神霊界(Vol.2)

序章 人生の本義を悟っていただくために

反響の大きさに驚く日々・・・・・・

光陰矢の如し”のたとえどおり、「神界からの神通力」(たちばな出版刊)を著してから、早くも一年近くの月日が流れようとしている。

今日に至るまでの間に、高級神霊から直接教えていただいた神霊世界の真実、あるいはまた、わが師、植松愛子先生から教えていただいた天界の仕組と人としての誠の道、そして、自ら仕事をもち、人を育てる苦労のなかで悟り得た神人合一の道、これらの一端でもご紹介できたらと願って、「神界からの神通力』を著したのであるが、出版後、たくさんの方々から尊いご意見、ご質問を賜わり、改めて反響の大きさに驚いている次第である。

「神界からの神通力」に引き続いて、十代、二十代の方にもわかりやすく、また、あまりに宗教好きではない方にも神霊界の真実を知っていただき、幸福への道標となればと願い、ユーモアを基調にした「強運」(たちばな出版刊)を出版したこともあってか、読者のみなさまからの問い合わせが引きも切らず、今もって、私の連絡場所の電話は朝早くから夜遅くまで鳴りっぱなしである。

曰く「家の因縁が深くて困っています。原因は何なのでしょうか」「除霊をしていただきたいんですけれど」「守護霊を鑑定してください」「前世を鑑定してください」「運勢をよくするため、星転換秘法をお願いします」…。

ほとんどの電話がこのような内容だが、中には「先生が書かれた本を読んで、今までどうしてもわからなかったことが、ハッキリ理解できました」「幾度読んでも感動がやみません。

もう、かれこれ二十回近く読みました」「家族全員に読ませました」「興味深く読んだ霊界ものの本はこれまでもたくさんありましたが、感動しながら読んだのは「神界からの神通力」が初めてです」「「神界からの神通力」を私の子供に残す遺書代わりにしようと思っております」…こんな感想を聞かせてくださる方も少なくない。

このような方々の声を耳にするたびに、「あまり満足できる出来ではなかったけれど、出版して本当によかった」と、一人感慨を深くする。多くの人々が神霊世界の真実を知り、人として生きるべき誠の道に目覚める。

これに勝る喜びはない。神々の願いも、さぞや、我が想いと等しきものであろうと思う次第である。

しかし、そうそう喜んでばかりもいられない。世の中には、全く考えられないようなことをしている霊能者、宗教主宰者が決して少なくないということを「神界からの神通力」を出版したことによって、図らずも知らされたからである。

師に性的行為を強いられた女性

先日も、こんな女性が私のところに来た。年のころは二十代半ば。外見上は、普通の女性と何ら異なるところはないが、かなりの霊能力を身につけていることがうかがわれた。

「神界からの神通力」を読んで、先生なら私の悩みをわかってもらえると思って、うかがったんですけど、実は・・・・・・」と、次のような話を語り始めた。

――彼女は、十代のときは少年刑務所に入るほどのすさんだ生活を送っていたが、二十歳を過ぎるころになって、いつまでもこんな生活をしていてはいけない、何か、社会の役に立つような有意義なことをしなければと、人生に目覚めたという。

だが、いったい何をやったらいいのかわからない。そこで考えついたのが、神仏に仕える道だった。幸か不幸か、彼女は小さいころから人一倍霊感が鋭かったので、それを活かそうと考えたのである。

そうして行った先が、密教系の某霊能者のところ。この霊能者はテレビ、雑誌などにひんぱんに出ており、地元東海地方はもとより全国的に名の知れた、いわゆる売れっ子霊能者の一人である。

ところが、この男はたいへんな食わせ者だった。門下に集まる男性たちには、奉仕と称して自分のための無報酬労働を強制し、女性たちには、なんと性的行為を強いるのだ。

「私の霊能をお前に伝授したいが、それには、私と関係を結ぶのが一番の近道だ」と言っては、次々と女性たちに手をつけるのだとか。

そして、これを拒絶する者は即、破門というのだから、呆れ果ててものが言えない。可哀そうなことに、彼女もこの霊能者の好餌とされてしまったのである。

話はこれだけではない。さらに整然とさせられる話が、彼女の口をついて出てきたのである。

すなわち、関係を結んだあと彼女は、彼のもとに相談に来る男性たちとも関係を結ぶよう、強要されたというのだ。

彼女に対しては、
「この男性は色情因縁が深い。お前が関係を結んでやれば、色情因縁は精算される。それに、お前にとっても、そうすることで功徳を積むことになるのだ」

と言っておいて、相手の男性からは、因縁払いという名目で何百万というお金を取っていたということである。

肉体関係を結べば色情因縁が精算される全くもってでたらめな話というほかない。しかし、そのような世界にいったん入り込んでしまうと、それが真実のことに聞こえてしまうのであろう。

彼女は疑問らしい疑問を感じることもなく、数年の間、この霊能者を師と仰いで言うがままに仕え、さらには七百万円にものぼる大金を家から引き出して献納した。文字どおり、身も心も全て捧げたわけである。

だが、やはり神仏は見捨てなかった。その師に対する疑問が積み重なり、彼女は自殺未遂までおかした結果、実家に帰らざるを得なかったのである。彼女の御魂の叫び、尊い守護霊たちの加護は、このようにして彼女を救い、虎口を逃れさせたのである。

そうこうしている折、「神界からの神通力」を読んで、初めて自分の魂が救われる糸口をつかんだ思いがしたのである。そして、
「先生、どうしたらいいのでしょう」と、私のところへ相談に来たのである。

また、彼女は、やるせない魂の叫びをかかげたまま、数十人の霊能者をたずね歩いたと聞く。

ところが、空手三段の彼女の持つ迫力やすさまじい兇党霊団の勢力、また、彼女自身がすぐれた霊能者でもあった気配をキャッチしてか、本も出版し霊能を世に謳われたはずの霊能者先生が、誰一人として会ってくれなかったという。

彼女の心は、いっそう悲しみと絶望に襲われてさまよっていたのである。

「今度もまた、どうせ会ってくれやしないだろうが……」

そういう気持ちで来られたのである。

実際、私も当初会うのをやめようかと思ったくらいである。

量、数、質、すさまじさ常人の十数倍はあろう。さらに寝不足で、二時間も寝ていなかったときである。守護霊の一人も「やめておけ、死ぬ思いをするぞ」と言っていたぐらいである。

しかし、二~三十分道をうろうろしながら決心して、私はこう言った。「神様。守護霊の皆様。

深見東州、日本男児と生まれ、ここでおめおめ引き下がれるものではありません。寝不足で貧血気味だからというのは言訳です。今、この機を逃したら、まだ顔も見ず、待っている女性としか聞いていませんが、おそらく、永遠に彼女の御魂は救われないでしょう。

私は、いつでも死ぬ覚悟です。あの道元禅師の日本の師、明全禅師が〝たとえ宋の国へ行く途中に嵐に出会い、船が沈んで死ぬことがあろうとも、真実の仏道を求める途上での死だ。

これは仏者としての誇りであり、我が本望とするところでもある”と断言されたように、私は行きます。

あなたも全智全能の神であるなら、地球を動かし、海をまっぷたつに割るだけの神力をさずけ拾いて、今日は、この女性を救い給え。わずか八千人ぐらいの怨念霊と黒龍黒蛇二百匹ぐらいではありませんか。

