傷つけ、曇らせてしまうのである。もちろん霊層も下がってしまう。だから、人を怨んだり呪ったりしてはいけないのである。

古来より人を呪わば穴二つ〟という。人を呪うと相手も墓穴に入れるが、結局自分までも墓穴に入ってしまうという意味である。まことにそのとおり、どんなに憎いと思っても、許して忘れてしまうことである。

人を許すのは人のためではなく、自分のためなのである。情けは人のためならず”である。

しかしこれも時と場合による。得てして宗教家や神霊家は小善に陥る傾向があり、前述した大愛の観点からいえば、この生霊を出すところの私憤をおさえ、義憤、公憤を持つべきときもあるのである。

つまり、客観的、常識的に考えてあまりにも悪が強く、人や社会に害毒をもたらす人や事柄に対しては、断固とした法的処置を取らねばならぬときもあるのである。

それが大善となるときがあることも忘れないでほしい。

除霊体験者は語る アルコール地獄から僕は生還した! 七澤公典(作曲家三六歳)

「エイッ!」

鋭い気合いにハッとわれに返った僕の首筋から、熱い塊のようなものが上がってゆき、やがて頭上へとゆっくり抜けていった。

そうだ、僕は今、除霊を受けていたのだ。深見先生の口から、あるときは優しく、あるときは厳しく力強く、変幻自在に流れ出る除霊歌に身を委ねながら、僕はいつしか恍惚状態に陥っていたのだ。

意識が覚醒した瞬間、熱いものが頭から抜けていったのである。そのまましばらく瞑目していると、サラサラと鉛筆の音がして、

「七澤さん、これですよ」という深見先生の優しい声が聞こえた。恐る恐る目の前の紙をのぞいてみると、何とそこには不気味、かつ大胆にとぐろを巻いた大蛇が描かれているではないか。

一瞬、僕の体中のすべての血液が凍りつくような戦慄を覚えた。

その蛇の首あたりには、「ウラヤマシ」という文字が刻まれ、口は大きく開かれていた。

「これが胸に巻きついていたんですよ。そして、この口で顎に噛みついていたわけです。

ですから飲みたくないと思いつつ、酒がどんどん入ってしまうんですよ」

先生の声は続く。

「さあ……」

「生霊ですよ。誰か心当たりはありませんか?」

頭の中に過去の女性を数人、思い浮かべてみる。皆、該当するようであり、しないようでもある。

「髪が長く、背は低いほう。いつもジーパンをはいて、眼鏡をかけて・・・・・・」

過去に髪の長い女性はいるにはいたが、すべての要素が合致する女性は思い当たらない

「あまりたくさんの女性とつきあったので、よく思い出せません」

なんて言えたらいいなどと思っていると、

「ウーン、この蛇はこんなに大きいから男性かもしれませんね」

その言葉を聞いた刹那、「アッ!」と、思わず叫んでしまった。思い当たる男がいたのである。

これで、蛇の首に何故「ウラメシ」ではなく「ウラヤマシ」と書かれていたのか、はっきりわかった。

話は七年前にさかのぼる。昭和五三年の春、僕の作詞・作曲した『与作』という曲が発表されたが、当時一緒に住んでいた友人がいた。

彼は十五年来の親友であり、僕はジャズギター、彼はロックギターを弾いていたが、当時は二人ともギターをやめて、彼は音楽出版社のディレクター、そして僕はセールスマンという新しい道に進んでいた。

そんな折、このヒットが出たのである。ディレクターとしてまだヒットの出ていなかった彼には、身を震わせるほど羨ましく苦しいことであったに違いない。

その直後、彼とはある事情から絶交状態になっていた。その彼の妬みの想いが蛇となって僕に憑いて、酒を飲ませていたのである。

話を元に戻そう。とにかく、その蛇が、ここ数年僕の体に憑いて、精神や肉体をも蝕んでいたのである。

除霊をしていただいたころ、僕は毎日毎日二日酔いで体がだるく、いいようのない不快感に悩まされていた。それなのに、来る日も来る日もウィスキーの水割りをボトル半分以上、つまみなしで飲んでいたのだ。

