神社で奇跡の開運(Vol.6)

円満な人には高級霊がつく

ところで、どういう人が悪霊に取りつかれやすいかというと、性格上に癖や偏りが強い人である。

なくて七癖といわれるくらいで、たいていはだれでも癖を持っている。その癖の多い分がギザギザとなり、魂が金平糖みたいな形になっていると思えばいい。

クセのない円滑な人は、ギザギザのない球形”に近い魂であり、その上心が純なれば、光り輝いているというわけである。

そういう人には、神様や高級守護霊がかかりやすい。神社にあるお鏡(真澄の鏡)のように、澄みきってすべてのものを映し出す状態
になれば、ご神霊も宿ることができる。そして、そのご神霊の意志すらもうかがい知ることが可能なのだ。

ご神霊、高級霊がかかると、外見的にも悪霊のときとは違ってくる。自然を尊重される霊達だから、動作も行いもごく自然である。変化といえば、顔が高貴になったり、気持ちが豊かになったり、情感がすばらしくなって他人からも敬意をもたれるようになることだ。

今、ご神霊といったり、高級霊といったりしたが、実は、高級霊とは、神様に最も近く、神様のような昇華をした人霊のことであり、ほんとうの意味の高級霊とは人霊ではなく、ご神霊そのもののことなのである。

ところで、守護霊を統括する神様を守護神と呼ぶが、守護神はもちろん万人共通の同一神ではない。むろん、全ての守護神を統括するのは日本では天照大御神であり、その上に君臨する北辰の神や天御中主之神などの主極にある神々は、みな万人共通のものである。

しかし、個人を守っている守護神とは、その人が生まれた土地の氏神、すなわち産土神が仲人となって決定することが多く、産土神がそのまま守護神になっていることもある。

守護神の成り立ちは、その人の御魂の系統の元神が守護神になったり、前世にその人が崇敬していた氏神や産土神が守護神になったり、職業を束ねている特殊神や、先祖代々崇敬してきた氏神がなっていたりもする。

その人によって、守護神の成り立ちも千差万別なのである。

鏡を見て自霊拝をし、神人合一を願う

神の意志に沿った人間とは、御魂が球形で円満に輝く人間だ、とも言える。そうならなければいけないと、神様はいつもわれわれに教えてくれている。

神社にご神体として祀られている鏡の意味するものは、実はこのことなのである。鏡の如くならんとすることを目ざしてなす修業を、神道では自霊拝という。

最初は六角形の鏡に映る自分を見て、癖や偏りを直す。角があるところが、修業を始めようとする自分にそっくりなのだ。次に八角形の鏡(八咫の鏡という)を見て自分を反省する。

まだまだ角がある。そして最後に太陽を思わせる丸い真澄の鏡に自分を映して、自らの霊を拝み省るという手順になっている。

鏡に自分を映して拝むことを自霊拝といい、自分の中のご神霊を拝むのである。祈願とは、自分の霊に対してもできるわけだ。自霊に対して、祈るように強い自覚を促すと言うほうが適切な表現かもしれない。

思えば、神社の鏡は数千年にわたって私たちにそのことを教えているのだが、誰も気がついていないのだ。ますます神様と人との間に距離ができて、人間となってしまったのである。

古代神人合一といって神様とは一つに結びついていた。そしてもっと前は、人が神の如くであったのだ。大和言葉(古代からの日本の言葉)ではヒト(霊止)と言った。神様の霊がとどまっているという意味である。人とはそういう存在だったのだ。

それが時代が下がるにつれて、現実界の観念や欲望にばかり目を向けるようになり、人が神様から離れてしまった。

神社の鏡はそれではいけないと、本来のヒトへ帰る道を無言のうちに教えているわけだ。

このことを言霊分析にて恩師植松愛子女史はこうおっしゃっている。「カガミという言霊から、ガを取ればどうなりますか。

カミという言霊になるでしょう。自分というものをよく鏡に映して、ガを取る修業をすれば、誰でも神様になれるということです。

神人合一の秘訣を、神様がこうして無言の内に教えておられるのです」と。

神社のご神体である鏡に、深々と頭を下げてふと見上げてみたら、自分の姿が映っている。

まさに、「ご神体とは、お前自身のことなんだ」ということを教えているのである。これを、神社の形式そのものが語りかける、神様による無言の禅公案なのだと受けとめたいものだ。

そうなるために、祈願をして神様と交流、感応し合い、鏡を見ては自霊拝をし、神人合一できるような自分作りに励みたい。かといって、神職や神のご意志を取り次ぐ神霊家になるのでなければ、若い内から澄み切ることばかりに専念することはお勧めできない。