大宇宙からみれば、もくず同然でありましょう。まずは“必殺黒龍返しの秘伝”からやりますか」

このように、意を決して会ったというエピソードがあったのである。これも、つまらぬ霊能を頼りとせず、勇と誠で立ち向かえ、という神試しであったのであろう。

会った瞬間、こちらの気迫勝ち。おだやかで、スムーズで、普段より楽で、いとも簡単に除霊ができた次第である。

金毛九尾の狐霊が御魂を占領する

ところで、霊能者に性的関係を強要されたという彼女の話、にわかには信じ難い話ではある。が、彼女の口調、態度から推して、決してウソを言っているとは思えない。

おそらく、先の霊能者は、弘法大師が唐から持ち帰った不空訳『般若理趣釈」の中に説かれている清浄句を根拠に、男女の淫らな行為を強要しているのだと思うが、これはとんでもない曲解である。理趣経をご存じない方も多いと思うので、これについて少しご説明しよう。

これは簡単にいえば、男女の性的行為は清浄なりとするのであるが、これは本来、人間の欲望や煩悩に対する絶対的な否定の精神があって、しかる後にそれらを絶対肯定し、生命の讃歌を行うという、色即是空、空即是色の玄境をいうのである。

決して、立川流真言一派の是認する如き、性的行為そのものに菩薩の悟りの世界があるという狭義、浅義、字義的なものではない。

それゆえ、弘法大師は、伝教大師最澄がこの経の借受を依頼したとき、「文字や言葉ではない。体得しなければ経の奥義に達することはできない」と言って、拒絶したのである。

今日の真言密教の一番大切なお経であると同時に、一番真に入り難い経である。永遠の到達点であるともいえる。

日々読誦し、体よりも内奥の御魂に言って聞かせるのが経のもつ使命であり、行における第一の役割であるといえよう。

ところが、霊能者の中には、実際にある程度の修行を積んでこの経を知り、一心に神仏に拝みながら性的行為を行うことによって、突如霊能が開けたとする人がいる。

しかし、百人中百人まで、この経に内包されている玄義にほど遠く、知・霊・気・行・義・誠・愛・覚・妙玄境に、大師の本旨にかない得る人はいない。出家得度をして徹底修行し、寺をもって夫婦として道義を調え、精励に行・誠・覚を積んで、大師本覚の妙域に挑むべきであろう。

霊能を職とする人、霊能修行のみの人、学究的に単純に文字面だけを見る人は、百パーセント本当ではないとしなければ、この経を持ち出す霊能者にだまされるのである。

しかし、それで霊能が開けたと体験するのはなぜか。

それは、開けたと称する霊能の種類をみればわかる。また、それ以後、その人がとる行動をみれば、霊能の正邪が審神できるはずである。

たいていは、霊視か霊聴か霊言などの感性が開け、敏感になるぐらいである。

もっと厳密に「神霊審神学」からいえば、「金毛九尾の狐霊」が、性行為を通じることによって御魂を占領しているのであり、霊能をさずけているのである。

そして、さも深玄微妙な仏教の究極の奥義を悟り得たかのように思わせているのである。だがしかし、これは本当の正神界の神霊能力では決してない。

人を真に幸せにする菩薩の覚りは、決して霊能力などではない。純一無雑にして、清虚坦々たる愛であり、誠であり、言霊であって、それに伴って働かれる御神霊が、真に功徳をさずけられるのである。

これが真の救いであり、六大神通力の最高位である「漏尽通力」なのである。

この「漏尽通力」の詳説については、前著「神界からの神通力」を参照されたい。

“大楽三昧”を謳った釈尊は出家後不犯だった

ところで性交渉を行って大楽三昧の境地を体得しなければ、絶対に即身成仏はできないのか、という問題がある。

この境地境涯と性的快楽は、よく左道仏教や神仙道などが、声を大にして言うところである。

私の答えは、媒介としてそれを行う場合もあるが、大いに危険であり、それによって真を得ている場合はほとんど皆無であるということだ。

逆に、煩悩を虚脱して妄念妄想肉感を超え、神霊感応による〝大楽三昧”を体験している場合のほうが正当であり、数も多い。

あの釈尊が、女を遠ざけ、俗を脱し、妄想と肉感にうち勝って、「天上天下唯我独尊」と、その大楽三昧〟の境地を謳っているのが好例である。

釈尊は、性交渉を行って、あの絶対歓喜清浄和楽の三味境を会得したわけではない。

確かに、老子は、虚俗脱肉を通し、仙悟冥得によって「玄牝の門」として、女性の妙義を真解しているが、決して、常人の到達すべき妙境ではない。

それを行うには、現世の俗界修行を諦め、別の使命に立った神仙の道にある人でなければならない。

それは、はっきりいって、この日本神界にある我々のたどるべき道ではない。後述の呂祖神人は、老子以後、それを真になし得て、仙人ではなく、神仙における第一位の神使たり得た方である。

ところが、このように本当の正神界の神仙となり得た人は、中国六千年の歴史をみても、百五十人にも満たない数である。一般の神仙道の本に書かれてあるような、単純なものでは断固あり得ないのである。

それよりも、我が国における高名な神仙である役小角は、一生涯独身であり不況であった。霊智抜群、至粋大誠の人上杉謙信公も、一生涯独身であり不犯であった。

伝教大師最澄も、禅師の大先達も、皆、一生涯独身であり不犯であったのである。

これら、釈尊をはじめとする大聖の人々は、決して性交渉によって悟りを開いたわけではなく、即身成仏したわけではなかったことが、おわかりいただけるはずである。

皆、大願、聖願があって「不犯」を戒めとしてもち、見事に成道された方々ばかりなのである。後述する道院世界紅卍字会における扶拈(神示受託の聖壇)を行う”纂方”にも、一生独身不犯の生活を送らねばならないという、老祖(主宰神である北極青玄宮の大神霊)の戒めがあるのをみても明らかである。

これで、道の真諦や玄境は、決して、左道仏教や神仙道信奉者の言う如き、性交渉における大楽三昧にあるのではないことを理解していただけたと思う。

蛇と狐が情感を高め歓喜をそそる

また、これを神霊審神学よりみてみれば、この”大楽三昧〟がクセ者なのである。気持ちがいい心地がいい、快楽だ、歓喜だと感じさせる霊的存在がいることを審神できていないのである。

これは、「情欲化身の蛇」か「白蛇」、龍神退化の「蛇龍」か「ヨガ蛇」が主であり、前述の「金毛九尾の狐霊」も強烈に情欲性欲をそそることも忘れてはならない。

通常は、蛇と狐が合体して異常なぐらいに情感を高め、歓喜をそそっているのである。

これが、一般的な霊能者、術者、道士たちが味わう〝大楽三昧”の正体である。決し感覚や法悦にだまされてはいけない。

これを前に出して行為をすすめ、よしんば少しばかり歓喜があっても、決してそれは正神界本来のものではなく、正しい神霊能力家のすべきことではないことを知っていただきたい。

こういえば、読者の中には、「それでは、セックスは恐ろしくてできないではないか。欲求不満が鬱積して、発狂しそうになるではないか」と思われるかもしれない。

全くそのとおりであろう。セックスは、本来神様が子孫繁栄のためにお与えになった重要な本能である。また、男女の心の愛と御魂の切なる衝動があって、肉体がそれに伴い、しかして交わるときが「正」なのである。

