神霊界(Vol.3)

天狗の最大特色は、この二点だ

龍の話はこれくらいにして、今度は天狗のお話をしよう。

天狗というと、深山幽谷に住み、赤ら顔で鼻が高く、空中を飛行する想像上の怪物、という程度の知識しか持ち合わせていない方がほとんど。

いや、それすらも知らず、名前を聞いたことがあるだけの方がほとんどかもしれない。

それくらい、一般にはなじみが薄いのだが、天狗は決して想像上の怪物などではなく、真実存在するのである。

とはいっても、一般の人々とはそれほど深い関係がないのもまた事実。

だが、一部の人々、すなわち、行者や山伏、とくに役行者系統の修験僧や山岳信仰をする人々とは密接な関係があるので、少しご説明することにしよう。

まず天狗の特色から。

天狗の特色をひと言で表現するならば、それは薬草を見つけることである。最近の健康ブームとあいまって、アマチャヅルとかクマザサなどの薬草が大きな関心を集めているが、天狗は、あのような薬草を見つけるのである。

修験者などに、薬草のありかや調合の仕方を教えるわけである。

正神界では、少名彦之命がお教えになるのだが、少名彦之命が直接お教えになることはほとんどなく、実際には天狗が教えているのである。

もうひとつの特色は、空を飛んだり、空中に高く飛び上がったりすることである。天狗がつくと、それができるのである。

さらに、あらゆる神通力に秀でて、異常なくらいに体力が強化される。また、か強烈な白光を発することがあり、特に念力が強力になる。修験者が天狗にあこがれるのは、この力を欲するからである。

ところで、飛び上がるといっても、走り高跳びの選手のように、二、三メートル飛び上がるのとはわけが違う。文字どおり、空中高く飛び上がったり、空を飛んだりするのである。

そんなスーパーマンのようなこと、本当にできるのだろうかとお思いになるかもしれ 20 ない。だが、本当にできるのだ。強力天狗がつくと。

たとえば、あの有名な壇ノ浦の戦いにおける源義経の八艘飛び。あれは決して伝説上の話ではなく、義経の背後にいた天狗が実際にやらせたことなのである。

なぜなら、彼は幼少時代、鞍馬寺に入れられていたのだが、このとき、鞍馬山の天狗が彼につき、以後、平泉で自刃するまで、終生義経を導いていたからなのである。このことについては、のちほどもう一度書く。

現在でも、空を飛べる人は全国に四、五人はいるはずだ。もちろん、この人たちは普通の人ではなく、修験者として修行を積んだ人で、いわゆる仙人と呼ばれる人々である。

中国にもいる。とくに道教関係に多い。道教とは、無為自然を説く老荘思想に、不老長寿、神仙、方術の説を加え、さらには仏教思想を取り入れた中国の代表的民族宗教である。

この道教には昔から仙人思想が混入されていて、単に老子、荘子の哲学的思想だけにとどまらない、そのレベルに応じて神仙・天仙・地仙人仙と分けられており、これらの仙人が空を飛んだりするわけである。

その中でも、とくに有名なのが呂祖仙人。

日本ではあまり知られていないが、中国では知らない人はいないといわれるくらい有名なこの呂祖師は、今から千数百年前の人である。

彼は肉体を持ちながら天に昇ったり、瞬間に姿を消したり出したりが自由にできた人である。第一位の神仙といわれるほど、仙人の極意に達した人物である。

呂祖師ほどではないにしても、空を飛べる仙人は、現在でも中国全土には数人、もしくは十数人はいるはずである。

日本でも、役行者が飛行術を体得していたことは有名であるが、神霊界におけるランクを比べてみた場合、この呂祖仙人のほうが三ランクほど上である。

私が実際に神霊界でお会いし、両者から直接確認をしたから間違いない。

にわかに信じ難い話ではあるかもしれない。だが、本当にいるのである。空を飛んだり、空中高く飛びあがったりする仙人が。

これらの術は、念力を高めることによっても、できないわけではない。しかし実際には、天狗が背後について、これらの術を行わせていることが多いのだ。

もちろん、本人はそのことを知らない。知っている人も中にはいるだろうが、ほとんどの人は、修行によって会得した自分の神通力によるものと信じている。

おわかりいただけたであろうか。天狗の特色は、薬草を見つけることと、空中を飛ぶ 7 など神通力自在であることの二点にあるわけである。

もちろん、これ以外にも物品引き寄せやテレポーテーションなどのいわゆる「神かくし」も行うが、薬草を見つけること、そして神通の”力”に偏していること、この二つをもって天狗の最大特色となすわけである。

神様のようなすごい存在と思うかも知れないが、やはり、本当の神様ではない。

結局、全てが術と力であり、肝心の愛と真心がなく、自然でおだやかな幸福感や御魂の覚醒による、真の意味での霊的進歩がないのである。

だから、眷属にしかなれないのである。こればかり信仰していて死ねば、当然、天狗界の住人となるのである。

天狗がつくとはまりやすい二つの落とし穴

ところで、龍がつくと権力欲と恋愛欲に走りやすいのと同様、天狗がついた場合も、陥りやすい大きな落とし穴が二つあるので、くれぐれも注意していただきたい。

その一つは、文字どおり天狗になること、つまり高慢になったり、うぬぼれが強くなることである。あの天狗の鼻に象徴される我の強さが出てきやすいのである。

何ごとにおいても、自分が一番にならなくては気が済まない。我こそが我こそがと、常にトップの座を求める。人の風下に立つなんて、とてもじゃないが耐えられない。異常なくらいプライドが高くうぬぼれが強い。人と協調し、親睦をはかるなど大の不得意で、自分の思いどおりにならないときは、すぐに相手をねじ伏せる。とかくこうなりやすいのである、天狗がつくと。

この場合の、俺が俺がという気持ちは龍より強い。

ただし、龍のように権力を求める、つまり、人を自分の支配下に置きたがる気持ちはあまりない。というより、人を支配できるだけの広がりのパワーがないといったほうが的を射ていよう。

いわば、孤高を保ちながら、それでいて滅多やたらとプライドが高いのである。

常にトップでなければ何としても気が済まず、それがかなわなければ、地団駄踏んでくやしがる。

狐よりは賢くて、霊力も知識もあるが、向上心の陰に虚心の誠がなく、優しい慈愛のまなざしがないのである。

こうして、我こそが、我こそがという具合に背伸びをしていって、結局、足もとから崩れていってしまうのである。

先に少しふれた源義経がそうだった。「判官びいき」という言葉があるくらい義経ファンが多いので、まことに言いにくいことではあるが、彼の一生は天狗に支配されていたのである。

天狗に支配されたために、あまりにも高慢になり、結局、あたら才能を世に役立てることなく陸奥の露と消えてしまったのである。

たとえ天狗がついていても、それを逆にコントロールできるだけの心の教養と修養ができていれば、何ら問題はない。

だが、義経にはそれがなかった。神通力、霊能力はあったが、心の修養ができていなかったのである。

一ノ谷の合戦で抜群の勲功を立てたまではよかった。だが、その直後、兄・頼朝の許しを得ることなく、勝手に後白河法皇のもとへ走り、検非違使・左衛門尉の任官を受けたのがまずかった。これが、頼朝の逆鱗にふれることとなったのである。