体も頭もおかしくならないほうがどうかしている。

不眠症、倦怠感、とらえどころのない作詞・作曲の苦しみ。精神の低迷、将来への不安、イメージ世界への強制突入・・・・・。

こんなになるまで、なぜ飲んだのだろう。とにかく、翌日どんなに辛いかをイヤというほど承知しているのに、また飲んでしまうのだ。これではいけない。

身も心もボロボロになってしまう。社会生活についていけなくなってしまう。自分が信じられなくなってしまう。

アホになってしまう。こんなふうに考えれば考えるほど、ますます酒量が上がってしまうのだ。

これはもう、いってみれば自殺行為ではないか。まるで自分をこの世から抹殺したくて仕方がないみたいだった。ほとんどヤケクソだった。

そんなとき、偶然とは思えないが)、深見先生にお会いするチャンスに恵まれたのである。

それまで、神の世界、魂の世界、想念の世界、超自然現象など、無形の世界は確かに存在するとは思っていたが、まさか現実に除霊を受けようとは思いもよらぬことで
あった。

しかし、僕の長い人生において初めて霊体験にふれ、除霊を受けたその晩から不思議なことにピタッと酒が止まったのである。

これを奇跡といわずして何といったらよいのであろう。ただただ、神様と植松先生、深見先生に手を合わせるだけである。

そしてあの日以来、改心した僕は酒量もコントロールできるようになり、先生の許で楽しい修業に励み続けているのはいうまでもない。

しかし、生霊に悩まされたとはいえ、彼との交友において、僕自身もう少し誠意ある対応をすべきだったと反省している。最近では、作る曲調もガラリと変わり、昨年発売された『雨だれ』の暗さが懐しく思えるほど撥剌としている。

しかし、油断は禁物だ。ここで重要なのは、もともと僕は、あの薄気味悪い”特大ミミズ”の侵入を許す想念を持っていたのだということである。

すなわち、ここで想念転換を一八〇度余すところなく行う努力が必要だということだ。中途半端な状態でいれば、いつまたもとの状態に戻ってしまうかもしれない恐ろしさがあるのだ。

邪霊、動物霊をとっていただいただけで想念が著しく好転するというのは、少々ムシがよすぎはしないか。

やはり、本人の努力、クセとなっているものの考え方や習慣を直す修業が必要なのだ。神様も、本人が精いっぱい人事を尽くしたときのみ、真にお働きくださるとのこと。

ここが深見先生のお教えの素晴らしい点である。現界における人としての誠の道に根ざした弛まぬ精進がなければ、五次元・六次元の神様が差しのべた手にもふれることができないのだ。

ちょうど、ひな鳥が孵るとき、親鳥が外から卵の殻をつつき、ひな鳥が内から殻を懸命に破ろうとするように、この二つの力が合わさって、初めて新しい世界、素晴らしく限りなき大空へ飛び立つことができるのだ。

僕は、このことを心に銘記し、神様のお役に立つよう日夜励んでいきたいと思っている。

そして植松先生、深見先生のことは、その学問教養の奥深さと広汎さ、および六大神通力をはじめとする世界レベルの神通力をほとんどすべてマスターされていながら、それを決して誇らず、絶えず誠実で愛のあるところが素晴らしいと思っている。

また、世界中から本当の神、仏、道を求めてくる人々に、堪能な語学力と芸術性を駆使され、霊的、理論的、知的に実践しながら説明されている姿を拝見する。

そして、そのすべての方々が感動して帰っておられるのを見るにつけ、霊能力者や超能力者というよりは、日本が世界に誇りうる文化人、知識人のおひとりであると強く感じている次第である。