このときは、霊、体が一致して愛が高まり、神仏もこれを見て喜んでおられる。

これに対して肉欲にふけり、耽溺し過ぎたり、

「霊能を得る目的で……」

「絶対境を味わう目的で……」

というよこしまな発想や思いから為したときが「邪」なのである。内相が邪であるから、邪神や邪霊に感応し、とりつかれるのである。

だから、読者の方々は、霊能や境地に結びつけた思いから発する”邪悪有心”のセックスに気をつけさえすればよいのである。

男女が互いに敬愛して、ごく普通にセックスをする分には、何の問題も生じない。それどころか、神様は大いに善しとされるのである。それが自然であり、正神界に感応する正しいセックスのあり方なのだ。

ところが、セックスを金で売り買いしたり、心が伴わない肉欲だけであったり、邪悪有心の目的でセックスを利用したりするとき、想念界にゆがみが生じ、邪神界に感応したり、魔界、地獄界、動物霊界に感応したりして道をはずすのである。

内外に充つる本当の愛以外に、絶対に正神界に感応するものではないことを、くどいくらいにここで確認しておきたい。

人生の本義を悟っていただくために・・・・・・

肝心なことは、ちょっと霊能を見せられたり、ちょっと神秘的なことを見せられた程度で、即座に感心したり、傾倒するなどということは、厳に慎むべきなのである。

皆、しっかりとした正邪の基準を持つことが大切であるといえよう。

かくいう私も、霊能力があるということで、尊敬のまなざしで見られることがよくある。除霊をしてさしあげたり、守護霊、守護神、そして前世を鑑定してさしあげると、それだけで、私がたいそう立派な人間に見えるのであろう。

「すばらしい。先生は本当にすばらしい」と、目を輝かせる方も少なくない。

こんなときが、霊能者にとって最も危ないのである。誰だって尊敬されれば気分はいいし、先生、先生と呼ばれて機嫌が悪くなる人はまずいない。

「先生はすばらしい」

「まるで生き神様のようなお方だ」

こう言われ続けることで、知らず識らずのうちに高慢になり、いつか怪しげな霊界に足を引き込まれることにもなりかねないのである。自戒しなければならないところである。

それゆえ、霊能力があるからといって、それだけで私は尊敬されたいとは思わない。私が除霊や守護霊・守護神・前世の鑑定、あるいは運命転換秘法をしてさしあげるのは、ただ単に病気を治したり運勢を向上させるためではなく、それを契機として自分の御魂に覚醒し、人生の本義を悟っていただきたいからなのである。

それなくして、単に除霊や守護霊、守護神鑑定などをするだけだとしたら、あまりにも空しい。

どんなに驚くほどの霊能力があったとしても、それが人生の本義と関わりがなかったなら、ほとんど無意味なものとなってしまうのである。

人生の本義とは、真理を探究して、同時に善徳を積み、自らの御魂を向上させること。 いいかえれば、真・善・美を探究しながら、これを実践して御魂を向上させることといえよう。

そのために、人間は肉の宮を持って生まれてきているのである。

だからこそ、何度もいうように、霊能力にせよ超能力にせよ、人生の本義を実現させるために役立てて、初めて本来の価値が認められるわけである。いや、霊能力や超能力ばかりではない。

学問の力、人を導く力、会社を経営する能力、外交能力…。それぞれに与えられた、ありとあらゆる才能・能力は全て、人生の本義に帰結されて、初めて意義が認められるのである。

だいぶ理屈っぽく、そして堅苦しい話になってしまった。

不埒な霊能者に悲憤慷慨するあまり、前置きがだいぶ長くなってしまった。早速、私たちの霊能力に大きく関与している龍神、天狗、UFOなどについてお話しすることにしよう。

第一章 現世を跋扈する中間役の神々(龍・天狗・UFO)

主神と人間をとりもつ中間役の神々

拙著「神界からの神通力」では、狐、蛇、理についてはある程度詳しくご説明したが、龍、天狗、UFOについてはほとんど解説らしい解説をしなかった。

そこで本書においては、それらご説明できなかったものについて、詳述してみようと思う。

これからご説明するひとつひとつは、一部の霊能力者、宗教団体などに深い関係があるので、よく読んでそれらを正しく理解する上での一助にしていただきたい。

とりあえず、龍、天狗、UFOの順にご説明しようと思うが、その前に、どうしてこれらのものが存在するのかということについて、簡単にふれておこう。

龍、天狗、UFOというと、ハナからその存在を信じていない方も多いのではないかと思う。まあ、龍は、龍神という名で一部の人々に親しまれているのでそれほどでもないが、天狗、UFOとなると、

「そんなもの、本当に存在するのかいな?」と、大半の人が思うことだろう。

しかし、これらは真実存在するのである。では、なぜ存在しているのか。

もとより、宇宙森羅万象の全ては、主神が創造されたものである。もう少し厳密にいうならば、主神は神界、霊界、現実の三界を創造されたのである。

だからこそ、主神を正しく掌握するためには、この三界を偏りなくみて、「中」に居てバランスを尊重しなければならないのである。

また、この三界のありとあらゆるものを、主神が段階別に顕現して統率されているわけだが、こと現実界、つまり、私たちが肉体をもって生活しているこの三次元世界に関しては、御自ら直接統率されることなく、人間という存在を通して間接的に統率されているのである。

そして、主神が進化と創造の大元霊であるとすれば、我々人間は、その一部であると同時に、この地球上に肉の宮をもって、その御心を成就させるためにある、尊い代行者なのである。

それゆえにこそ、真に主神の意図するところを顕・幽・神の三界にわたって学び、よく神人合一して、世に善徳と智明を弘めなければならないのである。

これが、主神からみた人の使命であり、人類が創造発展の道を延べ、理想社会を世に顕現させなければならない真の意味なのである。

私が、神人合一の道を求めて弘める理由は、ここに基づいているといえよう。

ところで、極微の天界におわす主神と、この現実界とでは、あまりにも次元が異なる。 主神や高級神霊の世界は、非常に繊細な波動の世界である。

たとえていうなら、アルファー波やシータ波以上の、かすかで清涼で静かな世界。これが高級神霊の世界で、ここには叡智や芸術的な美が満ちている。

話はちょっと横道にそれるが、神霊的にみれば、釈尊の言った「涅槃寂静」は、生ま変わらなくてもよい、苦しみのない霊世界へ生まれるという狭い意味や浅い解釈でなく、極微深玄微妙の寂境と静虚活々とした高級神界に入る妙境を、悟得霊得することにあるのである。

ところで、これに対して三次元の現実界はどうかというと、そういうかすかで清涼な感覚の世界は、音楽や絵画などの芸術世界にみられるだけで、どちらかというと、宗教や神霊家の関与する世界はもっと物質的な、たとえていうなら戦争や病気、権力争い、労働、飢餓などのような、非常に波動の荒い世界がメインとなっている。

このような荒々しい波動の物質世界、現実の三次元世界に対処するには、高級神霊はあまりにも繊細すぎるので、直接統率されないのである。

否、できないのである。役行者が人里離れた所に霊山を求め、かすかな真の神霊たちと出会ったのも、本来こういう理由からなのであった。

そこで、高級神霊の代わりに、より物質次元の近くに降りてきて、私たち人間のために働く存在が必要となってくるのだが、それがほかならぬ、龍、天狗、UFO、狐、蛇なのである(狸は正神界の存在ではない)。ヨーロッパ神界のエンジェルなども、これに類するものといえよう。

それゆえ、これらはもともと神の使い、眷属であって、神と人間とをとりもつ中間役の神と呼ばれるものなのだ。

そして、これらの中間役には、たとえば蛇には病気治療と金運をもたらす役割と働きを、狐には五穀豊穣をもたらす役割と働きを、といった具合に、それぞれ役割、働き、使命が与えられているのである。