一般の方々には、むしろ、神様の義に対して心澄み切り、人に対する仁に対して心澄み切り、一切を燃ゆる誠でつき進むという道に対して心澄み切るべきだろう。

西洋と日本の感覚の違いは神様方の個性による

日本の神界と神々の考え方をよく理解しておかねばならない
星が三層構造になっており、どの星にも神界、霊界、現実界があることは前に書いた。地球もその星の一つであり、当然のことながら神界があるわけだが、その神界にはいくつものランクと種類があり、各々の星の神界と深いつながりを持っている。

そして中国には中国の神界があり、ヨーロッパにはヨーロッパの、インドにはインドの神界があって、その神界固有の、神様やエンゼル達がいらっしゃる。

そして、日本には日本の独自の神界があるのである。実はその個別の神界におられる神様のあり方や個性や働きによって、その国の風土と国柄が決定されているのだ。

だから、当然この日本神界こそが、あらゆる神界の宗たる神界なのであるが、その詳説は、後ですることにしよう。ところで、私達の国民性や歴史や伝統、また、風土や地理的条件なども、すべてはここから発して形成され、特徴づけられていると考えてよい。

前にも書いたが、創造、クリエイティブな感覚、芸術、感動といった人間の魂そのものの発露と言える営みは、ことごとく神界に属するものである。だから才能とは、結局のとこ内在し外在もする神界からやってくるものなのだ。

だから、才能豊かな人とは、神界とのつながりが深いことになる。

そして、実は前述した如く国家とか民族の才能も、神界との深いつながりをもっているのである。一般に西洋の感覚と日本の感覚との違い、また、文明文化の成り立ちや風俗習慣の違いは、その国の風土や歴史がもたらしたものだと考えられている。

確かに、現実界のみの目から見ればその通りだ。しかし、現実界を動かしている、目には見えないが確かに実在している神界というものの働きと意義を知れば、もっと別な角度ですべてが見えてくる。

もっとはっきり言うと、それらの違いとは広い意味での神霊界と神様方の個性の違いなのである。

その違いについて、これから詳説してみよう。

宇宙にある神界からのパイプが日本へ

まず、神界の違いについて次ページの図を参照しながら解説すると、そもそも日本の神界の特徴とは、

第一に、縦に長くて最奥天界までつながっていること。

第二に、気のめぐり方がスパイラル曲線のようになっていて、「◎」でギュッと凝結させる、締まりと回転作用があること(ボルトの雄ネジのよう)。

第三に、あらゆる国の神界の要素を組み入れて、調和させるゆとりと吸収力があること。

第四に、神界を形成している気の種類が柔らかくて繊細であり、多種多様の変化があること。

第五に、宇宙空間に点在する重要な神界との窓口となっていること。

第六に、死んだ文明、文化、芸術、科学などに生命力を与え、蘇らせたり、再活性化させたりする。

だが、これらの六つの特色とは反対に、欠点もある。絶対的なつぶの大きさが足りない、横への広がりがない、柔らかすぎて外へ出る時の節目の固さがなく腰折れ気味になること。

第一について。世界中に神界があるが、本当の神界というのは日本だけなのである。

本当の神界とは、最奥極微神界のことであり、人霊の入ることのできない九次元神界のことだ。その他の国に出ている神界とは、人霊が入ることのできる霊界の最上部の霊層のことである。

宇宙にある一番奥深い神界からのパイプが、日本に降りているわけだ。

だから、芸術でも、科学でも、宗教でも、鑑賞力や咀しゃく力の奥深さでは、日本神界に身を置く日本人は、その気にさえなれば世界一のレベルになれるはずなのである。

日本神界のスパイラル曲線凝縮構造


第二について。ヨーロッパは外広がりのスパイラルがあり(特にイギリス)、中には円錐、三角錐、四角錐もある。オーストラリアは長方形にバーンとただただ広がり、アメリカは台風のように外へ外へとうず巻きが広がっている。

これらと比べ、日本は雄ネジが上から回転してギュッと締めつけている感じだ。だから、一旦日本に入ってきた文明や文化は、外へ逃げないでコンパクトになって永く残っている。

また最近の日本の技術を見てもわかるように、日本では「軽く、薄く、短く、小さく」する技術が得意である。

コンピュータでも、自動車でも、電気製品でも、軽くて薄くて短くて小さいが、性能はかえって良く、一層便利になっている。

これらのことを考えれば、現在の日本経済の国際的競争力というのは。国民の努力もさることながら、日本神界のスパイラル曲線凝縮構造のおかげであるともいえるだろう。

知識も、情報も、素材も、外国からスパイラルで吸収してつなぎ合わせ、凝縮させて独自なものを練り上げる。まるで、私の好きな神戸の御影にある「丁稚ようかん」のような国である。

薄くて味が良くて、値段も手頃だ。「丁稚ようかん」を食べるときにいつもこう思う。「ああ、この味は・・・・・・、神武天皇以来、練りに練った日本文化の味だ。素朴で質素にしてあるが、上品で洗練された味わいの中に、軽、薄、短、小、の日本技術の粋が忍ばせてある」と。