頼朝が怒るのは当然といえる。勝手に任官を受けるのは世の秩序を乱す行為であり、地の法、天の法から見ても、許すべからざることだからである。

後白河法皇も狡智の人であり、頼朝も陰険で腹黒い人物であったことは間違いない。

しかし、どうしても任官を受けたいのであれば、兄であり、源氏一門の長たる頼朝の承諾を事前に得るべきであった。それをしなかったところに、義経の知恵の至らなさと思いあがった態度がうかがえる。

これが楠木正成公だったら、いくら後白河法皇がすすめても、きっぱりと辞退していたはずである。

「平家一門を打ち倒したは、わが一人の功ならず。源氏一門の総力結集の赤誠に、上天これをみそなわせ給ひ、勝ちをお与えになったものに候。宜しくわが一門の長たる上兄頼朝に、勲功をさずけられたき次第なり……」

同じく修験道を学んだ楠木正成公ではあるが、老将であり、その無欲さと至誠、および大義に生きる教養と人格の厚みは、源義経の比ではない。日本の歴史に屹立した大神人の一人なのである。

しかし、本当のことをいえば、楠木正成公は、この源義経の失敗を大いに学び、歴史を考察しては、”もし自分だったらどうしていたか”と絶えず自己研鑽を怠らなかったのである。

義経の話にもどそう。

こうして、兄の怒りを買った彼は、以後、頼朝打倒を画策するものの、加わる者少なくして、失意のうちに奥州平泉に身を寄せる。

だが、二年ほどのち、藤原泰衡に急襲され、自刃という形で三十年の人生の幕を閉じたのである。

義経ファンの方にはまことに申しわけないが、これが現実である。彼は鞍馬山の天狗に神通力、霊能力を与えられ、同時に、高慢になる霊流を一身に受けてしまったため、人としての道を踏みはずしてしまったのである。

いま、義経を例に出してお話ししたが、天狗がつくと、とかくこうなりやすいのだ。以上が、天狗がついた場合に、はまりやすい第一の落とし穴。

第二の落とし穴は、いわゆる仙界に入りやすいことである。これは霊能力に興味のない方にはあまり関係ないのだが、本書の読者の皆様の中には、霊能力を身につけたいと願っている方が結構いらっしゃるようなので、少しお話しておこう。

仙界とは、仙人などの隠遁者が入る霊界である。ここは、地獄界、中有霊界、天国界とも違う、一種独特な行者界のような霊界で、山の頂上のような清涼感に満ちている。

そして、一旦ここに入れば、二度と出てくることはできない。その理由は、ここには苦しみがないからである。そして苦しみもない代わり、喜びもないのがこの仙界なのである。

その意味で、まだ地獄に堕ちたほうがましである。激痛から逃れようとして、このままではいけないと必死になって努力、向上するからである。

ちなみに、仙界と神仙界とは似て非なるものである。仙界は、愛のない四次元の別界であり、神仙界は正神界の一部である。

そこには、ほのぼのとした愛のあたたかみがあって、かつ爽快な清涼感がある。役行者さんのような至誠と愛があり、徳光輝く仙人がいらっしゃるのである。皆、神使となったり、守護霊となって活躍しておられる。

自己中心的な方で、仙人志望の人や、世捨て人的発想で、霊術訓練にふけっている人たちは、死後この仙界に入ることとなる。

本来の道に目ざめ、一刻も早く改めていただきたいと願う次第なのである。

UFOは新時代の中間役の神

近ごろはたいへんなUFOブームである。UFOを見た、UFOに人がさらわれた、あるいはUFOをジェット戦闘機が追跡したが見失ったなどなど、人心を惑わすことはなはだしいものがある。

果たしてUFOは実在するのか。実在するなら、その正体は何か。UFOに関する書物を見ても、その点いまひとつ明確にならないらしく、このところ、UFOに関するご質問が急に増えてきた。

そこで、お答えすることにしよう。

UFOは実在する。そしてその正体は、新時代のニュー中間役の神である。しかし、 UFOなどにあまり関心を持たないでいただきたい。

これが、UFOに関する私の答えである。

だが、これだけではご不満のことと思う。UFOに強い関心を持っていただきたくないのであまり多くを語りたくないのだが、少しだけ説明することにしよう。

UFOの正体は、新時代のニュー中間役の神、すなわち、龍や天狗、狐などにとって代わるような存在なのである。

すでに述べたように、宇宙森羅万象は絶えず生成化育発展しており、常なるものは一つとしてない。

宇宙が刻一刻、広がっていることはすでに科学で証明されているし、私たちの生活様式、あるいは科学技術が日進月歩の発展を遂げていることは周知の事実で、このように、神界も霊界も現実界も、時代の流れとともに絶えず発展する。これが神霊世界の真相なのである。

それゆえ、これまで主神と人間との間をとりもってきた中間役、つまり、龍や天狗や狐などは次第に後退し、科学時代を迎えた現代の実情に合わせたかたちで、ニュー中間役としてのUFOが出現し始めたのである。

科学時代に龍や天狗、狐というのでは、あまりにも古すぎるというわけである。おそらく今後、昔の人々がひんぱんに龍や狐を見たり、これと交信したり、あるいは神とし崇敬したのと同様に、UFOを見たり交信したり、崇敬する人が増えるであろう。また、UFOに強い関心をもつ人が、今以上に増えるであろう。

だが、これはあまり感心できない。なぜなら、UFOと交信すると霊的に大きなマイナスとなり、霊体を傷つけることにもなるからである。

UFOの九割は兇党霊団の化身

かつて私も、UFOを呼んで交信したことがある。正確にいえば、あちらのほうから交信を望んできたのである。いろいろとこれからの世の中の移りゆく未来のことや、愛が大切であること、また、全国と全世界の円盤基地の場所やその詳細な地図などを教えてくれたのである。

だが、電磁波というべきか何というべきか、いわくいい難い電気的ショックを受けただけであった。

ちょうど、電子レンジでエレックされたような感じである。もともと電磁波と霊波とは性質が似かよっているため、よく感応し合うのであるが、UFOのあの電気的波動は本当の神霊波動よりずっと荒く、霊的にはマイナスになることが多い。

本当の高級神霊を体で受けたことがない人には、「これが本当の神なのだ」と思い込んでしまうかも知れない。しかし、絶対に本来の神霊ではないのである。

これが、UFOにあまり興味をもっていただきたくない第一の理由である。第二の理由は、UFOに強い関心をもち、交信などしていると、UFOの波動を受けて、いつの間にか怪しげな霊界に入り込んでしまいかねない、ということである。

なぜなら、私たちの前に姿を現しているUFOは、ほとんど全てといってよいくらい、党霊団が化身しているものだからである。

兇党霊団――これは霊界のギャング、暴力団のような存在である。現実界の街をフラついているギャングはまともな人間ではない。さりとて囚人でもない。

社会の秩序は乱すけれど、罪を犯していないので収監されるわけでもない。これと同様に、普通の霊界にいるのではないが地獄界にいるわけでもないという霊が、霊界にはいるのである。