第六章 死後霊界の新事実

霊界への門

この章では、人間が死んで肉体を脱いだあとのことについてお話ししよう。

人間は死ぬと、誰しも霊界に行くことになるのだが、みんながみ・死後すぐに霊界に行くわけではない。

「自分は死んだんだ。これから霊界へ行くんだ」

という自覚、悟りの早い人はみずからあとで述べる幽界へと進んでいくが、そうではなくて、現世に未練を持っている人は火葬場に近づいたり、あるいは自分の家に入ってみたりと、霊界の入口をうろうろとさまようことになる。

しかし、このようにうろうろさまようのが許されるのは約五〇日間だけ。五〇日間が過ぎれば半ば強制的に幽界へ連れて行かれることになる。

仏説によれば、死後七日間ずつ計七回の霊界の裁判所を経て、七七=四九日目にエンマ庁において最終的な裁きを受け、初七日や四九日の法要はそのためにあるとされているが、そのとおりである。

しかしこれは、あくまでも死の自覚の普通程度の人の場合であって、自覚と悟りの早い人はその限りではない。先に述べたように、死後すぐに自ら幽界へ進んでいく人もいるのである。

死んでから幽界へ行くまでの五〇日間は現実界にたとえるならば、裁判所から、「五〇日以内に出頭せよ」との命令を受けるのに似ている。

ある程度なごりを惜しむのは仕方ないが、それが許されるのも最長五〇日。この猶予期間が過ぎると、たとえグズグズしていても、半強制的に幽界の庁に出頭させられることになる。

それでも頑固に行かないのが地縛霊であり浮遊霊である。これらを総称して一般に幽霊と呼んでいるが、幽霊とは、霊界の法則に違反して化けて出る霊なのである。これでおわかりいただけたと思う。

普通、死後四九日目に法要を営むが、このとき死者は、霊次元からその法要を見たり聞いたりしながら「ああ、自分は本当に死んだのだな」という自覚と認識を深め、霊界へ行く覚悟を固める。ここに最初の法要の最大の意義がある。

こうして五〇日が過ぎると、いよいよ霊界への旅立ちとなるが、直接霊界へ入るわけではなく、五〇日を含む約三〇年間”天の八衢”というところ、すなわち幽界で生活を送らなければならない。

この間は、現実界との交流も認められる。お彼岸やお盆、あるいは一周忌、三周忌などの年忌供養のときは、親族との交流もできる。供養してもらったり、食物を与えられることも許される。

ただし、許された期間以外の交流は認められない。

この幽界での約三〇年の期間は、それ以後数百年続く本当の霊界へ行くための準備期間であるといえよう。

そして、ここが大切なことなのだが、この期間中に生前に犯した罪を悔い改め、改心すれば、罪が軽減されるのである。

つまり、本来なら地獄へ行かなくてはならない人でも、この期間中に心から改心すれば、中有霊界あたりへ行くことが許されるというわけだ。

いわば、この約三〇年の幽界での生活は、執行猶予中の生活であり、サービス期間であるということになろう。

さて、この〝天の八衢”すなわち幽界の入口はどのようなところかというと、野原である。そしてこの野原をどこまでも歩いていくと、さらさらと流れる川にたどり着く。

これが、三途の川である。

三〇年間の〝天の八衢”の生活は、この三途の川を渡ってから始まるのである。三途の川のほとりには、古い小屋が立っている。この小屋には“脱衣ばばあ”という一人の老婆が住んでいる。

死者が川のほとりに到着すると、〝脱衣ばばあ”は着ている服を脱がせ、まっ白い着物に着替えさせる。死の旅路に向けた死の装束である。現実界にも、死者にあらかじめ白装束を着させる風習が残っているが、それはこのような意味があるわけだ。

「着替えるのはイヤだ!」と拒否しても、無理やり着替えさせてしまう。迫力のある婆さんなのだ。さて、着替えが終わるといよいよ川渡りである。

ザブザブと水の中を歩いて渡るわけであるが、この川は裁きの川でもある。渡っているうちにまっ白い着物がいろいろな色に染色されるのだ。

生前、善徳を積んだ人は紫色、罪深い人は赤黒い色、真心のあった人は青や紫色、金銭欲の強かった人はこげ茶や黒にと、人それぞれの色に染色されるのである。また、川の水が一瞬、蛇と化す場合もある。