天皇とは、日本という神社の大宮司

第三は、あらゆる国の神界の要素を組み入れて、調和させるゆとりと吸収力があることについて。これは、白と光の関係について考えればわかり易い。

日本神界は、ちょうど白色寂光の輝きをもつ神霊域である。

白地というのは、映画やビデオのスクリーンのように、どんな色でもきれいに映し出してくれる色である。赤を赤、青を青として浮き立たせてくれる色なのである。これが白色無地であることの長所だ。

そして、今度は光としての白色であるが、赤色、紫色、緑色、黄色などの全ての光をかけ合わせた色こそが、他ならぬ白色光となることはご存じだろう。

白色光とは、全ての光を合わせた時に出現する究極の色なのだ。

それで、皇室の皇とは白い王と書くわけである。知らない内に、私たちは神様にこの字を使わされていたのである。

だから、天皇という文字を霊的に解義してみると、「天に対して絶えず純白である王」ということができる。

つまり、「私心、私欲がなくて純粋であり、天からくるあらゆる功徳の色柄を、そのまま浮き立たせて国民に反映させ、自らは、すべての民が天に向ける色々な光を総合させる究極の一人である、というお立場にあらせられる」という意味になる。

これを別な言葉で言い替えるならば、「天皇とは、日本という神社の大宮司である」と思ってよいだろう。大宮司とは神の前に立つ代表であり、わたしたち日本国民という氏子や外国から来た参拝者の敬愛と崇敬の的になっている。

だが、神社運営の実権は氏子総代会内閣の閣議と同じ)が握っており、決して大宮司の思い通りに神社を動かせる訳ではない。ちょうど、現在の天皇制と同じようになっているのである。

このように神社とは、丁度日本の国体とそっくりな構造になっていると言える。

そこで、一般に大宮司が立派な霊性と人格を備え、神に対して純であり、誠であり、至仁至愛の祈りを絶やさない人であれば、その神社の神威は高まり、ご神徳は周くすべての氏子に行き渡る。

それだけではない。その神社のある風土も、適度な雨と日照が続き、稲や穀物は豊作が続き、魚も大漁が続くものである。だが、氏子総代会もしっかりしていないと、神社の財政や内政問題などに支障が起こり、せっかくのご神徳も生かし切れないことになる。

宮司は無形の大徳を、氏子総代会は有形の大徳を司っている訳だから、両者の和合と正しいあり方が望まれる次第である。

天皇と国民、天皇と内閣もこれと全く同じであるといってよい。

日本の国運と天候、風土まで影響力をもつ天皇というお立場。私たちがこのことを正しく自覚すればする程、そういう想念界が強く作用するので、日本神界という神域に建つ日本国という神社は、益々その霊威と繁栄、発展のパワーを強くすることになる。そうすれば、無形の功徳が光明輝く日本神界から弥広がり、すばらしき神々がその霊的磁場に次々と降りられて、日本はもとより、世界の国々にまで幸運が広がって社会を発展させるという、(ス)の大神の大御陵威が行き渡ることになる。

小さくても中身は一番高級

第四、気の種類が柔らかくて繊細であり、多種多様の変化があることについて話す。

神霊界を形成しているのは炁であり、神気であり、気であるが、様々な気によって育まれる動植物の様子を見ていると、やはり日本の動植物の素性は繊細であり、柔らかいといえる。たとえば、外国のどんな牛肉よりも日本の牛肉が柔らかいし、関東の青ねぎよりも関西の青ねぎの方が柔らかいように、外国の野菜と比べると、日本の野菜の方が全般的に繊細で柔らかいといえよう。

女性もどんな容姿の人でも日本人女性の方が、外国人女性よりも肌がキメ細やかで柔らかい。むろん、性質もそうである。

その原因は、モンスーン気候にもあるが、何よりも山である。スイスのアルプスの山々やカナダのロッキー山脈、また、中国大陸の山々と比べてみても、日本の白山や穂高をはじめとする北アルプスの山々から発する気は、繊細で、華麗で柔らかいものである。

富士神界、白山神界、磐梯神界など神山といわれる所には、日本神界の中でも個性と特色ある個別の神界があるのだが、外国のどんな山々を訪ねてみても、日本のように山また山と尾根が続き、細やかな山ヒダが、どこまでも続く山の優しさというものがなかった。皆、ごつごつとして岩が頑張っているだけだ。

そもそも山の組成年代が違うのである。

スイスのアルプス山系、カナダのロッキー山系、ヒマラヤ山系などは、形成後、せいぜい八千万年から九千万年を経ているのに過ぎないのに比べ、日本のアルプス山系は、約二億年から四億年を経ているといわれている。山の年季が違うのだ。だから、長年培って来た天然の気である神気の豊富さや柔らかさ、