だから、蛇にしても狐にしても、もともとは正神界の神使なのであるが、人間の我欲のために、その一部が本来の使命と役割を忘れ、邪神界および人間界を横行するようになったのである。

このあたりの事情については、「神界からの神通力」第四章「動物霊論」に詳しくご説明したとおりである。

ところで、中間役の神々には、それぞれの役割、使命に応じてランクがある。

つまり、最も物資次元に近いところに蛇がおり、次いで狐、天狗、龍というランクができているわけだ(UFOは少し性質が異なるので、一概にはいえない)。

これを富士山にたとえていうなら、空気の澄みきった頂上に本当のご神霊がいらっしゃり、妙智と覚の真があるとするならば、そこから下に降りるに従って、八合目あたりに龍、七合目あたりは天狗、五合目あたりが狐、そして三合目あたりのところに蛇がいる、ということができる。

このランク・秩序に従って、これらの神使、眷属はそれぞれの役割、使命を果たしているのだが、物質次元に近くなればなるほど、現世利益に密着したかたちで、さまざまお陰を与えてくれるようになっている。

だからこそ、最も物質次元に近い蛇によって霊能の開かれた霊能者、あるいは蛇の啓示によって始まった宗教団体は、病気を治したり、失せ物を見つけたり、金運を良くしたりするのである。

ところが、これらの霊能者、宗教団体には先々を見通す能力や、国の平安と人々の幸福を願うという観念はあまりない。

もっぱら個人的な願望、悩みに応じるだけである。なぜなら、蛇はあまりにも物質次元に近いところにいるため、大局的見地や高度な悟り、また、芸術的で奥深い境涯に立てないからである。

現実界に棲息する蛇は地面を、しかも一段と低くなっている水辺や湿原をニョロニョ口這っているが、あの姿が蛇の性質の全てを物語っているといえるだろう。

もし、病気治療などの個人的願望に応じるのをもっぱらとし、大局的な見識のない霊能力者、もしくは宗教団体があったなら、その人たちは、蛇によって霊能を開かされたり、啓示を受けたと見て間違いない。

また、稲荷狐がこれに加わると、もう少し賢く教理なども巧みに作る。しかし、これらもよく調べてみると肝心のところの答えがなく、間が抜けていることが多い。

奇跡を呼び起こす龍神のもの凄いパワー

これに対して龍はどうかというと、蛇などと比べてずっと次元が高いし、力も大きい。もちろん、病気も治す。それも、ちょっとした病気を治すなどというのとはわけが違う。

死にかかっている病人を蘇らせたり、難病・奇病を瞬時に治してしまうほどの、もの凄いパワーを発揮するのだ。

それに、風を吹かせたり、雨を降らせたりもする。雷も、龍の力によることが多い。

とにかく、抜群のパワーがあるのだ。

と同時に、ものごとを大局的に見る能力を龍は持っている。

それというのも、先ほど少しふれたように、龍は、たとえていうなら富士山の八合目あたりにいるからである。

龍が地面を這っているという話はあまり聞かない。やはり、「雲蒸龍変」という言葉があるように、空高く、雲の間を悠然と飛翔するのが、龍本来の姿である。

その高き雲海から下界を見降ろしているので、龍には大局を見る能力や先々を見通す眼力があるわけだ。

それゆえ、龍によって霊能が開けた霊能者や、龍に啓示を受けて始まった宗教団体は、「日本を救え!」
とか、

「人類を救済しよう!」などと、大言するのである。

このように龍には、病気治療や天変地異などの奇跡を起こすもの凄いパワーと、大局を見る能力があるため、古来、本当の神様ではないかと人々に思われ、信仰の対象となってきた。すなわち、龍神信仰である。

これに対して、狐や蛇は信仰の対象とはなっても、龍神ほど神様扱いはされていない。

「お稲荷様」「白蛇様」と呼ばれるのがせいぜいで、「狐神様」「蛇大御神」などとはあまり呼ばれない。ひとり龍だけが「龍神」と呼ばれ、神様扱いされているのである。

それというのも、龍には、本当の神様と見まごうほどの力があるからなのだが、改めて言うまでもなく、龍はあくまでも神使、眷属であって、本当の神様では決してない。

そうしたことを知ってか知らずか、最近、一部の霊能者が、「龍神を持て!」とか、「龍神を守護霊に持てば強くなる」などといっているが、これは正神界の秩序から見るとあまり感心できない。

たしかに、龍がつけば強くなる。信じられないほどのパワーが出る。ときとして、驚異的な霊能力を与えてもらえることもある。しかし、ただそれだけのことではないか。

否、それだけのことどころか、人としての道を踏み誤りかねないのだ、龍神がつくと。なぜなら、神霊世界は秩序と立て分けが非常に厳しい世界であり、これを誤ると、自らの御魂の成長をストップさせてしまうばかりでなく、死後、狂った霊界へ行くことになるからである。

それゆえ私は、次のように言うことにしている。

「主たる神霊を忘れて、従たる神使を信仰するのは本末転倒である。どうしても龍神を信仰したいのであれば、主神を信仰して、しかるのち龍神を敬え」と。

ツノに象徴される龍神の権力欲

龍の特色をひと言で表現するならば、それはパワーである。もの凄いパワーである。天地をも動かすほどのパワーである。

龍神信仰をしたことのある方なら誰でもおわかりになると思うが、龍がつくと信じられないほどの力が全身にみなぎり、ときとして、驚異的な霊能力を発揮することもある。それほどのパワーを秘めているのだ。

だがしかし、この爆発的エネルギーを誇る龍のパワーも、当の本人がよほど錬磨されていないと、誤った方向に向かう危険性を秘めている。

その誤った方向とは何かといえば、すなわち、権力欲と恋愛欲である。

狐がついた場合は”われよし”心の金銭欲と小ざかしい奸知、ウソ、ヒステリー。

そのして蛇がついた場合にはヌメヌメした色欲と金銭欲、根性のない迷妄の人生に向かいやすいということは、「神界からの神通力」で述べたとおりだが、龍の場合は権力欲と恋愛欲。この二つが大きな落とし穴になるのだ。まずは、権力欲からご説明しよう。

龍の頭には二本のツノが生えている。一般に、ツノは権力の象徴といえるが、龍の二本のツノは、まさにこれに相当する。

あたかも、これからケンカをしようとする犬が耳をピーンと立てるように、二本のツノを屹立させ、何ごとに対しても、

「俺が、俺が」

「我こそは、我こそは」

「我が教団は、我が教団は」と、権力を求めるのが龍である。

非常に実力があって、しかも何でも自分がやらなければ気が済まない、人の上に立たなければ気が済まない、という権力志向の強い人には大方、龍か天狗がついている。かつて私が、

「何があれだけのパワーを与えているのだろうか?」と、あえて名を伏すが、ある大物政治家に興味をもち、その背後を見たことがあった。が、やはり龍だった。それも金龍だ。それで合点がいった。

「なるほど金龍か。だからこそ、あれだけの政治権力と資金を手にすることができたんだ」

金性の気が凝結した金龍は、金色に輝く龍で、パワーのみならず、お金をももたらしてくれる。それも、狐がもたらすような半端な額ではない。天下を動かすほどの巨額のお金をもたらすのである。

もちろん、本人の資質もある。いくら金龍がついても、本人にそれだけ器量がなければ権力もお金も集まらない。

逆に、本人がそれだけの器だからこそ、金龍がついたといえなくもない。だが、いくら本人に資質があっても、龍がつかなければ、驚異的な権力とか莫大な資金は望むべくもない。