彼らは特殊な霊界におり、常に徒党を組んでいる。これが兇党霊団である。

正確にいうならば、兇党霊団は半霊半物質のような存在で、何かと現実界に現れては、人心を惑わすようなことをするのである。

その一つがUFO。もちろん本来の中間役の働きをする正神界のUFOもいるにはいるが、それは全体の一割もないぐらいである。

残りの九割は、ほとんど兇党霊団が化身したものである。とくに、緑色系統のUFOは全て兇党霊団が化身したものと思って、まず間違いない。

また、いくら写真に円盤が写っていても、それは兇党霊の表象顕現力で姿を出させているだけである。だまされてはいけない。

彼らは、人々が、「UFOだ! UFOだ! UFOが飛んでいる!」と、必要以上に騒ぐからますます面白がって、人々の前に現れたり、人をさらったりするのである。

ちなみに、UFOに化身する以外の兇党霊団の所業を挙げると、あのおどろおどろしエクトプラズムにポルターガイスト、これなど全て兇党霊団が行っているものである。

そのほかでは、龍や天狗、狐などのマネをする、身体から金粉を出す、空間から十字架を出す……などがある。

これらを見て何かお気づきにならないだろうか。そう、これらのことは、ときとして正神界のご神霊も行うことがあるのである。エクトプラズムやポルターガイストは別として、物品引き寄せや、身体から金粉を出すことは、正神界の龍や天狗も行うことなのだ。

ということはつまり、兇党霊団は神を装って現実界に現れ、人心を惑わしているということなのである。 UFOもその一つだ。

だからこそ私は、「神界からの神通力」で、「神様の声が聞こえたからといっても、すぐさま喜んではいけませんよ。霊視ができるようになったからといっても喜んではいけませんよ。

霊能力が身についたからといっても、必ずしも喜べることではないのですよ。

それらは、もしかしたら邪気邪霊が行っていることかもしれませんよ。

見ただけで判断したら危ないですよ。聞いただけで判断しても危ないですよ。本当の審神ができなければ見破れませんよ、だまされてしまいますと、口をすっぱくして訴えてきたのである。

とにかく、霊界というところは魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界なのである。もちろん、正神界に籍を置く神霊もいるにはいるが、悪もまた多いのである。

そもそも、正神界の神霊は滅多なことでは人間の前に姿を現したり、人に語りかけるようなことはしない。

普段は陰に隠れて人の成長を見守っており、ここぞというときに姿を現して、進むべき道のヒントを与えるのである。しかも、それらをなるべく人に知られないように配慮される。

人間界にやたらと干渉するのは、全て邪気邪霊であるといって差しつかえない。

それゆえ、興味本位で霊界を研究するのは、危険きわまりないことなのだ。何年か前、コックリさんやキューピットさんというのが流行ったが、あれなど大変危険。自分の御魂を魔界に堕とすだけである。

少し話が横道にそれてしまった。元に戻そう。

UFOの九割は兇党霊団が化身したもので、残りの一割が、正神界のニュー中間役であることはすでに述べた。

では、その正神界のUFOはどのようなものかというと、これは実に美しい姿をしている。

波動は電気エネルギーのように荒いが、高貴な輝きがある。そして、妙な恐怖感を与えたり、人心を惑わすようなことはしない。なぜなら、彼らは愛とか正義のために働いているからである。

いずれにしても、興味本位でUFOを研究するのは、あまり感心できない。できれば、変な興味を持たないでいただきたい。これが、UFOに関する私の結論である。

敬うなら、宇宙創造の主神を敬い、バイブルを読んでいるほうが数段価値あることである。内容や結論もだいたいそれに近いといえよう。

人間としての魂の修行

以上、龍と天狗とUFOのそれぞれの特色などについて、ざっとご説明してみた。

まだまだ書き足りない部分も多いが、だいたいのところはご理解いただけたと思う。そして、私が龍や天狗やUFOに対して、どのような気持ちでいるのかも、わかっていただけたと思う。

しかし、世の中には、龍神信仰をする人やこれを奨める人、あるいは修験道で天狗の神通力を身につけようとする人、そして、UFOに異常なほどの関心を持ち、これと交信したがっている人…。

こんな人がまだまだたくさんいるので、くどいようだが、ここでもう一度、龍、天狗、UFOに対してとるべき私たちの態度について述べさせていただきたい。

私は基本的には、龍神信仰は結構なことだと思っている。天狗の神通力も良いことだと思っている。UFOと交信するのも悪くないと思っている。

龍神信仰で難病・奇病が治った。天狗の神通力のおかげで霊薬が見つかった。

UFO と交信して別世界を知った。白蛇信仰のおかげで大金が入り、倒産をまぬがれた・・・・・・これらは実際にあることである。

そして、決して悪いことではない。いいことである。だが、病気が治ればそれでいいのか。

お金が入ればそれでいいのか。いや、絶対違う。それだけで終わりにしては絶対にいけない。

病気が治り、お金が入ったあと、必ずやらなければならないことが残っているのだ。

人間としての魂の修行が残っているのだ。

芸術性を磨き、より美しく、より大らかに、より緻密に天地自然の法則や先人の知恵を学び、より明るく、より前向きに、より健康的に生き、喜ばれるように、役立つように、常々努力して世のため人のために働く… これが人としてやらなければならない魂の修行である。胎蔵界の仏様の如き自己向上の修行と、衆生を救う金剛界の仏様の如き、善徳高揚の修行なのである。

この修行が残っているのだ。が、現実はやらない人がほとんどである。病気が治って良かった、お金が入って良かったで終わってしまっている人が多いのだ。

これではいけない。これでは、何のための龍神信仰か、何のための白蛇信仰かわからないではないか。

そこでストップしてしまえば、本当の御魂の幸せや、死後に得る栄光や満足や歓喜が得られないばかりか、世に生を受けて生まれてきた本来の意義がなく、一回分の生涯の功績を無為にしてしまうからなのである。

ただ、無事に送るだけの人生や、お陰だけを求めていては、真に幸せにはなれないのだ。それどころか、ときとして、魔界に引き込まれることもあるのだ。

霊能力がほしい、パワーがほしい、お金がほしい、病気を治してもらいたいこういう気持ちだけで神仏に手を合わせていると、その気持ちに感応して、兇党霊団が化身した龍や邪神界を横行する稲荷などが憑依することがあるのだ。