崇高で気高い繊細さや多種多様さに関しては、日本の山々の右に出るものはない。

もちろん、整然とした美しさや雄大さ、また広がりや峻厳とした幽玄などに関しては、かえって外国の山々の方がいい場合もある。

だが、気が柔らかくて繊細で上品で多種多様だということは、気が高級であるということに他ならない。

日本料理でも、フランス料理でも、中華料理でも、高級で一流といわれる所は、全て味が上品で繊細で柔らかく、口に入ったら多種多様な味わいの広がりと変化があるものだ。

ちょうど日本の伊勢エビが、オーストラリアやアメリカのエビと比べると、大きさやたくましさはないが、味に深みとまろみと繊細な甘みがあるように、日本神界を形成している気の素性や波動は、繊細微妙にして上品な味わいを有しているのである。

これで、日本神界のすぐれた所、小さくても中身は一番高級であるという所がご理解いただけたことと思う。

霊的な加護を授かって感覚を培う

第五に、宇宙空間に点在する重要な神界との窓口となっていることについて。

皆様も、役小角という人の名をご存じのことと思う。通常、役行者といわれる人で、奈良時代に山岳信仰の基を開かれた方である。

大峯山を開き、日本の六十余州の神山、霊山を開かれて、神と人とが一体となる道法を開かれた方である。

この人の足跡を追って、山岳に苦修錬行の修道をされたのが行基である。東大寺大仏を開眼し、因果の法則を説いて人々を教導した行基とは、「日本霊異記」においては第一の聖者として扱われている人物である。

そして、この人の後を追って同じように苦修錬行の道を歩んだのが、他ならぬ空海であった。空海が、まだ唐に渡る前の頃、即ち恵果から真言宗の八祖の印可を授かる以前の話である。

この三者によって、日本の山岳信仰の基礎が築かれたといっていい。

さて、このすべての基を作った役小角とは、一体何者だったのであろうか。

神霊界の秘密の一端を明かせば、彼はその後一度も生まれ変わることなく、神使とし霊界で大活躍をしている。

実は、霊界から行基を導き空海を導いたのも、役小角なのである。神使たらんとする発願もさることながら、彼が生前にたてた神功(神様から見たおてがら)と霊的覚者たる資質とから、神使として任じられているのである。

ではその神功とは何か。一言で言えば、「日本国六十余州に太古から坐ご神霊を出だし、わが国の国体と風土に、宇宙にある神霊界と直結する神霊磁場、及びそのパイプを確固としたものにされた」ことである。

それで、日本国に神国としての霊運が強化されて備わり、文明化された外国との交渉の中で、わが国の民族と文化と国史に、大いなる神霊界のご加護が授かるという布石が打たれたのであった。

不思議で神秘なキャラクターと歴史をもつ日本という国は、こういう霊的な加護を授かりながら、政治も経済も文化も学問も、ブランデーの原酒が醸造され、時とともに熟成されてゆくように、ゆっくりと独自なものを培ってきたのである。そして役小角は大海皇子、即ち天武天皇にこのことを知らせ、「古事記」の編纂なども促している。

天武天皇とその妃持統天皇が、何度も吉野へと参詣していた理由はこれである。天皇が自覚して初めて国が動き、六十余州の神々が動かれることを役小角は知っていたのである。

ところで、実際をいえば、役小角が直接開かれたのは三十一州であり、その他は、霊身となった役小角が、天意に合う若者を選んで導かれたのである。

白山を開かれた泰澄上人、日光を開かれた勝道上人などがその例である。

このように、日本の山岳とは、単なる山岳ではなく、神域と宇宙神界とのパイプロとなっているのであり、高級霊達が住まい集う中継地点ともなっているのである。

これが、宇宙空間に点在する重要な神界との窓口となっているという意味だ。

むろん、最重要神界とのパイプロは、日本の山岳地帯に下りているのであるが、カナダ、スイス、中国、ヒマラヤ、インドなどには、それぞれ個別の役割をもった宇宙神界とのパイプロがあり、これらが連動して世界情勢を動かしているのである。

最後に、一言だけ言っておかねばならない。

役小角が開いた山岳信仰の原点の発想は、太古にあった道であり、彼はそれを復活させただけなのである。

そして、山岳信仰の基本となる所は、現在でも同じである。ただ、昨今はお蔭欲しさの人や、行者、霊能者、修験者達の自縛霊がうようよしている為、昔の神域からは本当の高級神霊はお帰りになっていることも多い。