三途の川というのは、ゆるやかな流れ、やや速い流れ、急流で深くて渡りにくい流れと、人によって三種類の流れになる。

このことから、三途の川という名前がついているわけだ。

ここではごまかしが効かない。いくらごまかそうとしても自分の潜在意識が知っているので、生前の生きざまがそのまま着物の色にあらわれてしまうのである。

こうして三途の川を渡り終えると鬼がやって来て、赤は赤のほうへ、紫は紫のほうへと、着物の色別に分類する。似た者同士の世界へ送られるわけだ。

この場合の衣服とは、神智学のいうアストラル体とその奥の霊衣であるともいえる。

分類されたあとは、エンマ大王との接見が待っている。一般に、エンマ大王は恐ろしい存在と考えられているが、決してそんなことはない。

本当は、善徳にあふれた素晴らしい顔をしている。私も、依頼を受けて獄界先祖霊を救済するため、罪を軽減していただくべく、弁護士の立場に立ってエンマ大王に陳情するのでよく知っているが、そのお顔は実に慈悲に満ちた素晴らしいものである。

「あなたは生前、徳をたくさん積み、仏心が篤くて、お寺を修理したり病気の人を助けたりボランティア活動をしたり、陰徳が高かったね。これはプラスの得点だ。

トンボや蛇をやめた分のマイナス点を差し引いても、合計するとやはりプラスになる。どうぞ、天国へ行って楽しい生活を送ってください。

そして、さらに勉強してください」という具合に天国へ送られるわけである。そのときのお姿は神々しく、やさしい慈父のようなお顔である。

ところがこれは、生前、世のため人のために生きた人の場合であって、罪状のある人ではこうはいかない。

「お前はあまりにも自己中心で、悪いことばかりしてきた。善行もあるにはあるが、そを加味しても悪がまさって、とても許し難い」とばかり、一喝される。

このときの形相は、もう身の毛もよだつばかりの凄まじいものであり、恐怖を絵で表したようなお顔である。この恐ろしい顔のエンマ大王に地獄へ送られるのである。

この世では器用に逃げ回っていた人間も、あの世では監獄行き、というわけである。しかも、懲役年数もはっきり決められてしまうのだ。この世の裁判制度と何ら異なるところがないのである。

霊界の裁きには一切ごまかしは効かない。黙秘権を行使しようと何だろうと、言い逃れはできない。なにしろ、霊界は肉体のない心と内在意識の世界なのである。“ポーカーフェイス”は通じないのだ。

このように、最終的に審判を受けて、それぞれの霊界へ行くことになるわけだが、その霊界は天国から地獄まで、無数といってよいほどのランクに分かれている。

これが地獄界の実相だ!

まず、地獄界の実相からお話ししよう。

地獄界は非常に複雑になっている。具体的には、第一地獄、第二地獄、第三地獄の三つのランクから成り、それぞれがさらに十六段階くらいに分かれている。詳しい種類は、仏説にもあるとおりである。

地獄界の一番下には、”根底の国”という霊界がある。最近、若い人の間で”ネクラ”という言葉が流行っている。

「心根が暗い」という意味であろうが、これは〝根底の国”のネソコからもきているのではないかと思う。

ネクラ”というのはおそらく、“根底の国”、つまり一番下の最低地獄を見てきたように心根が暗いという意味であり、それを、われ知らずのうちに言わされていたのではあるまいか。