それくらい、龍のパワーはケタはずれなのである。

だがしかし、いくら龍が権力とお金をもたらすからといっても、所詮、龍は龍。パワーはあっても、高度な咀嚼力と叡智がない。

ために、何ごとにも俺が俺がと、権力を求めるあまり周囲の反発を買い、結局、自分で自分の道を閉ざしてしまうのである。

これに対して、守護神、守護霊などの高級神霊は、きちんと節度をわきまえている。拙著「強運」でご説明したように、俺が俺がと、出しゃばるようなことは決してしない。

自分が退くことで、全体の調和と利益がもたらされると判断すれば、静かに身を引くのである。

ここらあたりが、高級神霊と神使、眷属との大きな相違点といえよう。

だから、たとえ龍がついていても、時と場所に応じてこれを使いこなせるだけの心の修養ができていて、守護神、守護霊などの高級神霊を尊ぶ気持ちがあれば、何ら問題はないのだ。

常に、高級神霊界に心の照準を合わせ、自分のことよりも、より公のためになることを優先する、つまり無私無欲に徹して生きていれば、驚異的な龍のパワーも正しい方向に活かされるわけだ。

だが実際には、これがたいへん難しい。抜群の実力とパワーがあるため、ついつい、俺が俺がとなりやすいのだ。よほど心の教養と修練を積んでいない限り、龍のパワーを正しく使いこなすことは難しい、といって差しつかえない。

これまで、龍のついた人をたくさん見てきたが、そのほとんどが、龍のパワーに振り回されて、守護神、守護霊などはどこかへ吹き飛んでしまっていた。まことに残念ではあるが、これが現実である。

先の大物政治家も、権力に固執するあまり、自分の首を締めているように思えてならない。もののみごとに、金龍に支配されてしまっていると言わざるを得ないのだ。

もう少し節度をわきまえていたら、人を活かし自分をも活かすことになるのだが・・・・・・。

明治以降起った宗教のほとんどは、龍が主宰神だ

さて、今度は龍のついた宗教団体を見てみることにする。

その前に、ひとつ読者諸兄にご質問してみよう。現在、宗教法人として登録している宗教団体は全国にどれくらいあるとお思いになるか?三千?全然違う。

五千?それも違う。一万?まだ違う。驚くなかれ、その数約十八万というのである。

先日、文部省に問い合わせて確認したので間違いあるまいが、それにしても十八万というのは驚異的である。

もちろんこの中には非課税というシステムに目をつけて、ただの営利団体を宗教法人化した不届き千万な宗教団体も相当含まれているだろうから、額面どおり受けとるわけにはいかない。

しかし、善意に解釈すれば、日本人は世間一般でいわれるような宗教なき民族ではなく、それどころか、たいへん宗教的な民族であるということができよう。

まあ、そんなことはどうでもいいのだが、この十八万余りの宗教団体の一部には龍が深く関与しているので、それをお話しようと思う。

「神界からの神通力』でもご説明したとおり、各宗教団体には、それぞれの役割、使命に応じて、神使、眷属が主宰神となっていることが多い。

日本の宗教に限れば、病気治療や夢のお告げなどをよくする宗教団体には蛇が、お金もうけなどの現世利益をもたらす宗教団体には狐が、といった具合である。

もちろん、そのことを信徒は誰も知らない。中には知っているケースもあるが、それは稀で、ほとんど知らない。教祖・開祖も知らない。誰もが、

「自分たちが信仰する神こそ本当の神様で最高であり、他は全て邪神か低いランクの神である」

そうでも思わなければ、信仰を持続できないのであろう。古来、宗教戦争は絶えたためしがない。

しかも、宗教戦争ほど悲惨な戦争はないと言われるように、女子供、果ては家畜までを殺すほど徹底的に殺戮し合うのが宗教戦争である。

遠くは三十年戦争、近くはイラン・イラク戦争にアイルランド紛争。

そして湾岸戦争――と、これらの戦争の根底には宗教対立がある。だからこそ、いつ果てるともなく、陰惨な殺し合いが続くのである。

まあ、戦争とまではいかなくても、何かにつけて反目し合うのが宗教者の常である。

だが、これはおかしい。本当の神様なら、愛と許しと慈悲に満ちているので、いたずらに他を排撃することなどしないはずである。否、敵のために祈るはずである。

しかるに現実は、敵する者のために涙ながらの祈りを捧げる宗教者は少ない。自らの教勢の拡大と他の排撃に、エネルギーの大半を費やしているのがほとんどである。

この一事を見ただけでも、それぞれの宗教団体の主宰神が、必ずしも本当のご神霊、高級神霊ではないことがおわかりいただけるであろう。

話が少し横道にそれた。龍の話に戻そう。

数ある宗教団体の中でも、龍が主宰神になっている宗教団体は次元が高い。蛇や狐、天狗、龍には、それぞれの役割と働きと使命があるので、一概に次元の高低が即、善し悪しの基準とはならないが、あえていうなら、この中では龍が最も次元が高い。

その理由は、先にお話したとおりである。爆発的パワーがあるだけでなく、蛇や狐に=はない先見の明と大局を見る能力をもっているのが龍であるからだ。

しかし、実際はほとんどの場合が、龍王・天狗応援、狐従、蛇属のパターンで複合的に働いているのである。

それゆえ、龍が主宰神となっている宗教団体は、病気治療やお金もうけなどの個人的な願望、相談にも応じることは応じるが、それより、

「世を救い、立て直そう!」とか、

「人類を救済しよう」などと、より広い視野に立ったことを教義としたり、説教したりするのである。

ハッキリ言おう。日蓮宗系全般や明治以降起こった大きな宗教は、ほとんど龍が主宰しているのである。

教派神道系でいえば、如来、金光、天理、黒住、大本これらの主宰神は全て龍である。高度な霊眼が開けた方ならおわかりになると思うが、これらの教団は全て、龍がそれぞれの教祖に降って起こした宗教なのだ。

「我は、○○の命なり」

「我は、○○の神なり」開場などといってはいるが、本当は龍が取り次ぎを行い、時折、菩薩、如来、権現などの仏界に降りた次元の神霊が現われたり、産土神霊、すなわち神社神道における五次元・権現神が現われたりしている。決して、神霊がいないわけではない。複合的同居であって、その主たる働きがどこにあるかだけなのである。

ただしかし、封建時代の最後に現われた、大本教の出口王仁三郎だけは違っている。彼自身は、全ての龍神、天狗、稲荷、白蛇を自由自在に使いこなし、極微の天界も神霊界の全ても知悉していたのである。

しかし、大本教がその時代になさねばならない役割、龍神時代の締めくくりの役、地ならしの役などをあえて全うし、一厘の神仕組として後事に託したのである。

全ての面で、私より数段偉大であり、スケールの大きな万能の神人であった。

しかし、親鸞上人や聖徳太子、伝教大師などのひたむきさを愛し、彼を忌避し、日蓮上人を嫌味に感じ、弘法大師をズルイと思う人々もいる。

それは、やはり、龍神を主として使い、天狗や稲荷や白蛇を使いこなして発揮した神通力から、副作用的に出てきた強烈な個性に対する、人々の素朴な印象なのであろう。

だが、この神通力の奥から発散される大眷属パワーに負けないだけの至誠と、至粋至純の大慈悲心、そして時代の任に応える不撓不屈の精神力と大精進の力徳があったこと、決して我々は忘れてはならない。