宇宙神界とのパイプロも、今やズタズタに切れてしまっているといえよう。

そこで、新しい時代に先がけて、新たなる神域とパイプロが下ろされているのが現状なのである。第六の詳細なる説明は、紙面の都合上別の出版機会にゆずることにする。

日本神話のキャラクター

お話変わって、今度は日本の神様のことについて語ろう。

ギリシア神話と日本神話を比べてみたら、いかに日本の神様が大らかであり、ユーモアに満ちているかがおわかりになるだろう。

ギリシア神話では、女神様も嫉妬深く、我が強く、私情と私心に満ちている。男神は、すぐにバケ物に変えられるので、緊張した毎日を送っておられる。

情容赦のない制裁と快楽をむさぼるわがままが許される世界である。西欧の文化の奥にある魂の実情を物語るものであろう。

そして、ここが哲学の故郷となるのである。ところで、ギリシア哲学、スコラ哲学、西洋哲学という物の考え方に洗礼されているのが、現在のキリスト教である。

またユダヤ教も、バビロニア神話の影響を強く受けているので、そこから出たキリスト教も、やはりこの影響も強く受けている。

こうして形成されてきたキリスト教の基盤の上に、ヨーロッパ文化が醸造されてきたといえる。

それは、是非をはっきりさせて、善を擁護し悪を徹底的に裁く。中途半端で曖昧なものは認めない。極端な博愛主義か虚無主義か、しからずんば権力と欲望を満たさんがための闘争のいずれかの道をいく、というものである。

一般にはこの方がわかり易く弘まり易いという長所もあるが、「間」とか「あや」とかの、是非善悪以前の世界の存在がなく、全体として息苦しい文化、はっきりとして精ではあるが、虚虚玄玄たる情緒の奥の深まりの乏しい文化となっている。

たとえば、是非で割り切った方が全体として善のときと、そうでないときがある。実例を上げると、安楽死の問題がある。

法律的には非でも、どう考えても道義的に是という場合もある。

また、暴力は悪だとされているが、兄弟ゲンカ、友達同士のけんか、わがままな女をだまらせる愛の一撃、禅の師弟の教育など、雨降って地固まるの譬え通り、結果として、それが善に転ずる状況も数多くあるのである。

また、中途半端で曖昧な態度が悪いとは限らない。恋をした人の行動は皆、一様にそうであり、味も、色彩も、音も、はっきりしているところに風情と芸術があるという訳ではない。

むしろ、逆の方が自然であり、芸術的であることの方が多い。また、日本文化には「阿弥」という生き方が有る。「世阿弥、観阿弥、能阿弥、左阿弥」などというときの「阿弥」である。

これは、俗人と出家者との中間的な人生を送る人のことを言う。

この言葉の由来はこうだ。「南無阿弥陀仏」という言葉があるが、「南無」は帰依するという意味だから俗人を表す。

「陀仏」は仏様という意味だから「出家」を表す。そして、その中間に位置するのが「阿弥」というわけである。「阿弥」は、俗を離れているわけではないが、能楽や茶道などに生涯を打ち込み、その道のために生活を律した人生を送っているという意味で、俗人ではないわけである。

ところで、ヨーロッパにおいては、シスターか神父さんのように、極端な禁欲生活を送る人か、王様や貴族や芸術家達のように権力と色恋と自堕落な日々を送る人かのいずれかであるのに対し、日本には、このいずれでもないが、すばらしい求道者としての生き方をする「阿弥」がいたのである。

この「阿弥」によってこそ、日本の伝統芸術が出来上がったと言っても過言ではない。それは、能や茶や書や絵画の芸術を通して、禅的な悟りを得たり、自己の人間性や魂を磨き完成させようとする、きわめて宗教的な意義を持つものであった。

日本の芸術には、「華道」、「茶道」、「書道」、能は「芸道」と表すというふうに、「道」 という言葉がつくのが普通である。

武術でも、「剣道」、「柔道」、「弓道」、「合気道」というふうに「道」という言葉がつく。ここで言う「道」とは禅で言うところの「見性」(霊覚の悟りを開く)に至るまでのプロセスを経て、芸を通して芸を離れ、道をめざして道を離れ、ついに主一無適の人間としての最高の神性を発揮するまでをめざすという意味である。

次元を下げて、もっと簡単に言い換えるならば、心を練り、それを鍛え、魂を向上させて、天地自然の大道に帰一するまで、本来の自己の霊性を全人格的に高めるという日々を、精一に送るというプロセスのことである。

この説明によって、禅的、道教的、儒教的な「道」という概念が全て物語られていると思う。

これらは皆、「阿弥」が日々にめざし、あゆみ来たった「道」というものなのであった。

善と悪、是非は知性や倫理の部分であり、「間」と「呼吸」は、心を静と動や、進や退に調整する「中」の空間である。知性に心の「間」があって、はじめて叱るべき時と放任すべき時の調整ができ、善と悪、是非も、大善のために臨機応変の使いこなしができるのである。

これがあってはじめて、悪によって善を導き、非によって是を促すという、複雑な行政手腕や自在性が発揮されるのである。観世音菩薩とは、これらの上にいませる仏様なのである。

このような日本人の伝統的な気質は、元論に帰結して多元を使いこなせる禅的素養であると言えるが、それらがなじんで定着したのは、すべて歴史と風土と日本神霊界の神様のご性格からきているといえるのだ。