流行言葉にも真がひそんでいて、ギョッとさせられる。

また、除霊をしていて発見したのであるが、喧嘩地獄”という地獄もある。これは修羅道の一種である。生前、財産争いをして親戚と口論ばかりしていた人がいた。

その人が死んだあと行った地獄がこの地獄である。手足を縛られたうえ棒にくくられ、道端に立たされる。そして、道を通る人々が口々に、

「バカ者!愚か者!死ね!くそったれ!おたんこなす!唐変木!」と激しい口調で罵倒するのである。石を投げたり、うんこを投げる人もいる。当人はただうなだれて、

「クソー!」と、歯ぎしりしているだけである。こういう地獄界もあるのである。

地獄界は、というより霊界は、下へ行けば行くほど寒くなり、暗くなる。あたたかい空気は自然に上に行き、冷たい空気は下に行くのと同じ原理である。

心のあたたかい人は上に行き、冷たい人は下に行く。心の明るい人は上に行き、暗い人は下に行く。これが霊界の法則である。

そうした心の状態に比例して、第一地獄、第二地獄、第三地獄という段階がつくられるわけである。

これらは、天地創造以来もともとあったわけではなく、人間たちが長い間にわたって、自らの悪しき想念と行いで形成してきてしまったものなのである。

そのなかにはお馴じみの焦熱地獄””かまゆで地獄””血の池地獄”などがある。血の池地獄”、これは女性関係が派手な人が入る地獄である。

たくさんの女性関係を持ちすぎると、血の池へドボンというわけ。

くそだめ地獄”というのもある。たとえば、ある庄屋さんが大勢の人を酷使し、可能な限りの搾取をしたとする。すると、その報いとしてこの地獄に入ることになる。

汚い話で恐縮だが、首から下はくそだめにつかってしまうのである。こういう霊を除霊するときは、周囲が臭気に満ちて、不愉快極まりないものである。

またなまけ地獄”というのもある。その名のとおり、なまけ者が行く地獄である。なまけ者は、本来あるべき天賦の能力を努力して発揮しなかったということで、神道でいう「天津罪」にあたるため、この地獄に落とされるのである。ここでは、荷物を下か上へと運んで行き、上がりきったところで番人が、

「ごくろうさん」と、荷物を突き落とし、それをまた上まで運ぶという単純作業が永遠にくり返される。

また石臼を永遠に引き回している人もいる。

地獄の様相はさまざまで、いくら書いてもきりがない。このへんで地獄についてのお話はやめにするが、一つだけ追加したい。

それは、心中した人が、死後どうなるかということである。心中すると、二人は素っ裸で、しかも下半身がくっついたままでいるのである。

ちょうど「シャム双生児」のような格好である。どこに行くにもこの格好なので、恥ずかしくてたまらない。心中などというのは、文学のなかで楽しむだけにしていただきたいものである。

行く人が最も多い中有霊界

では次に、中有霊界のお話をしよう。

霊界は大きく分けて、下から地獄界、中有霊界、天国界とあり、中有霊界はちょうど中間の霊界である。

一般に中有霊界という場合は、先程の幽界と同じ意味で使われることが多いが、ここでは、中間に位置する霊界という意味で中有霊界と呼ぶことにする。

この中有霊界は、現実界にたとえるなら、中流階級の人たちが住むところである。ここではおおむね、普通の人間社会の生活が営まれる。現世の生活とほとんど同じである。

本を書いている人もあれば、農業を営んでいる人もいる。あるいは漁業の人もいる。

中有霊界は、生前、とりたてて悪いことはしなかったが、良いこともしなかったという人が行く霊界であるが、ここも何段階かに分かれている。

生前のプラス点とマイナス点を足し合わせるとほとんどゼロという人は、中有霊界のまん中に行き、プラス点が増えるに従って上段へ、マイナス点が増えるに従って下段へ行くことになる。

そして、あある一定の基準以下になると、地獄行きとなるわけである。

その基準を数で表せば、約一万五〇〇〇以上であり、一億五〇〇〇万以上になると、最下段の地獄界へ行くことになるのである。

これは、私がエンマ大王に直接お聞きした点数表によるものである。

劫とは徳の逆であり、業と書くこともある。また一劫は、罪なき人一人に冷水を浴びせて罵倒し、五、六回殴打したあげく、二、三回足蹴にする一回分の罪に匹敵する。

これもエンマ大王に聞いたままでお伝えしているのである。

このようにご説明すると、「俺は、それほどひどいことをした覚えがない。俺の数は少ないだろう」と思われる方があろうが、永続的に、しかも大勢の人間を心的・体的・物質的に苦しめた場合は、数が飛躍的に加算されるのである。