それゆえ、お陰を求めるだけでなく、御魂を向上させるべく、常に精進努力していかなければならないのである。

そうしてこそ、龍神信仰も白蛇信仰も稲荷信仰も初めて活かされてくるのである。

御魂を磨くには具体的に何をやったらいいのかについては、のちほど詳しくご説明しよう。

>第二章 現世修行の道

念力と超能力

第一章では龍などの中間役の神様のお話をした。この章では、念力と超能力、神霊界の法則などについて語ってみよう。

その前に、霊能力とはいったい何か、霊能力の正体は何か、これについて少しご説明しておこう。

霊能力の詳細は「神界からの神通力」第一章「六大神通力の正体」でご説明しておいたので、これを思い出しながら読んでいただきたい。

世の中には、スプーンを曲げたり、身体から金粉や真珠を出したり、あるいは透視したり念写したり、空間を移動したり釘でほおを突き通したりなどなど、摩訶不思議なことをする人が結構たくさんいる。

これら、常識や科学では説明できない摩訶不思議なことができる能力が、いわゆる霊能力や超能力と呼ばれるものである。

では、どうすれば霊能力は身につくのか、どのようにしたら、超能力を会得できるのか。その方法の一つとして念力が挙げられる。念力を強化し高めると、ある程度、摩訶不思議なことができるようになるのである。

たとえば、あのスプーン曲げ。あれは、念を強めれば誰でもある程度はできることである。元祖スプーン曲げともいうべき、かのユリ・ゲラーという人は相当な超能力のある人だが、彼を真似してスプーン曲げを始めた人のほとんどは、単に念力だけで曲げているといっても、差しつかえない。

念写もそうだ。これも念力でできる。念写というくらいだから、念力でできるのは当然といえば当然だ。

だがこれは、ちょっとやそっと念力を高めただけでできるようなものではない。

かなり修行を積んだ人でなければできないのである。私の知っている人で、ある文字を念じながらエイッ!と気合を入れると、毛筆で書かれたその文字が半紙の上から浮かびあがる、ということのできる人がいるが、彼もやはり、そこまでに至るには想像を絶する修行を積まなければならなかった、といっている。

それくらい、強い念力が必要なわけだ。

しかし、私の立場は、いくら念力修行をしても、それが幸福や幸運につながらなくては、何ら意味のないものである、とするものだ。

その事に関しては、拙著「強運」を参考にされたい。また、別の機会をとらえ詳述したい。

では、ここでもう少し念力とスプーン曲げや念写の関係について、詳説しよう。

念力とは、念ずる力のことであり、念とは、”今”の“心”と書く。

すなわち。「今、心で描いたことを強く、そうなる、そうなる、絶対にそうなると信じ、強く思い込める力」

これが、超能力に還元できる念力なのである。

単に念ずるだけでは、超能力とはならない。イメージと確信力が伴わねばならないのである。

このことに関する理論的根拠は、「唯識論」に詳しい。仏教哲学の中でも難解とされるものである。主に「阿頼耶識」の存在とか、在り方について詳説されている。

この説の骨子を簡単に言えば、この世の森羅万象は、心で描いている世界の現れであり、この識の世界が真実無二の世界であるとするものである。

ちょっと難しくなるかもしれないが、辛抱して読んでいただきたい。

この、心の力が凝結して物質世界に顕現するという理論的根拠を得てはじめて、天台密教も、真言密教も成り立つのである。

いわば、霊力、超能力の原典といえようか。

マーフィーの法則や昨今の念力、念写、超能力、霊力などの基礎となるものは、古来、こうしてちゃんとあったのである。

三層から成る神霊世界

しかし、本来の神霊界の法則からみれば、大いなる誤りであると言わざるを得ない。誤りというより、偏りであると言うべきであろう。

神霊世界は、大きく分けて顕界(現実世界、物質世界)、幽界(心の世界霊界)、神界(感覚の世界、高級神霊界)という三つの層になっている。

そして、さらにそれぞれがもっと細かく分かれているのであるが、「唯識論」とは単に幽から顕への関係を詳説しているに過ぎないのである。

だが、決して、心が万能なのではなく、全てなのではない。顕・幽・神のバランスと合一が大切なのである。

そもそも、肉体、物質が心と感覚に影響を与え、心が肉体と感覚に影響を与えて、感覚が心と肉体に影響を与えているのが実際なのである。

神霊世界の順序から言えば、ちょうどこの逆になり、感覚、心、肉体の順となっている。

ところで、今、宗教を大きくこの三層で分類してみよう。次のようになる。

○感覚=神道
「感覚で神様とひとつになる」―素直で正直なことが大切であり、只今、只今が幸福であればいいという”中今”の思想となっている。

〇心=仏教
「無念無想となって神界をめざす」(般若心経の真意)五倫正常によって、人の心はコロコロ変わる。そのひとつひとつに指さして説法したのが、お釈迦様の教えであり、お経である。

だから、教えは無限に続くのである。心の一念の機しが善に向けば仏、悪に向けば獣鬼である。天台智顕の一念三千の教えがよくこれを物語っている。

〇肉体儒教
「人の道を立てて聖人となる」仁・義・礼・智・信を学び実践することで、この世の人と仲良く幸せに暮らすことができる。いい感覚、いい心を保つためのいい人生のあり方や、社会のあり方を示している。如何に現世を生きていくかの指針である。

この三層にわたる神仏・儒をバランス良く、しかも合一して活用するところに、主神の道があり、日本神界理解の実践の糸口があるのである。

もちろん、キリスト教、回教、道教もあるが、この三つが日本精神世界の代表であると言える。熊野権現や宇佐八幡が、阿彌陀信仰や仏教興隆に力を添えているのをみても、わかるはずである。

また、儒教と結びつく例は、吉川惟足の開いた吉川神道や山崎闇斎の開いた垂加神道などをみてもわかるように数多い。儒教と神道は、現実をより良くするという共通面もあってか、昔から結びつきがよいのである。

ひとの構造を神霊でみれば・・・・・・

ところで、今度は、以上のことに基づいて、自分というものの構造を再確認してみよう。

本当のことを言えば、人体には七つの次元に御魂の位があって合体し、分極しているのであるが、今は詳細を避ける。仮に、大きく三つの次元に割ったものを図示すると次ページのようになる。

三つがそろって同時に健全であれば、夢いっぱいでオーラピカピカ、心ウキウキ、体カモリモリの幸せな人となる。

死してもますます幸せの人となれるのである。

ところが、昨今は、三つがそろっていない人もある。それぞれ、どうなるかを解説してみよう。

元津御魂のない人は“ふぬけ”になっている。色街狐にとらわれたり、大きな人生の挫折や絶望のショックで、全て夢とやる気と幸福感の充実がなくなってしまった人である。

「なるようになるだろう」「どうでもいいさ」という人は、元津御魂が傷ついていたり、えぐりとられている人である。完全な精神病患者や発狂者は、これである。自分という感覚が消えてしまっていると考えていいだろう。

ただし、霊体はまだあるので生命はあり、体も動いているので、「御魂もどしの秘法」をやれば自分が返ってくる。

そんなことをしなくても、心のヒダを深く豊かにし、信念と情熱の力を強化すれば、自分で元津御魂を引き戻すこともできるのである。

御本霊のない人は、禅でいう「御主人公がおるす」の人である。「これを視れども視えず、これを聞けども聞こえず」といった具合である。

つまり、「心がお留守」になっていて、目前のことに対する集中力がないのである。感覚は鋭く、体力もあるが、ムラッ気で集中力がないのである。

恋愛のときなどは、ちょうどこのような状態であり、夢と希望に魂は脈打つけれども、心は好きな人のところへ行ってお留守となる。

相手の背後や想いの内に入り、生霊となって頑張っているのである。本人は、ポヤーッとして、ニコニコ悦に入っている。人によっては恋愛より、むしろ、明日の試験のことや、金の支払いの件や、諸々の誘惑に心の主座がお留守になっている。