本当に偉大な先師たちであったのである。

ところで、「神界からの神通力」第一章「六大神通力の正体」で詳しくご説明したとおり、本当のご神霊はハッキリした言語で啓示をお与えになることはない。

かすかで清涼で、聞こえるとも聞こえないともいえない、本当にかすかに教えてくださるのである。それゆえ、

「我こそは○○の神である!」などと、さも威厳ありげに啓示を与えることなど決してないのだ。これはほとんど邪霊や低級動物霊の仕業である。

もちろん、先にあげた宗教はこのようなものではなく、全て正神界の正しい神の眷属である龍が起こしたものである。

だからこそ、あれだけの発展を遂げ、日本の国に多大な貢献をなし得たのである。

「それでは、正しくない龍とは如何なるものであろうか。

それには大きく分けて三つある。人霊化身の龍は論外である。

まず第一は、はぐれ龍神である。正神界の眷属であったものが、はぐれて独自の一派を形成しているものである。

次に、最も恐ろしい自然霊の龍神。最後に、大蛇が龍化している蛇龍といわれるものである。

これらは、正神界の正しい眷属ではない龍の代表である。詳細については、次回の出版に委ねたい。

ところで、このようなことを書いていると、非難ごうごう、関係者の方々から石でも飛んできそうな気がするが、私がここで言いたいのは、龍だからいいとか悪いということではなく、宗教団体にしても何にしても、それぞれの時代に必要だから、天界の仕組みに従って主神が降ろされる、ということなのだ。

釈尊がいわれたように、この世は諸行無常である。常なるものは一つとしてなく、全生育発展しているのである。

自然も宇宙も霊界も、そして人間社会も科学技術も、全て一時たりとも停滞することなく、絶えず発展を遂げている。これが、宇宙森羅万象の実相である。

宗教も同様である。そのときどきに必要な宗教を、必要な形態をもって主神は降ろされるのである。

たとえば、江戸末期から明治にかけての、あの動乱の時代に主神御自ら降りてこられたらどうであったろうか。

人々は、戦争と飢えと病気で苦しんでいるのである。そこへ、非常に繊細にして清涼、かつ芸術的で精神的な宗教を降ろされても、現実的かつ物質的な苦しみからの解放を願う人々を救うことはできなかったに違いない。

いってみれば、主神や高級神霊が直接現われるには時期尚早、地の準備が整っていなかったのである。それゆえ、より物質次元に近くて爆発的パワーを誇る龍を中間役として遣わし、衆生を救おうとされたわけである。

そして、これらの宗教は主神の期待にみごとに応え、衆生をある程度苦しみから解放した。その限りでは、どんなに高く評価しても評価しきれないものがある。

とんど旅だがしかし、これらの宗教団体も、知らず識らずのうちに龍の落とし穴にはまり込んでしまっているように思えてならないのだ。

こんなことは言いたくないが、あまりにも権力欲、つまり教勢拡大に走りすぎているように思えてならないのである。

もちろん、全部が全部そうだとはいわない。だが、一部は明らかに龍のパワーに振り回され、本来の役割、すなわち、主神と衆生とを結びつける中間役としての役割を忘れているといわざるを得ないのである。

実践!!実践!!実践!布教!!布教!布教!爆発的パワーを誇るのが龍の特徴なのであるから、活動力があるのは当然である。

これは、蛇や狐が主宰神となって導いている宗教団体には、真似をしようにも真似できないことである。

また、活動を通じて教勢を拡大することは、決して悪いことではない。教勢を拡大して政界に影響力を持つことも悪いことではない。

だが、それだけでいいのだろうか。活動を通じて集めた信徒一人ひとりの御魂を覚醒させ、人生の本義と幸福の道に立ち帰らせてこそ、教勢拡大も初めて意義が認められるのではなかろうか。

それを忘れて、ただ信徒の数と知名度、建物の規模を誇るための教拡大であったとしたならば、本末転倒しているといわざるを得ない。

生意気な事を言うように聞こえるかもしれない。だが、私は決して批判しているのではない。本旨に立ち帰っていただきたいと願うからこそ、あえて申し上げているのである。

あまりくどくなるといけないので、最後に、私の友人のお話をご紹介して、宗教団体にまつわる龍のお話を終えることにしよう。

彼は、ある宗教団体の信徒である。親代々信仰を継いできた家の四代目である。その彼が、信仰をやめたくなった、といってきた。

なぜかと問うと、献金のことしか言わないからだという。以下、彼の語ったとおりを記す。

「私だって、まがりなりにも親代々信仰を継いできた家に生まれ育った者です。

ですから、献金の意義も理解しているつもりですし、献金することにそれほど抵抗は感じません。しかしですよ。

最近教会からいってくる額は一万円や二万円じゃないんです。何十万ですよ。

多いときは百万単位でいってくる。いってくるというのは、信徒一軒当たりいくらいくら献金せよということで、半ば強制的なんですよ。

それでも、そうして集めたお金を、難民救済などの社会に役立つことに使うなら、まだ理解もできます。

けれど、実際には何に使われると思います?神殿建設ですよ、本部や地方支部の。もう、本部や支部には立派な神殿が建っているんですよ。それなのに、新たに土地を買っては、豪勢な神殿を次々と建設するんです。

そのために、私のような末端の信徒は、献金献金で、年中追い回されていますよ。

この間なんか、近々定年退職する父に、教会長が「退職金、いくらぐらい?」ってたずねたっていうんですから、今から当てにしているんでしょう。もう、呆れてものがいえません。

おそらく、神殿をどんどん建設することで、教勢を誇示しようというんでしょうが、信仰っていったい何なのか、もうわからなくなってしまいました」

帝国主義時代、地球は黒龍でおおわれていた
龍は国家、なかんずく軍隊と関係があるので、今度はそれを簡単にお話ししよう。

これまで何度も述べてきたように、龍の特色はパワーと威厳である。これに対して軍隊は、国の力の象徴であり、他国を威嚇する手段である。

それゆえ、龍と軍隊とは非常に密接な関係にあり、軍隊の背後には龍がいることが多いのである。

肩をいから胸を張り、軍靴の音も高らかに、他を圧するように突き進む軍隊行進。うねうねと蛇行する隊列。あの威風堂々の姿は、龍の姿をそのまま写したものである。

とにかく龍は、力と威厳を象徴する存在であり、現実界でそれを最もストレートなかたちで現わしているのが軍隊なのだ。

ところで、歴史上、軍隊が歴史のおもて舞台に出てきたことが何度かある。たとえば、かつてのローマ帝国の時代。

あるいはヂンギスカンの蒙古帝国の時代。そして、七つの海を制したといわれる、十八世紀から十九世紀前半にかけての大英帝国の時代。

これらはいずれも、軍隊がおもて舞台に現れて、政治、経済、社会、そして歴史を動かしていた時代ということができる。

目を日本国内に転ずれば、源平合戦の時代、南北朝時代あるいは戦国時代などがこれに相当しよう。

さらにいうならば、鎌倉時代から江戸時代までの、いわゆる武家政治が行われた時代は全て、軍隊の時代であり、文明の醸造時代であったともいえよう。

このように、軍隊が世界の歴史のおもて舞台に登場した時代は過去何度かあるが、その最も代表的な時代はいつかといえば、十九世紀後半から二十世紀前半にかけての帝国主義の時代をおいてほかにはない。

この時代、英、仏、独、伊、米、露、日などの列強は、軍隊を前面に押し出して植民地を奪い合い、主権と領土の拡張に血道をあげ、ついには、二度にわたる世界大戦を惹き起こしたのである。