ところで、話は変わるが霊界にもギャングみたいな悪霊がいる。だが、そういう霊が人間に取りついて悪さをしても、神様は、即良し悪しを判断して裁いたりはしない。

悪い霊を見たら悲しみ、何とかよくしてやりたいと思うのだ。日本の神様とはある程度までは、辛抱強くて人が良すぎるようなご性格だと思えばよい。

善も悪もすべてこれ神のうち

ところで、読者の皆様もそうだと思うが、私も、昔からなぜ神様はこのように悪というものを地上からなくさないのか。なぜ悪はあるのか。

悪とはそもそも何なのか。などと真剣に考えていたが、なかなか解答が得られなかった。そして、「老子」や「易経」と巡り会い、これを学ぶことによってはじめて神霊界の生成発展の理を知って、すべてが氷解したのである。

悪とは善に相対するものであり、陰と陽の関係であること。ゆえに絶対の善も絶対の悪もなく、ひとつの事柄は、ある面で見れば善であるが、ある面で見れば悪になり、その逆もまたあり得るということ。

だから、絶対者の絶対次元を信仰して、柔軟に善悪は考えて、自分の知覚する最善の善を謙虚になすしかないこと。そして、もし腹が立ってすべての悪をなくそうとするならば、善をなくすしかないこと。

それは、「老子」の「長があるから短があり、強があるから弱があり、美があるから醜があり・・・・・・」でもわかる。そもそも、陰と陽とは太極の用であり、姿である。陰陽はなく、陽なき陰はないのであって、それらはすべて主神である太極の動く時の二面であるのだ。こういうことを痛烈に悟ったのである。

たとえば、生が腸で死が陰、生が善で死が悪とすれば、人間は善ばかりであるべきだ、と神様に嘯いていた私は、人間は死ななくて生のみあるべきだと、頑固に神様に願っていたようなものだった。善悪を超えたところに主神があり、宇宙の主神が一たび動けば、必ず善と悪になるということなのである。

「善も悪もすべてこれ神のうち」ということを深く悟り知って、はじめて悪に対する慈しみも湧き、善であることに対する、小さな誇りの心もぬぐうことができた。善悪の形を取る以前の主神に、自分の霊体を安居させることができるという境地を、禅では「本来無一物。無一物中、無尽蔵」と言ったりもする。

分別、善悪を超えて、すべてを大善に生かすことができるという、内的覚醒のレベルを表す言葉である。

善と悪に対する詳細については、拙著「大天運」(たちばな出版刊)を参考にされたい。

万物創造の主神が、なぜ悪霊をそのままにさせる自由をお与えになっているかといえば、善霊の進歩発展のためなのである。

なるほど、霊界では、善霊は善霊たちのみが集まり、悪霊は悪霊のみが集まる。

だから、善霊の集まる天国はどこを見ても善霊ばかりだから、幸せの極致なのだ。

だが、善霊のみが集まって幸せな所とは、残念ながら、魂が磨かれて進歩発展することはあまりない。

人間が悪霊のウヨウヨするこの世に生まれてきたのは、すべて、この御魂の進歩発展のためなのである。だから、文句を言わず、前向きに精進、努力するしかない。

御魂が進歩向上した分だけしか神なるものを自得できず、自得した分だけしか、世のためにも神様のためにも役立つことはできないのであるからだ。

風土のエネルギーと神界が一体化している

ところで、話は変わるが日本文化の情緒の流れを見ると、万葉時代の「まこと」から始まって、平安時代の「もののあはれ」「をかし」、南北朝、室町期にかけての「幽玄の美」、また安土・桃山時代の「わび・さび」及び江戸時代の「いき」などと移り変わってきてはいるが、いずれも、簡単に説明できないほど含蓄がある情感の格調なのである。

日本人の情緒鑑賞力を構成している、歴史的に構築された因子であり、要素であるといえるだろう。

これは、前述したように神界の奥ひだが深い広がりをもっているということであり、日本人の魂が、それだけ奥深い多面的な咀しゃく要素をもっているということである。

だから、シンプルでわかり易い思考回路しかもたない欧米人からは、複雑怪奇で難解な思考と行動様式をもった民族であると思われるのだ。

日本の神界がなぜそうなのかというと、風土の持つエネルギーがそのベースとなって、宇宙のかなたにある、最奥神界のあり様を写し出しているからに他ならない。

山が多く、非常に細かいひだになっている日本の風土。その風土のエネルギーが神界と一体となって、日本人的な発想の素因が生まれてきた。

そもそも、意志と想念の世界こそが霊界である。その意志と想念の奥にある情緒のひだが深いということは、それだけ日本人の内面的神界が奥深いということであり、その国土にオーバーラップしている日本国の神霊界の奥が、深く緻密に構成されているということになるのである。