中有霊界の上段は、現実界でいえば上流社会である。食べ物、飲み物、住むところ、

それぞれ豊かであり美しいが、天国ほどの豪華さはない。これに対し中有霊界の下段は、現実界の下流社会に匹敵し、労働の割に報酬が少なく、食べ物飲み物の量も少なく、品も粗悪である。

そして、下に行くほど肉体労働の要素が多くなる。街で見かける浮浪者のような格好をしている者がいるのも、この中有霊界の下段である。

ところで、人数という点からいえば、当然のことながらこの中有霊界へ行く人が最も多い。

そして、ここへ行った人はだいたい三〇〇年から四〇〇年過ぎると、現世に生まれ変わるのである。この生まれ変わりについては、機会を改めて詳しくご説明したいと思っている。

徳が導く天国界の実相

天国界の話をしよう。

天国界も第一天国、第二天国、第三天国の三つに大きく分かれている。もちろん、厳密にいえばもっと細かく分かれているが、大きくはこの三つに分類できる。

第一天国が最も高い霊界で、第三天国は最上階の中有霊界のすぐ上にある霊界である。

第三天国は、世のため人のために尽くした人が行く霊界である。そこには太陽が輝いていて、住む人も皆立派で、自分の功績を自慢するような人は一人もいない。

人々は、ただ感謝感謝の心で生きている。たいへん慎み深く、もちろん争ったりはしない。

彼らはたいてい、小さな村をつくって住んでいる。そこにはリーダーがいて、志が同じであるとか、同じ社会事業に尽くしたとか、何らかの共通項を持った人々がグループをつくっているのである。

第二天国は、信仰の道を至純に全うした人が行く霊界である。汚い服を着ていてもいい。

地位や名誉がなくてもいい。苦労をとおして神への誠を全うし、至誠至純の真心を、口と心と行いで貫きとおした僧侶やクリスチャンのような人が行く霊界である。

信仰とは、ただ信じていればそれでいいというわけではない。体施、物施、法施を実践して真理を探求し、身の内の神なるものを実践しなければ、本当の信仰とはいえない。

口では、「私は神を信じています」と言いながら、その行いが神の教えから遠く離れている人。第二天国に入る人は、このような人でないのはいうまでもないことである。

本当の意味で信仰に生きた人が行くのである。もちろん、僧侶や神父、牧師以外の一般人でも、この世界の法則にかなっていれば、誰でも行くことができる。

この第二天国は、慈善事業を行っただけの人が集まる第三天国よりもランク上に位置している。

そして、第二天国のもう一ランク上にあるのが第一天国である。ここは、人間界最高の霊界で、信仰心に篤く、しかも地位や名誉や財産を持った人が行くのである。

ただ地位や名誉や財産を持っているというだけでは、ここには入れない。

至純な信仰心に基づいて、たくさんの財産を世の中に還元し、地位や名誉を活用して世のため人のために尽くしていなければならないのである。

また、信仰心だけでも第一天国には入れない。信仰心とともに、社会的地位、名誉、富がそろって、初めて第一天国に入れるのである。

つまり、天、地、人の徳がある程度バランスよく完成されていなければならないというわけだ。

天に愛され、人に愛され、物質にも恵まれるという、ある一定以上の徳の積み重ねが必要なのである。要するに、地獄の反対であるとお考えいただきたい。

第一天国に入れる基準を功数で表せば、最低でも一億五〇〇〇万功の徳(功候)が必要となる。ついでにいうなら第二天国は、最低一五〇万功の徳、第三天国は最低一五万功徳がなければ入れない。

一功とは、寝たきり老人を三日間徹夜で看病し、衣服や食べ物、飲物を与えた行為に匹敵する。これも、天国界をとりしきる神様に直接お聞きして、知ったのである。

ところで、この第一天国に入る人はごく少数、決して多くない。ちなみにいえば、特に西洋人には少ないようである。西洋人は第二、第三天国に行く人が多いようだ。

以上をまとめてみよう。第三天国は、信仰心は薄くても世のため人のために尽くした人、第二天国は、信仰一途に生きた人、第一天国は、その両方を兼ね備えた人が行くところだといえるだろう。