そこで、こういう人のために、孟子は、真の学問をすすめた。曰く、「学問の道は他なし。ただ、その放心を求めるのみ」と―――。

つまり、孟子は、学問というものは、単なる知識の詰め込みや、理解力を増すためのものではないことを強調したのである。

ひとたび我が道を定めたら、地位や名誉や、金の批判や異性などに心を放たず、今、何をなすべきか、どう己れを立て直すべきかを真剣にみつめ、お留守になった吾が心の主座を元に戻せ。

それが、先人たちの書籍や業績に学ぶ真の意味なのだと、言いたかったのであろう。

いくら知識があり、頭が良くても、志を全うできない人間に、学問があるとは言い難い。

それが、「ただ、その放心を求めるのみ」という言葉に内包される真意であり、私の考え方でもあるのである。

ところで、明治維新を支えた数々の志士。なかでも、久坂玄端、高杉晋作をはじめ、多くの勤王の志士を輩出したことで有名な松下村塾その塾頭であった吉田松陰は、いろいろな学問を講究し、陽明学や楠木正成公の生き方なども学ばせたが、特にこの”孟子”を力説して、若者たちに真の学問の意味を体得、実践させたのである。

「講孟余話」、また「留魂記」などの迫真の書をひもとけば、今なお身は震え、魂と御本霊をゆさぶらずにはおかない。この不滅の霊力を見習いたいものである。

最後に、肉体のない人はどうなるか。当然、死者となっているはずなのである。ところが、死者には死者の自覚と務めがあることを知らずに、肉体のあるときと同じように、心と魂があることがある。これが問題なのである。問題点の詳細は、一般的な霊界書にみるとおりである。

ところで、厳密にいえば、死後、神界にいるところの自分は、すぐさま神界に帰り、霊界にいる自分は霊界に帰るのが本当なのである。

が、普段から、ごく普通に心に念をめぐらす自分が、自分であると感じている人は、死後、霊界の自分が深覚の自分になるのである。神界の自分は即、神界に帰っても気がつかないでいるのだ。

これに対して、普段から、神の如き自己、神と等しき心の自分が主位を占めていた人は、霊界次元における自分が清淳化して、神界の自分に同化している。このような人が死ねば、自分という感覚と思いは、元津御魂のままの姿となって神界へ帰っているのである。これが、神上りした人といい、明治天皇や、菅原道真公や倭姫などがその代表例である。

ついでにいっておこう。死んですぐ冥修、すなわち三十年の幽界修行や一般的な霊界修行をしなくても、肉体のあるときに全ての修行を終えた人は、すぐに神使となって、神様の御用を行っている。

どこの霊界へ行くのも、現実界に関与するのも、ある程度許されているのである。

伝教大師最澄や聖徳太子の霊などがそうであり、これを「成道する」と、彼らはいっている。

これが実は、仏教でいうところの涅槃寂静であり、一応の現世修行の第一目的は達せられたのである。しかし、神上りよりは、少しランクが下がることは否めない。

第三章 いま明かされる除霊奥義

守護霊や中間役の神により霊能が開ける

前章では念力から話は発展したが、霊能に関して言えば、念力を高めればある程度、霊能力的なことはできるのである。

だが、それが可能なのも、スプーン曲げとか念写といった比較的簡単なものまで。

それ以上の高度な霊能、たとえば霊視、透視、あるいは空間移動、高度な除霊などになると、念力だけではなかなかできない。やはり、背後か力を与える存在が必要になってくる。

そのバックアップしてくれる存在が何であるかによって、その人の霊能力の特色・種類や次元の高低が決まるわけである。

その中で最も次元が高い霊能力は、正神界の極微天界からの高級神霊、次に産土神霊、次に霊となって、高級守護霊がバックアップしているもの。

これらは次元が高い。守護する守護神、守護霊の力、性質によってその霊能の種類は異なるが、見ていても聞いていても実に清々しくて美しく、決してオドロオドロした感じを与えないのが共通した特色である。

さらに特色をあげれば、決して教えすぎない、見せ物的に霊能を現さない、オーソドックスな日常生活から逸脱しない・・・・・・などである。

そもそも、高級守護神、守護霊がバックアップしている霊能者がいかにも霊能者を思わせるような風貌をしていることは、まずない。ごく普通で、ごく平凡な風貌をしており、ごく当たり前の生活をしているのである。

なぜなら、守護する神霊の役割は、本人の御魂の成長を助けることにあるからである。

御魂の成長とあまり関係のない摩訶不思議なことは、たとえできても、滅多なことでは現されないのである。

それから、忘れてならないことがある。それは、高級で次元が高いからいいとは限らないことである。

要は、御魂の成長に最もふさわしい神霊であればいいわけである。これらの詳細は、別の機会にゆずろう。

ところで、守護神、守護霊がバックアップしている霊能力に次いで次元の高いのは、龍である。以下、天狗、狐、蛇という順になろう。

しかし、実際は複合的に守護していることは前述したとおりである。これらは、もちろん、正神界のものに限る。兇党霊団が化身したもの、あるいは生前、悪徳霊能者だった人が化身したものは当然のことなが含まれない。

これら龍、天狗、狐、蛇のバックアップで開けた霊能のそれぞれの特色については、これまで何度もご説明したとおりである。

以上は、たとえ次元の高低はあるにせよ、いずれも正神界からの霊能力といえる。

魔界・邪神界からの霊能力

だが、これまでくり返しご説明してきたように、人間の霊能を開かせているものは必ずしも正神界のものばかりとは限らない。

魔界や邪神界の存在が霊能を与えているケースも多いのである。以下、その主なところを列記してみる。

NO.1 死後、行者界に堕ちた行者の霊
行者には密教系と修験道系の二系統あるが、これらの行者が生前、あまりにも霊能力に固執していると、死後、行者界へ堕ち、行者理や行者狐、あるいは行者蛇の姿となって、何かと現実界に干渉し、人の霊能を開かせたりするのである。

よく、行場で滝に打たれていたらパッと霊能が開けた、などという話を聞くが、あれはほとんど、昔同じ場所で修行していた行者の霊が憑依して、霊能を開かせたものである。このへんの詳細については「神界からの神通力」第四章「動物霊論」で述べたとおりである。

NO.2 死後、魔界に堕ちた霊能者
霊能者の全てが全て魔界に堕ちるというわけではないが、生前、霊能にばかりかまけて、御魂の修行、人としての修行を怠ると、ほとんど魔界に堕ちることになる。