これも前述した通りである。だが、和辻哲郎は「風土」という名著の中で、日本文化の特徴はこのモンスーン気候にありと明言している。

また、ある人は食べ物の相違がそうさせていると言い、大陸との交渉史がそうさせているという人もいる。しかし、私の立場は、このいずれでもない。

まず、主神があり、その創造の思いがあるから神霊と神霊界が形成される。そして、その神霊界があるから大金神、龍王などの巨大なる大地のご霊体が発動し、火山や地震などによってそれに適応する国造り、すなわち国土地理、自然風土の形成がなされたのである。

決して、国土があって神霊界が出来上がり、神々をお祀りしたものではない。それは今日の歴史的、学術的な立場である。

神霊書ともいえる「古事記」の神生み国生みの神事の段を見ても、神生みが先であり、伊邪那岐、伊邪那美二神による国生みはその後になっている。

また、この二神による国生みの結果できた国土は、全て「またの名を○○○別之神と言う」というふうに、全て神の名の別名をもっている。

これが国魂というものであり、国土そのものが神なる働きをもつことを物語っているのである。

象徴的に出されているこの物語は、そういうふうに霊的な目で解することもできる。これが、「古事記」の神霊書としての見方の一例というものだ。

これで、神霊界とは風土の神霊域のことであり、それを日本霊学の中興の祖といわれ本田親徳が、「風土そのものこそが産土神の大御働き」といわれた理由も、よくおわかりになることと思う。

こういう訳で、神道とは何かと問われたら、歴史的な数々の神道家達の定義に対して、私は「主神の経綸によって造られた風土に、主命あって生きているご神霊と、そのエネルギーと心と知恵とを合体させて、共に生生化育進歩発展の和道を天皇と共に歩み、主神の大御心を人間社会の上に実現させんとする日本人の霊的本能の発露である」と、定義したほうがわかりやすいと思う。

前述した「天皇」という役割に加え、神道というものの最も大切な要素だと思う。

先天的風土に根ざした神霊エネルギーや、その霊妙さそのものをいうのであるから、理屈を超えているものだ。理屈を超えているからこそ、老荘思想が根ざし、禅宗が根ざし、浄土宗が根ざし、儒教が根ざし、日本の伝統文化と芸術観にこれらの思想が深く浸透したのである。

こういう無形の霊的な素地のないところに、特定の外来文化のみが根ざすということは、あり得ない。

そして、政治には仏教や儒教が根ざし、ユダヤ教やキリスト教も通過儀礼や神祭式、茶道作法などに若干取り入れられて根ざしている。

理屈や形式を超えていると、どんな理屈でも、どんな形式でも思想でも、なじむことができるし、しかも、それを取り入れて新しいものを造り出すこともできる。

そんなエネルギーが満ちあふれているので、どんな外来のものに接しても、「なにかプラスになってよさそうだ」ということで、日本文化の中に包含できるのである。

これが、「惟神の道」のメリットだ。

この箇所に特色を置かなければ、日本文化の中枢に根ざす根幹としての神道を、どうしても説明しきれない。

これらの上に、禅の無相無門の大法と道教の無為自然の清徳霊妙なる味わいが、世界2727 よく溶けこみ、なじんでいる文化と風土そのもの、そしてその風土における無形と神意、霊意のエネルギーの発露こそが「惟神の道」に他ならないのである。

単なる中国文化の輸入だというのなら、最も隣接している韓国では、キリスト教の方がよくなじんでいるし、儒教も漢時代の形骸化したものが定着している。

日本では、同隣国でも、宋の時代の儒教、すなわち「形よりもその奥にある、無形の本質を体得しよう」という、宋学の方が強く根ざしている。

宋学と神道との結びつきの歴史については、いずれ別の出版機会に詳説したいと思っているので、ここでは省く。

では、なぜ、そういうところが韓国や中国と比べて、日本文化や日本の宗教史の中に根ざしたり、なじんだりするのか。

それは、日本という国の体質に合うからである。体質とはなにか。風土と地理的条件、及びそこに奔流として流れ出ている無形の神気、妙気と、神霊界の意志と波動に育まれ日本人の霊性なのである。

ところで、最奥神界の意志と波動は神霊磁場を形成して、それが日本神霊界というものを醸造するのであるが、それは、神霊域プラス神々と仏と人々の霊体の大活躍の舞台を形成していると思ってよい。

これらが総合して、私達に無形の感化力を与え続けているのである。

だから、私は本当の日本人というものの定義を、本当の日本人としての霊性をもつ人であるとするならば、代々の血統であるとするよりも、むしろ「日本国籍をもって、この日本風土に寝て、起きて、暮らして、三代たった人類」のこととするべきだと思う。

応用篇 開運祈願テクニック

成就度満点の神社和歌
神様との感応力をアップするために、私が神霊界におられる著名歌人やご祭神と霊的交流を行い、成就度満点の神社和歌を詠んだ。

神社の名前の文字から始まるこれらの歌を、各神社の前であなたのお願いの前に唱和しよう!