地球上の大半が戦場と化し、都市という都市、村という村が軍靴によって踏みにじられるという時代は、いまだかつてなかったことである。まさしく、軍隊の時代であったといえよう。

どうしてそのような時代に突入したのか、その原因を歴史学者たちは、あるいは経済的側面から、あるいは政治的側面から、あるいは文化・宗教的側面からさまざまに研究しているが、神霊世界から見れば、理由はいたって簡単。十九世紀後半から二十世紀前半にかけてのあの時代は、地球的規模で龍が支配する時代だったからである。

つまり、地球上の全てが龍におおわれていたからなのである。

軍隊と軍隊がぶつかり合って、どちらか一方が倒れるまで死力を尽くして戦う。それはちょうど、恐龍と恐龍がツノを突き合わせて戦っている姿を連想させる。

帝国主義の時代には、その恐龍と恐龍との戦いが、全地球上で行われたのである。

帝国主義時代が龍の時代であったことを、象徴的に現しているように見えてならない存在があるので、それをご紹介しよう。その存在とは、黒龍会と呼ばれる政治団体である。

黒龍会は、日清戦争後の、いわゆる露、独、仏による三国干渉を不当とする戦前の右翼の巨頭・内田良平らが対露主戦論を主張して結成したもので、玄洋社と並んで大正・昭和期の右翼運動の源流をなす政治団体であるといわれる。

そして、会の名称を決定するに当たっては、欧米帝国主義の侵略を、当時のロシアと朝鮮の境を流れる黒龍江で食い止めるということで黒龍会と命名した、ということである。

だが、これも考えてみると、知らず知らずのうちに霊界からの波動を受けて、命名したのではないかという気がしてならないのだ。

それというのも、黒龍は、戦争のときに現れる龍で、いわゆる軍神だからである。

この黒龍は国家規模の欲心の権化であり、また、同波動の龍体は、土性の気が凝結したもので、龍の中でも最もパワーがある。

先ほど、帝国主義の時代は地球上を龍がおおっていた時代であったと書いたが、その龍は、実は黒龍なのである。

同じく、戦いを司る存在に黒蛇や青龍というのがある。

だが、これは、黒龍と比べると数段パワーが劣り、もっと小規模な戦いのときに現れるものである。

龍の時代は去った!!!

黒龍の話が出たついでに、その他の龍についても簡単にご説明しておこう。

まずは金龍。これについては先にお話したとおりだが、一つだけ書き忘れた。それは、金龍がつくと、身体から金粉が出たり大金が集まったりするということである。

身体か金粉が出るという人は珍しくないが、これは、金龍がやっていることなのだ。

金山比古金山比売とはこの金龍のことであり、役行者が開いた金峯山の主宰神も、金山比古、金山比売となっている。

一般に、修験道の御本尊となっている蔵王権現は、釈迦牟尼仏、観世音菩薩、弥勒菩の三仏合体の仏様といわれ、”メイド・イン・ジャパン”の仏様であると、拙著「神界からの神通力」で少しふれたが、神道の次元でいえば、実は、天之御中主大神の権現相化身の姿なのである。そして、神力と姿の実態とは、金龍神なのである。

また、浅草の観音様のあらたかな霊力とは、人々の誠を受け取られた聖観音様が、金龍に命を下し、お与えになっておられる力なのである。

それゆえ、お祭りで龍の舞いを行ったり、「金龍山浅草寺」と命名されているのである。

ところで、ちょっと話は横道にそれるが、この際いっておこう。

浅草の観音様の「ほおずき市」のあるとき、この日は「四万六千日」といって、一回の参詣で四万六千回観音様にお参りしただけの功徳がある日といわれている。

参詣者集めの方便だと思われるかも知れないが、実際に行ってみると、その日の観音様は、いつもの聖観音様ではない。富士山頂高くにおわす大神霊・正観音様が来ておられるのである。

ウソではないので、読者の方も行かれるとよい。

だが、誠で祈らねば、行くだけではだめであることは論を待たない。

次に白龍。これは、水性の気が凝結した龍で、お金に関する働きをする。お金といっても、金龍のように、ただ巨額の資金を集めるというのではない。経済団体を動かす働きをするのである。

ちなみに言えば、大阪随一の名社である住吉大社、あそこの主宰神の直属が白龍である。

だからこそ、昔も今も大阪は経済の中心地になっているのである。もう一つ書き加えると、この白龍の翼が取れて地に降りたものが白蛇である。

白蛇も経済に関する働きをするが、白龍ほどの力と規模はない。黒龍と黒蛇の関係と同様に考えていただければ間違いない。

続いて青龍。これには、天体や惑星から起きるものと、空風から起きるものと海から起きるものとの、三種類がある。その起源によって、それぞれ天空を支配したり海を支配したりする。

よく、舳先に龍のかざりをつけた船を見かけるが、あれは、海を支配す青龍に航海の安全を祈ってつけているものである。

海を支配する龍には、この他にも海龍王や白銀龍などもいる。

また、この青龍は、いわゆる青龍刀の語源にもなっている。それは、至誠全き武士が青龍の働きであり、楠木正成公などは、この青龍の働きを行っていたのである。毘沙門天に化身することもできる龍なのである。

しかし、本当の青龍の働きとは、植松先生く、「天界から使命ある御魂を運ぶ」役なのである。

このほかにも、銀龍、紅龍、緑龍、赤龍、紫雲龍、天祥龍、地祥龍、黄龍、七色龍、九頭龍八大龍王、水龍、火龍、木龍、国体龍、天水龍、海龍、天気象龍といった具合に、龍にはそれこそ数えきれないほどの種類がある。これらひとつひとつについて、それぞれの働きと出所をご説明していてはキリがないので、割愛させていただく。

話が少し前後するが、龍と龍がツノを突き合わせて戦う、というような話をすると、「神の使いである龍同士が、どうしてケンカなんかするんですか?龍同士がケンカをするということは、神様同士もケンカをすることがあるのですか?」という質問をされる方がある。

もっともな質問であると思う。

愛と許しと慈悲にあふれた神の使い同士が、互いに力を競い合う。常識では、ちょっと理解できないことかもしれない。

そこで、これについて少しふれておくことにしよう。

まず最初にいえることは、神様同士、あるいは高級神霊同士は決して競わないし、ましてやケンカなどしないということである。ギリシャ神話にみえる神々は、互いに競っ嫉妬したりしているが、本当のご神霊は、そのようなことはなさらない。調和と礼節をもっておられるのである。

次にいえることは、神使、眷属同士は互いに競ったりケンカをしたりする、ということである。蛇と蛇、狐と狐、龍と龍、これらは互いに力を誇示したり、相手を倒そうとしたり、ときには、人間に仕返ししたりするのである。

なぜか。それは、神使、眷属には役割と働きはあっても、愛や高度な判断力、咀嚼力がないからである。

こういっても、ピンとこない方がいらっしゃるであろう。そこで、ひとつ例をあげてご説明しよう。

たとえば、アメリカ軍の最精鋭部隊・グリーンベレー。彼らは、ただ戦うことだけを任務とし、敵を倒すことだけを義務づけられている。遮二無二戦って敵を倒す。

これが彼らに課せられた使命である。その彼らが、攻撃せよ!との命令を受けて敵陣に攻め入った。

そこで、年端もいかない少年兵と対峙したとしよう。このとき、「こんな少年を殺すのは、人道上許されない」と、人情的になって、攻撃を中止したとしたらどうであろう。

グリーンベレーとしては完全に失格であるといわざるを得ない。人道上許されるとか許されないとかは、上官、さらには司令官、そして最終的には大統領が判断することであって、グリーンベレーとしては、ただ命令を忠実に実行すればいいのである。