そこで彼らは毒グモ、とくに女霊媒師は女郎グモの姿に化身して人に憑依し、霊障をもたらしたり霊能を開かせたりするのである。

これを見破るのはなかなか難しい。体験談や実例は、紙面の都合上、別の機会にゆずることとする。

NO.3 死後、魔界に堕ちた白魔術、黒魔術の霊能者
これはブードゥー教など、ヨーロッパ系統の霊能者で、やはり生前、人としての修行を怠ると、死後、魔界に堕ちることになる。彼らは紅サソリに化身して人に憑依し、霊障をもたらしたり、霊能を開かせたりする。先に述べたエクトプラズムやポルターガイストなどは、この霊がやっていたり、応援していることもある。

ほかでは、机の足を切ると血が流れるとか、人間を空間に引き上げるなどという兇党霊団のも、ほとんど、この白魔術・黒魔術の霊能者の霊が行っていることである。

これも見破るのは難しい。体験談と実例は、別の機会にゆずる。

これについては、先にご説明した。兇党霊団は正神界の龍、狐、蛇にも化身するし、UFOにも化身する。とにかく変幻自在で、これまた見破りにくい。

だいたい以上が、魔界や邪神界からの霊能力の主なところである。だが、これら以外にも、天界魔狐や天界魔理なども霊能を開かせることがあり、霊能力の由来は一概には語れないし、これを審神するのもきわめて難しい。

魔界と正神界はここが違う

だが、これら魔界、邪神界からの霊能力には共通するものがいくつかある。その第一は、人を不幸に導く、あるいは、いたずらに人心を惑わすということである。

よく、霊能者に運命鑑定をお願いしたら、
「あなたは余命いくばくもない。あと六ヶ月、いや五ヶ月かもしれない」などといわれたために、すっかり落ち込んで五ヶ月もしないうちに死んでしまった、というような話を耳にする。

こういう類は、正神界からの霊能とはいえない。

正神界からの霊能は何よりもまず、人の幸福を第一に考えるはずである。

たとえ運命通力でその人の寿命がわかったとしても、本人が絶望するようなかたちで伝えるのではなく、希望をもって生きられるように助言するのが、正神界からの霊能である。

本来なら、漏尽通力を使って、何とかして悪運を回避できるよう導いてあげてしかるべきであるが、漏尽通力が使えないならば、可能な限り明るく前向きに生きられるよう助言すべきである。

それをしないで、本人を絶望の境地に追い込むような霊能力は、邪神界からの霊能といわざるを得ない。

また、いたずらに人心を惑わす妖言過言の類も、同じである。

「一九九九年に地球は滅亡する!」

「数年後に富士山が大爆発するぞ!」といった予言がこれ。地球が滅亡するなら、どうしたらいいのだ。

富士山が大爆発すどうしたらいいのだ。この解決策がないのだ、これらの予言には。いたずらに危機感と不安感をあおりたて、人心を混乱させる。これも、正神界からの霊能力とはいい難い。

第二の共通する特色は、美しさ、芸術性というものが全くないことである。

正神界は知情意の源泉であり、叡智と美と愛に満ちた世界である。それゆえ、正神界からの霊能には深遠な真理に裏づけられた叡智と、芸術性に裏づけられた美と、悪を許さぬ正義に裏づけられた愛がある。

これに対して、魔界や邪神界からの霊能には、外見上の真理・叡智と正義・愛の主張はあっても一貫した行いや芸術性・美はない。いや、正確にいうなら、真理・叡智と正義愛はあるようにごまかせても、芸術性・美は、清浄な心の御魂の人には、ごまかしがきかない世界であり、邪神には真に発揮できないものなのである。

魔界や邪神界には恐ろしいほど知恵を持ったものがいるのである。知恵といっても真理に根ざしたものではないが、人間の知恵など遠く及ばないほどの知恵を持ったものがいるのである。

とくに、魔界の親分ともいうべき金毛九尾となると、神仕組、つまり神のご計画のかなりの部分まで知っているほどなのである。

そして、正義と愛。もとより、魔界や邪神界に正義や愛などあろうはずがない。だが、たくみに装うのである。さも愛に満ちているかのように装うのである。

そのくらいのことは、彼らにとって赤児の手をひねるようなもの。神の如く仏の如く装うのである。最悪は最善を装い、悪魔は神を装うのである。

こうして真理を説き愛を説く。人々はこれでごまかされてしまう。

「神の計画は、これこれこうなっている。だから、今すぐ真理を実践しよう。人類救済に立ちあがろう。正義のために立ちあがろう。愛の世界を建設しよう」

神仕組まで教えられ、愛と正義を説かれれば、よほど高級神霊世界に精通していない限り、誰でも本当の神様が降りてきたものと信じてしまう。

そして、怪しげな霊界に入り込んで、知性も愛念も芸術性も、全て磨くことを忘れ果て、御魂の成長を完全にストップしてしまうのである。まことに悲しむべきことである。

金欲にはしる一部の宗教団体

最近、「人類救済!愛の世界建設!」を標榜する宗教団体が増えている。このよう宗教団体の全てが全て、魔界や邪神界からの波動を受けているとはいわないが、一部は明らかに魔界からのものである。

こうした宗教団体に引き込まれる人が多いのは、結局みんな、説く内容、語る内容だけで判断しているからである。

私が「神界からの神通力」などの執筆をはじめ、様々な機会をとらえ一貫して、「聞いただけで判断しては危ないですよ。見ただけで判断しては危ないですよ。霊界にごまかされてしまいますよ」と訴えてきたのは、このような意味もあったのだ。

とにかく、真理・叡智と正義・愛に関しては、魔界や邪神界の魔物はたくみに正神界に真似るのである。

だがしかし、どんなにごまかし装うのが上手でも、絶対に真似のできないものがある。

それは芸術性、つまり美しさ、清らかさ、繊細さである。なぜなら、これらは頭で考えるものではなく、生活そのものだからである。口先では真似できても、生活という実践の場では、にわかに真似ができないのである。

それゆえ、驚異的な霊能力はあるが生活が乱れている、人類救済など立派なことは説くが生活態度が偏っている、世のため人のために生きよと説教するが部屋の中はいつも散らかっているというような霊能者や宗教団体には、絶対に高級神霊はかからないのである。

生活があまりにも常識からはずれている、部屋の中が汚い、供え物があげっぱなしになっている、男女問題にルーズ…このような霊能者、宗教団体だったら、たとえどんなにその説く内容が立派であろうと、本当の神様が語っているように見えようと、全て魔界、邪神界から来たものと思って間違いない。

芸術性と並んで、絶対に真似のできないことがもう一つある。それは、真心、誠である。しかしこれも、聞いただけで判断するとごまかされることになる。

どんな霊能者、どんな宗教団体でも、「私たちは精いっぱい真心込めて、世のため人のために働いています」というのが普通であって、

「私たちには真心なんてありませんよ。私たちに真心や誠を求めるのは、木に拠りて魚を求めるようなものですよ」などというのは、どこをどう探してもいるはずがないからである。