以上、天国についてその概略をご説明したが、これ以外にも天国に似た霊界がある。それは、智仁勇を兼備したメシア的存在の人々が行く特殊上級霊界で、霊国や兜率天がそれである。

また、月天使や地天使、日天使と同格の人霊が行く、普通の霊界とは別の最奥人天界というのも存在するが、これらについて別の機会に詳説したい。

地獄からの救済

以上、死後の世界について、ごくごく大雑把にご説明したが、死後の世界の話をすると、たいてい、「天国界へ行っている人は幸せだからいいけれど、地獄に落ちている人をどうにかできないものでしょうか」
というご質問を受ける。そこで、これについて簡単にお話ししよう。

生前、悪業を重ねると死後、地獄へ落ちる。この場合、その所業によって八〇〇年間とか無期懲役とかが命じられるのだが、その間は先にあげた「血の池地獄」や「焦熱地獄」「八寒地獄」などで、よくもまあこれだけ考えたものだと思えるような、さまざまな責めを受けることになる。

ここで味わう痛みや苦しみは、現実界のそれとまったく同じである。しかも、肉体のない霊界では神経と感性がむき出しにされているため、痛みや苦しみは現実界の十数倍として感じられる。

この想像を絶する痛みと苦しみが、何度も何度もくり返されながら、三〇〇年、八〇〇年、あるいは永遠に続くのである。これ以上辛いことはない。

この地獄で呻吟する霊たちをどうにか救うことはできないのかということだが、実はできるのである。

とはいっても、すぐに無罪放免というわけにはいかない。地獄にいる期間を短縮してもらうのが精一杯。たとえば無期だったのを五〇〇年にとか、八〇〇年だったのを三〇〇年にとか、この世の刑期と同じように短縮できるのである。

その方法だが、全部で三つある。

一つは、子孫たちが徳を積むことによって刑期”を短縮してもらうもの。神仏に寄進したり、神社を修復したり、人を助けたり、一身を神仏に捧げたり、つまり、体施、物施、法施をするわけである。

このように子孫たちが徳を積むと、その功績が地獄に届けられる。

「お前の子孫はよくやった」という報告が入るわけだ。そして一六〇〇年のところを三〇〇年にする、などという恩恵が施されるのである。

ちょうど、現世において、子供が親のために保釈金を積んで真心込めて裁判所に提出し、親の罪と刑を軽減してもらうようなものである。

二番目の方法は、地獄にいる本人が改心することである。本人が改心することによっても、刑期は短縮されるのである。

とはいっても、口先だけの改心ではダメ。口と心と行いのすべてが改まったとき、初めて改心したと認められるのである。

しかし、地獄界にいる誰もが改心できるわけではない。

改心できる人間とは、罪を犯したとはいえ、生前ある程度の徳行に覚めた人であり、学問や信仰の基礎を持ち、少なくとも、「悟る」ということを覚えた人である。

徳川家康や豊臣秀吉などもいったん地獄界に落ち、ずいぶん苦しんだ揚げ句改心し、天に許されて獄を離れている。

そして、改心ぶりを発揮し、明治維新の霊的大原動力となったのである。これは、私がじかに霊界の庁で伺い、当人からも直撃インタビューしてわかったことである。

このようにして本人に改心がみられると、神様は霊界の長を呼んで”仮出所〟の許可を与える。すると、やがて鬼が来て、その人を別のところへ連れていく。こうして、刑期が短縮されるのである。ちょうど、この世の「模範囚」のようなものである。

三番目の方法は、恩赦、特赦である。この世でも、皇室の慶事や重要な国家行事があるときに恩赦、特赦が行われるように、地獄界でも、恩赦、特赦が行われる。まず特赦からご説明しよう。