日本古来の五七調のリズムと言霊が、あなたの魂を呼び鳴らし、さらに神様の御心をも和らげてくれるはずである。

そして、神様の方から相好をくずしてあなたのお願いをきいてくださるだろう。頼んだこと以上のことも、かなえてくださるだろう。そこが、成就度満点の所以である。そうでなければ、開運祈願とは言えないのだ。


【伊勢神宮】
い…つの世も父祖の築きし
敷島の国を新たに
振り興す神

せ…せせらぎのさらさら流れる水音の

心にしみて朝詣でする

の…ちの世は波雲風も荒れ立たむただひた拝む国安かれと

か…みの住む伊勢の山なみ澄み渡り間近に見上げる人を禊ぐなり

み…垣内入りて進めばあらたなる
心かえりて神触り来たる


【箱根神社】
は…るくれば箱根はつつじの花盛りて芦の湖水に富士そそり立つ

こ…ころより願う人には難を越え
道明らめて勝たす神なり

ね…ん願のことも正しき心もて励まざりせば神はか



【出雲大社】
い…り船に出雲の神は皆和して雄々しく勇み国造りせり

ず…い(瑞)緑の山ほのぼのと温かき
姿に出雲の神おわします

も…ちたきは豊栄昇る朝日子の
如くに輝く日本雄ごころ

か…さね来し苦労に恵みを与うなり耐えたるを好く出雲の神々

み…をかがめ慎しみ深く
祈りたり日はさし来たるしめ縄の先


【諏訪明神】
す…みわたる神の社に詣でたり強きみちから拳に来たる

わ…だかまる迷いの雲は払われて魂わきたす風の吹くなり

みょう…力の神は諏訪なりさしのぼる朝日の如き御稜威とらさん

じん…力の及ばぬときに詣で来よ 諏訪は取らさん神のたじから



【三輪明神】
み…ず草も時を過ぎれば
枯るるなり人の恋路も速やかぞよし

わ…だかまる心わきくる災いの雲払いゆけおじけが魔なり

の…み歌う和気こそ神の好くものぞくずれて狂の醜態なすなか

みょ…うれいの善き人たらむ装いの
清しき雲に神は訪問う。

じん…りょく(人力)の限りを尽せ人を励む
誠は輝き神を動かす

た…のもしき男性の勇みに
妹背みち
かなわぬこてなし
神もたちくる

い…も背道われの思いをありのままに
知らせよまことであれば遂げらる

しゃ…くおきて怒れるときにめ忘るるな
神馥郁と宿る身たるを

か…かみぞ知る人の心のすみにある。
慶ぶ悲しむはかなむ思い

な…かなか思いかなわぬ御世なれど
祈り進めば神助けあり


【住吉大社】
す… みわたる心で暮らせ人えらび
住吉の神は福渡すなり

み… に降れる災い払う神の刀
汝が言の葉の誠なりけり

よ… 人も悪しざまの人も魂返し
蘇らせる住吉の息吹

し… ら雲のたなびく山を仰ぎ見る
人よ登れば力わきいず

の… みうたえ神は勇みてふるい立つ
人の祭りの太鼓を喜ぶ

か… さねつる日々のまことに神来たり
知恵徳めぐみを人に渡せり

み… を尽し心尽して住吉を
拝めば軒に七福並ぶ

おわりに

この本『神社で奇跡の開運」は、私の著作の中でも、最も苦労して仕上げた本である。製作日数は、三年以上になった。

最初に「奇跡の開運」として学研から出した時、小山編集長の情熱と寛大なるご理解がなければ、到底完成させることはできなかったであろう。

本当に、心から感謝を申し上げる次第である。つまり、それだけ正神界の様子を伝えようとすると、邪神界の妨害と邪魔があったということである。

霊的現実的なあらゆる困難を乗り越えて完成しただけに、私の満足はことのほか大きい。それでも、私が知り得た神界の事柄のうち、万分の一も伝えられていないのだ。

文字や言葉による表現では、しょせん限界があるのである。

にもかかわらず、私は現代の人々に、この日本という国の国柄とその源に息づく惟神の道を伝え、仏教や道教や儒教や西洋文明が輸入されても、その生命は失われず、かえってそれらに新鮮な力を与え、立派に共存しているこの事実と神意を伝えねばならない。

その融和のあり方が、将来、世界の国々が帰結する大方針となるからである。この主神の大悲願にお応えするた

めにワールドメイトという会を作り、惟神の道に基づく神人合一の道を実践研修し、将来の日本を担う若人の育成と社会に有為なる布施行や福祉活動を行っているのである。

また、限りある文字表現を限りなきまで振い、今後の出版活動にも至誠を傾けたいと思っている。読者諸氏の、益々のご支援を希うものである。

著者 深見東州