では、何によって確かめたらいいのか。本当に真心や誠があるかどうかを判断するには、まずお金に対する態度を見ればいい。

異常なくらいお金に執着する、異常なくらい商売に熱をあげるこういう霊能者や神社、宗教団体には真心、誠が当初あっても、次第に心が曇り、神霊世界に邪悪なものをひきつけてしまうのである。

私が職業を持ち、神霊活動による収入からは、一銭もお金を頂いていないのも、この理由によるのである。そうでなければ、たとえ真心や誠、愛を説いても、それは口先だけのこと。いわば“口に蜜あり腹に剣あり”であって、このような霊能者、宗教団体には高級神霊はまずかからない。

だが、お金で真心、誠を見破るのも、そう簡単なことではない。なぜなら、みな一様に大義名分をかかげているからである。

「私たちがお金、財産を集めるのは、全て神様のためであって、決して自分たちの生活を豊かにするためではない」と、神様を錦の御旗としてかかげるからである。もっと極端になると、「集めたお金は全て神様のために使う。神の国建設のために使う。

だから、どんな方法で集めてもかまわない。たとえ人をだましてでも集めなさい。それが人々を救うことになるのだ。

なぜなら、だましてでもお金を出させれば、お金を出したという事実が天に認められ、その人が神の国建設に貢献したことになるからだ」といって、信徒たちが夜遅くまでお金集めに狂奔している宗教団体があると聞く。

いわば、正しく使いさえすれば、どんな汚い手段、犯罪的行為で集めてもかまわない、ということなのだろうが、これはとんでもない誤りである。

よしんば正しく使ったにせよ、不正な手段でお金を集めるのは、天地ともに許されざる行為である。

神霊界にも法と秩序がある

現実界に法と秩序があるように、神霊世界にも法と秩序がある。これは、法律学でいうところの自然法に置き換えることができると思うが、この神霊世界の法と秩序は、現実界の法と秩序、すなわち実定法と何ら異なるところはない。

もちろん、実定法に定められる政治犯罪などは、時代と社会体制などによって異なるので必ずしも普遍的であるとはいえない。が、人としての道、人倫についての規定は、時代・社会体制を問わず、常に神霊世界の法と秩序とピッタリ相応しているのである。法とは、そもそも人々の幸福を守るルールであるからだ。

それゆえ、現実界の法と秩序を破ることは、神霊界の法と秩序を破ることになるのだ。とくに、相手よし我もよしの心根が、神霊界で善しとされる心法であり、ルールの基礎なのである。だから、地の法を破っても天では許される、などということは、よほどのことがない限り、あり得ないといえる。

そのため、たとえ神のためという大義名分をかかげ、自分のために使わなかったとしても、不正な手段でお金を集めていると、死後、霊界でひっかかってしまうのである。

そもそも霊界で生きるお金とは、相手が納得し喜んで出したお金であり、こちらにも善意があり、良心の呵責や悪意がなかったときのお金である。

常識的に考えても、不正な手段で集めたお金を、神様が喜んで受けられるとでも思っているのであろうか。彼らのためにも、猛省を促したい。

まあ、こんな極端なものは別としても、「神様のためです」と言われると、真実が見えなくなってしまうのが人間の常である。いや、もっと正確にいうなら、説教している当人までわからなくなってしまうのである。

「神様のために使うのだから…..」といいつつも、知らず識らずのうちに我利我欲に支配されるようになり、魔界へ転落してしまう。

最初は正神界の神霊に導かれて始まったものの、お金で失敗して、魔界、邪神界へ引き込まれてしまう。こういう霊能者、宗教団体が多いのである。

私自身も含めて、厳に自戒しなければならないところである。

だいぶ長くなってしまった。だが、これでおわかりになったと思う。霊能者、宗教者をある程度見分けられるようになったと思う。

あまり霊能を見せびらかすことなく、人の幸福を第一に考えているか。生活が清潔で美しく、家の中が整理整頓されているか。異常なほどにお金に執着し、不正な手段でお金を集めてはいないかこれらに充分注意し、同時に、ご自分の心を我利我欲で曇らさないようにしていれば、その霊能者、宗教団体が正神界のものか邪神界のものか、かなり識別できるようになるはずである。

行者霊・霊能者霊の除霊は困難をきわめる

さあ、行者の霊や霊能者の霊が憑依した場合の除霊についてお話ししよう。

行者や霊能者の一部には魔界、邪神界から霊能を与えられている人がおり、そうした人は死後、行者界などの怪しげな霊界に生き、現実界に生きる人間の霊能を開かせたり、肉体にとりついて霊障をもたらす、ということはすでに述べた。ここでは、その霊障をどのように取り去るかについてお話ししたいと思う。

その具体的なお話に入る前に、いっておきたいことが二つある。

一つは、行者や霊能者の中には、正神界からの霊流を正しく受けられ、病気治療などを通じて人々を幸福に導き、同時に御魂の修行もきちんとなされている方がいらっしゃる、ということである。

そして、このような人は誰でも死後、すばらしい霊界へ行かれ、そこでも世のため人のために頑張っておられるということである。

あまりにも、悪質な行者や霊能者のことばかり書いたので、行者や霊能者は全て悪だなどと早合点した方もいらっしゃるかもしれないが、そのようなことは決してない。

行者や霊能者には立派な方も多いのである。この点、誤解のないようにしていただきたい。

二つめは、邪神界に行った行者や霊能者が憑依した場合の除霊は非常に難しい、ということである。見ただけで判断すれば完全にだまされてしまう。

聞いただけで判断しても、完全にごまかされて、いいように翻弄されてしまう。それくらい難しいのである。

「神界からの神通力」では怨念霊や動物霊、生霊の除霊のお話をしたが、行者霊や霊能者霊の除霊と比べれば、それらははるかに簡単である。

まあ、生霊の除霊は難しいことは難しいが、それでも、行者霊などの除霊よりはまだまだやさしいほうといえる。

おそらく、読者のみなさまの中には、除霊をされる霊能者の方もいらっしゃることと思うので、できる限り詳しく、そしてわかりやすくご説明するつもりだ。何かのお役にたてていただければ幸いである。

山伏が水子の霊に化けていた!