先ほど、徳川家康と豊臣秀吉を例に引いてお話ししたが、大きな時代の変動期ともなれば、善にも悪にも強く、現実界に大きな霊的影響力を発揮する霊の働きが必要となる。

もちろん、天国界などの高級霊界にいる霊も働くことは働くが、これらの高級霊は清くはあっても、ときとして弱々しく、パワー不足であることが多い。

これでは、力強い影響力は期待できない。そこで神様が、一つの時代を動かしてきたパワーのある霊を地獄界から選び、特別任務を与えて〝仮出獄”させるのである。

いわば、償いのチャンスを与えるのである。そうすることが、現実界に生きる人々のためでもあるからだ。

これが特赦である。そしてこれらの霊は、特別に地獄界から出されて、さんざん苦労した揚げ句、世に抜群の勲功を立てるのである。それは、生まれ変わって働くこともあれば、背後霊となって働くこともあり、一概にはいえない。

また恩赦とは、ひと言でいうなら救済除霊である。つまり、特別な霊的使命をもって生まれてきている私や霊能者と呼ばれている人々を介して、神仏が除霊や霊的救済によって罪を許し、霊を救済されることである。

以上、地獄界にいる霊が救済される三つのパターンをお話ししたが、これからうかがえることは、主神はあくまでも大慈大悲の大御心を持っておられるということである。

どんなに厳しい霊界規則をお定めになられても、その御本心は、どのような霊でもなんとかして救ってやりたいという親心なのである。

世につれ変化する霊界

これまで、霊界のことについてさまざまに述べてきたが、これらは私一人で解明したわけではない。最初に述べたように、その根本となるところは、わが師・植松愛子先生が示唆してくださったのである。

植松先生はこう語られた。

「霊界と現界は表裏一体であり、神界はまったく別の世界にある。そして、現界にあることはすべて霊界にあり、霊界にあることはすべて現界にある。

霊界は、苦しみも楽しみも、すべてこの世と同じ仕組みになっているのよ」

この言葉をヒントに私は研究を深めたのだが、まさに先生のおっしゃるとおり。簡単な言葉に含まれる真理に、改めて驚嘆させられた次第である。

先生のおっしゃった内容は、いまだかつて誰も解けなかったことである。

最後に申し上げるが、宇宙は刻一刻広がりつつあり、また人間社会や文明も刻一刻歩していることはご承知のことと思う。

しかし、霊界もまた刻一刻広がりつつあり、新しい霊界がドンドン形成されていることは、あまり知られていない。

私が見た限りでは、植松先生がおっしゃる如く、この世の中の移り変わりと同じように、霊界の食事や着物、建物なども次々と変化している。

地獄の状態や責め方なども、激しくモデルチェンジしている。つまり、昔の人には辛いことと思われても、今の人は辛く思わなくなったような責め方は廃棄され、新しい方法が採用されているのである。

反対に、昔の人にとって楽しみであり喜びであったことでも、今の人にとっては楽しいことではなくなったものもある。

たとえば「けまり」や「連歌会」「和歌を詠む」「やぶさめで殿様からほめられる」「きんらんどんすの着物を着せてもらう」ということなどであるが、これらは現代人にとって面倒臭い一種のお行となってしまって、決して楽しいことではなくなっている。

それゆえ、現代人の行く天国では、一流ホテルで食事をし、きれいなドレスを着て、高級車に乗り、ヨットでコーラを飲んでいるのである。

このように、現代の極楽生活そのままが、霊界でも行われるのである。

古い仏教知識やスウェーデンボルグなどの著書にしがみついて、ホットな霊界情報を知らない人が多い。

そこで私は、天国生活に希望を持って、人として前向きな努力をしていただきたいため、「誰でも行ける高級霊界旅行」と銘打って、真実の霊界探訪を皆様にお勧めしている。

私が一〇人くらいを一グループとして、自由自在によき霊界へ案内するのである。

すでに何回も行っているが、これまでのところ、一〇〇人中九〇人が霊界を実際に目で、耳で聞いている。成功率九〇%である。この報告については、機会を別にしたい。