もうひとつ例を出そう。たとえば、税の徴収を行う税務署の役人。彼らの仕事は、算定された税を確実に徴収することである。

彼らが徴税に行った先でもし、「こんなに質素な生活をしている人から税金を徴収するのは忍びない」と、黙って帰ってきたとしたら、税の徴収官としては失格である。税額や税率が適正であるかどうかを判断するのは上司や大蔵省上層部、議会のすることであり、彼らの仕事は、忠実に徴収することにあるからである。

これでだいたいおわかりいただけたと思う。グリーンベレーや税の徴収官の立場にあるのが龍や狐などの神使、眷属なのである。

そして、大統領や税を算定する役人の立場にあるのが、神様なのである。こう見ると、現実界の仕組みは、神霊世界の仕組みに驚くほどよく似ていることがわかる。

ご理解いただけただろうか。神使、眷属には役割と働きしかないのである。主の命令がある限り、どこまでも忠実に働くだけなのである。

そして、帝国主義時代に龍が地球上をおおって、世界のいたるところでツノを突き合わせたというのは、あの時代にはまだ、神様からの命令が龍神界に降りていたということの証しでもある。

つまり、あの時代は、龍が中心となって神霊世界を動かしていたのである。

もちろん、当時現れた龍の全てが全て、正神界からの使者というわけではない。

一部には邪神界の龍もおり、これが乱暴狼藉の限りを尽くしたわけだが、邪神界の龍でさえも歴史のおもて舞台に現れたということは、あの時代が龍中心に動いていた何よりの証しである。

また、ときを同じくして、日本国内に龍を主宰神とする新興宗教が陸続として誕生したのをみても、そのことがよくわかる。

だが、龍の時代もあれが最後。帝国主義のころを境に、時代は全く新しい神霊世界に入っているのである。

いわば、二度にわたる戦争は新しい神霊世界を迎えるために、地上の諸々を精算するために起きたとみることができよう。

とにかく、龍の時代は去ったのである。現代は、中間役の神が働く時代ではなく、主神、ならびに高級神霊が直接、現実界に現れる時代なのである。

このことは、のちほど詳しくご説明するが、そういう、生成化育発展し、お芝居の局面がドンドン変化していく神霊世界の真実がわからないのであろう、いまだに一部の霊能者が、「龍神を持て!」とか、

「龍神を守護霊に持って、驚異的なパワーを身につけよう!」などと、龍神信仰を奨めているようだが、これはハッキリいって時代錯誤。そればかりではない。主を忘れて中間役を拝するのは本末転倒である。

そのへんを、よくご理解いただきたいと思う。

それは、「化身仏を拝まずに本仏を拝め」といった日蓮上人と同じ立場である。

ただ、日蓮上人と私の主張の異なるところは、本仏に相当する主神にまず帰一するのが万教の和する基であるとするが、さらに働きや化身仏も役割あって出てくるのであるから、その役割を充分に知悉して、日常生活に自由自在に応用しようというものである。

その意味で、弘法大師の大日如来帰一と同時に、万仏万菩薩の働き自在という立場により近い。

さらに、日本神界に魂と立場の基を置くので、神・儒・仏・キリスト教・回教・道教・哲学・文学・美術・経済・科学など、あらゆる次元、宗教を超えた世界にまで精通できるので、その意味で、出口王仁三郎やスウェーデンボルグ、エドガー・ケーシーなどにより近いといえるのである。

大僧正をも惑わす龍神の恋愛欲

最後に、龍のもう一つの落とし穴である恋愛欲について少しご説明して、龍のお話を終えることにしよう。

『神霊からの神通力」で、蛇がつくとヌメヌメした色欲に走りやすい(狐がついてもそうなることがある)とご説明したが、龍の恋愛欲というのは、これとはちょっと違う。

蛇や狐の色欲というのは、四六時中セックスにふけったり、不浄な場所にひんぱんに出入りするなど、いわゆる性欲のとりこになってしまうことをいう。

これに対して、龍の恋愛欲というのは、性をむさぼるというのではなくて、数人あるいは多数の異性の心と体を、我がものとすることをいう。

早い話が、お妾さんを何人も囲うことである。猛烈な龍のエネルギーと権力欲が合体して、異常なぐらいのロマンと文学性のある性豪となるのである。

常軌を逸さなければ、問題ない場合も多いが、これも、つき詰めれば、権力誇示と過度な征服欲の一形態ということができよう。

こんな話を何度か聞いたことがあると思う。

人格的には非常に円満で、しかも統率力のある立派な人なのに、教祖を継承したとたんに、お妾さんを囲うようになって、信徒のひんしゅくを買っている。

あるいは、政治能力は誰もが一目を置くほど抜群なものがあるのに、お妾さんがたくさんいて、家庭がうまくいっていない。

これらはみな、龍の落とし穴にはまっているのである。おそらくある地位まで登りつめたとたん、心にスキができてしまうのだろうが、とかく権力志向の強い人は、女性問題でつまずきやすいといえる。

本人が、よほど心の修練を積んでいるなら別だが、そうでなければ、龍の爆発的エネルギーに振り回されて、ついつい恋愛欲に走ってしまうのである。

そのエネルギーは、一宗一派をなす教祖や大僧正と呼ばれるほどの人でさえ、ときとして自分の心を律しきれなくなるというほど、もの凄いのだ。

古来、英雄色を好むといわれる。英雄と呼ばれるほど力のある人物は恋愛欲もまた強い、というのがこの言葉の意味であろうと思われるが、これほど端的に龍の性格をいい表したものはほかにない。

権力志向の強い人、何でも俺が俺がという人、人の上に立たなければ気が済まない人、こういう宗教家や霊能者には大方、龍がついている。

もちろん、天狗や理も合体していて、狐も霊視能力を与えているだろう。そして、そのような人はたいてい心の修養ができていないので、恋愛欲に走って、人の道を踏みはずしてしまうのである。

人の道を踏みはずす原因には、大きく分けて三つある。

第一はお金。異常なくらいお金にどん欲になるあまり、人を苦しめ泣かす。あるいは、不正な手段でお金を手に入れたり、お金を運用する。こうして、人としての道を踏みはずし、地獄界に自らの御魂を堕とすのである。

第二は権力。とにかく権力を手に入れたい、人を蹴落としてまでも権力を手にしたい。こうして、次第に周囲の反発を買い、自ら道を閉ざしてしまうのである。

第三は女性問題。これはいま述べたとおりである。

こうしてみると、龍の落とし穴はいずれにも当てはまるといえよう。お金も権力も女性問題も、全ては俺が俺がという、我心我欲から生まれるものである。

清涼の神霊世界にその御魂の位置を据え、人を活かし、同時に自分も活かすという、人としての心の教と錬磨ができていれば、龍の落とし穴にはまることはないのであるが、それができていないと、どうしても、これら三つの問題のいずれかで引っかかってしまうのである。

だからこそ、私はくどいくらい、「龍神だけを信仰していると、道を踏みはずしてしまいますよ。

おかしな霊界に行ってしまいますよ。それでも、龍のパワーがほしい、霊能力がほしいというのなら、主神を信仰して、心の修養を充分積んでからにしなさい」といっているのである。

読書の皆様の中に、龍神に興味をもっている方がいらっしゃるならば、そのへんのことを充分にお考えになっていただきたいと思う。