さて、しばらく前、一人の若い女性が相談に来たことがあった。

「こんにちは」と挨拶しながら部屋に入って来た彼女を見て、私は思わず、「アッ!」と声をあげそうになった。

なんと、頭がツルツルなのである。見たところ、まだ二十代半ばといったところなのに、可哀そうにどうしたんだろう?それまでの経緯を、彼女はおもむろに語り始めた。

「私の頭は、昔からツルツルだったわけではないんです。

ついこの間まで銀行勤めをしていたくらいですから、ごく普通の髪だったのです。それが、どういうわけか、ある男性と婚約をしたころから髪が脱け始め、それこそ、アッという間にツルツルになってしまったんです」

「そうですか。それで、その婚約のほうは?」

「ええ、ダメになりました。この頭じゃ仕方ないですよね」

こう答えて、彼女は思わずうつむいてしまった。思えば、可哀そうなことを質問してしまったものである。

「それで、何か治療はなさらなかったのですか?」

「もちろんしました。高いお薬もつけてみましたし、二、三の病院へも行きました。けれど全然治らないんです」

「そうですか、わかりました。それでは早速、除霊しましょう」

私は型通りに怨念霊、先祖霊、動物霊などを次々と救済除霊し、残すは三体の水子霊だけとなった。

まだ結婚前なのに三人も水子をつくるなんて、と思いながら除霊を続けようとしたがどうも変である。三体のうち一体からの波動だけが、どうも違うのである。「おかしいぞ」

再び、水子霊を見てみた。だが、三体とも姿かたちは何ら異なるところはない。みな、一様に水子の姿をしている。だが、どうもおかしい。

そこで、私は除霊を一時中断して、彼女にたずねてみた。

「あなたには水子がありますね?」

「えっ!何ですか?」

除霊をしている最中、突然質問したものだから、とっさに理解できかねているらしい。「あなたは以前、堕胎したことがありますね?」

「あっ、はい、あります」

普通、こういう質問を結婚前の女性にすると恥ずかしがったり、あわてたりするものだが、あまりにも突然の質問だったためか、彼女は態度を崩すことなくハッキリ答え、続いてこう語ったのである。

「二度堕胎しました」

「えっ、二度?」

「はい、二度です」

「三度じゃないですか?」

「いえ、二度です。間違いありません」

「そうですか。わかりました」

私は除霊を再開し、水子霊救済の役割を務めている仏様にお願いして、二体の水子霊を水子霊天国界へと送っていただいた。 

さて、残った一体の水子霊の正体は何なのか。

「あなたは誰だ」

「ボクはみずこでーちゅ」   

相手はあくまで水子霊で押し通すつもりらしく、幼児語で答えてきた。

「いや、水子霊でないことはわかっている。素直に姿を現して、本来おるべき霊界へ帰りなさい。いま、神様に許してくださるよう、とりなしてあげますから」

これでも、相手は姿を変えようとしない。仕方なく私は、天眼通力で相手の正体を見ることにした。

一人の山伏の姿が見える。時代は戦国末期、一人の山伏が敵側との内通の嫌疑をかけられ、斬首されようとしている。これでわかった。

と、その刹那、水子の姿をしていた相手の霊が、岩を思わす大きな山伏の姿にパッと変身したかと思うと、私を金縛りの術にかけ、大声で叫んだ。

「深見東州とやら!よくぞ見破った。ワシの正体を見破ったのはお前が初めてじゃ。だが、もう何もできまい。余計なことをするからじゃ。

お前には何の怨みもない。もう、除霊なんぞあきらめろ!そうすれば金縛りを解いてやる」せることである。

だが、降参するわけにはいかない。とりあえず金縛り破りの術でこれを解き、再び説得しようとした。すると今度は、

「ホホウ、なかなかやるではないか。だが、これは破れまい」と、眠りの術をかけてきた。生前、相当な霊能力を体得した山伏らしい。

「どうだ参ったか。おまえには怨みはないが、あまり邪魔だてすると許さんぞ!」

もの凄い睡魔が襲ってきた。が、これも睡魔破りの術で解くと、また別の術をかけてきた。

こんな具合に、術のかけ合い破り合いがしばらく続いたわけだが、この間にも、ご神霊より来る愛念と真心の光を山伏の霊に当て続けることを、私は忘れなかった。

術と術の応酬、力と力の応酬では、たとえこれに勝ったとしても相手は心から納得しない。

それどころか、術と術力と力の戦いで敗れると、一層凶悪化し、怨みを深くするのが怨念霊の常である。

これは、現実界で行われるケンカや戦争と同じである。完膚なきまで打ち負かせば、相手はおとなしくなろう。

しかしそれは、あくまでも一時的かつ表面的なことにすぎないのであって、敵対感情は怨念と化し、ますます心の奥に根を張り、容易に解消できなくなってしまうのである。

逆に、憑依霊の霊力のほうが除霊する者の霊力より勝っているときはどうか。この場合は、救霊師をさんざん翻弄してせせら笑い、態度を硬化させて、より一層邪悪な念を送ってくることが多い。また、ときとして、救霊師をも狂わせることもある。

したがって力と力、術と術との対決に心を奪われていては、除霊に失敗することになりかねないのである。

もちろん、相手に対応できるだけの術と力は必要だが、やはり最後は、愛念と真心で締めくくるべきである。

愛念と真心。これが除霊の、いや、除霊のみならず神霊に守られ、人々の誠意と敬意を勝ちとる人生の極意といってよいだろう。

だが、その愛念と真心も、自分の事情や相手が誰であるかによって変わるようでは、本当の愛念、本当の真心とはいえない。

何ものにも左右されない、普遍的な愛念と真心でなくてはならない。そして、その普遍的な愛念と真心は、結局、神より来るもの以外にはないのである。

それゆえ、本当の救霊師とは、何よりもまず、山のように揺がざる固い信仰心と、ほとばしるほどの強い愛念の持ち主をいうのである。

もちろん、霊能力や術も必要である。だがそれは、あくまで二次的、副次的なものであって、変わらざる信仰心と強い愛念とに裏づけられて、初めて活かされるものなのである。

ともあれ、先の山伏の霊も、神より来る愛念と真心の光で次第に態度を軟化させ、自分の前世の因果を悟ってついに心から改心して、このように語った。

「ワシは、ここに坐っている娘の先祖に謀られ、斬首された者である。織田の軍勢に就き、敵情を探る任に当たっていたのだが、逆に敵に通じているとの嫌疑を、この娘の先祖にかけられ斬首されたのじゃ。

だが、これは全く身に覚えのないこと。断じて許すわけにはいかなかった。

それで、代々呪ってきたのだ。この娘の髪を抜いたのもこのワシじゃ。幸せになるのが許せなかったのだ。

しかしいま、そなたに出会って、改心した。わしは間違っていた。どうか、天に許しをとりなしたまえ」

彼は、いまでいう忍者だったわけである。戦国の武将たちは、諜報機関として忍者を抱えていたが、その中には、山伏などの霊能力者がかなり含まれていた。彼もその一人だったのである。

だからこそ、水子霊の姿に化身することができたのである。一般に、他の姿に化身できる能力を表象能力という。

この表象能力は誰にでもある。死んで肉体を脱げば、誰でも或る程度は化身できるのだが、生前、霊能力を会得していた人ともなると、変幻自在、それこそ何にでも化身できるのである。

ちょうど自己催眠のように、「自分は水子である。自分は水子である」と念じると、本当に水子の姿になってしまうのである。

信じられないかもしれないが、実際にできるのである。それゆえ、この事実を知らずに除霊をすると、失敗してしまうのである。

「あっ、水子の霊が見える。水子の供養をしなくては」「自分で水子の霊だといっているのだから、間違いあるまい」と、水子供養したものの全然取れていないということになるわけだ。

だから、目に映る姿や聞こえる言葉だけで判断するのではなく、霊から送られてくる微妙な波動の違いを感知できるよう、自分を清虚にして潔白となるべく磨かなければならないのである。

そのうえに、高度な知識と神霊審神学の研鑽が要ることはいうまでもない。